田中芳樹を撃つ!
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考察シリーズ FAQ
このコーナーは、考察シリーズが指向する作品批判・擁護の方向性や基本スタンス、および考察シリーズにおける作品検証のやり方や論の展開手法などに関する田中芳樹ファンからの様々な疑問に対する回答を、Q&A方式で簡略にまとめたFAQページです。
考察シリーズFAQに掲げられている設問の回答内容は、あくまでも「考察シリーズの作者」である冒険風ライダーの個人的な意見および基本スタンスであり、「田中芳樹を撃つ!」全体を代表する公式見解ではないことを予めお断りしておきます。
つぶやく
Q1:田中作品批判のきっかけ
Q2:社会評論批判の目的は?
Q3:物語&設定批判の目的は?
Q4:ファンに配慮すべきでは?
Q5:思想は自由なのでは?
Q6:考察シリーズの検証手法
Q7:作品批判論とは何か?
Q8:作品擁護論とは何か?
Q9:批判と擁護、難しいのは?
Q1
考察シリーズを書くようになったきっかけは何ですか?
A1
創竜伝の作中における社会評論のスタンスが対日本と対中国であまりにも違いすぎることと、政治に対する作中キャラクター達の責任放棄的な態度に違和感を覚えたことが直接的なきっかけですね。
ただ、思想や設定面における矛盾が問題視されたのは創竜伝よりも銀英伝の方が先で、その矛盾のために作中キャラクターに感情移入できなくなった結果、創竜伝が銀英伝よりも評価が高くなった時期もありました。
その影響もあってか、今でも銀英伝に対する評価は田中作品の中では一番ではなかったりします。
ちなみに田中作品でもっとも高く評価している作品はアルスラーン戦記とマヴァール年代記で、謀略を肯定し思想的な矛盾がない点が好評価となっています。
Q2
考察シリーズにおける田中作品の社会評論批判は、どのような基本スタンスと目的を基に展開されているのでしょうか?
A2
考察シリーズにおける田中作品の社会評論批判は、田中作品中に挿入されている社会評論の理論的破綻を具体的に立証し、田中作品のストーリーに与えた悪影響を白日の元に晒すことによって、田中作品中における社会評論の存在意義それ自体を完全消滅させてしまうことを目的としています。
「田中芳樹を撃つ!」Webサイトのあちこちで何度も言及されているように、田中作品中に挿入されている社会評論の指向性は「作品世界内で自己完結した主張」などではなく、「作品世界とは全く関係のない、現実世界で起こった様々な事件・出来事に対する批判評論」を目指したものです。
また、作者である田中芳樹自身もまた、田中作品中に存在する社会評論が作者自身の本心であり、かつ「現実世界で起こった様々な事件・出来事に対する批判評論」を自分から積極的に指向させていることを、雑誌・新聞等に掲載されているインタビュー記事や、田中芳樹関連本に収録されている評論・対談内容などで明らかにしています。
以上の理由から、田中作品中に存在する社会評論を論評する際には、田中芳樹に発言者としての責任を取らせるためにも、作者の意思の尊重という観点から考えても、「フィクション」という免罪符を与えず、あえて現実世界に当てはめた評価を行うことこそが一番妥当な対処法であると、考察シリーズでは認識されています。
Q3
考察シリーズにおける田中作品のストーリー&キャラクター批判は、どのような基本スタンスと目的を基に展開されているのでしょうか?
A3
考察シリーズにおける田中作品のストーリー&キャラクター批判は、作品設定や作中記述を忠実になぞりながら、作者や作品が提供する価値観に囚われない斬新な視点に基づいた議題を提示すると共に、作品構成にとって致命的となる矛盾点や破綻の実態などを明らかにし、ひいてはそのような作品を結果的に生み出してしまった田中芳樹の執筆姿勢や思想的破綻を、田中芳樹に逃げ場を与えることなく無言のうちに問いかけることを目的としています。
創竜伝や薬師寺シリーズなどに代表される田中芳樹の現代物小説は、たとえその実態が「作者の個人的感情に基づいた愚劣な社会批判を吐露する、作者個人のためだけのストレス解消小説」に過ぎないシロモノであるとしても、世間的・一般的には一応「フィクション小説」というカテゴリーに収まっているエンターテイメント作品として定義されています。そのため、フィクション小説である田中作品と、作者である田中芳樹の執筆姿勢を批判するためには、作品中の評論内容を問うだけでなく、田中作品がエンターテイメント作品としても著しく破綻していることをも同時に立証していく必要があります。
また田中作品には、作中に登場する主人公クラスのキャラクターが抱く個人的な思想や行動原理が、作品中を構成するストーリーや作品テーマの主要部分を支えているという図式が存在します。この図式に忠実に添う形で田中作品のエンターテイメント作品としての破綻を立証するためには、作品中におけるキャラクターの動向、および彼らが主導するストーリー内容まで掘り下げた検証に基づいた批判を行うことこそが一番の近道に繋がるのです。
そして、もし今の田中芳樹に、小説作家としての矜持と、自らのファンと作品に対する責任意識がほんのわずかでも残っているのであれば、自ら世に出した小説がエンターテイメント作品として完全に破綻しているという批判こそが、本来専門ではない社会評論に対する批判などよりもはるかに堪えるものになるはずですし、またプロの「エンターテイメント創作家」としての基本スタンスから言っても当然そうでなければならないのです。自らが拠って立つ「エンターテイメント創作家」としての存在意義を他者から完全に否定されて何とも思わないのであれば、田中芳樹は作家として失格であるだけでなく、自分と作品とファンの全てを悪戯に貶めるだけの精神的奴隷でしかありません。
以上の理由から、考察シリーズでは、ストーリー&キャラクター批判を社会評論批判以上に優先するべき至上命題として位置付けています。
Q4
考察シリーズにおける田中芳樹&田中作品批判では、「田中芳樹を撃つ!」Webサイトにおけるコンテンツの中でも特に悪意に満ちた表現が多いように思えるのですが、田中芳樹や考察シリーズを読む田中芳樹ファンの感情にも配慮した作品批判に努めていくべきなのではありませんか?
A4
考察シリーズにおける田中芳樹および田中作品中のキャラクターに対する様々な悪罵の数々は、その全てが、田中芳樹ファンによる感情的な反発や反感を事前に想定&考慮し、それに基づいた批判や反論が考察シリーズに浴びせられるリスクを背負うことも覚悟の上で、あえて意図的かつ確信犯的に書き綴ったものです。
田中芳樹の社会評論には、ロクな検証も行わず著しく偏向&的外れな評論内容で批判相手を徹底的に悪魔化した挙句、あらん限りの悪罵を投げつけて全否定するといった手法があちこちで使われています。また、田中作品の地の文章やキャラクターの言動を見てみると、そこには「礼儀を守らない奴に礼儀を守る必要はない」だの「恨みは10倍にして返せ」だのといった、自らの得手勝手な批判手法や行動を自己正当化するかのような描写が多数存在することが分かります。
このような基本スタンスを保持している田中芳樹や田中作品中のキャラクター達は、当然ながら自分達が他者から同様の手法を使って反論されても文句を言うことはできないはずですし、もし自分達の批判に対して「そんな手法は許せない」と言うのであれば明白なダブルスタンダードでしかありません。そのため考察シリーズとしては、他者を批判する際に必要最低限の礼儀すらも守らない彼らには、「礼儀を守らない奴に礼儀を守る必要はない」という自らの言動に対して、きちんとした一貫性のある責任を取ってもらう必要があると考えますし、また、彼ら自身の批判手法を相対化するためにも、あえて相手と同様のやり方を踏襲した批判手法を行うことは必要不可欠であると認識しています。
また、特に田中作品批判に関しては、あえて「フィクション」としての枠内に収まったストーリー&キャラクター批判論を展開することによって、田中芳樹&田中作品批判に際して主に田中芳樹ファンから多く寄せられる「フィクションだから許される」だの「キャラクターと作者の思想は違う」だのといった「赤錆のついた反論」の類を事前に封じ込めるという目的もあります。この類の反論は何も田中作品の専売特許ではなく、フィクション作品全てに多かれ少なかれ適用できる最も陳腐かつ普遍的な反論なのですから、それに対する対処法は事前に打っておく必要が存在するわけです。
さらに、田中作品に登場する主要キャラクター達には、しばしば「戦争の天才」だの「聡明な毒舌家」だのといった設定が存在し、彼らの頭の良さを賛美する表現も多数散見されます。そのような性格設定を持つキャラクターに対して「実は彼らは○○という理由で非常に愚かな連中であると判断せざるをえない」と全く逆の評価をあえて下すことは、作者と作品の無謬性を破壊する最も効果的な批判手法であると考察シリーズでは認識されています。そのため、考察シリーズにおける作品批判では、しばしばキャラクター批判が作品批判論そのものを構成する最終的な結論となっている例も少なくありません。
以上の理由から、考察シリーズにおける批判論において、田中芳樹&田中作品中のキャラクターに対して悪意に満ちた(と解釈されかねない)表現が多用されることに関しては、批判対象たる田中芳樹が自らの執筆姿勢や現実世界に対する批判(という名の誹謗中傷)の全てを改めない限り、考察シリーズとしてもその基本方針を変更するつもりは全くありません。もちろん、考察シリーズが展開する作品批判論の内容そのものに致命的なミスや間違いが存在するなどといった特別な場合には、表現手法のやり方をも含めて全面的な謝罪・訂正を行うことになりますが、そのような場合を除き、基本的に批判の際に使った表現手法を考察シリーズが撤回することはありませんので、予めご了承下さいますようお願い致します。
Q5
考察シリーズにおける田中芳樹&田中作品批判では、田中芳樹の個人的な思想的傾向や、それに基づいた価値観・歴史観についてまで踏み込んだ批判がしばしば展開されていますが、田中芳樹が個人的にどのような思想を抱き、それを作品中で開陳しようと、それは田中芳樹個人の自由なのではありませんか?
A5
言論・思想の問題に限らず、自由や権利にはそれに伴う義務や責任が必ず発生するものです。自らの作品を世に公開した田中芳樹は、当然のことながら自らの作品および思想信条に対する責任を負わなければなりません。言論の責任というものは「発表すればそれで終わり」的なシロモノなどでは決してないのです。
そもそも作家に対する批判・批評というのは、その作品自体はむろんのこと、その作家が公刊している作品に対する作家の姿勢・態度等もまた対象となるのは当然のことでしょう。作家とは執筆を生業としているのですから、作品の公刊に当たっては、その作品のジャンルの如何にかかわらず、また作品中のストーリー・テーマ・評論を問わず、それら全てに対する批判・指摘・反論といった様々な反動をも全部引き受けるくらいの覚悟と責任が必要です。
ましてや田中芳樹の場合は、自らの思想信条を元に(作中のストーリーとは何ら関係のない)現実世界に対する見当外れな批判を展開したり、自らの作品におけるストーリー&キャラクター設定等を致命的なまでに破綻させたりしているのですから、なおのことその思想信条と言論・作品に対する責任が問われなければならないのです。そして、もし田中芳樹による発言内容に問題があるのであれば、発言者自身が何らかのペナルティを受けることをも含めてきちんと公開の場で対処する行為こそが「自らの作品および思想信条に対して責任を取る」ということでしょう。
また、もし田中芳樹個人の思想信条が「個人の自由」や「言論の自由」の名の下に尊重されなければならないというのであれば、田中芳樹とは異なる思想信条を持つ人達や、田中芳樹のロクでもない批判内容と批判手法の矢面に立たされた人達が抱く主義主張もまた「個人の自由」や「言論の自由」の名の下に尊重されなれなければならないのは至極当然のことでしょう。それを無視して田中芳樹側の思想信条や主義主張のみを、内容を全く問うことなく「個人の自由」や「言論の自由」の名の下に免罪することは、第一に明白なダブルスタンダードであり、第二に田中芳樹に対する反論を展開しようとする人達に対する一方的な言論封殺に繋がり、第三に田中芳樹が犯した他者に対する誹謗中傷行為をも免罪・正当化することを結果として認めてしまうことになるのです。「自由」や「権利」というものは、そのような責任放棄・犯罪正当化・言論封殺などの手段として使うために存在するものではないのです。
もし田中芳樹が自分で展開している作中の評論に自信を持っており、自らの主張の正当性を万人に訴えたいのであれば、自分が批判されることそれ自体に対してではなく、批判者の批判「内容」に対してこそ、それなりの反論なり釈明なりを行うべきなのです。それこそが、自らの思想信条および作品と、それらを全て支持してくれるファンに対する「作家としての責任」というものでしょう。
自分の意見に対する批判をアイデンティティの侵害と定義し、アイデンティティを侵害されるのが嫌だと言うのであれば、そもそも自分の個人的な思想的傾向や主義主張など最初から発表しなければ良いのです。
Q6
考察シリーズが作品論を展開するに際し、どのようなことに注意しながら批評内容を構成しているのでしょうか?
A6
批判・擁護を問わず、作品論を語る際に一番重要なことは、作品を最初から最後まで何度も読み返し、作中におけるストーリーの流れやキャラクター・世界設定、さらには作中に登場する記述や文言の一語一句に至るまで全て把握しつくし、作者の意図や作品の根幹を支えるテーマが何であるかを、可能な限り正確に見極めた上で綿密な作品検証を行うことです。
この基礎が抜けていると、作品批判論も作品擁護論も全て的外れなシロモノに堕してしまいます。たとえば作品に対してふと浮かんだ疑問の中には、他でもないその作品における作中設定や作中記述の中に明確な解答が存在するものがあるかもしれませんし、作中設定や作中記述の内容と相反する作品擁護論は、結果的に「勝手にでっち上げた嘘設定によって本来の作品設定そのものが捻じ曲げられる作品改竄論」とでも言うべき最低最悪の産物と化してしまいます。そのような滑稽な事態に陥らないためにも、作品論を公の場で語る際には、その事前準備として、批評対象たる作品を徹底的に熟読し、批評する際の要点をしっかり押さえておくことが最低限必要なことでしょう。
また、「見ず知らずの他人に読んで頂ける」だけの理論的かつ客観的な作品論を展開するためには、田中作品のみに囚われることなく、様々なジャンルの本を読み、それまで自分が信じていたことと違うことが書かれていても頭ごなしに否定せず、自分の考えに基づいて比較検証を行い、結論を出せるだけの知識と判断力、それに物事を感情的になることなく冷静かつ多面的に観察できる視野の広さと心理的余裕を普段から養っていくことが重要です。
あとは、田中芳樹&田中作品を論評する自分自身の投稿内容もまた、他人からの観察や批評の対象となっていること、そして自分の主張と相反する反論が出てくることを常に意識&想定しておくこと、これに尽きますね。この心構えがあれば、文章や批評内容もおのずと整ったものとなりますし、反論に際しても感情的にならず冷静な対処が可能となります。
考察シリーズではこれらのことに注意しながら、作品批判論/作品擁護論を展開するように努めています。もっとも「言うは易く行うは難し」で、上記のことを完全に実践できているかは、自分でも正直心許ない限りではあるのですが。
Q7
考察シリーズにおける作品批判論の定義について教えてください。
A7
作品における作中設定や作中記述に対して純粋に疑問を投げかけ、作品の矛盾や不整合を指摘することを目的としているのが作品批判論です。
作品批判論では、批判対象たる作中設定や作中記述の内容がきちんと把握できているか、また批判内容が明確な根拠や確固たる思想信条に基づいた妥当なものであるかが、作品批判論としての評価を判定するための主な検討対象となります。
仮にも他人様の作品を名指しで批判する以上は、その批判対象をしっかり読み込んで理解した上で、精緻な検証作業に基づいた確固たる根拠と理論的説得力を持つ作品批判論を展開するのが、批判対象に対する必要最低限の礼儀というものでしょう。
Q8
考察シリーズにおける作品擁護論の定義について教えてください。
A8
作中設定や作中記述を「矛盾や不整合も含め」全て肯定した上で、作品における全ての作中設定や作中記述に何ひとつ逆らわず完璧に合致させる形で、矛盾や不整合を綺麗に解消させることができる裏設定や新解釈を与えていくことを指向するのが、考察シリーズにおける作品擁護論であると定義されます。
作品擁護論は、まずその最初の大前提として、作品中に存在する全ての作中設定や作中記述を「矛盾や不整合をも含めて」完全に掌握する必要があります。なぜなら作品擁護論が作品擁護論として成立するためには、「少しでも作中設定や作中記述に反する要素は徹底的に排除されなければならない」という超高難易度の過酷なハードルを突破することが求められるからです。
たとえば作品擁護論を展開する際に、Aという作中設定から生じるBという矛盾を、Cという裏設定を新規に作成して作品に当てはめることで綺麗に解消したとします。
しかし、もしそのC裏設定がDという全く別の作中設定ないしは作中記述と相反してEという新たな矛盾を形成してしまった場合、B矛盾を消滅させられるはずのC裏設定は、たとえどんなに普遍的な説得力があろうが、作品擁護論として成立させずに葬り去らなければならないのです。
そのような事態を回避するためには、目先の解消するべき矛盾だけでなく、全ての作中設定と作中記述に対しても矛盾や破綻を全くきたすことなく綺麗に合致する裏設定や新解釈を構築する必要が生じるのです。
Q9
作品批判論と作品擁護論はどちらが難しいのでしょうか?
A9
圧倒的に作品擁護論です。
作品批判論の場合、たとえば作品中に存在するたった1つの記述のみに着目し、それとは相反する現実世界の常識や知識をあえて持ち込み、「作品中に存在する○○という設定は、現実世界の常識では到底考えられないものである」といった類の批判を展開しても、ひとつの論としては立派に成立しえます。
もちろん、より精緻な批判を目指すというのであれば、批判を行う際の検証作業自体が膨大な時間と手間のかかるものとなりますし、論の構成も片手間などでは決してできない精緻なレベルを要求されることになりますが、それでも基本的に作品批判論は、誰でも比較的簡単に作成できる構造にはなっているわけです。
これに対し作品擁護論では、作中の記述や設定、および作品のテーマや作者の意図などに反する論を展開することは一切許されません。
そんなことをやった瞬間、擁護すべき作品はそのあるべき姿からかけ離れた全く別の何かに変貌してしまいます。
二次創作としてならばそういうのもありでしょうが、作品擁護論でそれをやるのは、下手すれば作品批判論をもはるかに上回る作品そのものの全否定にさえも繋がりかねません。
タナウツでもよく言われる「矛盾にツッコミを入れまくる初級シャーロキアンと裏設定を考える上級シャーロキアン」のたとえも、裏を返せば「いかに作品擁護が難しいか」を示すものでもあるわけです。
作品擁護は作品批判の何百倍も難しく、下手な作品擁護は下手な作品批判をもはるかに上回る、「無能な働き者」のごとく有害無益なシロモノでしかないのです。
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