はじめまして。
タイトルページの「自己崩壊する田中芳樹の思想」を読んで
思い出したことがあったので。
小学校3、4年のころ、カエルの鳴き声を「ケロケロ」ではなく
「ケルルン・クック」と表現した詩が掲載されていました。
先生が「自分らしい表現を試してみましょう」と言っていたのも
覚えています。「びるる」が検定を通らなかったのは(それが
事実だとすれば)表現が独り善がりに過ぎて、逆立ちしても川の
せせらぎには聞こえないからだったのでは。
最近はあまり新刊を追う気力もなくなったなぁ。
自己崩壊する田中芳樹の思想 について感想を書きます。
>以前、国語の教科書に小学生の詩が掲載されようとしたことがある。これは小川の流れる水音を、「ぴるる」と表現したもので、その感性と表現性が高く評価されたのだが、文部省は掲載を許さなかった。
「びるる」という表現が詩の中での表現だということがポイントであると思います。確かに詩以外で「びるる」を使えば、日本語教育という面から、いたずらに小学生を混乱させるような表現はだめだと、却下されると思います。
しかし、詩とは独善的な世界が許されるものです。星を見て「あれは星だ」と教えることも重要でしょう。しかし詩に限って言えば「あれは宝石だ」と言ってもいい、それは自分の感じたままの表現だから、許されなければならないはずです。詩は、別して擬音語や感嘆詞に心のありのままの言葉を許した形式である以上、表現によって却下されるなどということはありえないはずです。田中芳樹はそこを批判しているのだと思います。
それと管理人さんは、「自由な表現の抑圧を非難する田中芳樹はパクリばっかりしているから論理が破綻している」とおっしゃいますが、そもそも自由な表現の抑圧とパクリとの間にはなんの相関性もありません。田中芳樹は「自由な表現を抑圧するのはいかん」と言っているのであって、「パクリはいかん」と言っているわけではありません。
>しかし、田中芳樹ほど引用や応用の多い作家が、皆と違う表現をすることを誉めるってのもねぇ
ですから、これも管理人さんの早合点です。皆と違う表現をすることを誉めているわけではなく、皆と違う表現をすることを抑圧するのを責めているのです。恐らくは田中芳樹はパクリも自由な表現も肯定すると思います。論理の破綻以前に論理自体が存在しなかったわけですね。
はじめまして。
>「びるる」という表現が詩の中での表現だということがポイントであると思います。確かに詩以外で「びるる」を使えば、日本語教育という面から、いたずらに小学生を混乱させるような表現はだめだと、却下されると思います。
>しかし、詩とは独善的な世界が許されるものです。星を見て「あれは星だ」と教えることも重要でしょう。しかし詩に限って言えば「あれは宝石だ」と言ってもいい、それは自分の感じたままの表現だから、許されなければならないはずです。詩は、別して擬音語や感嘆詞に心のありのままの言葉を許した形式である以上、表現によって却下されるなどということはありえないはずです。田中芳樹はそこを批判しているのだと思います。
教育というものは、本質的に強制(矯正)です。どんなに自由な教師の自由な教育であっても、全くの非矯正と言うことはありえません。
「感じたままの自由な表現」を教えると言うことは、「教師にとって容認できる形での自由」の枠内でしかないのです。
例えば、水の流れる音が
「さらさら」である。OKですね。
「ぴるる」である。OKですね。
「う、あ、あ」である。OK…ですね…?
「前蛾"摩・痼・逐楳÷」である。私にはもはや何がなんなのか判らないですが、OKなのでしょう??
ここまで認めて、「はじめて表現によって却下されるべきではない」と言えるのです。
さらに、小学校のどのクラスにも居そうなクソガキがこんな風に言ったとしましょう。
「竜堂先生! 俺には水の流れる音が『中国人は○○(ヤバい用語)』って聞こえます!」
テレパシーでも持っていない限り、これが『自分の感じたままの表現』であるかないかは誰にも判りません。本当ならここでもOKしなければならないのですが、十中八九、ここで竜堂先生は物わかりのいいリベラル派という仮面をかなぐり捨ててクソガキを叱るでしょう。
ちなみに、私はここでクソガキを叱ることに賛成です。なぜならば、叱るという「矯正」や、そんな水の流れる音はないという「強制」こそが、教育であると思うからです。しかし、自由な表現を謳う教師が、ここで叱ることは、自己矛盾の卑劣で恥ずかしい行為だと知るべきです。
リベラル派の「自由な表現」なんてお題目は、クソガキ前衛詩人の挑発にも耐えられないような整合性しかないわけです。
それと、本文の焼き直しですが、もう一つ。
例えば、アメリカ人のランバートさんが留学生として日本にやってきました。
彼は日本語の詞を書きたいと思い、日本人の先生に「日本では水のはねる音はどのように表現されるのですカ?」と聞きました。
「詩は自分の思うままに書けばいいんだ。形式にとらわれる必要なんか無いんだよ」
かくして、ランバートさんは日本語で水が流れる擬音が「さらさら」であると言うことを知ることは出来ませんでした。
いいんでしょうか、これで?
詩は別に無秩序な言葉の羅列ではないハズなんですけどね。
確かに、「さらさら」に表現を固定化することはつまらないことです。感じるままの表現はあってもいい。
しかし、それは「さらさら」という定型を身につけてからすればいいことですし、そもそも、「感じるままの表現」なんてものは、人が教えられる類のモノでもないでしょう。
「感じるままの表現」を教えられるという発想自体が、第一にいかがわしいのです。なぜなら、繰り返しますが、そんな「感じるままの表現」は、教える側が認めた「感じるままの表現」でしかないからです。
>それと管理人さんは、「自由な表現の抑圧を非難する田中芳樹はパクリばっかりしているから論理が破綻している」とおっしゃいますが、そもそも自由な表現の抑圧とパクリとの間にはなんの相関性もありません。田中芳樹は「自由な表現を抑圧するのはいかん」と言っているのであって、「パクリはいかん」と言っているわけではありません。
>>しかし、田中芳樹ほど引用や応用の多い作家が、皆と違う表現をすることを誉めるってのもねぇ
>ですから、これも管理人さんの早合点です。皆と違う表現をすることを誉めているわけではなく、皆と違う表現をすることを抑圧するのを責めているのです。恐らくは田中芳樹はパクリも自由な表現も肯定すると思います。論理の破綻以前に論理自体が存在しなかったわけですね。
以上で説明したように、「自由な表現の抑圧」を非難している、その批判自体が「自由な表現の抑圧」なのですし、その「自由な表現」とやらが様々なところで使われる「定型」と化していること自体が論理の破綻なのです。
本ページ管理人さんは書きました
> はじめまして。
教育というものは、本質的に強制(矯正)です。どんなに自由な教師の自由な教育であっても、全くの非矯正と言うことはありえません。
> 「感じたままの自由な表現」を教えると言うことは、「教師にとって容認できる形での自由」の枠内でしかないのです。
> 例えば、水の流れる音が
>
> 「さらさら」である。OKですね。
> 「ぴるる」である。OKですね。
> 「う、あ、あ」である。OK…ですね…?
> 「前蛾"摩・痼・逐楳÷」である。私にはもはや何がなんなのか判らないですが、OKなのでしょう??
>
> ここまで認めて、「はじめて表現によって却下されるべきではない」と言えるのです。
> さらに、小学校のどのクラスにも居そうなクソガキがこんな風に言ったとしましょう。
> 「竜堂先生! 俺には水の流れる音が『中国人は○○(ヤバい用語)』って聞こえます!」
> テレパシーでも持っていない限り、これが『自分の感じたままの表現』であるかないかは誰にも判りません。本当ならここでもOKしなければならないのですが、十中八九、ここで竜堂先生は物わかりのいいリベラル派という仮面をかなぐり捨ててクソガキを叱るでしょう。
> ちなみに、私はここでクソガキを叱ることに賛成です。なぜならば、叱るという「矯正」や、そんな水の流れる音はないという「強制」こそが、教育であると思うからです。しかし、自由な表現を謳う教師が、ここで叱ることは、自己矛盾の卑劣で恥ずかしい行為だと知るべきです。
> リベラル派の「自由な表現」なんてお題目は、クソガキ前衛詩人の挑発にも耐えられないような整合性しかないわけです。
一人の教師の私情によって、表現の是非が峻別されるのは人間が機械でない以上やむを得ないことです。クソガキが始先生に「俺には水の流れる音が『中国人は○○(ヤバい用語)』って聞こえます!」と言ったら、やはり始さんは叱るでしょう。でももしその先生が始さんではなく、他の先生だとしたら同じように叱るでしょうか? 中国人に全く関心のない先生だったら、『そう聞こえたのなら仕方がない』と言うことでしょう。少なくとも『それは嘘だ』とは言えないはずです。しかし全国の教育者の範となるべき文部省は、『それは嘘だ、そう聞こえるはずがない』と言ったのです。一人の先生がそう言うのなら分かります。始さんが私情で叱るのは、しょうがない事です。そこでは強制も打擲も先生の裁量のうちにあるわけですから、枝葉末節にいちいち文句を付けていられない。今後そのクソガキは詩を書く時に、始先生が怒るところを想像して、有り余る表現の中から辞書に載っている表現だけを使って、つまらない詩を書くでしょう。でもそれは一人の犠牲で終わる。ところが全国の教育者を代表して文部省は『それは嘘だ』と言った。このことが問題なのです。多くの教育者を始さんのようにしてしまうことになるからです。
> それと、本文の焼き直しですが、もう一つ。
> 例えば、アメリカ人のランバートさんが留学生として日本にやってきました。
> 彼は日本語の詞を書きたいと思い、日本人の先生に「日本では水のはねる音はどのように表現されるのですカ?」と聞きました。
> 「詩は自分の思うままに書けばいいんだ。形式にとらわれる必要なんか無いんだよ」
> かくして、ランバートさんは日本語で水が流れる擬音が「さらさら」であると言うことを知ることは出来ませんでした。
> いいんでしょうか、これで?
> 詩は別に無秩序な言葉の羅列ではないハズなんですけどね。
> 確かに、「さらさら」に表現を固定化することはつまらないことです。感じるままの表現はあってもいい。
> しかし、それは「さらさら」という定型を身につけてからすればいいことですし、そもそも、「感じるままの表現」なんてものは、人が教えられる類のモノでもないでしょう。
小学生が『さらさら』を知っていたなら、『ぴるる』という水の流れる音で詩の深さを知ることになり、もし『さらさら』を知らずに『ぴるる』を見たなら、『ぴるる』を水の流れる音の定型と思ったかもしれません。漫画世代の今の小学生にそんな思い違いがあるとは思えませんが、どちらにしても水の流れる音だと解るのなら、詩の勉強としてはいい結果を出したと思います。『ぴるる』と書いた小学生の見た風景が教科書を通して伝わることに擬音の存在意義があるのですから、『さらさら』と流れていない水に、『さらさら』という擬音をつけることは嘘になります。
定型とおっしゃいますが、『どっかーん』や『パチっ』や『カシャッ』は辞書にありませんよね…(多分) それでも意味が伝わるのが擬音です。『さらさら』を知らなくても、なんの支障もないと思います。表音自体に意味があるのですから。
> 「感じるままの表現」を教えられるという発想自体が、第一にいかがわしいのです。なぜなら、繰り返しますが、そんな「感じるままの表現」は、教える側が認めた「感じるままの表現」でしかないからです。
> 以上で説明したように、「自由な表現の抑圧」を非難している、その批判自体が「自由な表現の抑圧」なのですし、その「自由な表現」とやらが様々なところで使われる「定型」と化していること自体が論理の破綻なのです。
それは違います。
確かに「自由な表現の抑圧」を非難したのは田中芳樹ですが、その「自由な表現」が定型と化しているのは管理人さんの頭の中であって、田中芳樹もそれを定型と考えていると決まったわけではありません。『ある回数言われると定型と化する』と定義されていれば、それもわかるのですが…
よって自己崩壊はしません。
「小川の水が流れる音は、さらさらと表現せねぱならない。それ以外の表現は絶対に詐さない。この詩をのせるなら、この教科書は検定で不合格にする」
これは文部省の公式見解そのものではないですよ。
田中芳樹の思想フィルターを通して悪意に翻訳された表現で、早い話が曲解です。
>しかし全国の教育者の範となるべき文部省は、『それは嘘だ、そう聞こえるはずがない』と言ったのです
とりあえず他の反論や矛盾の指摘はおいておきますが、ここについてどう思われますか?
それから現在少々忙しいもので、本格的なレスや応答が遅れることと思います。
申し訳ありませんがご了承下さい。
ここへの、私の初カキコとダブりますが。
私が小学校3、4年くらいの頃に使用していた教科書(「小学新国語」/光村図書)には「ケルルン・クック」なる妙な言葉を使用した詩が掲載されていました。
(題は記憶になし)
ほっ うれしいな
ほっ まぶしいな
ケルルン・クック
…(以下記憶になし)
それが何を意味するのか、どうにも理解できませんでしたが、実はカエルの鳴き声を表現したもので「詩とは、自分の感性で自由に表現していいのだ」という趣旨のことを授業で教わりました。他ならぬ文部省の検定をパスした教科書から。
というわけで、田中芳樹の「ぴるる」話は、私には信用できません。
ついでに、「自由な表現」は、凡人には無用のものだと思っております。才能ある方々が、我々凡人を楽しませるために必要なものであり、私が実践してみたところで「うわ、寒ぅ」な反応がオチでしょう。教育の場で、「自由な表現」の可能性を教えるのは有意義ですが、そこから先は、クリエイターたらんとする各個人が己の感性を磨いて、より多くの人々を納得させるだけの力量を身につけることが必要です。たいがいの場合は、「ケルルン・クック」の後、しばらくの間面白がってあれこれ騒いだ挙句、親に「いいかげんにしなさい!」と叱られて終わりですけどね。きちんとした才能はどんなに押さえつけてもとめどなく噴出するものですから、周囲がその芽を伸ばすべく、手を差し伸べる必要なんかないでしょう。
No.1352
>しかし、詩とは独善的な世界が許されるものです。星を見て「あれは星だ」と教えることも重要でしょう。しかし詩に限って言えば「あれは宝石だ」と言ってもいい、それは自分の感じたままの表現だから、許されなければならないはずです。詩は、別して擬音語や感嘆詞に心のありのままの言葉を許した形式である以上、表現によって却下されるなどということはありえないはずです。
No.1356
>一人の教師の私情によって、表現の是非が峻別されるのは人間が機械でない以上やむを得ないことです。
まず矛盾していますが、どっちが正しいのでしょうか?
>そこでは強制も打擲も先生の裁量のうちにあるわけですから、枝葉末節にいちいち文句を付けていられない。今後そのクソガキは詩を書く時に、始先生が怒るところを想像して、有り余る表現の中から辞書に載っている表現だけを使って、つまらない詩を書くでしょう。でもそれは一人の犠牲で終わる。ところが全国の教育者を代表して文部省は『それは嘘だ』と言った。
これについてはNo.1361に書いたとおりです。
別に文部省は「それは嘘だ」なんて言っていません。
それに、「自由な感性で詩を書こう」と言っている始先生は自らの主張が矛盾していることになります。つまり、始や司(=田中芳樹)の言う「自由な感性」というのは、彼らが許した範囲内で限定された「自由な感性」なのであって、存在自体がいかがわしいと言えます。ソ連や中国にだって、共産党が認めている範囲内でなら「思想の自由」はありますけど、これが本当の「思想の自由」だとは誰も思わないでしょう。同様に、始先生の教える「自由な感性」などというものは、「自由な感性」などというものではありません。
「自由な感性」と「教育」というものは本質的に矛盾するのであって、教えられるものではないのです。
田中芳樹は日本の教育制度・文部省の「思想圧殺性」を非難している自分自身が思想圧殺しているのです。
それを自覚しているのなら別に構わないのです(内実の矛盾はしているが)。問題なのは、そのことにあまりに無自覚なことでしょう。
さらさらⅠ 〔副〕
1 物が軽く触れあってたてる音などを表す語。また、風や雨、雪、波などの音、水の浅く流れる音などを表す語。*蜻蛉‐中「海のおもていとさわがしう、さらさらとさわぎたり」
2 物事がすみやかに進むさま、物事がつかえないで、よどみなく行なわれるさまを表す語。すらすら。*平家‐四「橋の行桁をさらさらさらと走りわたる」
3 さっぱりとしたさま、いやみのないさまを表す語。
4 物にしめり気やねばり気がなく、さっぱりしているさま、かわいていて、べとべとしていないさまを表す語。「さらさらした洗髪」
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)小学館 1988.
さて辞書を見てみると、こうなっています。
学校で教えるべきことは、「表音」ではなく「定型」です。「表音」を総括し、もっとも多くの人に伝わる「定型」として教えることに意味があるのです。
辞書にあるように、蜻蛉日記(ちなみに「とんぼにっき」ではない。念為(^^;))の昔から、日本人が水の擬音として「さらさら」を使ってきた以上、「さらさら」を水の「表音の定型」であることを教えることは、竜堂兄弟がさんざんあげつらう「正しい日本語」を教えるために充分意義のあることでしょう。
あんえいさんがおっしゃっているように、表音は教えなくてもある程度何とかなるものです。
国語の教えるべきは「表音」ではなく「表音の定型」です。
もう一度言います。以上で説明したように、「自由な表現の抑圧」を非難している、その批判自体が「自由な表現の抑圧」であって矛盾しているのですし、その「自由な表現」とやらが様々なところで使われる「定型」と化していること自体が論理の破綻なのです。