「よく来たな、まあ上がれ上がれ」。
快活な声を聞いても、橘巡査は玄関の前で躊躇していた。
機動隊の上司でもあり、先輩でもある沢田巡査部長の退院祝いは、来週行われるはずであった。しかし、どうしても気になり、つい足が自然に彼のアパートに向いてしまった。数秒後、橘は自分の軽率さを後悔した。--やはり来るべきではなかったのだ。
沢田が、壁に手をつきながら、老婆以上におぼつかない足取りで彼を出迎えに来るのをみて、橘はあの光景を思い出していた。
せいぜい三十歳くらい、中には小学生くらいの若造が機動隊の隊員を、戯れに昆虫を踏み殺すように「破壊」していった光景を。そして目の前の沢田が、やられている部下を助けに単身突っ込み、口笛を吹きながら暴れるその『小学生』に狙いすまして右膝を蹴られたシーンを。
鍛え上げていたはずの沢田の右膝は、普通と正反対に関節ができたかのような曲がり方をした。マッチ棒が折れたような音をたてて。しかも、その膝は--。
「今なあ、うちのヤツが出かけてるんだよ。すぐ、茶を入れるからな」
「いいっすよ、自分が----」
「リハビリ、リハビリ。しかし今までやったことねえから、やかんの場所がなあ。かあちゃんに甘えてばかりじゃいかんと思い知らされたよ」
笑って台所をゆっくりと動く沢田だが、時折痛みが走るのだろう。顔をしかめた。
しかしその後すぐ顔を引き締め、見られたかと橘のほうにちらりと目を走らせる。
そのたび、橘は慌てて目をそらした。
湯気の立つ湯飲みを前に置き、二人は座っている。
意を決して、橘は尋ねた。
「どうですか、具合は・・・」
「うん、まあ大丈夫だ。ご覧の通り切断はしないで済んだし、背骨の損傷は軽かったしな。まあ、また機動隊員ってわけにはいかねえな。この前偉いさんが希望の部署を聞きに来たから、少年課って言っといた。つまり復帰して、おまえの『後輩』をスカウトするってことだ」
「『後輩』はやめてくださいよ」と橘は頭を掻いた。
もとよりチーマーや暴走族とは一線を画していたつもりではいたが、橘も高校生のときは喧嘩や暴力に明け暮れる毎日だった。在る時の喧嘩で相手に馬乗りになって殴りつけていたとき、興奮のあまり橘は石を拾い、それで殴ろうとした。
そのとき、橘の手首を一瞬で極め、石を落とさせた警官が少年課の沢田だった。
そのとき私服だった沢田に、橘は遠慮なく殴りかかった。しかし沢田は、流れるような動きでパンチをかわし、簡単に橘の肩を極めた。
「お前は壊すために喧嘩しても、守るための喧嘩はしたことないだろ。そんな奴は結局”弱い”んだよ」
あのときは体以上に、心がその言葉で倒された。だから俺も警官になれたんです---橘は心の中でつぶやいた。
それから薦められるまま、警察道場に行くようになった橘は、沢田の猛烈な稽古を目の当たりにし、驚くばかりであった。橘が極められたのは合気道の技だったが、それ以上に剣道の足さばきと、突き技が鋭かった。「人の5倍練習すれば、誰でも強くなるぞ」とこともなげに言うのにはたじろいだが、俺はそれなら8倍やってやる、と燃えた。沢田のことは尊敬していたが、それだからこそ大会で一本取りたかった。
しかし結果は10連敗、橘が警官になってからも7連敗を数えた。町大会1回戦から警視庁大会決勝に舞台は変わっていたが。そしてその実力が認められ、二人は最前線の機動隊に配属になったばかりだった。
「あの、ガキども---」橘は怒りをぶつけるしかなかった。
そもそも、警察の出る幕はなかったのである。自衛隊ですら鎧袖一触された彼らにとって、機動隊などあってもなくても意味のないものだった。しかし許せないのは、奴らがいちいち警官を攻撃したことだ。歩けば自然に道は開けるのに、彼らはわざわざ鎌で草をなぎ払った。そこに花が咲いていようと芽ぶいていようとおかまいなく。
「それに、あの爺さんどもも---」
機動隊員として働く上で、彼らは政府首脳の人格を自然に知ることになった。そしてその結果、彼らが忠誠や敬意を払うに値しないことは十分知っていた。これが、この前経験したように強盗犯から幼稚園児を救うという行為なら、それほど悔いはないかもしれない。しかし、あの下劣な連中----。警察内部の噂であの化け物達も、首相らのせいでトラブルになったと聞いて少し最初は同情していたくらいだ---のために、憧れの目標が回復不可能な怪我を負った、など到底受け入れられなかった。
そして、そんないらつきは、こんな言葉になって表れた。
「俺達の剣道も合気道も、銃すら効かないあんな化け物には意味がなかったんですかね。それに、あのアホ総理たちなんかほっといて、俺達は俺達で逃げちまえば良かったんじゃ・・・」
「せからしか事バ、言うんじゃなか!」
沢田のお国訛りの一喝が、狭い部屋に響いた。それは、身体に修復不可能な傷を負っても、なおその気概は少しも衰えていないことを十分に証明していた。
「あれか、お前の武道ちゅうのは、相手が自分より弱いときだけ役に立つもんなんか?
・・・俺は、違うぞ。俺は、逃げんかった。あいつらが、とんでもない化けモンだったことくらいは、分かってた。俺も、逃げたかった。でもな、俺は逃げなかったぞ。それはな、それが俺の『義務』だからだ。そして、武道はそういう時に自らを律することが出来ることじゃないか?
例え相手が強者でも化け物でも。義務を果たすべき相手がどんなに卑小でもな------」
叱られながら、橘は泣いていた。だがそれは、嬉し涙だった。---ああ、やっぱりこの人は負けていない。膝を壊され、再起不能となっても、相手が軍隊を壊滅させたこの世ならぬ怪物であっても、負けていないのだ。そして、俺が目標に出来る人のままなのだ・・・・
その涙の意味が伝わったか否か。沢田は頭を掻いた。
「と。まあな、俺もそんなかっこいい事だけでやったわけじゃない。こういうのに影響されてな・・・」と本棚からぼろぼろになったノベルスを取り出した。
「これ、知ってるか」というその本の著者は、中といった。
「『銀河英雄(ひでお)伝説』。中先生が若いころの小説でな、俺は夢中になって読んだんだ。主人公のヒデオが仕える政府もな、偉いサンは無能だし金には汚い。それでもヒデオはそれを、命を賭けて守るんだよ。選挙で選ばれた人や政府を守るのは、そいつらじゃなくて、もっと大きな物を守ることになるからなんだ。だからな、俺も心は宇宙の平和を守るつもりだったのさ・・・。おかしいかな」
「いえ、おかしくないです。俺、そんなこと考えたことなかった。・・・SFって知らないけど、凄いんですねそれ」
「まあな、俺の青春のバイブルだからな。中先生に一度会ってみたいよ。りっぱな先生だろうな。」
そのとき、ドアが勢いよく開いて、小さい子供が入ってきた。小人用の防具と竹刀を持っている手も足も擦り傷だらけなのがエネルギーの塊のような元気さを伺わせた。
「おとう、今日はゲンちゃんからドウ一本取ったんだぜ。でもさあ、あいつ体当たりなんかするで取っ組み合いになっちゃった、卑怯だよ。ねえ、やっつける方法教えてよ。」
橘のことなど目に入らないかのようであった。
「こら!まずお客さんに挨拶しないか!まず礼儀第一、いつも言ってるはずだぞ。」
「いっけね、お兄ちゃん。いらっしゃい」ぺこりと、頭を下げた。「あっ、この前の大会でおとうに負けた人だね。」
その無邪気な一言に橘も、思わず苦笑した。
「---さっきの本に出てくる少年から名を取って、由利阿(ゆりあ)っていうんだ。女の子みたいで、本人はいやがってるがね・・・橘。お前に頼みがある」沢田が、声の調子を変えて、橘に向かい合った。
「俺の代わりに、このガキに稽古つけてくれないか。こいつは今7歳。そんで、二十歳で全日本レベルになるんだ。そして、そのとき35歳のお前が決勝でこいつと向き合うのさ。悪くないだろ?まあ、親ばかの贔屓目だがな。」半分照れくさそうに、そう語った。
橘は、言葉が出なかった。未来へ、何かが始まったような気がした。ようやく、声を絞り出した。
「まかせて下さい、沢田さん。将来のライバルを育ててみますよ。・・・由利阿君、少し今からやるか。体当たりは足捌きを使ってだな---」
創竜外伝 完
原案:石井由助(無断使用失礼)
作:新Q太郎
毎日心待ちにしていたかいがありました。いやぁ、おもしろかったです。
このままログとして流してしまうのはもったいないなぁ(笑)。
現在は整形外科が発達しているので、膝が折れてもリハビリで復活する可能性は五分五分だそうです。まあ、この確率を多いと見るか少ないと見るかは微妙なところですけど(私の通ってる道場でも正座できなくなった人おるしな~)。
『俺も、逃げたかった。でもな、俺は逃げなかったぞ。それはな、それが俺の『義務』だからだ。そして、武道はそういう時に自らを律することが出来ることじゃないか?
例え相手が強者でも化け物でも。義務を果たすべき相手がどんなに卑小でもな------」』
私は個人的にここが外伝(^_^;)のテーマだと思っています。この職業への誇りというかプロとしての自負というものに関しては、私は完全に小林よしのり派ですね。対して田中芳樹はこの職業への義務を平気で踏みにじるようなことを書き散らして平然としています。特にひどすぎるのが自衛隊への職業差別部分なんですけど、これについてはまたのちほど書きます。
P.S.
それにしても、ヒデオ伝説に流れるくだりは涙ちょちょぎれモノです。
編集王のマンボ好塚みたいだな(^_^;) やはり……
>創竜外伝
いやー、皮肉なスパイスが効いてていいっすね(^^;;)。
そうか、やっぱり中先生は創竜伝世界の住人だったのか・・・。
主役2人はどことなく横山信義の『東京地獄変』に登場したレンジャー部隊の一曹と元ヤンキーの隊員のコンビをほうふつさせますな。
ところで、世の中には、こういうタイプの人がいる。責任感や使命感が過剰で、自分がやらねば誰がやる、と思いこみ、他人のやることに口を出し、手も出し、結果として事態を悪化させるタイプだ。国家にもときどきあるタイプだが、それはともかく、終に集団KOをくらったレインジャーのひとりが、このタイプだった。
(中略)
…そこにテロリストの若者が背中を向けて立っているのを見たとき、彼の責任感と使命感がショートした。
「逃がさんぞ、テロリスト!」
(創竜伝4巻P173)
たかだかレインジャーが竜堂兄弟に立ち向かう描写をする為だけに、わざわざこんな俗流人生ハウツー本みたいな事を書かなければ気が済まない偏執っぷりは相変わらずですが……
ところで、これ、「責任感や使命感が過剰」ですか????
確かに職業への使命感のために何をやってもいいというわけではないってことはあるでしょう。ですけど、テロリスト鎮圧・首相救出部隊のレインジャーがテロリストに襲われた首相を助けるというのが、非難されなければならない行為でしょうか。この場合、首相が愚劣な人間であるというのは全く別の問題です(No.1417 の沢田巡査部長の言を想起されたし)。
一歩譲って、たとえば首相を助けるために民間人を巻き込む…ってな事態であれば、「責任感や使命感が過剰」という評価はまだ(それなりに)妥当かもしれませんけど、この場合は絶対にそうではありません。ただ、ここで黙って竜堂兄弟を見逃したら、主人公たちにとっては都合が良いってだけの話です。
阪神大震災の時、海外の救助・援助の申し出に対し、まるで平時のような対応をとったために、救援隊が現地には行ったのが数日以上遅れたって事がありました。このときの担当者は、きっと「責任感や使命感が過剰で、自分がやらねば誰がやる、と思いこみ、他人のやることに口を出し、手も出し、結果として事態を悪化させる」事をおそれて、きわめて当たり障りのない判断をしたのでしょう。結果として事態を予測不能に悪化させなかった代わりに、予測通り何千もの人間が瓦礫の下で亡くなりました。
薬害エイズ事件の時、「責任感や使命感が過剰で、自分がやらねば誰がやる、と思いこみ、他人のやることに口を出し、手も出す」人間が厚生省内にもう少しいたら、事態は変わっていたかもしれません。
地下鉄サリン事件の時、「責任感や使命感が過剰で、自分がやらねば誰がやる、と思いこみ」サリン袋を片づけようなどと思わなければ、地下鉄職員は死ななくてすんだかもしれません。では、彼は愚劣だったでしょうか。
田中芳樹は「そうだ」と言わなければなりません(反省文でも公開しない限りそれ以外の言は信じないし、認めない)。ですが、私はそうは思いません。この場合、死ななくてすんだというのは事件後だからこそわかる結果論です。そもそも地下鉄職員は事態を悪化させるためにサリン袋(と当時はわかっていなかったが)を片づけたのではなく、事態の悪化を最小限にくい止める職業の責任・使命のために、危険を冒したのでしょう。
大体、田中芳樹の論理は相当ひどいもので、別にレインジャーは事態を悪化させることを願って竜堂兄弟に立ち向かっていったのではありませんよ。事態が悪化したのは『たまたま』の結果であって、別に「責任感や使命感が過剰」であることを非難する理由にはなりません。
結局のところ、田中芳樹には自衛隊員や軍人に対するすさまじい差別思想があるのでしょうけど、それについてはまた後日考えてみたいと思います。