そのように考えることで、私達に求められている"差別的行動の修正"の正体も見えてくる。すなわち、それは社会変革の手段なのであって、自身を理想的実在に近づけようとする行為ではない。Black is beautifulと主張することも、バリアフリーを義務化することも、三国人発言を行った都知事のネガティブキャンペーンを行うのも、全て同列に、社会的事実であるところの「差別問題」をノックアウトするための具体的行動なのです。
注意すべきは、それは手段なのであって、理想でないという点。仮に私が、そういったキャンペーンがある中で、キャンペーンに参加してしていなかったり、あるいは疎ましく思っていたとしても、それは「差別問題」ではない。私は単に「差別問題への攻撃に参加していない」のです。逆に、私が差別的心理の状態を放棄してキャンペーンに参加したとしても、それは問題を解決したということではない。単に、キャンペーンへの参加者を増やしたということだけに過ぎない。私は差別的心理を持ったまま、キャンペーンに参加することができます。真に差別問題が解決したとき、それは、全く無意識のうちに差別的心理を持ちえなくなっていた時であり、私達が差別的行動をやめようと決意することは、単にやさしさとか人徳による行動に過ぎない、差別問題自体とは関係しない行動なのです。
それだけではない、中国では人間を人間として扱わない風習が残っている。勝ち組は隣人を殺して食うことさえも漢人の倫理では当然といった伝統さえもある。少なくとも三国志時代までは。近現代でも文革時代の食人の記録と画像がある。21世紀でも作り物という言い訳が流布されたが、胎児を食う画像が all aboutなどから配信されていた。