銀英伝メディア論
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小村損三郎さんの銀英伝アニメ論(2)

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収録投稿5件目
board1 - No.995

反論!銀英伝アニメ論

投稿者:Merkatz
1999年03月30日(火) 22時14分

ここにいらっしゃる皆さんは、「銀英伝」のアニメを見ていらっしゃるのでしょうか。過去ログに小村損三郎さんの「銀英伝」アニメの批評があったのですが、アニメファンとして反論しておきたいと思い、ここに書く次第です。

>どうもアニメ評のHP等を見ると甘い評価が多い様なんですが、みんな原作の人気と思い入れに幻惑されてる
>んじゃないかなー、なんて。
>私のあのアニメ版に対する評価は「限りなく低い」です。(最低でもないけど)

原作ファンが惑わされているというのは、そうかもしれませんが、私のようなアニメで「銀英伝」を初めて知ったというような人間には当てはまらないでしょう。ですから割合客観的に見れると思います。

>何と言っても一番酷いのは脚本です。
>セリフは原作の完全な丸写し。ひどい時には延々と数十秒に渡って続くナレーション(これまた原作の丸写し)。
>誰も指摘しないのでこの際はっきり言ってしまいますが、田中氏独特の歯の浮くような言い回しや唐突に挿入
>される独語等は、活字でこそ味がありますが、セリフで聞くと完全なギャグになってしまうんです(特にポプ
>ランとか)。声優さんも恥かしかったんじゃないかなー(笑)。
>そして、丸写しの結果として橋田寿賀子もビックリの異様な長ゼリフ。これも活字での効果と映像表現の違い
>を全く無視した(単に気づいていないだけか?)挙句に陥った事態ですね。加えて登場人物が揃いも揃って饒
>舌なので聞いていてうんざりしてしまいます。

私が「銀英伝」を見たとき、面白いと思いこそすれセリフが長ったらしいとは思いませんでした。その後、原作を読んで「ああ、忠実に作ってあるんだな」とは思いましたが。
活字と映像で効果が違う、というのはもっともですがこの場合、下手にいじると「銀英伝」独特の雰囲気が壊れてしまったのではと思います。
私はアニメ、原作という順番で見たので特にそう思います。スタッフの人たちは、わざとこのようにしたのではと思われます。

>そして同様に全く芸の無い演出。
>例えば原作では2巻にあたる辺りだったと思いますが、ヤンがユリアンに戦術の講義をするシーン(「A・B
>同時に蜂起した敵を時間差をつけて撃つ」とか言うくだり)なんかはひたすらセリフのみでの説明で、画面上
>のキャラは口をパクパクさせてるだけ。それが延々続くんです。
>艦隊戦のシーンではスクリーン上で部隊の動きを説明したりしてますが、例えば上のようなシーンでも画面上
>にそういうイメージ表示をして視聴者に解り易くする、といった手法を取っても良かったのでは?

指摘なされるとおりいくら原作に忠実にといっても、このくらいは映像のメリットを生かして欲しかった。
メックリンガーが「一頭の獅子に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の獅子の群れを駆逐する」としゃべるところで、
「うわあ、これ原作知ってる人はわかるけど、そうでない人は大変だぞ」と思ったものです。
しかし全く芸が無いというのは賛成しかねる。
非常に細かいことと感じられるかもしれないが、私が感心した点を挙げてみましょう。

1.クーデターを起こしたグリーンヒル大将の心情描写

原作では全く語られることがなかった点です。設定として「軍の良識派」ということになっているので、良識派の彼がクーデターを起こすぐらい思い詰めていたということでしょうか。
アニメではここにワンシーンを挟むことで、
原作の雰囲気を壊すことなくグリーンヒル大将の心情を描いています。

クーデター後、雨の降りしきる墓地に彼は一人たたずんで、目前の墓石に語り掛けます。
「フレデリカに許しを請おうとは思わん。政治の腐敗は誰かが正さねばならんのだ。その意味で我々は間違ったことはしていない。だが、若い連中は性急でな。もし私が立たねば誰が彼らを押さえられるだろうか。こうするより他に手段はなかったのだ。こうするよりな。あの子はわかってはくれんかな。母さん・・・」

これある故に、グリーンヒル大将の悲劇が際立ち、原作以上の感動を与えてくれます。
ここはまさに「演出」の勝利です。
他にグリーンヒル大将がらみで大変細かいことですが、バグダッシュがヤンに協力して政治宣伝を行なった後の、グリーンヒル大将とリンチのやり取りもかなり手が加えられています。
ここも私はアニメの方がしっくり来ると感じたのですが。暇な方は2巻184~185、191ページと24話を見比べてみてください。

2.カストロプ動乱

これは大胆にもアレンジしています。
原作では軽く語られるだけでしたが、アニメは1本の話にまとめています。
ベルゲンクリューンとビューロー、そしてキルヒアイスとのやり取り、キルヒアイスの軍事的手腕の見せかたなど、かなり面白い。
1巻141~144ページと5話です。お暇な方はどうぞ。

3.ウルヴァシー事件の報告を受けた後のロイエンタール

ここもかなり手が入っています。ナレーション部分をあえてしゃべらせたり、逆にセリフをナレーションにしたりしています。例えば「無実である身が、なぜ、必死に、かつ卑屈に、弁解せねばならないのか。ばかばかしい」という部分は原作ではナレーションですが、ロイエンタールのセリフにしてしまうことで、大変迫力が増しています。
また、ベルゲングリューンとのやり取りの間にロイエンタールの回想が挟まれているのが、アニメではベルゲングリューンを下がらせた後回想を始めるという構成になっています。とどめに不敵に笑うロイエンタールというシーンを付け足していて、非常に印象深いものとなっています。
9巻124~130ページと93話です。ここは必見です。

他にも挙げればきりがないのですが、割合手が入っていて、決して小村損三郎さんが言われるような「全く芸の無い演出」では断じてありません。
そしてその細かい演出は、原作の雰囲気を壊すことなく、それでいてより一層「銀英伝」世界を味わい深いものにしています。

>作画と背景美術も平板で薄っぺらく、画面に奥行きが感じられませんね。

たしかに第1・2期の作画、特に第2期はむごいの一言。
もっともこれはアニメ界全体に重大な出来事があって、そのために乱れたもので情状の余地有りですが。
その反省からか、第3・4期は稀に見るハイクオリティーとなっています。
ですから「銀英伝」の作画すべてが駄目かのようにいうのは間違いです。

小村損三郎さんの批評は、確かにうなずける点もありますが、「限りなく低い」というのはあまりに底の浅い見方だと私は思うのです。
「原作の人気と思い入れに幻惑されてる」のは小村損三郎さんの方ではないかと思えます。
「結局アニメに向いてない作品だったんだ。」との思い込みのもとでアニメを見ているのではありませんか?
私は10話あたりまでアニメで見た後、いっきに原作を読破して、その後もアニメを見続けました。アニメで面白さを知り、原作を読んで元の面白さを知った後も、なおアニメも面白く感じました。
それはとりもなおさず、「銀英伝」アニメの出来の良さによるものではないでしょうか。
もし小村損三郎さんの批評が正しいのなら、なぜアニメから「銀英伝」に入ってくる人が絶えないのでしょうか。
出来の悪い原作ものアニメが、原作の面白さを伝えることが出来るでしょうか?
映像表現としていくらかの欠点があるのは認めますが、そのこと自体は「銀英伝」アニメの面白さを損なうものではありません。
原作ものアニメとして「銀英伝」は間違いなく成功の部類に入るものだと私は思います。

収録投稿6件目
board1 - No.1007

レス

投稿者:小村損三郎
1999年04月01日(木) 00時30分

>ここにいらっしゃる皆さんは、「銀英伝」のアニメを見ていらっしゃるのでしょうか。

先ず、私の銀英伝との出会いから言いますと、存在を知ったのは最初のアニメ「わが征くは星の大海」の製作が決定し、キャラデザイン等が発表された時。
雑誌の紹介記事に「銀河を舞台にしたスペースオペラだが、同時に未来の人類社会の興亡を緻密に描いた架空歴史小説でもある」みたいな一文がありまして、三国志や司馬遼の歴史小説が好きだったこともあって興味をそそられ、1巻を購入したのがきっかけです。
完成した「わが征くは・・・」を見たのは全巻読み終えた後です。
そういう意味では原作から入ったともアニメから入ったとも言えない中途半端組(^^;)。

>①セリフについて
>私が「銀英伝」を見たとき、面白いと思いこそすれセリフが長ったらしいとは思いませんでした。
>その後、原作を読んで「ああ、忠実に作ってあるんだな」とは思いましたが。

帝国軍の文語調のノリのセリフ回しについては、大河ドラマなんかでも見られる通りでそれほど違和感は感じないんですが、問題は同盟サイドでして。
生身の人間が言ってるのを聞いたら爆笑必至のキザなセリフ(アニメ的なセリフ、というのともまた違いますよね)を日常会話の中で恥かしげもなくまくしたてられると、どうにも背中がむず痒くなってしまいますね。
具体的に挙げると、ポプランとアッテンボローの掛け合いなんかでしょうか。

これについては面白い話を聞いたことがありまして、田中氏がアニメのアフレコ現場を見学した時、元々自分で書いておきながら、あまりにキザなセリフの応酬に耐えきれず、赤面して小さくなってしまった、ということです。(たしか本人が語っていた。)

もっとも、この歯の浮くようなセリフ回しも活字で読むと独特の味わいになっちゃうのが不思議なんですけど。

>②脚本とアレンジについて
原作の1巻にあたる部分は何人かの脚本家が持ち回りで書いていますね。
2巻以降は河中志摩夫氏がほぼ全話1人で書いています。

で、初期の持ち回りの頃は結構映像的翻訳がなされている部分が多くあります。(セリフもそんなに長くない)
原作の1巻は、続きが出せるかどうか分らなかったこともあって、盛り込めるものは盛り込もう、という感じで書かれてるんですね。
後の部分のようにそのまんまアニメにすると視聴者も混乱したでしょうから、これはこれで適切な処理だと思います。
(ご指摘のカストロプ動乱の回はほぼ完全なオリジナルですが、この回の意図は原作における「指向性ゼッフル粒子」登場の唐突さをカバーする為ですね。)
ただ、その結果(作画レベルの低さもあいまって)、陳腐な表現になってしまってる部分もかなり見られることは確かです。

で・・・、どうもチーフプロデューサー(つまり最高権限&責任者)の田原正利氏はこれが気に入らなかったようです。
田原氏は原作の熱狂的ファンだそうなので、このような翻訳(改変)は原作の香気を損なう、と考えたのかもしれません。
ロマンアルバムの河中氏のインタビューによると、「これは銀英伝じゃない」ということになり、氏が以後の脚本の全てを任されることになったそうで。
結果、その後はひたすら原作の絵解きに終始するようになってしまったかなあ、というのが私の印象。
ご指摘の件のように原作の補完や改善に成功してる部分もたしかにありますが、それはあくまで副次的なものにとどまり、アニメ独自の映像的アプローチに挑むことはほとんどなくなってしまいました。
こういう「消極さ」というか「欲の無さ」というか、そういった点が、“絵的に淡々としすぎる”フィルムになった原因ではないかと。(田原氏が目指したのはそれだったのかもしれませんが)

前のセリフの話ともつながってきますが、「映像作品としての効果的でわかりやすい表現」と「作品の空気・世界観を壊さないようにする」、という2つの要素のバランスの取り方があまりにも難しい作品であり、私が「アニメに向いてない作品」と感じる最大の理由もここにあります。

以上、ちょっと忙しいので今日はこれまで。
明日は出張なのでレスできません。
次回は明後日以降。
作画その他について・・・。

収録投稿7件目
board1 - No.1010

反論!銀英伝アニメ論

投稿者:Merkatz
1999年04月01日(木) 06時08分

>>小村損三郎さんへ

すいません。私の言葉足らずのせいで、話があらぬ方向にいっています。
私が言いたかったのは「結果として銀英伝アニメは成功している」ということです。細かい技術論を語りたいのではありません。
小村損三郎さんのおっしゃることは「演出や長セリフなど欠点が多数ある」「ゆえに銀英伝アニメは低い評価しか与えられない」ということですよね。
私はそれはおかしいんじゃないかと思ったのです。
そもそも「銀英伝アニメ」とは何か?これはいわゆる原作ものアニメです。原作ものアニメの役割とはなんでしょうか。それは「原作の面白さを伝えること」です。それだけではありませんが、まあメインとして挙げるならそういう事になるでしょう。
しかしここで重大な問題が発生します。それは原作の面白さを伝えようと忠実に作れば作るほど、アニメ独特の表現法が使えなくなるということです。
これは小説に限らず、漫画・ゲームの原作ものもそうです。
小村損三郎さんも指摘なされている通り、「映像作品としての効果的でわかりやすい表現」と「作品の空気・世界観を壊さないようにする」という要素が反発し合います。
原作の面白さを伝えるためには出来るだけ忠実に作った方がよい、だがそうするとアニメ独自の表現がやりずらい、しかし原作そのままだとかえってつまらなくなる。この微妙なバランスの上に「原作ものアニメ」というものがある。
そこで「原作ものアニメ」の本義を考えると、原作の面白さを伝えることを重視すべきだということになる。革新的なアニメ表現を使用しても、それが原作の面白さを伝えなかったり、あるいはかえって削ぐようなことになっては何の意味もない。
さて、以上を踏まえた上で「銀英伝アニメ」は原作の面白さを伝えることに失敗しているでしょうか。答えは否です。
今なお多くの人に原作の面白さを伝えることに成功している。つまり「原作ものアニメ」として成功しているということです。
そうである以上、小村損三郎さんの指摘は本義に外れた枝葉末節の技術論にすぎず、銀英伝アニメの「原作ものアニメ」としての成功を覆すものではありません。
それでも小村損三郎さんが「原作垂れ流しでくだらない。失敗作」と思われるのなら、銀英伝アニメが人気があることをどう説明なさるのですか。「原作人気だ」という言い訳は、アニメから銀英伝に入った人間がいることを説明できません。
言っておきますが私はアニメを見るまで「銀英伝」なる人気小説がある事を知りませんでした。原作人気というものを全く知らず、アニメで初めてその面白さを知ったのです。
そしてそのような人はたくさんいる。中にはアニメしか知らないという人もあるくらいです。
「原作が面白いんだ。垂れ流しすりゃ面白いのは当たり前だ」等ということはよもやおっしゃらないでしょうね。垂れ流しは原作の面白さを伝えはしません。私は過去にそういう愚かなことをして、つまらなくなった原作ものアニメを何本も見ています。
原作ものアニメで面白いものというのは、原作に忠実ではあるのですが、必ずプラスアルファがあった。それがなんであるかはそれぞれ違いますが。
私が前回指摘したのはその「プラスアルファ」の部分なのです。これあるから銀英伝アニメは成功したと。
銀英伝アニメにおいては、「プラスアルファ」は映像表現ではなかったということです。

結論として「銀英伝」アニメは「原作ものアニメ」としては成功だったということです。

今気がついたけど私って、タイトルに続き物なのに最初のものに1をつけてない・・・。まあ田中芳樹の真似だともうしておきましょうか。(笑)

収録投稿8件目
board1 - No.1011

原作とアニメ、どこが変更された?

投稿者:新Q太郎
1999年04月01日(木) 13時26分

アニメで、原作と設定が違うところや新しく付け加えられたシーンというと、「グリーンヒルの墓参り」などのほかにどんなものがあったでしょう?
私はビデオを一気に見せられた(笑)ので、詳しく覚えていないのです。

たしか「イゼルローンを覆うのが液体金属になった」のと「アムリッツァ戦域の焦土作戦を、その住民側から描いたエピソードがあった」ということぐらいはわかるのですが。

収録投稿9件目
board1 - No.1017

「反論!銀英伝アニメ論」について少々

投稿者:りえ
1999年04月01日(木) 20時44分

Merkatzさん、レスを失礼します。

>原作ものアニメの役割とはなんでしょうか。それは「原作の面白さを伝えること」です。

確かにその通りですね。

>「映像作品としての効果的でわかりやすい表現」と「作品の空気・世界観を壊さないようにする」という要素が反発し合います。
>原作の面白さを伝えるためには出来るだけ忠実に作った方がよい、だがそうするとアニメ独自の表現がやりずらい、しかし原作そのままだとかえってつまらなくなる。この微妙なバランスの上に「原作ものアニメ」というものがある。

というより、原作をただ垂れ流すだけならわざわざ映像という媒体にする必要はないと思います。いい意味で原作を越えるのを求めて映像化するのでしょう?
私もその点については同意見です。

>「銀英伝アニメ」は原作の面白さを伝えることに失敗しているでしょうか。答えは否です。
>今なお多くの人に原作の面白さを伝えることに成功している。つまり「原作ものアニメ」として成功しているということです。

これは疑問ですが。
銀英伝アニメは、当初ウィークリービデオと称して通信販売オンリーで世に出されたものです。レンタルビデオ展開やWOWOWで放送されることなんて考えてもいなかったんじゃないでしょうか(テレ東については放映予定があったものと見られます。出てすぐに第一期の放映が始まりましたから)
そんな作品が、まだ銀英を読んでいない読者向けに世に出されたものでしょうか? 違うと思います。あれは明らかに既存の読者をターゲットにしたものです。
結果としての成功で、手放しに評価できるものだとは思えませんが。

>そうである以上、小村損三郎さんの指摘は本義に外れた枝葉末節の技術論にすぎず、銀英伝アニメの「原作ものアニメ」としての成功を覆すものではありません。

それでも、技術レベルの低さって言うかクオリティの低さは無視できないと思いますが。時間を十分にかけているはずのOVAであのレベルのものを出してくるのはひどいと思いますが。
あ、技術論はいいんでしたっけ。

>それでも小村損三郎さんが「原作垂れ流しでくだらない。失敗作」と思われるのなら、銀英伝アニメが人気があることをどう説明なさるのですか。

放映媒体が増え、人の目に留まることが増えたから、でしょうね。ついでに言うなら第一期しか放映されなかったりと、結末が気になる人が多かったってことでしょうか。たとえそれがどんなものであれ、終わりは気になるって人は多いのでは?

>「原作人気だ」という言い訳は、アニメから銀英伝に入った人間がいることを説明できません。

原作の存在すら知らなかった人が存在を知ったから、でしょう。あれば気になるのが原作ですから。まして徳間は積極的に売りの姿勢に出てましたから。

>中にはアニメしか知らないという人もあるくらいです。

ではその方には原作の面白さは伝わらなかったのでしょうね。
伝わったのなら、原作に目を通すはずでしょう?

>「原作が面白いんだ。垂れ流しすりゃ面白いのは当たり前だ」等ということはよもやおっしゃらないでしょうね。垂れ流しは原作の面白さを伝えはしません。私は過去にそういう愚かなことをして、つまらなくなった原作ものアニメを何本も見ています。

それを愚かとまで断言するのは極論では?
あなたの目にそう見えても、それが好きだって人はいると思いますが。

>原作ものアニメで面白いものというのは、原作に忠実ではあるのですが、必ずプラスアルファがあった。それがなんであるかはそれぞれ違いますが。
私が前回指摘したのはその「プラスアルファ」の部分なのです。これあるから銀英伝アニメは成功したと。
>銀英伝アニメにおいては、「プラスアルファ」は映像表現ではなかったということです。

じゃあ、映像化する意味ってないのでは?
プラスアルファが映像でないなら、何で映像媒体を使用する必要があるんですか?映像化を選んだのなら、映像の枠の中にプラスアルファを探すべきだと思います。

>結論として「銀英伝」アニメは「原作ものアニメ」としては成功だったということです。

だったら技術的なことに触れずに最初からそうおっしゃって下さいよ。脇道にそれずにすみますから。

収録投稿10件目
board1 - No.1023

りえさんへRES

投稿者:Merkatz
1999年04月02日(金) 18時28分

>というより、原作をただ垂れ流すだけならわざわざ映像という媒体にする必要はないと思います。

アニメ化に限らず、ドラマ化やゲーム化にしても原作を垂れ流してよいというはずがありません。他の媒体で作るという時点で、「いい意味で原作を越えるのを求め」ている訳ですから。原作垂れ流しに適した媒体などあるはずがない。

>銀英伝アニメは、当初ウィークリービデオと称して通信販売オンリーで世に出されたものです。レンタルビデオ
>展開やWOWOWで放送されることなんて考えてもいなかったんじゃないでしょうか(テレ東については放映予定が
>あったものと見られます。出てすぐに第一期の放映が始まりましたから)

銀英伝は最初TVアニメとして企画されていました。それが諸般の事情でビデオ作品に変更となったのです。テレ東での放映はその名残でしょう。

>そんな作品が、まだ銀英を読んでいない読者向けに世に出されたものでしょうか? 違うと思います。あれは
>明らかに既存の読者をターゲットにしたものです。

したがって原作ファンオンリーの代物というりえさんの指摘は間違いです。不特定多数に見てもらうことが前提に合ったのです。
レンタルビデオ展開も折り込み済みだったと思われます。リリース時機を見れば明らかです。
第1期最終話 89.6.20 レンタル版 89.8.1
第2期最終話 92.2.20 レンタル版 91.12.1 92.3.17
第3期最終話 95.2.28 レンタル版 95.2.25 95.4.25
第4期最終話 97.3.14 レンタル版 96.12.21 97.3.17
このように迅速にレンタル化しています。通販ビデオという形態がファンのためだとしても、作品そのものがファンオンリーのものではないということが、わかっていただけたでしょうか。
さらに言うなら、原作ものが元々のファン層を狙うのは当然でしょう。しかし同人作品ではないのだから、新規ファンの開拓を行なわねばなりません。
そもそも他媒体で作るというのは、新規ファン開拓が主目的です。小説は読まないけどアニメは見る、という人のために作る訳です。りえさんの「原作ものはファンのためのものだ」という主張は短絡的です。
どこの会社でもファンのための慈善事業をしているのではなく、商売をしているのですから。

>それでも、技術レベルの低さって言うかクオリティの低さは無視できないと思いますが。時間を十分にかけて
>いるはずのOVAであのレベルのものを出してくるのはひどいと思いますが。

銀英伝はTVアニメと同じ作り方をしています。ウィークリーというリリースの仕方から、OVAのように時間を掛けてじっくりと、ということが出来ないのです。
にしても第1・2期の作画が酷いことは、すでに指摘済みです。

>放映媒体が増え、人の目に留まることが増えたから、でしょうね。ついでに言うなら第一期しか放映されなか
>ったりと、結末が気になる人が多かったってことでしょうか。たとえそれがどんなものであれ、終わりは気に
>なるって人は多いのでは?

露出が増えれば人気が出る訳でもないでしょう。そういう類いの人気は得てしてバブルのように数年で弾けるものです。エヴァンゲリオンが良い例です。しかしアニメが10年もの長期に渡って人気を維持し続けているのは、作品の面白さが無ければ不可能です。原作の小説とて同じ事です。
また、駄作をいつまでも見続けるような酔狂な人はそう多くはありません。面白いから続きが見たい、というのが自然でしょう。

>ではその方には原作の面白さは伝わらなかったのでしょうね。
>伝わったのなら、原作に目を通すはずでしょう?

アニメファンが必ずしも原作を読むとは限りません。そもそも小説を読まない人のためにアニメ化するのですから、アニメは見るけど小説は読まない人がいて当然です。
しかしそういう人たちも「銀英伝アニメ」は面白いという。アニメの面白さは原作に所以するところですから、すなわち原作の面白さが伝わったということです。

>それを愚かとまで断言するのは極論では?
>あなたの目にそう見えても、それが好きだって人はいると思いますが。

「好きである」ということと「面白い」ということは違います。たで食う虫も好きずきというように、人の好みは様々です。ですが、作品の質自体は好き嫌いとは違う所にある。
原作ものは忠実に作りすぎるとかえってつまらなくなる(この点はりえさんも認めていらっしゃる訳ですよね)のですから、わざわざそういうことをするのは愚か以外の何物でもないと思います。

>じゃあ、映像化する意味ってないのでは?
>プラスアルファが映像でないなら、何で映像媒体を使用する必要があるんですか?映像化を選んだのなら、映
>像の枠の中にプラスアルファを探すべきだと思います。

すいません。私の説明不足です。
ここでいう映像表現とは「革新的な、特筆大書すべき映像表現」という意味でアニメそのもののことではありません。
誤解を与えたことをお詫びします。

>だったら技術的なことに触れずに最初からそうおっしゃって下さいよ。脇道にそれずにすみますから。

これは非礼極まる言葉ですね。
私は最初の発言で、こういう点で見るべきものがある、だから評価できるんじゃないかといった訳です。しかし小村損三郎さんは細かい話しをしてきたので、「ああ、しまった。勘違いさせてしまった」と思いレスを書いた訳です。ですから小村損三郎さんに私のミスを詫びて、私の意図するところを伝え直した訳です。
それをりえさんは罵倒するとは何様のつもりですか。他人をけなして優越感に浸っているつもりですか。
意見を言うのはかまいませんが、礼節は守っていただきたいものです。私は脇道にそれたことを詫びているのです。それをよく読みもせずに罵倒するとは言語道断です。
りえさんには切に反省を望みます。

収録投稿11件目
board1 - No.1026

「銀英伝アニメ論」について質問

投稿者:ひかる
1999年04月02日(金) 22時10分

 初めまして。ひかると申します。今回一つ疑問に感じたことがあって、カキコさせていただくことにしました。本当に些細なことなので、少々恥ずかしいのですが(^^;
 「銀英伝アニメ論」についてですなのですが、Merkatzのおっしゃる映像表現プラスアルファがよくわかりません。映像表現とは別の何かがプラスしてあるということなのでしょうか?
 過去ログを読んだ限りでは脚本に原作にないシーンを書き足し、なおかつそれが原作以上の面白さである。と、私は解釈したのですが……
 私の理解力の足りないところで大変申し訳ないのですが、よろしければお返事願います。

 私的にはあのアニメは同盟軍パイロットの制服が某大作映画の物とあまりに似すぎていて、ついていけないものを感じましたが……
 すみません。これは個人的感情が入ってます。忘れてやって下さい。

収録投稿12件目
board1 - No.1030

レス2

投稿者:小村損三郎
1999年04月03日(土) 01時35分

やっと奈良から戻りました。
で、アニメの話の続きを。

>すいません。私の言葉足らずのせいで、話があらぬ方向にいっています。
>私が言いたかったのは「結果として銀英伝アニメは成功している」ということです。細かい技術論を語りたいのではありません。

つ、つまり“反論!(無印)”最後の10行に満たない部分が主張の眼目である、ということでせうか(汗)。
まあいいけど。

>>原作ものアニメの役割とはなんでしょうか。>>それは「原作の面白さを伝えること」です。

>りえさん
>確かにその通りですね。

う~ん、ここはちょっとお2人とは意見が違うなー。原作ものであろうとオリジナルであろうとアニメはアニメとして、それ自体の持つ様々な要素を総合して評価したい、というのが私のスタンスなので。
その結果があの評であるとご理解いただきたい。

>今なお多くの人に原作の面白さを伝えることに成功している。
>つまり「原作ものアニメ」として成功しているということです。

“商業的に&原作の面白さを伝えてファンを増やすことに成功している。それが原作ものアニメの最も重要な使命なのだから、技術面の欠点をあげつらうのは不毛なことだ。”
というのがMerkatzさんの主張の骨子と理解して良いでしょうか?
だとしたらこれは堂々巡りになってしまいますね。
何せそもそもザ・ベストのあの評論で私が問題にしたのは「(Merkatzさんがおっしゃるには“細かな”。私はそうは思わないが)画面上の技術論」についてのものなので。
「限りなく低い」と評したのもそれらアニメ作品としての構成要素を総合的に勘案した結果です。

>銀英伝アニメが人気があることをどう説明なさるのですか。

人気がある作品=優れた作品、という理屈が良く分からないのですが。
「原作の魅力を多くの人に伝えた」→だから作品としても成功だ、というMerkatzさんの見方と
「独立した映像作品としては不備な点が多すぎる。」→よって単独では低い評価しかできない、という私では水掛け論になってしまいそうな気もしますな。

>「原作人気だ」という言い訳は、アニメから銀英伝に入った人間がいることを説明できません。
>「原作が面白いんだ。垂れ流しすりゃ面白いのは当たり前だ」等ということはよもやおっしゃらないでしょうね。

おっしゃらないでしょうね、も何も素材に恵まれたことは否定できないでしょう。
逆に言えばシェフの腕次第で更に美味に仕上げることも決して不可能ではなかったはずです。
(こう書くと「アニメに向いてない作品だ」と言ったのと矛盾してる、と思われるかもしれませんが、スタッフの力量と工夫次第で、前回書いた「バランス取り」がもうちょっと高次元でできたのでは、ということです。
とりあえずの比較対象としては道原かつみのコミック版を挙げておきませう。)

仮に志茂田景樹の「激烈!帝国大戦」(「孔明の艦隊」でも「極光の艦隊」でも何でもいいが)を銀英伝と同じ方法論でアニメ化したら一体どんなのが出来上がるんでしょうか(^^;;)。
まあ、これは極端な喩えですが、現実に、画面作りに関しては同様の手法をとった創竜伝のアニメがアッという間に「無かったこと」にされてしまった(笑)のを見れば自ずとそういう推論も出て来ようというものです。
(社会評論や日本人論を入れればもっと人気が出た?←まさかね)
そう言えばMerkatzさんは今創竜伝を読んでるんですよね。4巻あたりはメインのストーリー自体はまあまあ面白いのに、評論部分の不愉快さでページをめくる度に鼻白んでしまう、という妙ちくりんな作品です。

収録投稿13件目
board1 - No.1034

「反論!銀英伝アニメ論3」

投稿者:Merkatz
1999年04月03日(土) 05時07分

どうも。稚拙な文章で誤解を振りまいております。すみません。なかなか難しいものですね、他人に我が意を正確に伝えるということは。皆さんのようにスマートにできませんが、なるべく努力いたしますのでご容赦のほどを。

>つ、つまり“反論!(無印)”最後の10行に満たない部分が主張の眼目である、ということでせうか(汗)。
>まあいいけど。

重ねて申し訳ありません。私の稚拙な文章の故ご迷惑をおかけしました。
小村損三郎さんの指摘なさっていることへの反論が、私の原作ものアニメに対する考え方の論証にもつながっているので、あのように書いたのですが、論旨があやふやでしたね。

>う~ん、ここはちょっとお2人とは意見が違うなー。原作ものであろうとオリジナルであろうとアニメはアニ
>メとして、それ自体の持つ様々な要素を総合して評価したい、というのが私のスタンスなので。
>その結果があの評であるとご理解いただきたい。

原作ものアニメが、全く原作の影響を受けずに独立していられるものでしょうか。小村損三郎さんの例えに倣って料理で言うなら、「素材を無視して料理だけ独立して語れるか」ということです。
小村損三郎さんが、何をもって素材は無視できるとおっしゃるのか。私には理解できません。
どんなにうまい料理でも、素材がなくては作れません。原作という名の素材を無視して、その料理は何なのかを語ることが出来るとする小村損三郎さんの理屈はあまりに奇異です。

>“商業的に&原作の面白さを伝えてファンを増やすことに成功している。それが原作ものアニメの最も重要な
>使命なのだから、技術面の欠点をあげつらうのは不毛なことだ。”
というのがMerkatzさんの主張の骨子と理
>解して良いでしょうか?
>だとしたらこれは堂々巡りになってしまいますね。
何せそもそもザ・ベストのあの評論で私が問題にしたのは「(Merkatzさんがおっしゃるには“細かな”。私は
>そうは思わないが)画面上の技術論」についてのものなので。
>「限りなく低い」と評したのもそれらアニメ作品としての構成要素を総合的に勘案した結果です。

このあたりは私の至らなさゆえの誤解があります。こればかりでどうにも申し訳ないですが、ご容赦のほどを。
細かいことと申したのは言葉のあやです。自分が論じたかったことと違うという意味で、「細かい」という不適切な言葉を使ってしまいました。
小村損三郎さんの構成要素の批判はあたっているところもあります。私が小村損三郎さんのすべてを否定はしていないことは、1回目に書いてますので、ご存知だと思います。
「カット割りやカメラワークにも何ら工夫が見られない」「メカや小物の描写も古臭い上にぞんざい」というのも、ああ、そう言えばそうだなあ、と思いましたが、それらの理由がアニメの低評価に直結しているのが納得できなかった。
肝心なことを無視してないかと思ったのです。結局、小村損三郎さんは原作ものということを無視していた、だからあのような評価に繋がっているということはわかりましたが。
原作ものアニメを評価するのに、原作を無視したのでは「構成要素を総合的に勘案した」とは言えないのではないか。何故なら素材抜きで料理は語れない(または作れない)のですから。

>人気がある作品=優れた作品、という理屈が良く分からないのですが。

逆です。優れているから人気があるのです。私は一貫してそう主張しているつもりです。銀英伝アニメは優れているから人気があるのです。

>素材に恵まれたことは否定できないでしょう。
>逆に言えばシェフの腕次第で更に美味に仕上げることも決して不可能ではなかったはずです。
>(こう書くと「アニメに向いてない作品だ」と言ったのと矛盾してる、と思われるかもしれませんが、
>スタッフの力量と工夫次第で、前回書いた「バランス取り」がもうちょっと高次元でできたのでは、
>ということです。

素材に恵まれたというのは全くその通りです。しかしバランス取りに失敗しているというのは承服しかねる。
私はそれなりのバランスを保っていると思っています。その証拠として、1回目に色々挙げた訳です。

私が小村損三郎さんのアニメに対する評価に納得がいかない最大の理由は、「私がアニメを面白いと感じたこと」を全く説明できないからです。
もし、小村損三郎さんのおっしゃるとおりアニメが駄作なら、どうして私は駄作を面白いと感じ、原作を読んでやっぱり面白いと思ったのでしょうか。
駄作なら面白さを感じるはずがないではありませんか。
私は田中芳樹の田の字も知らない、小説なんて全く読まない人間でした。それがたまたま見た銀英伝アニメなるものを見て、なんて面白いんだと思い、生まれて初めて小説を買ったのです。
原作垂れ流しが面白いとはおっしゃらないのですから、垂れ流しのアニメはつまらないことに小村損三郎さんは賛成していただけるのですよね。
では原作の面白さを伝えない駄作に、原作の面白さを感じる現象をどう説明なさるのですか。

小村損三郎さんは水掛け論となることを指摘しておられますが、このままではそうなるでしょうね。考えの前提となるべきものが違うのですから。
今一度言います。素材抜きで料理が語れますか?その点を考えてみてください。

さて、誤解解きにもう一仕事。「銀英伝アニメ」のどこが評価できるのか。
1.原作の面白さを伝えている
2.原作を損なうことなくオリジナル要素を差し挟むことに成功している
3.戦闘シーンの映像化
4.クラシックをBGMに使用
さらに小村損三郎さんの指摘しておられた
5.各種衣装のデザイン
6.ルイ王朝及び第一帝制の雰囲気を取り入れた宮廷の描写
というところですね。1、2はすでに解説済みです。5、6は他人の指摘なのでパス。3、4を説明しましょう。

「戦闘シーンの映像化」
ここに来られている方は、たくさん小説を読んでいらっしゃるので、私の言うことが理解できないかもしれません。
私のようにあまり小説を読まない人間は、描写シーンでイメージが湧かないのです。「銀英伝」が特にそうというのではなく、すべての小説においてです。
だから艦隊がこう動いた、誰それがそう動いた、と書いてあってもいまいちピンとこない。ですから読むのに大変苦労する。
うそだろうと思われるかもしれませんが、本当なんです。
したがって映像化してもらえるのは大変有難い。おかげで小説が苦手な人間も楽に入り込める訳ですから。
小説をアニメにするというだけでも大変意義のあることなのです。
そしてさらに言えば「百聞は一見にしかず」。やはり映像化のインパクトというのはそれだけであるものです。

「クラシックをBGMに使用」
これは小説はどうやっても勝てませんね。音でインパクトを与えるというのはアニメだからこそ出来ることです。
クラシックという選択は非常に良かったと思います。「銀英伝」の雰囲気にマッチしています。
これは大変な功績だと思います。下手なBGMは原作の雰囲気をぶち壊したでしょう。

革新的な映像表現、例えばCG使っているとか、カメラワークが斬新とかはありませんけど、映像化の基本は押さえていると思います。まあ多少平凡ではありますが。しかし当たり前のことこそ無視すべきではありません。奇をてらえば良いというものでもないのですから。
基本を押さえて、さらに何かあればなお良し。銀英伝アニメは基本は押さえてあるが、それ以上はなかったということです。
基本だけ→平凡→駄作というのは短絡的だと思います。

そして、ひかるさん。「映像表現+アルファ」ではなく「原作の面白さ+アルファ」という意味です。
アニメにするにあたってどんな要素が足されているだろうか。つまり原作の面白さに何が足されているだろうか、ということです。
そして上に書いてあることがその「プラスアルファ」です(厳密に言うと2以下の部分)。

適当なことやっているから、方々からつっこまれまくりです。自分でまいた種ですから、あくまで自分で刈り取る覚悟は出来ておりますので、みなさん遠慮なくやっちゃってください(笑)。

あっそうそう、「創竜伝」アニメが失敗したのは素材が腐っていたからでは?(笑)

収録投稿14件目
board1 - No.1040

「反論!銀英伝アニメ論3.5」

投稿者:Merkatz
1999年04月03日(土) 18時39分

今回は補足です。
素材と料理というだけではわかりずらいかなと思い、わかりやすい例えをば。

私は趣味でクラシック音楽を聴いていますが(ちなみに銀英伝を見る以前からです)、クラシックレコード(今はCDですが)には「名盤」と呼ばれるものがあります。
「名盤」とは名演奏を収録したものです。カラヤンの名前ぐらい一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。そのような名指揮者による名演奏、それが「名盤」です。
カラヤン、ベーム、ショルティ、ワルターなどいろんな指揮者の名盤が存在しています。
さて一方で「高音質(優秀録音)盤」なるものが存在します。オーディオマニアなら知っているでしょうが、ステレオ雑誌には毎号、「今月の高音質盤」紹介記事が載っています。
「高音質盤」とは非常に良い録音がされていて、音質が高い、マニアが聞いて納得できる音質の盤のことを言います。これを聴くにはラジカセなんぞ論外です。単体オーディオで、ウン10万からウン100万の装置で聞かなければ駄目です。
ここで問題。「名盤」=「高音質盤」なのでしょうか?そう思った人、はずれです。「名盤」であることと「高音質盤」であることには何の関係もないのです。
つまり「低音質名盤」「高音質駄作盤」というものが存在するわけです。名演奏のCDなのに解像度が悪い、たいした演奏でもないのにやたらと録音が良い。そういうのが存在するわけです。

それではこの話がどう銀英伝アニメと関係あるのか。簡単に言うと、
Merkatz=「低音質名盤」支持
小村損三郎さん=「高音質駄作盤」支持
ということです。
私は銀英伝アニメが低音質であることは認めるが、名演奏であることは間違いないのだからこれは「名盤」であると主張するわけです。
小村損三郎さんはせっかくの名演奏を酷い録音をした、こんな低音質ならわざわざCDにした意味ないじゃないか。こんな「低音質盤」は評価に値しない、と主張なさるわけです。
カラヤン指揮のベートーベン第9番=銀英伝原作
それをCD化したもの=銀英伝アニメ
とするなら、これだけの名演奏をCD化するなら高音質であって当然だし、そうでなくてはならない。それを低音質にしてしまった時点で、名演奏としての価値はなくなる。「カラヤン指揮のベートーベン第9番」は名演奏でも「CDのカラヤン指揮のベートーベン第9番」は名演奏でない。これが小村損三郎さん。
せっかくの名演奏なのに、CDは低音質となってしまったのは残念だ。しかしだからといって「カラヤン指揮のベートーベン第9番」が名演奏であることは揺るぎ無い事実であるし、CD化によってコンサートに行かない人にも手軽に名演奏を聞けるようにした功績は大きい。これが私。
私は「名盤」ということを重視している。小村損三郎さんは「高音質盤」というのを重視している。これでは議論は平行線をたどるばかりです。
しかし考えてみてください。「おすすめのCD」と言うとき、普通はどちらを薦めますか。
「これさあ、名演奏なんだよ。聞いてみて」
「これさあ、高音質なんだよ。聞いてみて」
絶対前者ですよね。普通は名演奏か否かが問題であって、高音質を問題にするのはオーディオマニアだけです。
つまり、小村損三郎さんの主張はマニアックなもので、到底一般的ではない。ですから私はそういう作品批評のやり方はおかしいと思ったのです。

さて以上のことを踏まえて、小村損三郎さんには今一度考えてもらいたい。

収録投稿15件目
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レス最後(なんか認識のズレが広がっているようだ)

投稿者:小村損三郎
1999年04月04日(日) 03時09分

>小村損三郎さんは原作ものということを無視していた
>どんなにうまい料理でも、素材がなくては作れません。
>原作という名の素材を無視して、その料理は何なのかを語ることが出来るとする小村損三郎さんの理屈はあまりに奇異です。

そんなことを言ったつもりも覚えも“全く”ありませんが、「原作もの」の評価要素に関する部分は(今度は私の書き方に問題があり)誤解を招いたかもしれませんので、詳しい意図については下の方を御参照下さい。

尚、貴殿のように他人の主張を乱暴にくくるとするならば、
>今一度言います。素材抜きで料理が語れますか?
という部分の意図は
“原作もアニメの構成要素には違いないのだから、この作品を素材として選択した時点でこのアニメの勝ち(&価値)は決まった。
描写にいくら不備があっても映像化してくれただけで良い”
ということなのでしょうか?

ちょっと喩え話的に私の意図をもう1度説明させてもらえば・・・

チーフプロデューサー、即ち店のオーナーである田原氏が銀英伝という魚を市場で見出し、せり落として店で客に提供することにした。

しかし田原氏と河中氏は
「素材の美味しさをそのままお届けする」
ことにこだわり過ぎた結果、「料理の鉄人」で加納典明あたりに
「たしかに美味しいんだけどさあ、もう一工夫足りないんだよね。」
と言われるような料理になってしまった。

たしかに初めて食べる人に「この魚ってこんなに美味しかったの」と思わせる程度にはなっているが、実は料理人の腕と工夫はほとんど反映されていない。そして素材の旨味そのものもまだまだ充分に引き出されているとは言い難い(そう判断した根拠についてはザ・ベストの評論及び最初のレスを参照のこと。「技術論をするつもりはない」そうなのでここでは割愛します。)。

難しい素材なので100%生かしつつ独自の料理に仕上げるのは至難だが、腕の良いシェフならもっともっと見た目も味わいも深く仕上げられる余地はあった

・・・てな感じです。

>私は趣味でクラシック音楽を聴いていますが(ちなみに銀英伝を見る以前からです)、
>クラシックレコード(今はCDですが)には「名盤」と呼ばれるものがあります。

私はクラシックはよく知らないのですが(家の母親なら詳しいんですがね(^^;))、コンサートであれCDであれ聴く内容自体は同じものなのだから必ずしも適切な喩えとは思えませんが。

それでもあえて下の喩え
>カラヤン指揮のベートーベン第9番=銀英伝原作
>それをCD化したもの=銀英伝アニメ
を私的に書き換えてみますと
>ベートーベン第9番(曲自体)=銀英伝原作
>それをどこかの市民楽団レベルの指揮者が演奏したもの=銀英伝アニメ
となります。つまり「名盤」とはとても思えない、ということですが、これはもうとらえ方の違い、という問題なのでこれ以上言い合うのは止めておきましょう。

>それではこの話がどう銀英伝アニメと関係あるのか。簡単に言うと、
>Merkatz=「低音質名盤」支持
>小村損三郎さん=「高音質駄作盤」支持
ということです。

ちょっとちょっと。
前の奴はともかくこれはいくらなんでも聞き捨てなりませんなー(--#)。
一体全体私が過去に「高音質なら駄作盤でも支持する」などと言った又はそう言ったと解釈できるような発言をどこでしているのか具体的に指摘していただきたい。
(名盤でも低音質だからレコードとしては高く評価できない、という趣旨の発言ならしているかもしれませんが。)

前の部分にも書きましたが、人の発言を乱暴に解釈及び改変してレッテル貼りをするような田中芳樹のようなことはやめていただきたい。
私の方では一応「・・・ということでよろしいでしょうか?」と確認を求めてるつもりですが?

>私が小村損三郎さんのアニメに対する評価に納得がいかない最大の理由は、「私がアニメを面白いと感じたこと」を全く説明できないからです。
>もし、小村損三郎さんのおっしゃるとおりアニメが駄作なら、どうして私は駄作を面白いと感じ、原作を読んでやっぱり面白いと思ったのでしょうか。
>駄作なら面白さを感じるはずがないではありませんか

イヤ、申訳ありませんが貴殿の抱いた感想の理由付けを私に求められても解る訳ありませんし、説明して納得させる義務もありませんのでこの点に関して執拗に追求されてもお答えいたしかねます。
以上。

>さて、誤解解きにもう一仕事。「銀英伝アニメ」のどこが評価できるのか。

と思ったら御自身で開陳しておられますね(^^)。
3.4については、イゼルローン要塞の流体金属のアイディア同様「わが征くは星の大海」で既に確立してたことですね。
ちょっと肝心なことを最初に言ってなくて申訳ありませんでしたが、あの評論は「アスターテ会戦」以後の「本編」に対するものです。
最初の「わが征くは」については、一部シーンを除き、非常に“高次元でのバランス取り”が出来ていると思います。
(実は本編とは結構スタッフが入れ替わってるんですよ。)
コミック版よりこっちを比較対象として挙げればよかった・・・。

私が言いたいことは大体上の料理の喩え話でまとめられたと思います。
付け加えておきますと、ザ・ベストの評論において「原作の人気と思い入れに幻惑されている」と書いたのは
「既に原作(つまり素材)からも引き出されている要素に対する高い評価があまりにも大きなウェートを占めていて、本来映像作品の大きな批評対象であるべき部分(つまり料理の腕&工夫)に対する厳格な評価が欠けているのではないか」と言いたかったのであって、
「こんなものを素晴らしいと思う奴は非常識だ」
などと言うつもりは毛頭ありません。
「(アニメに対する評価は)限りなく低い」という言い方にはたしかに語弊があったかもしれませんが、これは“素材からも導ける要素”を除いた上での、“料理の腕前&工夫”の部分に対する評価である、とご理解下さい。

どうも議論の初めから認識の前提に食い違いがあったものと思われます。
主たる原因はあの評論における私の書き方&言葉づかいに至らぬ点があったことにあるようですので、その点はお詫びしておきます。
大体こんな所でまとめにしたいのですが、如何なもんでしょう。

>あっそうそう、「創竜伝」アニメが失敗したのは素材が腐っていたからでは?(笑)

これについては同感です。
素材の質が低い(腐っている、とまでは言わないにしても)上に料理人の腕も未熟ときては、とても食えるシロモノではありません。

収録投稿16件目
board1 - No.1057

「反論!銀英伝アニメ論解決編」

投稿者:Merkatz
1999年04月08日(木) 08時29分

小村さん、どうもすいません。私の文章のまずさのせいで、誤解を与えっぱなしです。なんか謝ってばかりですが、本当に申し訳ないと思っています。

私はこう考えていたわけです(小村さんの例えを拝借しますね)。

チーフプロデューサー、即ち店のオーナーである田原氏が銀英伝という魚を市場で見出し、せり落として店で客に提供することにした。

しかし田原氏と河中氏は
「素材の美味しさをそのままお届けする」
ことにこだわり過ぎた結果、「料理の鉄人」で加納典明あたりに
「たしかに美味しいんだけどさあ、もう一工夫足りないんだよね。」
と言われるような料理になってしまった。

難しい素材なので100%生かしつつ独自の料理に仕上げるのは至難だが、腕の良いシェフならもっともっと見た目も味わいも深く仕上げられる余地はあった。

しかし料理人の心構えとは何か。それはお客を満足させることである。それは単に腕が良いというだけではだめで、お客様に喜んで欲しいという心が大事。「料理は心や!」。

田原氏と河中氏はお客に喜んでもらおうと一生懸命の心ずくしでもてなしてくれた。だが残念ながら肝心の料理の腕が伴ってなかった。しかし料理人としての態度は間違っていない。故にこの料理は「料理人の心」がこもっている点で、半分は評価できる。

というような次第です。
ですから、食通・小村さんが「この魚はねえ、もっとうまい食い方があるんだよ。それをこの程度にしおってからに。あの料理人は最低だよ」という評論をしたのに対して、
私は「いや料理人としての腕は未熟であったが、お客に喜んでもらいたいという心遣いが非常に気持ちよかった。「道」を極めるには心技一体であらねばならない。であるなら「心」があったことだけでも評価すべきではないか」と言いたかったのです。

で、その「心」の部分として、私が今まで挙げてきたものがあるわけなのです。
それをうまく伝えることが出来なかったため、さんざんご迷惑を御掛けしてしまった。

しかし出された料理がいまいちなのは事実なのだから、「技」を論評するのが正論ではないか、と思われるかもしれません。
でも私はそこに厳然とした一線を引きたいのです。
それは
「客に対する心遣いがあったけれども腕が及ばなかった結果」なのか
「客に対する心遣いもなく腕もなかった結果」なのか。
アニメはどう見ても前者である。だから私は評価するんですね。

そこに一線を引くことに何の意味があるのか?それこそが私が今まで主張してきた「原作の面白さを伝える」ということなのです。

小村さんは解っていらっしゃるのでしょうか。「原作ものアニメ」というのは、実は意外と難しいのだということを。
「素材」が良いのだからどんなヘボが料理したところでそこそこの味は出る、というのは間違いで、ヘボだと素材の味が「まったく」出ないんです。
何も銀英伝だけが特別難しい素材ということではなく、そもそも原作もの自体が難しい素材なんですね。
料理人の技と心が試される素材、それが「原作ものアニメ」なんです。

銀英伝においては少なくとも「心」によって「素材のうまさ」を伝えることに成功した。無論「技」があればもっとおいしくなったでしょうが、「心技」なくうまさがまったく伝わらなかったよりは遥かにましです。

べつに私は「素材を選択した時点でアニメの勝ち(&価値)は決まった」などということを主張したつもりは毛頭ありません。素材のうまさをまったく殺してしまうことが多い事を考えれば、「心」によって、素材のうまさを伝えることが出来たということは、評価すべきことの一つとして数えるべきではないかと申したかったのです。

小村さんの指摘しました「創竜伝」アニメとの比較でもそれは証明できます。「創竜伝」の人気は「銀英伝」と肩を並べるもの(ですよね?)です。まったく同じ方法論でアニメ化したにもかかわらず、かたや大成功、かたや大失敗という差はなぜ生じたのか。それは「銀英伝」には「心」があったため素材のうまさを伝えることに成功し、新規ファンを大量獲得したに対し、「創竜伝」は「心技」ともになく新規ファンの獲得に失敗し、原作ファンの自己満足に終始したからです。(ここでは「創竜伝」に伝えるべき面白さが存在するのかどうかは問いません。個人的にはそんなものないと思いますが、いまなお飛ぶように売れる現実から悪魔的魅力が備わっているのではないかと推測されます。ならばその「悪魔的魅力」をアニメ化で伝えることが出来たなら、馬鹿なアニメファンを大量獲得できた筈です。)

味はいまいちですが、今日も私は暖簾をくぐり、料亭「田原&河中」の出す「アニメ銀英伝」を食すでしょう。何故なら味以上にその心遣いが心地よいからです。そしてその心地よさが、料理の味を実際より上に感じさせてくれる。だからこそ今も多くの人が「アニメ銀英伝」を好んでいると思うのです。
腕はあっても客を客とも思わぬ態度で不快にさせてる人や、腕も心もない人が多い中、これは貴重なことだと私は思うのです。
(本当に細かなところまで気配りがしてあります。ヤンが死んだ後のEDに「光の橋を越えて」がかかったり(ここはすっごい感動する。あの歌詞はヤン亡き後のユリアンの心情にすげーぴったり来るもんな。「歓送の歌」じゃあイメージ違うもの)、最終話の予告で「銀河の歴史もあと1ページ」と言い換えてあったり)

小村損三郎さんは一貫して「技」を論じておられた。また相手もそうなのだと思っていらっしゃった。
私は心技一体、「心」も見てくれと訴えたかった。その言い方が下手だったから、何を論じているのか訳が分からなくなってしまった。

また、私と小村さんの評価の違いは「入門書」としてか「応用書」としてか、とも考えられます。
「原作ものアニメ」の理想形というのは、知らない人には「入門書」の役目を果たし、知っている人には「応用書」の役目を果たすということです。こんな難しい事をクリアするには「心技一体」であることが不可欠です。
ですが、「アニメ銀英伝」の場合は片方しか満たしていません。つまり「心」はあっても「技」が及ばず。それでは必然的にどちらかの役目しか果たせません。
この場合は「入門書」であったわけです。
ですが小村さんの評論はどうも「応用書」としての用をなさないことによるもののようだと思われました。で、私は思ったわけです。なるほど「応用書」としてはそのような欠点から誉められたものではないだろう。しかし「入門書」としてはこれは合格点を与えられるものだ。この人の指摘には「入門書」としての観点がごっそり抜け落ちているのではないか。
なぜ小村さんの視点から「入門書」という観点が抜けているのか、私はこの人は原作を知っているが故に「アニメが原作の面白さを伝えているのは当たり前」と思っているからではと、推測したわけです。
知っている人にとっては「当たり前の面白さ」でも、知らない人にとっては「未知の面白さ」です。その辺の視点が欠けているのではないか。
ですから私は最初に「原作の面白さに惑わされている」と指摘したわけです。

小村さんはあの評論を、「心技」を理解しておられる真の食通としてやったのか、「技」のみをさも得意げに語るえせ食通としてやったのか、私はそれを問いただそうとして色々書き散らかしたわけです。
自分の愚かさゆえ、それを伝えることができず迷惑を掛けてしまったことはまことに悔やまれます。

以下は前回のお詫びです。

>Merkatz=「低音質名盤」支持
>小村損三郎さん=「高音質駄作盤」支持

>ちょっとちょっと。
>前の奴はともかくこれはいくらなんでも聞き捨てなりませんなー(--#)。

やっぱり書き直しとけばよかったと反省しきりです。実はこの部分は自分でも「これは違うだろ」と思ったのですが、この方が対比としてわかりやすいかなとそのままにしたのです。どうもすいません。

>人の発言を乱暴に解釈及び改変してレッテル貼りをするような田中芳樹のようなことはやめていただきたい。

自分の言いたいことを伝えようと、稚拙な文章で四苦八苦した結果、そのような印象を与え、不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません。

で、ちょっと技術論について。あっ、怒らないで。言い間違いでああ言ったのであって、したくなかったわけじゃないですよ。
「長いセリフ」って批判材料にならない気がするんです。「橋田寿賀子もビックリの異様な長ゼリフ」とありますけど、これについては面白い話があるんです。
読売新聞に読者からのTV番組の寸評を載せるコーナーがあって、そこに「橋田寿賀子ドラマはみんな饒舌で気味悪い。長ゼリフは不自然」ってあったんですね。そうしたら次の日に「長ゼリフは橋田寿賀子ドラマの味だ。長いのが自然」って反論が載ったんです。嘘みたいだけどこれ本当なんです。だいぶ前でしたね。
ですから何をもって不自然な長セリフとするか、これはもう感性の違いだから、技術論とするのは無理なのではと思った次第です。
現に小村さんは同じセリフでも小説は良くてアニメは駄目、私はどっちも良いって感じてるわけですからね。探せば小説は駄目でアニメは良いとか、漫画は良いけどアニメは駄目とか、いろんな人がいると思う。

肝心なことを聞くことが出来ないまま、議論は終わりを迎えました。ただただ自分の間抜けさを笑うばかりです。
本当に小村さん、このような支離滅裂な文章に付き合っていただいたことを感謝、且つお詫びいたします。ありがとうございました。そしてどうもすみませんでした。

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