> 「ただ一度戦争に負けたからといって、民族の誇りを失うな。われわれは世界一優秀な民族だ。その自覚をもって祖国に献身せよ」これはアドルフ・ヒットラーという男がもっとも好んだ台詞だった。
(創竜伝4巻 P168~P169)
貧困は犯罪を生む大きな原因である。このこと自体に異論のある人は少ないだろう。現在の教育刑主義もそれに立脚したものであるし、だからこそ政府は貧困をなくそうと努力するのである。
また、貧困による犯罪は、その原因が貧困という弱者であることに起因しているため、単純な善悪で判断することが難しい。その不条理ゆえ、多くの文学や芸術で貧困と犯罪の関係は重要なテーマとして描かれてきた。まさに、それは人間という存在の哀しさであり、善悪で割り切ることの出来ない矛盾であり、原罪でもある。
そして、その貧困による狂気は人間を超えて国家を捕らえることがある。それは、やはり善悪で割り切ることの出来ない不条理を孕んでいるのだ。
まず、『ただ一度戦争に負けたからといって、民族の誇りを失うな』という言葉の意味から考える必要がある。
当時のドイツは、第一次大戦に敗北し、現在では想像もできないほど多額の賠償金を課せられていた。そしてヒトラーが台頭してきた時代には、それに大恐慌が追い打ちをかけ、ドイツ国民は、飢えと貧困と絶望の中で失意のどん底にあった。
その状況を無視して上記の言葉を抜き出しても、何の意味も持たない。ましてや、田中芳樹のようにバブル日本の増長への警句として使うのには、これほどふさわしくない言葉は他にあるまい。
そのようにドイツ人が貧困にあえいでいた中、資本を多く持っていたのがユダヤ人であった。もちろん、自分の財産を築くこと自体は悪いことではない。しかし、田中芳樹のように「資本」「金持ち」を悪とする思想の持ち主、金持ちや資本の社長はろくでもない奴でどうせ汚い手段で金を稼いだんだろう、俺達は一般庶民だし、懲らしめてやってもそれは悪ではない、と思う、まるで竜堂兄弟のような思想を持つ人は当時にも居た。
竜堂兄弟の「懲らしめ」を国家単位、民族単位で行ったら、ユダヤ人大迫害に繋がったのだ。これは、決して特殊な事例ではない。文化大革命も東南アジアの華僑襲撃も、竜堂兄弟の「懲らしめ」の延長線上にあるのだ。
「権力からの降りかかる火の粉を振り払う為の自衛は許される」
この竜堂兄弟の論理で動いた組織こそが、まさにナチスドイツだった。ユダヤ人の資本支配、欧州列国による搾取。これらの権力からの火の粉を払いのけようとする決意が、先のヒトラーの言葉である。
ナチスドイツの力がユダヤ資本や欧州列国を上回ったとき、火の粉を払いのけようとするそれは過剰防衛になり、暴走して人類最大の犯罪となった。
人間の権力など遙かに凌駕する力を持つ竜堂兄弟が権力からの火の粉を払いのけ懲らしめるなどという発想は、ユダヤ人を超える地位を持つゲシュタポがユダヤ人をドイツに巣くう寄生虫だとして懲らしめる発想と同じである。
竜堂兄弟の思想的バックボーンである田中芳樹と、ゲシュタポの思想的バックボーンであるアドルフ・ヒトラー。
何が違うというのだろうか。
田中芳樹を撃つ!初代管理人 石井由助