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懐疑論者の集い-反疑似科学同盟- トピック

【メタ議論】(このコミュで言うところの)懐疑主義 -skepticism- とは何か? 2009年07月16日 03:00
kdx
「懐疑論者の集い」というコミュは、以前から他人のコミュ一覧の中で見かけていて、ずっと哲学の話でもしてるところなのかなと思っていたのですが、先月あたりから中身を読むようになって、ああ、そういう「ジャンル」みたいなもんがあるんだ、ということを初めて知りました。

というような私は、このコミュとも参加者がわりとかぶっている辺境の弱小ゴミ・コミュ《「mixi野「と」の会》で、ふとこういうことを考えた。

> 「懐疑論者の集い」も、こと話題が科学を離れるとまったく普通のコミュみたいな感じですねえ。SFオタクみたいな人が、多いのかな。
> 結局のところ、SFオタクと懐疑論が何か関係があるように見えて、実は関係ないんだなあ…
> 結局なんだかんだ言いながら、みんな自分の得意分野は細かい間違いとかデマに気づきやすいだけで、そうじゃない場合はぜんぜんだめなんじゃん
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=16&comm_id=4261501&id=42572643

コメント(76件)

1 2009年07月16日 03:04
kdx
困ったときのWikipediaで「懐疑主義」を調べてみると、「科学的懐疑主義」の小見出しのところに

> オカルトや心霊現象、占い等の科学的根拠に乏しい主張・疑似科学を批判することを懐疑主義と同一視することもあるが、オカルト批判や疑似科学批判と懐疑主義は密接に関連しているとはいえ、同一ではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%96%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9

とあります。

で、「科学的懐疑主義」の項目を見ると、

> 科学的懐疑主義は哲学の懐疑主義とは異なる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%87%90%E7%96%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9

とある。
2 2009年07月16日 03:12
kdx
実際には、この「界隈」では「懐疑主義的に考えると」とか「懐疑論者として」とか「それでは懐疑論者とはいえない」というような言い回しをよく目にします。で、それはどういう場合かというと、誰かの主張が上記「Wikipedia : 科学的懐疑主義」の項目でいう「信仰、逸話や伝聞を受け入れたり、反証不可能な概念に頼るよりも、立証可能性や反証可能性にもとづいて主張を評価しようと試みる」態度に欠けると見なされる場合です。

ところが同様の態度について論理的な批判がなされる場合に、「界隈」以外では単に、「論理的に考えるべし」「証拠に基づいて議論すべし」といった形で、土台のあやふやな主張に対する批判が行なわれます。これは、政治系、社会問題系その他のコミュで一般によく見られる光景です。そのとき、「懐疑主義的に」とか「懐疑論者として」などといった自己規定は使われません。もちろん、指摘している側も、自分がそのような「者」だとは思ってはいない(疑り深い人間だ、という自覚ぐらいはあるにせよ)。
3 2009年07月16日 03:12
kdx
つづきはまた明日。
4 2009年07月16日 03:21
あぜ
哲学的には、確実なものはすべて懐疑し尽くすのが、懐疑主義なんじゃないかしら?

自分を懐疑し、自分のよって立つ基盤の正当性を懐疑し、科学を懐疑し、言語を懐疑し
言語を懐疑しているときに、まさにその言語を使って言語を懐疑しているんだってことに気がつき身もだえする。

自分や、自分の言説そのものが懐疑の対象にならないまま
自分の外側の懐疑対象を見つけては懐疑しているのは、懐疑主義になるのかしら?
 
5 2009年07月16日 03:24
kdx
> 身もだえする。

おっさんがやるとまずい感じになりそうですねえ…。
6 2009年07月16日 04:52
あぜ
うは、その通り。若い子、希望、かも。
7 2009年07月16日 05:03
ミギー@回復中
wikiはソースとしての信憑性はないですが、一種の理性崇拝なのかもしれませんね。「信じられるのは考える我のみ」、みたいな(デカルト的な意味で)。

ちょっと話がそれますが、『懐疑論者の辞典』という本が面白いですよ。
8 2009年07月16日 07:52
フィロ
 言えてますω
『懐疑論者の辞典』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903063127

 この本の原題にもskepticが使われてますけど、扱っている内容は、疑似科学、歴史修正、オカルトが大部分なんですよねえ。
 懐疑主義の厳密な定義によるものではなく、一種の慣習的なものなのかな。

 まあ正確に統計とって調べたわけではないですが、SFファンにはウンチク好き、科学的間違いへの突っ込み好きが多いように思いますな。
 まあ、そのおかげで、SFは磨かれたとも言えると思います。
 フィクションとは言え、少しでもサイエンスに正確になろうって。

 そんなわけで、疑似科学批判、オカルト批判が、サブカルの形でSFファンを中心に引き起こされたのも、ちょっと納得です。
 このコミュは、そういう流れのものだと思ったりも。
9 2009年07月16日 08:19
フィロ
 サブカルとしての疑似科学批判、オカルト批判は「と学会」が、大きなきっかけでしょうね。

 オカルティストのぼくは、最初は頭にきた時期もありました。
 「人のことを笑いものにして遊びやがって!」って。

 でも、ちょっと考えてみたんですよ。
 アクションを起こすからには、批評の対象になって当然だろうと。そして、批評は必ずしも好意的なものとは限らない。
 むしろ、自分を客観視するためにも、反対意見に飛びこもうと。

 ぼくはいちおう生化学エンジニアではあるけど、25年オカルティストやってるけど、それ以外の分野は、本当にズブのド素人。
 
 これはサブカルゆえに理解しやすいし、専門外の科学の素人にも、入り込みやすい。言わば科学の啓蒙になってるんじゃないかって。
 特に、ここは様々な専門分野の人が集まってますしね。それがサブカルの形で表現されるから、理解しやすいし、とても楽しい。
 実際、ぼくは多くのことが学べたし、非常に楽しめた。
 できれば、ぼくの得意分野でも、お役に立ちたいなって気分になってる。

 でも、やはり一つのジレンマがあると思う。
 批判ってやつを行うと、どうしても傷つけられる人が出る。
 ここで批判の対象たるオカルトを奉じてるぼくは、ここを楽しむと同時に、そうした苦痛も同時に常に感じている。
 バッシングの対象に、中途半端なフォローを入れて、両者から反発かったりもしてね(苦笑)
 このジレンマは、まあ脱線だろうから、ここで止め。

 サブカルには功罪つきものなんだよね。
10 2009年07月16日 09:53
kdx
>>7

> wikiはソースとしての信憑性はないですが、

そうは言えないんじゃないかな。

これ、誰かが調べたことがあったでしょう。実際にはブリタニカか何かの百科事典のほうが間違いが多かった、という…。

> 一種の理性崇拝なのかもしれませんね。

そうですね。「崇拝」転じて「盲信」になっちゃってる人も多いという点で、宗教のアナロジーはけっこう正しいかも。

#ちなみにwikiとWikipediaは別のものです。wikiは「ソース」じゃないから、もともと「信憑性」云々とは無関係。
11 2009年07月16日 10:33
フィロ
でもまあ、一種の知的共同作業の実験としては、興味ぶかいと思うけどね。百科事典の歴史の研究者たちも無視できずにいるし。
差別トピで、在日特権の項目のノートを見てろって指摘は、まさに言い得て妙だったしね。
12 2009年07月16日 11:54
ごご~(゚∀゚)o彡゚
>>10
電子版ブリタニカと同程度の誤りが含まれる、
だったかと。
13 2009年07月16日 12:47
ながぴい
わしゃ、もはや懐疑論者というよりもデバンカーに近いね。
14 2009年07月16日 16:06
kdx
(#2のつづき)

> そのとき、「懐疑主義的に」とか「懐疑論者として」などといった自己規定は使われません。

で、ここがポイントで。

このときの「懐疑主義的に」というのは、実質的に「と学会的に」とか「SFオタク的に」とかと同じ意味にすぎないんじゃないだろうか?ってことが、大きな疑問として浮上してきたわけです。

哲学の古典的タームとしての「懐疑主義」と「科学的懐疑主義」は違うとはいっても、根本の部分として、

> 基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする

これはやっぱ外してはいけないんじゃないのかと。

ところが、単に「と学会ファンから見て」「SFファンから見て」「理系から見て」「オタクから見て」言っているにすぎないことに、「懐疑主義的」などという大仰なタームがくっつくことによって、自分たちが何かほかの「一般の人」とは違う人種なのであるという幻想が、それこそ根拠もなく共有されてしまっているんじゃないのかなと。

この「界隈」の外で単に論理的な話し合いを進めている人たちは自分たちが「懐疑主義者である」という自覚などありませんから、論の瑕疵をつかれたら単に論理的に考えて修正するだけです。ところがこの界隈では、「私は懐疑主義者である(ありたい)」という自己規定が新たなドグマとなって、ほかならぬ懐疑主義者自身の行動を制約しているのではないか?ということです。

私に対して「反・反疑似科学同盟」だと言った人がいましたが、自分たちの「懐疑主義」に他人が(そして自分自身が)懐疑的になることを拒否することこそが、「反・反疑似科学」的なんじゃないかなと思います。

まあこれは今さらありふれた論点なのかもしれませんが、これだけ教条主義と独断主義であふれかえったコミュが「懐疑論者の集い」って、なんかちょっと看板に偽りありだなーと。

そんなことを、ここ半月ほどの間に考えました。
15 2009年07月16日 16:20
kdx
この「界隈」で最近目についたドグマの実例

・「○○一味」
・差別は意識の問題であり心の問題である
・「現在海が荒れている」
・たくさん投稿するやつはニート
・1週間は日曜日から始まる!
・Outlook Expressの「返信」を押したことがないだって!?
・沖縄で皆既日食を見る
・コミュは管理人の私物だから、管理人は好きなようにしてよい。
・「みんなが不快に思っていますよ」
16 2009年07月16日 17:24
神 雅紀
笑止!!
17 2009年07月16日 17:27
ゆんゆん探偵
> サブカルとしての疑似科学批判、オカルト批判は「と学会」が、大きなきっかけでしょうね。
> オカルティストのぼくは、最初は頭にきた時期もありました。
> 「人のことを笑いものにして遊びやがって!」って。

私は、と学会の大きな功績は、オカルトや疑似科学に対して「笑い飛ばす」という視点を提供したことだと思っています。

基本的に、社会はオカルトや疑似科学などの突飛な主張に対しては保守的であるべきです。
何故なら、それらは詐欺的商法との親和性が高く、詐欺を正当化する理屈として使われることが多いからです。

ですが、世の中オカルトや疑似科学を論破できるだけのちゃんとした論理を持っている人は多くはありません。
そうした場合、真面目に真正面から批判を行おうという態度は逆に危険です。
真面目に取り合うという態度自体が、「相手に一定の価値を認めている」事の表明になりかねないからです。

そうした対象に対して「笑い飛ばす」というのは有効な選択肢です。
「笑い」は対象を無化します。
そこには一種の判断停止がつきまとうのですが、本来1個人に取って目の前の物事について本当の意味で白黒をつけなければいけない場面はまれです。
無理に判断を下そうとして間違った判断を下すくらいなら、判断を停止した方がマシな場面は多かろうと私は考えます。

そうして、社会の保守性を保つという観点から、と学会の提供した「なんだか怪しいものは笑い飛ばしてしまっていいのだ」という視点は重要な物だと私は思います。
18 2009年07月16日 18:42
神 雅紀
己が足で大地踏み締めること能わざるもの
言の葉の魂を掴むこと能わざるもの
そは汝、kdx

汝に問う
夢は現、現は夢
ならば胡蝶となりし汝は夢か現か?

さらに問う
箱の中に在りし猫は
生けるものか?
死せるものか?

さらに問う
汝在りし場所、万人に知らしめる術、有りや無しや?

さあ、応えてみせよ
19 2009年07月16日 19:25
kdx
> と学会の提供した「なんだか怪しいものは笑い飛ばしてしまっていいのだ」という視点は重要な物

でも、これはドグマそのものなんじゃないかなあ。

実際には、と学会なんてのは真面目すぎるぐらい真面目に対象に接していて、それが「笑い飛ばす」ことの正当性を担保してたんじゃないかと思うんですね。

逆に『空想科学読本』への批判では、その真面目さが裏目に出たとか…(読まずに言ってますw)。
21 2009年07月16日 22:24
フィロ
ゆんゆん探偵さん>

 そう、と学会ってのは、オカルト批判というものに「笑い飛ばし」という視点を与えたのは大きいと思います。
 それまでは、オカルト批判と来ると、つのだじろうの心霊漫画の悪役みたいで、どうにも雰囲気が悪かったですからね。
 市場安雄さんにしてみてもユーモアが無かったし、大槻さんは面白いパフォーマーではあったけど、キャラを売りにしたもので後が続かないw

 そう言った点では、と学会のやったことは画期的だったと思います。
 オカルト批判、擬似科学批判をサブカルとして定着させたことは、ユーモアを重視するという、その視点が正解だったかできたことでしょうね。

 まあ、ぼくもと学会の本は全部読んでます。だから、トンデモの本来の意味はオカルトや疑似科学に限ったことではなく、また「著者が意図したこととは違った視点」云々の言い分はもちろん知ってますが、実質上はオカルトや疑似科学の批判がメインだったことは、多くの方が頷くんじゃないでしょうか。

>基本的に、社会はオカルトや疑似科学などの突飛な主張に対しては保守的であるべきです。

 実践オカルティストのぼくが言うのもなんですが、賛成です。
 というか、オカルトは日陰者であるべきだと思ってる。

 ただ、オカルトの一番恐ろしいところは、「詐欺」ではないんです。
 本気で信じ込む「狂信」なんです。
 詐欺で騙されてる人は、説得で目を開かせることが出来る。
 しかし、狂信が入った人は、そうは行かない。
 彼らを説得するのは、マジ、至難の技ですわ。
 弟子や信者を持つ霊能者や占い師は、自身が狂信者であることが圧倒的に多い。というか、自分でも信じているからこそ、ある種のカリスマになれるわけです。

 オカルトというのは、強い中毒性を持った嗜好品みたいなもので、気をつけていないと冗談抜きで身の破滅を招きます。
 もともと、ぼくがオカルティストでありながら、懐疑主義のカルチャーに入り込んだのも、そうした中毒性への解毒剤のつもりでした。
 まあ、今は普通に面白いサブカルとして楽しんでますがω

 ただ、と学会が、本当に「笑い」を武器とすることに成功しているか? と言いますと、素朴に疑問です。
 と学会の初期の本は確かにユーモア重視でしたが、時間の流れと共に、むしろ批判、糾弾の色が目だってきているように思う。
 もちろん、と学会のオカルト、擬似科学批判の有効性は、それによっては失われてはいませんがね。

 ちなみに「オウム事件」が、ぼく達オカルティストにとって「激震」であったのなら、と学会の成功は、「強い逆風」と言ったところでしょうかω

 でもぼくは、結果的には、これは良かったと思っています。
 サブカルの形で、知的啓蒙活動の一翼を担ったことは確実ですからね。

 オカルトに「一定の価値を認めている」オカルティストのぼくが言うのもなんですがω
 
(ミス修正)
22 2009年07月17日 00:13
kdx
> 実践オカルティストのぼくが言うのもなんですが、

実践オカルティストって何するんですか?
オイリュトミーとか?
23 2009年07月17日 01:39
Yossy
風水で金運とか、あのへんでは実践オカルティストというには軽すぎますよねえ。

それはさておき、kdxさんの洞察というのはかなり当を得ているようにも感じます。
mixi内部だけでなくとも、「反疑似科学」というムーヴメント自体が変貌しつつあり、その中には結果的に新たな「擬似反疑似科学」とでも言うようなヤヤコシイ状況が生まれつつあるんじゃないでしょうか。

このあたり、極端に右に寄った人と極端に左に寄った人の行動が似通ってしまうようであるのと、良く似た状況だなあと思います。

個人的な認識では、懐疑主義的振る舞いというのは論理的な振る舞いを抱合する集合のように思っていました。

己のドクサを排する、もしくはそこまでいかなくても、己のドクサを認識し相対化するくらいはできないと、懐疑主義者とは言えないんじゃないの、と感じます。

ただまあ、「そうあれかし」ということが、「そうである」と思いたくなってしまうのは人の常かも知れず、自戒するばかりですが。
でも、他者を相対化しつつ、「オレは相対化するな」というのは、ちょっとみっともないですよね。

横道にそれますが、kdxさんのいう「界隈」「辺境」という表現はニュアンス的には理解できる気がするのですが、mixigraphなにか可視化するツール無いですかね?あったら面白いんですが。

コミュの構成人数が多いコミュを「都心」とし人数が少ないコミュを「辺境」にして、とメンバーの重複度合いに近接度合いとしてコミュをマッピングすれば、それっぽくなるかな。
24 2009年07月17日 04:12
ぬるょむ蛙連
・地震直後のイカの大量座礁は偶然か?
Ker Than for National Geographic News July 15, 2009

地震とイカの大量座礁が同時に起きる確率は限りなく低い。すなわち、科学的に相関関係が存在する確率は限りなく大きい。そして並の科学者は自らが持つ知識と能力では証明出来ないことになる。

しかし、(このコミュで言うところの)懐疑主義者は、

●自らが証明出来ない現象は、オカルトも自然現象も全て味噌糞に全て「ナイナイ主義」で押し通す主義。
●SFも漫画もアニメも味噌糞に混合し、この非科学は全てOKとする御都合主義。
●SF・漫画・アニメ・オタク文化・雑学等を味噌糞に混同する者を懐疑主義者と定義する。

となるらしい。
25 2009年07月17日 04:14
ぬるょむ蛙連
↑地震直後のイカの大量座礁は偶然か?
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article_enlarge.php?file_id=56825227
27 2009年07月17日 07:47
フィロ
 言うまでも無く、実践オカルティズムもドグマです。
 まあ、オカルトなり擬似科学なりに「一定の価値」すらも認めずに斥けようというのも、またドグマでしょう。
 実証論のみが信頼に足るってのも、またドグマですしね。

 まー、それはともあれ。
 ぼくは最初から「懐疑主義」というのは、ツールだと思ってましたから。
 極端な話し、普段は水にやさしく話しかけている人が、911陰謀説に対しては、懐疑的になるってこともあり得るわけで。
 ほら、よく新興宗教の人が、自分らの教祖には心酔してても、他の新興宗教には、やたら懐疑的になったりするじゃないですか。
 結局、ツールを使うのは人間ですからw

 自分を相対化するってのは、ホント、難しいですわ。

 ぼく達実践オカルティストの寓話にこんなのがある。
 ある男が恋人の本心を知りたくて魔法使いから、「人間の本性」を映し出す魔法の鏡を借りる。しかし、恋人も家族も村人達も、その鏡で見たら、みんな凄く醜い顔に映った。人間不信になりかけながらも、彼は恐る恐る自分の顔を映してみようと思った。
 しかし、そこには何も映っていなかった。
 鏡を魔法使いに返すときに、その話しをすると、魔法使いは笑って答えた。
「そりゃそーだ、自分を完全に客観視しようだなんて、魔法の力を使っても不可能だよ。」

 よく、
「 つ鏡 」なんて表現があるけど、魔法の鏡ですらそうなんだから、その鏡には何も映ってないでしょうw

 ぼくら実践オカルティストの奉じる思想のカバラや易というのは、バランス主義なんですな。
 まあ、実践オカルティズムにおいて、バランスの哲学が発達したのは、逆悦的な話しだけど、オカルティストってのは、非常にバランスを崩しやすいからなんですなw

 「魔法の鏡」の寓話は、ちょっときついジョークだと思うけど、自分を客観視し、相対化し、バランスを取ろうって態度は、口で言うほど簡単じゃないどころか、かなり困難だと思いますね。

 でも、努力をしてみる価値は、ぼくもあると思います。
 自戒をこめて。



PS:実践オカルティズム
 ヨーガ、西洋魔術、仙道など、瞑想や儀式など実践的な活動を行うオカルティズムの総称。

(ミス修正)
28 2009年07月17日 08:36
kdx
ドグマとドクサの使い分けって難しいなー。

と思って困ったときのウィキペディアを参照してみると、

> このときドグマは思いなし(ドクサ)とほぼ同義に扱われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%96%AD%E4%B8%BB%E7%BE%A9

なんてことも書いてあるんで、もともと同じようなもんなのか。

「ドグマ/ドクサ」のかわりに、今後はなるべく「教条主義/独断」といった言葉を使うようにします。
29 2009年07月17日 11:26
ゆんゆん探偵
>> と学会の提供した「なんだか怪しいものは笑い飛ばしてしまっていいのだ」という視点は重要な物
>でも、これはドグマそのものなんじゃないかなあ。

ドグマと言えばドグマだけど、それでいいんじゃないかとも私なんかは思うんですよね。
情報過多な現在、あらゆる事象に対して懐疑主義を貫くのは物理的に不可能なわけで。
個人レベルで実証的な検証まで含めて本当に懐疑主義を適用できるのは、自分の興味のあることや自分にとって大切な事に限られるわけです。
自分の手の届かない範囲の事については保守的でいいんじゃないのかな。
(変な物を笑い飛ばすってのは、分析を伴わずに行うとしたら、それは保守的な行為ですよね)。

自分の周囲に、どうも「あらゆる物事に白黒がついていないと落ち着かない」人がけっこうな数いるようなのを見かけて以来、そんな事を考えています。
自分に直接利害関係の無いことまで、無理に白黒つける必要は無いのにね。
アポロ陰謀論なんか、別に普通の人が直接の利害関係を持っているわけもなく、無理に自分の中で正か否か決めなきゃいけないわけもない。

そういう傾向は、短い時間で必ず何らかの結論を出そうとするテレビの方法論とかの悪影響なんかなあとか妄想してます(サンプルが自分の周囲に限られるので全く根拠レスなのですが)。
言うたら、「問と答えがセットになっている」教科書の作りとかも問題に出来そうですが。
32 2009年07月17日 11:48
kdx
>>30

たとえば>>15について、どれがドグマでどれがドクサなのかよくわからなくなった、ということです。
33 2009年07月17日 11:49
フィロ
ゆんゆん探偵さん>

 そうですね。
 何らドグマを持たない人間って、多分いませんよ。
 また、人間は全知全能にはなれません。
 ゆえに「あらゆる物事に白黒つける」ということは、そもそも不可能なわけであってω

 思いますに、自分の手の届かない範囲の事については、私的には保守、公やけでは(まあ、そこまで大袈裟でなくとも不特定多数の目に触れるようなところでは)「判断保留」ってこといしておくのが、比較的公正なんじゃないでしょうか。
 「白黒付け」たければ、その分野について勉強すれば良いわけでして。
 トンデモの類は、砂上の楼閣であることが多いので、そんなに手間がかからないことも多いですし。

 例えば「アポロ捏造説」に関しては、ぼくはズブのド素人です。
 ゆえに「私的」には「あんな数万人規模が関わった大プロジェクトで40年も嘘を付き通せるなんて、常識的にありえねーだろ」と保守的に考えてますが、コミュのトピで信望者とその道の専門家の議論については、判断保留ということにして、余計な口は挟まず沈黙し、「ふむふむ……」と頷きながら読んでます。
35 2009年07月17日 12:29
神 雅紀
ふっ、未だ答えるに能わざるか。
37 2009年07月17日 12:39
フィロ
 白黒問題で思い出しましたが、
 別トピでも紹介されてましたが、

『疑似科学と科学の哲学』 伊勢田 哲治
http://www.amazon.co.jp/dp/4815804532

 これは良い本です。
 ときどき吹き出すようなユーモアもありまして♪
 これはいわゆる擬似科学糾弾の本ではなく、とある科学哲学者の立場から、科学と疑似科学の境界線について考察してゆく本です。
 
 つまることろ、疑似科学と科学を截然とわける線はない。けど、複数の判定基準による総合評価で、両者は区別できますよ、と。
 ただ、科学と擬似科学の区別というのは、厳密に突き詰めてゆけば、「黒白の判定」と言うのは、意外と複雑で難しいもんだなーとも思わされます。
38 2009年07月17日 13:19
だるま
懐疑主義をどこまでも突き詰めていくやり方で、結局どこにたどり着くんでしょうね?

論理実証主義の例を見る限り、科学として何か有用なものは得られなかったようですが。
39 2009年07月17日 13:25
kdx
どこまでも突き詰めなくても、常識的、あるいは自然科学的に妥当な範囲で適用すればいいのでは?

「箱の中の猫が死んでるか生きてるか、開けてみるまで決まらない!」とか言っても、まあほとんどの場合、開けたときに生きてればその直前も生きてるわけで。
40 2009年07月17日 14:00
フィロ
まあ、あるところでオッカムの剃刀で、ばっさりと切ってしまうのも、頻繁に当たり前のように行われてることですしね。
41 2009年07月17日 14:18
Yossy
>24 ぬるょむ蛙連さん

>地震とイカの大量座礁が同時に起きる確率は限りなく低い。すなわち、科学的に相関関係が存在する確率は限りなく大きい。

確率が大きい小さいなどと議論しなくても、統計を取って相関係数を見れば「相関があるかどうか」は明確になりますよ。

#個人的には、統計学が科学に入るかどうかというのは微妙な気がするので、「科学的に相関関係が存在する」という表現が、どうにも座りが悪く感じます。

>そして並の科学者は自らが持つ知識と能力では証明出来ないことになる。

「そして」と続く意味が不明です。相関関係が存在すると、証明できないのでしょうか?そもそも「何を」証明できないとおっしゃっていますか?
また、「並」の科学者と「並でない」科学者の違いってなんですか?

>SFも漫画もアニメも味噌糞に混合し、この非科学は全てOKとする御都合主義。

どれも一部例外を除けばフィクションですし、それで不都合は無いのではないでしょうか?
はっきりフィクションと判っているものに目くじらを立てるのは無粋だし、ある意味狂信的な行動のように感じますが。
42 2009年07月17日 14:57
フィロ
まあ、ぐるっと回って戻るけど、ぼくは最初からこのコミュは、哲学的な厳密な意味での懐疑主義ではなく、と学会辺りからたんを発した言わば「サブカル懐疑主義」だと思ってたんですよね。
でもここには学者さんやエンジニアやお医者さんと言ったその道のプロフェッショナルが大勢参加しておられ、知識や学問の啓蒙(ちと大袈裟?)にもなってたんだと思うんですよね。分かりやすいってサブカルの強味があるから。

でもサブカルには弱みもあるわけでしょう。
つまるところ、サブカルは「遊び」ですから。実際、ここで孤立したりバッシング食らった人には、余計それが良く見えるのかもしれない。

だいぶ前に嘲笑される側の痛みってやつも話題にあげたこともあったけど、批判や嘲笑もまた人間の宿命だし、節度の基準も人それぞれなわけだし、アクションを起こすからには批評を受けて当然なわけだし、あきらかに有害な擬似科学や霊感商法の類いへの批判者は必要なわけだし・・・脱線でしたな。

まあ、サブカルな懐疑主義であるからには、大なり小なり、ご都合主義も入るでしょうね。
この点について、まあ議論するかどうかは別にしても、頭の何処かに置いておいても良いかもしれませんね。
43 2009年07月17日 15:03
skip
> 懐疑主義をどこまでも突き詰めていくやり方で、結局どこにたどり着くんでしょうね?

ヒュームの原理にたどり着くと思います。
44 2009年07月17日 15:29
ゆんゆん探偵
>まあ、サブカルな懐疑主義であるからには、大なり小なり、ご都合主義も入るでしょうね。
>この点について、まあ議論するかどうかは別にしても、頭の何処かに置いておいても良いかもしれませんね。

私は本質的にこのコミュは趣味の悪いコミュであるし、参加者はその事に自覚的であるべきだと思います。
そして、自覚的であることが趣味の悪さへの免罪符にはならないことも。

まあ、私が「思う」からどうだって話なんですが。
45 2009年07月17日 18:11
神 雅紀
>まあほとんどの場合、開けたときに生きてればその直前も生きてるわけで。

やはり言の葉の魂を掴むこと未だ能わざるか。


>ゆんゆん探偵
>私は本質的にこのコミュは趣味の悪いコミュであるし、参加者はその事に自覚的であるべきだと思います。
>そして、自覚的であることが趣味の悪さへの免罪符にはならないことも。

付け加えるならば
趣味の悪さは傍若な振る舞いの免罪符にもならない。
46 2009年07月17日 18:59
G@回転中
> 神 雅紀 さん

傍若無人は前半だけでは意味がわからなくなりますよん。

全体で「かたわらに人なきがごとし」なんで。
47 2009年07月17日 19:06
kdx
これは、箱を開けたあともなお生と死が重なり合った状態にある様子です。
48 2009年07月17日 19:17
神 雅紀
> G@回転中さん

……そこ、落とし穴(;_;)
49 2009年07月17日 19:32
あんこう
14 kdx さん

>>基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする

>これはやっぱ外してはいけないんじゃないのかと。
>ところが、単に「と学会ファンから見て」「SFファンから見て」「理系から見て」「オタクから見て」言ってい

「理系からみて」というのに関して言えば、駆け出しの学生から学者さんまで一応、自然科学という学問をしているわけですから、
>基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする
という立場に(分野によっては少し緩い所もあるでしょうが)一応は立っていないとおかしいわけで、「SFファン」「と学会」「オタク」などの趣味とは一線を画していただきたい。”権威をふりかざす”と言われたりしますが、自然科学である以上はそれなりに責任というか発言等に対して検証なり批判にさらされる状況というのは日常であり、それこそが存在意義みたいなものなので、それに対して権威を感じないという人は”懐疑論者”ではないか単なる勉強不足では無いかと思うのですが。


51 2009年07月17日 19:38
比良 凛
>48

後釣り乙

http://dic.nicovideo.jp/a/後釣り宣言
52 2009年07月17日 19:43
kdx
> という立場に(分野によっては少し緩い所もあるでしょうが)一応は立っていないとおかしいわけで、

そのはずなんですけど、現実的にはぜんぜんダメな人が多いようです。東大卒の理系で数学も当然できるのに、論理は竜華/神雅紀レベル、なんて人、ざらにいますからね。

なので私は、「理系」の人に対する、この人は《その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする》姿勢を「ある程度は」持っているに違いないという無根拠な前提(あるいは思い込みまたは独断)を、とっくの昔に捨て去りましたです。

#昔インターネットに接続しはじめた直後に、メーリング・リストだったかネットニュースだかで理系の学生が会話してるのを見て(当時はほとんどが、学部がわかるac.jpのドメインをつかってた)、理系ってなんて日本語がめちゃくちゃなんだ!と驚いたこともあります。
53 2009年07月17日 19:58
Yossy
>49 あんこう さん

>「理系からみて」というのに関して言えば、(中略)という立場に(分野によっては少し緩い所もあるでしょうが)一応は立っていないとおかしいわけで

おっしゃるとおりなのですが、実際のところ、そう「あれかし」のレベルじゃないでしょうか?
それこそ、学会の発表なんかにいくと「おいおい、マジかよ」というような方も少なくないですし。

思うに、所謂「自然科学系」というのは、測定やデータ処理などの作法が確立されており、システムのレイヤーで、個人のドクサが「入りにくいように/極力入らないように」デザインされている気がします。

私自身、元々は工学系でしたが、その後心理学系(といっても、最終的には認知心理系なので自然科学寄りですが)に変わって初めて、科学哲学に触れました。勉強不足の謗りは仕方が無いのですが、工学系に身をおいているときは、あらためて「科学とは何ぞや」というようなことは考えずともやっていけたように思います。。

むしろ、ドクサが入りやすい学問領域ほど、それゆえに己のドクサに対する警戒心が強くなるのかもしれないと感じます。

そんなわけで、学問領域全体の傾向としてはともかく、個々人のレイヤーでは「自然科学系だから」というのは、あまり重きをおけないなあ、という気がしています。
54 2009年07月17日 19:59
神 雅紀
>なので私は、「理系」の人に対する、この人は《その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする》姿勢を「ある程度は」持っているに違いないという無根拠な前提(あるいは思い込みまたは独断)を、とっくの昔に捨て去りましたです。

そして
「理系」人は《その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする》姿勢を持っていないに違いないという前提(あるいは思い込みまたは独断)を持つようになった。

と、言うことか。
55 2009年07月17日 20:14
kdx
医学は厳密に言うと科学ではないなんて言われますが、西洋医学の医者はいちおう「理系」とみなされてるんですよね?
56 2009年07月17日 20:21
フィロ
まあ、理系(ここでの場合、より正確には理系の学歴ないし職を持つ者)にも色々いますから。
恩師が学会の編集長やってたんですが、無償のタイプ係だったぼくは、しょっちゅう愚痴聞かされましたわ。
「論文は書けても、自分の専門外の分野では科学的思考の出来ない人は博士や教授にも珍しくない。」
実際、その目の前の弟子が、修士号とっときながら、実践オカルティストになるアフォになっちゃったりしてね。アヒャヒャ。
まあ、人によりますよ。

ただ思いますに、論理的思考の訓練は、知識と同じで頭の良し悪しではなく、訓練の有無だと思いますがね。

あるいはわざと非論理的なことを言うのも、「議論」ならぬ「口喧嘩」や「パフォーマンス」や「宣伝戦」では、なかなかどうして、馬鹿にならぬ「戦略」になることもあるんですが、まあこれは別の問題ですな。
57 2009年07月17日 20:50
Yossy
>55 kdxさん

>西洋医学の医者はいちおう「理系」とみなされてるんですよね?

日本の場合、大学の入試科目(と、学部の名称かな?)で文理の区別をつけることが慣習のようで、それだと医学部は「理系」で良いと思います。
入試科目では数ⅢCまで必須・理科は最低2教科選択というところがほとんどですから。

ちなみに、友人の外科医は「文理がどうというより、職人系だ」と言っていました。
個々人で考えるときは、臨床医としてのスタンスが主なのか、研究医としてのスタンスが主なのかにも拠るような気がします。
58 2009年07月17日 21:01
フィロ
> Yossyさん
友人、親戚に医者が五人居るんですが、そろって同じことを言ってました。
そのうちの一人の友人はこうも言ってました。
「患者にしてみれば、科学がどうのというより、病気が治ることのほうが大事だからね。」
59 2009年07月17日 21:04
kdx
文字化けしてます > Yossyさん

あと、半角カギもそろそろやめたほうがいいかと… > フィロさん
(Windows/MS Word使用率が高いとこうなるのかすら…)
60 2009年07月17日 21:11
kdx
で、なんで医者の話になったかというと、医者に「ぶっ飛んだ」人多いんですよ。しかも、自分はある程度知的レベルが高いと認識しているので、そのぶっ飛びがなかなか修正されなかったりして、これがまた大変です。

私は個人的な趣味で嫌煙いじめをずっとやっているのですが、話題が話題だけに医者も多いんですね。で、禁煙運動をやってる組織や団体も、医者中心のものが多かったりするのですが、これがまたひどい教条主義と独断に溢れ返っているわけですよ。

その親玉としてのWHOがあるんですが、それはまあおいといて。

この場合の教条とは「科学」それ自体です。ところが禁煙運動や公衆衛生は科学というよりも社会学的な要素が強かったりするののに、科学的データや実験の結果と、それを社会にどう適用するかという政策の間のブリッジとなる論理がごっそり抜け落ちてたりするわけです。でも、「科学的根拠にもとづく」という信念によって、その部分はいつまでたっても自分たちの中で問題化されないんですね。

Yossyさんもおっしゃっているように、医学は理屈よりも成果のほうが重要だったり、仁術的な側面もあるのは重々承知しているのですけども、それを差し引いてもなお、ひどい独断主義だなと思うことが多々あります。もちろん、嫌煙医師の側はそんな疑いはみじんも持っていなかったりして、なおいっそうやっかいです。
61 2009年07月17日 21:12
フィロ
> kdxさん
こりゃ失礼。
以後、ここでの多用は控えますわ。
62 2009年07月17日 21:14
kdx
いや、ここでといわず、基本的にやめたほうが…。
ネット上での文字化けの問題はもちろんのこと、印刷物とかつくる人も、いちいち変換したりしてますよ、原稿の半角カギ。
63 2009年07月17日 21:20
神 雅紀
>kdx坊や

>その部分はいつまでたっても自分たちの中で問題化されないんですね。

貴様も貴様で自分のドクサが抜けぬようだな。
己がドクサ、人がドクサ、人が人にある限り切れぬモノ
ならばどう折り合いを見つける?

64 2009年07月17日 21:26
フィロ
> kdxさん
了解。
ぼくの携帯では半角カギカッコがすぐでるんで、つい不精してしまいましてね。
以後、やめますわ。
65 2009年07月17日 21:35
フィロ
> kdxさん
まあ、そういう傾向は医学に限ったことではないですよ。
文献紹介トピで紹介されている書物を時間があったらみてみるといい。科学の歴史では枚挙にいとまがない。
ぼくは、前に懐疑主義はツールだって書いたけど、科学も同じ。結局それを使うのは人間ですからね。

ただ学会や科学者の共同体には、そうしたことを防止するための機能も用意されてるんだけど、それが機能しなくなることもあるわけですよ。様々な理由でね。
66 2009年07月17日 21:44
Yossy
>59 kdxさん

ご指摘感謝します。環境依存の文字には気をつけているのですが、うかつでした。

当該部分は数(ローマ字の3)Cです。
これは、旧指導要領で言う、微分・積分と代数の行列、確立・統計を含んだ分野です。

蛇足ですが、近年医学部や一部国公立大などでは、受験科目が増加する傾向にあります。
二次試験で物理・化学・生物を必須とする医学部や、国語を必須とする工学部などが出てきて、良いことじゃないかなと個人的には感じています。
67 2009年07月17日 22:19
フィロ
 ちなみにぼくはエンジニアだから、いわば科学者の発見を社会に適用するブリッジを、もろに仕事にしてるわけですけど、学者先生というのは、確かに実用化への応用、社会にそれをどう適用するか、こういった点では弱い。
 まあ、だからこそぼくらエンジニアの出番なわけなんですけどね。
 いわゆる「学者バカ」だと思って、大目に見てあげても欲しいかなーとも。
68 2009年07月21日 01:03
ぬるょむ蛙連
>41 Yossyさん

>>地震とイカの大量座礁が同時に起きる確率は限りなく低い。すなわち、科学的に相関関係が存在する確率は限りなく大きい。

>確率が大きい小さいなどと議論しなくても、統計を取って相関係数を見れば「相関があるかどうか」は明確になりますよ。

Yossyさんの一般論提示的な御説が通用するなら、『イカの大量座礁』事象記録がが残っているという前提ですね。

Yossyさん、『イカの大量座礁』記録の御提示をお願いします。
69 2009年07月21日 01:04
ぬるょむ蛙連
↑ http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=56825227&expand
70 2009年07月21日 01:26
Yossy
>68

え?統計データも何も無いのに、1回の事象だけで「確立は限りなく大きい」と言い切っていたんですか?

それと、どうせなたら他の質問にも答えていただけますか?
71 2009年07月21日 01:35
ぬるょむ蛙連
>70 Yossyさん あなたは『統計データ』を持っていない、提示出来ない訳ですね。おそらく誰が調べても同じでしょう。

一回だけの事象が大地震と同時に発生する確率。これがどれだけのものかおわかりでしょう。

この前提があって論議ははじめて進みます。
72 2009年07月21日 01:38
Yossy
ちなみに、"squid stranding"とか"squid beaching"で多言語検索すれば、結構ヒットするみたいですが。

これは2005年。
http://montereybay.noaa.gov/reports/2005/eco/harvestedsp.html

これは1998年ですね
http://www.ingentaconnect.com/content/nisc/sajms/1998/00000020/00000001/art00032
73 2009年07月21日 01:40
Yossy
>71

つまり、「確立は限りなく大きい」というのは、「根拠はオレの直感」ということですね。

で、その前提が無くても、私の下記の質問には答えられると思うのですけれど。

-----
>そして並の科学者は自らが持つ知識と能力では証明出来ないことになる。

「そして」と続く意味が不明です。相関関係が存在すると、証明できないのでしょうか?そもそも「何を」証明できないとおっしゃっていますか?
また、「並」の科学者と「並でない」科学者の違いってなんですか?

>SFも漫画もアニメも味噌糞に混合し、この非科学は全てOKとする御都合主義。

どれも一部例外を除けばフィクションですし、それで不都合は無いのではないでしょうか?
はっきりフィクションと判っているものに目くじらを立てるのは無粋だし、ある意味狂信的な行動のように感じますが。

-----
74 2009年07月21日 01:43
Yossy
訂正
>72

>これは1998年ですね

現象そのものは1997年でした。
75 2009年07月21日 01:56
Yossy
面白くなってきたので、ちょっと後の方の(これ、なんかのジャーナルの記事のアブストラクトかな?)
を眺めて見ましたが、

"An interpretation of the stranding is presented with reference to historical reports of squid strandings worldwide."

って書いてありますから、イカの座礁現象は、世界中で過去にも見られてるんじゃないでしょうか?

"Evidence suggests some periodicity in the cycle of squid strandings, which may reflect temporal shifts in frontal zones that alter the behaviour, range and environment of foraging squid populations."

ということは、何かサイクルがあることが知られているんでしょうね。
海底噴火によって海水温が変動したとか、なにか理由があるんじゃないかなあ。

2005年の方もよく読むと

"Monterey Bay witnessed Dosidicus in 2002, when a warm-water anomaly off southern Baja California was followed by a wave of mass strandings that swept northward from La Jolla to Mendocino. Local strandings were modest, but 2003 brought another wave and more media attention."

2002年のイカの大量座礁は温水帯?の異常の後に起こってるみたいなので、やっぱり水温の異常変化が関連してそうな予感。

で、

>あなたは『統計データ』を持っていない、提示出来ない訳ですね。おそらく誰が調べても同じでしょう。

でしたっけ?「誰が調べても同じでしょう」って、ぬるょむ蛙連さんはまともに調べもせずに直感で書いたんでしょうか?

76 2009年07月21日 06:18
kdx
> 地元の報道によると、ラホヤ市内では海に戻そうとする海水浴客もいたという。カモメが上空を旋回しながら身動きのできない獲物を狙っていたからだ。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=56825227&expand

ラホヤ市の人、優しい人たちです。

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