薬師寺シリーズ考察10

薬師寺シリーズ8巻 水妖日にご用心

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薬師寺シリーズ考察10

投稿者:冒険風ライダー(管理人)
2009年11月03日(火) 00時00分

 薬師寺シリーズ考察も、今回でとうとう10回目の節目を迎えることになりました。私の創竜伝考察シリーズに比べれば考察数が少ないにもかかわらず、かなりのスローペースで進行していたために、ここまでくるのに1年7ヶ月以上もの時間を消費することとなってしまいましたが(^^;;)。
 元々私の薬師寺シリーズに対するスタンスは、田中芳樹の言うことを無条件に信奉していた時代に読みふけっていた創竜伝と違い、田中芳樹に懐疑を抱き始めた頃に初めて手に取ったこともあって最初から駄作認定していましたし、「特に調べる価値もない」と結構斜め読みもしていたんですよね。その斜め読みの範疇で抱いた感想や疑問点などを検証してまとめたのが、薬師寺シリーズ考察の原点となった「検証!薬師寺シリーズ」で、実はこれを書いた当時は、それ以上薬師寺シリーズに言及するつもりは全くありませんでした。
 しかし時が経つにつれ、薬師寺シリーズはどんどん巻を重ね続け、それに伴い私は薬師寺シリーズに対して創竜伝と同等の不快感と、これまでの田中作品からは全く感じなかった違和感を覚えるようになり、次第に本格的に論評をする必要性を感じ始めた頃に、例の創竜伝14巻刊行無期限延期問題と薬師寺シリーズアニメ化が私に決断を促し、かくして現行10回にわたる薬師寺シリーズ考察が本格的に立ち上げられることとなったわけです。
 斜め読みではなく本格的に薬師寺シリーズを検証するようになってから、表層的な斜め読みでは見逃されていた矛盾点・問題点が次々と発掘され、当初考えていたよりもはるかに問題だらけな作品だったことが判明して、私自身かなり驚いていたりします(^^;;)。まあ「あの」創竜伝の系譜に連なる作品に問題がないはずもないのですが、特に「一話完結方式」を採用しているはずの薬師寺シリーズでも相変わらずストーリー&設定矛盾が大量に噴出しまくっていたのは個人的には衝撃でした。本人も公言していますし、私も何度も強調していますが、ストーリーも設定も「ストレス解消」目的で「やっつけ仕事」同然に組み立てられているだけでしかないことを改めて散々なまでに身をもって痛感せざるをえませんでしたし(>_<)。
 少し自己感想が長くなってしまいましたが、それでは、前回の続きとなる薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」の考察を始めたいと思います。

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P60下段~P61上段
<外務大臣は王子さまに向きなおった。
「では真物のカドガ殿下は、明日、皇居を表敬訪問なさるわけで、今夜のところはただちにホテルへお送りいたします」
「いやじゃ」
「な、何ですと」
 外務大臣の口が開きっぱなしになった。
「いやじゃというた。いずれわが国にもザナドゥ・ランドを誘致する所存じゃが、実現に五年か十年はかかる。はるばる日本くんだりまでやって来たのも、ザナドゥ・ランドで遊びたいからこそ。一時間もたたずに帰ってなるものか。断じて予は帰らぬぞ」
「し、しかしですな、殿下、テロリストはまだつかまってはおりません。御身が危険ですぞ。ここはひとつ警護の者をつけますので、どうかお帰りください」
 このときばかりは、外務大臣が常識人のように見えた。日本政府の閣僚が常識人に見えるなんて、じつにめずらしい経験である。とくに現在の内閣は「ベビーギャング内閣」と呼ばれ、能力的にもモラル的にも史上最低級といわれているのだから。>

 その「ベビーギャング内閣」こと「作品執筆当時の安倍内閣」よりもはるかに「能力的にもモラル的にも史上最低級」の醜態を晒し続けている泉田準一郎や田中芳樹が、よくもまあここまで大きく出たものだと感心してしまいますね。連中は「恥」というものを知らないのでしょうか(>_<)。
 しかもその「ベビーギャング内閣」呼ばわりする根拠がこれしかないというのではねぇ……(>_<)↓

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P9下段
<現在の首相は、就任してそれほど長くはないのだが、疑惑まみれの大臣が自殺したり、防衛省や年金庁が空前の不祥事をおこしたり、独裁者気どりの幼稚な言動が批判をあびたりして、早くも退陣に追いこまれそうな雲行き。>

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P93上段
<凡人の困惑を、魔女はひと声で吹きとばした。
「責任とるのは首相と外務大臣よ。いいじゃない、あいつらがこれ以上、権力の座にいすわっていたら、日本国民が迷惑するんだからさ。現在の首相になってから、泉田クン、何かひとつでもいいことあった?」
「そりゃ、あんな独裁者気どりの幼稚なトッチャンボーヤには、さっさと辞めてほしいですが、それとこれとは別問題です」>

 これまでの言動を鑑みても、薬師寺涼子や泉田準一郎こそが「独裁者気どりの幼稚なトッチャンボーヤ」そのものではないかという「お前が言うな」的反論はさておいて、これって当時の新聞やテレビが、悪意に満ちた不公正かつダブルスタンダードな偏向報道でヒステリックに喚き散らしていた内容をそのまま引き写してきただけのシロモノでしかないではありませんか。特に「疑惑まみれの大臣が自殺したり」の元となった事務所費問題では、創竜伝5巻で「保守党の新しい40代の幹事長」としてボロクソにけなしまくっていた小沢一郎も問題視されていたのですが、そちらの問題に対するマスコミの追及があまりにも手緩かったことに、田中芳樹は何ら疑問を覚えなかったというのでしょうか?
 安倍内閣で問題となっていた事務所費問題は、当時の政治資金規正法における事務所費の計上には支出の明細に関する報告や領収書等の添付が不要だったことと、当時の松岡利勝農林水産大臣が2005年度に計上していた事務所費が使途不明状態で4000万円以上もの額に上っていたことに端を発するものですが、そもそもこれは当時の政治資金規正法に抜け穴があったということこそが問題の本質なのであって、たとえ現行法に問題があっても、事務所費の計上自体は「抜け穴のある現行法」に基いてきちんと行われたものであるわけです。ならば本来マスコミがやるべきだったのは「抜け穴のある現行法」の抜け穴を指摘し改善を提言する、というものだったはずであって、「抜け穴のある現行法」に忠実に則って事務所費を計上した松岡利勝氏を吊るし上げることではなかったでしょう。
 そして、「抜け穴のある現行法」の抜け穴を指摘し改善を提言するための手段として松岡利勝氏を吊るし上げることが正しかったというのであれば、同じ年に民主党の小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が計上した事務所費が約4億1500万円にも達し、しかもその内約3億6500万円を不動産の購入に当てていたことが公表されたという問題は、その額および目的から単純に考えても当然松岡利勝氏の10倍以上は弾劾されなければならなかったはずです。ところが当時の新聞&テレビ、特に朝日・毎日系列は、自民党が民主党に対してこの問題を追求している事実を一切報道しようとせず、それどころか「小沢代表は説明責任を果たした」などと擁護すらする始末だったのです。まさしく「悪意に満ちた不公正かつダブルスタンダードな偏向報道」以外の何物でもないではありませんか。
 かつて自分も罵りまくっていたはずの小沢一郎にカネの問題が浮上していたというのに、それが問題視されないことに田中芳樹は全く疑問を抱かなかったのでしょうか? まあ田中芳樹自身、パチンコ利権を批判しておきながら自分の作品をパチンコに売り飛ばしてカネ儲けしていた前科があるのですから、カネの問題に関しては人のことが言える立場ではすでにないだろうと個人的には思わずにいられないのですが(笑)。

 次に「防衛省や年金庁が空前の不祥事をおこしたり」ですが、そもそも「防衛省の」空前の不祥事というのは、軍需専門商社「山田洋行」と守屋武昌元防衛省事務次官との間で総計200回近くものゴルフ接待が行われていたことが報道されたことに端を発する問題のことで、この事件が報道されたのは2007年10月。この時期はすでに安倍内閣は崩壊して福田内閣の時代に突入しています。それをあたかも安倍内閣の不祥事であるがごとき印象操作を行うのはミスリードもいいところでしょう。
 そして、安倍内閣最大のアキレス腱となってしまった社会保険庁(以下「社保庁」)の年金問題ですが、これにしても安倍内閣に責任を擦り付けるのは本来筋違いも良いところなんですよね。年金問題の根源がそもそもどこにあるのかと言えば、それは社保庁に巣食っていた全日本自治団体労働組合(以下「自治労」)が横暴の限りを尽くし、それに幹部が迎合していった結果、社保庁内のモラルや規律が乱れに乱れて腐敗体質を抱え込んでしまったことにあります。「宙に浮いた5000万件の年金記録問題」に代表される不祥事も全てここから端を発しています。
 安倍内閣はこの社保庁を解体すると共に、社保庁に代わる日本年金機構の創設を目的とする社保庁関連法案を成立させようとしていました。ところが、社保庁が消滅することにより既得権益が侵害されることを恐れた社保庁の官僚達は、あろうことか、自分達の不祥事である年金問題を民主党にリークし、安倍内閣と自民党の攻撃材料とするよう仕向けたのです。
 社保庁を牛耳っていた自治労は、同時に民主党の有力な支持母体でもあります。支持母体に対する配慮という観点から言っても、民主党は安倍内閣の社保庁改革を潰さなければならず、また竜堂兄弟や薬師寺涼子・泉田準一郎ばりに他人を罵りまくるしか能のない民主党は、社保庁およびそれに巣食う自治労の不祥事を、安倍内閣の問題であると責任転嫁して叩きまくる戦法を展開し、偏向報道を社会的使命と勘違いしているマスコミもまたこれに便乗して大々的な安倍内閣へのバッシング報道を行った、というわけです。
 社保庁の年金問題は確かに大きな不祥事であり、批判自体は当然行われて然るべきものではありますが、真に批判されるべきは社保庁解体に尽力した安倍内閣ではなく、問題の元凶たる社保庁およびそれに巣食う自治労、そして自治労を支持母体とし、彼らの意のままに安倍内閣の社保庁解体を妨害した民主党であるべきなのです。

 さらに最後の「独裁者気どりの幼稚な言動」というのは、2007年2月18日に仙台市で行われた自民党宮城県連大会で当時の中川秀直幹事長の発言が元ネタとなります。その発言内容は「閣僚には安倍晋三首相への絶対的忠誠、自己犠牲の精神が求められる。自分最優先の政治家は官邸(内閣)を去るべきだ」「当選回数や、かつて仲良しグループだったことは関係ない。首相が入室しても起立できない、私語を慎めない政治家は内閣にふさわしくない」といったもので、安倍内閣の言動というよりは、与党自民党の政治家から安倍内閣の閣僚に対する苦言、というのが実態だったりします。
 この発言が行われた背景には、偏向マスコミによる「失言」でっち上げ報道が頻発する中で、教育改革等の政策を巡る内閣内での足並みの乱れが目立つことによる自民党内の不満と危機感があり、中川秀直氏はそれを代弁して安倍内閣の閣僚達に対して発言したわけです。
 それが安倍内閣の閣僚に対する発言として果たして妥当なものであったかはさておくにしても、この発言自体は「独裁者気どりの幼稚な言動」でも何でもありません。「安倍晋三首相への絶対的忠誠、自己犠牲の精神が求められる」というのは、何も「安倍晋三」という一個人を指すのではなく、「内閣総理大臣」という地位そのものに対する無上の敬意を表するべき、という意味があります。国家を運営していく最高の行政機関における長に対して敬意を払い、長の指揮の下で一致団結するというのは、日本に限らず世界各国の政府でごく普通に行われていることなのであって、「独裁者気どり」でもなければ「幼稚な発言」でもないのです。
 また、内閣総理大臣という行政の長の地位に就いている人間は、その人物像を問わず「国の代表者」なのであって、そういう人物が入室しても起立しなかったり、私語を慎まなかったりする行為は、日本ではいざ知らず、世界的には「国家に対する侮辱行為」と見做されます。もちろん、行政の長という地位にある「人物」や「政策」に対する批判はそれによって何ら制限を受けるものではありませんが、あくまでも「国家」や「地位」に対する敬意や礼儀とはそういうものである、という話です。
 しかし、日本の国旗掲揚や国歌斉唱すらも忌み嫌う偏向マスコミや田中芳樹的思想の持ち主は、こういう価値観が存在すること自体到底我慢ができないわけで、かくしていつものごとく「忠誠心」という言葉尻だけを取り上げて「時代錯誤」だの「独裁者気どりの幼稚な言動」だのと罵ったりするわけです(笑)。あまりにも単純すぎる思考法で、私としてはいっそ哀れみすら覚えてしまうくらいなのですけどね。

 安倍内閣嫌いの偏向マスコミが「報道しない自由」を盛大に行使し続けているために世間一般にはあまり知らされていないのですが、安倍内閣はこれまでの自民党政権の誰もが成し得なかった防衛庁の昇格、憲法改正のための国民投票法案の成立、教育基本法の改正、公務員制度改革などを実施しており、外交においても中国との関係改善やインド・オーストラリアとの安全保障面での提携を推進しています。こんなことを無能者でやれるわけがないでしょう。
 そして田中芳樹が絶対に見逃してはならない安倍内閣が出した政治的結果は、創竜伝13巻および薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」において「日本はアメリカの属国」の象徴として槍玉に挙げていた国際刑事裁判所(ローマ規程)への未加入問題を消滅させたことです。田中芳樹にとっては全くもって皮肉なことに、他ならぬ田中芳樹自身が声を大にして罵倒の材料として使っていた国際刑事裁判所未加入問題絡みの社会評論が、同時に安倍内閣の有能ぶりを証明することにもなってしまっているわけです(笑)。
 で、これまでの自民党政権が全く実現し得なかったこれらの政策を次々と実現させてきた安倍内閣は、一方でこれまでの既得権益に安住し、利益を貪ってきた一種の「抵抗勢力」にとってはこれ以上ないほどの邪魔者ということになります。安倍内閣におけるその「抵抗勢力」とは、自治労や日教組に代表される左傾労働組合や偏向マスコミ、そしてそれらを支持母体とする民主党だったのであり、だからこそ彼らは、安倍内閣における閣僚の発言の一部から「失言」をでっち上げて大きく報道したり、自治労発の年金問題を安倍内閣に全責任があるかのような論理を展開したりといった政治的猛攻を繰り広げたわけです。
 こういう構図に全く気づくことなく、人形使いたる「抵抗勢力」達がくり出す糸に操られるがままに安倍内閣を攻撃して悦に入る田中芳樹のマリオネットぶりには、心の底から哀れみを覚えずにはいられませんね(T_T)。

 ところで、こうまで安倍内閣にまつわる問題の本質がまるで理解できていない上、新聞やテレビの偏向報道を鵜呑みにしている田中芳樹のスタンスがこれ以上ないくらいにはっきりと明示されているものが実は存在します。
 薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」の刊行直後に掲載された毎日新聞の記事です↓

毎日新聞 2008年1月6日記事
作家・田中芳樹さん語る 「涼子は大物女優」 薬師寺涼子の事件簿
<||最新作でも、「マンガばかり読んでいる外務大臣」とか、さまざまな話題を茶目っ気たっぷりに笑い飛ばしています
(田中)
特にモデルがだれという訳でないんですが(笑)。「いい年して遊ぶな」と言われるんですけど、思いっきり楽しんでいます。ネタは自然と出てくるんですよ。むしろ現実の「えぐみ」を取る工夫をしていますが、その工夫が楽しいですね。新聞を読んだり、ニュースを見たらネタは出てきます。「入門編」としての新聞の存在は、大きいですよ。ただ、経済だけはなぜか興味がなくて……。一時期、興味を持つきっかけに株を買ってみたのですが、全然だめでした。その代わりに新聞に載っている企業プロジェクトの特集を読んだりしています。まあ、経済と恋愛は、事件がからまないと本質的に興味がないですからねぇ。>

 田中芳樹は、創竜伝でも薬師寺シリーズでも「記者クラブ制度」のようなマスコミと行政権力との談合・癒着を熱心に批判していたはずなのですが、そこから出てきた情報にウソが混じっているのではないかとか、事実を歪曲した捏造報道をやっているのではないかとか少しでも疑ってみたことはないのですかね? 第一、長年にわたって社会評論モドキな現実世界の政治批判を書き続けているというのに「入門編」って、それこそ「いい年して」田中芳樹はいつまでその「入門編」レベルをウロウロしているつもりなのでしょうか(笑)。
 しかも、これまでの薬師寺シリーズでは、いくら内容が偏向していても、作品執筆の際に作者が使用していた参考文献の一覧が必ず巻末に掲載されていたにもかかわらず、8巻「水妖日にご用心」にはそれが全く存在しないのです。8巻「水妖日にご用心」の作中に存在する社会評論は、テレビや新聞で報じられていた井戸端会議&ワイドショーレベルのシロモノを引き写してきただけの政治批判と、過去の作品で掲載されていた社会評論をそのままトレースしたものばかりで構成されており、文献にすらも全く当たっていないで書かれていることが一目瞭然なわけです。いくら己のストレス解消を最優先事項として書かれているシリーズ小説であるとはいえ、こうまで読者をないがしろにした「プロとして風上にもおけない4流お遊戯」的執筆活動をするのはいいかげん止めて頂きたいところなのですけどね。
 この田中芳樹の「入門編」レベルな紙媒体新聞に対する依存ぶりは、当然作中のキャラクターにも大きな影響を及ぼしています。

薬師寺シリーズ6巻「夜光曲」 祥伝社ノベルズ版P40上段~下段
<一夜明けて。
 新宿御苑の怪事件も、人食いホタルの出現も、新聞のトップニュースにはならなかった。私が官舎のDKでトーストをくわえたままひろげた朝刊の一面トップは、つぎのようなおめでたい記事だった。>

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P102上段~下段
<涼子が指をあげて高く鳴らした。こういう動作をしても下品に思えないのは、涼子の一種の風格だろうか。ウェイターが飛んできた。頭だけがカボチャの形だ。パンプキンマンだ。
「悪いけど、新聞を持ってきて。今朝、客室にとどいてなかったわ」
「お客さま、新聞は置いてございません。俗世のニュースを見ると、夢がこわれます。楽園に新聞は必要ないというのが、ザナドゥ・ランドの理念でございまして……」
「ニュースを見たぐらいで壊れる楽園って、ずいぶん安っぽいわね」
「…………」
「新聞を読むな、ニュースを見るな――そう信者たちに命じているカルト教団は、いくらでもあるわ。そういわれたくなかったら、支配人室でとってる新聞をぜんぶ持っといで!」
 あたふたとパンプキンマンは立ち去り、五分後に新聞の山をかかえてもどってきた。涼子は尊敬されているかどうかはともかく、畏怖されていることは確かだった。>

 現在進行形の事件についての情報を得るために、わざわざ翌日まで待った挙句に紙媒体の新聞を取り寄せて確認を取ろうとする「情報弱者」な薬師寺涼子と泉田準一郎。作品に不必要どころか害悪すらもたらす時事問題は躊躇なく作品内に反映させるのに、今や速報性・利便性・省エネといったあらゆる点で時代遅れの感が否めなくなった紙媒体の新聞を未だに使用している作中キャラクター達のライフスタイルを、時代の発展とキャラクターの年齢に合わせて変えてみようかと田中芳樹は少しでも考えなかったのですかね~(>_<)。同じ情報を参照するにも、自分でネット閲覧機能付携帯電話やモバイル機能付ノートパソコン等に代表されるネット端末を常に所持してネット上の新聞記事を閲覧するようなライフスタイルを身につけていれば、複数の報道機関の、それもリアルタイムで更新・配信される情報をすぐさま確認することができるというのに。
 田中芳樹にネットを閲覧する習慣がなく、携帯電話に至っては持つことすら拒否しているといったようなライフスタイルを頑なに維持していることは、「らいとすたっふ」のブログなどでも確認することができるのですが、それ故に新聞やテレビからの情報をそのまま鵜呑みにしてしまう「情報弱者」の醜態を晒すというのは、自分自身「記者クラブ制度」等を論ってマスコミ批判もやっているはずの田中芳樹としては致命傷もいいところではありませんか。己が保持するそのライフスタイルを全面的かつ抜本的に改めろとまでは言いませんが、少しでも読者向けに建設的な政治批判を披露したいと思うのであれば、せめて「入門編」くらいはいいかげんにクリアして次のステップに進めるように少しは努力すべきなのではないのですかね、田中センセイ。

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P113上段~P114上段
<「京葉大学の平村先生ですね。おいそがしいところをお呼びだてして、申しわけないかぎりです」
 ついヒロムラとかヒラヌマとか発音しそうになるのを、注意しながら呼びかけると、彼は寛大な微笑で応じた。
「いえ、ちっともいそがしくないです。だからすぐ参上できたのです」
「そんなことはないでしょう」
「いいえ、こう申しては何ですが、薬師寺クンにたのまれたら、休講をひとつ増やすくらい、おやすい御用で」
(中略)
「まあ、平村センパイ、わざわざ御足労いただいて恐縮ですわ。でも、どうしてもセンパイのお知恵にすがりたくて」
 甘言を並べたてる涼子に笑顔を向ける平村准教授のうれしそうな姿。あたかもオオカミにシッポを振る仔羊のごとし。
「大学のほうはいかがですの、センパイ」
「正直、あんまり見通しは明るくないね。京葉大学では今年から哲学科と美学美術史学科が廃止されてしまったけど、二、三年のうちに文学部そのものがなくなるかもしれないなあ」
「まあ、そうでしたの」
「文学部なんてカネにもならないからね。理工系の学部とちがって、スポンサー企業なんてつかないし、産学連携なんて芸当もできない。たぶん、ここ十年で、日本の大学の半数からは文学部がなくなるだろうし、日本の人文科学そのものが亡びてしまうと思うよ」
「二十一世紀にはいって、日本という国は、ほんとに品性下劣になりましたものね。政治屋と役人と財界人が口をそろえて『ビジネスに結びつかない学問は不必要』なんていってる未開国に、先進国ヅラする資格なんてありませんわ」
 ひとしきり、文化や学問をナイガシロにする国への悪口で盛りあがる。>

 他ならぬ自分自身も、自分で罵倒しているはずの「役人と財界人」の一員でしょうに、薬師寺涼子のギロチンブーメランを駆使した自爆ギャグの乱発にも困ったものですね(笑)。まあ確かに自分より弱い者は居丈高かつ一方的にいたぶりながら、強い者に対面するや否や陰口を並べつつ逃げ回るしか能のない薬師寺涼子が品性下劣なのは間違いないことですし、産学連携の実態も知らずに「文化や学問をナイガシロにする」などと十年一昔なタワゴトをほざく薬師寺涼子に「先進国ヅラする資格」がないこともこれまたいちいち言うまでもない厳然たる事実ではあるのですけど(爆)。
 そもそも、この連中がくっちゃべっている「文化や学問をナイガシロにする国への悪口」などとご大層に称されるシロモノ自体が、実のところすでに過去の作品で語られている社会評論をそのままトレースしたものに過ぎないんですよね。創竜伝9巻にも、これと完全に同趣旨の社会評論が地の文によって披露されています↓

創竜伝9巻 P147下段~P148下段
<靖一郎がいま苦労しているのは、文部省とのさまざまな折衝だった。富士山が大噴火して多くの死者が出ても、日本の社会システムにたいした変化はない。文部省がつぶれたわけでもなく、翌年にもきちんと大学入試はあるのだ。文部省は財界などにつつかれて、このところ「学生の理科系離れを防がねば、日本はテクノロジーで諸外国に立ちおくれてしまう」と騒ぎたて、補助金を理科系優先にする、などといいだしているのだった。靖一郎としては共和学院をもっと大規模な学校にして補助金もより多くもらいたいところなのである。
 だが近代日本の歴史を見ると、つねに理科系は優遇され、文科系は冷遇されてきた。筑波研究学園都市は政府が巨額の資金を投入して建設されたものだが、そこにあるのは理科系の施設ばかりで、文科系の施設などはほとんどない。大企業も、理科系の学部や大学院には資金援助をするが、文科系に対して寄付などめったにしない。
 第二次世界大戦のころ日本では「学徒動員」がおこなわれた。「大学生も銃をとって戦場にいき、お国のために死ね」というわけである。ところがこのとき戦場へ駆りたてられたのは文科系の学生で、理科系の学生は動員を免除されたのだ。「文学部や法学部の学生など死んでかまわん。だが医学部、理学部、工学部の学生は役に立つから生かしておこう」というのが日本軍の考えだった。そういう傾向は戦後になっても変わらなかった。高校には理数科というものがつくられて、そこで学ぶ生徒は学校側によってエリートあつかいされ、別に医者になりたくないのに大学の医学部に合格するのが成功とされた。理科系科目を、教科でも学問でもなく、生徒をエリートと非エリートとに差別する手段として使っていたのだから、生徒たちが嫌気がさすのは当然である。
「生徒たちの国語力が低下している、自分たちの国の歴史を知らない」と指摘されても、国も大企業も平然としていた。「自分でものを考える社員などいらない」と放言した財界人もいる。それが「理科系離れが進んでいる」といわれると、大さわぎで対策を練り、資金を出す。学問を自分たちに都合のいい道具としてしか見ていないからだ。>

 なお、創竜伝9巻は薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」から遡ること実に13年以上前に刊行された作品なのですが、当時でさえ破綻が明白だった社会評論を未だ後生大事に滔々とのたまえる辺り、田中芳樹の知識と思考回路はその13年間、寸毫たりとも学習による情報の上書きもバージョンアップもなされなかったことが一目瞭然です。まあ、いかに時代錯誤のカビだらけなオツムを維持し続けている結果であるとはいえ、時代に流されないその言動の一貫性「だけ」はある意味立派なのかもしれませんが(苦笑)。
 これについては「私の創竜伝考察28」でも言及していますが、学校や学問分野および実績を問わず常に社会主義的な安定供給が行われ続ける国や自治体からの補助金は、学校間競争を根絶することで学校を堕落させたり、国&自治体の意のままに学校運営が牛耳られたりするといった事態を生む元凶だったのですし、また特に私学の教育機関に対する国からの補助金は日本国憲法第89条に違反する行為です。そして一方、企業からの援助金は別に無償で行われる寄付金ではなく、企業の技術研究費的な役割を担っているのですから、資金提供者たる企業から相応の見返り&実績が求められるのはむしろ当然のことです。研究の場にある程度の実績主義を持ち込むことで学校側に一定の緊張感を持たせることは、すくなくとも社会主義的な補助金政策をダラダラと行い続けるよりも学校運営および理系・文系双方の学問探求&技術研究にとってもプラスになるのです。
 しかも連中は、「文系はカネにならない」という十年一昔の固定観念でもって「文系学科では理系学科のような産学連携ができない」などと怠惰の正当化まで行っていますが、実際には「理系学科の産学連携」だけでなく「文系学科の産学連携」もまた積極的に行われています。8巻「水妖日にご用心」の刊行前に限定しても、文系学部との産学連携は色々な形で模索されており、実現したものも少なからず存在するのです。
 たとえば東京大学では、ネットワークなどを介して提供する新しいサービスが人の価値観や行動に与える影響を定量的に評価する「新サービスの社会受容性評価技術」の研究開発をNECと共同で行われているのですが、この時の東京大学側の主担当は、社会心理学を専門とする人文社会系の研究者です。この研究開発では、NEC側がユーザーの受容性を評価するシミュレーション技術などの開発を担当する一方、東京大学側は心理学的分析手法に基づいた数理モデルの構築を担うという形で分業が行われ、2006年1月~2008年3月の約2年間、共同研究が実施されています。
 また、2007年7月には、神戸女学院大学と株式会社東和エンジニアリングが、遠隔地を結んだ同時通訳システムの産学連携による共同研究を開始していますし、工学部などの理系学科中心で産学連携を主に進めていた静岡大学でも、2006年4月頃から文系学科による地域連携を推し進めています。理系だけでなく文系分野においても、地域の町おこしやマーケティングについての相談、ビジネスパートナー、デザイン活用といった「カネになる需要」は多々存在しますし、文系学科との産学連携を模索する企業や地域も増加傾向にあります。
 さらに2004年には、近畿二府四県と福井県の大学の社会科学、人文科学、芸術分野での産学連携を調査していた近畿経済産業局が、文系128大学で総計107件の産学連携の事例があるという調査結果を発表しています。この調査結果では、大学との提携相手で自治体が33.6パーセント、公的機関が19.6パーセント、国が5.6パーセントの割合を占めることも明らかになっており、行政が必ずしも理系偏重で文系を一方的に冷遇しているわけではない事実がデータではっきりと示されているのです。
 これらの事例に見られるような文系の産学連携の実態を見る限り、複数の文系学科を次々と廃止している京葉大学および平村准教授とやらは、単にこれまでの特権と「文系はカネにならない」という時代錯誤な固定観念にあぐらをかいているだけでしかなく、また連中の「文化や学問をナイガシロにする国への悪口」からは「自助努力をしよう」という姿勢が全く感じられないのですから、それで潰れても自業自得な結果でしかありえないでしょう。そして、大学の研究者達からこういう「無駄飯食いのごくつぶし」な連中を淘汰していき、きちんとした研究や知的財産を修めさせることが、大学の健全かつ効率的な運営に繋がり、ひいてはそれこそ文化や学問の保護や発展にも貢献することになるのは自明の理というものではありませんか。
 それにしても、仮にも東大法学部卒で「役人と財界人」の一員でもあり、さらに「文化や学問をナイガシロにする国への悪口」を吹聴しまくる薬師寺涼子が、その潤沢な資金を元に文化や学問を保護する素振りすら見せないというのはどういうことなのでしょうか? その実力があるにもかかわらず全く動こうとしないという点では、薬師寺涼子もまた、薬師寺涼子定義による「文化や学問をナイガシロにする国や政治屋や役人や財界人」と全くの同類、いやそれどころか、自分の快楽や犯罪隠蔽のためにしかカネや人材を使わない、という点ではそれ以下ということにすらなるはずなのですが、どうも薬師寺涼子にはその辺りの自覚が全くないようで(笑)。
 「いえ、ちっともいそがしくないです。だからすぐ参上できたのです」「薬師寺クンにたのまれたら、休講をひとつ増やすくらい、おやすい御用で」などとのたまうくらいヒマな上に職業倫理上の問題発言を平気でやらかす大学の准教授ごときと「酔っ払いのタワゴト」レベルの陰口ダベリを語り合う前に、少しは日本政府や自治体や民間企業がやっている程度の「文化や学問の保護育成や発展」を自分の立場でいかにして実現しえるのかについて真剣に考えてみるべきではないのですかね? 特に薬師寺涼子レベルの地位と権限を持つ人間であるならばなおのこと。

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P119上段~P120上段
<ようやく私は口をはさむことができた。
「吸血鬼って、ヨーロッパだけの産物かと思ってましたが」
「そうでもないんだよ、警部補さん。熱帯アジアにも、そういう説話はあるんです。あ、熱帯アジアというのは、とりあえず、東南アジアと南アジアをあわせてそう呼んでるんですが、先ほどカーリー女神信仰の話をしたでしょ」
「ええ、タグ、でしたか」
「ヨーロッパの吸血鬼信仰そのものが、インドのカーリー女神信仰から派生して西方へ伝播したもの、という説まであります」
「へえ、知りませんでした」
「ま、その点に関しては、専門外だし、深く立ち入るのは避けるけどね」
 その台詞は二度めである。平村准教授は、節度をわきまえた学者なのだろう。世間知らずの一面もあって、邪悪な後輩に利用されていることもたしかだが。
 それにしても、これが「学術的な捜査」か。学術的にはちがいないが、涼子はこれをどう活かして、何をしでかすつもりなのだろう。
 もちろん世の中には奇怪なことがいくらでもあるし、私自身、その種のものに何度も対面した。だから、いまさら唯物的科学主義を振りまわす気はない。>

 「いまさら唯物的科学主義を振りまわす気はない」ってアンタ、それこそ今更何を言っているのでしょうか(爆)。あれほどまでに薬師寺シリーズの作中のあちこちで「オカルト的存在が出没している【現実】」を無視して「科学的観点」と称するオカルト否定論ばかり語り倒すことで、結果的にオカルトだけでなく科学をも愚弄していたアンタらが「いまさら唯物的科学主義を振りまわす気はない」って一体何の冗談なのかと(@_@)。
 大きなものだけでもこれだけの数が挙げられる「唯物的科学主義」に立脚したオカルト否定を、他ならぬ自分達自身で過去に行っていたことをもう忘れてしまったのでしょうか↓

薬師寺シリーズ1巻「魔天楼」 講談社文庫版P217~P218
<ふと気がつくと、室町由紀子が私たちの前に立っていた。私を見て「ご苦労さま」というと、すぐ身体ごと涼子に向かって話しかける。ごく事務的な口調で説明したのは、高市理事長の妄想とコンピューターの暴走という線で話をつくる、怪物の存在は絶対に認められない、基本となる報告書は彼女がまとめる、というようなことであった。それらを話し終えると、由紀子は、やはり事務的にあいさつして背を向けた。彼女を見送って、私は上司に視線を転じた。
「あれでいいんですか」
「いいのよ。警察と科学者がオカルトを認めちゃいけないの。あたしも外部に対しては自分の功績をフイチョウする気はないわ。全部、総監にゆずってあげてよ。オホホホ」>

薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P182下段~P183上段
<「実力のないヒヨコにかぎって、そういいたがるものさ。わたしから見たらお笑いだね。運なんかに頼らず、実力と努力とで、わたしは錬金術を自分のものにしたんだ」
「ほんとにそうかしらね」
「……どういう意味だい?」
 花園すみれが両目を細める。涼子の瞳に皮肉っぽい光が満ちた。
「あんたていどのインチキ科学者が、錬金術のテクノロジーをほんとに会得したなんて思えないのよね。自然科学において、あたらしく発見された法則が、真理として認められるためには何が必要か、いまさらいうまでもないでしょ?」
 私のようなローテクの文科系人間でもそれくらいは何とか知っている。科学上の新発見が真理として認められるには、つぎの二点が不可欠なのだ。
 誰が計算しても、おなじ解答がでること。
 誰が実験しても、おなじ結果がでること。
 いわゆる超能力が科学上の真理として存在を認められないのは、実験のたびに異なる結果が出るからだ。しかも、実験自体の精密さがあやしいのだから、話にならない。>

薬師寺シリーズ4巻「クレオパトラの葬送」 講談社ノベルズ版P58下段~P59上段
<「メアリー・セレスト号の謎」というのは、たいていの怪奇事件録に載っている有名な話だ。高校の英語の教科書で読んだ人もいるはずである。
(中略)
 で、真相はというと。
 メアリー・セレスト号の救命ボートが消えていた。つまり乗客全員は何か緊急事態が発生したためにボートに乗りうつったのだが、今度は船にもどれなくなり、不運にもボートごと大西洋に沈んでしまったのだ。不明なのはボートに乗りうつった原因だけで、それ以外は謎でも何でもない。「まだ温かいコーヒー」などというのは、当時のマスコミが話をおもしろおかしくするためにでっちあげた話にすぎなかったのである。>

薬師寺シリーズ7巻「霧の訪問者」 講談社ノベルズ版P26下段~P27上段
<「GATの宗旨って、どういうのですか」
「あんまりよく知らないけど、極端なキリスト教の原理主義よ。もうすぐ世界の終わりが来て、その際、イエス・キリストが生身でよみがえり、異教徒を皆殺しにするっていうんだから」
 私は耳をうたがった。
「イエス・キリストが生身の姿で生き返るっていうんですか!?」
「そうよ」
「いや、しかし、それは、あまりに……」
 あまりに非科学的ではないか。
「そう、あんまりよね。でも、じつは、GATだけじゃないのよ。イエス・キリストが生身でよみがえるって信じてるのは。ま、信教の自由っていうやつだけどね」
 もし仮にイエス・キリストが生き返ったとして、そう名乗る人物が本物だと、どうやって証明するのだろう。イエス・キリストの写真など存在しないし、指紋も歯型もDNAも残されていない。>

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P57下段~P58上段
<「殿下、日本人は人を体格や体型で差別したりはしませんわ」
「マコトか?」
「ええ、日本人が人を差別するのは、血液型によってです」
「血液型じゃと?」
「ええ、日本人は血液型によって人を差別する、世界で唯一の国民なのですわ。ご存じありませんでした?」
 あまりにも場ちがいなことをいい出したお騒がせな人物は、もちろんというべきかどうか、私の上司だった。カドガ殿下と自称する人物に対し、おちょくってやるだけの価値を見出したらしい。
 もともと「人間の性格は血液型によって決まる」と珍妙な説を唱えたのは、日本人の奇矯な医学者だそうだが、昭和初期の日本陸軍がそれを真に受けて、兵士の血液型ごとに部隊を編成しようとした。A型の兵士だけで歩兵連隊をつくったり、B型の兵士だけ集めて砲兵大隊を編成したりしてみたのだが、みごとに失敗して、「こんな非科学的なもの、信用できるか」ということになった。
 日本陸軍は滅びたが、なぜか血液型信仰だけは残った。昭和初期の日本陸軍よりも、二十一世紀の日本人のほうが、どうやらずっと非科学的らしい。>

 しかも、これまでの薬師寺シリーズ考察で私が何度も論じてきたように、薬師寺シリーズは「科学で説明できないオカルティックな能力を持つ怪物や怪物生成術が普通に存在する世界」であるため、現実世界の科学的常識が現実世界ほどの絶対的な権威と価値を持たないことがすでに明白であるにもかかわらず、これら「唯物的科学主義を振りまわした」発言の数々が飛び出しているわけですからね。これが「狂信者レベルにまで至っている唯物的科学主義者」以外の何だと言うのでしょうか(笑)。
 そしてさらに致命的なことに、ここで言われている吸血鬼論は、過去の作品で田中芳樹が書いていた吸血鬼論とすら矛盾しているのです。かつて田中芳樹は、以下のような論で構築した吸血鬼論を披露しているのですが↓

創竜伝12巻 P153下段~P155上段
<太真王夫人が溜息をつき、かるく首をかしげる。
「そういえば中国にはこれだけたくさん、妖怪、霊獣、悪鬼、邪神の類がいて、人肉を食べる話はあるのに、吸血鬼の話って聞かないけど、なぜかしら」
「それは中国の精神文化の存在によるだろうね。道教、なかでもとくに仙人の存在が大きいと思う」
 青竜王は箸をおいて説明をつづけた。
「何も人の血を吸って他者の生命力を奪わなくとも、修行をつんで仙人になれば永遠の生を得られる。いったん仙人になったら、霞を食べていればいいんだしな」
 霞を食べる、というのは、空中の元素をエネルギーとして摂取する、ということだ。人肉どころか動物の肉を食べる必要もないわけである。ただ、酒を飲んだり、果物や菓子を食べたりするたのしみをすてることはない。
「それに西洋の吸血鬼は、たかが二、三百年生きただけで、人生は退屈だとか、永遠の生は苦しみだとかいいだす。吸血鬼はアンチ・キリストだといわれるけど、結局、人生の苦しさを強調するキリスト教の価値観を裏がえした存在なんだな」
 いっぽう仙人は、八百年、千年と生きつづけても退屈するということがない。まず、雲に乗って広い大陸を旅してまわる。峨眉山の霧、洞庭湖の月、廬山の朝日、長安の牡丹、銭塘江の波……いたるところに絶景がある。
「また百年したらおとずれるとしようか。どう変わっているかたのしみだ」
 何百年もたてば歴史はうつりかわり、王朝は興亡する。それにかかわる人々の運命も変転する。どの時代にもすぐれた芸術家や学者があらわれて、書物を著し、詩をつくり、絵を描き、楼閣を建て、音楽を奏でる。それらを鑑賞するだけでも飽きない。有名な仙人は、皇帝や王をからかったり、妖怪をやっつけたり、百年を経た古い美酒を飲んだりしてたのしむ。春は桃や牡丹の花を見、夏は滝のそばで涼しくすごし、秋は紅葉を見物し、冬は雪景色をめでる。退屈などと無縁に、永遠の生をたのしむのだ。
「羅公遠は唐の玄宗皇帝を月へつれていった仙人。いつどこで生まれたか誰も知らないが、容姿は十六、七歳の少年のようで、天下を旅して酒と音楽をたのしんでいた」
 などという話はいくらでもある。
「修行をつんで仙人になって、若いまま霞を食べながら千年も生きてるってさ。めでたいことだ」
 というような世界には、陰気で深刻な吸血鬼の出る幕はない。
「たった三百年生きたくらいで、人生の重さ苦しさに耐えきれない? しかも他人の生命をうばわなくては生きていけない? 何とまあ、つまらないやつだ」
 と笑われてしまうだろう。>

中欧怪奇紀行 講談社文庫版P104~P106
<――:
 そういえば、中国には吸血鬼の話はないんですか?
田中:
 中国では魔物というと、人肉食うんですよ。どっちかというと吸うより食うほうにいっちゃいますね。
 そうそう、中国でなんで吸血鬼が流行らなかったかというと、血を吸わなくても道教の修行したら不老不死になっちゃうからですよ(笑)。仙人というやつ。
赤城:
 なぁるほど(笑)。知の体系が違うと。
田中:
 千年生きても、彼ら全然飽きないですから、人生に(笑)。「うん、もう八百年ぐらい生きてるよ」とか言ってね。「なぜおれは死ねないんだろう」なんていう悩みはカケラもない(笑)。
――:
 ふわふわ霞食べて生きて。のんきで明るいですよね。
田中:
 明るくて前向きです(笑)。時代の変化や王朝の興亡を楽しみ、世の中の節目節目に皇帝のところに現れて、おちょくって消えていくという。
――:
 やばくなったら「いいやトンズラしちゃえ」と(笑)。つまり不死ゆえの悲劇性は、中華思想では成り立たないと?
田中:
 ドラキュラはたかだか三百年生きただけで、「もういいんだ」なんて言ってるもんなぁ(笑)。
――:
 狭い領地で、もめんにおさげ、みたいな世界を三百年もやってたら、イヤになるでしょうねぇ。
赤城:
 中国の仙人さまって、行きたいとこ行けるんでしょう? それなら千年ぐらい生きたって飽きないよなぁ……(ぽん、と手を叩いて)だからドラキュラはロンドンに行こうとしたんだぁ! 「おらぁ、こんな村いやだ」(笑)。
田中:
 まあ、ドラキュラっていうのは、田舎の貴族が大都会に出かけていったけど、きれいなねーちゃんに相手にされなくて、すごすご故郷に帰っていくという話……と読めないこともない(笑)。本人は、都会でかいた恥は忘れようと思っているのに、わざわざ追っかけてきて……。
赤城:
 トランシルヴァニアまで追っかけられて殺されちゃうんだよね。泣いて帰ったんだからほっといてくれ、って(笑)。>

 しかし、これらの記述で言及されている西洋世界の吸血鬼概論の起源が「インドのカーリー女神信仰から派生して西方へ伝播したもの」だったら、吸血鬼が忌み嫌われている理由が西洋特有のものでも「キリスト教の価値観」に由来するものでもなくなって、論の屋台骨そのものが瓦解してしまうではありませんか(苦笑)。連中にしてみれば、「私の創竜伝考察35」で指摘したように、中国版吸血鬼であるキョンシーの存在を無視してまで「西洋世界に対する中国道教思想の優越」を誇示したかったのでしょうに、こんな形で自分達が提唱する吸血鬼に関する主張を否定されてしまうとは、創竜伝という作品および田中芳樹は、自分達のお仲間であるはずの薬師寺シリーズにまでそっぽを向けられた格好となってしまったわけです(爆)。
 さらに加えて、特に田中芳樹の場合は、自分のフィクション小説および評論本で過去に得意気になって吹聴していた吸血鬼理論を、全く別のフィクション作品で何の釈明も総括もなく一方的に覆すという、また例によって例のごとく己の過去の作品および言論に対する責任を放棄&愚弄するかのごとき陋劣な態度を取ってしまうという醜態を(万が一その意図がなかったとしても結果的には)晒す形になっています。小説のあとがきに書くなり修正版の本を出すなり、その手の言論責任の取り方は他にいくらでもあるでしょうに、何故わざわざ関係のない小説中で自説の軌道修正を行おうとするのですかね~(>_<)。

 ところで、一連の吸血鬼に関する記述で田中芳樹は、「人生の苦しさを強調するキリスト教の価値観を裏がえした存在」である吸血鬼よりも「中国の精神文化の存在」たる仙人の方が優れていると言わんばかりのアジテーションを展開していますが、吸血鬼などを比較対象にする行為そのものが愚かしいだけでなく、道教における仙人という概念がいかなる形で生まれたものかということすら知らないことを露呈しているとしか言いようがありませんね。
 そもそも吸血鬼は、以前私が言及していた生前埋葬起源にせよ、今回新規に言われているカーリー女神信仰起源にせよ、その誕生過程からして死と破壊といった不吉なものを連想させるものですし、死後の世界における神の救いを至上価値とするキリスト教的価値観からしても「いつまでも苦痛を伴う現世に留まり続ける」吸血鬼というのは、いわば「罪」や「罰」に相当するものなのであって、最初から邪悪にして忌み嫌われるべき存在でしかありません。
 それに対して、道教思想における仙人という概念は、元々中国社会における苛烈な人間関係のアンチテーゼ&理想として生まれたものです。中国社会における人間関係は、一言で言えば「自分および自分の親族以外の人間は全て敵であり、自分の寝首を掻こうとしている」というもので、常に油断も隙も他者に見せてはならないというレベルの緊張状態を強いられています。他者の弱みを常に探り、必要とあらば足を引っ張って踏み台にする、それ故に自分もまた他者に弱みを見せてはならない。四六時中その状態を維持し続け、誰に対しても常に緊張を崩さず、毅然とした態度を維持する人間こそが、中国社会では理想的な人物とされます。
 そのような中国の弱肉強食的な人間関係は一般社会だけでなく家庭内に至るまで徹底されていて、中でも自分の妻は最大の敵であるとされています。中国では前近代的かつ男女差別的な夫婦別姓制度が象徴するように、別姓を名乗る妻は一族外の余所者でしかなく、子供、特に一族の跡継ぎとなる男児を産むための道具として扱われます。それで女児でも産んだ日には非難轟々な騒ぎになりますし、望み通り跡継ぎが産まれても「用済み」とばかりに家を追い出されるか、下手をすれば殺されることすら決して珍しくなかったのです。
 これまでの自分の家から離れて別の家に嫁ぐことになる妻側にしてみれば、それは誰一人味方のいない敵だらけの真っ只中にひとり飛び込んでいくようなものですし、自分の財産どころか、生命と安全すらも脅かされかねない危険な環境で生活しなければならないことになるのが最初から分かりきっています。そうなると、当然のことながら自己防衛の必要性から妻側も強くならざるをえず、ありとあらゆる手段を講じて、自分の夫およびその他親族の弱みを掴み、優位に立たなければならないことになります。すると夫側の方もそうはさせじと更なる防御策を講じて妻側の動きを封じて弱みを握る一方、自分の弱みは決して握られないように……という形で中国の夫婦関係はどんどん殺伐たるものになっていく、というわけです。
 そんな油断も隙もできない中国社会の人間関係は、下は極貧民層から上は皇帝に至るまで例外なく(ある意味公正に)強いられるものですし、当然のことながら大多数の中国人にとっても決して楽しいものではありえません。そこで「もっと楽な生き方はないものか」と考えられたのが、自分以外の他人が一切存在しない「仙境」という一種の中国版ユートピアであり、そこに住まうことが許される「仙人」という存在なのです。西洋のキリスト教的価値観が苦痛に満ちた現世を離脱し、死後の世界に救いを求めるのと似たような理論でもって、中国人は「仙人」というものに憧れを抱くわけです。悪しきイメージと「罪&罰」を背負わされた吸血鬼と違い、理想とされる「仙人」のあり方に飽きがこないのは当たり前ですし、中国社会の人間関係から解放された仙人が「のんきで明るい」のもまた当然のことなのです。
 中国人がどれほどまでに理想郷とされる「仙境」および「仙人」に憧れを抱いていたかについては、実際に仙人になるための方法と称するものが実際に考案され、時の皇帝ですらそれを信じ込んだ挙句に様々な形で実践された事例の数々を見ても明らかでしょう。生とは苦痛に満ちたものであり、それから逃れるための方法を模索する、という点において、道教の教えに生きる中国人もまた、吸血鬼を忌み嫌うキリスト教的価値観を信奉する人達と何ら異なるところはなく、ただその手段となるものが異なるだけしかないのです。
 比較にならないもの同士を無理矢理比較の対象として並べた挙句に愚劣な比較文化論を論じ、西洋的価値観に対する中国文化の優越をでっち上げようとする創竜伝や田中芳樹の中国礼賛論が「節度をわきまえた学者」的態度とは対極に位置するものであることは、すでに疑問の余地など微塵もないほどに明白なのですけどね。まあ、その愚劣な比較文化論の尻拭いを、自分とは何の関係もないのにやらされた薬師寺シリーズについては、その点に関する限り全くもって同情せざるをえないのですが(T_T)。

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P130上段~下段
<「暑いのにご苦労さんだねえ」
 丸岡警部が同情する。
「若いころは街頭警備に駆り出されたこともあるが、あのころは現在ほど夏も暑くなかったようなきがするなあ。いや、それこそ気のせいかね」
「いえ、事実として気温は上昇してますよ。とくに東京はね。ヒート・アイランド現象ってやつですか」
「地球の温暖化とかもありますし、石油なんてあと四十年でなくなっちゃうそうですね」
「ほう、そうかい。だが、しかし変だな」
 丸岡警部は左のコメカミを指先でかるくつついた。
「ああ、そうだ、思い出したぞ。子どものころ、マスコミが大騒ぎしたっけ。あと三十年で地球上から石油がなくなってしまう、といってね。もう四十年以上になるな」
「そりゃ変な話だ。大ハズレだったわけですね」
「あれは誰がそんなことをいい出したか知らないが、その後、誰も『まちがいでした、すみません』といった者がいないことはたしかだなあ」
「科学者でしょうかね、無責任ですね」>

 自分の愚かしい社会評論や、薬師寺涼子の犯罪行為&隠蔽工作に積極的共犯者として関わってきた数々の実績について「まちがいでした、すみません」と謝罪どころか言及したことすらない泉田準一郎ごときに「無責任」と言われましてもねぇ……(>_<)。当時の科学者達も「お前にだけは言われたくないわ」と失笑せざるをえないのではないでしょうか(笑)。
 実はこれも例によって過去の社会評論の蒸し返しでしかないんですよね。創竜伝11巻にもこれと同趣旨の社会評論が披露されています↓

創竜伝11巻 P122上段~下段
<だが、どう見ても陰謀としか思えない歴史上の事例も存在する。「ローマ・クラブ」という例だ。
 一九六〇年代のこと、欧米の学者や識者が集まってつくったと言われるローマ・クラブというグループが、重大な発表を世界に向けて発表した。「あと三〇年で全世界の石油は掘りつくされてしまい、人類はエネルギー源を失って危機を迎える」という内容だ。全世界が驚き、騒ぎたてた。その結果、石油の価格は暴騰し、石油に代わるエネルギーは原子力しかない、というわけで、反対を押しきって原子力発電所がいくつも建てられた。
 三〇年が経過した。石油はなくなるどころか、世界の各地で新しい油田が発見され、すくなくとも今後一〇〇年は供給可能といわれている。ローマ・クラブの予測は完全にはずれたのだ。
 もしローマ・クラブがまともな学者や識者のグループであったら、「私たちの予測は大はずれでした。皆さん、お騒がせしてすみません」と宣言するはずである。だがローマ・クラブはそんなことはしなかった。というよりローマ・クラブは、石油危機を煽りたてた後、何の活動もせず、そのまま消えてしまったのである。あとには、巨額の利益をむさぼった石油会社と原子力会社の高笑いだけが残った。
 これは経済的利益のための薄汚れた陰謀であったとしか思えない。「石油をはじめとしてエネルギーを浪費するのはやめたほうがいい。資源をたいせつに」というのは、また別の問題である。>

 で、これについては「私の創竜伝考察31」でも述べたことがあるのですけど、この「ローマ・クラブ」の予測というのは、あくまでもそれが発表された1960年代~70年代前半当時の技術力および当時判明していた石油埋蔵量を元に考えられたものであって、「当時の知識から考えられたであろう科学的手続きに基づいた予測」としては充分に妥当といえるものでした。その予測が結果として外れたのは、その予測の中に「その後の技術的発展」および「石油埋蔵量の増加」という科学的に予測も算定もしようがない要素を「あえて」含めなかったからであって、そんな科学的な裏付けの保証がないものを予測因子に含めていたら、それこそ泉田準一郎が全否定しているであろうオカルティックな預言者の類と同じシロモノになってしまうではありませんか。科学も所詮は万能の利器などではない以上、限界もあれば錯誤もあるのですし、前にも言いましたが多大な錯誤の積み重ねから常識と限界を覆す小粒の成果を得るのが科学というものなのです。
 それに、ここで糾弾されているローマ・クラブは、実のところ「何の活動もせず、そのまま消えてしまった」どころか、現在でも立派に活動し続けているのですけどね。ローマ・クラブは、1972年に「成長の限界」という著書を出して石油問題に警鐘を鳴らして以降もさらに調査と検証を重ね、1992年に「限界を超えて―生きるための選択」、2004年に「成長の限界 人類の選択」という著書を出し、最新のデータと検証結果を元に「成長の限界」と同様の警鐘を鳴らし続けています。すくなくとも、泉田準一郎や田中芳樹のように、自分達の過去の発言を訂正も謝罪もせずに逃げ続けるなどという無責任な態度に終始してはいないわけです。
 さらに言えば、こういう警鐘が鳴らされたことによって世界各国が環境・資源対策に乗り出し、代替エネルギーの開発や石油発掘技術の向上に努めたことが、結果として予測が外れる方向に動いたという側面もないわけではないでしょう。破滅の未来図が提示されれば、それを回避しようと動くのは人間の本能的に見ても至極当然のことなのであって、神の予言のごとく素直に運命を受け入れ、座して死を待たなければならない理由が一体どこにあるというのでしょうか。問題を提起し、対策を促すという点において、ローマ・クラブの警鐘は大いに意義のあるものだったとすら言えるのです。
 ストレス解消かつ手抜き目的に一昔前の社会評論をトレースして、一昔前の論調のままに時代遅れな駄文をステレオタイプの如く繰り返し他者を罵倒し続ける泉田準一郎や田中芳樹には、そういう警鐘や批判が持つ真の存在意義というものは永遠に理解できないものなのかもしれないですけどね(苦笑)。

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P130下段~P131下段
<「で、その後、地球は寒冷化して氷河期が来る、といってまた騒ぎになったな」
「え、温暖化じゃなくてですかあ」
「逆だよ、寒冷化」
「それじゃ、ほんの二、三十年で、逆になったわけですか」
「うん、まったく逆になったね。科学の進歩だか、環境の変化だか、シロウトにはよくわからんが……」
 丸岡警部は指先で左の頬をかいた。
「ただ奇妙なことがあるんだな。昔から気になってるんだが」
「何ですか」
 若い聴衆が興味をしめしたので、初老の語り手は気分を良くしたようだ。
「いやね、石油がなくなるとか、氷河期が来るとか、いや温暖化とか、世界的に大騒ぎして、環境保護が大声で叫ばれる……で、ふと気づいてみると、かならず石油が値上がりして、原子力発電所の数が大幅に増えてるんだな、これが」
「ほんとですかあ!?」
「憶えてるかぎりじゃ、かならずそうだな」
「そういえば、アメリカでも原子力発電所をいっぺんに何十も建設するらしいですね。スリーマイル島だったかな、大事故のあと建設を全面停止していたのに……あれ?」>

 そしてこれまた一昔前の社会評論の蒸し返しですね。
 上記の地球温暖化問題と原子力発電所云々の社会評論は、創竜伝4巻にも同主旨の記述が存在します↓

創竜伝4巻 P37上段~P39上段
<一九八八年の末あたりになると、「温室効果」という言葉は、すっかり一般化してしまった。つまり、工場や自動車や火力発電所から排出される二酸化炭素が地球をすっぽり包んでしまい、太陽からの熱を吸収する一方で、地上の熱は外に逃がさない。かくして日本国の気象庁の気候問題懇談会によれば、「地球の気温は三・五度C上昇し、南北両極の氷が溶けて海面は一・一メートル上昇する」とある。事実ならたいへんなことだ。
 ところが、ここに奇妙な符合がある。一九八八年という年は、日本をふくむ世界各地で、原子力発電に反対する運動が、急激に盛りあがった年であった。これは何といっても、一九八六年四月にソ連のチェルノブイリで発生した原子力発電所の大事故が、しだいに実態を明らかにされていき、人々の危機感が高まっていったからだ。
 そのころから、つぎのような意見が目だちはじめた。
「原子力発電は石油や石炭のような化石燃料とちがって二酸化炭素を放出しない。だから温室効果をおこさないためには、原子力エネルギーを使うべきである。その原子力発電に反対するのは、温室効果を促進し、地球の環境破壊に荷担する行為である」
 つまり、
「原子力発電に反対する者は、環境の敵、地球の敵である!」
ということになる。この論法は正しいだろうか。
(中略)
 現在の人類、ことに先進国民と自称する人々が、石油を乱費し、森林を破壊し、水と大気を汚染し、地球の環境を荒廃させつつあることは事実であり、当然、反省すべきであろう。その結果、エネルギーのむだづかいをへらし、むやみに樹木を伐採することをやめ、自動車の排気ガスをへらすことができれば、けっこうなことだ。一九八九年、「ハーグ宣言」などによりフロンガスの使用が全面禁止にむかったのは、人類の理性が確かに存在することを示すものであった。ところが、原生林を切り開いて自動車道路をつくり、珊瑚礁をたたきつぶして空港を建設するような計画を強引に進めておいて、「環境を守るために原子力を使おう」というのは、すこしおかしいのではないだろうか。
 一九八九年、日本の科学技術庁は、「原子力発電反対運動に対抗するための宣伝工作費用」として、10億円という巨額の予算を獲得した。これは前年度予算の五倍である。つまり、「原子力発電は安全である」ということを新聞、雑誌、TVで宣伝するわけで、協力してくれる文化人には多額の報酬が支払われる。一部の文化人にとって、原発賛成はいい商売になるのだ。
 なお、電力会社によっては、女子社員を原子炉近くの管理区域まで行かせて、原子力発電の安全性をPRすることがある。こういうのを、昔からの日本語で「猿芝居」という。上役の命令にさからえない弱い立場の社員に、そんなことをさせるのは卑劣というものだ。電力会社の社員が、原子力発電所の敷地内に社宅を建てて、家族といっしょにそこに住みついたら、「原子力発電所は危険だ」などという者は、ひとりもいなくなるだろう。何億円も宣伝費をかけるよりも、よほど説得力があるというものである。できないのは不思議だ。彼らは「日本の原子力発電所は絶対に安全だ」と主張しているのだから、そのていどのことができないはずはない。もっと辛辣に、「東京の都心部に原発をたてたらどうだ、絶対安全なのなら」と主張する人もいるのだから。>

 そしてこれについても「私の創竜伝考察9」ですでに言及済みだったりするのですが、どうも田中芳樹は、作品執筆におけるストレス解消に磨きをかけるあまり、作品を構成するストーリーばかりか、そのストレス解消の要となるはずの社会評論ですら手抜きトレースを躊躇わなくなってしまっているようで(>_<)。
 日本で原子力発電が推進されている最大の理由はいくつかありますが、中でも経済コストとエネルギー安全保障の問題は無視できるものではありません。原子力発電は少量のウラン燃料を長期に使用できる上にリサイクルも可能なため、膨大な購入・輸送コストがかかる石油に比べて原価を大幅に抑えることができ、結果として火力発電に比べ発電量当りの単価を安くできるという利点があります。資源小国の日本にとって、これが大きな死活問題であることは論を待たないでしょう。
 また、戦前の石油禁輸や1970年代のオイルショックを例に挙げるまでもなく、石油は石油産出諸国の政情や世界各国の政治的思惑、さらには発展途上国の飛躍的な需要増加などで価格の変動が激しく、場合によっては安定供給すら満足に行えないリスクも背負っています。日本の国情およびエネルギー安全保障の観点から見れば、石油に頼らないエネルギー供給体制の確立は、国家の安全のみならず国民生活の維持・保護のためにも必要不可欠なことなのであって、決して3流陰謀論で罵られなければならないものなどではないのです。
 さらに問題提起すれば、火力発電は地球温暖化の原因とされる二酸化炭素のみならず、窒素酸化物(NOx)・硫黄酸化物(SOx)・浮遊粒子状物質(SPM)などといった有害化学汚染物質も排出し、大気汚染の原因にもなっているわけなのですから、公害対策の観点から言っても何らかの対策ないしは代替システムの必要に迫られるのは至極当然のことでしょう。戦後の日本で、あれだけ大気汚染や水質汚濁などの公害問題が喧伝されていた歴史的事実を、まさか知らないわけではないでしょうに。
 そして、地形条件に束縛される水力や地熱発電、バードストライクや低周波問題を引き起こす風力発電、そして発電量が少なく(現時点では)設置コストやメンテナンス費用も高い太陽熱発電といった他の様々な発電システムを鑑みても、コストパフォーマンスに優れ、エネルギーの安定供給にも寄与し、かつ公害対策にもなるという総合評価で原子力発電の絶対的優位は現時点では到底覆りようがなく、それ故に原子力発電は支持される、といった構図があるわけです。田中芳樹の脳内にしか存在しない5流右翼な仮想人間と違って私は別に「原子力発電に反対する者は、環境の敵、地球の敵である!」などと言うつもりはありませんが、この構図を直視せずして原子力発電の危険性を云々したところで、日本の電力の3割以上を原子力発電でまかなっている現実の前では問題の解決になど全くならないでしょうに、とは言いたいところでしてね(苦笑)。
 まあ、サブ的な位置付けでしかない小説中のストーリーどころか、メインのストレス解消であるはずの社会評論の開陳ですら過去の作品や偏向マスコミ新聞から何ら加工ひとつ施さずにトレースするだけの手抜き作業に終始する田中芳樹などに、環境問題やエネルギー問題についてマトモに語ることを要求することがそもそも無理な相談であると言われれば全くその通りなのでしょうけど(爆)。

 さて、薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」に関する考察もいよいよ最終場面にさしかかってきたわけですが、またしても田中芳樹はド派手にやらかして下さいました(>_<)。
 ゴユダという半人半鰐(ワニ)の怪物であるサリー・ユリカなる存在が警視庁に直接乗り込み、その超常的な力を行使して散々なまでに暴れ回るシーンなのですが……↓

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P176下段~P177上段
<しなやかな女性の形をしたロケット弾が、男たちの群れに飛びこんだかのようだった。鈍い音がひびき、怒号と叫喚がかさなりあった。
「な、何だ、あれは、人間の力か!?」
 公安部長の声は、九割がた悲鳴である。
 半魚姫サリーよりはるかに筋骨たくましい男たちの身体が宙を乱舞した。天井に激突し、床にたたきつけられ、壁へ吹きとばされる。
 必死の形相でサリー・ユリカに組みついた制服警官が、かるく振りほどかれ、天井に放り上げられる。照明に激突し、床に落下すると、割れくだけたガラスの雨が降りそそぐ。さらにその上に別の人体がたたきつけられる。
「あ、あの女、薬物でも使ってるんだな。覚醒剤か、筋肉増強剤か、いや、もっと強力な麻薬だ。そうにちがいない!」
 公安部長は必死に自分を納得させようとしている。残念だが、私には、このエリート官僚を安心させてやることはできなかった。真実を語ってやっても、どうせ信用してはもらえない。>

 あの~、あれだけ「非科学的」な怪物が何度も跳梁跋扈している薬師寺シリーズの世界で、しかも1巻ならまだしも8巻もシリーズが続いている上に怪物の存在そのものが大々的に誇示されているにもかかわらず、肝心の怪物に対する世間一般の認識が未だにこの程度のレベルでしかないというのはいくら何でも不可解極まりないのではありませんかね?
 薬師寺シリーズは1巻目から「非科学的」な怪物が登場し、多くの人間がその暴れ回る様を目の当たりにしているばかりか、その実態について報道規制が敷かれている形跡もなく、それどころか4巻「クレオパトラの葬送」に至っては全世界的規模で展開する報道機関によってその存在が大々的にアピールされてすらいます。しかも、薬師寺シリーズにおける怪物騒動は全て日本警察の動向が直接間接に関係していますし、そのうち8巻を含む5回は日本警察自体も巻き込まれています。あれだけ何度も同種の怪物騒動が頻発し、他ならぬ自分達自身の目で騒動を目撃&体験しているにもかかわらず、警察の反応が「怪物の存在が認知されていなかった」1巻の頃と全く同じ、というのはそれこそ「科学的に」どころか「オカルト的に」考えても到底ありえない話ではありませんか。
 さらに言えば、6巻「夜光曲」で発生した怪物騒動では公安自身も捜査に乗り出しており、また一連の騒動はTVで生中継までされているので、8巻の時点でこの公安部長が怪物の存在すら認知していないなどという事態はますますもってありえないことなんですよね。警察内部のセクト主義や薬師寺涼子の秘密主義で怪物関係の情報が公安部にまで行き届かなかったとしても、TVで大々的に報道された上に自分達自身もまた当事者である以上、公安部自身の調査で「科学では説明できない異常事態が発生している」「正体不明の生物の存在が確認される」程度のことくらい把握できないわけがないのですし。
 「あの」創竜伝ですら、たびたび登場したドラゴンの存在はTVその他のマスコミ報道が大々的になされると共に一般人にも認知されていきましたし、それを利用した「ドラゴンは人類の敵」と一方的にレッテルを貼る情報操作が四人姉妹や日本の政治家達を中心に行われたりもしたものなのですが、薬師寺シリーズの世界ではいくら大々的な報道がなされても、また多数の目撃者がいても、怪物および超常現象の存在は、薬師寺涼子一派と敵陣営以外の一般人どころか事件の被害者・関係者達にさえ認知はおろか記憶すらも全くされることがないときているわけです。こんな奇妙奇天烈な事態に比べれば、怪物や超常現象の存在の方がまだはるかに万人に受け入れられ、理解されるものですらありえるでしょう。
 田中芳樹は妖怪・怪物の存在を「非科学的」として全否定するあまり、そんなものとは比べ物にならないほどに「非科学的」かつ「非オカルト的」で前人未到な超異常怪奇現象を、しかも作中で何ら設定を付加することすらもなく、あたかも説明するまでもない常識であるかのように出現させてしまっているわけです。私が薬師寺シリーズ考察で何度も指摘している「オカルトに依存しながらオカルトを否定する」という愚行をそこまでして貫くことに、作品として一体如何なる意味と意義があるというのでしょうか?

 そしてこれにさらに追い討ちの仇花を添えるのが、支離滅裂ながらもとにかく対策を考えついた公安部長に対する薬師寺涼子の発言です↓

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P179下段~P180上段
<「バ、バ、バケモノだ……」
 泣き出しそうな声は公安部長だ。雄弁きわまる事実を目撃した警官たちも声が出ない。なす術もなく立ちつくすばかりだ。
 涼子は小さく舌打ちし、指を引金にかけたまま、くるくる拳銃を回転させた。
「やっぱりねえ、拳銃ていどじゃ通用しないか」
 涼子の美しい脚にしがみついたまま、公安部長があえいだ。
「じ、自衛隊を呼ぼう、そうだ、自衛隊だ」
「おだまり!」
 涼子が叱咤する。
「自衛隊を呼ぶなんて、あたしが許さない」
「ゆ、許さないって、こうなったら、戦車かミサイルでも持ってこないかぎり……」
「自衛隊内で犯罪が起こって、警察が踏みこむことはある。だけど、自衛隊が警視庁に踏みこむなんてことはありえない、許されない。それが日本警察の矜持ってもんよ。部長だろうと総監だろうと、その矜持がないやつは、警察から出ておいき!」>

 …………駄目だこいつ…。早くなんとかしないと…(>_<)。
 この場面では、拳銃を所持し発砲した複数の警察官が、半人半鰐の怪物サリー・ユリカにあっけなく返り討ちにされ、さらに追い詰められようとしている状況にあります。サリー・ユリカに返り討ちにされた警察官は戦闘不能にされた上負傷もしていますし、サリー・ユリカをここまま放置すれば更なる犠牲者が出ることも避けられないという事態では、「自分達の戦力だけでは犠牲が増えるばかりだから、他所から応援を頼もう」という判断自体は極めて妥当なものですし、法的手続きの煩雑さや指揮命令系統上の問題等を抜きにして純粋に当てにできる戦力として自衛隊が挙げられるのもまた、拳銃が通用しない敵を目の前にしている状況では有力な選択肢のひとつとして当然考慮されるべきものでしょう。一般的な犯罪捜査や軍事クーデターとはわけが違うのです。
 また、公安部長には単に目の前の敵に対処しなければならないだけでなく、自分の部下である警察官の生命と安全を守る義務もあります。拳銃が通用しない敵を相手に、しかも戦闘不能にされた部下達を目の当たりにしてなお、自分の部下達に勝算も成果も皆無な特攻を命じるような人間は、公安部長どころか人間としてすら間違いなく失格の烙印を押されることでしょう。圧倒的な敵を目の当たりにした場合、むやみに突撃を敢行するのは勇気ではなく蛮勇と無能の証でしかなく、自分と相手の力の格差を正確に見切った上で撤退ないしは援軍要請の決断を下すこともまた、指揮官として必要とされる資質なのです。
 にもかかわらず薬師寺涼子は、まるで自軍の撤退を許さず部下に特攻を強いた戦前の右翼軍人のごときタワゴトを、しかも越権行為を平然とやらかす参謀将校のような態度で公安部長に叩きつけたわけです。誰が信奉しているかも不明なばかりかそもそも存在すら疑わしい「日本警察の矜持」とやらを振り回して「自衛隊を呼ぶなんて、あたしが許さない」などとほざく薬師寺涼子は、国粋主義を絶叫して特攻を煽った戦前の右翼軍人とどこが違うと言うのでしょうか。
 創竜伝でも、かつてこんなことが言われていたはずなのですがね↓

創竜伝6巻 P90上段~P91上段
<「三十六計逃ぐるにしかず、さ」
 そのていどの故事成句は、終でも知っているのだった。
 西暦五世紀の中国、南北朝時代。宋という国があった。これは唐の後に天下を統一した宋とは別の国である。宋の名将檀道済は北の国境を守って強大な北魏軍と戦いつづけた。彼の戦術は巧妙をきわめ、北魏軍をさんざんに撃ち破った。ときには敵の前から逃げまわってその戦力を削ぐという手段にも出た。どうしても檀道済に勝てない北魏軍は、くやしまぎれに「逃げじょうずの檀将軍、三十六策中、走るが上策なり」とののしった。ののしっても勝てないのだから、どうしようもない。檀道済が健在なかぎり宋は安泰であるはずだった。
 ところが、時の宋の皇帝は、檀道済の名声と実力をおそれ、無実の罪を着せて彼を死刑にしてしまった。強敵の死を知った北魏軍は狂喜し、おりからの酷寒で凍結していた河を騎馬隊で突破して一挙に宋の国都を衝いた。城外を埋めつくす北魏の軍旗を見て、困惑した皇帝は、「檀将軍はどこにおる」と叫んだという……。
 まったく、逃げることも必要なのだ。日本史上、もっとも「逃げじょうず」といわれたのは織田信長で、「こいつはいかん」と思うと、むだな体裁などつくろわずに逃げまくった。徳川家康も大坂夏の陣で真田幸村に追われて逃げまわった。これは幸村の名誉であるが、べつに家康の恥ではない。
 第二次世界大戦で、日本軍を狂気と妄想が支配するようになると、逃走や退却は恥だということになった。兵士たちに退却を許さず、戦死や自殺を強要しておいて、将軍や参謀たちは自分たちだけさっさと飛行機で脱出したという例はいくらでもある。>

 この論理から考えると、素直に「自分達ではかなわない」と悟り、援軍要請を決断しようとした公安部長を恫喝した薬師寺涼子は「逃走や退却は恥だ」と考える「狂気と妄想が支配する」キチガイそのものである、ということになってしまいますね(笑)。まあ、これまでの支離滅裂かつ開き直りな発言&犯罪行為&犯罪隠蔽の数々からしても、薬師寺涼子に対するその評価は至極妥当なものだと言わざるをえませんが(爆)。
 それに、日本の警察がこうまで「非科学的」な怪物になす術もなく一方的に振り回される原因のひとつは他ならぬ薬師寺涼子自身にあるではありませんか。薬師寺涼子は1巻の頃から「怪物の存在は絶対に認められない」「警察と科学者がオカルトを認めちゃいけないの」などというタワゴトな要求を日本警察に押しつけた上、その後の事件でも積極的な犯罪隠蔽工作を行ってオカルト事件を勝手に迷宮入りにした挙句、今後の犯罪捜査に役立つであろうオカルト関連の情報を日本警察に提供しようとすらしなかったわけです。自分から積極的に日本警察を自縄自縛の状態に追いやったことを棚に上げて今回の発言では、日本警察としてもたまったものではありますまい。
 もし薬師寺涼子が自分で収集したオカルト情報をきちんと警察に提供し、対オカルト犯罪捜査のマニュアルでも作成して全警察官に周知徹底させるよう働きかければ、警察だってより効果的かつ事前準備を整えた上での対処が充分に可能だったでしょう。何も知らないで奇襲を受けるのと、事前に知識があるのとでは、当然対処だって変わってくるのですから。また薬師寺涼子にはそれだけのことが実行しえる地位も発言権も備わっているのですし、どうしても自分の主張が通らない時はそれこそJACESのバックアップを利用することだってできるわけです。そんな恵まれた環境にありながら「地位と権力に見合った責任を取らない」「やるべきことをやらない」薬師寺涼子が、どのツラ下げて公安部長を恫喝することができるのか、その責任転嫁と厚顔無恥ぶりには本当に呆れるばかりです。
 そして、このような支離滅裂なタワゴトを吐き散らす低能キチガイ女に対し、忠実な下僕兼腰巾着を自認している泉田準一郎はと言えば……↓

薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P214上段
<またしてもアカンベエをするオトナゲない上司に、私は声をかけた。
「カッコよかったですよ」
「何が?」
「公安部長に向かってタンカを切ったときです」
 半魚人サリーの破壊力に動転した公安部長が、自衛隊を呼ぼうと主張したとき、涼子は応えた――矜持のないやつは警視庁から出ていけ、と。そのときの涼子は、ほんとうにカッコよかったのだ。>

などと無条件かつ盲目的な礼賛すら率先して行う始末。薬師寺涼子の精神的奴隷にして狂信者であるところの泉田準一郎は、「下手な礼賛・擁護は上手な批判以上に対象を却って貶める」という言葉をまさに地で行く存在としか言いようがありませんね。あれほどまでに薬師寺涼子の性格および全行動を詳細に知りうる立場にありながら、薬師寺涼子が抱える真の問題点から目を背けつつ表層的な礼賛をやらかすしか能のない泉田準一郎は、常人には到底理解に苦しむシロモノでしかないのですが。
 まあ、生まれながらにスレイヤーズと極楽大作戦の出来損ないな超劣化クローン人形という素質を持ち、周囲をとにかくひたすら罵りまくることが「強さ」であると勘違いしている超低能キチガイ女のケバケバしさを飾り立てる御粗末な添え物としては、泉田準一郎がこれ以上ない打って付けの人材であることはまず間違いないのですけどね(苦笑)。

 さて、今回の考察の投稿により、薬師寺涼子の怪奇事件簿についての考察シリーズは、2009年11月現在における薬師寺シリーズの最新刊まで追いつくこととなりました。
 今後も新刊が刊行され次第、薬師寺シリーズ考察もまた続けていくことになりますが、議論は別として、それまではひとまず、薬師寺シリーズ考察本体そのものは一時休息とさせて頂きたいと思います。

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