山本弘トンデモ資料展
2010年度版6-A
トンデモさんの思考を推測してみる
2010年06月21日 18:53
包休
状況証拠しかないので、私の発言の根拠はうすいのですが、たぶんこんなところなんじゃないでしょうか。
トンデモさんたちの自己申告からすると、日常生活はいたって普通なようです。ただ言論だけはトンデモになってしまうのでしょう。そこで生活者としては正常だけれども、抽象的な言論をつくる行為はうまくいかないという仮説を立てます。
生活者として正常であるならば、彼がおこなう推論は、日常的には正しいかあるいは害がないとかんがえられます。ところが非日常になったときに、正しくなくなります。おそらくは経験的な知識はそれなりに消化できるのでしょうが、経験ではない抽象的な知識をあつかうのは苦手なのでしょう。
ということは彼らが自信をもてるのは、日常からの推論になるでしょう。それは自分の価値観か、信用する権威に限定されたものになるでしょう。そうであるならば、使える推論は日常からの類推と、すくなくとも日常に害をあたえない権威にもとづいた極論になりがちでしょう。前者は彼らが普通にできることです。後者は彼らの正義ですし、極論にした方が定量する手間もありませんし楽につくれます。
また彼らの考えはとくに独創的でもなく、論証がたくみでもありません。出せる内容はかぎられたものになります。有りものの組み合わせですので、積み木にでもたとえられるでしょう。そこで積み木論法と仮称して、譬喩につかいます。
では、積み木論法から推測できることを並べておきます。
・同じことばかりしかくりかえせない。なぜなら、積み木をかさねるような単純な論証しかできないからだ。
・論破されても分からない。なぜなら、論破されても自分で積み木をかさねられるのことは事実であるし、相手にそれをしめすことができるからだ。
・自分が相手につかった批判が自分にむけられたとしても、反省する理由にはならない。なぜなら、だれになにを言われようと以前と同じように積み上げること自体は可能であり、また相手の批判は日常生活をおびやかしかねないので、積み木として使えないからだ。
・自分の価値観は正しい。なぜなら、積み木をつむという行為自体は自己矛盾するものではないので、いくらでもできる。だから、「それはおかしい」とする相手は可能なことを否定しているので、間違っているのだ。
こんなかんじなんじゃないでしょうか。日常では普通なのに、言論になるととたんにダメという思考というものは。