> 人間が多様であるように教育も多様であるはずだ。のびのび教育とかスパルタ教育とかいろいろなやりかたがある。花を育てるにしても、寒い地方で春に咲く花と、熱帯雨林に咲く花とを、同じ栽培法で育てるわけにはいかない。それをむりやり一律に統制し、力ずくで押しつけようとする文部省のやりかたを、司は心から嫌っていた。
> 以前、国語の教科書に小学生の詩が掲載されようとしたことがある。これは小川の流れる水音を、「ぴるる」と表現したもので、その感性と表現性が高く評価されたのだが、文部省は掲載を許さなかった。
> 「小川の水が流れる音は、さらさらと表現せねぱならない。それ以外の表現は絶対に詐さない。この詩をのせるなら、この教科書は検定で不合格にする」
> というのである。こうしてこの詩は、教科書からはずされてしまった。
> その事実を知ったとき、司は皮肉っぽく友人に語ったものだ。
> 「やれやれ、そのうち、すやすやと眠らない赤ん坊や、しくしくと泣かない女の子は、文部省にとりしまられることになりそうだな」
> と。
(創竜伝6巻 P18)
要は彼はこういいたいのであろう。
「文部省は子供の個性を圧殺して、画一化することを企んでいる。自由な感性や表現性を抑圧し、小川の流れに『さらさら』以外認めない文部省は、軍国主義的ファシスト集団である」
田中芳樹作品の悪役なら「文部省の検定にケチを付けるなんて非国民だ。許されん」という類の批判をするのだろうが、世の中そんなに単純な反論ばっかり返ってくるわけではないことを教えてやろう。
まず、(あろうことか)自由な感性やら表現性を説いたこの文章自体が、すでに人のパクリなのだ。
堀尾輝久と言う人が書いた「日本の教育」(東京大学出版会)という本に、全く同じ話で、全く同じ論旨の、全く同じ批判がなされていることを、みなさんはご存じだろうか?
まあ、百歩譲ってパクリではないとしても、皆と違う表現をすることを誉める文章の論旨が、充分に(そりゃあ、もう文部省の検定並に)類型的な定型そのものだというのは大笑いである。
これだけでも、田中芳樹の論理が、破綻していることは明らかである。
確かに、小川の流れの擬音を「さらさら」とだけに固定化するのはつまらないことだ。しかし、「さらさら」という擬音は、一種の定型である。つまり、日本語を判る人なら「さらさら」と聞けば「あ、水の流れる音だな」と理解できる言葉である(「ぴるる」ではこうはいかない)。このような定型を定型として教えることには、それなりの意味がある。
例えば、我々非英語圏の人間が英語を習うとき、水のはねる音は「splash」であると教えられる。それが、英語の水の擬音の定型だからである。「いーや、水のはねる音は絶対splashなんて聞こえねぇ。俺にはPiruruって聞こえるからそう言い通すね」といったら、それは英語の教育にはならない。英語だけでなく、日本語(すなわち「国語」)でもそれは同じである。
「ぴるる」という表現自体は自由だが、それを教科書に載せるかどうかは、また別の問題である。
しかし、田中芳樹ほど引用や応用の多い作家が、皆と違う表現をすることを誉めるってのもねぇ。
掲示板で不沈戦艦さんも触れていたけど(ザ・ベスト「銀英伝のエンターテイメント性1-A」参照)、銀英伝なんてパクリの宝庫なのに。でも、それが独特の作品世界を構築しているのに。
もし、文部省が「人と違う表現をしなければいけない」と言いだしたら、田中芳樹はどのような反応をするのだろうか?
田中芳樹を撃つ!初代管理人 石井由助