唐沢俊一P&G博覧会
2007年度版2-B


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唐沢俊一&岡田斗司夫の対談 後編


「創」2008年3月号「オタク論!」





(岡田斗司夫が自分が書いたとされる抗議文は明らかに自分の文体じゃないのにそれを検証するブロガーがいないとする発言を受けて)
唐沢 それはありますね。ネットという世界を私たちも最初は、“電子媒体で供給される活字”と思い込んでいたんだけど、実は全く性質の違うものだ、ということがわかった。
活字による情報というのは、まあ文壇なんて狭小なところは除いて、そのままではまず日常の中に侵食して来ない。
だから逆に、それを日常の中に取り入れていくことをみんな考える。
ところがネットというのは、それだけで日常とつながっている、という感覚があるものだから、実はその日常という感覚がネット社会だけのバーチャルなイメージにすぎないことに気がつかない。
というよりリアルな情報を排除しているんじゃないのかな。
たとえば、ネットで“唐沢は・・・・・・”と飛び交っている情報を、面と向って、またはメール一通であっても、私に直接“あれはどうなんだ”と質問してくる奴というのは一人もいない。
そもそもの話の中心の私ヌキにして、いいかげんな噂だけがカラ回りしている。
岡田 それは、「言われている側に反論責任がある」というネット社会の常識があるからでしょうね。
唐沢 ところが反証責任も何も、私が言ったことや書いたことは“全てウソ”という前提でやってるんですね。
“唐沢に直接訊くと言いくるめられてしまうから訊いちゃいけない”と言ってる人がいて失笑してしまいました。
自分たちの流しているのが怪情報である、と自ら宣伝しているみたいなもんで、要するにネットの中の噂というのはタコが自分の足を食うかのように、ひたすらその中だけでぐるぐる回っている。
究極の欠席裁判でないと盛り上がらないんですね。だから本人に直接問い合わせるメールというのは一通だに来ませんでしたね。
編集部 本当に一通も来なかったんですか?
唐沢 本当に!一通も来ない。
岡田 面白いね。
(前略)
岡田 今回の問題提起は、ネットの中のある特定のモノじゃなくて、「ネット社会そのもの」「ネットという価値そのもの」を疑問視する発言なので、「言おうかな、どうしようかな」と一ヶ月くらい考えていたんですけれども。
唐沢 確かに微妙な問題ですよ。でも、はっきり言えば現代を語る際の“現象”としては、我が身に起こったことであっても無茶苦茶に面白い。観察対象としてはね。
この対談のネタとしてはこれを取り上げないではいられません。
岡田 ぼくが本当に一番ショックだったのは、「ぼくに説明責任があるはずがない」のに、ネットの人たちは何で「岡田に説明責任がある」と言い張って恥じないのか、ということです(笑)
そういうメンタリティを持っていることが恥ずかしくないんですかね。
唐沢 私は逆に「何で私に説明を求めないんだ」と思いましたね。
私はこれまで、「『向こうの言い分』と『こちらの言い分』があってそれの対比検討によって最終的な自分の判断を決する」というのが人間の思考の普通のパターンだとばかり思っていましたから。
岡田 このあたりはぼくと唐沢さんの意見は対立しますね。
でも、彼らは「自分のブログで説明を求めている」から、彼らとしては「唐沢俊一に説明を求めた」つもりでいるんですよ。
ところが、唐沢さん的に面白くないと思うのは「何で私に『直接』聞いてこないんだ」ということでしょ。
唐沢 そうそう。
岡田 その辺がぼくと違うんだよなぁ。「いいめもダイエット」の件の場合、ぼくに説明を求められても、ぼくには「それを説明する義務」がない。
だって、「間違えたのはお前らなんだから、何でそれを説明してあげる義務がぼくにあるの」って思っちゃう。
唐沢 「義務はないけれど、義理はあるだろう」とは思いますけれど(笑)義理でも何か言ってくれば答えますよ。
ところがその義理を信じようとしない。
浮世には義理がある、という定義から言えばやはり、ネットは浮世(一般社会)じゃないんだな。
話している相手の顔が見えない分、つながりをどこで感じるかというと、自分の意見への賛成表明、なのですね。
賛成意見の羅列、またはフレーミングしているコメント欄などで、自分の意見、というかヘイトコメントが絶対多数である、
という安心感、これだけが世界と共有している意識、ということになる。そして、その数を頼んで、ネットの中の意見が世界を覆っている、
つまり自分は多数派なんだ、という安心感にひたる・・・・・・ああ、自分も確かにそうだったねえ(笑)
岡田 でも、その「ネットの中」自体がもう既に、世界の先端じゃなくなっていて、第三勢力ですらなくなっているんですよね。
唐沢 大きい集団ではあるかもしれないけれど、ネットの住人はどこにもつながりを持たない。
実際的なもののつながりがない集団になってきている。
唐沢 現実世界でも、その根本となる情報を一方向からしか入れない人間が存在します。
はなはだしいのがカルト宗教ですが、ミニカルトという集団も実際にいくつも存在する。
逆に現在のように情報があふれている時代に、情報の流入を制限する、というのは快感なんですね。
定着し始めのネットは、現実社会ではあまり手に入れられない裏情報の宝庫、といった趣があったんですが、
それがそこに耽溺するあまり、裏だけで表の情報を入れようとしない、また出来ない人間が増えすぎた。
表情報を制限しちゃっているんで、本末転倒なんだけど、そういう人間が“事情通”みたいな顔が出来るのがネット社会なんですね。
岡田 10年近く前に、ぼくが東大で先生をやっていたじゃないですか。
あの時も受験産業に呼ばれて講演したりしていた。10年前の通説は「頭のいい子はネットを利用している」だった。
ところが、去年から今年にかけての受験産業とか予備校の先生の話では、「成績上位グループはネットの時間が少ない」って言うんですよ。
それがつまり「情報格差=セミ階級差」につながりつつある。
唐沢 本当に情報というものは、とめどもないんですよね。
自分のキャパシティとか処理能力とかも考えずにどんどん情報を集めてしまう。
そのうち「何のために自分がこの情報を集めているのか」という目標すら失われてしまって、「情報を集めること」自体が目的になっていく・・・・・・。
岡田 どれだけ「よその空気に流されない自分自身」があるか、ってことでしょうね。
こないだ実相寺昭雄の追悼番組収録でいろいろ話を聞いたんだけれども、
彼はとにかく、「空気読む」どころか、人が何をしていようと一切かかわり合わない人だったんだってね。
好きなこと、自分がやりたいことだけをやる。そこに理由はない。究極のKY人間だった。
彼が時代にも社会にも超絶して、その個性を作品として世に残せたのは空気読まなかったからだということを理解すべきですね。
空気を読むってことは流されて自分の考え、自分の思いを失ってしまうことなんだな。
若いクリエイターたちにはとにかく、“空気読んじゃいけない”と教育すべきですね。





場外乱闘掲示板



No. 124
「創」2008年3月号の対談について
冒険風ライダー(館長) 2008/02/08(金)22時15分16秒
 例のビッグ対談の続編となる「創」2008年3月号掲載の、唐沢俊一と岡田斗司夫のネット批判が2chに転載された模様。
 せっかくですので、またこちらでも少し取り上げてみようと思います。

http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1201791779/710-722

<唐沢:それはありますね。ネットという世界を私たちも最初は、
"電子媒体で供給される活字"と思い込んでいたんだけど、実は全く性質の違うものだ、ということがわかった。
活字による情報というのは、まあ文壇なんて狭小なところは除いて、そのままではまず日常の中に侵食して来ない。
だから逆に、それを日常の中に取り入れていくことをみんな考える。
ところがネットというのは、それだけで日常とつながっている、という感覚があるものだから、
実はその日常という感覚がネット社会だけのバーチャルなイメージにすぎないことに気がつかない。
というよりリアルな情報を排除しているんじゃないのかな。
たとえば、ネットで"唐沢は・・・・・・"と飛び交っている情報を、面と向って、またはメール一通であっても、
私に直接"あれはどうなんだ"と質問してくる奴というのは一人もいない。
そもそもの話の中心の私ヌキにして、いいかげんな噂だけがカラ回りしている。>

 だからですね、唐沢俊一の見解とやらは他ならぬ自分自身のブログにズラズラと書き記されていて誰の目にも触れられるようになっている状態で、さらに何を質問する必要があったというのでしょうか? アンタの見解は「とうの昔に」公に晒されているとROMは解釈していたからこそ、質問する「必要」を認めなかったのでしょうに。
 それに唐沢俊一は、一方的な被害者たる漫棚通信氏には「交渉の経緯を公開するな」などと要求したり、法的措置の恫喝まで行ったりしていたわけですから、「何故俺に聞かないんだ!」と嘆く資格自体がそもそもないはずなのですが。それとも、漫棚通信氏は経緯を公開してはならないが自分はやってもかまわない、とでも言うつもりなのでしょうか。


<岡田:それは、「言われている側に反論責任がある」というネット社会の常識があるからでしょうね。
唐沢:ところが反証責任も何も、私が言ったことや書いたことは"全てウソ"という前提でやってるんですね。
"唐沢に直接訊くと言いくるめられてしまうから訊いちゃいけない"と言ってる人がいて失笑してしまいました。
自分たちの流しているのが怪情報である、と自ら宣伝しているみたいなもんで、
要するにネットの中の噂というのはタコが自分の足を食うかのように、ひたすらその中だけでぐるぐる回っている。
究極の欠席裁判でないと盛り上がらないんですね。だから本人に直接問い合わせるメールというのは一通だに来ませんでしたね。
編集部:本当に一通も来なかったんですか?
唐沢:本当に!一通も来ない。
岡田:面白いね。>

 そんなに「直接」やり取りがしたいのであれば、誰でも閲覧&書き込み可能な公開掲示板を自分のサイトに作れば良いだけの話なのではありませんか? 唐沢俊一の相方たる岡田斗司夫も、いいめも問題までは自前の公開ブログに誰でも閲覧&書き込み可能のコメント欄を設けていましたが。
 メールのやり取りなどという「狭く閉鎖されたやり取り」では、相手方が自分の発言を捻じ曲げて公開したとしても第三者がそれを判断するのは難しいですし、同じことを何度も言わなければならないという局面も発生しやすくなります。そして何よりも、自分の正当性を大勢に向けて大々的に宣伝することができないではありませんか。こちらの方が「直接」という観点から言ってもはるかに効果的なはずなのですが。


<岡田:ぼくが本当に一番ショックだったのは、「ぼくに説明責任があるはずがない」のに、
ネットの人たちは何で「岡田に説明責任がある」と言い張って恥じないのか、ということです(笑)
そういうメンタリティを持っていることが恥ずかしくないんですかね。>
<岡田:その辺がぼくと違うんだよなぁ。「いいめもダイエット」の件の場合、ぼくに説明を求められても、ぼくには「それを説明する義務」がない。
だって、「間違えたのはお前らなんだから、何でそれを説明してあげる義務がぼくにあるの」って思っちゃう。>

 あの問題って、もし万が一誤解であるのならば、説明すれば簡単に解ける類のものでしかない上、むしろ逆に「いいめも」側を悪役に突き落とすことすらできたわけですから、それをやらない、というのでは「何か後ろ暗いところがあるのではないか」とROMから勘ぐられても文句は言えないでしょうね。
 岡田斗司夫は、自分が冤罪を着せられ、裁判で有罪判決を受けるかもしれないという局面に立っても、「ぼくに説明責任があるはずがない」などといって自分の正当性を立証することを拒否するのでしょうか(苦笑)。私だったら、自分の利益と名誉とプライドのためにも、徹底的に自分の正当性を立証し、冤罪をひっくり返そうとしますけどね。


<唐沢:本当に情報というものは、とめどもないんですよね。
自分のキャパシティとか処理能力とかも考えずにどんどん情報を集めてしまう。
そのうち「何のために自分がこの情報を集めているのか」という目標すら失われてしまって、
「情報を集めること」自体が目的になっていく・・・・・・。>

 その「情報を集めること自体が目的になってい」った成れの果てが、今を輝く盗作評論家の唐沢俊一と岡田斗司夫なわけですね(笑)。あなた方二人のみに限定すれば、ここはなかなかに説得力のある名言です(爆)。


<唐沢:どれだけ「よその空気に流されない自分自身」があるか、ってことでしょうね。
こないだ実相寺昭雄の追悼番組収録でいろいろ話を聞いたんだけれども、
彼はとにかく、「空気読む」どころか、人が何をしていようと一切かかわり合わない人だったんだってね。
好きなこと、自分がやりたいことだけをやる。そこに理由はない。究極のKY人間だった。
彼が時代にも社会にも超絶して、その個性を作品として世に残せたのは空気読まなかったからだということを理解すべきですね。
空気を読むってことは流されて自分の考え、自分の思いを失ってしまうことなんだな。
若いクリエイターたちにはとにかく、"空気読んじゃいけない"と教育すべきですね。>

 そうですね、あなた方「と学会」のお歴々は、今後とも寸毫たりとも「空気を読む」ことなくキチガイ発言を続け、我々に笑いのネタを提供し続けて下さい。今まで「空気を読む」ことなく盗作事件やクレーム事件を起こした挙句、燃料投下としか思えないバカ対談を続けてこられたあなた方ならばできるはずです(爆)。


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