掲示板一気読みしちゃいました。疲れた・・・
創竜伝のリクツ部分が田中芳樹のホンネという意見ですが
わたしは違うと思います。
最初の頃は確かにそうだった気配がありますが、途中からは
どう見ても分別のある大人が真面目に書く内容ではなくなってます。
で、
こっからは想像ですが創竜伝に関しては当初の予想以上にこの
リクツ部分が受けてしまった為、その部分をどんどん膨らませて
しまったんではないでしょうか?
敢えて低年齢(ティーン?)の読者に向けてレベルも下げて
あると。つまり読者への思想の押し付けでなく、読者に迎合した
結果がああなったと。(ほんとうに自分が10代前半だったら
あのリクツに共感してただろうなって思います。)
創竜伝自体キャラクター先行であんまり先の展開を考えずに
書いている節がありますし、読者への受け先行で進めた結果
暴走してしまったのが現在の姿だと思います。
(もちろんリクツ部分の内容のベクトルは田中芳樹の思想に
影響されている事は否定しませんが)
に、してもファンだった人の取るべき態度ってどーいうのが
一番いいでしょうね?わたしが彼の作品(中断中のシリーズ)で
続きを読みたいって思うのはタイタニアくらい。
(書くとは思えないけど)
ファンがみんな見限れば本道に立ち戻ってきちんと昔みたいな
まっとうな物書きに戻ってくれるのかしら?
(もう一生遊んで暮らせるだけの印税収入あるから無理かな?)
(青木雄二も一生使い切れないだけのお金をかせいだからと
漫画やめちゃったけどこれは作家として誠実な態度かな?
少なくとも正直ではありますね。)
10年位前、銀英伝のファンだった者です。田中氏について、遅筆だとか金儲けとかおっしゃってますが、なんだか理想の押し付けに思えます。確かにプロ意識とか言うならシリーズを完結させることはファンの願いでもあります。しかし、作品は生き物ですから、描き始めの当初の作風とはまったく変わってしまってます。銀英の外伝にしてそうなんですから、『タイタニア』も『七都市物語』も
もはや続行不可能と考えたほうがいい。今更描かせたとしても全く別ものが出来ちゃうなら嫌ですし、夢破れたり・・です。いい例が
『グイン・サーガ』で、もはやガタガタの内容なのにだらだら続けている。しかし作者に
恨み事はいいません。ただ離れればいいだけのことだからです。作家といえどたかが人間ですよ。生きてる間に成長する作家もいれば
だめになっても馬鹿なファンのおかげ(?)で細々食いつないでいる作家もいます。
そもそも田中芳樹をだめにしたのはファンです。私も同人誌をやっていたのではっきりいえますが、今、社会全体に蔓延しているアマチュア感覚の大半は同人界が原因です。謎本やら田中読本やらを作っているのは同人あがりの連中ばかりではないでしょうか。小説家も漫画家も同人あがりの連中は締切も完結も関係なしでやりたい放題でまかりとおってきた人が殆ど。きちんと作品といえるものを作っている人は稀です。それを買い支える同人人口がいる。キャラクターだけたってれば
同人誌はつくれますから、田中芳樹作品は格好のネタだったろうと思います。そういうファン・・・私はファンとは思いませんが、
そんな人達に囲まれて、田中芳樹は駄目になった、と認識しています。残念ですけどアマチュアリズムがプロを駆逐しているのが今の出版界ではないでしょうか。
>ほりーさんへ
ホリーさんのご意見の作者に理想を求めるなという部分は同意見なのですが、「アマチュアリズムがプロを駆逐している。」ということはないでしょう。出版業界はそんなに甘い物ではありません。同人誌レベルの意識しかない人間が、生きていけるような世界ではなくまさに夢見がちな小説家を相手にしている現実主義者の集まりで保たれているんです。
ちなみに同人誌はあんまり良く知らないのですが、少なくとも田中読本を編集なさったライトスタッフの社長さんは締め切りが迫る中で3日も事務所に泊まり込んで仕上げられたそうです。
その点に関しては、小説家は攻められることがあっても出版および編集の方ががアマチュア気分でやっているということはないのでご心配なく。
>1947
さらに、もうひとことふたこと言わして頂くなら、マスコミ志望者が面接で「同人誌をやっていました。」というのは禁句である事はご存知だと思うんですが、同人誌は一部の人向け、また自分の趣味にはしり過ぎるため、多くの人に受け入れられるという感性にかけると判断されるのだそうです。さらに同人誌と一般誌ではあなたのおっしゃるように締め切りやその他の束縛が多くそれを理解できない人が多いのも事実だと聞きました。
あくまで、それを楽しんでいる人とそれを商売にしている人を同列にはできないと思います。
それともうひとつ、「馬鹿なファン」という言葉がありましたが、これは以前他の所で言いましたが自分と感性が違うと人を「馬鹿」というのはどんなもんでしょう?作品の質が落ちているとあなたが判断しても、その人には面白いのかもしれないでしょ?これは個人の能力の優劣ではなく単なるこのみの違いだと思います。違うでしょうか?
>出版業界はそんなに甘い物ではありません。同人誌レベルの意識しかない人間が、生きていけるような世界ではなくまさに夢見がちな小説家を相手にしている現実主義者の集まりで保たれているんです。
>ちなみに同人誌はあんまり良く知らないのですが、少なくとも田中読本を編集なさったライトスタッフの社長さんは締め切りが迫る中で3日も事務所に泊まり込んで仕上げられたそうです。
>その点に関しては、小説家は攻められることがあっても出版および編集の方ががアマチュア気分でやっているということはないのでご心配なく。
確か前にどなたかがおっしゃられていたと思うのですが、らいとすたっふの仕事には同人の利用(もちろん合法的に同意を得た上で)が多いと思ったのですが………
マンガと小説を同じ土俵で測ることは乱暴だとも思うのですが、現在のジャンプやマガジンを見ていると、『今、社会全体に蔓延しているアマチュア感覚の大半は同人界が原因です』というホリーさんの意見には感情的に賛成したくなります。 もちろん、出版や編集の人間はビジネスに徹していると思いますが、しかし、だからこそクールでドライに「アマチュア気分」を「商売」として扱える面があるのではないでしょうか。要は、作家サイドと読者サイドにアマチュア気分があれば問題は充分あるわけです。
>作品の質が落ちているとあなたが判断しても、その人には面白いのかもしれないでしょ?これは個人の能力の優劣ではなく単なるこのみの違いだと思います。違うでしょうか?
これに関して私は難問だと言いましたが、それは質の善し悪しと読む側の快不快が必ずしも比例しないからなんですね。卑近な例で言えば、最高の牛肉を使っていっさい妥協をしないで作られた究極の(笑)ハンバーグより、マクドナルドのハンバーガーを好む人は厳然として存在するわけです。これは好みの問題なのだからしょうがないし、批判するには当たらないと思います。
しかし、それが「質の問題」ではないとまでいくと、ちょっと違うと思うのです。
中途半端なところで恐縮ですが、今回はここまでということで。
>管理人さんへ
単に編集・出版の人がシビアに仕事していると言う事がわかって頂ければ良かったんです。
ホリーさんの投稿の中で「謎本や田中読本などを作ってきたのは同人仕上がりの連中では・・・・(中略)きちんと作っている人はまれです。」と言う部分が気になってんです。シビアな意味で同人を商売として取り扱ってるかどうかというより、商品として売り出される物に真剣に取り組んでいるので、同人気分でやってるわけではないと言う事をわかって欲しかったんです。
らいとすたっふは「全艦出撃!」のような同人の中で優秀な物を編集したり(でも、これって最初の監修に田中氏だったのがらいとすたっふに変わっていった事考えると田中氏はあんまり乗り気ではないのかなと思うけど。好評だったのに絶版になったし)してますが、基本的に同人が著作権など法律的に違反するものを出さないようにそのあたりを管理していたり、銀英伝とかのイベントを取り扱ってるので同人関係のと言われてるんじゃないでしょうか?
ファンの事についてなのですが、「質の問題」までいくかどうかって言い出すとちょっと時間が・・・(笑)とりあえず、不特定大多数を批判するのってすごく簡単ですが、その中には私たちより年下の世代は「創竜伝」を読んでから「銀英伝」に流れたりする人も多いよ。という事だけ言っておきます。
しかし田中芳樹なんか読まなくなって久しいの
ですが、昨今のノベルズは総体的に変でっせ。
破綻しまくりの『紺碧=旭日』でもベストセラーにまだ残っているのはもちろん、「どーし
てこの程度の作家がプロと言えるの」って言い
たい奴が作家面していますからなぁ。
妙な社会風刺を、しかも登場人物に自分の意見
を語らせるのは、あんまりプロとしてうまいと
は言えないと思いますがね。
ノベルズなんかたかがフィクション、そして純
粋なエンターティメントでいいじゃありません
か? 娯楽を提供するのも恥ずかしい仕事では
ないし、そのなかでどれだけ完成度を高めるか
がプロでしょうに。
ここでやり玉にあげられている御仁や荒巻義雄
みたいに、思想性に執着している作家たちって、なにか娯楽小説家としての誇りが欠落していると思うんだけどなぁ。
このあたり真面目な話、「荒らし」の人たちの
意見も聞きたい。田中芳樹は、「娯楽小説家」
なの、それとも別の“称号”になるの?
もし評論のない、小説としての創竜伝が好きならば、それはそれで良いと思うのです。
キャラ目的だろうと挿し絵が好みだから買おうと、それはそれで良いと思います。私とは正反対の志向ですが、別に否定しようとは思いません。
ですが、それでも銀英伝に比べ創竜伝の小説としての質が落ちるのは明確な事実です。創竜伝を支持する人は、少なくともこの部分だけはごまかさないで欲しいですね。『能力の優劣ではなく単なるこのみの違い』ではなく、『能力の優劣の問題であり、なおかつ好みの違い』なのです。
しかし、創竜伝には小説として質が低いを通り越して欠陥がありますよね。これに関しても本論で論じていますから触れません。異論があれば論争します。
質が低いのであればそれも好きずきでしょうが、欠陥小説を買い支えるというのはどういうものでしょうか。ジャンクフードが好きなのは好みの問題ですが、髪の毛や虫が入ってる食べ物は欠陥商品でしょう。創竜伝は、余計な異物(評論部分)が混入して小説部分をダメにしている欠陥商品じゃないですか?
ケナシ代を払っているようなものだ、という考えは私も好きです。しかし、そんな豪儀な人はほとんどいないでしょう。行列の出来るラーメン屋はまずくても客が入るみたいですが、それと同じじゃないですか。まずいだけなら好みの差ですが、異物混入ラーメンをわざわざ食べるのは馬鹿なファンじゃないですか? いままであった創竜伝の擁護で多かったのは異物(評論部分)を取り除いて読んでいるでしたが、何かファンのあり方というか楽しみ方としてねじくれているなぁ、という感は否めません(もっともどんな楽しみ方をしようと自由ですし、このようなサイトの管理人がもっともねじくれた楽しみ方をしているとも言えますが)。
いつ間のにか常連になっちゃったなぁ(笑)。
もともと『虚構戦記研究読本』の著者、北村賢
志氏の書き込みを探しているうちに、ここに
たどり着いただけでなんですがね。
田中芳樹でまともに読んだのは銀英伝だけで、
アルスラーン、創竜伝は飛ばし読みだけだか
ら、あんまりえらそーなことは書けませんが。
ともかく、昨今のノベルズ界はおかしい。
初期のワニなんかにあったアンソロジーものは
レベルが高かった(中公C★NOVELSの初
期には、コナン・ドイル集があったって知って
ました?)のに、九〇年代に入ってどこの出版
社もズタズタでしょ。
西村京太郎をはじめとするトラベル・ミステリ
も土曜ワイドレベルの陳腐さ。架空戦記も含め
たアクションも大したことないし。興味がない
から読んでないけど、ホラーや新本格のレベル
はどうなんでしょ?
本来、客であるはず読者を無視したような作品
を濫作するのはプロ作家として失格だし、また
編集者までも読者を嘗めてるとしか言いようが
ないんだけども。
しかし架空戦記の掲示板やここのファンからの
反応を見れば、「この読者なら嘗められたって
しかたないな」と妙に納得してしまう。これは
同じ“読者”として、非常に辛い。
ノベルズなんか所詮は娯楽。しかしその娯楽
で、読者が作り手からバカにされる必要なんか
はまったくないはず。金払ってバカにされるの
は、「●●クラブの言葉責め」だけ。倒錯趣味じゃないかなぁ。
かりに作家や出版社が「営利のために」ひどい作品を出すのが許されるのだとしたら、読者も
“消費者”としての意識を持って、自衛しない
と。そのくらいの権利は、有するはずだけど。
ずっと論争をみてきていてsatokoさんのご意見に同意していたので、いわんとしたところがきちんと伝わらなかった文章力のなさが辛いです。
出版業界という書き方を自分が読んでいる範囲、と取り合えず訂正して進めます。漫画で育ったので特に漫画でいうと、今発行されている雑誌は割合で言うとレディースがトップで次は同人作家雑誌になっています。青年誌もたくさん出てますが一誌に一作品いいのがあればいい、というのが多すぎる。同人雑誌も同性愛のオンパレード。これを買い支えているのは同人達です。裏でやっているなら
一部の趣味で良いでしょうが書店に並ぶと普通の子も手に取ります。ほんとにフツーの子は二度とその本を手に取らず、一部の嗜好の子たちが買うわけですが、一般人が読むに絶えない世界の広がりはますます漫画の世界を
特殊なものにしてしまいます。かつて萩尾思都さん、木原敏江さん、山岸涼子さん、竹宮恵子さん、青池保子さん、美内すずえさん、
和田慎二さんなどが描いてきた作品は、少女漫画の枠を超えていろんなファンを掴みました。今は小さなコミュニティーをつくってより趣味の世界へ閉じ籠っていっているように思えます。
ライトスタッフの社長さんは三日泊り込みとおっしゃってましたが、同人作家は三日徹夜も一種自慢話になります。プロとアマの違いは頑張りではなくモラルの持ち方でもあるのではないでしょうか。売れるなら何でも良い、では殺人雑誌もありです。以前死体写真集が話題になりました。見たい欲求は分からぬではありません。しかし出版すべきものであったでしょうか。マスコミは被害者を追いかけ回していますが、モラルはないのでしょうか。学者は持説を振り回して常識とかけ離れたことを言ったり書いたりしてますが、社会に対する責任はどうなったのでしょうか。
オウム事件の時、私は社会の無責任を思い知りました。オウムを擁護した学者は相変わらず大学助教授ですし破防法に反対した為に今あちこちの住民が不安と同居していますが、
江川某も新聞社も自分の責任は忘れています。
趣旨はずれましたが、小説にしても今売れているものが果たしてプロの作品のみか、疑問です。アマチュア的な作品を好む読者が増えたらそれも好みの問題といっていいんでしょうか。管理人さんがおっしゃった「アマチュア気分」を「商売」として捉える面、それこそ今大疑問に思っていることなんです。
プロとアマの境界があいまいなんです。
小林よしのり氏がゴー宣で描いていたので、こういうのがありました。インタビューを受けたがおこしがあまりにひどくて金森さんに直させていたら、タイトルまで「わがゴーマン闘争」にするという。ちょっと待てよとやりとりしていて知らぬ間にその本は出ていた。 ・・・これって実に同人の悪い面を象徴してるんです。小林氏はゴー宣批判本で無断転載を巡った裁判で残念ながら負けちゃいましたが、本屋に転がっている謎本の類はやっぱり作家に心地よい本には思えません。同人誌のセレクションもいっぱい売っていますが、同人ネタになると売れ方もグッと上がったりしますので見逃しているのではないかと思います。
馬鹿なファン、という言葉が感性の違いと
取られたのは残念です。確かに言葉は悪かったと反省します。しかし好みの違いなら私もここまで言いません。銀英のキャラをホモにしてヤンとシェーンコップのエッチシーンを描くことも感性の違いでしょうか。自分の好きなキャラが死んでしまったらもうその先を読まない、という読者もいいですか。作品の質でいうと、銀英大好きですけど、最終巻の完結の仕方はベストではないです。やはり一級になりきれませんでした。残念なんです。本当に。それでも「すばらしい」「最高だ」
と絶賛するのがファンではないでしょう。
金正日を崇め奉るのが彼の為でないのと一緒です。田中芳樹氏が外伝を六巻まで描けなかったのは、本人いわく「同人誌でいっぱい
あるからもう描く必要もない」でした。確かにすごい作品もありましたけど、やっぱり先生の筆で読みたかったですよ。作品へのラブコールであった同人誌が自己主張の作品になったなら先生に見せてほしくなかった。
若い層でもファンはいっぱいいますよ。でも昔のファンという概念と今のファンという
概念は果たして同じか、要検証、とも思います。
>ホリーさんへ
文章力がないのは私の方です。うまく伝えられないのが残念ですが、とりあえず。
出版の話なんですが、とにかく私が分かって欲しかったのは、「自分が好きな物に走ってしまう同人と幅広いスタンスで売れる物をビジネスとして作っている出版」というけじめの部分だけ理解して頂ければ良かったんです。もちろん其処にモラルはあるのかと言われれば、どうでしょう?しかし、そこにはニーズがあるから出版されるのでは?モラルの線はだれが引くのか私にはわかりません。法でしょうか?社会規範でしょうか?どうかはわかりませんが、結局は最終的にそれを判断するのは個人個人なのではないでしょうか?これ以上は私からは言えません。
私はここまで書いてきた中で、同人(またはそれまがい)の中の作品を責めるなとは言っていません。出版社を同人レベルで見ないで欲しいと言っているんです。
ファンの事についてですが、これはあなたの考えに猛烈に抗議したいと思います。管理人さんにもちょっと関わるのですが、ファンがどのように楽しむか、どのように感じるかと言うのは勝手でしょう?私はそれがファンのあり方として間違っているとは思いません。書き込みの中にもありましたが、挿し絵が好きだからと言う人もいるでしょうし、社会評論云々を抜きにして単純にストーリーの展開を楽しむ人もいるでしょう。
個人的な事を言えば、私は田中作品は基本的にキャラクターを楽しむ作品だと思う。「きゃー、ミュラー!」「始クン、素敵!」と言うファンがいてもぜんぜんかまわないしちょっとファンから抜けて言わせてもらうと、「創竜伝」などは大学生がまじめになって読むような本じゃない。(といいつつ宮部女史の「竜は眠る」とか読んでるから同じレベルかもしれないけど^^;)軽く、はちゃめちゃすぎる部分を笑い飛ばす程度の作品でしょう。読み終わった後「あ~、わらった。日本が不景気なのは竜堂兄弟が公共の建物壊し過ぎるからだな~、はっはっは~。」って程度じゃありません?それが面白くて買うのはいけないことでしょうか?中学生の私の従妹も創竜伝の熱烈なファンですが、「田中先生はきっと泥棒に入られても、国家権力の陰謀だっていって警察に通報しないんだろうな~。」くらいの冷静さはもってます。(ただこの子は中学生にしちゃちょっと冷静過ぎ)
ファンは作者を支えると言いますが、それ以前に自分の楽しみが先行して悪いという事はないでしょう?たいしておもしろくもない作品だと思われる物でもその人なりの楽しみがあって買った場合、結果として田中氏に楽に稼がせるという事になるとしても、その人が責められるいわれはないはずです。だって、ファンは田中氏のためにあるわけではなく、自分自身のために田中作品を手に取ってるんですから。
もちろんそんな事も分からずにそれに田中氏が便乗してぷらぷらしてるのであれば、「田中氏は」責められるべきですが。
この問題って難しいですよね。
私はアニメオタクなんで、同じ問いかけをアニメでもするわけです。こんな作品見て喜んで馬鹿じゃねーのって。
でも同時に「たで食う虫も好き好き」というのも分かるんです。だからこの手の議論って、たいがいお互いに接点のないまま平行線をたどってしまうのも、まあしょうがないかなあと。
でも一つだけ、譲れない意見がある。それは「悪貨は良貨を駆逐する」です。
つまり、一つの作品をどう楽しむかは個人の自由なのですが、そういう特異な楽しみ方(邪道とあえて呼びます)が大勢を占めたときどうなるか。なるほどそういう作品が売れるのか、という勘違いを生み、邪道な楽しみ方をする人に受ける作品が氾濫することになり、正当な楽しみ方をする人の作品が少なくなってしまいます。
作る人間の態度は、競争原理でふるいをかけるべきことと思いますが、出版社というものはあくまで商業主義です。売れる物を提供しようとします。作品の質が悪くても売れるという矛盾する関係などお構いなしです。
もちろん、何をもって正当な楽しみ方・邪道な楽しみ方と分けるのか、それこそ個人の自由ではと言うかもしれませんが、少なくとも「小説」というものに対し、「イラストが気に入ったから」という理由で楽しむというのは、正当でないと思います。小説とは文字を読むものなのですから。
そして「小説(文字)を読む」とはそこに書いてあることをすべて読むということであり、一部だけを読む行為を指して言わない。「私は○○を読んだ」というとき、気に入ったページだけ読んで、後は飛ばした者をその本の理解者といえるのか。
だから、「小説を楽しむ」というとき、それはすべてを読んで理解することが「正当な楽しみ方」だと思うのです。
その「正当な楽しみ方」に照らしたとき、創竜伝は社会評論が物語をぶち壊しているのは明白だと思います。
正当な楽しみ方だけが存在を許されるということではなくて、邪道な楽しみ方をする人が居ても結構だと思います。しかし、それはあくまで少数でなければならない。それが大勢を占めたとき、作品の質が悪くても売れるという矛盾、「悪貨は良貨を駆逐する」が起こる。
今の田中作品は明らかに邪道な楽しみ方をする人達によって支えられていると思います。
同人的なものの氾濫って、なんなんでしょうね。結局はそれぞれの相関関係であり(モラルの低い作家、商業主義の出版社、そういうものを進んで求める消費者)、1箇所だけを取り上げてもどうしようもないことなのでしょう。
私個人としては、面白ければ同人でもプロでもよいと思うのですが、商業ベースに乗せたとき、それを同人と呼びうるのでしょうか。プロとアマの垣根が低いとはこういう所にあるのでしょうね。
すみません。論旨に関係ないことは承知なんですが、ちょっと指摘を。
「悪貨は良貨を駆逐する」というのは、「グレシャムの法則」のことで、名目価値は同一だが、実質的価値の異なる二種の貨幣が同時に使われるとき、良貨は貯蔵され、悪貨だけが市場に流通する傾向を意味した言葉です。
つまり、語弊をおそれずに言うと、良貨が引く手あまたで売り切れ続出で市場から消え、代わりに悪貨が不良在庫を起こして市場に溢れている状態がグレシャムの法則であり、世間で思われているのとは全く正反対の意味になります。
>Markatzさん
確かに、こういうファンのあり方についての問題って平行線をたどりそうですね^^;
ただ、すこし意見を言わせてください。私はいろんな楽しみ方をするファンを、正統とか蛇道とは思いません。全員正統です。挿し絵を楽しむのも、社会批判を斜め読みするのも、みんなちゃんとしたファンです。それを言うと平行線なのですが、どんな楽しみ方でもかまわないはずです。
「こういう蛇道なファンが増えると良い作品が減って、正当な小説のファンが困る」
というのはちょっと批判する方向が間違っていると思います。前回も言いましたが、ファンはいい作品を作らせるための道具ではありません。どんな状況であろうと、いい作品が作られてファンがついていくものでしょう?
これも前回かいたことなのですが、確かに田中氏は現在楽に稼げる状況にあるかもしれません。でも、それにおごっていいかげんな作品を書いているならそれは田中氏は批判されるべきです。ですが、ここで言うようにいろいろな楽しみ方をしているファンにその理由を押し付けるのであれば、田中氏も「ずいぶんいい言い訳ができた」と逆に喜ぶのでは?あくまで作るのも作品に対する最低限のプライドを持つべきなのも、作品に対する責任を持つのも田中氏なのです。それを他に責任を求めるのは、違うと思います。
ちなみに、
前から気になっていたのですが、田中信者ってどういう定義なのでしょう?私の周りの田中信者って思われる人はいわゆる「作品の中の世界」を楽しんでる人ばかりで、田中思想に共感する部分はあるとは言え、全面的にその思想を受け継ぐみたいな人は見た事ないです。(いたとしてもそれはかなり少数だと思う)どちらかと言えば、みんなどれどれのファンでミーハーなノリの人が多いです。
それと比べて、たとえば小林よしのり氏の信者と言われてる人たちは全面的によしりんの考え方を信じ込んで(ちゅーか、普通に読めばよしりんのメッセージはそういうのをやめて個を確立しろって言ってるの、わかんないのかな?)いる人たちでしょう。
蛇足
私はよしりん大好きだけど、今回のよしりんの裁判の判決はずいぶん良識的で当然の判決だと思う。各掲示板で暴れまくってるよしりんファンもう一度判決文を冷静に読んで、何でこういう判決になったか考えてみて欲しい。僕らのよしりんが負けるなんて!ってそこにこだわるんじゃなくてね。
以前、ジャンルがぜんぜん違うのに田中氏とよしりんを比べるなといったのはこのあたりからなんです。で、とりあえずこの掲示板での田中信者の定義ってどういうものなのか教えて頂きたいと思います。(ああ~、また書いてしまった・・・、時間が・・・)
お客を楽しませるのがプロのエンターテイナー・・。
いわゆる「いい作品」を作ろうとしても
読者自身がそんなものを求めていない。
プロならばお客を楽しませるべきだ、の考えのもと、
そういうミーハーファンに向けた作品ばかりが
量産されていく。
作家の信念やプライドは「ガキの戯言」と
かたずけられてしまう。
売れないものは、発表する場も与えられない。
Merkatzさんのおっしゃる通り、これが現実です。
ここの掲示板で、よく「エンターテイナーとして失格」
という言葉を目にしましたが、
私の意見は逆で、田中氏は「プロのエンターテイナーになってしまったな」
と思ってます。
初期の、若い頃の青臭いまでの作品に対する
ひたむきな態度(ここの皆さんのような)が薄れ、
「大人」になってしまったと。
業界の片隅に足を突っ込んだ今の私の考えとしては、
「読者を無視してでも」自分の作品に対するひたむきさを
いつまでも失ってはいけない、と思っています。
「エンターテイナー」であるよりもまず「アーティストたれ」
とぐらい思っていないと、自分の思う「いい作品」は作れないようです。
残念ながら大半のファンは、(アニメでもマンガでも)
カッコイイ(かわいい)キャラが出れば
それで満足のようですから・・・。
突然の横やりですみません。
ROMに徹するつもりでしたが、
お邪魔してしまいました(笑)。
銀英伝は、自分も作家になってこんな話を
作りたい、と思わせてくれた作品です。
本当に面白かった。
今でも、銀英伝にはまった自分自身を
否定する必要はないと思っております。
>「こういう蛇道なファンが増えると良い作品が減って、正当な小説のファンが困る」
>というのはちょっと批判する方向が間違っていると思います。前回も言いましたが、ファンはいい作品を作らせるための道具ではありません。どんな状況であろうと、いい作品が作られてファンがついていくものでしょう?
これはちょっと違うんじゃないでしょうか。ファンは良い作品を作るための道具ではないけれど、作品は書き手と読み手がいて熟成されるものでしょう? このデンでいけば、作家は多数派ファンの欲望を満たすための道具ではない、とも言えます。
なんというか、田中芳樹が日本人の民度や政治家を批判するときの論理がそのまま彼に返ってますね。「日本は社会主義国ではなく、いちおう民主主義国だ。選択肢はあるのに馬鹿な政治家を選ぶのは国民の責任だ」というヤツですが、政治家を作家に、国民をファンに入れ替えればドンピシャでしょう。ファンが馬鹿な作家を選ぶことに道義的責任がないのなら、国民が馬鹿な政治家を選ぶことに道義的責任はない…そうか、田中芳樹は身をもって民主主義の危うさを体現してくれているわけです!
我々が今の田中芳樹に不快感を覚えるのは、ヤンがトリューニヒトに不快感を覚えるのと近い感情のような気がします。共にきわめて矛盾じみたところから発する不快感ですね。
>お客を楽しませるのがプロのエンターテイナー・・。
>いわゆる「いい作品」を作ろうとしても
>読者自身がそんなものを求めていない。
>初期の、若い頃の青臭いまでの作品に対する
>ひたむきな態度(ここの皆さんのような)が薄れ、
>「大人」になってしまったと。
どうも初めまして。
その通りですね。誤解を恐れずに言えば、大衆化社会の商業作家として必然と言えるかも知れません。
他の作家なら、愉快ではないもののそれはそれで良いでしょう。しかし、大衆社会の衆愚化をテーマに小説を書き(銀英伝)、創竜伝に至っては評論でいまだに批判し続けている田中芳樹には、自らのソフィスト化、自分のファンの衆愚化に対する責任も派生するはずです。田中芳樹が他の作家よりも責められる要因はここにあると思います。
一見する限り、むしろ、田中芳樹を批判している方が、ファンよりも田中芳樹の思想の良質の部分を受け継いでいるように思えますね。
ファンの方は、もちろん田中芳樹の思想に盲従する必要はありませんし、田中芳樹の思想と作品は別として楽しむこともできるでしょう。しかし、田中芳樹の思想を本質から嘲笑するような態度を(無意識に、結果的に)とるのがファンなのか? もしファンだとしたら馬鹿なファンではないのか? というのがホリーさんの「馬鹿なファン」の意では無いでしょうか(違ったらごめんなさい)。
毎度、仕立て屋です。
>少なくとも「小説」というものに対し、「イラストが気に入ったから」という理由で楽しむというのは、正当でないと思います。小説とは文字を読むものなのですから。
昔ほどではありませんが、表紙絵で本を選ぶ若干の傾向のあるわたしとしては、耳の痛いことです。かの創竜伝購読のきっかけも、”ハンニバル”シリーズからのファンである天野先生がカバーイラストを手がけていたからなんですよ。アルスラーンもしかり。こうした読書傾向は邪道であるかもしれませんが、ぶっちゃけた話、赤塚不二夫先生による表紙のファンタジー本やSF本を手にとる気が起こらないように(こればっかりは好みの問題ですが)、外面から作品に入るのも致し方ないように思われます。ま、部数のはける作家や作品に人気のイラスト作家がつくのは市場原理からして致し方ないことなのでしょう。が、読むきっかけが外面からであっても、読み込んでゆけば、化けの皮ってのは剥がれるものです。よい作品(これって読者の立場もあるだろうし、判断の難しい問題です)を育む土壌が、作家、出版社、読者の間で成熟され、それに基づいた市場原理によって、良い作品には人気のイラストレーターが付くというのであれば、わたしのような読書癖をもつ読者がいても問題ないように思います。しかし、現実は正常な市場原理が働いているようには思われません。作家が悪いのか、それを求める読者が悪いのか、はたまた作品を選別する媒介の出版社が悪いのか、判断の難しいところです。
>一新人漫画家さんへ
<「読者を無視してでも」自分の作品に対するひたむきさをいつまでも失ってはいけない、と思っています。>
例えが妥当かわかりませんが、小林よしのりの「戦争論」が売れて、その手の学者の著作が何故売れないのか? たしかに購読対象年齢層の購買力の差にその原因をもとめることができるのかもしれませんが、小林氏も公言しているように"エンターテイメント”の追及は、やはり大切なことであるように思います。作家は読者に読ませなければなりません。でなければ好きな作品も書くことができなくなります。が、注意しなければならないのは、エンターテイメント性を追及するがあまり、作品性をそこね、主客が転倒してしまうことです(創竜伝がよい例)。エンターテイメント性も良質な作品性があってはじめて光り輝くように思われます。作品性とエンターテイメント性は決して矛盾するものではないと考えます。わたしの好きな漫画にベルセルクがありますが、これは、その重厚な世界観,構成力とエンターテイメント性が見事に両立している好例であると思います。実際、部数もはけていますし、作品性とエンターテイメント性の両立が部数に結び付くことは良いことだと思います。さしでがましいですが、頑張って下さい。
>「悪貨は良貨を駆逐する」
貨幣の本質のひとつは流通であり、「駆逐」の言及対象は貯蓄ではなく流通上の現象をさしているのですから、Merkatzさんの用法は適当です。世間一般でもMerkatzさんの用法で、この言葉は使用されています。御存じでしょうけれど、念のため。
satokoさんへ
>前から気になっていたのですが、田中信者ってどういう定義なのでしょう?私の周りの田中信者って思われる人はいわゆる「作品の中の世界」を楽しんでる人ばかりで、田中思想に共感する部分はあるとは言え、全面的にその思想を受け継ぐみたいな人は見た事ないです。(いたとしてもそれはかなり少数だと思う)どちらかと言えば、みんなどれどれのファンでミーハーなノリの人が多いです。
私も以前「田中信者」という書き方をしたことがありましたので、私なりの定義を書いてみたいと思います。これは私個人の独断と偏見で定義していますので、他の方々の定義からみると違うと言われる部分もあるかもしれません。
私がこのように感じる人たちは、今から10年ほど前の高校などの学生時代に沢山いました。「とにかく田中氏の書く作品は最高である。だからその主張は全部正しい。この素晴らしさを多くの人に知ってもらいたい。だからみんなに読ませなくてはならない。しかしもし批判変的なことを口にする人は正しい道に戻してあげなくては」というような発想をする人のことで、なかには田中氏の本は現代の聖典であるとまで言う人たちまでいます。つまり各自程度の差はあるでしょうが、田中氏を教祖もしくは神のように言う人たちですから、私は田中教の信者のようだと感じました。
ここでいう田中氏の主張とは、あとがきなどで書かれていることだけでなく、創竜伝などの作品中にでてくる社会批判も含まれています。日本の政治家も警察も自衛隊も大企業も全部間違っており、正しい社会を実現しているのは中国とソ連などと、授業中でも平気で発言していました。中国はともかく何故ソ連かというと日本と敵対している国だからという理由でした。
みんなに広めるという点では図書委員をしていた関係で、そのような人たちと知り合う機会が多く閉口させられました。彼らの主張は「田中芳樹関連の本をすべて入れろ」「図書委員会の発行する新聞には毎回、田中作品の特集記事を載せろ」「委員会主催の読書会や文化講話の課題図書やテーマを田中作品のなかから選べ」などです。できる範囲では応じましたが、購入冊数が少ないや特集のページが少なすぎるなどの批判を受けました。
批判は許せないという点では、話の矛盾や設定上の疑問を指摘すると、ものすごい形相で内容はともかく田中氏を批判しようという姿勢が気に入らないとなじられたことがあります。
また、田中氏に関連する本やカセットのたぐいは、ファンなのだから例え二重になっても興味のないジャンルであっても全部買わなければと主張し、それを他人にも強制しようとしていました。しかし必ずしも全部読んでいる訳でもないようで、創竜伝やアルスラーン戦記から入ったという人の中には、初期のSF作品は購入し本棚に並べた時点で満足して開いてないという人もいました。
長くなってしまいましたが、別に私は「田中芳樹ファン=田中信者」と言うわけではありません。そうでない人も大勢知っています。あえて田中信者と呼びたいのは、まず田中芳樹の名前を掲げてそうでない人たちに強制したり迷惑をかけたりする人たちのことです。単純に作品を楽しむだけの人や、思っても他人に強制しない人を指してはいません。もっとも、最近では新しい作品が出ない為か、単に自分の年に合わせて周囲の年齢層も高くなった為か、田中ファンはいても田中信者と呼びたくなる人は見かけなくなりましたが。
以上が、私が「田中信者」という言葉を使う上での定義です。
ちょっと厳しい書き方ですいません。何か、話がとにかく何かの性にしようと言う風に流れているような気がして少しいらついています。すいません。
>一新人漫画家さん
エンターテイメントと言う意味でのお話は、私は仕立て屋さんと同意見なのでここでは省きます。(仕立て屋さん、ベルセルク私も好き^^)
「いい作品を作っても売れない、という作家の作品は絶対に使わない。そんなやつの書く物はたたが知れてる。面白くないから売れないんだ。自分で最高に面白いと思ってるだけなら同人誌と変わらないんだ。」
というのはある有名出版社の編集者の方が以前おっしゃっていました。そしてこうもおっしゃってました。
「どんなに名が知られていない作家でも、こいつは世の人に知ってもらわなければいけない、と思う人は出版社あげて応援するさ。何万という作品を読んでいる俺達をなお説得させるだけの何かがあればね。それをわからず、不平を言うだけの自信過剰なやつが多い。」
私は何度も言うように、堕落してるという確証があるなら田中氏を批判すればいいと言ってますし、作品の中の内容がおかしい部分は批判すればいいです。ですが、その批判をうれるならくだらない物を出版して、売れないからいい作品でも売らないなんて出版社に批判して欲しくないのです。
基本的なこというと、売れる物だけ売る売れない物は切り捨てる。資本主義の社会の中で当然な事ではないでしょうか?出版社だって商売、温情主義でやっていけるほど甘くはないでしょう。それでもなお、上記のようにいう編集者さんがたくさんいるんですよ。
田中作品がつまんない、くだらないと判断する人も多いでしょう。でも、これだけ売れてるのは何か引き付けられる物があるからなのでは?私はそれが個人個人違ってもいいじゃないかと言う事を言ってるんです。その個人個人のニーズにこたえるのも出版社の仕事だとも思いますし。
ここからは管理人さんもなんですが、私はここで田中作品の内容を検討している人も純粋にOVAなどのきゃらを好きで楽しんでいる人もレベルとして変わるなんてぜんぜん思いません。お互い楽しみ方は違えど田中作品をもとにして楽しんでるわけでしょ?
「本質を読み違えて・・・」と言うのがありましたが、どうしてそこまで田中氏側から見た言い方をするのでしょう?田中氏がいま現在拝金主義のふぬけじーさんになっていたとして、それを支える義務がファンにはあるんでしょうか?もちろん自主的に支えてあげたいと思うファンはそれをすればいいと思いますが、「自分なりに楽しんでるんだけどな・・・。」と言う人に「おまえは馬鹿だ!田中氏を支えないなんてファンとしてなってない!」と言うのでしょうか?そんなことを娯楽として楽しんでる人になぜ言う必要があるのでしょう?
管理人さんがおっしゃるように、田中氏自身が自分で言った事に当てはまるじゃないかとかそういう批判をするのはかまいません。(それが間違ってると思う時はそれはそれとして意見を言うと思いますが)ですが、別にその田中理論にファンを当てはめ、ファンを批判するのは成り立たないでしょう。田中思想なんて関係なくきゃらを楽しんでる人は、そんなことに共感してないかも知れないんですから。
ここでもう一度言います。田中氏自身が堕落したと言われるのはあくまで田中氏自身の責任です。ファンの責任ではありません。表現者が世に出したものを世の人がどう判断しようと、例え自分が意図していない方向だったとしても、そのことに甘え便乗する形でもたれきってしまうことは本人の責任以外の何者でもないです。自分の思わぬ方に進んだのなら軌道を修正する努力をすればいいんですから。ちょっと、冷静さを欠いてきたのでここでやめます。
>はむぞうさん
たしかに、そんな人がいたら嫌になりますよね^^;
その人たちは田中信者の称号がふさわしいと思います。反論の余地なしです(笑)
どのような形で小説を読み始めたか、はそれぞれ自由だと思う。しかし読者、もしくはファンと名乗る以上、そこそこ“深く”読むのが当然だろう。
私が不思議に思うのは、小説のミスに真っ先に気が付くくらい読み込むのが、“正しい”読者=ファンの姿ではないか。ミスに気が付かなかったら読みが“浅い”証拠だし、また知っていながらミスを見逃していたら、作品に対して不誠実であろう。
しかし『創竜伝』に限らず、どうして昨今の読者=ファンは、読み込みが足らないとしか言いようがない。そのくせ「ファンだ」と言うのは、ある意味で作品=作家を侮辱しているのにお気づきか。
理想論なら、否定派よりも先に、熱狂的ファンサイドから作品の矛盾点の問題提起が起こり、「しっかりして、田中センセーッ」と叱咤激励すべきじゃない? そういう自浄作用を経て、いい作品って生まれるんじゃないの。
石井氏が田中芳樹を逆恨みしている部分は多少あるとしても、本来なら氏の“仕事”は、純粋なファンたちがすべきものなのだ。つまり石井氏に反発する人たちも、ちょっとは石井氏を「逆恨み」しているんだけどねぇ。
無論昨今の作家は、先に書いたような読者の「愛の鞭」を受け止められないほど器量が狭いってのも、十分承知してますけども。
>速水さん
だから、何度も言うようですが「小説を深く読めるファン=良いファン」という風なことはぜんぜん考えてないのです。きつい言い方になりますが、そういうファンしか認められないというのは少し考え方が硬すぎるのでは?
読み込んでもなくファンと言うのは作家や作品を馬鹿にしていると言うのは、作家の側からの意見でしょう?自分が伝えたかった事を理解しないなんてこのえせファンどもめ~!って作者の方が言うのはわかるんです。(ただし、こんなこという作家がいたら、「あんたの文章に説得力がないからみんなの心に届かないんだろ、ば~か。」といって終わりくらいの程度ですが、)でも、なぜファンがそこまで作家の都合にあわせる必要があるのでしょう?自分なりに楽しめばいいではないですか。あとミスを見抜けるかどうかと言う話は、事実としての認識の誤りの事をおっしゃっているのか、思想その他についての認識の違いをおっしゃっているのか分からなかったのでここでは書かないでおきます。
長くなるのでここまで、では質問を残しておきます。OVAの銀英伝やアル戦、またはコミック化された田中作品にしか触れてない人は田中ファンと名乗ってはいけないのでしょうか?
余計な話
あくまで私のみの意見ですが、もし田中芳樹氏がここのHPをみた、またはファンの批判などをきいて作風をまたは持論を曲げるような事があれば(ただ、事実を勘違いしてるとこはいいけど)それこそ私は作家としての田中氏を軽蔑すると思う。それが、私は田中作品の内容についての意見を言わせてもらう事があっても田中氏個人をまたは田中ファンを批判しない最大の理由です。
以前「一新人漫画家」の名でカキコした者です。
改めてこんにちは。
satokoさん>
「だ~か~ら~」の、言いたい事は分かります。
以前も書いたように私もあなたの言う事は正論だと思います。
(個人的には嗜好は合いませんが。)
でも「みんなの心に届かないんだろ」と、
自分の仲間たちをさして「みんな」と言うところを見るに、
あなたも自分で思っているほど自分を相対化していませんね。
同じ言い方をさせてもらうなら、
「お前に読解力がないからわかんないんだろ、ばーか」
と言う言い方もできるはずです。
ちゃんと読み込めてる人もいるんですからね。
例えば小学生に太宰やゴッホが理解できなくても、
それは作家の能力が低いせいじゃないですから。
(ばーか・・、ね・・。嫌な言葉だ・・。)
仕立て屋さん>
あ、エンターテイメントについての考え方は
私も同じです。
私の言ったのは、「それくらいの覚悟が必要かも」というくらいの意味で(^^)。
「エンターテイメント性と作品性は両立できる」、
いい言葉ですね。
私も同感です。
ベルセルク、好きです(^^)。
ただしベルセルクなどの作者は、
信じられない不遇の時代を編集者と議論をして
闘いぬいて、ようやくブレイクした、
読者は「今」のその結果だけを見ているって事は
踏まえた方がいいかも(笑)。
だからこそ、過剰なまでの自信と信念がないと、
作家は安易な方に流されてしまうんです。
「編集者のイエスマン」じゃあれは作れませんよ。
たしか「銃夢」の作者も「ベルセルク」の作者も、
編集者とケンカしたり出版社変えたり雑誌が潰れたりなど、
いろいろあったと思います。
編集者も自分で思っているほど公平でもなく
自信過剰だったりもします。
結局、神ならぬ人間ですからね。
>TAKさん
あの~、伝えたい事伝わってるでしょうか?
正論ってどこの事を言ってるのでしょう?私から見れば、「よく読みこんでいるファン=良いファン、その他のいろいろな部分を楽しんでいるファン=良くない」みたいな考え方の方が正論(常識論?)であると感じてます。
私自身はどちらかと言えば、小説はぼろぼろになるくらい読む方ですし、小説の中から読み取れる作者の心理やそこに含まれた意味、メッセージなどを読む事が好きです。基本的な事を言えば同人誌で好きな小説なんかをぱろってたりするのはあんまり興味ないし、田中読本のように(あんまり読んでないからなんとも言えないが)田中氏個人をどうのこうのと言うような本は買う気もしない。実在の田中氏がどんな人物であろうと、作品中の中で感じられる田中氏に私は共感できればいいから、本人がどうだってかまわない(本来この話をしてたはずなのに)でもね、自分がこういう風だから他人がほかの物に熱中してるのを馬鹿だとか、蛇道だとか言う権利があるんですか?私は田中小説の中に出てきた歴史上の人物を調べたり、行きすぎた時には小説中に出てきたマキャベリズムだのユートピアだの調べて偉くいろんな哲学書読みまくってた時期もあり、結構いろいろな知識がつきました。だけど、単にきゃらを楽しんでいるファンより深く理解しようしたから私が偉いの?ぜんぜんそうじゃない。結局の所、どんなことであろうが田中作品をもとに楽しんでるやり方に変わりがあっても、それを「楽しむ」ということにおいてファンには善し悪しなどないです。(スポーツの本来の定義ににてるな~)別に深く読む事を反対したりしてるわけではないのです。私もそう読む方が好きですから。ただ、強制するなと言っているのです。
つまり
「その言い方ができるのならば、読み込む力がないんだろば~か、と返せる。」
なんて、ぜんぜんおはなしになりません。そういう作者側の都合をまたは自分が知的なファンであると自負している人の考え方を強制するなという事をいってるんです。
前にも書いたのですが、創作者が世に送り出した物を、世の中がどう判断しようが文句言えないでしょう?結局責任の帰する所は創作者の能力なのです。
大学の教授でよく、学界では高名な人物が大学の中では生徒から馬鹿にされているという話は良くあります。それはなぜか?理解できるひとにしか理解できない話をするからで、その内容がどれほど優れていようとその教授は学者としては立派だが教師としてはぜんぜんだめだという事になります。つまりひとりよがり。どんなに知識があろうとすばらしい論理があろうと相手に伝わるように説明できないのなら、教師としてはぜんぜんだめなんです。(そういうやつはおおいが)
それは作家にも同様の事が言えるのでは?
ちょっとはなしがずれつつあり、おかしくなってきてるのでもう一度言います。
作家が落ちぶれたり、つまらない作品をだらだらとだしたりするのはあくまで、作者の責任でファンのせいにするなと言う事が言いたいのです。ファンがどのような点に興味を持つかは自由であり、自分の思ったようにファンが考えてくれなかろうが、それはファンを説得させられなかった自分の責任なんです。普通ならその状態に満足しないならば、「今度こそ、これらのファンをも納得させれるような作品を作ってみせる。」くらいの考え方をするのがプロなのでは?いろんなファンがいる事も取り方でしょう?「くそ、馬鹿なファンどもめ、おれの高尚な理論が理解できないとはおろかなやつばかりだ。」って一人よがりに走った集大成が現在の田中氏の「創竜伝」での偏りまくった不満たらたら社会評論になったのでは?(そんな作品だからこそ笑い話程度でしか私は受け取らない)
こうなったのはファンが理解する努力をしなかったからだと、これを返して言う事もできるかもしれません。つまり、あんまり理解してくれないもんだからひねくれたと。でも、それはファンのせい?これが作家じゃなく自分の周りにいる人だと考えたら?単なるわがままな人物ですよね。つまり責任がどちらにあるか、理解して頂けるでしょうか?
>ゴッホや太宰を小学生が理解できないのは・・・
あの~、田中先生の話をしてるんですよね・・・。つまりファンは田中氏の言ってる事がとりあえず理解できる層の人が理解しようと努力しないとか、説得力が足りないとかの話をしてるんですよね・・・。一般論にしても、当然理解できる年齢層の人間が創作者の意図を汲む事のみがいい事かどうかと言う話をしてるんですが。
satokoさん>
すみません、
ちょっと誤解があったみたいですね。
私個人としては、
「いろいろなファンがいて、いろいろな楽しみ方がある。
それは貶められる事ではない。」
というsatokoさんの主張を、「確かに正論である」と感じています。
最初の私の書込みの趣旨は、
「こういう「現実」に対して田中氏はこういう選択をした。
これはエンターテイナーとしての選択なので
非難しようとは思わないが、
(私の好みだと、)それを非常に残念に思う。」
という事です。
「正論」と踏まえた上で、
「本当にそれでいいのだろうか」という
ここの書込みに共感したのです。
・・・という事なのですが、よろしいでしょうか。
石井さん>
出版などの事情と
ヤンの言う「民主主義」との比較には感心しました(^^)。
こういう言われ方は不本意かもしれませんけど、
やっぱり石井さんも精神的な「銀英伝の子供たち」の
一人なんじゃないでしょうか(^^)。
こんにちは、初めて書き込みさせてもらいますが、ロムチェックはしていました。
ファンについての論争面白く読ませてもらっています。ただ、僕はもともと銀河英雄伝説を読み出したのは戦艦などに興味があったからで、いまでも作品内の思想その他より戦艦や戦闘方法などを楽しんでいる僕としては全面的にsatokoさん支持です。
管理人さんや速水さんをはじめとする皆さんの意見も分からなくもないのですが、現実として僕みたいなファンが多くいる事を頭ごなしに否定されるのはちょっと辛いですね。
まあ、それだけでsatokoさん支持と言っているわけではなく、先の書き込みの「小説家が落ちぶれるのはファンの責任じゃない、自信の責任なのだ。」と言う部分が気に入っているのですが、ここで正論(すいませんtakさん、僕から見ても正論ってかんりにんさんたちがおっしゃってることの方が正論なもので)を述べてる皆様にききたいのですが、皆さんが言うように「ファンが田中氏をダメにした。」ってかなり田中氏をバカにしてません?
思春期の中学生が不良になったわけではあるまいし、環境のせいにするなんて一人の大人である田中先生に失礼ですよ。そんなことを言う人の方がよっぽどファンとして成ってないのではないかなとここまでの書き込みを見て思いました。
>管理人殿へ
過去ログをいろいろ見ているときに、以前管理人殿が「キャラクターを楽しんでいるだけの人はいいのですが。。。」と言う言葉を見かけた気がするのですが、どうなんでしょう?僕はこれを読んだときなかなか心が広井じゃないかと思ったのですが・・・
>takさん
おそらく製作者のかたなのでしょうが無いのかも知れないですが、結構失礼だろうと思うのですよね。管理人殿に「子供達」(意味不明、管理人殿の田中氏に対する逆恨みのことか?)とよんだり、satokoさんに「相対的じゃない」と言ったり(そのすぐ後に、個人の嗜好とかかいてませんでしたっけ?と言うより、ここまでの話で相対的である必要がよく分からないが)
でも、僕が一番気になったのは仕立屋さんに「今しか見てないで・・・」と言う部分です。
中学生の部活じゃないんですよ。作品を仕上げるまでの(ヒットするまでの)過程何て関係ないじゃないですか。プロなんですよ。結果だけです。まして、ファンにそこを分かってあげてくれ等とはちょっとちがうでしょう。それを言うなら現在の田中先生だって努力や苦悩、葛藤などあると思いますよ。そういうなら現在のたなかせんせいもみとめてあげなければいけないのでは?
どうも、はじめまして。
>管理人さんや速水さんをはじめとする皆さんの意見も分からなくもないのですが、現実として僕みたいなファンが多くいる事を頭ごなしに否定されるのはちょっと辛いですね
どうもsatokoさんともども勘違いをされているようですが、私は別に銀英伝の思想部分を深く読むのが至高の読み方だ、とは言っていませんよ。要はエンターテイメント小説です。どう読もうと勝手ですし、むしろ「思想部分が至高でキャラ好き設定好き読みをするのは邪道」などという意見があったら私はそれに唾棄しますね。思想について考えたかったら小説でなく思想書でも読むべきですし、こういう考え方が小説に評論を入れて何か知的なことをしたつもりになって悦に入る創竜伝的思想の温床になっているからです。
>皆さんが言うように「ファンが田中氏をダメにした。」ってかなり田中氏をバカにしてません?
>思春期の中学生が不良になったわけではあるまいし、環境のせいにするなんて一人の大人である田中先生に失礼ですよ。そんなことを言う人の方がよっぽどファンとして成ってないのではないかなとここまでの書き込みを見て思いました。
しかし、実際ダメになっているのは事実じゃないですか。最近の田中芳樹の言動を見る限り、とても「一人の大人」の態度とは思えません。馬鹿なことをしていたら、バカにされて当然です。
あと、なんかファンの捉え方がそれぞれでまちまちなような気がして、それが意見が噛み合わない原因になっていると思うのですが…
ファン(英fan)〈フアン〉スポーツ、芸能などの熱心な愛好者。また、特定の人物を狂信的に支持する人。
国語大辞典(新装版)小学館 1988.
ちなみに私の中では、田中ファンというとはむぞうさんの言われるところの田中信者に近いものがあります。さすがにあそこまで強烈ではなかったですが、あの方向を向いているファンはたくさん見てきました。ネットでアンチ田中芳樹論を見ると、必ずやり玉に挙げられているのがこの手のファン達です。
ちなみに、私の今までのファンに関する言説は、こういうファン達に向けられたものですね。
とりあえず、それぞれのファン像というものを表明するところから始めた方がいいのではないでしょうか?
>管理人殿に「子供達」(意味不明、管理人殿の田中氏に対する逆恨みのことか?)
あの~(^^;)、これってよくサブカル表現で使われる「~チルドレン」という意ではないですか?
ちなみに私も「銀英伝の子供たち」だと思いますよ。一時期とはいえ、あれだけ影響を受けたものがゼロになるわけがないですから。
思想は丸飲みするものではなく、良質な部分をかみ砕き、駄目な部分は吐き出して反面教師にするものだと思います。そういう意味では、銀英伝は私の中に血肉としてまだあります。創竜伝はほとんど反面教師ですけど(笑)