> なるほど、少し分かりました。このサイトの目的と関連付けられているんですね。私は取り敢えずそれを横においておいて、一般論としての作者と読者の関係として申しております。「書くな」ということについてですね。
そりゃ、「田中芳樹を撃つ! 掲示版」ですからね。まあ、「一般論としての作者と読者の関係」にも共通する内容かも知れませんが。
> ところで「書かない方がいい」と言うのと「書くな」ということにどれだけの違いがあるのでしょう? 結局、言い方が失礼だ、ということですか。一読者が頭の中で浮かんだ言葉がどちらであろうとも、いかほどの違いがあるのかよく分かりませんが。
「書かない方がいい」と「書くな」の違いがお分かりにならないとのことですが、おっしゃる通り「頭の中で浮かんだ言葉」にとどまっているならばどちらでもイイのです。しかし、こういう場所であれ、その言葉を公表したのですから、語義に従って違いが生じるのは当然のことでしょう。なお、言うまでもないことですが、「書かない方がいい」は単なる意見の表明、「書くな」は意見の押し付け(禁止)となります(この2つが同じであるなら、違う言葉・表現の存在する意味がありません)。
> これはS.Kさん宛てのレスに書かれていたことですが、「書くな」ということがそのまま読者が偉いということにつながるというのもよく分かりません。偉いとか偉くないとか、関係ないことではないですか。
> 「書くな」と言うならば、「言うな」と言われることもありえるし、それはその中で処理すればいいことではないですか。
明確・客観的で妥当性のある理由があるのなら、「書くな」と言ってもかまわないこともあるでしょうが、そういう理由がない場合、普通一方的に「書くな」なんて言いますか? 明白な根拠もないのに、自分の意見を押し付ける表現をしてもかまわないと思っているのですから、それだけ自らの立場が強いと自認しているのだろう、ということで「偉い」と表現しました。
それに、「言うな」と言われることもあるから「書くな」と言ってもイイ、というのは変じゃありませんか?
> うーん、「書くなという権利を保持」するというのは抽象的な話で、実際に私が田中さんに物言う時、そういう言い方をする訳ではありません。だからロード・レオンさんのおっしゃることも満更分からないのでもないですよ。
そうであるならば、当然、別の言い方も出来るのでしょうから、(少なくとも第三者が見るような場では)最初からそうしておけばイイ、というのが僕の意見です。
> 「狭量な人だと見られる」というのは一般的な危険性を示しただけのことで、そう見られるから駄目だとは決して思いません。私は自分の性格を考えて短気なのは間違いないですが、なるべく寛容でありたいとは思っています。しかしある種のこと、ええ、安全地帯に下がって他人を揶揄するようなことについては寛容ではないですし、狭量ですね。ニュートラルな思考をしようともしない人に対しては狭量ですし、党派的立場から言論を組み立てる人に対しても狭量です。だから狭量であることが全然駄目だとは思いません。
でも、「狭量な人だと見られる」というのは、論議をするにあたっては不利というか、議論が成立しない恐れすらありますよ。ちなみに「狭量:一つの考えにとらわれ、異なる考えを受け入れられない・こと(さま)」です。
> よくよく考えてみて、一連の書き込みを私は読者というよりは、物を書く人間として言っているように感じます。書く方の心構えを言っているのかも知れないですね。
うーん。IKさんが、どのようなお仕事をしているかは関係ありません。ただ、このような掲示板に書く場合の心構え・前提(=客観性を尊重する、ということ)について言っている、というのはあるかも知れませんね。つまり、どんな内容であれ書くことは出来るが、客観性のない意見については批判されることもある、ということです。
> 独白と言いますか、これも何度も言っていますが、作者と読者の関係性の中で読者は作品について何を言おうが絶対的なフリーハンドを与えられていると思います。
> そしてそれを聞くかどうか、どう取捨選択するかの権利は作者に絶対的に与えられている。
私信でのやり取りならばおっしゃる通りでしょうが、ここは不特定多数の人の見れる掲示板です。第三者に与える印象も考慮した方がよくはありませんか?
> どうもロード・レオンさんは「書くな」という言葉を命令形と受け止めているようですね。作者はそれに従う必要があるのだと。
> 私はまったくそうは思いません。「すばらしい作品でした」というのも意見、「こんなのは資源の無駄遣いだ、もう書くな」というのも意見です。
「書くな」という言葉は、相手がそれに従う/従わないに関わらず、紛れもなく命令形でしょう?(少なくとも日本語では)。そして命令形というのは、自分の意見の表明としては最も強い表現です(言論に限れば、ですけど)。そのような強い表現を用いている以上、それなりの根拠が必要ではありませんか?というのが僕の基本的な考えです。
> 批評云々は本来関係ない話でしょう? 相手に伝わるかどうかも関係ないではないですか。ただの意見なんだから。
> その人が作品を読んでひとつの意見を持ったという事実を他人がどうこう言うこと自体がおかしいんではないか、と言いたいのです。
「ただの意見なんだから、相手に伝わるかどうかも関係ない」とおっしゃるところに、いささか甘えがあるように思えますね(自分の書いた文章についての責任という点で)。
「その人が作品を読んでひとつの意見を持ったという事実」についてだけならば他人がどうこう言うのはおかしいかも知れませんが、その意見を公表した以上、その意見に対してどうこう言われることは仕方ないでしょう?(もちろん、どうこう言う側も節度を守る必要がありますけど)。
また、どんな不当な罵詈雑言であろうと、意見の表明は自由ということも出来ますよ。しかし、第三者がその意見に対して自分の意見を述べることもできるのです。
> 私としては無理を承知で自説を突き通している訳ではありません。勝ち負けに拘っているつもりもないですね。
> これは書き手としての私の信念に関わる問題です。仮にこの問題でロード・レオンさんと合意に至らなくても、負けるのが嫌で譲らない訳ではないですよ。それだけは分かって欲しいですね。
僕としては「ケッッ、なーんもわかっとらん低脳めが」と思われかも知れないリスクを承知の上で自分の意見を変えないという点で、無理(それとも甘えかな?)があるように思うんですけどね(十分、別の表現も出来るのですから)。
なお、「勝ち負け」についてですが、自分の意見の客観的な妥当性、という点に関しては常に心がけたいと思っています。もちろん、場合によっては合意に至らないとしても、それは仕方のないことでしょう。
> 「一つの表現方法自体の完全な否定」とは田中氏の言われる「発禁処分」ないしは「焚書」です。
> 寡聞にしてわたしは政治的強制だの「ちびくろサンボ」裁判だのといった面倒事に田中氏が巻き込まれているとは聞いておりません。
> ロードレオンさんは何か裏事情めいた事実でも御存知なのでしょうか?
いえ、言論の場において「こんな商品を作るな」という表現は、全否定だと認識しています。「発禁処分」ないしは「焚書」というのは、全否定が行動に及んでからの話ですよね。
> ……確かにIKさんは貴方の評価を覚悟の上で発言しているだろうと思いますが、翻ってロードレオンさんはIKさんの意見に「主観のみに基づいた狭量な発言と決め付け公言する」事をどれほどの客観性で認識なさってますか?
よく分かんなかったんですが、「狭量な発言」というのはIKさんご自身がおっしゃったことなんですけど。
> 政治家が田中氏に対する時は「相手にしてない」とは見なしてもらえない訳ですね。
> 「国民の選良」とは実に楽ではない仕事です。
いや、実際は「相手にしてない」かも知れませんが、表面上は否定的意見を許容していると見なすしかない、ということです。これは、この掲示板と田中氏との関係と同じですよ。
> 気を取り直して、ロードレオンさんの異議は尊重されて然るべき物です。
> ただ上でも挙げましたが「表現方法の制限」なんてそんな簡単に出来る物ではなく、であればロードレオンさんは「偏狭な視点から狭量な誤解で発言している」と評価されるリスクをどの程度「客観的に」御承知ですか?
でも、このサイトは「表現方法の制限」を一つの目的としている訳ですよね(その実現性は別として)。なお、『「偏狭な視点から狭量な誤解で発言している」と評価されるリスク』というのは、どういう発言のことを言っているんでしょうか?
> 作家が「愚民どもめ、俺様が悠久なる中国四千年の歴史の崇高さと毛主席の偉大さを教育してやるのだ」とコッソリでもブチ上げるほどエラい「俺様」でない事だけは確かでしょうね。
田中氏が、どこかで「愚民どもめ、俺様が悠久なる中国四千年の歴史の崇高さと毛主席の偉大さを教育してやるのだ」なんて言ったんですか?
> いい加減クドくて申し訳ないんですが、それでロードレオンさんは娯楽小説である事をアリバイに不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認めて、そうした執筆姿勢や主張を好まない・見たくないとする批判的主張を「狭量な言論弾圧」扱いする御自身の主張を「客観的」にどう見ておられるのですか。
僕は「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認め」るようなことはしてませんけど。執筆姿勢や主張内容についての妥当性のある批判については尊重したいと思っています。そして、僕がIKさんさんとの対話の中で繰り返し言っていることは、可能な限り客観性を尊重した方が良くはありませんか?ということです。批判的主張に客観的な根拠があるのであれば、尊重しますよ。
こんにちは、ロード・レオンさん。
> 僕としては「ケッッ、なーんもわかっとらん低脳めが」と思われかも知れないリスクを承知の上で自分の意見を変えないという点で、無理(それとも甘えかな?)があるように思うんですけどね(十分、別の表現も出来るのですから)。
> なお、「勝ち負け」についてですが、自分の意見の客観的な妥当性、という点に関しては常に心がけたいと思っています。もちろん、場合によっては合意に至らないとしても、それは仕方のないことでしょう。
さて…何と申せばよいでしょう。私は貴殿がすべて正しいと前提なしで思っている訳ではないので、貴殿の見方に沿って意見を変える必要は感じておりません。
上の貴殿の表現は実を申せば少々不快ではありますが、「意見」としては受容します。ただ、「無理(それとも甘えかな?)」のどこに客観性があるのか、とは思いますね。
どうも話が錯綜しているようですね。別の次元の話をごっちゃにされているようです。貴殿に言わせれば、それは私(IK)こそそうではないか、と言うでしょうが、結局、どちらに重点をおくのかということに尽きようかと思います。読者と批評者と。
作品について意見を表明するならば、その表明する人に対して言うならば、批評であった方がいいし、相手に通じた方がいいのは当然です。
「~した方がいい」と「~でなければならない」というのは違うと思うだけです。
作品に限らずこうした書き込みについても、そうした「つぶやき」に対して、客観的であれ、と反論して来たのは他ならぬこのIKです。過去ログをごらんいただければお分かりいただけると思いますが。
しかしそうしたつぶやきが言論の自由の範囲を越えて、他者の人権を著しく侵害しない限り、言論そのものは自由です。私が現在、貴殿に反論を受けているように、その行為の中で修正されればいいことではないですか。
IK個人としての行動基準はまた別のものですし、ここでそれを言ってもごく個人的なことですから仕方がないでしょう。原則の問題と私個人の行動基準をごっちゃにしないで下さい。
特に作品については、どう感じようが自由だ、というのはまあ、これは合意に達したと見ていいですね。それをそのまま表明するか、(それなりに)加工するかで意見が分かれていると考えますが、いいでしょうか?
貴殿はしきりに「議論の場」であるこの掲示板での発言とおっしゃっていますが、それについて言えば、貴殿のおっしゃるようなやり方の方が「好ましい」とは言えるでしょう。
私の前提はそれとは違っています。作者と読者の関係性において、とくどいほど言っておりますが、仮にその関係性を離れて、それをそのままこうした掲示板に書き込んだとしても、それ自体は自由ではありませんか。この辺りは管理人さんの運営方針とも関わってくる話ですが、ただ、それは当然、反論もされ、断罪されることもあり得ますよと言っているのです。
神学論争になるのでこれまで言わなかったのですが、何が客観かというのは難しい問題です。それは多数の合意し得る主観に過ぎないのではないかと思うこともあります。
そうした中で一方の「主観における客観」を持ち出して、発言に制限を加えるのは難しいのではないでしょうか。こういうのを多数決で決めるという考えにはどうにもなじめません。
その発言が「不当」だと思う人が個別に反論すべきだろう、と思います。貴殿が今、なさっているように。
IKさん、こんにちは。IKさんのこれまでの発言を読んで気になったのがダブルスタンダードとでも言うべき姿勢です。
たとえば、どんな客観性に乏しい主観だけに基づく意見であっても確かに「他者の人権を著しく侵害しない限り、言論そのものは自由」でしょう。ただそれは、皆さんが批判している田中氏の恣意的で根拠のはっきりしない(とされる)「社会評論」と似たようなものです。他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められるのではないでしょうか?
一読者であるから許されるとおっしゃるかも知れませんが、もしそうであるなら、それはフィクションを隠れ蓑にしている(ということで批判されている)田中氏とどれだけの違いがあるんでしょう? 他人を批判する割には、自分もその批判の対象と似たようなことをしている。そういう点で、僕はIKさんのお考えには矛盾があると思うし、ダブルスタンダードだとも感じるのです。
また、『作品に限らずこうした書き込みについても、そうした「つぶやき」に対して、客観的であれ、と反論して来たのは他ならぬこのIKです』ということであれば、何故その判断基準を自分自身のご発言には適用されないのでしょうか?
それに、「原則の問題と私個人の行動基準をごっちゃにしないで下さい」というIKさんの発言自体がダブルスタンダードを容認する告白のようにも思えますね。
>その発言が「不当」だと思う人が個別に反論すべきだろう、と思います。貴殿が今、なさっているように。
はい、おっしゃる通りで個別に反論させていただいております。ただ、どうやら議論する意味がなかったということを再確認するだけに終わりそうですね。どんな内容であれ(他者の人権を著しく侵害しない限り)発言することは自由であり、どんな妥当性のある内容の反論であっても聞き入れない自由もある、ということのようですから。
もともと私の立てたスレッドがちょっとずれた方向ですごい議論になってしまい、それを静観するしかなくなってしまいました。ロードレオン様もIK様もしっかりとした自分の主張をなさっておられ、「ふんふん」と頷くことしきりです。私がでしゃばるのはどうかとは思いますが、どうも読んでいて感情的になりすぎているきらいがあり、よくわからなくなってきてしまったので申し訳ありませんが横レスをさせてください。
>>> はい、おっしゃる通りで個別に反論させていただいております。ただ、どうやら議論する意味がなかったということを再確認するだけに終わりそうですね。どんな内容であれ(他者の人権を著しく侵害しない限り)発言することは自由であり、どんな妥当性のある内容の反論であっても聞き入れない自由もある、ということのようですから。
攻撃的ですねぇ(笑)。私は田中芳樹様の小説が好きです。漫画程度の小説と認識していますが、それなりにとても面白く呼んでいます。だからその作家に対して「書くな」という意見を見ると、「何であんたがそこまでいうんだ?」と少々不快にはなります。しかしこれはものの言い方であり、人それぞれの表現ということにはなりませんか?こういう場であれば、その表現方法に気をつけろということでしょうが、人による線引きはいろいろですからねぇ。だから私はできるだけ穏当な表現を心がけるべきだと思います。私の感覚からでは「書くな」という表現も良くないし、「あんたとの議論は結局意味が無い」という表現もどうかと思いますが。
なんかとってもえらそうなことを書いてしまい申し訳ありません。
> IKさん、こんにちは。IKさんのこれまでの発言を読んで気になったのがダブルスタンダードとでも言うべき姿勢です。
>
> たとえば、どんな客観性に乏しい主観だけに基づく意見であっても確かに「他者の人権を著しく侵害しない限り、言論そのものは自由」でしょう。ただそれは、皆さんが批判している田中氏の恣意的で根拠のはっきりしない(とされる)「社会評論」と似たようなものです。他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められるのではないでしょうか?
> 一読者であるから許されるとおっしゃるかも知れませんが、もしそうであるなら、それはフィクションを隠れ蓑にしている(ということで批判されている)田中氏とどれだけの違いがあるんでしょう? 他人を批判する割には、自分もその批判の対象と似たようなことをしている。そういう点で、僕はIKさんのお考えには矛盾があると思うし、ダブルスタンダードだとも感じるのです。
> また、『作品に限らずこうした書き込みについても、そうした「つぶやき」に対して、客観的であれ、と反論して来たのは他ならぬこのIKです』ということであれば、何故その判断基準を自分自身のご発言には適用されないのでしょうか?
> それに、「原則の問題と私個人の行動基準をごっちゃにしないで下さい」というIKさんの発言自体がダブルスタンダードを容認する告白のようにも思えますね。
「~と思う」のもまた主観ではないですか(苦笑)。つまるところ私の言っているのは、こういうことを指して言っているんですがねえ。もちろん貴殿は貴殿の中でご自分の意見は客観であると認識されているのでしょうが、そうは思わない人もあり得るのですね。私も自分の意見は自分なりに客観であると思っていますが、貴殿はそれを主観と認識されている訳ですよね。
例えば貴殿が「書くな」ということについて幾つかの説明を加えて客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)、その主張の根底も理屈化された主観であるのかも知れないですよ。
忘れないで下さい、カール・マルクスが自らの思想を「科学的社会主義」と呼んだことを。
そもそも何の前提もなく、自明の理として私たちが議論の根底においている基本的人権でさえ、別に物理的な法則という訳ではありません。せいぜいが「これはこういうものがあることにしておこう」という主観的な合意であるに過ぎません。もしそれが絶対不可侵の「法則」であるならば人類史上、人権を侵害された人などただひとりもいなかったでしょう。
私の言っていることは、主観を断罪する客観というのは経験則に基づいた主観であるのだから、それを限界がある中で客観化するべきだと思うが、主観であることをもってしてその意見そのものを封殺するのは異論を封じることにつながるということです。ええ、表明されないことにはその意見は存在しないことも同じことですから。
これはダブルスタンダードだとは思えません。
私個人の意見と見解を異にする人の発言権を擁護することのどこがダブルスタンダードでしょうか。もちろん、意見が違うのですから、それが表明されれば私は反論します。実際にしてまいりました。それが時に面倒でもありました。ただ、今私が述べているような見解を保持する以上、避けがたいことですね。
田中芳樹さんの著作の一部に私は痛烈に反発していますし、そういうのは止めてもらいたいと思っているのも事実です。しかし彼の執筆権そのものは擁護します。
「書くな」と言ったところで何の強制力もないですね。その限りにおいて私はこれは実質的に命令ではないし、ただの意見に過ぎないと考えています。ゆえにそう発言する権利そのものは擁護するのです。
> はい、おっしゃる通りで個別に反論させていただいております。ただ、どうやら議論する意味がなかったということを再確認するだけに終わりそうですね。どんな内容であれ(他者の人権を著しく侵害しない限り)発言することは自由であり、どんな妥当性のある内容の反論であっても聞き入れない自由もある、ということのようですから。
妥当性のあるという判断も主観ではないですか、と言っているのですが、そうですね、これ以上続けても堂々巡りになるだけですからご異存がなければこれで終了としましょう。
少々、疲れましたし(笑)
横からすいませんが、ロード・レオンさんに少し質問があります。
<たとえば、どんな客観性に乏しい主観だけに基づく意見であっても確かに「他者の人権を著しく侵害しない限り、言論そのものは自由」でしょう。ただそれは、皆さんが批判している田中氏の恣意的で根拠のはっきりしない(とされる)「社会評論」と似たようなものです。他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められるのではないでしょうか?>
と仰られるのであれば、あなたご自身がこのスレッドで一番最初に投稿したNo.3335で主張されていた、
<ちなみに創竜伝の政治・社会批評の存在自体が小説としての面白さを損なっている、というご意見には一理あると思いますが、それはあくまでも個々人が判断することであり、客観的に正否・善悪を決めることは不可能だと思います(もちろん個人の意見として主張する分にはかまわないのですが)。そして、作者自身が面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)、第三者が『小説中に「個人的な趣味」にすぎない評論を挿入する悪癖を止めるべき』というのは、さすがに言い過ぎでしょうね(「やめた方がいい」ならまだしも、ですが)。>
↑についてはどのように考えておられるのでしょうか?
「他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められる」というのであれば、これと同じ主張をまず創竜伝と田中芳樹に対してこそ適用するべきなのではないのでしょうか? アレに書かれているノンフィクションの社会評論に「より一層の自律性」など存在しないことや、主張内容そのものが間違いだらけであることは、これまでに何度もタナウツで議論されてきたことであり、あなたもそれに関しては全面的な賛同とまではいかなくとも否定はしていませんでしたよね?
そうであるのならば、田中芳樹が自らのフィクション小説中でノンフィクションの評論を展開することを、
「面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」
として「主観でのみ意見を述べること」を「免罪」しておきながら、一方で読者側が「作家や他の読者に不快感を抱かせる危険を犯してでも批判が必要だ」と「主観的に」考えた上で展開している「自分の裁量の内にある表現方法(明らかに違法な場合を除く)」については、
「第三者が『小説中に「個人的な趣味」にすぎない評論を挿入する悪癖を止めるべき』というのは、さすがに言い過ぎでしょうね(「やめた方がいい」ならまだしも、ですが)。」
と述べ、さらにはNo.3349のように、
<果たして「こんな商品を作るな」という言葉は「批評」の範疇に入るんでしょうか?(それこそ完全否定ですよね)。IKさんのご意見を読む限り、意見は主観のみで十分であり、客観性については全く考慮する必要はない、というように読めます。しかし、客観性を全く顧みることのない意見が「批評」の名に値するのでしょうか? それこそ単なる自己満足の意見に過ぎないのではありませんか?>
↑といったような否定的な意見を「読者側に対してのみ」開陳するのは矛盾しているのではないでしょうか? あなたの言うように、作家である田中芳樹側に「面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」という「主観でのみ発言する」言論の自由があるのであれば、読者側にもまた「作家や他の読者に不快感を抱かせる危険を犯してでも批判が必要だ思っているのであれば、あくまでも表現方法は自分の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」という「主観でのみ発言する」言論の自由「自体」は当然認められて然るべきなのではないのですか? 田中芳樹にさえ認められる「言論の自由」が、読者側には全く認められないなどという「作家側にのみ都合の良いエゴイズム」など容認できるはずがないでしょう。
ロード・レオンさんの一連の投稿を読んでいくと、「読者はいついかなる時でも客観的な意見を主張しなければならないが、作家側は自らの主観で必要と判断しさえすれば、法に触れない限りどんな支離滅裂なストーリーや社会評論を展開してもかまわない」という考え方を持っているようにしか思えないのです。実際、私もそのように解釈しましたし、S.Kさんもまた、あなたの主張にこういう矛盾が存在すると考えたからこそ、No.3357で、
<いい加減クドくて申し訳ないんですが、それでロードレオンさんは娯楽小説である事をアリバイに不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認めて、そうした執筆姿勢や主張を好まない・見たくないとする批判的主張を「狭量な言論弾圧」扱いする御自身の主張を「客観的」にどう見ておられるのですか。>
↑と質問されたのだと思います。それに対してロード・レオンさんはNo.3359で、
<僕は「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認め」るようなことはしてませんけど。執筆姿勢や主張内容についての妥当性のある批判については尊重したいと思っています。そして、僕がIKさんさんとの対話の中で繰り返し言っていることは、可能な限り客観性を尊重した方が良くはありませんか?ということです。批判的主張に客観的な根拠があるのであれば、尊重しますよ。>
↑と返答されておられますが、前述のように読者側に対してのみ「常に客観的な意見を表明し続けなければならない」という態度でいる限り、ロード・レオンさんが「主観的に」どのように考えていようと、周囲からは「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認めているも同然だ」と解釈されても文句は言えないでしょう。そしてIKさんもまた、その辺りの矛盾を特に強調してこられたのではないでしょうか。
そしてその上でIKさんは、あなたの意見に対して「読者側もまた『主観的に作家に対して意見を述べること【自体】』は『言論の自由の範囲内』にある」(これがIKさんのいう「原則の問題」でしょう)とした上で、作家側・読者側共に「自分の発言には責任を取らなければならないし、意見の開陳によって自分が他者から反論されたり、場合によっては断罪されたりすることもまた当然である」と述べていたわけです。従って、
<一読者であるから許されるとおっしゃるかも知れませんが、もしそうであるなら、それはフィクションを隠れ蓑にしている(ということで批判されている)田中氏とどれだけの違いがあるんでしょう? 他人を批判する割には、自分もその批判の対象と似たようなことをしている。そういう点で、僕はIKさんのお考えには矛盾があると思うし、ダブルスタンダードだとも感じるのです。>
↑というIKさんに対する批判も全く見当ハズレなものでしょう。最初に「面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと(作家が主観的に)思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」と作家側のみを一方的に「免罪」するダブルスタンダード的な発言を行ったのはロード・レオンさんの方であって、IKさんはそれに対して今まで反論していたわけなのですから。
ロード・レオンさんのIKさんに対する反論は、No.3335の投稿におけるテーマから離れて、いつのまにやら「当サイトにおける批判の客観性云々」へとスライドしてしまっているようなのですが、今までの投稿内容から推察するに、それに関してはIKさんも特に異論はないように思われますので、これ以上議論を続けるのであれば、ここはひとつ原点に立ち返り、No.3335から始まる一連の主張の整合性を考慮し直した上で発言していくべきではないでしょうか。
どうも「違法でなければ何やっても良い」というちっちゃい、こぢんまりした議論をなされているようですが…
私としては、芸として面白ければ、どれだけ違法だろうと人権侵害だろうとOKだと思いますけれども(それこそ「横紙破りだったらよかったのに」と昔から言ってますし)所詮人権や法など、人間が秩序を維持するために定めた決まり事の一つに過ぎないのですからね。こんな物は真理でもなんでもないのですよね。
ならば、「芸」の為に必要と思えば、違法や人権侵害の重さを背負って、精一杯「芸」をすればよろしい。法や人権などと言うモノサシで人間のすべてを測れるわけがありませんから、たとえそのモノサシに反しても、それは別のモノサシで価値があります。
その「芸」も「覚悟」も「責任」もなく愚痴の域を出ない「批判」を垂れ流し、自分では「発禁」の可能性すらある「芸」のつもりを持っているプロ意識が、批判される本質だと思いますけれど。
(とうぜん、自分が批判している対象を別のモノサシで評価する人がいる事実を認めるのにはやぶさかではないですよ。その論理を肯うかどうかは別ですが)
管理人として言えば、このサイトが「公正」を心がけているのは、それが強力な武器になることがわかっているからであって、それが正義や真理であるからではありません。ちなみに何度か言っていますが、本当に全否定したければこんなサイトを作ったりはしません。それだったら田中氏を刺しに行きますんで。
別にどんなことを書こうと言おうと勝手だけど、もしそれが間違っていると思ったりくだらんと思ったり、小説に邪魔だと思ったら批判するぜ、忠告するぜ、というのが私の方針ですね。
それに対する批判は当然あるでしょうから、それは甘んじて受け、その上でその妥当性を議論するべきだと思います。
IKさん、僕も完全な客観が存在し得ないことは承知してますよ。
> 私も自分の意見は自分なりに客観であると思っていますが、貴殿はそれを主観と認識されている訳ですよね。
> 例えば貴殿が「書くな」ということについて幾つかの説明を加えて客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)、その主張の根底も理屈化された主観であるのかも知れないですよ。
「自分の意見は自分なりに客観であると思っています」「客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)」??? IKさんは、ご自分の意見を客観的だと思っているんですか? それとも客観的ではないと思っているんですか?
> 私の言っていることは、主観を断罪する客観というのは経験則に基づいた主観であるのだから、それを限界がある中で客観化するべきだと思うが、主観であることをもってしてその意見そのものを封殺するのは異論を封じることにつながるということです。
僕の言いたいのは、他人を批判する以上、批判しているのと同じようなことはしない方がイイのではありませんか?ということです。同様の行為について、自分の行為は容認するが、他人の行為は批判する。僕は、それをダブルスタンダードと言っています。
> 田中芳樹さんの著作の一部に私は痛烈に反発していますし、そういうのは止めてもらいたいと思っているのも事実です。しかし彼の執筆権そのものは擁護します。
> 「書くな」と言ったところで何の強制力もないですね。その限りにおいて私はこれは実質的に命令ではないし、ただの意見に過ぎないと考えています。ゆえにそう発言する権利そのものは擁護するのです。
「書くな」と言っていながら、「彼の執筆権そのものは擁護します」ですか? 「書くな」という言葉が、執筆権の否定を表明する表現であることが分からないのでしょうか? たとえ強制力がないとしても、IKさんは自分の意見として、紛れもなく田中氏の執筆権を否定しているのです。
> 妥当性のあるという判断も主観ではないですか、と言っているのですが、そうですね、これ以上続けても堂々巡りになるだけですからご異存がなければこれで終了としましょう。
主観であるとしても、僕は自分の意見については、その根拠を可能な限り説明しており、客観性について配慮しているつもりです(反論・質問があればえんりょなくどうぞ)。そして、IKさんが「書くな」という意見の妥当性をキチンと説明できれば、僕が反論する余地もないんですけどね。
> 少々、疲れましたし(笑)
書き込みの内容がいささか混乱しているところを見るとホントにお疲れのようですね。どうもお疲れ様でした。
冒険風ライダーさん、こんにちは。
> 「他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められる」というのであれば、これと同じ主張をまず創竜伝と田中芳樹に対してこそ適用するべきなのではないのでしょうか? アレに書かれているノンフィクションの社会評論に「より一層の自律性」など存在しないことや、主張内容そのものが間違いだらけであることは、これまでに何度もタナウツで議論されてきたことであり、あなたもそれに関しては全面的な賛同とまではいかなくとも否定はしていませんでしたよね?
僕の主張は、他人を批判するような意見を表明する場合には客観性を尊重すべきである、ということと、批判する側が批判される側と同じようなことをしているのはおかしい、ということです。
まず、創竜伝はあくまでもフィクションであり、問題の「評論」の部分は、必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません。それに対してIKさんの発言は紛れもなく自分の意見の主張ですよね。それともフィクションだったのでしょうか?
また、もし田中氏が「フィクション小説中でノンフィクション(風)の評論(のように見えるもの)を展開してはいけない」というようなことを主張しているのであれば、僕も田中氏の表現方法自体を批判するにやぶさかではありません。しかし、そうでない限り、表現方法に限って言えば作者の自由とするしかないと思っています(間違った内容などについて批判するのは当然のことですけど)。
> ロード・レオンさんの一連の投稿を読んでいくと、「読者はいついかなる時でも客観的な意見を主張しなければならないが、作家側は自らの主観で必要と判断しさえすれば、法に触れない限りどんな支離滅裂なストーリーや社会評論を展開してもかまわない」という考え方を持っているようにしか思えないのです。
意見の主張(特に他人を批判するようなもの)であるなら(どんな立場の人であっても)客観性を尊重すべしだし、フィクションであるなら表現方法に関しての制約は存在しない、と考えています。ただし内容についてであれば、出来るだけ破綻のないものを目指すのは当然のことです。
> 前述のように読者側に対してのみ「常に客観的な意見を表明し続けなければならない」という態度でいる限り、ロード・レオンさんが「主観的に」どのように考えていようと、周囲からは「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認めているも同然だ」と解釈されても文句は言えないでしょう。そしてIKさんもまた、その辺りの矛盾を特に強調してこられたのではないでしょうか。
>
> 作家側のみを一方的に「免罪」するダブルスタンダード的な発言を行ったのはロード・レオンさんの方であって、IKさんはそれに対して今まで反論していたわけなのですから。
冒険風ライダーさんは(そして、もしかしたらIKさんも?)、フィクションと意見の主張とを混同しているのではありませんか?
ロード・レオン様、
いずれIKさんご自身から回答があるかもしれませんが、「疲れた」といっておられますので、せめて元気を回復されるまでの間だけでも、私見をはさんでみたいと思います。
はじめに、私がこの掲示板を知ってから半年ほどになりますが、IKさんが、田中芳樹氏に向けて「執筆をやめよ」といったり、「私は客観的な視点を持つことには関心がないね」などと言われたことは、一度もないかと思います。また、IKさんのこれまでの発言内容から推測する限り、この後にもそのような発言をされるとは、すくなくとも私には想像できません。(もちろんIKさんの発言に責任を持つのは、IKさんだけですから、何の保証をすることも、私にはできませんが。)
ただ、IKさんは「あることをしないこと」と「それをする権利を放棄すること」の二つを、厳密に区別しておられるだけではないでしょうか?
分かりやすい(と思われる)例を、挙げてみます。
私たちは、法が支配する社会の市民として、他者を訴える権利を保障されています。そして、例えばある訴訟は、もしも勝訴したら、相手を破産に追い込むほどの賠償金をとることになるものかもしれません。
さらにいえば、そのような訴訟の係争相手は、ひょっとして自分の親兄弟や配偶者かもしれないのです。
もちろん個別の事情はあるでしょうが、一般論としては、家族の絆を信頼して、身内で問題を解決しようとせず、親や配偶者を訴え、破産に追い込むようなことをする人物がもしもいたら、私はその人を尊敬はできないでしょう。そういう人がもしもいるなら、いなくなってほしいと、私は思います。
しかし、それでは、家族を相手の訴訟を非合法化すればよい、という意見を支持できるか、といえば、できません。なぜなら、どのような親子関係・夫婦関係を構築するかは、当事者の問題であって、他人が干渉するものではないからです。
同様に、田中氏に向かって「執筆をするな」という人がいるとしても、(暴力的な形をとらない限りは)それは、その人と田中氏の問題で、第三者が、「そのような発言をするな」と口を挟む性質のものではありません。言い換えれば、田中氏に向けて「書くな」というのは、親兄弟を訴えるのと同様に、「やりたくはないし、やるつもりもないが、それを決める権利は自分だけのもので、誰にも侵害させない」、ということではないでしょうか。
繰り返しますが、IKさんは、田中芳樹氏に「執筆をやめよ」と言っているわけではありません。「そのような発言をする、しないを決める権利は、自分だけにある」と、言っておられるのです。
少し話が変わりますが、銀英伝が執筆されていた頃(20年近く前)は、まだ冷戦の只中でした。
その頃、アメリカのTV局が企画して、米ソ市民の直接対話という番組があったのを、今でも記憶しています。その中で、特に私の興味を惹いたのは、アメリカ人が、
「あなた方には、自国の指導者を批判する自由がありますか」
と尋ねたのに対して、ソ連側が、
「我々は、我々の指導者を支持しているので、批判の自由があるかどうかには、関心がない」
と、答えたことでした。これは、「法」が支配する社会と、「人」が支配する社会の違いを、実に端的に表現しており、おそらくは、双方とも率直な見解を述べたのでしょう。ソ連の人にとっては、指導者が良い「人」かどうかが最大の問題でした。アメリカ人にとっては、それも確かに大切ですが、それよりもっと大切なのは、自分たちが指導者を選ぶという「法」が機能しているかどうかだったのです。
再び、田中氏への批評に話を戻しますと、「書くな」と言うか言わないかを論ずるのは、政治指導者が良いか悪いかを論ずるのと、同質の問題であると思います。これに対して、「書くなという権利」があるかないかを論ずるのは、指導者を選ぶ権利が民衆にあるかないかを論じるのと同じです。
こう考えれば、ロード・レオンさんとIKさんの間に、決定的な意見の相違があるわけでもないのでは?
疲れたなどと泣き言を言っている間に皆さんがそれぞれのご意見を述べられ、また、ロード・レオンさんが再びレスをして下さったので、老骨に鞭打って書き込みます(中年ですけど)。
まず冒険風ライダーさん、Kenさん錯綜しがちな私の文章の論点をまとめていただき有難うございました。私自身、その通り! とひざを叩きました(駄目な奴ですね)。
管理人さん、ほぼ私も貴殿の見解に同意します。作家はベストの作品を仕上げるのが第一義であると考えます。物書きが善人になろうなど厚かましいのだ(と思います)。
さて、ロード・レオンさん。
私の見解はほぼすべて申しました。冒険風ライダーさんと Ken さんがまとめて下さった通りでもあります。貴殿と問題にしているところがどうも異なるようですね。私としてはあれ以上の返答は押しても引いても出てきそうにありません。その上でこれ以上は徒労なような気もしますが、どうも貴殿は意識的に誤読しているようなので、この上は揚げ足取りに終始するようにも思われます。もちろん、いくら短気な私とは言え、まだ多少は忍耐力が残っておりますから貴殿のしばしば礼を失した文章にもお付き合いできると思いますが、基本的には同じことの繰り返しであると思っていることは表明しておきます。
>> 私も自分の意見は自分なりに客観であると思っていますが、貴殿はそれを主観と認識されている訳ですよね。
>> 例えば貴殿が「書くな」ということについて幾つかの説明を加えて客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)、その主張の根底も理屈化された主観であるのかも知れないですよ。
>
>「自分の意見は自分なりに客観であると思っています」「客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)」??? IKさんは、ご自分の意見を客観的だと思っているんですか? それとも客観的ではないと思っているんですか?
自分では客観的であると思っている、と言明しております。失礼ですが誤読のしようがない部分だと思いますが。ただ、私がそう思うことが直ちに60億人類にとって普遍的真理とは考えません。そこがおそらく貴殿と私の違うところです。私の意見はもちろん私にとって「意味がある」ことですが、誰にとってもそうとは限らないことは事実として知っております。
だからこそ一方の主観で他方の主観を抹殺してはならないと申し上げているのですが、これはそんなに難しい内容ですか?
いえ、少し分からないでもありません。おそらくきっと貴殿は「書くな」ということこそ「抹殺」ではないかと仰りたいのではないでしょうか(違っていたら訂正して下さい)。これについてもこれは何ら物理的強制力を持たないので抹殺には当たらないとの見解を私は示しています。全否定うんぬんはそれぞれの心の中のことですから、討議するに値しません。田中さんは無視すればいいだけのことですよ。
ある対象を全否定することの危険性は別の問題でしょう。しかし、その種の全否定を全否定されている。まるで冗談のようなこの事実をどうお考えなのでしょうか。
>僕の言いたいのは、他人を批判する以上、批判しているのと同じようなことはしない方がイイのではありませんか?ということです。同様の行為について、自分の行為は容認するが、他人の行為は批判する。僕は、それをダブルスタンダードと言っています。
これについても私は「~した方が良い」と「~しなければならない」は違うとの見解を示しております。ええ、思ったとおり堂々巡りになっているようですね。貴殿のおっしゃることはややお節介、まあ、この言い方が悪ければパターナリズムのきらいがありますが、私はもっと個人の自由というものを評価しておりますので、その人がどのような手法を言論に際して取ろうとも、それは自由であると考えています。ただしきっちりと批判は致しますよということです。
ついでに言えば「~した方が良い」というのは貴殿個人の主観なのですから何も他人がひれ伏す義務もないのです。ひれ伏さなければ気がすまないということの方が「偉そう」ではないですか。
私の考えでは、私に出来るのは私個人の基準で批判することまでであり、その上で他人がどういう選択をなそうが、私のあずかり知らぬことです。神様でもないし専制君主でもないんですからね。
>「書くな」と言っていながら、「彼の執筆権そのものは擁護します」ですか? 「書くな」という言葉が、執筆権の否定を表明する表現であることが分からないのでしょうか? たとえ強制力がないとしても、IKさんは自分の意見として、紛れもなく田中氏の執筆権を否定しているのです。
また原則の問題と私個人の見解をごっちゃにしてますね。冒険風ライダーさんがあれほど平易に説明してくださったのにまだ分からないんでしょうか。まあ、いいでしょう。「書くな」と私が言ったとしましょう。それでもいいですよ。私が執筆権を言葉で否定しようが、選択するのは田中芳樹さん個人です。いいですか、私は田中芳樹さんの選択権を擁護するときちんと言っておりますよ。その上でどういう選択を成すかは彼個人の権利であり、責任です。「がんばってくださいね」という言葉で彼が筆を折るかも知れません。そんなことまで誰が責任を取れますか。取れるというならば思い上がりも甚だしい。田中芳樹さんという一個の人格に対して失礼です。
ひとつの人格がひとつの作家としての個人を全否定した。そこに何の問題があるでしょう。人はみな違うのです。人それぞれなのですよ。田中芳樹さんは問題が多い作家ではありますが、文章を書く上でそこまで自立していない人だとはまったく思えません。未成年者に言っているのではないのですよ。書くことによって生計を立てているプロフェッショナルに対して言っているのです。
敢えて忠告をさせていただければ、貴殿はプロフェッショナルに対してもっと敬意を払うべきだと思いますね。
>主観であるとしても、僕は自分の意見については、その根拠を可能な限り説明しており、客観性について配慮しているつもりです(反論・質問があればえんりょなくどうぞ)。そして、IKさんが「書くな」という意見の妥当性をキチンと説明できれば、僕が反論する余地もないんですけどね。
「書くな」という意見は何度も申していますが私個人の意見ではないので、その妥当性を示すことは出来ません。ただしそういうことを言う人は、過去にも何人かおりましたし、彼らなりの「妥当性」を示しています。同じことを見て、「書くな」という意見をもったとしても仕方がないことでしょう。貴殿はそれについて「書かない方が良い」と言った方が良いと主張されている訳ですが、主観ということにおいては少なくとも私にとっては大して違いがあることではないですね。
<僕の主張は、他人を批判するような意見を表明する場合には客観性を尊重すべきである、ということと、批判する側が批判される側と同じようなことをしているのはおかしい、ということです。
まず、創竜伝はあくまでもフィクションであり、問題の「評論」の部分は、必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません。それに対してIKさんの発言は紛れもなく自分の意見の主張ですよね。それともフィクションだったのでしょうか?
また、もし田中氏が「フィクション小説中でノンフィクション(風)の評論(のように見えるもの)を展開してはいけない」というようなことを主張しているのであれば、僕も田中氏の表現方法自体を批判するにやぶさかではありません。しかし、そうでない限り、表現方法に限って言えば作者の自由とするしかないと思っています(間違った内容などについて批判するのは当然のことですけど)。>
言っている事が矛盾しているのではありませんか? その「間違った内容などについて批判する」当然の行為を創竜伝に対して行ったら、内容の如何を問わず「これはフィクション小説であり、その主張は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」といった「赤錆のついた反論」の類を田中芳樹側が返すことが「構造的に見て」可能であるからこそ、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が、小説中の評論に対して「『フィクションだから許されるという免罪符』を【構造的に】与える【客観的事実が存在する】から問題である」として非難されるのですけど。
これこそが「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が抱える「客観的事実に基づいた構造的問題」なのですから、「そのような問題を抱える表現方法はやめるべきである」という批判は充分に「客観的根拠」を伴っているでしょう。田中芳樹が「主観的に」どう考えていようが、この「客観的事実に基づいた構造的問題」は完全に成立するわけなのですから、何でこの「客観的事実に基づいた構造的問題」というテーマに対して、特に関係があるとも思えない「田中芳樹個人の主観」などをベースにして議論しなければならないのでしょうかね?
はからずもロード・レオンさんのNo.3368での私に対する反論自体が、この「客観的事実に基づいた構造的問題」を非常に分かりやすく目に見える形で浮き彫りにしているではありませんか。自分で書いていて気づきませんでしたか?
それとですね、「田中作品中に挿入されている社会・政治評論の類」が小説中のストーリー&作品設定とは何ら関わることなく展開されているばかりか、むしろそれらを崩壊させる弊害すら生じさせていることは、それこそ今までタナウツで何度も繰り返し議論されていますし、また田中芳樹関連の対談本やエッセイ本などを見ると、そこには田中芳樹自身がそれらの評論を「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」として書いていることを自ら告白している箇所や、小説中の評論と同趣旨ないしは同じ内容で述べられている主張内容が少なからず存在しています。
これらの「客観的事実」を無視して「創竜伝はフィクション小説であり、作中の評論は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」などと述べたところで、そんなものはロード・レオンさんお好みの「客観性を尊重した主張」とは到底言えたものではないでしょうね。あなたの主張を成立させるためには、すくなくとも私が挙げた「客観的事実」を覆すだけの理論的根拠と説得力を持つ「別の客観的事実」を出す必要があるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
それからついでに言いますけど、あなたの主張する「他人を批判するような意見を表明する場合には客観性を尊重すべきである」に関しては、「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問9&12に同趣旨の回答が存在しますし、「批判する側が批判される側と同じようなことをしているのはおかしい」という疑問についても、趣旨は少し違うかもしれませんが、同FAQの設問10によく似た質問に対する回答が存在します。そして、これも繰り返し主張しますが、今までのIKさんの投稿内容を見る限りでは、IKさんはあなたのそのような主張に対して、特に大きく隔たった異論は存在しないように私には見えるのですけどね。
ロード・レオンさんは「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問5をベースに議論しているようですが、そればかりでなく、「田中芳樹を撃つ!FAQ」に設置されている設問全部、および設問中にリンクされている「管理人からのメッセージ」の諸ページなども参照してみるべきなのではないでしょうか。すくなくともそれらには、あなたが期待する一定の回答が書かれているように思われるのですが。
Kenさん、こんにちは。なかなか面白い例を挙げて下さいましたね。
せっかくですから、この事例に当てはめてみますと、IKさんの意見は、たとえ「親や配偶者を訴え、破産に追い込むようなこと」であっても法的な権利を行使することについては無条件で賛成する、というものです。
それに対して僕の意見は、法的な権利を行使することは自由には違いありませんけど、本当に手放しで賛成していい内容ですか? 賛成するのであれば、妥当性の根拠を説明して下さい。もし説明できないのであれば、せめて賛否の判断を保留した方がイイのではありませんか?ということです。
僕も、発言の権利自体を否定する訳ではありません。ただ、その発言の客観性・妥当性について疑わしいものがあれば、反論・質問することも自由だと考えています。
> 疲れたなどと泣き言を言っている間に皆さんがそれぞれのご意見を述べられ、また、ロード・レオンさんが再びレスをして下さったので、老骨に鞭打って書き込みます(中年ですけど)。
IKさん、余り無理をしない方がイイですよ。
> 自分では客観的であると思っている、と言明しております。失礼ですが誤読のしようがない部分だと思いますが。
なるほど、「客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)」という文章の対象はIKさんご自身の意見ではない、ということですね。
> だからこそ一方の主観で他方の主観を抹殺してはならないと申し上げているのですが、これはそんなに難しい内容ですか?
言論の場において妥当性のない主張が(反論されることなどによって)淘汰されていくのは当然のことではないでしょうか? もっとも発言するな、とまでは言えませんけどね。
> いえ、少し分からないでもありません。おそらくきっと貴殿は「書くな」ということこそ「抹殺」ではないかと仰りたいのではないでしょうか(違っていたら訂正して下さい)。これについてもこれは何ら物理的強制力を持たないので抹殺には当たらないとの見解を私は示しています。全否定うんぬんはそれぞれの心の中のことですから、討議するに値しません。田中さんは無視すればいいだけのことですよ。
相手がどう対応したとしても、文章自体の意味することに、そう変りがあるとは思えません。もちろん、心の中だけで思っているのであれば、何も言いませんよ。その考えを公表したからこそ問題にしています。それに相手が無視すればそれで済むというのは「甘え」ではありませんか?
> ある対象を全否定することの危険性は別の問題でしょう。しかし、その種の全否定を全否定されている。まるで冗談のようなこの事実をどうお考えなのでしょうか。
全否定であろうと何であろうと、僕は根拠・妥当性のない意見に対しては批判いたします。ただ、全否定ということだけで批判している訳ではありません。
> ついでに言えば「~した方が良い」というのは貴殿個人の主観なのですから何も他人がひれ伏す義務もないのです。ひれ伏さなければ気がすまないということの方が「偉そう」ではないですか。
> 私の考えでは、私に出来るのは私個人の基準で批判することまでであり、その上で他人がどういう選択をなそうが、私のあずかり知らぬことです。神様でもないし専制君主でもないんですからね。
おっしゃる通り、批判されている側がどう応じるかは、批判されている側の自由です。
> 「がんばってくださいね」という言葉で彼が筆を折るかも知れません。そんなことまで誰が責任を取れますか。取れるというならば思い上がりも甚だしい。田中芳樹さんという一個の人格に対して失礼です。
「がんばってくださいね」という言葉に対してまで責任を取れなんて言いませんよ。しかし「がんばってくださいね」という言葉と、「書くな」という言葉ではイコールではないのです。
> ひとつの人格がひとつの作家としての個人を全否定した。そこに何の問題があるでしょう。人はみな違うのです。人それぞれなのですよ。田中芳樹さんは問題が多い作家ではありますが、文章を書く上でそこまで自立していない人だとはまったく思えません。未成年者に言っているのではないのですよ。書くことによって生計を立てているプロフェッショナルに対して言っているのです。
> 敢えて忠告をさせていただければ、貴殿はプロフェッショナルに対してもっと敬意を払うべきだと思いますね。
ひとつの人格がひとつの作家としての個人を全否定した。その妥当性を問題にしています。相手がプロであれ、アマであれ、妥当性のない否定は単なる言いがかりでしかありません。それとも、プロフェッショナルである以上、いかなる言いがかりであろうとも甘受すべきだとおっしゃるのでしょうか?
> 「書くな」という意見は何度も申していますが私個人の意見ではないので、その妥当性を示すことは出来ません。ただしそういうことを言う人は、過去にも何人かおりましたし、彼らなりの「妥当性」を示しています。
その「妥当性」とはどのようなものでしょう? 実例を挙げていただけませんか? その「妥当性」に納得がいけば、僕もこれまでの主張を撤回するにやぶさかではありません。
ちなみに『そこも作者の裁量のうちと言うのも分からないではないですが、それならば所詮はその程度の作品ですよ。それに対して消費者として「こんな商品を作るな」というのは当然だと思います(3340)』という文章の中の「こんな商品を作るな」というのはIKさんご自身の意見ではなかった、ということですね。僕はてっきりIKさん自身の意見だと思ってましたよ。ただ、そうであったとしても、なぜ当然だと思ったのかが、気になるところではありますが(「その程度の作品」とは、どの程度の作品なのか?)。
> 言っている事が矛盾しているのではありませんか? その「間違った内容などについて批判する」当然の行為を創竜伝に対して行ったら、内容の如何を問わず「これはフィクション小説であり、その主張は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」といった「赤錆のついた反論」の類を田中芳樹側が返すことが「構造的に見て」可能であるからこそ、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が、小説中の評論に対して「『フィクションだから許されるという免罪符』を【構造的に】与える【客観的事実が存在する】から問題である」として非難されるのですけど。
> これこそが「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が抱える「客観的事実に基づいた構造的問題」なのですから、「そのような問題を抱える表現方法はやめるべきである」という批判は充分に「客観的根拠」を伴っているでしょう。田中芳樹が「主観的に」どう考えていようが、この「客観的事実に基づいた構造的問題」は完全に成立するわけなのですから、何でこの「客観的事実に基づいた構造的問題」というテーマに対して、特に関係があるとも思えない「田中芳樹個人の主観」などをベースにして議論しなければならないのでしょうかね?
> はからずもロード・レオンさんのNo.3368での私に対する反論自体が、この「客観的事実に基づいた構造的問題」を非常に分かりやすく目に見える形で浮き彫りにしているではありませんか。自分で書いていて気づきませんでしたか?
残念ですが、『内容の如何を問わず「これはフィクション小説であり、その主張は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」といった「赤錆のついた反論」の類を田中芳樹側が返すことが「構造的に見て」可能である』からと言って、その表現方法自体が否定される必然性はないと考えます。批判すべきは、あくまでもその内容についてではありませんか?
> それとですね、「田中作品中に挿入されている社会・政治評論の類」が小説中のストーリー&作品設定とは何ら関わることなく展開されているばかりか、むしろそれらを崩壊させる弊害すら生じさせていることは、それこそ今までタナウツで何度も繰り返し議論されていますし、また田中芳樹関連の対談本やエッセイ本などを見ると、そこには田中芳樹自身がそれらの評論を「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」として書いていることを自ら告白している箇所や、小説中の評論と同趣旨ないしは同じ内容で述べられている主張内容が少なからず存在しています。
「評論」がストーリー&作品設定を崩壊させているとしたら、それは田中氏の不手際であり、その田中氏の不手際を批判するのは当然のことです。しかし、「評論」が必然的にストーリー&作品設定を崩壊させるということが明確に示されない限り、「評論」を挿入する表現方法自体を批判するのは行き過ぎだと考えています。
なお、『田中芳樹自身がそれらの評論を「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」として書いていることを自ら告白している箇所』については、興味がありますので、よろしかったら出展とその文章自体を紹介していただけませんか?
> これらの「客観的事実」を無視して「創竜伝はフィクション小説であり、作中の評論は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」などと述べたところで、そんなものはロード・レオンさんお好みの「客観性を尊重した主張」とは到底言えたものではないでしょうね。あなたの主張を成立させるためには、すくなくとも私が挙げた「客観的事実」を覆すだけの理論的根拠と説得力を持つ「別の客観的事実」を出す必要があるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
「評論」が「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」であるならおっしゃる通りです。ただ、田中氏がそういうことを明言しているのであれば、「赤錆のついた反論」などを心配する必要は初めから全くなくなりますよね。
> それからついでに言いますけど、あなたの主張する「他人を批判するような意見を表明する場合には客観性を尊重すべきである」に関しては、「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問9&12に同趣旨の回答が存在しますし、「批判する側が批判される側と同じようなことをしているのはおかしい」という疑問についても、趣旨は少し違うかもしれませんが、同FAQの設問10によく似た質問に対する回答が存在します。そして、これも繰り返し主張しますが、今までのIKさんの投稿内容を見る限りでは、IKさんはあなたのそのような主張に対して、特に大きく隔たった異論は存在しないように私には見えるのですけどね。
> ロード・レオンさんは「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問5をベースに議論しているようですが、そればかりでなく、「田中芳樹を撃つ!FAQ」に設置されている設問全部、および設問中にリンクされている「管理人からのメッセージ」の諸ページなども参照してみるべきなのではないでしょうか。すくなくともそれらには、あなたが期待する一定の回答が書かれているように思われるのですが。
設問9についてですが、「イレギュラーな評論の内容、及びその評論内容の根幹を支えている田中芳樹の個人的な思想的傾向や主義主張等にまで踏み込んだ批判」については僕も許容されると考えています。ただし、「これは、あくまでもフィクションである」という反論は承知の上で、ということになりますけどね。
そして、設問12についてですが、僕は自分自身の書き込みが「威力的な荒らし行為、まったく関係ない話題の連続、(事実と関係ない)極度な罵倒や誹謗行為」だとは思っていません。
また、設問10については、IKさんが賛同する「書くな」という主張に「論理的」な根拠があれば、僕もその主張を尊重したいと思います。しかし、残念ながらそうではありません。
という訳で、いずれのFAQについても、僕の疑問に対する回答になっているとは思いません。なお、「管理人からのメッセージ」の諸ページなどに適切な内容があるのでしたら、紹介していただけると助かります。
<残念ですが、『内容の如何を問わず「これはフィクション小説であり、その主張は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」といった「赤錆のついた反論」の類を田中芳樹側が返すことが「構造的に見て」可能である』からと言って、その表現方法自体が否定される必然性はないと考えます。批判すべきは、あくまでもその内容についてではありませんか?>
これは反論になっていません。それこそあなたの忌み嫌う「言論の場における妥当性のない主張」の典型でしかありませんね。
今まで述べてきたように、あなたの言う「内容」とやらを批判しようとしたら、内容の如何を問わず「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」によって田中芳樹が責任逃れをしてしまえる「客観的事実に基づいた構造的問題」が存在するわけなのですから、むしろ「内容」を批判するためにこそ、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」を排除する必要性があるのです。そのような「表現方法」の問題を放置して「内容」とやらを批判したところで、「客観的事実に基づいた構造的問題」に基づいて田中芳樹に逃げられてしまうだけではないですか。
それに前の投稿でも言いましたが、あなた自身がNo.3368で、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』が抱える『客観的事実に基づいた構造的問題』で田中芳樹を免罪する」というテーマを自ら実践してしまっていることを無視して「その表現方法自体が否定される必然性はない」と述べたところで、そんなものは矛盾に満ちた自爆発言以外の何物でもないでしょうね。自分の投稿No.3368で展開されている「客観的事実」くらい、きちんと尊重してはいかがですか?
<「評論」がストーリー&作品設定を崩壊させているとしたら、それは田中氏の不手際であり、その田中氏の不手際を批判するのは当然のことです。しかし、「評論」が必然的にストーリー&作品設定を崩壊させるということが明確に示されない限り、「評論」を挿入する表現方法自体を批判するのは行き過ぎだと考えています。>
「管理人の本論3 作品理論をぶち壊す創竜伝の時間構成」や「管理人の本論7 トンデモ本の世界」などでは証拠になりませんか? あと、創竜伝10巻で竜堂兄弟が「敵方である牛種の本拠地である」イギリスおよびイギリスの民主主義体制を手放しで絶賛し、日本を罵る評論を唱えまくる展開も、ストーリー&作中設定と大きく矛盾した行為としか言いようがないですね。他にも色々あったように思いますが、大きなところと言えばこんなところでしょうか。
掲示板でこの手のことを議論する前に、せめて「管理人の本論」くらいは閲覧していただけませんかね? リンクも目立つ所に置いてあるのですし。
<「評論」が「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」であるならおっしゃる通りです。ただ、田中氏がそういうことを明言しているのであれば、「赤錆のついた反論」などを心配する必要は初めから全くなくなりますよね。>
残念ながら、田中芳樹自身が作中の評論についてそのような基本スタンスを表明したところで、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」によって田中芳樹が責任逃れをしてしまえる「客観的事実に基づいた構造的問題」は相も変わらず存在し続けますので、田中芳樹がいつでも責任逃れできる構造は何も変わらず、したがって「そのような表現方法は止めるべき」という主張を撤回する必然性は全く認められません。
むしろ、そのような表明は「田中芳樹が例の表現方法の『客観的事実に基づいた構造的問題』など百も承知の上で、読者を自分の論調でミスリードするため、『意図的かつ確信犯的に』あのような表現方法を行っていた可能性が高い」ことを示唆するものですらありえるため、道義的・倫理的な責任は却って重くなります。加えて田中芳樹は、タナウツだけでなく、自分の元に届く手紙にファンレターでも展開されているであろう自らの作中評論に対する反論に対して、誠実な回答・反論といったリアクションをマトモに行う気など全くないようにしか見えないのですからなおのことでしょう。
しかも対談本やエッセイ本に書かれている内容なんて、田中芳樹ファンでさえ知っている人があまり多くありませんから、仮に田中芳樹自身が「フィクションという免罪符」を駆使しなかったとしても、田中芳樹を擁護するファンがそれを使うことは充分にありえることなのですよ。現に例の「表現方法」を盾にして田中作品を擁護しようとするファンはタナウツ設立以来途絶えた事がありませんし、No.3368でロード・レオンさん自身もまたそれを実践していましたからね~。何も知らないファンのそのような作品を貶める愚劣な行動を是正するためにも、田中芳樹は例の「表現方法」を止めるべきだと私は思うのですけど。
せめて創竜伝最新刊の巻末座談会辺りで「作中の評論は私の主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判です。フィクションという要素など気にせずにどしどし反論してきてください」とでも田中芳樹自身が明言するのであれば、あなたの主張もある程度は成立するのでしょうが……。
それから、田中芳樹自身が小説中の評論を「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」として書いていることを自ら告白している文章に関しては、1987年の週刊現代9月26日号のインタビュー記事↓
http://tanautsu.duu.jp/the-best03_03_04_aa.html
や、対談本「イギリス病のすすめ」、エッセイ集「書物の森でつまずいて……」などで参照することができます。
<そして、設問12についてですが、僕は自分自身の書き込みが「威力的な荒らし行為、まったく関係ない話題の連続、(事実と関係ない)極度な罵倒や誹謗行為」だとは思っていません。
また、設問10については、IKさんが賛同する「書くな」という主張に「論理的」な根拠があれば、僕もその主張を尊重したいと思います。しかし、残念ながらそうではありません。>
すいませんが、これに関しては誤読もはなはだしいと言わざるをえませんね。
まず、設問12に関しては、別に私はあなたの書き込みを「荒らし」の類とみなしていたわけではなく、「当掲示板に投稿する際には、それなりの責任を持って投稿してください」というテーマを見せるつもりで紹介したのであって、こちらは別にあなたの主張とそうかけ離れているわけではないのですけど。
それからもう一度言いますけど、IKさん関連に関しても、IKさんはあなたがNo.3335で最初に主張していた「作家は主観的発想に基づいて何を言ってもかまわないが、『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」という内容について反論しているだけであって、途中からあなたがIKさんにさえも無断かつ勝手にスライドさせた論点「批判する際にはそれなりの根拠を挙げて発言するべきである」に関しては、何度も言うようにIKさんも特に異論はないように見えるのですがね。何でIKさんの主張を意図的に誤読(としか思えない読み方を)してまでIKさんに変なレッテル貼りを行おうとするのか、私には全く理解できません。
あなたの最初に発言していた本来の主張内容が、「作家は主観的発想に基づいて何を言ってもかまわないが、『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」であった(すくなくともそう解釈されかねない文章であった)ということは、あなたの一連の投稿を見れば分かりますよ。
No.3335
<ちなみに創竜伝の政治・社会批評の存在自体が小説としての面白さを損なっている、というご意見には一理あると思いますが、それはあくまでも個々人が判断することであり、客観的に正否・善悪を決めることは不可能だと思います(もちろん個人の意見として主張する分にはかまわないのですが)。そして、作者自身が面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)、第三者が『小説中に「個人的な趣味」にすぎない評論を挿入する悪癖を止めるべき』というのは、さすがに言い過ぎでしょうね(「やめた方がいい」ならまだしも、ですが)。>
No.3342
<そうですね。その表現が「他人をこき下ろす」だけのものであるならば、確かに「やめるべき」と言ってもかまわないでしょう。しかし、それは『小説中に「個人的な趣味」にすぎない評論を挿入する悪癖を止めるべき』と同じことではありませんよね。それとも作品中の「評論」部分の全てが「他人をこき下ろす」だけのものなんでしょうか?>
No.3349
<果たして「こんな商品を作るな」という言葉は「批評」の範疇に入るんでしょうか?(それこそ完全否定ですよね)。>
No.3355
<確かに期待しているのかも知れませんが、ホントにそうであるならもう少し表現を考えられませんか? たとえば教師が生徒に言うのであればかまわないかも知れませんが、読者ってそんなに偉かったんでしょうか? 作家が偉いとも思いませんけど、あくまでも対等の関係なのではないでしょうか? そして、対等の関係であるならば、「こんな商品を作るな」という言葉はいくらなんでも失礼に当たりませんか?(せめて、~した方がいい、でしょう?)。それとも「お客様(=読者)は神様」なんですかね?>
そして、「明確・客観的で妥当性のある理由があるのなら、「書くな」と言ってもかまわないこともあるでしょうが」と、「書くな」という言葉を作家に対して使う事を条件つきながら初めて認めたのはNo.3358以降になってからのことです。
そして、それまでのロード・レオンさんは、あくまでも「作家は主観的発想に基づいて何を言ってもかまわないが、『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」という意見のように私には見えましたし、実際、IKさんもそのように解釈したからこそ、それに対する反論として「読者側もまた『主観的に作家に対して意見を述べること【自体】』は『言論の自由の範囲内』にある」という「原則の問題」を強調した上で、作家側・読者側共に「自分の発言には責任を取らなければならないし、意見の開陳によって自分が他者から反論されたり、場合によっては断罪されたりすることもまた当然である」という「個人の見解」をIKさんは述べておられたわけです。したがって、一連の議論で双方の解釈が合わずに混乱をきたしている原因は、論争相手にすらも無断かつ勝手に論点を変えてしまったロード・レオンさんの方にこそ非があるのではないかと思われます。
ですので、もしロード・レオンさんが本来主張したかった意見があくまでも「作家は主観的発想に基づいて何を言ってもかまわないが、『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」であれば、それはすでにあなた自身が無効を宣言しているも同然なのですし、「批判する際にはそれなりの根拠を挙げて発言するべきである」だったのであれば、それはIKさんも充分に認められていることでもありますし、前半の書き込み不足な投稿でIKさんやROMにあらぬ誤解を与えてしまったことを公式に認めた上で、和解なり謝罪なり、いずれにしても何らかの対処を行うべきなのではないでしょうか。