某掲示板で「悪魔の詩」を翻訳して喉をかっ切られて殺された五十嵐筑波大助教授の話を書いていたのですが、そうしたら無性に田中御大のことを思い出しました。
「世の中には信じられない偽善者どもがいてさ、大量殺人犯の心情を理解してやらねばならない、なんていうのよね。そいつらが自分の正しさを確信しているなら、アウシュビッツで殺されたユダヤ人の遺族にお説教してやればいい。『お前たちはアドルフ・ヒトラーの心情を理解してやるべきだ』ってね。できたとしたら、えらいものだけど」
(東京ナイトメアP143)
この「被害者の前で言って見ろ」論法は創竜伝にもあり、それを新Q太郎さんに徹底的に撃破されているので、ここでは触れません。
しかしねぇ、こういう論法を使うなら私も言ってみたいよ。
「お前は五十嵐助教授の遺族の前でも『創竜伝は発禁本』っていえるのか? いえたとしたら、えらいものだけど」
別に五十嵐助教授でなく、田中芳樹がシンパシーを感じるであろう、小林多喜二(左翼文学家で、作品で警察を悪し様に書き、憲兵にリンチ殺人された)の墓の前でもいい。
やっぱ現在のアンタは最低の人格だわ、田中芳樹。
> 「世の中には信じられない偽善者どもがいてさ、大量殺人犯の心情を理解してやらねばならない、なんていうのよね。そいつらが自分の正しさを確信しているなら、アウシュビッツで殺されたユダヤ人の遺族にお説教してやればいい。『お前たちはアドルフ・ヒトラーの心情を理解してやるべきだ』ってね。できたとしたら、えらいものだけど」
> (東京ナイトメアP143)
私はここであげつらわれている人権主義者とは対極の思想を持っている人間ですが(故にこの薬師寺涼子のあげつらいには少しだけ共感する)、『お前たちはアドルフ・ヒトラーの心情を理解してやるべきだ』と言うべきだと思いますよ。被害者というだけで思考停止せず、ヒトラーの心情や思想を咀嚼し、そのうえで情を含有した理として否定するべきだと思うので。
結局、被害者という「ご神体」を出されると思考停止してしまうのは、人権主義者も田中芳樹も同じで、外部から見れば「カトリックもプロテスタントも同じキリスト教じゃん」的に変わりがないですね。
> 「世の中には信じられない偽善者どもがいてさ、大量殺人犯の心情を理解してやらねばならない、なんていうのよね。そいつらが自分の正しさを確信しているなら、アウシュビッツで殺されたユダヤ人の遺族にお説教してやればいい。『お前たちはアドルフ・ヒトラーの心情を理解してやるべきだ』ってね。できたとしたら、えらいものだけど」
「巴里・妖都変」でも、悪役に「愛国者」という言葉を喋らせて、それをヒトラーになぞらえて罵倒するという、相変わらずの描写がありましたが、この絶対の「悪」として認知されているヒトラーや、絶対の「被害者」として認知されているユダヤ人ってのは、ある意味これ以上ないほどの「権威」ですね。「権威」に寄りかかった論法なんて、田中氏がもっとも嫌うハズなんだけど。
> 五十嵐助教授
「悪魔の詩」事件について、五十嵐氏は、ホメイニ師の死刑判決に対する西洋や日本の「基本的人権」を盲信した浅薄な議論に疑義をとなえ、イスラム諸国が「世界人権宣言」の草案に反対した理由を紹介することによってイスラムの知恵を提示し、また基本的人権の基本たる所以についても反省を求めておられました。このイスラムのよき理解者に対して、犯人は全く持って無意味な行いをしたとしか思えません。
その五十嵐氏の解説の中に、コーランの一節を引用して、堂々と向かってくるのならともかく、英語の小説などという手段でイスラム批判をコソコソするのは卑怯だ、という倫理観があることも説明されていました。
相手が日本政府では死刑判決どころか発禁にされることもあり得ませんが、一般論で言えば、このような小説の手法だってアリでしょう。ただ、自分のやっていることに少しでも自覚があるのならば、あの創竜伝6巻の座談会は書けるはずもありません。
> 「巴里・妖都変」でも、悪役に「愛国者」という言葉を喋らせて、それをヒトラーになぞらえて罵倒するという、相変わらずの描写がありましたが、この絶対の「悪」として認知されているヒトラーや、絶対の「被害者」として認知されているユダヤ人ってのは、ある意味これ以上ないほどの「権威」ですね。「権威」に寄りかかった論法なんて、田中氏がもっとも嫌うハズなんだけど。
田中芳樹が大好きで大好きでもうしょうがないみたいなこのヒトラーとユダヤ人論法なんとかならんのかと毎回思います。
田中芳樹に『お前はアドルフ・ヒトラーの心情を理解してやるべきだ』と言いたい!(笑)。
さらに真面目に言うと、「理解することと肯定することは違う」んですけどね。理解して否定することが大事だと思います。創竜伝風のイヤミで言えば「理解することと肯定することの区別が出来ない輩がいる」ってところですか。
そもそもアンタが自分の論理と小説のためにホロコーストのユダヤ人を食い物にしているんじゃないのか? やはり田中芳樹の小説でよく使われる「被害者に『今のお気持ちは』とマイクを突きつける想像力の欠如したレポーター」と何が違うんだか。
ところで、田中芳樹が「権威が嫌い」ってことはないと思います。いや、本人はそのつもりかも知れませんが、「反権威」っていう「権威」が大好きなんですよね。
これも別の掲示板(日本茶掲示板)で指摘したことなんですが、船津老人の大きなモデルになったであろう笹川良一氏が、マスコミの「反権威」の連中に反論をバックれられて言論弾圧されているんですよね(自費でのCM拒否。「一日一善」っていうアレです)。
結局笹川氏という権威・権力よりもマスコミ革新派の反権威・反権力のほうが強かったのだし(ちなみに権力と反権力の関係は物理の力・反力の関係と同じ)、そういう状況を考えると、田中氏は戦後日本における主流、つまり「権威」の側だと言えます。
まあ、田中芳樹流に言えば「まるで笑劇(ファルス)のような悲劇」というところでしょうか。
> 相手が日本政府では死刑判決どころか発禁にされることもあり得ませんが、一般論で言えば、このような小説の手法だってアリでしょう。ただ、自分のやっていることに少しでも自覚があるのならば、あの創竜伝6巻の座談会は書けるはずもありません。
これは多少暴論気味であることを自覚しているんですが、田中芳樹の、執拗なキリスト教批判によって一神教を否定するサマは卑怯だと思いますね。
「キリスト教が現在ではとても穏健かつ寛容である」という、自説と正反対の前提がない限り、とても(氏では)書けないだろう説だと思いますので。