はじめまして。
すごい所もあるんですね。
私、半田中ファン(まだ信頼が消えきらない)なんですが、
気に成ったことを少し。
創竜伝の政治批判って、私は
1、面白いコメディ
2、作者一流の皮肉(対読者)
のどちらかだと思ってたんですけど。
確かに最近の田中作品は余りにつまらなくて、
買うきがしませんけど、矢張り銀英伝や
アップフェルラントっで感じたものを思うと無下のは否定できません。
そこで、最近考えてる仮説があるんです。
田中芳樹は自分の衰えを自覚していて、
そのうえであんなものを買う読者に愛相がつきているんでは?
最近の田中作品には、やるきの無さと同時に何か
読者にたいする憤りというか、馬鹿にしているというか、
そういう物を感じるんです。
でも、こういう風に批判したくなるのも、
きっと、「あの感動をもう1度」という期待が残っているからなんでしょうね。
皆さんもそうでなければ、「遅筆をなんとかしろ」
なんて言いませんよね?
感じた事を色々書いてみました。それではまた。
前に書いたことを整理して考えてみました。
創竜伝が「面白さ」を追求した作品であることは、作者自身が語るところでも有ります。
であるならば、社会批評まがいの破綻した文章や、「事実誤認」にも説明がつくのではないでしょうか?
「面白さ」を表す最大級の誉め言葉は「理屈抜きに」です。たしかに創竜伝は妙な「理屈」を
多く含んでいますが、それがもたらす「面白さ」
は「理屈抜き」です。
それが作者の目指すところであるとして、
創竜伝を解釈すると答えが見えくる様に思います。
つまり、主人公に叩きのめされる悪役は、
とにかく悪い奴で有った方が面白いわけです。
(少なくとも爽快感と言う意味では)
ガンダム0080は面白いですけど、
見終わった後なんだかブルーに成りますよね。
そんなものは要らないわけです。
話がそれましたが、出は悪役を作ってみましょう。醜い怪物もいいですが、ありふれている上にホラーになってしまいます。(爽快感を出すのが一版難しいジャンルでは?)ナチス残党なんて言うのもありふれている上、現実感が薄れて(良い意味での、というか過去の)田中作品らしく無くなってしまいます。
ではどうするか?世間一般で「悪い」と認識されているものを戯画化して出してやれば良いのです。どうせボコボコにされるだけの悪役なんですから、「三部の利」なんていりません。
でも唯「汚職政治化」等と言っても、説得力が
沸きませんから、何らかの形で「ボコボコにされて当然の悪役」であることをアピールしておかねばなりません。悪役の悪行を描くのも手ですが、話が暗くなる危険性があります。
だったら一見理論的な文章で「けなして」やれば良い。つまり創竜伝の社会批評は戯画化された
社会に対して行われている、作品の小道具だったのではないでしょうか?
少なくとも7巻ぐらいまではそう感じられます。
さてここからは、分析では無く単なる憶測です。最近の創竜伝は社会批評(?)のウェイトが
大きすぎる上に物語りもつまらなく、末期症状
を呈しています。物語がつまらないのは作者の筆力の低下として、露骨に前面に押し出されるようになった社会批評は、
「作者自身の戯画化」の様には受け取れないでしょうか?それが意図してかどうかは解りませんが、前回私が「読者をバカにしている」
と書いたその正体を突き詰めていくと、
「小説の小道具としての戯画化された悪役への悪口を、批評か何かと勘違いして自分に心酔してしまうバカな読者」を、作者は作品中で自身を戯画化することでバカにしているのではないでしょうか?
座談会などの手法も、元は作品世界を客体化
する為の「解毒剤」だった様に感じるのですが。
(結局現実世界と作品世界の混同を{作者に}引き起こす結果となってしまっているようですが)
それと、全共闘に対する若者の潜在的共感は当然だと思います。全共闘は内の抗争と、外からの武力行使で解体しましたが、その運動を引き起こすに至った社会矛盾は放置されて拡大しているのですから。
一例を挙げれば、今泥縄的に行われている
大学改革(教官の学生による評価、予算重点配分、等々)は当時学生運動が目指して果たせなかったものですし、沖縄問題等の報道を見ている学生に「日本は世界で唯一の戦争放棄国で(コスタ・リカは?)」と教える矛盾も無くなった訳ではないのですから。
(憲法は一番大切な決まり、日本は戦争放棄国、
日本の軍事力(軍事予算)は世界第3位、の三つの情報を与えられた生真面目な学生が出す結論はほぼ一つのしぼられますよね)
>そこで、最近考えてる仮説があるんです。
>田中芳樹は自分の衰えを自覚していて、
>そのうえであんなものを買う読者に愛相がつきているんでは?
>最近の田中作品には、やるきの無さと同時に何か
>読者にたいする憤りというか、馬鹿にしているというか、
> そういう物を感じるんです。
これすごいですね。だったらいいなあ。田中トリューニヒト芳樹とでも名付けたい。田中信者とアンチ田中派を手玉にとって何を企んでいるのか。
『ドラゴンボール』の終わり頃もこんな風だったけど。
ここのところ、田中芳樹作品の政治風刺に関して、いろいろ新スレが出来ていますし、それぞれの主張には納得できます。しかし田中芳樹が、「政治風刺小説」として『創竜伝』を書いたとはとても思えない。
というか、「政治風刺小説って、あの程度のものなの?」と、言い直したほうが良いのかも知れませんが。
ちょいと最近、柄にもなく明治の小説史などを調べています。出来れば年内に出したいと思っている、近代日本における、ある種の小説(勘のいい方ならわかる?)の立場を明確にしておきたいと思いまして。
でまぁ、明治における政治風刺小説とは、やはり自由民権運動と関連しているみたいです。一言で述べるなら、国政の傍流に置かれた人たちの恨み節みたいな要素もある。
そういう流れが、明治一〇~二〇年ぐらいに、当時のアクション小説みたいなものとくっついたのですよ。
他方、純文学から見れば、「文学にそういう不純、世間的なものを持ち込むのはけしからん」という対応がありまして。これは別項にも書きましたが、「空想小説=SFなどはけしからん」という田山花袋などの意見まで出てきた、と。
もっともこれは、日本だけの特異な状況なのでしょうね。
近代政治風刺小説の原型とも言うべきスゥイフトの『ガリバー旅行記』
など、ナンセンス文学的な要素もふんだんに入っていますし、なによりイギリスでは、その後、SFはもちろん、『モンティパイソン』に至るまでの政治風刺が継続されているのですし。
ともかくこの辺りは、私ごときより、専門家でもある田中芳樹にちゃんとした論文を書いてもらいたい。「ファンレターが来ない」とぼやくのなら、ワシが何枚でも書いてやるよ(爆)。いや、真面目な話。
さて、こういう流れから見ると、「果たして近代日本において、政治風刺を大衆小説のなかで行うのは可能か」という命題に突き当たってしまいます。
なぜなら前近代とは異なり、現代の日本が近代民主主義国家である以上、風刺の対象は政治家ではなく、大衆になるはずなのです。
しかし大衆小説の読者は、無論、大衆でなければならない。自分たちを風刺した話など、よほど人間が出来ている人しか買わないでしょう。皮肉の棘が、全部、自分たちに向いてくるのですからね。
ともかく大衆=読者が、カタルシスを得るために大衆小説を購読するのだから、風刺対象であっては、商売として成立しなくなる……。
こう考えると、近代日本では政治風刺などやりにくい状況である。そして大衆小説に限らず、マスメディアのなかで行うのは困難でしょう。
つまり『創竜伝』でやっているのは「政治風刺」ではなく、「政治家風刺」なのでしょうな。
だからこそ性格設定はステロタイプで、深みも重みもないキャラばかり出てくる。そうしていれば、読者は「自分たちには関係のないこと」と言って距離感が生じ、カタルシスを得ることも、「これはフィクションですからねぇ」と言って、逃げることも容易になる。
そしてなにより、作家(編集者、読者)は「これはただのSFではなく、(もっと高尚な)政治風刺なのだ」と優越感を得ることが出来るのですから。
まぁ、あのレベルが政治風刺だと思われているというのは、それだけ、現実の政治家のレベルも低いってことなのですが。
皮肉な話、「上質な政治風刺」を行うには、政治家のレベルを高くする必要性があるってことですか。
その意味で、『創竜伝』は反面教師とも言えるでしょう。
♪ちゃんちゃん♪