> とは言え、完全に考察を否定して、破綻していないと言い切れもしないのが、創竜伝で楽しんでいる身ながらも、辛いところです。やはり疑問点は私にもあります。ただ、ストーリーは、完結して初めて評価できることなので(今の疑問点が、続巻で解消されることがある)、皆さんと同じく私も完結待ちです。
はじめまして。
横レス失礼いたします。
おっしゃる事は全くもってその通り、「完結して始めて作品なのが
小説」なのですが、私この「作品を完結させる」という点において田中
氏のいかなる誠意や熱意の存在も信じません。
「創竜伝」の全十巻予定との予告(何巻目かの後書き参照)は百歩譲って「当初の構想外の外伝が入ったから」で仕方なしとしますが、「アル
スラーン戦記」や「タイタニア」の1巻刊行から何年経過して今どんな
状況かはご存知ですよね。
まあ「大デュマは何年かけた」とか「マルセル・プルーストは何十年
かけた」とか反論もおありでしょうが、『明文化されたルール』なんぞ
なくてもシリーズ物の刊行を始めたら完結に全力をつくすのが1巻の初
版から金出して付き合ってる読者への最低限のマナーでしょう。
とうの昔にこちらのHPでは出されてる話の蒸し返しですけど、健康
を害した訳ではない、シリーズ中止の詫びの一つも入るでない、そのくせ今ご当人が一番興味があるのだろう中国ものは精力的に刊行されてる
では、「どのツラ下げて“作家センセー”とおっしゃるやら」程度は
言われて当然ではありますまいか。
> 半々ですね。程度の問題です。まず小説という媒体が問題です。「お話」に必要以上の自分の思想を盛り込むのはそのつくりかたに問題がありますし、それを言いたいがために小説を書いていると思われても仕方がありません。
ここの部分が謎だ。
田中芳樹氏の思想の善し悪しはおいといて、なぜ思想を語るために小説を書いてはいけないのだ?
この大前提ともなっている部分が理解できない。
仮に田中芳樹氏が自分の思想を広めたいなら、学者向けの哲学書やらエッセイを書くより、学生向けに小説を書いた方がよほど効率がいい。
仮に田中芳樹氏が「面白さ」という意味で、こういった思想を組み込んでいるなら、売れているのだから素晴らしいプロ作家だ。
田中芳樹氏の思想の善し悪しと、小説の作法とは別問題だろう。
> おっしゃる事は全くもってその通り、「完結して始めて作品なのが
> 小説」なのですが、私この「作品を完結させる」という点において田中
> 氏のいかなる誠意や熱意の存在も信じません。
> 「創竜伝」の全十巻予定との予告(何巻目かの後書き参照)は百歩譲って「当初の構想外の外伝が入ったから」で仕方なしとしますが、「アル
> スラーン戦記」や「タイタニア」の1巻刊行から何年経過して今どんな
> 状況かはご存知ですよね。
> まあ「大デュマは何年かけた」とか「マルセル・プルーストは何十年
> かけた」とか反論もおありでしょうが、『明文化されたルール』なんぞ
> なくてもシリーズ物の刊行を始めたら完結に全力をつくすのが1巻の初
> 版から金出して付き合ってる読者への最低限のマナーでしょう。
> とうの昔にこちらのHPでは出されてる話の蒸し返しですけど、健康
> を害した訳ではない、シリーズ中止の詫びの一つも入るでない、そのくせ今ご当人が一番興味があるのだろう中国ものは精力的に刊行されてる
> では、「どのツラ下げて“作家センセー”とおっしゃるやら」程度は
> 言われて当然ではありますまいか。
プロの作家で一番大事なのは売れることだ。
本が売れなければ、本人はおろか出版社も迷惑を被る。
まず何よりも売れることが先決だ。
その一点だけでも、田中芳樹氏は素晴らしい作家だ。
だが、読者を待たせるシリーズが多いのも確かだ。
しかも、それについて後悔はしているが反省はしていない。
遅筆なのに、新しいシリーズをはじめてしまう。
その点は、声を高くして攻めるべきだろう。
それでも「どのツラ下げて作家センセーとおっしゃるやら」というのは、侮辱の言葉であって、批判批評の類ではない。
恵です。
横レスで失礼ですけど、ちょっと古代さんに質問を。
> プロの作家で一番大事なのは売れることだ。
> 本が売れなければ、本人はおろか出版社も迷惑を被る。
> まず何よりも売れることが先決だ。
> その一点だけでも、田中芳樹氏は素晴らしい作家だ。
「本が売れてるから田中芳樹氏は素晴らしい」のですか?
本が売れ、著者と出版社が利益を得ること、そして多くの読者がその本を読むことが、なぜいきなり「素晴らしいプロ作家」という評価になるのか、どうもわたしにはよくわからないんですけど。古代さんの台詞が、まるで出版関係者の主観的な感想に聞こえるのはわたしだけでしょうか?f(^_^;)
本が売れることがどういう理由で「作家として素晴らしい」のか、よければもう少し具体的に説明してくださいませんか?もし利益を上げることで素晴らしいとおっしゃるなら、「商売人として有能で、素晴らしい」のであって、「プロ作家として素晴らしい」とは言えないような気がします。
あと、出版社が迷惑を被るから、「プロの作家で一番大事なのは売れること」なんですか?プロ作家として最重要な資質が「出版社の迷惑」だけ考えた上で決定されるとは、いくらなんでも考えにくいのではないでしょうか。その論法でいくと、
「現在、日本のプロ作家で一番大事なものを最も有しているのは、文句なしに赤川次郎氏である」
という結論になるんですけど(^_^;)。
こちらも、もう少しわかりやすく説明していただくと幸いです。
ではでは☆
こんにちはオズマです。
たびたびですいませんが少し手直しを。
自分の文を読み返していたところ論理に破綻をきたしているところを発見してしまったので。
> 私の持論というほどのものではありませんが、マスコミ(田中芳樹も文筆業者としてその範疇に入れますが)は公正さをというのがあります。あくまでも読み手、聞き手が判断をくだせるような表現の仕方を望みたいものです。そこのところを汲んでもらって私の考えを理解してほしいと思います。
よく考えてみれば、小説家はマスコミではないですね。ですから、田中芳樹をマスコミと同一視して私がマスコミに求める報道姿勢を田中芳樹にも求めることはできませんでした。少し先走りすぎたようです。ここの部分はカットして読んで頂けたら幸いです。
そこで少し補足を。この前の文章は、単に人々が何かと影響されやすいということをマスコミを例にして説明したという意味で捉えてください。
では後いくつか。
> > 半々ですね。程度の問題です。まず小説という媒体が問題です。「お話」に必要以上の自分の思想を盛り込むのはそのつくりかたに問題がありますし、それを言いたいがために小説を書いていると思われても仕方がありません。
>
> ここの部分が謎だ。
> 田中芳樹氏の思想の善し悪しはおいといて、なぜ思想を語るために小説を書いてはいけないのだ?
>
> この大前提ともなっている部分が理解できない。
>
> 仮に田中芳樹氏が自分の思想を広めたいなら、学者向けの哲学書やらエッセイを書くより、学生向けに小説を書いた方がよほど効率がいい。
>
> 仮に田中芳樹氏が「面白さ」という意味で、こういった思想を組み込んでいるなら、売れているのだから素晴らしいプロ作家だ。
> 田中芳樹氏の思想の善し悪しと、小説の作法とは別問題だろう。
前提が違うならば相容れることは無いかもしれませんね。
私が問題としているのは、小説はそれを学問的な議論の対象とすることができないということです。極端な話、小説に対してまじめに反対意見を述べても、あれはフィクションですといわれればそれで終わりです。つまり、自分の思想を述べることに対して、それに対する反論を受けるだけの覚悟が無い、言い換えればはじめから反論を受けたときの逃げ道を作っている、その態度が問題なんです。反論の余地が無い方法で思想を広めるのは、俗な言い方をすれば「フェアじゃない」ですね。以前の投稿で何度も言っているような気がしますが・・・。
後ひとつ付け加えるなら、小説にとって、ストーリーと筆者の思想、どちらが大事ですか。両者がうまくかみ合えばいいですがそうでない時、果たしてそれは小説と呼ぶに値するでしょうか(貴方は田中芳樹作品においてかみ合っているとお思いなのでしょうが、そうでない人もいるということも理解してくださいね)。
最も、田中芳樹が彼の思想を哲学書で書いたとして、それが純粋に研究の対象とするだけの価値があるかどうかは疑問ですし、従って売れるかどうかも疑問です。その意味で、売れることをもってよしとするなら、それはそれで小説として出すというのは一理ありますね。それは認めます。(逆に面白いもの見たさで売れるかもね。)
もし、田中芳樹が彼自身の思想云々はおいといて、「右翼いじめしとけば売れる」というだけで、貴方やランゼルさんが言うようにそういう思想を道具として(装って)小説を書いているとすれば、そのノンポリぶりは逆に売れることに徹したプロ魂として賞賛してもいいですね、今までの批判は置いといて(笑)。いやマジな話。まあ、彼自身にしかわかりませんが。
ではこのへんで。
> プロの作家で一番大事なのは売れることだ。
> 本が売れなければ、本人はおろか出版社も迷惑を被る。
> まず何よりも売れることが先決だ。
> その一点だけでも、田中芳樹氏は素晴らしい作家だ。
>
> だが、読者を待たせるシリーズが多いのも確かだ。
> しかも、それについて後悔はしているが反省はしていない。
> 遅筆なのに、新しいシリーズをはじめてしまう。
> その点は、声を高くして攻めるべきだろう。
>
> それでも「どのツラ下げて作家センセーとおっしゃるやら」というのは、侮辱の言葉であって、批判批評の類ではない。
失礼、もう一言「売文業者がよ」とつけるべきでしたね。
先にも申しました通りこの点については「売れてる」作家が「買ってる」読者に対する最低限の義務を遂行しているかという、正に「最低限」の話なので批判批評のレベルではないと考えて下さってかまわないですよ。
勿論、田中氏の商道徳と私の前言の両方のレベルがですが。
第一、「たかがライトノベル」と考えてかどうか知りませんが何年にも渡って未完成品のシリーズ物を「完結を楽しみに」購入して宙ぶらりんで放置される読者は田中氏に「侮辱」されていない訳ですか?
スポンサーたる出版社の要求に応える点で田中氏は一流の作家でしょうが、「水子」と化しつつあるシリーズ物の愛読者乃至は元愛読者にしてみれば五流の売文業者としか言えますまい。
「本人」と「出版社」と「読者」の要求を三つ高水準で満たして始めて「一流の作家」というものでしょう。
田中氏にはまず「作家」に立ちかえっていただきたい物です。
田中氏が「作家」であった頃の作品や当時の氏には勿論批評批判どころか絶賛したい心境なのですがね。
<(と、いうわけで、お手数で申し訳ありませんけど、冒険風ライダーさん、解説をよろしくお願いしま~す(^o^)-☆)>
というわけで、「考察シリーズ」前文執筆者本人からの解答です(笑)。ランゼルさん、はじめまして。
結論から言いますと、これは恵さんの解釈の方が正しいですね。私は創竜伝の社会評論の全てを「フィクション」としてではなく「ノンフィクション」、すなわち「創竜伝世界ではなく現実世界に対する社会評論」とみなした上でアンチ評論を展開しています。何しろ、あの社会評論のほとんど全てが前後のストーリーの流れや文脈とは何の関係もなしに登場していますし、どう考えても「現実世界における事件・出来事」をそのまま取ってきているとしか思えないような内容ばかりですからね。
そしてあれらの愚劣な社会評論を現実と照らし合わせて検証した時、それがいかに間違っているか、そしてそのような社会評論を創竜伝のストーリーに関係なく挿入することが、いかに創竜伝のストーリー設定を矛盾だらけにし、小説としての破綻を引き起こしているかを立証するために、私はあれだけ膨大な考察シリーズを書いたのです。
お分かりいただけましたか? ランゼルさん。
ところでランゼルさんは「創竜伝=勧善懲悪物」という主張に拘っておられるようですが、そもそも創竜伝のあのストーリーのどこをどう読んでそのような感想を抱くに至ったのでしょうか?
そもそも竜堂兄弟自身、次のような主張で自らの正義を否定しているはずなのですけど↓
創竜伝2巻 P18下段~P19上段
<もともと、始は、自分が正義の味方だとは思っていない。正義の味方というものは、しばしば、自分が全能であるように思いこむ。あらゆる悪を防ぎとめ、すべての人を救うのが自分の責任であり、自分にはその力が具わっていると信じているようである。あいにくと、始は、他人の悪辣さや卑劣さを、自分の罪として背負いこむ気は、まったくなかった。>
このセリフに代表されるように、竜堂兄弟は自分達が「絶対的な正義」であるなどとは全く考えてはおりません。むしろ連中は「救世主」とか「絶対神」とかいった考え方を全否定しているくらいですしね。
それに連中の思考パターンや行動原理は、私が考察シリーズで何度も言及しているように、ただひたすら衝動的・突発的でかつ一貫性のない「個人的感情と病的なプライド意識」をベースにしているだけでしかないですし、勧善懲悪の見せ場であるはずの「悪」に立ち向かう時でさえも「あいつが気に入らない」だの「権力者に殺されるのは可哀想」だのといった感情的な理由以外の明確な主義主張がまったくありませんからね~。創竜伝ではむしろ主要な悪役側であるはずの船津忠義や四人姉妹・牛種の方が「正義の味方」を自称していたり、(内容はともかく)明確な目標方針や主義主張を持っているぐらいです。
「創竜伝=勧善懲悪物」という評価を成立させるには、主人公である竜堂兄弟が「自分達が正義である」ことを自覚し、「善」の定義と「悪」の定義を明確に定め、その定義に基づいた「説得力のある理論的な主義主張」(これは単純なものでもかまわない)を持たなければ話になりませんが、竜堂兄弟にはその全ての条件が完全に欠如しているのです。これで「創竜伝=勧善懲悪物」と定義するのは不可能です。
それから「創竜伝の勧善懲悪性」に関しては、過去にこの掲示板でも議論されたことがありましてね(ザ・ベスト「創竜伝のエンターテイメント性4-B」参照)。ランゼルさんが好きな水戸黄門も比較対象として取り上げていますから、そちらも閲覧してみてはいかがでしょうか。
それでもあくまで「創竜伝は勧善懲悪物である」と言い張るのであれば、私の主張やザ・ベストでの議論内容を全て否定できるだけの理論的根拠を挙げてください。イキナリ「創竜伝=勧善懲悪物」という前提で話を進められても困ってしまうのですよ。
PS.
それと私が挙げた創竜伝最大の破綻要素に関してずいぶん面白い意見を述べてくれたようですが、仮に上記の主張を置いておいたとしても、あれらの破綻要素はむしろ「勧善懲悪物」として見ると却ってますます致命的になってしまうのではありませんか? 何しろ「正義」側であるはずの竜堂兄弟がアレほどまでに自らの独善的感情や思想的破綻をさらけ出し、「悪」であるはずの四人姉妹や牛種の主義主張に対して、万人の共感を呼ぶだけの理論的説得力を持つ代案をマトモに提示することすらできないのですから。
あのようなストーリーとして致命的な破綻要素を「お約束」で終わらせている勧善懲悪物など、私は聞いたことがないのですけど。
> 「本が売れてるから田中芳樹氏は素晴らしい」のですか?
> 本が売れ、著者と出版社が利益を得ること、そして多くの読者がその本を読むことが、なぜいきなり「素晴らしいプロ作家」という評価になるのか、どうもわたしにはよくわからないんですけど。古代さんの台詞が、まるで出版関係者の主観的な感想に聞こえるのはわたしだけでしょうか?f(^_^;)
> 本が売れることがどういう理由で「作家として素晴らしい」のか、よければもう少し具体的に説明してくださいませんか?もし利益を上げることで素晴らしいとおっしゃるなら、「商売人として有能で、素晴らしい」のであって、「プロ作家として素晴らしい」とは言えないような気がします。
> あと、出版社が迷惑を被るから、「プロの作家で一番大事なのは売れること」なんですか?プロ作家として最重要な資質が「出版社の迷惑」だけ考えた上で決定されるとは、いくらなんでも考えにくいのではないでしょうか。その論法でいくと、
> 「現在、日本のプロ作家で一番大事なものを最も有しているのは、文句なしに赤川次郎氏である」
> という結論になるんですけど(^_^;)。
> こちらも、もう少しわかりやすく説明していただくと幸いです。
売れない作家は、プロ作家としては二流だ。
同人誌なら自己満足の作品づくりでいいだろうが、プロを名乗る以上は売れる作品づくりが最優先だ。
作家に限らず、プロとアマチュアの差は、「売る」ということにたいする心構えの違いだと考えている。
自己満足で書かれた小説と売るために書かれた小説。
どちらが読者にとっても良い作品かはわかるだろう。
これは主観になるが、さまざまなサイトにおかれた小説と出版社が売り出している小説。数少ない例外を除けば、後者の方ができがいい。
それと「ずっと売れている」というのがどういうことか考えて欲しい。
多くの人に読まれている、ということだけではない。
多くの人を、魅了し、楽しませ続けているのだ。
出版社にとっては「売れている」。
読者にとっては「楽しい」。
プロ作家として、これは素晴らしいことだ。
ただし、「作家」としての素晴らしさなら、文学としてのできばえかもしれない。
> その一点だけでも、田中芳樹氏は素晴らしい作家だ。
その一点だけでも、素晴らしいプロ作家だ。
の間違いでした。すいません。
> それと私が挙げた創竜伝最大の破綻要素に関してずいぶん面白い意見を述べてくれたようですが、仮に上記の主張を置いておいたとしても、あれらの破綻要素はむしろ「勧善懲悪物」として見ると却ってますます致命的になってしまうのではありませんか? 何しろ「正義」側であるはずの竜堂兄弟がアレほどまでに自らの独善的感情や思想的破綻をさらけ出し、「悪」であるはずの四人姉妹や牛種の主義主張に対して、万人の共感を呼ぶだけの理論的説得力を持つ代案をマトモに提示することすらできないのですから。
万人に共感を呼ぶだけの理論的説得力を持つ代案なんて、現在の地球上にはない。とくに四姉妹やら牛種のような世界規模での主義主張に対してなら、不可能と言っても間違いではない。
次に、勧善懲悪として見るかどうかは読者の問題だ。
たとえ主人公が「俺は正義じゃない」と言ったところで関係ない。その行動を見て読者は判断しているのだ。どの行動をもって正義としているかは個人の自由だろう。
変な例えだが、原爆を落としたのは悪か正義か。
パイロットが「あれは悪いことだ」と語ろうが、原爆を落としたのは正義の行いだと思っている人もいるわけだ。
それに、創竜伝では、四姉妹や牛種は「悪」として描かれている。それと戦うのだから「創竜伝は勧善懲悪だ」と見ても問題はないのでは?たぶん最後に勝のは竜堂兄弟だろうし。
まあ、四姉妹や牛種を悪とみるかどうかも個人の自由だが。
最後に。
この意見の違いは、読み方の違いではないだろうか?
娯楽として読んでる分には、その場その場のアクションや台詞・行動を読んでいるのであって、全体的なストーリーが破綻していてもかまわないわけだ(破綻してないにこしたことはないが)。
それに対して、批評しようと読んでいるなら、作品全体を見ているため、その場その場の主人公の良さとかがわからない。
こんばんわ、ランゼルです。
> > ただ、
> >
> > > 私もそこまで人間をアホだとは思いたくはありませんが、人間何かと権威には弱いもので、ベストセラーにかかれていることを鵜呑みにする人もいるってことです。
> >
> > と言う部分をもって創竜伝がヤバイとしているのは、問題があるような気がします。
> >
> > なぜならこれは、
> > オズマさんが鵜呑みにする人間と言っているか、
> > オズマさんは鵜呑みにしないが、他のオズマさんの定義する権威に弱いアホだという人間が鵜呑みにするだろう、と言っているのと同じですから。
> >
> > 前者なら鵜呑みにするオズマさんがヤバイだけですし、
> > 後者なら、どうしてオズマさんが鵜呑みにしなかったのに、他の人間が鵜呑みにすると思うのでしょうか?
> > この意味でのヤバイに関しては、杞憂だと思います。
>
> まずこれに関して。
> まあ言葉の度が過ぎたことは率直に認めましょう。私が言いたかったことは、人というものは影響されやすいということです。しかも、大概がマスコミによって。世論がマスコミの主導という形として形成されるわけですから。マスコミが創りたい世論以外の思想は極力排除されるのが現在のマスコミの体制です。例えそれが真に必要な思想かどうかは別として。
> ひとつ例をあげましょう。今世間をにぎわかしている田中外相の発言の問題。田中外相が、情報をリークした外務省官僚を批判することばかりをマスコミは報道しています。しかも概ねそれを肯定するかのような、田中外相を応援するかのような。しかしそれこそ問題のすり替えであって、もちろんそれはそれで批判されるべきことで、真相を明らかにする必要はあるのですが、田中外相の資質の問題が争われることはほとんどありません。政府の一貫した立場で同盟国としている国を自分の一存で批判したという資質の問題です。もしそれを個人的な見解だとして許容できるとするなら、以前の森総理の「神の国発言」も個人的な見解だとして許容してしかるべきです。人々はその矛盾に気がついていない(あるいはマスコミが気づかせようとしていない)。
> 小泉政権を有利にする世論を作ろうとする(あるいは小泉政権を変にこき下ろしたら、読者視聴者に見放される)マスコミにとっては意図的にそのことに触れまいとしている好例です。そして、人が影響されやすいというのは、先日の世論調査で、田中外相の資質について疑問を持つ人の割合が圧倒的に低かったことに現れています。それが人々の自主的な判断とするなら、それはそれで問題ないのかもしれませんが、11.3%というのは異常のような気がします。ついでに、個人的見解として許容できる人は60パーセントを越えていました。
情報ありがとうございます。
え~と、と言うのがオズマさんの見解というのは解りました。つまり、田中外相を応援し、森前首相を支持しなかった国民は、マスコミに踊らされた存在と言っても良いと言うことでしょうか?公正な報道ではないから、国民はオズマさんと違って判断できないから、極端な支持率になっていると。だから、国民は踊らされやすい、マスコミはヤバイ、同様に公正ではない創竜伝もヤバイと。
評論って難しいですね。少しでも語ろうとすると、自分は別格だとしなければ、とても書けないので。
上記の文章だけを読んでいると、なんだかオズマさんが日本国民を馬鹿にしているようにも受け取れます。
オズマさんは踊らされていないのだから、他の国民も踊らされていないと思って大丈夫ではないでしょうか?
国民や読者をもっと信頼してはどうでしょうか?
> それが人々の自主的な判断とするなら、それはそれで問題ないのかもしれませんが
ですよ。
> > 後、オズマさんの意見を読んで疑問に感じたことです。
> >
> > オズマさんの田中芳樹氏への批判の根拠は、中国至上主義や、偏重左翼思想、自分勝手な教育論などを小説に載せるな、と言う物だと思うのですが、
> > オズマさん本人は、その思想が、本当に田中芳樹氏の思想であると考えていますか?
> >
> > つまり、小説に(小説の内容に沿った)偏った思想を載せるから問題にしているのか、
> > 小説に自分の思想を載せるから問題にしているのかと言うことです。
>
> 半々ですね。程度の問題です。まず小説という媒体が問題です。「お話」に必要以上の自分の思想を盛り込むのはそのつくりかたに問題がありますし、それを言いたいがために小説を書いていると思われても仕方がありません。やるならもっと小説の内容に沿ったやり方にしてほしいものです。例として、食通であった池波正太郎の小説にやたら料理の描写が出てくるといった程度のようなものは、季節感を出すため、時代感を出すためといったような理由からも小説の内容に違和感無く挿入されていて許容できます。あるいは、彼はエッセーという形で、思想なら思想で割り切っています。田中芳樹と池波正太郎を比較すること自体が池波正太郎に失礼かもしれませんが、田中芳樹にもこのくらいのプロ意識を持ってほしいものです。
> それをふまえてですが、思想の方を言いたいのなら、社会論評という形で、批判のできる形で出してほしいですね。そうすれば、彼の偏っている(少なくとも私はそう思っている)思想についても議論の対象となりうるというわけです。それが小説という形で出される以上、それに反対だとしても、こういうホームページの場のような場以外では大手を振って議論できません。それは学問として社会論評などを発表して、それに反対する人たちと議論を行っているほかの学者さんたちに対して失礼だとは思いませんか。
お答えありがとうございます。
両方が問題でしたか。
中国至上主義や、偏重左翼思想、自分勝手な教育論などが田中芳樹氏の本当の思想だから問題なら、それがそうであるか否かだけが問題ですし、
田中芳樹氏の本当の思想であろうが、作られた思想であっても、小説中に過剰に入れてはいけないだけなら、最適な量を捜せば良いのですが、
両方となると、やはりオズマさんの最初からの主張の通り、評論の形で思想を小説内に入れることそのものの是非になるので、やはり小説のルールですね。自分の言葉(多分思想のこと)を語っていけないルールが有るのか。
> > 前者なら、作家、田中芳樹氏の創作手法に対する批判(例えば「創竜伝は左翼思想小説だ」のような)ですが、
> > 後者だと、人間、田中芳樹氏の思想に対する批判(例えば「田中芳樹氏は現代日本を歪めて書いている、それが氏の思想だからだ」のような)を含むので、それが田中芳樹氏の本当の思想だと示す必要があると思います。
>
> それに関してはこのホームページで皆さんやられていることですし、例えば教育論については、彼の(創竜伝関係ではありませんが)図書館認識について私も批判させてもらったことがあります。まずはそちらの検討からはじめてはいかがでしょう。
>田中芳樹の評論検証5-A
>田中芳樹の図書館学
ですよね?なるほど、これがオズマさんの示す田中芳樹氏の自分勝手な教育論の一例ですね。
(他の方とオズマさんの考えが同じなのかは解らないので。)
前とは違った感覚で読ませていただきました。
でも、これだけで田中芳樹氏の本当の教育論というのは、飛躍しすぎだと思います。
田中芳樹氏10文字しか書いていないし。
ただ、オズマさんがベストセラー作家、田中芳樹氏の影響力の大きさを、本当に評価されているのが解りました。
私などは、小説はどんなに売れていても、所詮は作家と読者の一対一の関係だと思っているのですが、
(売れているのが購入動機にはなっても、内容は自分で読んで決める物。)
やはり、ベストセラーと言うだけで評価が変わったりする物なのでしょうか?
影響力についての考えが変わると、全てが変わってしまいます。例えば、最初の田中外相の話も、国民の意志に関係なく、大手マスコミが報道するので、それで何となく田中外相に好意的なのだとしたら、
国民が踊らされやすいのではなく、大手マスコミに、そう言う踊らせる力があるのだとしたら、オズマさんの危惧が全面的に正しいことになってしまいます。
> > 一例としては、思想が創竜伝に依存しているのか、創竜伝を離れても、その思想は生きているのかと言うことです。
> > 田中芳樹氏の本当の思想なら、創竜伝に関係なく、あらゆる媒体で生きると思います。
> >
> > 逆に創竜伝だけなら、それはその思想の表現の場を田中芳樹氏自らコントロールしているのであり、それは即ち、創竜伝で意図的に出している思想、創竜伝だけのための思想と言うことになりませんか?
>
> ちなみに、それを言うなら、その根拠の方から示してほしいと思います。少なくとも、田中芳樹のいろいろな小説その他の文章を読んだ限りでは私にはそのような見解は出てきませんでしたが。
この部分の根拠ですが、
あくまでオズマさんが創竜伝から読んだ思想を持って、田中芳樹氏の本当の思想と断定したと仮定して、それを前提に書こうと思っていました。従って、図書館学の登場で前提が崩れてしまったので、根拠が薄くなってしまいました。すみません。お詫びしてこの部分は撤回させていただきます。
こんばんわ、ランゼルです。私の方も、出来る限り頑張りたいです。
> > 私は勧善懲悪物として見ているので、
> >
> > >「小説の一部」ということで創竜伝の中では何を言っても、どんな描写をしてもOKになってしまうじゃありませんか。
> >
> > なんですよ。それが小説(特に勧善懲悪物)ではないのですか?それとも、小説という書式では書いてはいけないことが明確に規定されているのでしょうか?
>
> これについては、管理人さんが答えると思っていましたので、今まで故意に言及しませんでした。ですが、避けて通れない話題なのでわたしなりの意見を言いますね。
> 「小説という書式では書いてはいけないことが明確に規定されている」
> ということは、基本的にはないと思います。ただ、だからといって何を書いてもいいとは思いません。
> まず、「表現上、不適切な言葉(描写)」というものがあります。これは人権や倫理を侵すような表現のことで(差別や性描写など)、「絶対に書いてはいけない」ということではありませんけど、作家のモラルが問われる部分です。人権擁護団体の抗議や差別対象を自分の言葉によって傷つけ、そこからくる良心の呵責さえも「どうでもいい、気にならない」と思っているなら、発禁覚悟で堂々と表現できるでしょうね。
> そして、みんなが指摘していることですけど、創竜伝は社会評論があることで面白いわけではありません。むしろ、多くの人が読み飛ばしている「不要」な部分ですから、ない方がいいと言ってるんです。どうしても評論を書きたいなら、田中氏は小説ではなく評論本を執筆すればいいのですから。(ちなみに、創竜伝の魅力については、ベスト収録の「わたしの創竜伝の魅力考察」をご覧になってみてください。創竜伝のどこが面白いのか、なぜ売れるのか?を皆さんとなかなかうまく議論できたと思っています)
お答えありがとうございます。恵さんはルールと呼べるほどの規定はご存じないようですね。
すると、規定がないと言うことは、基本的には作家には小説の中身の取捨選択の自由があり、それを必要、不要と読者が判断するのは我が儘な行為と言うことでしょうか?
例えば創竜伝は田中芳樹氏のモラルではフィクション小説です。そしてその見解と合わないからと言って、社会評論だと非難するのは筋違いって事ですか?
小説としてのポイントは、作家が守るべきモラル(慣習とか?)と、管理人さんの挙げられていた明確なルールの存在。恵さんの指摘した表現上の注意。出版者の意向、後は他にルールがあるかですね。
焦点はやはり、ルールの存在ですね。
他のポイントは主観的にクリアできてしまう物なので。
> あと、素朴な疑問ですけど、あの社会評論をランゼルさんは面白いと思ってらっしゃるのでしょうか?作品全体を面白くするための手法としてなら、私も肯くことができるのですけど、あの評論が作品世界の設定を滅茶苦茶にし、しかも評論内容の根拠はない・偏向している、とくればどう考えても不要な存在にしか見えません。わたしには、ランゼルさんは「勧善懲悪物(小説・フィクション)」という万能の免罪符を振りかざして、事実から目を反らしてらっしゃるように見えるんですけど。
まず、人物の発言や述解に関しては、そう言うキャラクターなんだで終わりです。
それ以外の部分の評論っぽい部分は(キャラクターの述解も含めて)面白いかを考えるなら、私は面白いとは思っていません。ただし、小説、創竜伝には必要な部分なので、そのように読んでいます。
あれは故意に、架空の世界の日本等の主人公の敵を貶めることによって、相対的に主人公の正当性を読者に認知させるという手法だと思っています。
私にとって見れば、物語冒頭に「核戦争を~国が起こした」とか、中盤の大魔王登場シーンで「大魔王は腕が六本で~」という記述と同じです。
悪いことをしたから悪者ではなく、悪者だから悪いことをする、そして、悪い奴なんだと言うことを読者に繰り返し説明して、主人公の正当性に力を貸す。
そう言う主人公の敵に満ちた世界が私の読んだ創竜伝の世界です。
そして、そう言う形で創竜伝が世に送り出された以上、それは作者の田中芳樹氏が全て必要だと判断したからです。従って評論っぽい部分を削っては、それは既に創竜伝ではありません。別の小説です。
>わたしには、ランゼルさんは「勧善懲悪物(小説・フィクション)」という万能の免罪符を振りかざして、事実から目を反らしてらっしゃるように見えるんですけど。
と言われても。免罪符でなくて、私は最初からそう言う小説だとしてみているのです。私にとってはそれが事実なので、事実から目を逸らしていると言われても困ります。
それは私が「恵さんが創竜伝はそう言う小説であるという事実から目を逸らして、社会評論が不必要だと唱えている」と言っても困るのと同じ事だと思います。
どちらかというと、ここは事実ではなく真実という言葉を使った方が良いかも知れませんが。
> > マハティール大統領批判ですか?
(中略)
> > 逆にこの部分でマレーシア首相が、冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察28」のマハティール首相の様な人物だと描かれたら、
> > 或いは、歴史小説のように実はマレーシア首相にも理があったと書かれたら、私は引きますが。
>
> ここは見解の相違、という結論でお互い納得しませんか?わたしはあれを批評と思っていますし、ランゼルさんはフィクションと思っている限り、このまま議論を続けても意見が一致するとも思えませんから。
納得していただけるのなら、それで良いです。
マハティール大統領批判は必要かどうかを持ち出したのは、恵さんですから。
> > 冒険風ライダーさんの意図って、そうなんですか?
> > この考察シリーズって、本当に小説を現実社会に対する評論と捉えて、全文批判していたのですか。
> >
> > > この部分は、ランゼルさんが冒険風ライダーさんの言葉を、ご自分に都合良く解釈されているように思います。
> >
> > と言われても、私が読んだ文章の解釈の自由は、私に有るのでは?
> > 少なくとも私にとって、貴重な時間を割いて、評価していない小説全文を対象に批判文を書くなど、
> > まさにエンターテイナーのなせる技だと思いました。
> > そこで、前文にも
> >
> > > 現実に立脚したバカ正直な批判ですので(相手はフィクション小説なのにね)
> >
> > と、そのように解釈できる文章があったので、エンターテインメントとして書かれていると思い、そのままフィクションに現実で突っ込む方式のエンターテインメントとして読みました。
>
> 言葉が少し足りませんでした。確かに、解釈は個人の自由です。でも、その解釈に基づく自分にとって都合のいい引用は避けるべきでしょう。わたしの想像の世界ですけど、冒険風ライダーさんの意図をあなたとは違うものだと感じましたし、もしそうなら引用先の相手にとって迷惑になるからです。この問題は、冒険風ライダーさんご自身に答えていただいてから結論を出しませんか?(と、いうわけで、お手数で申し訳ありませんけど、冒険風ライダーさん、解説をよろしくお願いしま~す(^o^)-☆)
都合の良い引用に感じられましたか?
>これなどはほんの一例で、ベスト収録の冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察シリーズ」を読んでいただければ、他にもとんでもない社会評論が宝の山のように眠っています(笑)
と出されたので、私はそれを、
>私は現実世界と創竜伝世界の区別をした上で、
>敢えて(エンターテインメントとして)書かれていると思っています。
と既に読んだことと、私はそう解釈したと言う個人的見解を返したに過ぎませんが。
別に「考察シリーズはエンターテインメントだから、恵さんの主張は間違っている」などとは書いていないと思いますが。
それとも、その後の水戸黄門の例を挙げた時の補強に使ったように読まれましたか?
だとしたら、私の記述順序ミスです。あの部分を別の所に入れるべきでした(本筋と関係ないので)
従って言えても「都合の良い解釈」にして置いて下さいね。
ですので、私にとってここの部分の解釈それ自体は感想に影響はないのですよ。
もっとも、冒険風ライダーさんの見解では恵さんが正解です。
エンターテイナーの姿勢すら否定されてしまったので、個人的には残念ですね。
> > 後、
> >
> > > 何度も言いますが、どうして「現実の」マハティール大統領の批判等が「創竜伝世界」の社会評論に必要なんですか。
(中略)
> > 従って、読者が取る行動予測(関係者がフィクションに抗議)と私の取る行動(賛同しない)が同じである以上、同列ではないでしょうか?それとも別次元ですか?
>
> これも同上で、「フィクションか評論か?」の議論が決着しないと答えは出ません。結局、お互いの主張の根っこはここにあるわけですから。
了解です。
> > > 簡単です。それは、彼の評論が偏向した内容で対象を「斬りまくって」いるからです。(対象は「日本」そのものが多いです)
> >
> > > ~創竜伝2巻より引用~
> > > 「破局は栄華のきわみに、突然おそいかかる。日本もそうならないといえるだろうか。世界中から富をかき集め、それを国際社会に還元しようとしない。有色人種の国でありながら、人種差別を制度化したファシズム国家南アフリカと深い関係をむすび、名誉白人といわれて喜んでいる。戦争放棄をうたった憲法を持ちながら、軍事予算は、アメリカとソビエトにつぐ世界第3位である。どういうわけか、「人種差別撤廃条約」にも「大量虐殺禁止条約」にも「生物化学兵器禁止条約」にも知らぬ顔である。バランス感覚を失して、大金をかかえたまま一輪車にまたがり、他の人々を突きたおして走りまわっている。いずれ必ず転倒するだろうし、そうなったとき、誰も助けてくれないだろう」
> >
> > > たとえば、この評論を読んで、内容が正しいかどうかはともかく、書いたご本人が「自分は正論を書いている」という意義を持ち、快感を覚えているのは想像に難くありません。
> > > わたしはこの評論の内容には疑問を感じますが、「ここまで一方的に(社会を)斬ってれば気持ちいいだろうなぁ~」とは思います。
> >
> > え~と、お答えありがとうございます。ただ、これは例が悪いです。これって私にとっては竜堂始の述解部分なので、始の認識としては正しいことです。
> > 確か私だけでなく恵さんも、作中人物なら良いのではありませんでした?
>
> ごめんなさい、ここはランゼルさんの方が正しいです。評論部分と思っていましたので、例にあげたのですけど、そうでないならあなたのおっしゃる通りです。ただ、これはわたしの例の挙げ方まずかっただけで、主張そのものを変えるつもりはありません。
そんなあっさりと肯定しないで下さい。ここは評論部分とも解釈できますので、恵さんに原書に当たってもらいたいです。こういう記述を述解と取るか、唐突な評論と取るか。それによって、創竜伝中の評論と見なせる量が大きく変わります。
例えば、マレーシア首相の部分も、竜堂続の主張に、蜃海三郎が答えているだけと見なせるのでは?
> > > 書かれないまま休眠中の他のシリーズを差し置いて、田中氏が創竜伝を意欲的に執筆していることもその証拠になるのではないでしょうか。
> >
> > これは証拠になるのでしょうか?創竜伝2巻を引用されたと言うことは、あの当時のアルスラーン戦記が同等かそれ以上のペースで執筆されていたので、証拠にならないのではないでしょうか?
>
> これも引用例がまずかったです。わたしの意図としては、最近の執筆傾向を言いたかったので、そうであるなら違う証拠を提示するべきでした。
え~と、最近になって創竜伝の内容が変化したのならともかく、アルスラーン戦記と同時期に書いていた物も今と変わらない内容のはずです。少なくとも恵さんには。そうでなければ、2巻を引用しないはずですから。この時の評論っぽい部分はどのような姿勢で書いていたと思われますか?
> > > また、
> > > 「他人の批判(悪口)を言うと、すっとする」
> > > というのは、程度の差はあっても、誰でも持っている感情だと思います。
> > > もちろん、わたしも社会評論を書いたことがありませんが、突き詰めていくと田中氏の偏向した上に一方的な(つまり根拠が少ない)社会評論は「他人の批判(悪口)を言うと、すっとする」というレベルでしかないと思うんです。
> >
> > この辺りは、確かめる手段が私にはないので一点だけ。田中芳樹氏がそう言うレベルだったとして、他の人にも当てはまる心理なのでしょうか?例えば、恵さんはどうですか?実際に恵さんも一方的に田中芳樹氏を斬っていますが、気持ちいいとか、すっとするとかあるでしょうか?
> >
> > 批判者の心理は似ているのか、それとも、恵さんが田中芳樹氏をそのようなレベルだと評しているだけなのかが知りたいです。
>
> う~ん、そんなに大げさに考えることでしょうか?巷の居酒屋に行けば、サラリーマンの皆様が上司・同僚・会社の批判(悪口)を言っている姿は全国津々浦々、どこでも見かける光景ですよね(笑)?彼らは、お酒の席で嫌々そんな話題で盛り上がっているのでしょうか?気の置ける仲間たちと積極的に他人の悪口を言い合うことによって、自分の気持ちがすっとする(ストレス発散)できるからでしょう?(もちろん、わたし自身にもそういう気分のときはあります)このメンタリティは田中氏の評論に通じるものがあるのでは?というのがわたしの意見です。
> また、「実際に恵さんも一方的に田中芳樹氏を斬っていますが、気持ちいいとか、すっとするとかあるでしょうか?」とのご質問ですけど、わたしは同じ斬るでも「田中氏の~という作品の~という文章・考えを~という理由で~と思う」という、それなりの根拠と言い方に気をつけて「批判」しているつもりです。どこがどう「一方的」なのですか? 田中氏が評論のときに守っていない批判時のモラルを守って発言しているつもりなので、同じだと言われるとあまりいい気持ちにはなれません。そして、わたしのスタンスとしては「少しでも田中作品の~という悪い部分が改善されたら」というファンの苦言として批判しているのです。「悪口を言ってすっとする」ときの心境とは違います。ほとんど根拠のない田中氏の言いたい放題の評論がそうなのでは?と言いたいんです。ここは誤解なさらないようにお願いしますね。
お答えありがとうございます。
なぜすっとするか知りたかったのかというと、恵さんが例に出した始の述解のように、恵さんが評論だとみなすのか、キャラクターの述解部分と見なすのかグレーゾーンが創竜伝には多数有るわけです。そして、キャラクターの述解部分であるなら、当然それは創作部分であるので、
> サラリーマンの皆様が上司・同僚・会社の批判(悪口)を言っている姿は全国津々浦々、どこでも見かける光景ですよね(笑)?彼らは、お酒の席で嫌々そんな話題で盛り上がっているのでしょうか?気の置ける仲間たちと積極的に他人の悪口を言い合うことによって、自分の気持ちがすっとする(ストレス発散)できるからでしょう?
と言う姿勢ではとても作れないと思うのです。それをこの姿勢で作れるとしたので、一方的だと思いました。
また、恵さんが田中芳樹氏を斬ったときにすっとしたのなら、逆説的に色々考えて作った文章でも、すっと出来るのかと確認したかっただけです。
それと、ファンの苦言と言うスタンスだったのですか。タナウツ掲示板でも色々な考えの人がいますね。難しいです。
> > > p.s.
> > > 反論されるのを覚悟で、(アンチの)タナウツ掲示板(笑)に書き込まれたランゼルさんの勇気には敬意を表します(^_^)
> >
> > え~と、HPの感想を書くのに勇気が要るのでは、閉鎖的ですよ。
>
> 「ただの感想」ならそうでしょう。でも、あなたの場合、このサイトの根源を揺るがす発言を確信犯的行っているのですから、わたしたちに反論されるのはご承知だったはずです。おそらく、それを受け止める覚悟と勇気を持っておられたのでしょうから、その気概に敬意を表したつもりなんですけど。別に感想を書き込まれた行為自体を称賛したわけではありません。う~ん、わたしの方が誤解させる言い方だったかなぁ?f(^_^;)
え~とですね、感想に「ただの」も「特別の」もあるのですか?私にはこのHPを読んでそう感じられただけで。オープンサイトである以上、誰でも書き込みはOKでしょう?
もし、趣旨に添わない書き込みを即「反タナウツ」とするのなら、それは閉鎖的ではないでしょうか?
「正タナウツ」「反タナウツ」の他に、「非タナウツ」の存在を認めてくれると、一見さんも書き込みしやすくなるような。
> > それと、フィクション、ノンフィクションに関わらず、田中芳樹氏が小説のルール違反をしているのなら、それは小説家として問題だと思います。
>
> 「ルール違反」ではないかもしれませんけど(ルールの定義については、わたしも断言はできませんので管理人さんの意見を待ちます)、「モラル違反」ではある思います。評論部分の職業差別発言などは、特にそう思います。田中氏は、「夢幻都市」で相馬邦夫に「自分の職業を侮辱されて黙っている奴はバカだ」と言わせたのは一体何のためだったのでしょう?あの言葉を言わせた作者と創竜伝の評論を書いた作者が同一の人物とは、ちょっとわたしには思えません。どうせ、「あれは相馬邦夫というキャラクターの発言だから問題ない」とあなたは言うのでしょうけど、わたしはそのように自分の作品表現に一貫性のない田中氏の小説家としての姿勢に疑問を抱かずにはいられません。「それでもフィクションだから」とおっしゃるなら、残念ながらわたしとあなたの意見はずっと平行線のまま、「見解の相違」の域を出ないと思います。
モラルの問題は定義が難しそうです。フィクション小説って、結構色々なことが書いてあるので。
それと、見解の相違というより、田中芳樹氏に期待しすぎでは?小説と小説家は別物で、幾ら小説で格好良い事を言っても、本人がそうだとは限りません。恵さんも相馬邦夫=田中芳樹氏と思ってはいないと思います。
当然、発言内容も発言動機も、田中芳樹氏個人とは関係ないとは思いませんか?
夢幻都市と創竜伝では、作風が違いますが、そこに一貫性を求めていて裏切られたと感じるのか、こういう小説も書くのかと受容するかは、人それぞれだと思います。
はじめまして、S.Kさん。よろしくお願いします。
> おっしゃる事は全くもってその通り、「完結して始めて作品なのが
> 小説」なのですが、私この「作品を完結させる」という点において田中
> 氏のいかなる誠意や熱意の存在も信じません。
> 「創竜伝」の全十巻予定との予告(何巻目かの後書き参照)は百歩譲って「当初の構想外の外伝が入ったから」で仕方なしとしますが、「アル
> スラーン戦記」や「タイタニア」の1巻刊行から何年経過して今どんな
> 状況かはご存知ですよね。
> まあ「大デュマは何年かけた」とか「マルセル・プルーストは何十年
> かけた」とか反論もおありでしょうが、『明文化されたルール』なんぞ
> なくてもシリーズ物の刊行を始めたら完結に全力をつくすのが1巻の初
> 版から金出して付き合ってる読者への最低限のマナーでしょう。
> とうの昔にこちらのHPでは出されてる話の蒸し返しですけど、健康
> を害した訳ではない、シリーズ中止の詫びの一つも入るでない、そのくせ今ご当人が一番興味があるのだろう中国ものは精力的に刊行されてる
> では、「どのツラ下げて“作家センセー”とおっしゃるやら」程度は
> 言われて当然ではありますまいか。
そうですね、待たされている愛読者としては、皮肉の一つも言いたくなるのも解ります。
そう言う気持ちは、田中芳樹氏の小説の愛読者なら皆さん持っていると思います。
ただ、小説を書かせることを強制は出来ないですし、書く順番も田中芳樹氏次第ですし、
何より、気持ちの乗っていない時に書いた小説は詰まらないと思うのです。
従って私は続刊には複雑な心境です。7年ぶりのアルスラーン戦記を読んで、少々違和感を感じたので。
私が待っているのは、あくまで当時に出したのと同じ面白さの続刊ですから。
ですので、できれば今の気持ちのまま、創竜伝を完結して欲しいです。
そして、中国歴史物でカンを取り戻してからアルスラーン戦記等を再開してくれれば、
言うことはないですね。
そもそも、田中芳樹氏の小説を面白いと思った地点で、読者の負けなのですから。
はじめまして冒険風ライダーさん、よろしくお願いします。
> 結論から言いますと、これは恵さんの解釈の方が正しいですね。私は創竜伝の社会評論の全てを「フィクション」としてではなく「ノンフィクション」、すなわち「創竜伝世界ではなく現実世界に対する社会評論」とみなした上でアンチ評論を展開しています。何しろ、あの社会評論のほとんど全てが前後のストーリーの流れや文脈とは何の関係もなしに登場していますし、どう考えても「現実世界における事件・出来事」をそのまま取ってきているとしか思えないような内容ばかりですからね。
> そしてあれらの愚劣な社会評論を現実と照らし合わせて検証した時、それがいかに間違っているか、そしてそのような社会評論を創竜伝のストーリーに関係なく挿入することが、いかに創竜伝のストーリー設定を矛盾だらけにし、小説としての破綻を引き起こしているかを立証するために、私はあれだけ膨大な考察シリーズを書いたのです。
> お分かりいただけましたか? ランゼルさん。
ご指摘ありがとうございます。
まずは、冒険風ライダーさんの考察シリーズで楽しませていただいた一読者として、お礼を言います。ありがとうございました。それと、長文を書いていただいて申し訳ないのですが、期待に添えるような答えにはならないと思います。
では、本題です。冒険風ライダーさんがそう言うお考えで書いたのは解りました。でも、私が冒険風ライダーさんの考察の前文を読んだ地点でそう解釈しなかったからと言って、別に問題ないですよね?
それに、別に冒険風ライダーさんの考察を持って、自分の感想を補強しているわけではないので、解釈を変えても私的には問題なしです。
> ところでランゼルさんは「創竜伝=勧善懲悪物」という主張に拘っておられるようですが、そもそも創竜伝のあのストーリーのどこをどう読んでそのような感想を抱くに至ったのでしょうか?
> そもそも竜堂兄弟自身、次のような主張で自らの正義を否定しているはずなのですけど↓
>
> 創竜伝2巻 P18下段~P19上段
> <もともと、始は、自分が正義の味方だとは思っていない。正義の味方というものは、しばしば、自分が全能であるように思いこむ。あらゆる悪を防ぎとめ、すべての人を救うのが自分の責任であり、自分にはその力が具わっていると信じているようである。あいにくと、始は、他人の悪辣さや卑劣さを、自分の罪として背負いこむ気は、まったくなかった。>
>
> このセリフに代表されるように、竜堂兄弟は自分達が「絶対的な正義」であるなどとは全く考えてはおりません。むしろ連中は「救世主」とか「絶対神」とかいった考え方を全否定しているくらいですしね。
> それに連中の思考パターンや行動原理は、私が考察シリーズで何度も言及しているように、ただひたすら衝動的・突発的でかつ一貫性のない「個人的感情と病的なプライド意識」をベースにしているだけでしかないですし、勧善懲悪の見せ場であるはずの「悪」に立ち向かう時でさえも「あいつが気に入らない」だの「権力者に殺されるのは可哀想」だのといった感情的な理由以外の明確な主義主張がまったくありませんからね~。創竜伝ではむしろ主要な悪役側であるはずの船津忠義や四人姉妹・牛種の方が「正義の味方」を自称していたり、(内容はともかく)明確な目標方針や主義主張を持っているぐらいです。
> 「創竜伝=勧善懲悪物」という評価を成立させるには、主人公である竜堂兄弟が「自分達が正義である」ことを自覚し、「善」の定義と「悪」の定義を明確に定め、その定義に基づいた「説得力のある理論的な主義主張」(これは単純なものでもかまわない)を持たなければ話になりませんが、竜堂兄弟にはその全ての条件が完全に欠如しているのです。これで「創竜伝=勧善懲悪物」と定義するのは不可能です。
> それから「創竜伝の勧善懲悪性」に関しては、過去にこの掲示板でも議論されたことがありましてね(ザ・ベスト「小説としてのエンターテイメント性2」参照)。ランゼルさんが好きな水戸黄門も比較対象として取り上げていますから、そちらも閲覧してみてはいかがでしょうか。
> それでもあくまで「創竜伝は勧善懲悪物である」と言い張るのであれば、私の主張やザ・ベストでの議論内容を全て否定できるだけの理論的根拠を挙げてください。イキナリ「創竜伝=勧善懲悪物」という前提で話を進められても困ってしまうのですよ。
あの~、私の最初の感想を読んでいただけましたか?私は創竜伝を勧善懲悪物として楽しんでいると。
私がそう楽しんだからそう言う前提で話を進めているのが、問題でしょうか?
それに、作中正義という物について私とは認識に差があるようですね。私にとっては別に主人公が正義を名乗る必要など有りません。と言うか、例えば、水戸黄門が正義を自称したことがありますか?無いと思います。
要は読者が、主人公の正当性を信じれば良いだけのことです。倒す相手よりも。
水戸黄門がなぜ正義で、悪代官が悪なのか。それはそう言う筋書きだからです。物語中で、悪代官に肩入れさせるような話はまず入らないし、逆に悪事を働いている場面は、視聴者の前にわざわざ見せつけます。それによって、視聴者の中で悪代官は悪、それを倒す水戸黄門は善と言うことになります。
ただし水戸黄門が悪代官を倒すには、両者を接触させねばならず、その為に哀れな農民など、悪代官に虐げられている人が出てきます。そして、それを助けて悪代官を倒すのは水戸黄門の個人的な感情です。
本来は諸国観察の義務と言う法的責任がない(設定では有るかも知れないけど、視聴者で気にする人は居ないと思う)はずの先の副将軍は、気ままな諸国漫遊をしながら、困っている人々を助けているわけです。
と言うか、江戸幕府の命令で、諸国偵察の密命を帯びた水戸光圀は、立ち寄る先々で情報収集をし、ただのじじいと油断している間に代官の悪事を調べ上げ、その現場を押さえて江戸幕府の威光を示し諸国の規律を正す。水戸黄門が人助けをするのが義務とか仕事のついでとか。そう言う水戸黄門が視聴者に受けるのでしょうか?
これが私の考える、水戸黄門の「善」の定義と「悪」の定義(視聴者が決める)その定義に基づいた「説得力のある理論的な主義主張(個人的感情)」です。
創竜伝に当てはめて、問題はないと思いますが?読者が感覚的に竜堂兄弟の方が正当性があると感じれば、それで勧善懲悪ものとして成立です。
でも、
> ただひたすら衝動的・突発的でかつ一貫性のない「個人的感情と病的なプライド意識」をベースにしているだけでしかないですし、勧善懲悪の見せ場であるはずの「悪」に立ち向かう時でさえも「あいつが気に入らない」だの「権力者に殺されるのは可哀想」だのといった感情的な理由以外の明確な主義主張がまったくありませんからね~。
と、個人的感情を否定し、明確な主義主張がなければ物語の主人公は悪を倒してはいけない、と主張されているようにも思える冒険風ライダーさんには、相容れない見解であるとは思います。
私の勧善懲悪物というジャンル分けが、本来の勧善懲悪物と違うのなら、より単純なスーパーヒーロー物でも良いです。それなら、読者にすら関係なく、主人公が個人的感情だけで相手をこの世から抹殺しても、納得していただけると思いますので。
> PS.
> それと私が挙げた創竜伝最大の破綻要素に関してずいぶん面白い意見を述べてくれたようですが、仮に上記の主張を置いておいたとしても、あれらの破綻要素はむしろ「勧善懲悪物」として見ると却ってますます致命的になってしまうのではありませんか? 何しろ「正義」側であるはずの竜堂兄弟がアレほどまでに自らの独善的感情や思想的破綻をさらけ出し、「悪」であるはずの四人姉妹や牛種の主義主張に対して、万人の共感を呼ぶだけの理論的説得力を持つ代案をマトモに提示することすらできないのですから。
面白いですか?ありがとうございます。
と言うわけで上記の通りと、設定に関しては架空世界の出来事と言うことで、ほとんど私的には問題なしです。
一例を挙げれば、
> 私の創竜伝考察33
> 創竜伝最大の破綻・中編
> 1. 四人姉妹を支えるアメリカ基盤産業の実態
に対して、創竜伝世界では四人姉妹はアメリカを支える産業のほぼ全てを掌握しているという設定です。
現実のアメリカの経済は全く関係有りません。
以上です。
従って、架空世界の前提設定に、現実の世界の状況を持ち込む冒険風ライダーさんの考察は、
私にとって賛同する物ではありません。
勿論完全に問題なしと言えないのは、Merkatzさんに対するレスで書いた通りですが。万人の共感を持つ代案云々は、取り敢えず完結してみないことには、言えないと思います。
> あのようなストーリーとして致命的な破綻要素を「お約束」で終わらせている勧善懲悪物など、私は聞いたことがないのですけど。
それは、同じ作品をどう見るかなので。聞いたことが無くてもおかしくないと思いますが。
> そうですね、待たされている愛読者としては、皮肉の一つも言いたくなるのも解ります。
>
> そう言う気持ちは、田中芳樹氏の小説の愛読者なら皆さん持っていると思います。
ランゼルさん、ご理解感謝いたします。
ただ、
> ただ、小説を書かせることを強制は出来ないですし、書く順番も田中芳樹氏次第ですし、
> 何より、気持ちの乗っていない時に書いた小説は詰まらないと思うのです。
につきましては、古代蓮さんと「プロ」談義をさせていただいている折
にも思うのですが
「熱意を技量で補うのがプロ作家の読者への誠意」
ではないでしょうか。
加えて、
「終わらせる為に全力を注いで終われない」
ならともかく
「他にやりたい事ができたから(継続中の作品とその読者は)放置
する」
ではやはり『皮肉』ではすませられないプロ作家としての精神的資質
の欠落がないかと思わざるを得ません。
> 従って私は続刊には複雑な心境です。7年ぶりのアルスラーン戦記を読んで、少々違和感を感じたので。
> 私が待っているのは、あくまで当時に出したのと同じ面白さの続刊ですから。
> ですので、できれば今の気持ちのまま、創竜伝を完結して欲しいです。
> そして、中国歴史物でカンを取り戻してからアルスラーン戦記等を再開してくれれば、
> 言うことはないですね。
逆にこの点についてはランゼルさんのお気持ちを理解します。
ただ、これは人それぞれでかまわない範囲での私の感想なのですが、
「つまらなくて構わない、終われ」
「書けないなら書けないでいい、そう言ってシリーズを止めろ」
と言うのが正直なところです。
何せ書けないんですから
「事実を事実として言わないのはいかがわしい事さ(ヤン・ウェンリー)」
ではないですか。
それに、負けるときはキッチリ負けてその上で評価を請うのは作家に
限らず社会人として当たり前でしょう。
別に田中氏に「全作名作、完全勝利」などと紙一重寸前の超人技まで
要求はしていないんですから。
> そもそも、田中芳樹氏の小説を面白いと思った地点で、読者の負けなのですから。
このHPで管理人様を筆頭に数え切れない方が言われた言葉ですが
私も言います。
「スッパリ負かして(面白いと思わせて)くれればそれで本望」
なのですよ。
> > その一点だけでも、田中芳樹氏は素晴らしい作家だ。
>
> その一点だけでも、素晴らしいプロ作家だ。
> の間違いでした。すいません。
質問にお答えいただき、ありがとうございます。
おかげ様で、古代さんの主張の趣旨はだいたい理解できました。
一応、わたしもクリエイティブの仕事をしているので、古代さんのプロとアマチュアの定義はもっともだと思います。ただ、その上で、田中氏は
「その一点だけでも、素晴らしい商業作家(エンターテイナー)だ」
だとわたしは思います。クリエイティブの世界では、「売る」ための商業的価値を求めるのか、あくまで自分の理想を追求する芸術的価値を求めるかで、評価の基準が違ってきます。最初の古代さんの主張では田中氏の位置づけがわかり難かったので、あのように質問させてもらったんです。彼がエンターテイナーとして評価されるというのはよくわかります、文学的(芸術的)に素晴らしいかどうかは別として、ね。
こんにちはオズマです。
> 情報ありがとうございます。
> え~と、と言うのがオズマさんの見解というのは解りました。つまり、田中外相を応援し、森前首相を支持しなかった国民は、マスコミに踊らされた存在と言っても良いと言うことでしょうか?公正な報道ではないから、国民はオズマさんと違って判断できないから、極端な支持率になっていると。だから、国民は踊らされやすい、マスコミはヤバイ、同様に公正ではない創竜伝もヤバイと。
>
> 評論って難しいですね。少しでも語ろうとすると、自分は別格だとしなければ、とても書けないので。
> 上記の文章だけを読んでいると、なんだかオズマさんが日本国民を馬鹿にしているようにも受け取れます。
> オズマさんは踊らされていないのだから、他の国民も踊らされていないと思って大丈夫ではないでしょうか?
> 国民や読者をもっと信頼してはどうでしょうか?
>
> > それが人々の自主的な判断とするなら、それはそれで問題ないのかもしれませんが
>
> ですよ。
そういわれるのは耳(じゃあ無くて目ですけど)に痛いですね。少なからずランゼルさんがおっしゃられたように考えていた部分はあります。まあ、私の場合は自戒も含めて、ですけどね。かくいう私もマスコミに踊らされている自分に気づきながら、努めてそうならないように心がけているんですけど。例えば、ドラマなどで主人公を追いかけるワイドショーに憤慨したりする自分がいるかと思えば、実在のワイドショーを面白がっている自分もいるという矛盾に気づいた時とかね(笑)。まじめな話、踊らされていないという根拠もないというところが私があのように述べた理由のひとつです、と答えるしかないですね。そこのところは後でも少し触れていますが。
> お答えありがとうございます。
> 両方が問題でしたか。
> 中国至上主義や、偏重左翼思想、自分勝手な教育論などが田中芳樹氏の本当の思想だから問題なら、それがそうであるか否かだけが問題ですし、
> 田中芳樹氏の本当の思想であろうが、作られた思想であっても、小説中に過剰に入れてはいけないだけなら、最適な量を捜せば良いのですが、
> 両方となると、やはりオズマさんの最初からの主張の通り、評論の形で思想を小説内に入れることそのものの是非になるので、やはり小説のルールですね。自分の言葉(多分思想のこと)を語っていけないルールが有るのか。
まあ、そこのところは個人の見解ですので。例えば売れる為に新しい手法を生み出すことを評価する古代蓮さんのような意見もあることですから。私の意見は一通り延べさせてもらいましたし、一連の投稿も読ませてもらいました。真に価値観の違う人々は最終的に相容れることはないでしょうから、ここはお互い(この件に関しては主に古代蓮さんの意見ですが)の意見の確認ができたところでよしとするしかないでしょうね。
> >田中芳樹の評論検証5-A
> >田中芳樹の図書館学
>
> ですよね?なるほど、これがオズマさんの示す田中芳樹氏の自分勝手な教育論の一例ですね。
> (他の方とオズマさんの考えが同じなのかは解らないので。)
> 前とは違った感覚で読ませていただきました。
> でも、これだけで田中芳樹氏の本当の教育論というのは、飛躍しすぎだと思います。
> 田中芳樹氏10文字しか書いていないし。
>
> ただ、オズマさんがベストセラー作家、田中芳樹氏の影響力の大きさを、本当に評価されているのが解りました。
> 私などは、小説はどんなに売れていても、所詮は作家と読者の一対一の関係だと思っているのですが、
> (売れているのが購入動機にはなっても、内容は自分で読んで決める物。)
> やはり、ベストセラーと言うだけで評価が変わったりする物なのでしょうか?
まあ、少々飛躍させすぎたことは認めますが。
もちろん田中芳樹がそのような意図で行ったわけではないという可能性もあるでしょう。もしそう仮定してですよ、それでもしかし、影響力から考えて意図とは別のとられ方をすることの重大さということを言いたかったわけです。私の図書館学の師匠なんかは、それこそ市民に図書館というものにより親しんでもらえるようにさまざまな活動(出版も含めて)をしているわけですが、それでも幾ら図書館学の本を出版しようが、基本的に対象は図書館学を学ぶものだけです。もちろんその本で学んだ図書館人たちが自分の図書館をより良くする為に活動をしていき、いずれは、普段人々が思っている図書館とは違った、親しみやすい図書館を作り上げていくだろう、というふうにその影響力はひろがるでしょうが、ベストセラーの即効性の影響力の前には微々たるものです。田中芳樹のあとがきの何気ないほんの一言が、例えその意図がないとしても、図書館人すべての努力を踏みにじることだってあるわけです。ましてやその意図があってあの発言をしたとしたら・・・。どちらにしろ、少なくとも私はあの一言にそのような危険性を感じました。ですから、田中芳樹にはそれをフォローするだけのもう一言を望みたかったし、それがないというところに彼の自分勝手さ、言い換えれば独善さを感じたわけです(単にリクエストをすれば図書館がそれに応えてくれるということを知らなかっただけかもしれませんが、それならそれで知らないのに書くというのはむしろ自分勝手)。そんな自分勝手な意見を小説(あれはあとがきですが)にしかもベストセラーに書くな、書くなら反論の余地がある論評にしろ、といいたいわけです。
> 影響力についての考えが変わると、全てが変わってしまいます。例えば、最初の田中外相の話も、国民の意志に関係なく、大手マスコミが報道するので、それで何となく田中外相に好意的なのだとしたら、
> 国民が踊らされやすいのではなく、大手マスコミに、そう言う踊らせる力があるのだとしたら、オズマさんの危惧が全面的に正しいことになってしまいます。
田中外相に関して言えば、まず歯切れのいいところが国民にウケているというのはまずあるでしょうし、その点で彼女の人気は作られたものではないのでしょう。しかし、それを助長しているのはマスコミだと私は思っています。何かと「官対民」だと言って、官僚を悪役に仕立て上げようとしていますからね。民代表の田中外相よりの報道をしているんじゃないですか。マスコミは田中外相の資質の方にはあまり触れないようにしているように思えたので。
そこのところはおいといて、マスコミによる世論操作の可能性についてはマス・コミュニケーション論のひとつのテーマですね。問題点というか(そうならないようにしないといけないというのはもちろんありますが)、むしろそういうもの、として定義されている部分があるように思いますけど。専門に勉強したわけではないので(自分勝手にならないように)これ以上の発言は控えますが。興味があれば勉強してみてもいいかもしれませんね。
私がマスコミに求めているのは不偏不党さです。ちなみにわが国ではその不偏不党がマスコミの原則らしいです。んなわけない、というのはどことは言いませんが、特にある特定の新聞やテレビ局を見ればわかると思います(ただ、うちは反自民ですと明確に発言していないだけ。それをもって不偏不党だとするなら茶番ですけど)。
ではこのへんで。
すいません249の訂正です。
図書館について述べた箇所をあとがきだと書きましたが、それは間違いで、『アップフェルラント物語』に収録されている「『ルリタニア・テーマ』について」という文章の中においてでした。
これのジャンルは何かは判断しかねますが、小説ではないことは確かです。従ってこの発言を小説の中でしたという非難の部分
> そんな自分勝手な意見を小説(あれはあとがきですが)にしかもベストセラーに書くな、書くなら反論の余地がある論評にしろ、といいたいわけです。
は適当ではありませんでした。すいませんでした。
しかし、ベストセラーによる影響力という観点からの意見についてはそのままあてはまるので、上記以外の部分についてはそのままお読みください。
ここ最近の訂正の多さ、本当に申し訳ありません。以後そういうことがないように気をつけます。