アルスラーン戦記設定擁護論

作品世界の設定&国力分析
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コンテンツの総収録投稿数51件の内、34~51件目の投稿を掲載

収録投稿34件目
board1 - No.1484

実在のトゥラーン人

投稿者:はむぞう
1999年07月08日(木) 17時10分

偶然見つけた本に、トゥラーン人の記述がありました。実在した民族だったのですね。昭和53年に発行された「シルクロード百科」という本です。シルクロードと言ってもイラン、イラクあたりの歴史や風俗がメインに書かれた本です。

この本によると11世紀のササン朝ホスロー1世の時代に編纂された「シャーナメー」(シャーは王、ナメーは書を意味する)というペルシアの「古事記」とでも言うべき民族叙事詩に登場しているそうです。このなかで遊牧民は「トゥラーン」と呼ばれ、定住する人「イラン」と数々の戦闘をしたというエピソードが記されているということです。

そして、その末裔は現在のペルシア語で「クゥーチ」と呼ばれているそうです。ベルベル族やバクティアリ族、シャーサヴァン族など多くの遊牧民の総称です。今は女が食事とテント張りを、男は女と子供を守ることを掟とし、男女平等な社会であるようです。しかし昔話の時代には、女たちが男たちを牛耳っていたことを示す表現が残っているそうです。これを参考に考えると、アルスラーン世界のトゥラーンが16万もの遠征をしたのも、実は陰に王より強大な権力を持つ影の女性の影響があったりして。でもそうすると今まで考えていた世界観がひっくり返ってしまいそう。こじつけるのは無理すぎるだろうなあ…。

それとトゥラーンの産業として今まで忘れていたものが一つ。それはペルシア絨毯です。もともとは遊牧民の移動式住居の折りたたみ式の床が原点で、現在に至るまで遊牧民の有力な収入源でもあります。高価なものというイメージから、アルスラーン世界ではパルスあたりの産業かと思っていたのですが、言われてみればそうかと納得してしまいました。考えてみれば遊牧民が絨毯を織るほうが自然ですよね。材料になる羊毛は飼っている羊からいくらでも採れるし、必要性からいっても当然ですし、定住を目的とする建物では床がなくて地面が剥き出しなんてことはないでしょうから。すると女と子供と老人だけの集団になっても、細々となら食べていけるような気がしてきた…。

ううむ、しかしこれだけでは16万もの遠征での採算性が説明できない。

収録投稿35件目
board1 - No.1485

アルスラーン世界についてレスなど

投稿者:はむぞう
1999年07月08日(木) 17時12分

> アルスラーンが王族であることを多少差し引く必要があるでしょうが、これらからの記述から、パルス国では小麦と羊肉が主食である可能性が高いように思われます。日本の戦国時代をある程度参考にしたにもかかわらず、米はほとんど出てきません(T_T)。また、やたらと葡萄酒がでてくることから、葡萄の生産もさかんだったのではないでしょうか。

>あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に”乾”とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。

>ところで、私は昔トルコを旅行したことがあるのですが、その経験からみると、アルスラーンに出てくる食事はトルコ料理そのものであると思います(キョフテなんてそのものの料理名も出てくるし)。葡萄を多用するのもトルコ料理の特徴のひとつですね(葉っぱまで香りづけに使うくらい)。トルコとイランは隣国ということで、同じような食文化なのでしょうか。
 とりあえずパルスとイランが非常に似通った環境にあるとして、イラン料理ってどのようなものなのでしょうね。

この小麦と羊肉が主食というのは、ほぼ正しいようです。前述の書き込みで書いた本のなかに、イラン・イラクを中心とするシルクロード周辺の国々の伝統的な食事についても記述がありました。

まず主食はナンです。小麦粉(日本の感覚では強力粉)と水と塩少々を混ぜ、耳たぶくらいの硬さにし、1cmくらいの厚さにのばしたあと、穴を掘っただけのようなかまどの壁に貼り付けて焼いたものです。現地の人たちはこれを食べないと、どんなご馳走がでても納得しないとまで言われているそうです。

次に羊肉のスープ。羊肉とナスや玉ねぎなどの野菜を煮込み、ヨーグルトをかけて仕上げたもの。

そしてシシカバブ。羊肉を適当な大きさに切り、串に刺して塩を擦り込んだあと、羊の脂で焼いたもの。通常日本で手に入る味付ラムなどとは、桁外れの強烈な臭いらしく、筆者は我慢大会ものだったと書いていました。

パラオという米料理もありました。これがヨーロッパに伝わってピラフになったと言われる料理で、米の種類が違うことと肉が羊であること以外はピラフとそっくりらしいです。ナンに次いでよく見かける食べ物らしいです。

このほか油で焼いたナスにヨーグルトをかけたものや、ヨーグルトを水で割った飲み物があるようです。遊牧民が多いから乳製品が多く使われていたのではと感じました。それにオレンジやメロンなどの果物も豊富にあるそうです。乾燥した土地でとれる(それしかとれないともいう)果物ばかりだから、はっきりした気候区分はわからないけど乾燥ぎみの気候のようです。イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。

> 私が考えたのは替え馬の数自体を減らす方法です。以前はむぞうさんの投稿No.1184でおっしゃっていた装蹄技術で少しは減らせないかとも考えたのですけど、これでどのくらい減らせるでしょうか? せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなるのでしょうけど。

ううむ、装蹄技術で実際に何頭まで減らせるかは私にもわかりません。モンゴル軍はこの技術がなかったために1人6頭もの馬を連れていたというけど、蹄以外にも足の骨や腱や腰を痛める馬も多い上に、替え馬には非常食や万一の際の武器や防具の補修材としての意味もあったというから「0」にはならないでしょうね。おそらく半分の3頭くらいかとも思ったのですが、5巻のP129で「替え馬をふくめ10頭、それに4頭立ての馬車を用意せよ」というアンドラゴラスのせりふがあり、馬車にアンドラゴラスとタハミーネと部下が1人そして残りの5人が馬に乗ったとあるので、ここから想像すると1人2頭になるかと思われます。これは小人数だったからで、集団になると2人につき3頭でよいというように考えれば24万頭で足ります。これくらいなら大丈夫かなと、私は思うのですが。しかし20万なら4人で5頭という感じでしょうか。そこまで減らすと足りるかどうか、心もとないのではと思います。でもあとは略奪で補うとすればやれそうな気もします。

>騎馬兵(初期の段階は兵が直接乗馬するのではなく、戦車を付けて兵がそれに乗る馬戦車)の登場はいままでの戦争を一変させ、広大な国土の占有も可能になり、それが世界帝国を築く原動力になりました。

これは脱線してしまう話ですが、乗馬が先か戦車が先かについては、まだ定説はないようです。少し前までは戦車が先というのが有力だったらしいのですが、今は乗馬が先という方も盛んなようです。理由としては実用に耐える耐久性と性能をもつ車軸をつくる技術の発明にかかわるようです。またスキタイ人の騎兵に脅かされたギリシア人が、彼らをモデルにケンタウロスという怪物を神話に登場させたともいわれていることからです。でも戦車の絶大な戦略的価値は間違いないようです。揚げ足を取るような余談ですいません。

>常設軍といえば長期にわたって訓練し何も産まない金くい虫とばかり思っていましたが、実は、すでに良質に訓練済みの傭兵奴隷を必要に応じて”売り買い”すれば済むだけなんですよね(それには金が必要なわけですが、遊牧国家では構造的に金は潤沢なのでこのやり方は適当といえる)。逆にいえば奴隷っていうのがまさに必要に応じて売り買いされるモノだったということでしょう。また、遊牧に対してなんだか遅れているような感覚を持っていて、支配者になっていても尚、遊牧し続けるというのはなんだか滑稽だなぁという気持ちを持っていました。したがって、彼らが、実は誇り高く優れた戦闘集団であり、平時でも遊牧に従事していればよかったという考えにはまったく及びませんでした。パルス人が「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」というのもなるほど、という感じです。支配者層の同朋が遊牧兼、メッセンジャー兼、警察、偵察、戦士の役割を担ってくれれば、国家の運用は効率的でしょう。

これはまさに目から鱗のような気がしました。なるほどと思う点もおおかったのですが、でも定住していて遊牧だと少々苦しい点もないでしょうか? 草を食べ尽くさないように移動していくのが遊牧であるし、ゾット族が遊牧民だという記述もあることから(あえて遊牧民と書いている)パルスの自由民の一部が遊牧していたと考える方が、自然ではないでしょうか? パルス人の自由民全部が遊牧民なら、ゾット族が云々という書き方はないのではと思うのですが。また定住しての牧畜となると中世ヨーロッパの方法に近くなるのではと思うのですがいかがでしょうか。周囲の野山の草がなくなると繁殖用以外の家畜を大量屠殺して燻製やソーセージなどを作り、また草が生える頃に数を増やすようにするというものです。パルスならそのときに必要な香辛料も、ヨーロッパよりは簡単に手に入るでしょうし。

高校時代の教科書を開いて気づいたのですが、ササン朝ペルシアというのはイラン南部の農耕民族が、イラン北東部からきた騎馬民族が建てた国家であるパルティアを滅ぼして建てた国だったんですね。国土はどちらもほぼ同じですが、パルティアのほうの当時の地図をみると「エクバターナ」や「アトロパテネ」などの地名が登場していました。でも各国の配置をみると、その時代より元の時代のほうがしっくりいくように見えます。パルスがイル汗国、トゥラーンがキプチャク汗国、チャガタイ汗国がチュルク、デリー=スルタン朝のインドがシンドゥラ、ビザンティン帝国がマルヤム、マムルーク朝がミスルです。インドとの国境がインダス川でカーヴェリー河とも一致すると思います。まあ架空の世界を現実の世界に当てはめようとするには無理があるのは承知してますし、だから何だといわれればそれまでですが…。

収録投稿36件目
board1 - No.1489

商業国家パルス王国と、まとめレス

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月09日(金) 02時30分

<パルスのアトロパテネ会戦にいたる数年間の戦乱期では運用兵数を見てもほとんど総力戦(民主国家でないのでほんとの総力戦とは言えませんが)ですよね。それを同時に、しかも複数の敵対国を向こうにまわして数回繰り返していては、大いにその国力を剃いだことでしょう。しかし、あの数年で常に勝利していることはほとんど奇跡のようです。さすが、ナルサスさま~~ってとこですか。>

 これは純粋に兵力と国力が相手国よりも上だった事、そして地の利があった事が勝利につながったのでしょう。アンドラゴラス三世は無能ではなかったという事です。
 また、アトロパテネの会戦まででナルサスが活躍していたのは、パルス歴315年の三カ国同盟軍を撃退した時だけですから、別にナルサスの活躍で常に勝利したのではないんですね。
 余談ですが、上記の三カ国同盟軍侵攻の年はパルス歴315年、物語が始まるのはパルス歴320年で「5年前」の設定のはずなのに、そうなっているのは1巻と2巻だけで、3巻以降は「3、4年前」という設定になってしまっています。ここは単なる誤記でしょうけど、かつては結構悩んだものです。

<遊牧国家の支配構造を考慮にいれますと、上記のようなパルスにおける国家運用に対する冒険風ライダーさんの考察は、実に理にかなっているように思われます。おそらく、そのとおりなのかもしれません。ただ、都市規模と総人口については引き続き調べて見ます。>

 地方都市10万の設定をさらに補強するための追加裏設定をまた考えてみました(^_^)。
 パルス国には奴隷がいますよね。この奴隷の数はどのくらいだったのかという問題がありますが、私はだいたい全パルス人口の25%ほどではなかったかと考えています。というのも、奴隷を持つ事ができる人はある程度の金持ちだけですし、あまりにも奴隷が多いと非生産的になってしまいます。奴隷貿易による補充もできるのですし、奴隷の使いつぶしというのもあったでしょうしね。
 この奴隷の数を計算してみると
20000000 × 0.25 = 5000000
これをエクバターナに40万、ギランに15万、そして地方都市ひとつにつき4万1500、残りをパルス軍歩兵隊に配備するという解釈はどうでしょうか。ギリシアのアテネでは市民15万に対して奴隷が10万であったという話を聞いた事がありますし、地方都市には諸侯と貴族と商人が住んでいるという設定にすれば、それだけの奴隷がいるという設定も不自然ではありません。裕福な商人も奴隷を持っているでしょうしね。ギランの商人シャガードも奴隷を持ってたし。
 パルスでは国王自らが「大陸公路の守護者」と名乗るほどですから、商人の地位もかなり高かったのではないかと考えられます。金の単位が「金貨(デーナール)」「銀貨(ドラフム)」「銅貨(ミスカール)」と設定されているくらいですし、商業活動がさかんだったのもうなづけます。私はパルス国を「商業国家」と考えていたくらいですしね。

<これに関しては、アーリア系の流れを汲むペルシア人がもとになっているパルス人自身が遊牧に従事していたとするなら、多分、馬の輸入はしないでしょうし、調教もトゥラーン人よりよっぽど上手だった可能性が高いです。おそらく馬の輸入はなかったのではないでしょうか。>

 これは失敗かな~(T_T)。エクバターナでトゥラーンの隊商が馬を商品にしているという記述があるから「ひょっとして」と思ったのですけど、これではダメですね。あと考えられるの裏設定は「トゥラーンの馬は体格がよい」というのがありますが、これも難しいでしょう。
 エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。

<あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に"乾"とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。>
<このほか油で焼いたナスにヨーグルトをかけたものや、ヨーグルトを水で割った飲み物があるようです。遊牧民が多いから乳製品が多く使われていたのではと感じました。それにオレンジやメロンなどの果物も豊富にあるそうです。乾燥した土地でとれる(それしかとれないともいう)果物ばかりだから、はっきりした気候区分はわからないけど乾燥ぎみの気候のようです。イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。>

 葡萄酒の主要な輸入先としてはマルヤムでしょうけど、葡萄は輸入以外にパルス国内で生産されているのもあるでしょうね。パルスの村にさえ葡萄酒があるくらいですし。生産地はマルヤムに近いパルス北西部~北部地域でしょうか。このあたりが気候的・地理的にも妥当だと思うのですが。

<この本によると11世紀のササン朝ホスロー1世の時代に編纂された「シャーナメー」(シャーは王、ナメーは書を意味する)というペルシアの「古事記」とでも言うべき民族叙事詩に登場しているそうです。このなかで遊牧民は「トゥラーン」と呼ばれ、定住する人「イラン」と数々の戦闘をしたというエピソードが記されているということです。>

 「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
 それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。
 ところでササン朝は651年に滅んでいますので「11世紀」というのは間違いです。

<それとトゥラーンの産業として今まで忘れていたものが一つ。それはペルシア絨毯です。もともとは遊牧民の移動式住居の折りたたみ式の床が原点で、現在に至るまで遊牧民の有力な収入源でもあります。高価なものというイメージから、アルスラーン世界ではパルスあたりの産業かと思っていたのですが、言われてみればそうかと納得してしまいました。考えてみれば遊牧民が絨毯を織るほうが自然ですよね。材料になる羊毛は飼っている羊からいくらでも採れるし、必要性からいっても当然ですし、定住を目的とする建物では床がなくて地面が剥き出しなんてことはないでしょうから。すると女と子供と老人だけの集団になっても、細々となら食べていけるような気がしてきた…。>

 これはトゥラーン人が誇り高い事と、大規模な飢饉が発生して緊急の遠征が必要になったという解釈をすれば何とかなるのではないでしょうか? トゥラーン軍が6巻で壊滅した後、商人に足元を見られて相手の言い値で売らざるを得なくなったから、8巻のヒルメスの誘いに乗ったという解釈もできますしね。強欲な商人ってどこにでもいますから(^^;;)。

<ううむ、装蹄技術で実際に何頭まで減らせるかは私にもわかりません。モンゴル軍はこの技術がなかったために1人6頭もの馬を連れていたというけど、蹄以外にも足の骨や腱や腰を痛める馬も多い上に、替え馬には非常食や万一の際の武器や防具の補修材としての意味もあったというから「0」にはならないでしょうね。おそらく半分の3頭くらいかとも思ったのですが、5巻のP129で「替え馬をふくめ10頭、それに4頭立ての馬車を用意せよ」というアンドラゴラスのせりふがあり、馬車にアンドラゴラスとタハミーネと部下が1人そして残りの5人が馬に乗ったとあるので、ここから想像すると1人2頭になるかと思われます。これは小人数だったからで、集団になると2人につき3頭でよいというように考えれば24万頭で足ります。これくらいなら大丈夫かなと、私は思うのですが。しかし20万なら4人で5頭という感じでしょうか。そこまで減らすと足りるかどうか、心もとないのではと思います。でもあとは略奪で補うとすればやれそうな気もします。>

 非常に無理をいってしまったようですいません。「せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなる」と言った理由は、30万では多すぎると思ったので20万にしたという全く単純かつ適当な理由でありまして(-_-;;)。
 まあ24万頭にまで減らせれば、短期決戦と掠奪で何とかなるかもしれませんし、「風のごとく進撃し、風のごとく去る」というのが完璧に実行できれば採算がとれる利益があげられたかもしれませんね。あんなにずるずると長期戦に引きずり込まれた上に壊滅したのでは話になりませんが。
 あと主食についての詳しい説明、ありがとうございます。

 それにしてもアルスラーン戦記、結構設定考えてあるんだな~。私が屁理屈こねられるのも設定が充実しているからですしね(^^)。

収録投稿37件目
board1 - No.1490

食事の引用について

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月09日(金) 02時32分

<やはり、アルスラーンが王族でエエモン食っているのは考慮するべきだと思います。たとえば、江戸時代の大名の食事を現在再現すると白米のご飯なんかが出てきて「これは伝統的な日本食だなぁ」というものが出来上がるでしょうが、当時の庶民が食べていた主食の実体は雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)なわけで、目に見える食文化にとらわれ過ぎると実体を見誤る事になりかねないと思います。>

 「アルスラーンが王族ゆえにエエモン食えた」という記述は、私が引用した記述の中では
アルスラーン戦記2 P22~P23
アルスラーン戦記6 P38~39
の二つぐらいで、その他の引用はアルスラーンが王族であるということとはあまり関係ないと思います。「アルスラーン戦記1 P73」の食事は「銀貨一枚にもおよびませんな」という記述がありますし、その他の引用は酒場や村での食事や遠征中の食事、兵士や捕虜に対する食事の引用ですので。おまけに田中芳樹の作品の御多分にもれず、主人公アルスラーンは贅沢好きではありませんし。
 それに引用した食事の素材がパルスで収穫されたものである事は間違いないのですから「こういったものがパルス国内で生産されている」という判断材料になりますし、そこから頻繁に出てきている素材を「主食である」と推理することは妥当であると思いますが。
 あと余談ですが、江戸時代の庶民が食べていた主食の実体が雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)というのはかなり眉唾ものではないでしょうか。江戸時代の石高は、農地開発や農業技術の発展で、表面には出てきていませんがかなり伸びているんです(表面に出ている石高は統計の問題か何かで江戸時代初期のままだったようです)。以前主張したように戦国時代で1800万~2000万石ほどの収穫があり、江戸時代の日本の人口が2000万人ほどですから、米は全人口を食べさせられるだけの量があるはずなんですね。それなのに一般庶民が雑穀を主食にしなければならない理由がどこにあるのでしょうか。農民以外の人口は最大でも300万人以下ですから、彼らが全部の米を食べきれるはずがありません。当然余った米は商人を介して一般庶民の方へまわったはずです。飢饉のために備蓄するにしても、1700万石以上の米を備蓄して何になるというのでしょうか。来年はまた同じ量の米が収穫されるのですよ? よほどの飢饉でもないかぎり。
 雑穀を食べていたのも全くウソではないでしょうが、「雑穀が主食」というのは「江戸時代=暗黒時代」というデマゴギーのもっともたるものだと思います。

<パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。>

 あの比較で強調したかったのは「狭い日本の土地でもあれだけの収穫ができるのだから、それより大きい面積を持つパルスならば充分に自給できるだろう」ということだったのですが。
 それと日本の場合、「近世」というのは大体定義できるのですが(だいたい江戸時代ですね)、「中世」というのは具体的にどこら辺の時代を指すのでしょうか? 確か戦国時代(特に初期)も「中世」という解釈があったようなのですが。
 それに大化の改新あたりの時代は、日本の場合どう見ても「古代」に属するのではないでしょうか。私的には「遣唐使の廃止」か「鎌倉幕府の成立」あたりから「中世」に入ったのではないかと思うのですが、それにしても日本の「中世」は範囲があいまいすぎますね。管理人さんは日本のどの時代の、何の政治体制が「中世国家」であると定義しているのでしょうか?

 それにしても管理人さんは結構外国旅行しているのですね。私は日本を出た事は一度もないので、うらやましいものですな~(^^)。
 それから「アルスラーン戦記の食卓」を引用したのは、以前歴史を勉強していた時に「昔の生活を知るためには、その当時の食卓を知る事が最大の近道である」というのがあったので、それをアルスラーン戦記に引用してみたのですよ。結構重要なテーマかと思ったもので。「アルスラーン戦記の設定資料集」でもあれば簡単なのですけど。田中芳樹もくだらんガイドブックよりもこちらの方に力をいれればよいものを。まああの遅筆じゃ無理か(^_^;)。

収録投稿38件目
board1 - No.1491

遊牧民と食生活論

投稿者:本ページ管理人
1999年07月09日(金) 03時28分

 とりあえず、あくまでもモデルであり同一視は出来ないと言う前提の元に、イラン中近東の風土についてわかったことを挙げてみます。

 イランのアーリア系が遊牧民であるという仕立て屋さんの指摘はその通りです。ですが、中近東の遊牧民は主にサウジに展開するベドウィン族を除いてすべて半農半牧であることは注目に値します。

 その農業ですが、今までの議論だと「パルスは、まあ、農業に使える土地もあるけど、ほとんどが砂漠や高山といった農業に適さない土地で…」という消極的意見がほとんどでした。しかし、考古学的に調べてみると、この地域(特にイラン南西部の「豊穣の三日月地帯」と呼ばれる地域。あのチグリス・ユーフラテス流域であり、それ以外の丘陵地もそれなりの降水量があります)の農耕は世界のすべての他の地域に先駆けるものであったようです。また、植相の面ではエメル小麦、アインコルン小麦、六条小麦、二条小麦が野生していた(原産)ところだと言われ、ムフロン羊や山羊が野生で生息していたと言われています。つまり、小麦栽培に関しては発祥の地であり、小麦を粉化する技術が生まれパン食が誕生したのもメソポタミアでした。この地域では降雨や降雪が多いのが冬期なので、冬作作物である麦は農作にも適していたようです。また、この農作と同時に山羊や羊の家畜化が始まりました。ともあれ、この技術が伝播したものが、後の地中海農耕文化と言うことのようです。
 さて、この限られた豊穣な農耕地を取り損ねたものが遊牧民化したところから、半農半牧の文化が誕生しました。小麦栽培はもともと牧畜を伴って発展したと言われています。代表的な半農半牧文化を持つイラン東部のチャハールアイマク族の場合、家畜を畑耕に使い、脱穀は穂の上を家畜に歩かせ、麦刈り後の畑は放牧地へ使い、そこでの家畜の糞が肥料になるという、農耕と牧畜が見事に絡み合い回転する文化を持っていますが、これはそれが現存している姿と言えそうです。

 このように、イランでは小麦栽培と遊牧を両立させる半農半牧生活がメインであり、それがどちらに重きを為すかによって農耕民と呼ばれたり遊牧民と呼ばれたりしてきたということが、社会構造の大前提になります(私が大雑把なんじゃないですよ(^_^;)ホントにこうなんですって)。

 余談ですが、この半農半牧説の論拠はイランの遊牧の家畜が牛、羊、山羊といった、農耕可能な土地でなければ飼えないものであることが挙げられます。大げさに言えばこれらの家畜は三日草や水を欠かすと乳も出さず、荒涼とした土地では遊牧が出来ないわけです。一方、遊牧専門のベドウィン族のテリトリーは砂漠であり、家畜はラクダです。ラクダはしばらく水や草の不足する土地でも安定した乳量が期待でき、むしろ伝染病の心配がいらない分だけ乾燥した砂漠が適しているのです(ちなみに現在は遊牧禁止政策や農業の近代化によってベドウィンも半農半牧化しているということです)。

>米

 中東では「料理の王様」とよばれ、大変なご馳走なようです(あまりとれないのでしょうから)。基本的にはハレの日の食べ物ですね。その為かかなり調理にはこだわりがあり、日本のような炊き干し法とタイのような湯取り法といった二種類の炊き方があります。もっとも、スープで炊くピラフが基本です。余談ですが、クウェートなどでは近年米食が盛んになる傾向があるらしいですね。日本でパン食が増えているのと全く逆のあこがれといったところでしょうか。

>肉
 ケバブやシチュー、カレーのように、我々日本人からすると肉食のイメージがあります。しかし、これは現在の考えであって、食糧事情が発達していなかった当時、肉と乳製品のどちらを主食にしていたかと言えば、とうぜん後者になります。効率の問題です。遊牧民にとっては家畜は命綱であり、一定数が確保できるまでは家畜を手放すことはありません。彼らが肉食をするということはやはりご馳走という意味でハレの日の食事であるか、逆にせっぱ詰まった非常食であることになります。
 これは、中近東に限ったことではなく、ヨーロッパでも新大陸が発見されてアメリカ・オーストラリアでの大規模牧畜が誕生するまで現在のような肉食様式はありませんでした。

 というわけで、もしパルスでコメ・肉が贅沢品でないのであれば、パルスとイランの間には何かしらの差違があるものと考えられますね。

収録投稿39件目
board1 - No.1492

RE.1490

投稿者:本ページ管理人
1999年07月09日(金) 04時05分

>エクバターナでトゥラーンの隊商が馬を商品にしているという記述があるから「ひょっとして」と思ったのですけど、これではダメですね。あと考えられるの裏設定は「トゥラーンの馬は体格がよい」というのがありますが、これも難しいでしょう。
> エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。

 これは参考になるかわかりませんが…
13世紀に教皇の外交使節団としてタタール・ハーンへの親書を携えた修道士カルピニは、モンゴルの役人から「過酷な旅にはヨーロッパ産の馬を使うな。ヨーロッパ産の馬はすべて倒れてしまうはずだ」と忠告されています。
『雪は深く、ヨーロッパの馬はタタールの馬とは違って雪の下から草を掘り出すすべを知らな
い。タタール人は藁も干草も飼葉も蓄えていないため、道中、馬の飼料は雪に埋もれた草しか
ないのである。そこでわれわれはモンゴル人の助言に従うことにして、下僕二人をつけて、愛
馬に別れを告げた。
われわれは駄馬と付添人を快く提供してもらうために、モンゴルの役人に贈物をしなければ
ならなかった。』
 パルスの馬とルシタニアの馬を同列に見ることが出来るかは不明ですが、モンゴル(トゥラーン)の馬には付加価値があったと考えられそうです。

>江戸時代の庶民が食べていた主食の実体が雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)というのはかなり眉唾ものではないでしょうか。
>雑穀を食べていたのも全くウソではないでしょうが、「雑穀が主食」というのは「江戸時代=暗黒時代」というデマゴギーのもっともたるものだと思います。

 まあ、「農民は土や虫を食ってた」といわんばかりの進歩史観にうんざりする気分はわかりますが、コメが日本の主食から日本人全体の主食になったのは戦後の4、50年ことですよ。

>管理人さんは日本のどの時代の、何の政治体制が「中世国家」であると定義しているのでしょうか?

 辞書で調べたら「封建制前期」が中世と言うことで、鎌倉時代から室町時代ということのようです。

収録投稿40件目
board1 - No.1495

訂正と馬について

投稿者:はむぞう
1999年07月09日(金) 20時37分

> 「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
 それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。
 ところでササン朝は651年に滅んでいますので「11世紀」というのは間違いです。

これは失礼しました。考えてみれば11世紀にササン朝があるはずがないのですよね。失敗失敗…。よく読んでみたら、ササン朝のころから度々いろんな書がつくられていたのを10世紀の詩人ダキーキーがまとめ、11世紀のフェルドゥシーが完成させたとありました。一時にできたのではなく何百年もかけて出来たものだったのですね。
で、実在の「トゥラーン」の黒テントの遊牧民クゥーチはアラビア語ではベドゥインと呼ばれているようです。最近の逸話では、1950年代のイラン政府軍との戦いの際、政府軍の戦車が乱射しながら500mまで近づいたとき、戦車の小さなのぞき窓に向けて一発だけ銃を発射しミスをしなかったといいます。

> 葡萄酒の主要な輸入先としてはマルヤムでしょうけど、葡萄は輸入以外にパルス国内で生産されているのもあるでしょうね。パルスの村にさえ葡萄酒があるくらいですし。生産地はマルヤムに近いパルス北西部~北部地域でしょうか。このあたりが気候的・地理的にも妥当だと思うのですが。

これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。

>エクバターナでトゥラーンの隊商が馬を商品にしているという記述があるから「ひょっとして」と思ったのですけど、これではダメですね。あと考えられるの裏設定は「トゥラーンの馬は体格がよい」というのがありますが、これも難しいでしょう。
> エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。

> パルスの馬とルシタニアの馬を同列に見ることが出来るかは不明ですが、モンゴル(トゥラーン)の馬には付加価値があったと考えられそうです。

馬の品種についての特徴をかんがえてみたのですが、アルスラーンの世界にそのまま当てはまるかは疑問ですが、参考までに書いてみます。

バシキール。原産はロシアのウラル地方。体高140cm(これは地面から首の付け根の骨までの高さ)駄馬、輓用、乗馬ならびに肉・乳および衣服の素材供給用として飼育改良された。どんなに過酷な気象条件下でも生活できるという点において世界で最も頑丈な馬である。これはトゥラーンの馬に近いのではと思われます。

カスピアン。原産はイラン。体高100~120cm。アラブより古い種で、実在するなかでは最も古い。アラブの原形になったと考えられている。非常に従順でおとなしく、子供でも牡馬を扱うことができるほどである。
アラブ。原産は中近東。体高142~150cm。サラブレッドよりやや小さい感じである。世界中で最も美しいといわれる。また世界中の品種の大部分に影響がある。何千年もの育種の歴史がある。
この2種類がパルスの馬に近いのではと思われます。

ルシタニアの馬については、ヨーロッパは馬の品種があまりにも多すぎて、もう少し時間をかけて検討してみないとわかりません。特にイギリスあたりでは品種改良が趣味なのかと思えるくらいに多く、性質もかけ離れて違うものも多いです。どなたかわかった方はご教授ください。

参考ついでに馬の食べる量です。これは競走馬ではなく、馬術競技用の馬にあわせた数字になっています。とはいっても現代の馬術用の馬たちは栄養過多ぎみなので、6掛けから8掛けくらいで妥当かもしれません。ちなみに500kgの成馬1頭分として計算してあります。

 ヘイキューブ(牧草を干して固めたもの5cm角くらい) 6.7kg
 皮付大麦                        1kg
 フスマ                         750g
 乾草                         3.6kg

つまり1日で約12kgの餌が必要となります。

また足元を保護する為の敷材
 オガコ    1年間で4立方メートル

必要とする面積
 馬小屋    3.6m×6.3m(7坪)
        半分は馬房、半分は道具などを保管する為のスペース

 放牧場    約300坪
        でもこれは遊牧しているとすれば不要でしょうね。
        それに数頭同時に放すことも可能だし。

また馬は草を食べるといっても、雑草の中には食べると中毒を起こしてしまう種類もあるので、注意することも必要になってきます。でもこれは野生からほどとおいサラブレッドだけの話で、アルスラーン世界の馬たちにはあてはまらないかもしれません。

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board1 - No.1499

アルスラーン戦記の新たなる疑問と、まとめレス

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月11日(日) 02時24分

<まあ、「農民は土や虫を食ってた」といわんばかりの進歩史観にうんざりする気分はわかりますが、コメが日本の主食から日本人全体の主食になったのは戦後の4、50年ことですよ。>

 ちょっとその辺は暴言になってしまってましたね。すいません<m(_)m>。あの進歩史観は戦前のメチャクチャな記述と並んで嫌いだったもので。
 しかし私のアルスラーン戦記の食卓の引用と主食の推理は、管理人さんの言う「江戸時代の大名の食事をもって『これが日本の主食』と断定している」というようなものではありませんよ。アルスラーンが王族である事は考慮しましたし、庶民レベルの食事もかなりあったうえ、そのあたりにも「パン」「麦酒」「肉を主体とした食事」といったものがあったからこそ「小麦と羊肉が主食である可能性が高いと思われる」と主張したのですから。
 あの「江戸時代の大名と庶民」の例との比較はちょっと違うと思います。

<ケバブやシチュー、カレーのように、我々日本人からすると肉食のイメージがあります。しかし、これは現在の考えであって、食糧事情が発達していなかった当時、肉と乳製品のどちらを主食にしていたかと言えば、とうぜん後者になります。効率の問題です。遊牧民にとっては家畜は命綱であり、一定数が確保できるまでは家畜を手放すことはありません。彼らが肉食をするということはやはりご馳走という意味でハレの日の食事であるか、逆にせっぱ詰まった非常食であることになります。>
<というわけで、もしパルスでコメ・肉が贅沢品でないのであれば、パルスとイランの間には何かしらの差違があるものと考えられますね。>

 米に関する記述が全くないので(ピラフあたりは米かとも思ったのですが否定されてしまったし)米は間違いなく贅沢品なのでしょうけど、肉に関しては、パルスとイランとではやはり差異があるのではないでしょうか。「鶏肉のシチュー」だの「羊肉のシチュー」だのといった記述がありますし、エクバターナの酒場でもやたらと肉を使用した料理がでてきています。エクバターナの酒場は商人向けの酒場ではあるみたいですけどね。
 余談ですが、隣のシンドゥラ国でカレーの記述がありますので引用してみましょう。

アルスラーン戦記3 P186
<「やれやれ、辛いだけのシンドゥラ料理と縁がきれてありがたいものだ。もう十日も、あんな料理を食べていたら、舌がばかになるところだった」
 ギーヴが毒づくと、ナルサスが苦笑しつつうなづいた。やたらと香辛料のきいたシンドゥラ料理は、パルス人たちを閉口させたのである。羊の脳を煮こんだ、とうがらしだらけの赤いカレー料理を、そうと知らずに食べさせられたあと、アルスラーンやエラムはしばらく食欲がなかった。>

 ところでこのシンドゥラがインドであるというのは分かりますが、インドのどのあたりの時代の国家を参考にしたのでしょうね。

<これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。>

 前にも引用しましたが
「ニームルーズの北は、適度の雨量にめぐまれ、冬には雪もふる。針葉樹の森と草原がひろがり、穀物と果実が豊かにみのる。いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない」(アルスラーン戦記2 P15~16)
という記述がありますから、私はパルス北西部~北部地域としたんです。葡萄というとフランスのイメージがありますし(^^;;)、あのあたりの気候に最も近いのは北部ではないかと思ったもので。
 もっとも、記述にある南部の気候でも育つ葡萄もあるのかもしれませんが。当時のイラン南部の気候は分かりますか? それとパルス南部の気候が一致すれば南部で生産されているということになるでしょうけど。

<パルスの馬とルシタニアの馬を同列に見ることが出来るかは不明ですが、モンゴル(トゥラーン)の馬には付加価値があったと考えられそうです。>
<バシキール。原産はロシアのウラル地方。体高140cm(これは地面から首の付け根の骨までの高さ)駄馬、輓用、乗馬ならびに肉・乳および衣服の素材供給用として飼育改良された。どんなに過酷な気象条件下でも生活できるという点において世界で最も頑丈な馬である。これはトゥラーンの馬に近いのではと思われます。>

 苦しまぎれに考えついた裏設定が意外な効果を生むとは……(^_^)。そうなると、新たに考えられる裏設定は
「トゥラーンの馬は頑丈で耐久性があるが、それゆえに高価なものであり、大規模な輸入はなかったがトゥラーンからの貴重な商品として珍重されていた。そのためパルスの騎馬軍団のなかでも、精鋭部隊や指揮官の馬はトゥラーンの馬で構成されていた」
というところでしょうか。そうなると、ダリューンの馬の「黒影号(シャブラング)」はトゥラーンの馬だったのかな?

 ところで馬の問題となると、その前に鎧や甲冑の問題がでてきます。ルシタニアの甲冑はパルスのそれよりも重いという記述がありますし(アルスラーン戦記8 P118)、馬の比較と同時に鎧の比較をする必要があるでしょうね。馬が鎧の重さによって受ける影響などもあるでしょうし、機動部隊になるか打撃部隊になるかの違いもでてきます。パルスやトゥラーンの鎧ってどんなものだったのでしょうね。このあたりは記述が不足なので分かりませんが。
 余談ですが、チュルクでは「山羊の革をかさねて間に鎖を編みこんだ甲」(アルスラーン戦記8 P97)を使っているようです。

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board1 - No.1507

雑談的レス

投稿者:本ページ管理人
1999年07月12日(月) 07時31分

>No. 1499
>肉に関しては、パルスとイランとではやはり差異があるのではないでしょうか。

現代のクウェートになるんですが、普通の日常食の基本形態は、
「パン類(ナン、ホブス)」+「乳製品(ミルク、チーズ、ヨーグルト)」で、ちょっと奮発して(牛丼に卵つける感覚)ケバブを食べるという感じらしいので、庶民食があの通りだとすれば、パルスはかなり生活水準が高いと言うことになりそうです。
 しかしそれよりかは、まず商人が結構金持っていていいもの食べているとは考えられないでしょうか? また、長旅で普段粗食していると考えれば「やっとエクバターナに着いたんだからちょっと奮発したもの食おうぜ」という気分があるのかも知れません。
…ってところでどうでしょうか?

収録投稿43件目
board1 - No.1511

パルス、馬などまとめレス(ちょっと長いぞ~)

投稿者:仕立て屋
1999年07月12日(月) 17時13分

 毎度、仕立て屋です

<パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。>
================以上、管理人さん=================

十字軍の時代になると、ペルシアは完全にイスラム化してますし、戦略的には十字軍は、キリスト教圏にとって(イスラム教圏にとっても同じなんだけど)最大の聖地をオスマン・トルコなど異教のイスラム勢力から解放しよう、というものですよね。イアルダボートの光で異教の地を照らす、というルシタニアの建前とは戦略目標の点で微妙にずれると思います。ところで、作中ではパルスの友邦国マルヤムはルシタニア同様、イアルダボート神を崇める国です。ルシタニアはその協会会議にてルシタニアの西方教会に対してマルヤムの東方教会が異端であると決議し、これを併呑しました。史実においては、エフェソス公会議におけるコンスタンチノープル主教ネストリウス異端断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が自称東方教会と名のりビザンティン教会から離脱、ローマ帝国の弾圧を逃れ、ペルシャ領ニシビスをネストリウス派教会の拠点とし、その後、ササン朝ペーローズ王からペルシアにおける支配的キリスト教派として公式に認可される、という出来事があったそうですが、この史実をヒントにしますと、マルヤムという独立国とペルシア領内北西部の1キリスト教派拠点という違いはありますが、この教派の拠点をシリアあたりの国とし、ペルシアがそれを保護するという形にすれば、立地的に地中海に面している点もちょうどマルヤムと共通しますし、これに十字軍の伝承を加味すれば、ちょうど作中イメージになると思います。どうでしょうか。

<イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。>
=================以上、はむぞうさん===================

 たしかに、そうみたいですね。甘かったわい。二つの山脈沿いには地中海性の気候が分布してますので各オアシスで果物もよく作られたらしいです。それでも、貴重な耕地ですからこうした嗜好品は高価な食物だったのかもね。

<高校時代の教科書を開いて気づいたのですが、ササン朝ペルシアというのはイラン南部の農耕民族が、イラン北東部からきた騎馬民族が建てた国家であるパルティアを滅ぼして建てた国だったんですね。国土はどちらもほぼ同じですが、パルティアのほうの当時の地図をみると「エクバターナ」や「アトロパテネ」などの地名が登場していました>
==================以上、はむぞうさん===================

 浅はかでした。良く調べたら、イラン高原を南下していた西イラン族ペルシア人も前7世紀過ぎにはファールス地方で徐々に定着農耕に移行していったらしいです。この際、一時エラム人の支配下に入ったらしいので、想像ですが、おそらく、かの地で農耕を営んでいたエラム人を駆逐して農耕生活に移ったのではないでしょうか。騎馬遊牧民族はおしなべて、農耕民族との出会いにより定着化する傾向があるようですから。その際でも、当然、兵器としての馬という認識は維持されるでしょうから、定着初期の段階では、管理人さんがおっしゃるように半農半牧畜の形で軍馬も飼育されたのだと思われます。その後徐々に身分制度と国家としての体裁が確立していくにしたがってそれ専門に直轄の軍馬飼育部門などが各ステップにて組織されていったのではないでしょうか。また同時に農耕で得られる穀物飼料により大型の品種(体高145cmくらい)も創出されていったのでしょう。騎馬は軍人のステイタスですから、軍人はもちろんのこと、パルス人一般にもより良き馬の所有と騎馬技術の研鑚は、一種文化的嗜みとしてひろく行き渡ったと想像されます。それがパルス騎兵の精強さを形作ったと思われます。
 ただ、それでも腑に落ちない点がいくつかあります。まず一つ、もはや純粋な騎馬遊牧民ではないのですから、パルス人一般に対する形容「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」って、まるでモンゴル遊牧民などに対する形容を使うのは不自然な気がするという点。これを、騎馬遊牧民だった頃からの伝統的形容と見れば、まあ、許せる範囲ですが。また、パルスを農耕基盤の国家とした場合、その軍構成(大雑把に、貴族1万人、自由民10万人の騎馬兵と、自由民4万人、奴隷26万人の歩兵)はどう見ても遊牧国家のそれです。たとえば、ササン朝の文化、制度的継承元であるアケメネス朝の場合はペルシア貴族1千人、不死隊と呼ばれるペルシア人1万人が常時動かせる国軍の主力(親衛隊みたいなの?)で、その他に各方面の分遣隊と約20州からの召集軍で構成され、その内訳は主にペルシア人、メディア人など西イラン族からなる騎兵隊2万、各州の従属臣民臨時召集軍を含む歩兵及びフェニキア人、エジプト人などからなる海軍あわせて30万人というものです。騎兵の割合は全軍の1~2割であって、やはり主力は歩兵となります。ギリシアの重装歩兵に痛い目にあってるペルシア人ならなおさら歩兵の重要性は認識していたはずです(それでも軽装歩兵しか組織しませんでしたが、マイナス面を帳消しにするだけの圧倒的な兵力を持っていました)。ところで、作中ではパルス軍は奴隷を除いては、ほぼパルス人によって構成されているように見うけられます。以前、冒険風ライダーさんによる上記パルス軍、騎兵12万5千と歩兵30万が常設軍だとの見解に対して私はその騎馬の多さを農耕兵も含まれる、とすることで説明しようと試みたことがありましたが、よくよく調べて見ると冒険風ライダーさんの常設軍とする見解が正しいような気がしてきました。というのも、まず、西アジアでは馬を農耕には普通利用しないという点が一つ。また、軍馬は戦場の環境(大きな騒音や鬨の声、血の臭い)に慣れている必要がありますし、第一、重装備の騎兵を乗せて俊敏に動けなければ役に立ちません。それには、組織的に訓練される必要がありますから、それには直轄の軍馬繁殖地などで生産されるべきではないでしょうか。同時に職業は分化してるでしょうから騎士はもちろんのこと、自由民歩兵も職業軍人の可能性が高いです。以上の点から騎兵12万5千人、歩兵3万人は職業軍人であると予想されます。さらに冒険風ライダーさんがおっしゃったように東方国境8万人、西方国境6万が常駐しているということでこれらを王直属の地方分遣隊(もし、これら国境防備隊が王直属でなく、地方領主による防備砦とするならば、かなり信用の置ける譜代の臣を配置する必要がありますが、他に分遣隊と思われる記述が見落としなければありませんので、ここでは王直属としておきます)と見なすならば、当然、国庫支出の常設軍であり、その軍構成も主力軍と同様でしょうから、内、東西両方面軍で騎兵、歩兵の職業軍人として3万人、2万人が見こまれます。その異常な兵科構成を除いても、パルス王国軍における国王直属の職業軍人の多さ(計、17~18万人)は、なんだか現実離れしているように感じられます。まだ、パルス王国軍に、各属州からの臨時召集歩兵隊が存在するならば、この異様な軍構成は幾分、正常視されるでしょうが、そうなると今度は、王国軍全体の最大動員兵数が下手すると100万人に達するという異常な自体になりかねません。こうしたつじつま合わせにおける不都合を回避する手としてパルス遊牧国家説を唱えてみたのですが、これだと皆さんのご指摘通り作中の封建体制の雰囲気と矛盾してしまいますね。しかし、パルス王国を農耕及び商業国家とみた場合、どうしても初期の命題「騎馬兵の異様な多さと異様な軍構成」に立ちかえらざるを得ないんですよね。こうなったら、いよいよ”そういう設定の作品なの!!”と言うほかないのでしょうか。きっと、田中氏自身、物語にでてくるような英雄的騎馬突撃の有効性を信じて疑わないのでしょうが、MerkatzさんのHPにおける武田騎馬軍は実際には戦う前に下馬してから戦った、という話を考慮しますと、パルス王国軍はかな~り無茶してます。
(一部、わたしの想像からなっていますがご了承をば!)

< パルスでは国王自らが「大陸公路の守護者」と名乗るほどですから、商人の地位もかなり高かったのではないかと考えられます。金の単位が「金貨(デーナール)」「銀貨(ドラフム)」「銅貨(ミスカール)」と設定されているくらいですし、商業活動がさかんだったのもうなづけます。私はパルス国を「商業国家」と考えていたくらいですしね。>
================以上、冒険風ライダーさん==============

 これは、そのとおりだと思います。重要なオアシス拠点を押さえたオリエント国家は間違いなく商業でもかなり利益をあげています。
パルス王国軍構成の異常さから遊牧国家説を唱えてみたのですが、ちょっと無理があったようです(^^;

<エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。>
================以上、冒険風ライダーさん===============

 品種改良のための種馬というのは、きっとあったでしょうね。
種馬って重要ですから。

<「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
 それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。>
================以上、冒険風ライダーさん===============

 ちなみに、トゥラーンはモンゴル・トルコ系民族で、チュルクはトルコ系民族、エフタルというのはアーリア系のイラン族という説が有力らしいです(またの名を白いフンと呼ばれたそうです)。

<イランのアーリア系が遊牧民であるという仕立て屋さんの指摘はその通りです。ですが、中近東の遊牧民は主にサウジに展開するベドウィン族を除いてすべて半農半牧であることは注目に値します。

 その農業ですが、今までの議論だと「パルスは、まあ、農業に使える土地もあるけど、ほとんどが砂漠や高山といった農業に適さない土地で…」という消極的意見がほとんどでした。しかし、考古学的に調べてみると、この地域(特にイラン南西部の「豊穣の三日月地帯」と呼ばれる地域。あのチグリス・ユーフラテス流域であり、それ以外の丘陵地もそれなりの降水量があります)の農耕は世界のすべての他の地域に先駆けるものであったようです。また、植相の面ではエメル小麦、アインコルン小麦、六条小麦、二条小麦が野生していた(原産)ところだと言われ、ムフロン羊や山羊が野生で生息していたと言われています。つまり、小麦栽培に関しては発祥の地であり、小麦を粉化する技術が生まれパン食が誕生したのもメソポタミアでした。この地域では降雨や降雪が多いのが冬期なので、冬作作物である麦は農作にも適していたようです。また、この農作と同時に山羊や羊の家畜化が始まりました。ともあれ、この技術が伝播したものが、後の地中海農耕文化と言うことのようです。
 さて、この限られた豊穣な農耕地を取り損ねたものが遊牧民化したところから、半農半牧の文化が誕生しました。小麦栽培はもともと牧畜を伴って発展したと言われています。代表的な半農半牧文化を持つイラン東部のチャハールアイマク族の場合、家畜を畑耕に使い、脱穀は穂の上を家畜に歩かせ、麦刈り後の畑は放牧地へ使い、そこでの家畜の糞が肥料になるという、農耕と牧畜が見事に絡み合い回転する文化を持っていますが、これはそれが現存している姿と言えそうです。

 このように、イランでは小麦栽培と遊牧を両立させる半農半牧生活がメインであり、それがどちらに重きを為すかによって農耕民と呼ばれたり遊牧民と呼ばれたりしてきたということが、社会構造の大前提になります(私が大雑把なんじゃないですよ(^_^;)ホントにこうなんですって)。

 余談ですが、この半農半牧説の論拠はイランの遊牧の家畜が牛、羊、山羊といった、農耕可能な土地でなければ飼えないものであることが挙げられます。大げさに言えばこれらの家畜は三日草や水を欠かすと乳も出さず、荒涼とした土地では遊牧が出来ないわけです。一方、遊牧専門のベドウィン族のテリトリーは砂漠であり、家畜はラクダです。ラクダはしばらく水や草の不足する土地でも安定した乳量が期待でき、むしろ伝染病の心配がいらない分だけ乾燥した砂漠が適しているのです(ちなみに現在は遊牧禁止政策や農業の近代化によってベドウィンも半農半牧化しているということです)。>
================以上、管理人さん===================

 ふむふむ、確かにササン朝の滅亡前の地図を見ると、その領土に「豊穣の三日月地帯」は入っとりますね。メソポタミアの1年草のイネ科草原(小麦類)に群れていた群居性有蹄類(群れてくれたほうが生産管理しやすいためか?)を捕獲、家畜化したのが早いのか、それら小麦の原種による農耕が早いのか、はっきりとはわからないがとにかく同時期にメソポタミアで小麦栽培と牧畜が始まったのは確からしいですね。農耕で食っていけるところは牧畜は副業的になりますし、農耕だけで食っていけないところでは牧畜の比重は高くなるでしょう。もともと、群居性有蹄類というくらいだから、群れで移動するわけです。これは遊牧に非常に向いてるわけでして、ステップ、サバンナなどの乾燥した草原は遊牧に大変都合が良いようです。騎馬遊牧が発達した理由の一つに、馬の移動力により少人数でより大規模な群れを管理可能になったことが挙げられます(具体的に羊では/人1人徒歩にて100頭以上、騎馬では人1人で1300頭以上と徒歩の場合の10倍以上の作業効率です)。これにより遊牧のみでも生活可能となり、乾燥帯のステップ草原においては最適化した生活形態といえます。実際、騎馬遊牧民といわれる人たちは(モンゴル人など)はその家畜のメインは羊、山羊で一番多く、、牛は森林ステップなど、より乾燥度の低いところで多くみられ、馬は牛などと大体同数らしいです。
 あと、現在、中近東における遊牧が半農半遊牧(耕作した段階で、厳密には遊牧とは言わないのですが/家畜をともなった農耕かな?)であるということですが、これは、管理人さんがベドウィン族の現状で仰ってるように、政府による定住化政策の推進というのは当てはまりませんでしょうか?中近東においては、歴史的に、時の政府が遊牧民を一種の暴力装置として利用してきた過去があり、一方で遊牧民側も、時の政府が混乱した際には反政府組織として立ち振る舞ってきた過去があるわけで、政府にとって、遊牧民は役立つときもあるが、非常に厄介な存在であることも確かなのです。国家としては、容認できるものではありません。それに、不動産を持たない遊牧の民から税金を徴収することはなかなかままならないものです。これらは、近代国家の論理と真っ向から対立するものです。
 ベドウィン族の場合は、定住化ということで、それぞれに土地が区分けされて与えられるわけですが、その特質である境界線のあいまいさに立脚すべき遊牧が、線引きされた狭い土地で成立するはずがありません。結局、その土地を大地主に売却した現金をもって、都市に流入していったベドウィンの民が大勢いると聞きます。なお、遊牧生活をおくるベドウィンにしろ、武装解除はもちろんのこと、いまでは、政府の補助金なしでは生活もままならないそうです。また、モンゴル遊牧民に関しては、同様に政府による定住化政策が進められているのですが、森林ステップを除いてなかなか定着化は進まないそうです。

 ちょっと、話がずれまして(^^; イランにおける半農半遊牧が、見るものによってコロコロ変わるというのは、なんだか、わかるような気がします。ただ、先に申し上げたように、厳密には農耕する牧畜民は遊牧民とは呼べないと思います。そういう意味で、パルスが純粋な遊牧国家であるとしたわたしの説は、ちょっと暴走気味だったと思っています。
 また、イランの気候については、豊穣の三日月地帯ですら乾燥帯なので、人の手で灌漑しなければ、すぐさま、緑の地は失われてしまいます。逆にいえば、人の手が加わる限り、かの地は非常に豊かな土地になりうるということですね。実際、その時々の為政者によって、人口の増減は激しいようです。イスラム征服以前のペルシアではゾロアスター教が盛んだったため、大地の耕作は推奨されたようです(ササン朝の名の由来ササンはアナーヒターという水と水流の女神の祭司だったくらい、関係ないか、ナハ)。前8世紀くらいにイラン北西部で始められたカレーズ(カナート)の技術がファール地方でも前6世紀くらいから導入され、灌漑利用されたようです。ですから、イスラム征服以前はかなり豊かな国だったらしく、聖書やギリシアの哲学者の著書にもそのような記述があるらしいです。いろいろ、本を探したのですが、なかなかペルシアの総人口に関するデータがなく、唯一、紀元0年あたりのローマ帝国の総人口が7~8000万人ということなので(これも確かかどうか不明、トホホ)、ササン朝ペルシアに2000万人ぐらいいてもおかしくないのかもしれませんね。
 また、これは、冒険風ライダーさん宛てになるかと思いますが、アケメネス朝ペルシアにおいては属州含めて大体20州前後だったらしいです。ササン朝においてはディフカーン(村の領主)とよばれる小貴族を軍人や役人に取りたてられた、とあるので、州の中でさらに細かく行政区画を分ければ問題ないとは思いますが。参考までに。

 それから、以前の冒険風ライダーさんのパルスにおける地形様相<パルス中央部のやや南よりにはニームルーズ山脈があり、この山脈より南は砂漠と岩場と草原が多い>との記述と、アルスラ1巻のパルス王土図を見ると、南海のペルシア湾に面する海岸線が湾の南岸に回りこまず、そのまま左右に切れている様子から考え合わせると、ひょっとしたら、「豊穣の三日月地帯」はその王領に含まれていないかもしれません。とても微妙なラインなんですが、とりあえず、悪足掻いてみました。あと、お米に関して。カスピ海南西沿岸のギーラーン地方では地中海性気候とあいまって、年間降水量1000mmを越え、稲作も行われているそうです。

<これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。>
============以上、はむぞうさん=================

 ですね(^^

<バシキール。原産はロシアのウラル地方。体高140cm(これは地面から首の付け根の骨までの高さ)駄馬、輓用、乗馬ならびに肉・乳および衣服の素材供給用として飼育改良された。どんなに過酷な気象条件下でも生活できるという点において世界で最も頑丈な馬である。これはトゥラーンの馬に近いのではと思われます。>
===========以上、はむぞうさん===============

 トゥラーン人はアルタイ山脈から天山山脈北に分布していたモンゴル・トルコ系民族なので、体高120cm~のモウコウマ系の馬では?で、パルス人がどんな馬を欲していたか、考えをめぐらせてみると、一般に、ペルシア人はモンゴル・トルコ系の人たちより体格が大きく、騎兵も重装騎兵であり、ある程度、体高も必要とされたと想像されます(これは秦の騎馬に関する法律からの推測です)。

<苦しまぎれに考えついた裏設定が意外な効果を生むとは……(^_^)。そうなると、新たに考えられる裏設定は
「トゥラーンの馬は頑丈で耐久性があるが、それゆえに高価なものであり、大規模な輸入はなかったがトゥラーンからの貴重な商品として珍重されていた。そのためパルスの騎馬軍団のなかでも、精鋭部隊や指揮官の馬はトゥラーンの馬で構成されていた」
というところでしょうか。そうなると、ダリューンの馬の「黒影号(シャブラング)」はトゥラーンの馬だったのかな?

 ところで馬の問題となると、その前に鎧や甲冑の問題がでてきます。ルシタニアの甲冑はパルスのそれよりも重いという記述がありますし(アルスラーン戦記8 P118)、馬の比較と同時に鎧の比較をする必要があるでしょうね。馬が鎧の重さによって受ける影響などもあるでしょうし、機動部隊になるか打撃部隊になるかの違いもでてきます。パルスやトゥラーンの鎧ってどんなものだったのでしょうね。このあたりは記述が不足なので分かりませんが。
 余談ですが、チュルクでは「山羊の革をかさねて間に鎖を編みこんだ甲」(アルスラーン戦記8 P97)を使っているようです。>
==============以上、冒険風ライダーさん================

 当時、騎馬は騎士独特の優越感、ステイタスの具現化であった
はず。大きく立派な馬が好まれたと思います。主将級の騎士の馬が雄馬(未去勢馬)であることもままあったらしいです(荒荒しく、扱い難くはあるが、警戒心が旺盛など、戦場では役立つこともあり)。これは、わたしの主観ですが、ダリューンのような偉丈夫がトゥラーンの比較的小さい馬に騎乗していたのなら、それはそれで、わらえるかもしれません。
 アルサケス朝パルティア~ササン朝ペルシアにおける重装騎士戦法と鐙、蹄鉄の技術がヨーロッパの重装騎士を生み、また、より重い甲冑がより大きな馬を要求していったという歴史があるのだそうです。

収録投稿44件目
board1 - No.1513

マルヤム

投稿者:ドロ改
1999年07月13日(火) 00時27分

>仕立て屋さん

>十字軍の時代になると、ペルシアは完全にイスラム化してますし、戦略的には十字軍は、キリスト教圏にとって(イスラム教圏にとっても同じなんだけど)最大の聖地をオスマン・トルコなど異教のイスラム勢力から解放しよう、というものですよね。イアルダボートの光で異教の地を照らす、というルシタニアの建前とは戦略目標の点で微妙にずれると思います。ところで、作中ではパルスの友邦国マルヤムはルシタニア同様、イアルダボート神を崇める国です。ルシタニアはその協会会議にてルシタニアの西方教会に対してマルヤムの東方教会が異端であると決議し、これを併呑しました。史実においては、エフェソス公会議におけるコンスタンチノープル主教ネストリウス異端断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が自称東方教会と名のりビザンティン教会から離脱、ローマ帝国の弾圧を逃れ、ペルシャ領ニシビスをネストリウス派教会の拠点とし、その後、ササン朝ペーローズ王からペルシアにおける支配的キリスト教派として公式に認可される、という出来事があったそうですが、この史実をヒントにしますと、マルヤムという独立国とペルシア領内北西部の1キリスト教派拠点という違いはありますが、この教派の拠点をシリアあたりの国とし、ペルシアがそれを保護するという形にすれば、立地的に地中海に面している点もちょうどマルヤムと共通しますし、これに十字軍の伝承を加味すれば、ちょうど作中イメージになると思います。どうでしょうか。

私はてっきり、マルヤムはビザンチンだと思っていたのですが。勿論イスラム勢力の圧力を恐れて救援要請を出し、十字軍遠征のきっかけを作ったビザンツとは立場が違いますし、攻略された順番も逆になります。しかし、マルヤム宮廷の描写などを見ていると、ルシタニアとは文化レベルが一桁違う様ですから史実のビザンツがそうしていたのと同じように、ルシタニア(西ヨーロッパ)をバカにしていたとしても全く不自然では無いと思います。十字軍遠征初期であれば、海峡東岸は失っていてもヨーロッパ方面の領土は大部分健在でしたし、地中海貿易の覇権も握っていてマルヤム国に似た状態であったと思われます。(マルヤム国はルシタニア方面から見て大陸の玄関口)大陸航路を扼し陸の貿易を押さえるパルス、内海を含め海の貿易を押さえるマルヤム、結構ぴったりはまると思うのですが。
ただ、当時のカスピ海沿岸は、取れるものが精々穀物どまりの上便利な陸路が完備されているため、押さえるも何もないでしょうが。

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board1 - No.1515

パルス国の庶民の生活水準と主食、そして都市の修正計算

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月13日(火) 02時31分

<現代のクウェートになるんですが、普通の日常食の基本形態は、
「パン類(ナン、ホブス)」+「乳製品(ミルク、チーズ、ヨーグルト)」で、ちょっと奮発して(牛丼に卵つける感覚)ケバブを食べるという感じらしいので、庶民食があの通りだとすれば、パルスはかなり生活水準が高いと言うことになりそうです。
 しかしそれよりかは、まず商人が結構金持っていていいもの食べているとは考えられないでしょうか? また、長旅で普段粗食していると考えれば「やっとエクバターナに着いたんだからちょっと奮発したもの食おうぜ」という気分があるのかも知れません。
…ってところでどうでしょうか?>

 パルス全体の庶民の生活水準が見えてくるかは分かりませんが、アルスラーン戦記の記述の中に庶民の生活水準を推測できる記述がいくつかありますので、それらを少し引用してみましょう。

アルスラーン戦記2 P128
<「馬を買うにしても、お金はあるの?」
 現実的なことをアルフリードに問われ、ナルサスはむぞうさに羊皮の袋を少女に手わたした。袋の口をあけたアルフリードが目をみはる。
「馬が百頭くらい買えそうだね。何でこんなに金貨を持ってるのさ」
「なぜといって、もともとおれのものだが」
 アルフリードはしかめつらしい表情をした。
「ふうん、あんた、あんまりまともな生活をしてなかったんだね。見かけはまともそうだけど」
「どうしてそう思う?」
「金貨なんて、まともな人間の手には、はいらないようになっているんだよ。もし自由民が金貨なんて持ってたら、役人がきて拷問するくらいさ。どこかで盗んだに決まってるといってね」>

アルスラーン戦記2 P129
<彼女の、凍りついた視線を追って、ナルサスは見た。一軒の家の戸口に、男がうつ伏している。流血のあとが、男の死を証明した。
 死体のふところから羊皮の袋がはみだし、こぼれおちた銀貨と銅貨が夕日を反射してきらめいている。>

アルスラーン戦記4 P52
<パルス王国の東北部、広大なダルヴァント内海に面したダイラム地方である。
 働き者の漁師や製塩職人たちが、すでにひと仕事をすませた後、屋根と柱だけでつくられた集会所に顔をそろえ、朝のお茶を楽しんでいた。砂糖菓子や乾したイチジクをつまみ、女房が肥ったの、町の酒場にいい女がはいったが情夫がついているの、噂話の花を咲かせる。>

アルスラーン戦記9 P200~P201
<初夏五月。パルスの王都エクバターナは緑陰濃い季節をむかえている。
 陽ざしはかなり強いが、空気が乾燥して適度の風があるので、樹木や建物の影にはいると、ひやりとするほど涼しい。石畳にも水がまかれ、蒸発する水が熱気をとりさる。水をまいてまわるのは老人や子供が多く、彼らには役所から日当が出る。
 露店は葦を編んだ屋根をかけて、陽ざしをふせぐ。地面に、絹の国渡りの竹づくりのござを敷き、ハルボゼ(メロン)をはじめとする色とりどりの果物を並べてある。ときどき冷たい水をかけると、果物の色どりはひときわあざやかになるようだ。
 汗と塩を上半身に噴きださせて、炉の火をあおっているのは、硝子の器具をつくる職人たちだ。交替で公共の井戸に出かけて水をあびる。タオルを冷水にひたして頸すじに巻き、ふたたび炉の前にもどるのである。
 小麦の薄いパンに蜂蜜をぬって売る店がある。どうやら小銭の持ちあわせもないらしく、ひとりの子供が、ひたすらパンを見つめている。最初は無視していたパン屋が、根まけしたように、ひときれのパンを渡す。顔をかがやかせた子供が走り去る。その背中にむけてパン屋がどなる。
「恩を忘れるなよ。出世したら十倍にして返すんだぞ!」>

 パルス国の通貨単位の問題がありますが、村の人間が銀貨や銅貨を持っていること、ダイラム領土の漁師たちの生活水準の良さ、そしてエクバターナの様々な職業や、露店で売られているといった記述から推測すると、パルス国の庶民の生活水準はかなり高いものであるという解釈は充分に可能であると思われます。もちろんこれもまた、肥沃な地方と不毛な地方とで差があることでしょうが。
 食糧の物価については下の記述である程度推測できるのではないでしょうか?

アルスラーン戦記1 P73~P74
<侍童の少年が、大きな盆をはこんできた。葡萄酒、鶏肉のシチュー、蜂蜜をぬった薄パン、羊肉と玉ねぎの串焼き、チーズ、乾リンゴ、乾イチジク、乾アンズなどがこうばしい匂いをふりまき、アルスラーンとダリューンの食欲を刺激した。
(中略)
 テーブルに出されたすべての食物が、客人たちの胃におさまってしまうと、エラムは食器をかたづけ、食後の緑茶を出し、ナルサスに一礼して自分の部屋にひきとった。
「おかげで人心地ついた。礼を言う」
「お礼にはおよびません、アルスラーン殿下、私は殿下のお父君から、一万枚もの金貨をいただいたことがあります。今日の食事は銀貨一枚にもおよびませんな」>

 さらに村の人間までもが通貨を持っていることから、パルスでは商業の力が末端まで徹底していたという解釈も可能です。パルスの村でも、原始的な物々交換はあまりなかったのではないかと思われます。そうなると、パルス国内のみを回って商売をする隊商がいるという裏設定もでてくるのではないでしょうか。これならば、末端にまで通貨が行き届くでしょうし、商業国家パルスの補強にもなるし、地方都市が発展しているのも説明できます。まさに一石三鳥(^_^)。
 それから「羊肉が主食」という解釈は、

アルスラーン戦記5 P24
<パラザータは肉を主体とした料理をことわり、一椀の麦粥、それに卵と蜂蜜をいれた麦酒を所望した。疲労で胃が弱っているので、重い食事を避けたのである。>

という記述から、パルス軍の補給物資が小麦系と羊肉で構成されているのではないかと考えたからです。肉が高価な物資であるならば、パルス軍はもっと安価なものを補給物資にしたでしょうしね。10万もの軍団の食糧となると半端な量ではないのですから。他の記述とも合わせて「これが主食」と推理したというわけです。

<以前、冒険風ライダーさんによる上記パルス軍、騎兵12万5千と歩兵30万が常設軍だとの見解に対して私はその騎馬の多さを農耕兵も含まれる、とすることで説明しようと試みたことがありましたが、よくよく調べて見ると冒険風ライダーさんの常設軍とする見解が正しいような気がしてきました。というのも、まず、西アジアでは馬を農耕には普通利用しないという点が一つ。また、軍馬は戦場の環境(大きな騒音や鬨の声、血の臭い)に慣れている必要がありますし、第一、重装備の騎兵を乗せて俊敏に動けなければ役に立ちません。それには、組織的に訓練される必要がありますから、それには直轄の軍馬繁殖地などで生産されるべきではないでしょうか。同時に職業は分化してるでしょうから騎士はもちろんのこと、自由民歩兵も職業軍人の可能性が高いです。以上の点から騎兵12万5千人、歩兵3万人は職業軍人であると予想されます。さらに冒険風ライダーさんがおっしゃったように東方国境8万人、西方国境6万が常駐しているということでこれらを王直属の地方分遣隊(もし、これら国境防備隊が王直属でなく、地方領主による防備砦とするならば、かなり信用の置ける譜代の臣を配置する必要がありますが、他に分遣隊と思われる記述が見落としなければありませんので、ここでは王直属としておきます)と見なすならば、当然、国庫支出の常設軍であり、その軍構成も主力軍と同様でしょうから、内、東西両方面軍で騎兵、歩兵の職業軍人として3万人、2万人が見こまれます。その異常な兵科構成を除いても、パルス王国軍における国王直属の職業軍人の多さ(計、17~18万人)は、なんだか現実離れしているように感じられます。まだ、パルス王国軍に、各属州からの臨時召集歩兵隊が存在するならば、この異様な軍構成は幾分、正常視されるでしょうが、そうなると今度は、王国軍全体の最大動員兵数が下手すると100万人に達するという異常な自体になりかねません。>

 この記述を見て思い出したのですが、1巻のアトロパテネ会戦時のパルス軍の配置があったのでそれを調べてみたら、とんでもない事が判明しました。
アトロパテネに展開したパルス軍(アルスラーン戦記1 P27)
騎兵85000 歩兵138000
エクバターナの留守部隊(アルスラーン戦記1 P42)
騎兵20000 歩兵45000
東方国境
騎兵20000 歩兵60000
西方国境
騎兵0 歩兵60000
これらを計算すると
騎兵 =  85000 + 20000 + 20000 = 125000
歩兵 = 138000 + 45000 + 60000 + 60000
   = 303000
 何とほぼこれでパルス全軍になってしまいます(しかも歩兵は3000人オーバー)。
 しかもさらに2巻では諸侯のひとりホディ―ルが「三千の騎兵と三万五千の歩兵を動かすことができる」(アルスラーン戦記2 P24)という記述があったり、三カ国同盟軍侵攻時に「ダイラムの領主テオスは五千の騎兵と三万の歩兵を率いて駆けつけると約束し、王を喜ばせた」(アルスラーン戦記1 P62)などといった記述があることから、パルス軍の中には、諸侯の軍が入っていないとしか思えません。
 そうなると、仕立て屋さんのいう「王国軍全体の最大動員兵数が下手すると100万人に達するという異常な事態になりかねません」というのは全くそのとおりで、これでは今までの軍事計算が全部水の泡です(T_T)。諸侯軍が全体でどれくらいの軍を持っているかが問題になってきますが、記述が不足していますし、以前計算した「人口に対する軍隊の比率」もやり直さなければならない事になってしまいます。さすがにこれでは私にも手におえませんね。何とかならないものかな~。

<田中氏自身、物語にでてくるような英雄的騎馬突撃の有効性を信じて疑わないのでしょうが、MerkatzさんのHPにおける武田騎馬軍は実際には戦う前に下馬してから戦った、という話を考慮しますと、パルス王国軍はかな~り無茶してます。>

 これは日本の馬が西洋の馬と比べて小柄だった事、そして牧畜がそれほどさかんではなかったことが原因ではないでしょうか。武田の騎馬軍団にしても、品種改良を重ねて何とか戦に使えたのですし、その騎馬隊にしてもその程度の力でしかなかったということです。
 しかしパルスの場合はそもそも祖先が騎馬民族だったのでしょうから、馬を戦争に使う事に関してはそれほど無茶ではないような気がしますが。数はそろえられたかというとやはり疑問ですけどね。
 余談ですが、MerkatzさんのHPは私も見ています。グラディウスⅢの音楽をダウンロードしてますしね(^^)。

<また、これは、冒険風ライダーさん宛てになるかと思いますが、アケメネス朝ペルシアにおいては属州含めて大体20州前後だったらしいです。ササン朝においてはディフカーン(村の領主)とよばれる小貴族を軍人や役人に取りたてられた、とあるので、州の中でさらに細かく行政区画を分ければ問題ないとは思いますが。参考までに。>

 う~ん、マヴァール年代記のマヴァール帝国が130州で構成されているから、パルス国の100州もそれほど無茶ではないかなと思ったのですが。
 そこで今度は州県制で考えてみました。
諸侯の中でも大諸侯が州を管轄し、その中の4つの県を4人の小諸侯が支配する。
大諸侯の州都を10万、小諸侯の県都を5万として、エクバターナとギランの合計140万と計算すると
20000000 - (1400000 + 20×100000 +80×50000)
= 12600000
この残りを一千万と二百万と六十万で区別し、一千万を人口一万の街に、二百万を人口1000の大村に、六十万を人口100の小村に配置します。そうなるとパルス国には
1000の街
2000 + 6000 = 8000の村
が存在する事になります。これで何とかバランスがとれたかな? 例によって大雑把だけど(^^;;)。あとそれから税制と交通網システムは以前指摘した通りです。ただ
村・街――→県都――→州都――→エクバターナ
というパターンになっているかもしれませんが。

収録投稿46件目
board1 - No.1519

武田騎馬隊

投稿者:Merkatz
1999年07月13日(火) 03時55分

うーん、なにやら私のつたないHPが話題に登っているようで汗顔の至りです。
皆さんのアルスラーンに関する議論はすっごく面白いです。私は西洋史は全然ダメなんで、ただただ皆さんの知識に恐れ入るばかり。
アルスラーンの議論には加われませんが、せっかくですから武田騎馬隊についてちょっと説明しましょうか。西洋の騎馬隊との比較になれば幸いです。

一般に言われているような「騎馬隊」は実は日本に存在しません。というのも、日本の馬は西洋に比べて小型で、また騎馬を縦横に展開できる地形が少なかった為、西洋でいう「騎馬隊」は実現しようがなかったのです。
フロイスは「我らにおいては馬上で戦う。日本人は戦わねばならぬときには、馬から下りる」と記しています。
甲陽軍鑑には「武田軍の大将や役人は、一備え(千人程度)の中の七人か八人が馬に乗り、残りはみな馬を後ろに曳かせ、槍をとって攻撃した」とあります。
やや時代は遡りますが、義経のひよどり越えも徒歩によるものだそうです。
以上のことから「騎馬隊」というものはなかったことがわかります。

しかし「騎馬武者」はいました。使番と呼ばれる伝令役や、上級指揮官が馬に乗っていました。
また迅速に部隊を展開せねばならない局面においても活用されています。側背・後背攻撃や残敵掃討などです。この場合は少数の部隊で決定的な局面を作るという役目を担うわけです。

武田軍の恐ろしさは騎馬隊ではなく、変幻自在の陣形にありました。もともと甲州兵は精強を謳われています。それが戦況に応じて素早く適した陣形を取るのですから、弱いはずがありません。
武田軍の強さの秘密は優れた軍法にあったわけです。

ちなみに鉄砲に関しても武田軍はかなり進んでいました。信長の専売特許のように言われる鉄砲ですが、どこの戦国大名でもその使用は当たり前でした。ただ信長は有効な戦術的運用を考え付いたわけですが。

さて私は「エイジオブエンパイア」というゲーム(知ってます?)をよくやるんですが、この中では騎馬兵ユニットは馬に乗ったまま戦います。
集団で歩兵をいたぶるのが愉快(^^;;
やっぱり大平原にずらっと騎馬が並んで突撃してきたら、ちょっとやそっとじゃ止めようがないかなあ。

セコく宣伝。戦国武将中心にHP開いています。
http://ww3.tiki.ne.jp/~yang/index.htm
是非お越し下さい。

収録投稿47件目
board1 - No.1526

まとめレス

投稿者:本ページ管理人
1999年07月13日(火) 06時46分

>No.1511
>一方で遊牧民側も、時の政府が混乱した際には反政府組織として立ち振る舞ってきた過去があるわけで、政府にとって、遊牧民は役立つときもあるが、非常に厄介な存在であることも確かなのです。国家としては、容認できるものではありません。それに、不動産を持たない遊牧の民から税金を徴収することはなかなかままならないものです。これらは、近代国家の論理と真っ向から対立するものです。

 日本で、江戸幕府の差別政策によって、また明治政府の近代化によって「無縁」「公界」「楽」といった非定住集団が壊滅していったのと同様ですね。もしパルスがこのような制度を取っているのなら、社会構成や民俗を考える上で非常に興味深いと思います。奴隷制度なども絡んできそうですしね。
 ところで、実際の中近東では、現在でもゾロアスター教徒がイスラム教徒に混ざって居住しているのですが、この扱いが「迫害しつつも敬意を払う」というアジール的共同体に対する典型的な態度で面白いんですね。で、アルスラーンでどうにも不明瞭なのが宗教だと思います。イアルダボートは分かり易いんですけど(笑)、パルスの宗教が今一つ不明ですね。神官のファランギースや魔物のザッハークを見ても今一つはっきりしないと言うか。

 余談ですけど、仕立て屋さんが書いているように、聖都奪還を目的にしていた(またセム系宗教枠での異端争いの要素が濃くあった)十字軍と、イアルダボートの光で異教の地を照らす、というルシタニアの建前は微妙にずれると思います。
 田中芳樹ファンの人は、この違いを無視して「イアルダボート批判=キリスト教批判」を混同するから反感を買うんだと思うのですが、どうでしょうか。

>No. 1515
>パルス軍の補給物資が小麦系と羊肉で構成されているのではないかと考えたからです。肉が高価な物資であるならば、パルス軍はもっと安価なものを補給物資にしたでしょうしね。10万もの軍団の食糧となると半端な量ではないのですから。他の記述とも合わせて「これが主食」と推理したというわけです。

 イランとパルスの大きな違いに宗教があります。イスラム教では豚肉の禁忌が有名ですが、狩猟して得た動物の肉も同様に禁忌なのですね。パルスではこの狩猟の禁忌がないわけですから、なるほど、軍の補給物資もむべなるかな、と思います(羊肉にこだわる必要性もないですね)。

収録投稿48件目
board1 - No.1597

久々のアルスラーン戦記ネタ

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月19日(月) 18時17分

 今回は投稿番号もいっしょに付加して引用します。

No.1526 管理人さん
<ところで、実際の中近東では、現在でもゾロアスター教徒がイスラム教徒に混ざって居住しているのですが、この扱いが「迫害しつつも敬意を払う」というアジール的共同体に対する典型的な態度で面白いんですね。で、アルスラーンでどうにも不明瞭なのが宗教だと思います。イアルダボートは分かり易いんですけど(笑)、パルスの宗教が今一つ不明ですね。神官のファランギースや魔物のザッハークを見ても今一つはっきりしないと言うか。>

 それでは今回はパルス国における神々についての記述を引用してみましょうか。

アルスラーン戦記1 P142~143
<パルス神話に登場する神々の象が、彼らの左右にならんでいる。
 黄金の冠をかぶり海狸の毛皮の衣をまとった水の女神アナーヒター。出産の女神でもある。
 黄金のたてがみを持つ白馬は、雨の神ティシュトリヤの化身した姿である。
 巨大な鴉の羽を手にする勝利の神ウルスラグナ。
 美と幸運の女神、処女の守護神である、光かがやくアシ。
 千の耳と万の目を持ち、天上界と人界の全てを知るといわれる、契約と信義の神ミスラ。軍神としても崇拝される。>

 これらからの記述を参考にすると、パルス国は様々な神々が存在している多神教国であるようです。またパルスはどうも多民族国家であるようなので、これら以外にも土着の神や民族信仰の神が存在している事でしょう。気候が違う南部と北部とでは、信仰している神々も違うでしょうし、そのなかには蛇王ザッハークのような暗黒の神の信仰もあったものと思われます。
 ちなみにファランギースが信仰してのはミスラ神であり、パルスではどうもこの神が一番信仰されているようです。ファランギースが仕えていた神殿はアルスラーンが生まれた際に建立されたもの(アルスラーン戦記1 P184 及び アルスラーン戦記9 P224)とあり、またミスラ神の神官は葬儀までつかさどっていたようです(アルスラーン戦記3 P166)。商業国家という一面を持つパルスでは契約と信義は当然重んじられたでしょうし、隣国との絶え間ない戦争状態に常に置かれていた状態では軍神という面も重要視されたでしょう。
 ただしパルス国は多神教国ですから、ある特定の宗教のみに対して国が肩入れする事はなかったことでしょう。国教も定められていないようですし。特定の儀式を行う時に神官を招聘する事はあるかもしれませんけど。パルスにおける宗教の地位は「強すぎず弱すぎず」というところでしょうか。もちろんルシタニアは「強すぎる」のでしょうけど。
 その神官がどういうものであったかを示す記述がありますので、それを引用してみましょう。

アルスラーン戦記9 P225~P226
<ファランギースは成長した。神学を修め、女神官としての修行をつんだ。神殿を守るため武芸をまなび、弓でも剣でも乗馬でもすぐれた成績をあげた。神官は知識人であり、辺境の村などでは教師や医師や農業技術指導者を兼ねることが多い。地方の役人の顧問をつとめることもある。ファランギースは、医術を教えられ、毒草について学んだ。歴史、地理、算術、詩文から、針仕事、牛や羊の世話、陶器づくり。あらゆることを学んだのだ。
 女神官は結婚や出産を禁じられている。神殿では当然のことで、女神官の資格を放棄して俗化すれば、恋も結婚も自由である。むろん俗社会に出れば、貴族とか自由民とかいった身分制度がある。だがそれも鉄の壁というようなものではない。自由民の娘が国王に見そめられ、世継ぎの王子を産んで王妃となった例がある。王妃の兄弟たちは、こういう場合、当然、貴族に列せられるのだ。
 男の場合だと、自由民の兵士が戦場で武勲をたてて騎士階級に、という例がもっとも多い。神官になって学問で身をたてるという方法もある。したがって、神殿につかえる若い神官たちは、聖職者といってもさとりすました者ばかりでなく、野心的な者も多かった。>

 なお、神官は免税特権や不逮捕特権などを持っていたようですし、学問を極めれば宮廷書記官などにも出世できたようです。
 余談ですが、トゥラーンではダヤンという太陽の神が信仰されており(アルスラーン戦記5 P26)、シンドゥラではシヴァ・インドラ・アグニ・ヴァルナといった神々が信仰されているようです(アルスラーン戦記3 P153)。

No.1526 管理人さん
<イランとパルスの大きな違いに宗教があります。イスラム教では豚肉の禁忌が有名ですが、狩猟して得た動物の肉も同様に禁忌なのですね。パルスではこの狩猟の禁忌がないわけですから、なるほど、軍の補給物資もむべなるかな、と思います(羊肉にこだわる必要性もないですね)。>

 そういえばパルスには「狩猟祭(ハルナーク)」というものがありましたね。アルスラーン戦記4巻では遠征途上で、8巻ではシンドゥラとの外交のために行なわれています。当然、狩猟の獲物は食糧にまわったものと思われます。
 しかし軍の補給物資の肉を狩猟だけでまかなうのはちょっと無理ではないでしょうか? 狩猟ができる地帯は限られているでしょうし、10万もの軍勢による遠征が終わるまでの食糧となるとかなりの物量になります。どのくらいの獲物が獲れるかも不安定ですし。やはりここはパルスの畜産業による肉の調達が一番妥当ではないかと思われますが。
 ただ、「羊肉にこだわる必要性もないですね」で思ったのですが、パルスの畜産業ではひょっとすると牛肉や鶏肉なども生産されていたのかもしれません。はむぞうさんのNo.1485の投稿から「羊肉が主食」というのは間違いなさそうなので、「羊肉が主流である」という条件つきでですが。馬もかなりいたでしょうから、馬肉も結構生産されていたのかもしれません。

No.1495 はむぞうさん
<これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。>
No.1511 仕立て屋さん
<それから、以前の冒険風ライダーさんのパルスにおける地形様相<パルス中央部のやや南よりにはニームルーズ山脈があり、この山脈より南は砂漠と岩場と草原が多い>との記述と、アルスラ1巻のパルス王土図を見ると、南海のペルシア湾に面する海岸線が湾の南岸に回りこまず、そのまま左右に切れている様子から考え合わせると、ひょっとしたら、「豊穣の三日月地帯」はその王領に含まれていないかもしれません。とても微妙なラインなんですが、とりあえず、悪足掻いてみました。>

 これについてもう一度考え直してみました。以前引用したパルスの気候についての記述で、不要と思って引用しなかった部分(主題が「パルスの気候」だったので)のなかに手がかりになりそうな文章がありましたので、今回はあの部分を全部引用してみましょう。

アルスラーン戦記2 P15~16
<ニームルーズの山嶺は、パルス王国のほぼ中央、やや南よりの地域を、東西二百ファルザング(約千キロ)の長さにわたってつらぬいている。
 それほど高い山々ではないが、パルスの気候と風土は、この山地によって完全に二分される。ニームルーズの北は、適度の雨量にめぐまれ、冬には雪もふる。針葉樹の森と草原がひろがり、穀物と果実が豊かにみのる。いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない。
 それでも、山地から南方へ流れて海へそそぐオクサス川の水量は、雪どけ水と地下水を集めて豊かである。この川の水を利用して、水路が走り、周囲の畑や牧草地をうるおす。そしてオクサス川の河口には、名だかい港町ギランがあり、海路をへて遠く絹の国まで通じている。
 山には雪豹が棲み、山の南には獅子や、ときとして象もいる。山の北には熊や狼の姿が見られる。また、山にはいくつかの峠ごえ道があって、パルスの広大な国土を南北につないでいるが、隊商の鈴の音がないかぎり、それらの道はごく静かにひそまりかえっている。>

 パルス南部で葡萄が生産されているとすれば、この「オクサス川流域」であったろうと推測されます。水量が豊富なのですから、葡萄生産だけでなく他の農業生産にも適していることでしょう。問題は葡萄が南部のような亜熱帯地方で育つのかどうかですが。
 パルスでは用水路や上下水道がかなり発達していたようですし、外国の川というのは日本とは桁違いの広さですから、「オクサス川流域」というのはかなり広かったのかもしれません。広さについてはチグリス・ユーフラテス川流域の広さがどのくらいだったのかが参考になると思うのですが。

収録投稿49件目
board1 - No.1599

いやはや、いつもながら、素晴らしい

投稿者:仕立て屋
1999年07月21日(水) 02時36分

毎度、仕立て屋です

いや~~、毎度ながら綿密な読み出し、お見事です。短気なわたしには、なか
なか出来ないことです。

> 黄金の冠をかぶり海狸の毛皮の衣をまとった水の女神アナーヒター。出産
>の女神でもある。

 ゾロアスターにもアナーヒター女神はありますが、水と水流の女神ですね。
作中では、出産の女神なんですね。おそらく、出産ー>子宝、繁殖、繁栄の象
徴なのでしょう。アナーヒターと、雨の神ティシュトリヤが結びついて、農耕
従事者の信仰を一身に集めていたのかもしれませんね。

> 千の耳と万の目を持ち、天上界と人界の全てを知るといわれる、契約と信
>義の神ミスラ。軍神としても崇拝される。

 よくファンタジーにも契約の神って出てきますよね。盗賊ギルドの崇める神
として。うむうむ、確かに、契約の神ってリアルな感じします。田中氏も結構、
設定凝ってますね。冒険風ライダーさんが指摘されているように、商業国家パ
ルスでは、主要な柱神なんでしょうね。

>そのなかには蛇王ザッハークのような暗黒の神の信仰もあったものと思われ
>ます。

 これも、ファンタジーのお約束ですよね。暗黒崇拝ってのは、終末思想と密
接に結びついていて、終末の滅びから救われるために、終末をもたらす暗黒神
に信仰、生贄を捧げることで、信者は滅びから救われるって信仰ですね。ザッ
ハーク信仰がそのような形態なのか不明ですが。

>商業国家という一面を持つパルスでは契約と信義は当然重んじられたでしょ
>うし、隣国との絶え間ない戦争状態に常に置かれていた状態では軍神という
>面も重要視されたでしょう。

 道理なり。隊商は傭兵が警備する武装商人であることが多いでしょうし、ま
た、通商で対外戦争が起こることもあるでしょう(関係ないが SWエピソー
ド1の戦争も通商連合が起こしたものだし)。騎馬遊牧民や盗賊から身を守る
ために、契約の神が戦争の神を兼ねるというのは、自然なのかもしれません。

> ただしパルス国は多神教国ですから、ある特定の宗教のみに対して国が肩
>入れする事はなかったことでしょう。国教も定められていないようですし。
>特定の儀式を行う時に神官を招聘する事はあるかもしれませんけど。パルス
>における宗教の地位は「強すぎず弱すぎず」というところでしょうか。

 ササン朝ではローマ神話やギリシャ神話のように主柱神アフラ・マズダを中
心としてその他の神々を集約していったために、擬似一神教となり神官勢力が
幅を利かせる羽目になってしまったのですが、初期ゾロアスターのように多神
教信仰ならば、神官勢力も力を持つことは、それほど顕著でもなかったようで
す。したがって、多神教国家パルスでは宗教の力が世俗勢力(王侯貴族)を凌
駕するようなことはなかったという指摘は、まさにそのとおりかもしれません。

> なお、神官は免税特権や不逮捕特権などを持っていたようですし、学問を
>極めれば宮廷書記官などにも出世できたようです。

 ササン朝でも、階級として、神官、軍人(王侯貴族)、書記(官僚)、平民、
奴隷?があり、神官、軍人、書記の三つの階級は免税特権があったそうです。

>いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、
>点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない。
> それでも、山地から南方へ流れて海へそそぐオクサス川の水量は、雪どけ
>水と地下水を集めて豊かである。この川の水を利用して、水路が走り、周囲
>の畑や牧草地をうるおす。そしてオクサス川の河口には、名だかい港町ギラ
>ンがあり、海路をへて遠く絹の国まで通じている。

> パルス南部で葡萄が生産されているとすれば、この「オクサス川流域」で
>あったろうと推測されます。水量が豊富なのですから、葡萄生産だけでなく
>他の農業生産にも適していることでしょう。問題は葡萄が南部のような亜熱
>帯地方で育つのかどうかですが。
> パルスでは用水路や上下水道がかなり発達していたようですし、外国の川
>というのは日本とは桁違いの広さですから、「オクサス川流域」というのは
>かなり広かったのかもしれません。広さについてはチグリス・ユーフラテス
>川流域の広さがどのくらいだったのかが参考になると思うのですが。

 なるほど、ニームルーズ山脈がエルブールズ山脈とザグロス山脈を合わせた
もので、オクサス川がチグリス=ユーフラテス川に相当するということですな。
オクサス川流域は乾燥帯なので、灌漑農業が盛んだったのでしょう。
 ちなみに、チグリス=ユーフラテスの水源はトルコ西部で、場所的に合いま
せんが、作中の世界設定として、上記のような感じになっているのでしょうね。
 しかしほんとに、軍事設定が三国志的なのを除けば、アルスラ戦記の世界設
定はよく練られてますね。

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アルスラーンネタです

投稿者:はむぞう
1999年07月21日(水) 12時05分

冒険風ライダーさん、パルスの宗教についての考察はお見事と言いたいです。私ではそこまで読み取ることが出来ません。さすがですね。それに関連して蛇足とは思いますが以前にも少し紹介させてもらったシルクロードの本にあった古代ペルシアの信仰について紹介します。

最も信仰されていたのは正義と贖罪と太陽の神ミトラ。これがアルスラーンの世界のミスラのモデルかと思われます。

次ぎは清純にして高貴な処女の姿の豊穣の女神アナーヒターだそうです。アナーヒターは天空の泉の女神でもあり、その泉に咲く「ハマオ」という生命の樹とセットにして崇められていたそうです。そこから多産のシンボルともされたようです。これはアルスラーンで登場するアナーヒターのモデルかと思われます。

>パルス南部で葡萄が生産されているとすれば、この「オクサス川流域」であったろうと推測されます。水量が豊富なのですから、葡萄生産だけでなく他の農業生産にも適していることでしょう。問題は葡萄が南部のような亜熱帯地方で育つのかどうかですが。

これについては葡萄というものについて誤解があるようです。たしかにワインのイメージからフランスが原産国と思われがちですが、フランスで栽培されている葡萄の原産地は西アジアなのです。育成条件としては多湿は不適当で、その理由は実が腐ってしまうからです。水分が多いと皮より果肉が育ってしまい裂果します。その剥き出しになった果肉から腐ったりカビがついたりします。それに裂果までいかなくとも一粒ずつが密着しているので蒸れて腐ります。しかも水分が少ないほど甘味が凝縮されます。だから花が咲いてから収穫時期まで雨が少ないほど良いのです。水量が多くてはまずいのです。
また土壌についても肥沃だと樹の勢いが良くなりすぎて花付が悪くなります。これは果樹全般にいえるのですが、厳しい条件下では子孫を残す為に花をつけて実をつけます。しかし肥沃であるほど子孫を残す必要はなくなり、葉ばかり茂らせて巨大化するだけです。日本でも果樹園は、農耕に不向きなやせた土地に多いはずです。
この両方の点から葡萄の栽培は、乾燥気味の岩や砂を多量に含むやせて排水のよい土地で作られているのです。農耕地帯というよりオアシス向きの作物とは思いませんか? 確かにフランスではさかんに作られていますが、本来の気候とは合わないためか時々霜で全滅などということが起こっているようです。また貴腐ワインのように、わざと葡萄をカビさせてから収穫するという特殊なものもありますが、17世紀以降のことですから参考から外したいと思います。

それと1970年頃の百科事典を見ておりましたところ、先入観とは異なる意外なことが書かれていましたので一部ご紹介します。

イラン帝国。人口約3000万人。遊牧民は約300万人。カスピ海沿岸は年間1000mm以上の降水があり、東は地中海式気候、西は温暖湿潤気候。エルブールズ山脈を越えると草原と砂漠がひろがりオアシス都市が点在する。四季があり平均的に夏は30度、冬は3度になる。南では夏に45度になることもめずらしくない。人口の約半分が農牧業に従事するが、農地は地形や気候の制約から国土の10%のみ。主要農産物は小麦、大麦、テンサイ、綿花、ブドウ、メロン、ザクロ、イチジク。カスピ海沿岸では米、茶、オレンジ。南はナツメヤシ。

何が驚いたかというと温暖湿潤気候があるということですね。日本と同じ気候じゃないですか。しかも四季もあるということで。山脈とカスピ海の間はだいたい2~3km、最大で10kmほどということだから猫の額ほどの面積かもしれませんが。しかも地中海式気候のあたりの地下水路はモンゴル軍の遠征の折に破壊されて以来、農耕が廃れてしまったとありました。ということはアルスラーンの世界の記述から推測すると仕立て屋さんの書き込みにもあるように

>なるほど、ニームルーズ山脈がエルブールズ山脈とザグロス山脈を合わせた
もので、オクサス川がチグリス=ユーフラテス川に相当するということですな。

となって山脈の位置がイランよりかなり南に位置すると思われますし、水路もルシタニア軍が破壊するまで健在だったのですから、かなり肥沃で広大な農地が広がっていたということになるのではないでしょうか。以前の仕立て屋さんの書き込みと合わせて読んで私としては随分とパルスのイメージが変わりました。ただしそれと合わせて騎馬民族というイメージが薄れてしまったのですが…。少なくとも歩くより早く乗馬を覚えるというイメージは沸かないのです。

また山川出版社の民族の世界史という本にイラン系民族という項目を発見し、そこにパルティアをメインにした古代ペルシアの奴隷制と騎兵の鎧に関する記述が少しだけありました。

まず奴隷についてですが、奴隷の数は多く経済の重要な役割を果たしており、鉱山、農耕、家事などに用いられたそうです。奴隷の子は奴隷であり、一家の奴隷数が500人に達することもしばしばあったようです。ただ、農耕では主人が奴隷を所有地に住まわせて耕作させ収穫の一部を奴隷に与えるというように、採算性を取り入れた使い方をしていたといいます。ただし国にも税を払い、開墾の土地も制限されており、あまり楽とばかりも言えなかったのが現実だそうです。しかし全体の印象としては、一般的な奴隷のイメージより自由があったように思えます。

騎兵については、弓射の軽騎兵と重い鎧をつけた重装騎兵からなる騎兵軍団により、国が栄えたとありました。重装騎兵の鎧については具体的な記述がなかったので詳細は不明ですが、3世紀頃のコインの絵を参考にすると、うろこ状の鉄板を繋いだもので全身を覆っているような感じです。ヨーロッパの重装騎兵とどれくらい違うかよく判らないのですが、重い言うからには重量に耐えうるそれなりの馬も必要になってくるでしょうね。しかしいっそのこと輓馬のような巨体の馬(体高180cmくらいで体重が1tをこえるような)だったりすると、それはそれで楽しいかもしれません。でも馬はでかいし人は重いでは乗るのが一大事だろうな。

蛇足ですが食事について補足です。イラン人の友人に聞いたところ、現在のイランの主食は羊や鶏肉のケバブ(串焼き)にライスを添えたものだそうです。革命後アメリカの経済封鎖のおかげで自給自足目指した結果、米の収穫量が10倍近く増えナンよりライスが主食になりつつあるということです。まあ地域差はあるようですが。また羊肉は昔も今も重要な存在で、今でも客人をもてなすときには必ず1頭丸焼きにして出すという習慣があるそうです。また収穫時期になると市場も食卓もザクロであふれ、主食かと勘違いするほどよく食べるそうです。飲み物はイスラムの関係でアルコールはご法度。お茶とヨーグルトの水割り、ノンアルコールビールかコーラが主体のようです。酒については南部ではワインを作っているらしいと、古代には牛乳にナツメヤシの実を入れて発酵させた酒があったらしいというだけでした。ナツメヤシの実は暗紅色で軟らかくてとても甘味の強いものだそうです。

長々と書いて失礼しました。

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パルスの宗教とその他について

投稿者:冒険風ライダー
1999年07月22日(木) 01時49分

<いや~~、毎度ながら綿密な読み出し、お見事です。短気なわたしには、なかなか出来ないことです。>
<冒険風ライダーさん、パルスの宗教についての考察はお見事と言いたいです。私ではそこまで読み取ることが出来ません。さすがですね。>

 いえいえ、私はただストーリー設定の矛盾を「小説だったら許される」って言いたくないがためだけに、アルスラーン戦記の記述を利用して都合の良い解釈をひねり出しているだけですから大したことはありませんよ。私のほうこそ御二人のイランの歴史や風土の知識の深さにはいつも頭が下がります。私はイランの知識は高校世界史教科書の見開き1ページ分と世界史資料集1ページ分ほどしか知らないもので。しかもうろ覚えだし(^^;;)。
 それに私がここまで屁理屈をこねらねるのも、アルスラーン戦記の世界設定がかなり詳細に練られているがゆえですからね。つくづくアルスラーン戦記は名作であると思います。
 創竜伝ももう少しストーリーと世界設定が充実していれば弁護するのですけど、充実しているのが偏向社会評論の偏向度と数の多さというのではねえ……(-_-;;)。

<よくファンタジーにも契約の神って出てきますよね。盗賊ギルドの崇める神として。うむうむ、確かに、契約の神ってリアルな感じします。田中氏も結構、設定凝ってますね。冒険風ライダーさんが指摘されているように、商業国家パルスでは、主要な柱神なんでしょうね。>

 私はあの神々を見ると、ロードス島戦記の6大神(至高神ファリス・大地母神マーファ・幸福神チャザ・戦神マイリー・知識神ラーダ・暗黒神ファラリス)を想起しますね。ミスラがファリス、アナーヒターがマーファ、ウルスラグナがマイリー、アシがチャザといったところでしょうか、あとは該当しないし、かなり無理矢理に当てはめていますけど(^^;;)。ザッハークはファラリスというよりも邪神カーディスのイメージですね。「盗賊ギルドの崇める神」というのは確か「ガネード」といっていました。ロードス島戦記の話ならばですけど。
 ……いかんいかん、いきなり脱線して変な話をしてしまった(^^;;)。次いきましょう。

<暗黒崇拝ってのは、終末思想と密接に結びついていて、終末の滅びから救われるために、終末をもたらす暗黒神に信仰、生贄を捧げることで、信者は滅びから救われるって信仰ですね。ザッハーク信仰がそのような形態なのか不明ですが。>

 蛇王ザッハークは、一般の神々の信仰と違ってアルスラーン世界に実在が確認されていますし、パルスの歴史上でも「圧政者」として名を馳せています。それにストーリーが始まった時点では「封印」されているだけですから、ザッハーク信仰の目的は必然的に「蛇王ザッハークの封印解放」とならざるを得ません。その点では一般の暗黒崇拝とは少し違うものになるのではないでしょうか。
 そのザッハーク信仰の教義もアルスラーン戦記の記述の中にありますので、それを引用してみましょう。

アルスラーン戦記6 P19
<もともと蛇王ザッハークを信仰する教義においては、悪こそが世界の根源である。正義とは、「悪を否定する存在」でしかない。自分以外の者を悪として否定し、武力をもって撃ち滅ぼすというのが正義である。そして正義が大量に血を流せば、それは蛇王ザッハークの再臨を招きよせる悪の最終的勝利にむすびつくのだ。>

 上記の記述からも、ザッハーク信仰の目的は「蛇王ザッハークの封印解放」というのがうかがえます。ザッハークを復活させた後、この教義がどうなるのか分かりませんけどね。
 しかしいくら暗黒崇拝でも、自分を「悪」としている宗教は珍しいと思いますが。

<隊商は傭兵が警備する武装商人であることが多いでしょうし、また、通商で対外戦争が起こることもあるでしょう(関係ないが SWエピソード1の戦争も通商連合が起こしたものだし)。騎馬遊牧民や盗賊から身を守るために、契約の神が戦争の神を兼ねるというのは、自然なのかもしれません。>

 パルスは大陸公路の中継拠点と海上貿易の拠点とを兼ねていますし、パルスは大陸公路の交易権と徴税権を持っています。パルス歴315年の三カ国同盟軍のひとつであるチュルクはこの2つの権益を狙っていましたし(アルスラーン戦記1 P62)、ミスルはアルスラーンの奴隷解放によって奴隷貿易が干上がった上、パルス海上貿易が発展したために自己の権益が妨害された事によってパルス侵攻を開始しています(アルスラーン戦記8 P9)。また、ミスルがシンドゥラに対して同盟を組もうと画策したときも「大陸公路の支配権が奪える」などとラジェンドラをけしかけています。
 以上のように、パルスの戦争原因には通商という要素もかなり絡んでいるようです。パルスでミスラ信仰がさかんになるのもうなづけますね。

<これについては葡萄というものについて誤解があるようです。たしかにワインのイメージからフランスが原産国と思われがちですが、フランスで栽培されている葡萄の原産地は西アジアなのです。育成条件としては多湿は不適当で、その理由は実が腐ってしまうからです。水分が多いと皮より果肉が育ってしまい裂果します。その剥き出しになった果肉から腐ったりカビがついたりします。それに裂果までいかなくとも一粒ずつが密着しているので蒸れて腐ります。しかも水分が少ないほど甘味が凝縮されます。だから花が咲いてから収穫時期まで雨が少ないほど良いのです。水量が多くてはまずいのです。
また土壌についても肥沃だと樹の勢いが良くなりすぎて花付が悪くなります。これは果樹全般にいえるのですが、厳しい条件下では子孫を残す為に花をつけて実をつけます。しかし肥沃であるほど子孫を残す必要はなくなり、葉ばかり茂らせて巨大化するだけです。日本でも果樹園は、農耕に不向きなやせた土地に多いはずです。
この両方の点から葡萄の栽培は、乾燥気味の岩や砂を多量に含むやせて排水のよい土地で作られているのです。農耕地帯というよりオアシス向きの作物とは思いませんか? 確かにフランスではさかんに作られていますが、本来の気候とは合わないためか時々霜で全滅などということが起こっているようです。>

 これは知りませんでした。葡萄というとフランスのイメージがあったし、パルス北東に位置するマルヤムから葡萄酒を輸入しているという設定がありましたから、てっきり「北方の果物」とばかり思っていました。思いこみって滑稽なものですね。勉強になります。
 そうなると、葡萄はパルス南部のオアシス地帯で生産されていると解釈した方が良いでしょうね。特に旧バタフシャーン領土は、点在するオアシスと紅玉を中心とする豊かな好物資源で成り立っているようですから(アルスラーン戦記2 P46)、ここでは特に葡萄の生産がさかんだったのかもしれません。

<何が驚いたかというと温暖湿潤気候があるということですね。日本と同じ気候じゃないですか。しかも四季もあるということで。山脈とカスピ海の間はだいたい2~3km、最大で10kmほどということだから猫の額ほどの面積かもしれませんが。しかも地中海式気候のあたりの地下水路はモンゴル軍の遠征の折に破壊されて以来、農耕が廃れてしまったとありました。ということはアルスラーンの世界の記述から推測すると仕立て屋さんの書き込みにもあるように>
<なるほど、ニームルーズ山脈がエルブールズ山脈とザグロス山脈を合わせたもので、オクサス川がチグリス=ユーフラテス川に相当するということですな。>
<となって山脈の位置がイランよりかなり南に位置すると思われますし、水路もルシタニア軍が破壊するまで健在だったのですから、かなり肥沃で広大な農地が広がっていたということになるのではないでしょうか。以前の仕立て屋さんの書き込みと合わせて読んで私としては随分とパルスのイメージが変わりました。ただしそれと合わせて騎馬民族というイメージが薄れてしまったのですが…。少なくとも歩くより早く乗馬を覚えるというイメージは沸かないのです。>

 実際のイランとパルスとでは、この辺りで違いがでてきているようですね。イランでは猫の額程度の面積を、パルスでは山脈を南方に大きく移動させる事で拡大したのでしょう。パルス北方の気候が温暖湿潤気候と地中海式気候で成り立っていたのだとすれば、土地が肥沃なのと合わせてかなり高い農業生産力が期待できます。
 パルス人の「歩くより早く乗馬を覚える」というのはどうなんでしょうね。パルスの一般人がそこまで乗馬する機会があるのかどうか……。特に大都市では馬に触れる機会さえあまりないような気がしますし。まあこれは仕立て屋さんのNo.1511「騎馬遊牧民だった頃からの伝統的形容」と解釈するしかないでしょうね。あるいは国法で一定年齢に達した後、定期的に乗馬する義務があり、そのための施設があるという裏設定があるのかもしれませんが。
 それとルシタニア軍に破壊された水路と貯水池は、アルスラーン戦記8巻で修復されています。

<騎兵については、弓射の軽騎兵と重い鎧をつけた重装騎兵からなる騎兵軍団により、国が栄えたとありました。重装騎兵の鎧については具体的な記述がなかったので詳細は不明ですが、3世紀頃のコインの絵を参考にすると、うろこ状の鉄板を繋いだもので全身を覆っているような感じです。ヨーロッパの重装騎兵とどれくらい違うかよく判らないのですが、重い言うからには重量に耐えうるそれなりの馬も必要になってくるでしょうね。しかしいっそのこと輓馬のような巨体の馬(体高180cmくらいで体重が1tをこえるような)だったりすると、それはそれで楽しいかもしれません。でも馬はでかいし人は重いでは乗るのが一大事だろうな。>

 私はパルスの騎兵は軽装騎兵で成り立っているとばかり思っていました。機動力がやたらと重要視されていたし、ルシタニアの甲冑の方が重いという記述もありましたからね。重装騎兵で速く移動できるものなのでしょうか? まあ徒歩よりは速いと思いますけど。
 鎧はおそらくアルスラーン戦記のビデオに詳しい絵があると思うのですけど、あれを見たのはずいぶん昔ですしね~(-_-;;)。

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