以前に私がタナウツ掲示板にて行った山本弘関連の投稿についてですが、それに対して山本弘掲示板の方で何やら反応があったようです。どうやら私の投稿(No.3951)をあちらの掲示板に転載した人がいたらしく、それに対して山本弘本人をはじめとする幾人かが反論を返しているという図式です。
その詳細および全容については、No.3950に記載しておいた「田中芳樹問題スレッド」のリンクを参照してもらうことにして、ここでは山本弘本人の投稿のみを再び取り上げてみたいと思います。
あちらの掲示板に掲載された山本弘の投稿内容は以下の通りです。ちなみにここで名前が挙がっている「asai」というHNの人が、私の投稿を転載したようです。
No.9599 - 2003/04/23(Wed) 11:46
Re: 田中芳樹問題 / 山本弘
asaiさん、こんにちは。
まず最初に警告しておきます。あなたの発言は不必要に長すぎます。引用箇所は必要最小限にとどめるのがマナーです。
これ以上、このような行為を続けられるようであれば、本掲示板への悪質な妨害行為とみなし、削除いたしますので、そのつもりで。
><確かにこの小説にはトンデモない描写が多かった。科学が高度に進歩しているはずの未来世界で、宇宙航行を限定する2つの回廊が存在するとか、携帯用のレールガンが存在するとか、宇宙の全ての惑星が同月同日で季節の変化も同一であるとか、氷塊が一恒星系内で一気に亜光速航行に達して軍事衛星を破壊するとか、作中人物が孤立した要塞で何十年間も外部補給なしで籠城することを当然視しているとか、明らかに頭の悪い奴が書いた小説だ。>
はて、「宇宙の全ての惑星が同月同日で季節の変化も同一」ですって? 1巻の第3章でちゃんと、惑星によって自転周期が異なることは明言されていますし、そのうえで24時間を1日、365日を1年とする標準暦が使用されているという説明がされていますよ。「全ての惑星が同月同日」なのは標準暦を使っているからです。
田中氏はちゃんとそういう点にも気を使って書いてるんです。
>でも、『銀英伝』はたぶんそうじゃないと思います。だって、いくら何でも「宇宙空間であのような形式の艦隊戦が展開できる」と思ってる読者はそう多くないだろうし、それに合わせて作中の様々に矛盾している戦闘描写を描いたというなら、それ以外の賢い読者にバカにされるであろうことをまったく計算していなかったわけで、これは本物のバカです(^^;)>
じゃあお訊ねしますが、科学的に正確にどうやって『銀英伝』が書けるのですか?
無理である、と僕は断言します。科学的に厳密であろうとするなら、宇宙空間での艦隊戦闘なんてものはとても成立しません。むしろ「賢い読者」ならそれが分かります。
宇宙空間に回廊があるというのも同じことで、ストーリー上の必然性なのです。科学を無視する必然があるなら、無視してよいのです。
対する『アルマゲドン』はどうでしょう。小惑星の上で風がびゅうびゅう吹いてたり、流星が宇宙空間で燃えたりすることに、いったいどんな必然があるというのですか? なくたって支障はないでしょう?
>確かにこの小説にはトンデモない描写が多かった。現代世界を舞台にしている小説中で、人間がドラゴンに変身するとか、そのドラゴンが重力制御やソニックビーム・気象制御などの超常的な現象を単体で発生させるとか、現代文明の水準をはるかに上回る技術で動く宝貝やタイムマシンが仙界や天界に存在するとか、人間世界が少数の特定財閥や牛の怪物に支配されているとか、全ての歴史的事件が影の黒幕の陰謀によって操られているとか、明らかに頭の悪い奴が書いた小説だ。
あなたの論理からすると、「SFやホラーやファンタジーを書く人間はみんな頭が悪い」ということになっちゃいますが、そんなことを本気で主張されているのですか?
どうもあなたは、僕の主張をまったく理解しておられない。「現実離れした話を書く奴は頭が悪い」なんて、誰も言ってやしません。創作者の頭の良さは、プロットの組み立て方、キャラクター描写、オリジナリティなど、様々な要素から判断されるべきです。
だから「時限爆弾に赤と青のリード線」とか「脱出寸前に車がエンストを起こす」なんてシーンを平然と書く脚本家は頭が悪い、と言っているのです。何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格。それを田中芳樹作品と同列に論じるのは暴論でしかありません。
あなたの理屈は言い換えればこうです。
「ウマのことを『大きな動物』と言い、ハムスターを『小さな動物』と言う奴がいるのはおかしい。ウマもハムスターも、シロナガスクジラに比べればはるかに小さいのに。
ハムスターが『小さい』のならウマも『小さい』はずである。なぜ一方は大きくて一方が小さいなどと矛盾したことを主張するのか。これはダブルスタンダードではないか!」
違うのは、動物の大きさと違って、作品の良し悪しは物差しや体重計では具体的に測定できないってことですね。だからと言って、良し悪しが計れないってわけじゃないんですけど。
しかし、私はこれを一読して後しばらく呆然としてしまいましたね。山本弘は私の主張の核となる部分には一切言及しなかったばかりか、よりによって「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」評価の際に山本弘自身が使った論法を風刺するために、あえて山本弘自身の論法を田中作品に当てはめてみせた箇所に対して「のみ」反論を加えていたからです。このことが一体何を意味するのかということすら、山本弘には理解することができなかったのでしょうか?
その山本弘の滑稽な実態については後ろの方で言及するとして、とりあえず手近なところから反論を加えていきましょう。
<はて、「宇宙の全ての惑星が同月同日で季節の変化も同一」ですって? 1巻の第3章でちゃんと、惑星によって自転周期が異なることは明言されていますし、そのうえで24時間を1日、365日を1年とする標準暦が使用されているという説明がされていますよ。「全ての惑星が同月同日」なのは標準暦を使っているからです。
田中氏はちゃんとそういう点にも気を使って書いてるんです。>
これは山本弘の根拠のない思い込みですね。
実際には田中芳樹本人が、銀英伝10巻あとがきで以下のような主張を展開しています。
銀英伝10巻あとがき P241
<ただ、作者が承知してやっていることもあります。たとえば、一万光年離れた惑星オーディンと惑星ハイネセンとで、同年同月同日ということはありえませんし、第一巻で私は惑星の自転・公転・暦の関係についてすこし書きましたが、後の巻では、よほど特殊な環境の例を除いて、いちいち言及しませんでした。また季節についても、惑星ごとに当然ちがうでしょうし、同じ惑星でも北半球と南半球ではことなります。そもそも地軸が黄道面に対して傾斜していない惑星では、季節の変化がありません。これらをすべてひっくるめて、季節の変化を地球北半球のそれに合わせてしまったのは、この作品においては、とくに回想シーンにおいて、季節感の描写が必要だったからです。フィクションのなかでの約束事として、ご許容ください。>
というわけですので、「田中氏はちゃんとそういう点にも気を使って書いてるんです」という主張は完全に間違いです。
そして田中芳樹は、自分が作った作品設定が「科学考証の観点から見て完全に間違っている」ことを自分でも充分に承知の上で、「とくに回想シーンにおいて、季節感の描写が必要だったから」などという「【科学考証の観点から言えば】さして重要とも思われない理由」に基づき、山本弘曰く「科学考証に全く耐えられないバカな設定および描写」を銀英伝の作中で堂々と描いていたわけですから、これは山本弘がさぞかし忌み嫌っているであろう「観客の知能にあわせて間違った描写をする」に該当するのではないのですか?
それから山本弘は、私が銀英伝の作中から「科学考証ミスの実例」として適当に挙げてみた5つの事象のうち、科学考証の観点に基づいた主張としては「宇宙の全ての惑星が同月同日で季節の変化も同一である」についてのみ言及しているだけで、あとの4つ「宇宙航行を限定する2つの回廊が存在する」「携帯用のレールガンが存在する」「氷塊が一恒星系内で一気に亜光速航行に達して軍事衛星を破壊する」「作中人物が孤立した要塞で何十年間も外部補給なしで籠城することを当然視している」については何も反論していないようですし、特に「携帯用のレールガンが存在する」「氷塊が一恒星系内で一気に亜光速航行に達して軍事衛星を破壊する」の2つについては、「【科学考証の観点から言えば】杜撰な設定であること」を、他ならぬ山本弘自身が自ら積極的に認めているわけなのですから、山本弘的理論に従えば、これらの「杜撰な」設定が存在する銀英伝という作品を「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」と同レベルの「トンデモ作品」扱いすることに何の問題も生じないはずでしょう。
このような「(山本弘的理論から言えば)読者を愚弄する許しがたい蛮行」が公然と行われており、かつ「(山本弘的理論から言えば)それに見事に騙されている問題のあるファン」があまりにも多いであろう銀英伝に対して、「インディペンデンス・ディ」と「アルマゲドン」を評価した際の、「科学考証に全く耐えられないバカな設定および描写」に基づいて映画制作者や映画ファン達を「バカ」呼ばわりまでする、その舌鋒鋭い山本弘的批判手法が何故展開されないのか、やはり私には非常に不思議に思えてならないのですが。
<じゃあお訊ねしますが、科学的に正確にどうやって『銀英伝』が書けるのですか?
無理である、と僕は断言します。科学的に厳密であろうとするなら、宇宙空間での艦隊戦闘なんてものはとても成立しません。むしろ「賢い読者」ならそれが分かります。
宇宙空間に回廊があるというのも同じことで、ストーリー上の必然性なのです。科学を無視する必然があるなら、無視してよいのです。
対する『アルマゲドン』はどうでしょう。小惑星の上で風がびゅうびゅう吹いてたり、流星が宇宙空間で燃えたりすることに、いったいどんな必然があるというのですか? なくたって支障はないでしょう?>
「ストーリー上の必然性」であれば、そもそも「インディペンデンス・ディ」のC・ウィルス関連の設定や描写だって、劇中では充分に「ストーリー上の必然性」で発生しているのですから、「科学を無視する必然があるなら、無視してよいのです」という論法が当然使えるでしょうし、「アルマゲドン」もまた、「大都市を狙ったかのように隕石が【偶然】落下する事態が発生する」とか「小惑星の上で風がびゅうびゅう吹いてたり、流星が宇宙空間で燃えたりする」とかいった描写が「ストーリー上の必然性」として存在しているのですから、こちらも当然「科学を無視する必然があるなら、無視してよいのです」ということになるはずでしょう。
その「ストーリー上の必然性」に対して、どこからともなく一方的に持ち出してきた「科学考証」とやらを使って「【科学考証の観点から言えば】こんな描写はありえない」などといった御託を並べるのは「科学を無視する必然があるなら、無視してよいのです」という山本弘自身の主張に明白に反していますし、ましてやそれに基づいて、「ストーリー上の必然性」を「意図的かつ確信犯的に」描き出して映画の雰囲気を盛り上げるように製作した映画制作者や、そのような映画に特に疑問を抱くこともなく素直に感動している映画ファンに対してまで「バカ」呼ばわりするのは、失礼ながらいささか常軌を逸していると言えるのではありませんか?
それに、山本弘は映画「ボルケーノ」に対しても、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」と全く同様のスタンスで評価していましたよね↓
今週は『ボルケーノ』 投稿者:山本弘 投稿日:12月 3日(火)10時30分20秒
『spa!』連載の「空想科学研究所」、今週は『ボルケーノ』なんですが……。
ごめん、この映画に関しては、『アルマゲドン』同様、擁護する気がまったく起きません(^^;)。
だいたい、「ロサンゼルスのど真ん中で火山が噴火」って、「地球に巨大隕石が落下」よりもありえないことなんだけど……
まあ、一種の怪獣映画として楽しむべきなのかもしれませんが。
しかし「ボルケーノ」という映画では、山本弘曰く「ロサンゼルスのど真ん中で火山が噴火」という設定がとても重要な「ストーリー上の必然性」として存在しており(これがなかったら「ボルケーノ」という映画自体がそもそも成立しえない)、それを前提として脚本が書かれていたわけですから、「科学を無視する必然があるなら、無視してよいのです」というのであれば、当然その辺りは大目に見るべきところなのではないのですか?
第一、「【山本弘的理論に基づいた】ストーリー上の必然性」とやらを判定する「客観的な判断基準」というのは一体どこに、どんな形で存在するというのでしょうか? ここまで自信を持って断言するからには、当然ながら「銀英伝・創竜伝をはじめとする田中作品」には適用されて「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」「ボルケーノ」には全く当てはまらない形での、さぞかし万人を納得させられるだけの普遍的な理論ないしは概念に基づいた判定基準でも存在するのでしょうが、これが何らかの形で、しかも客観的かつ具体的に提示されなければ、「ストーリー上の必然性」という言葉自体が使用者の都合によって、いつでも恣意的に運用されるということにもなりかねないのではないかと思うのですけど。
<あなたの論理からすると、「SFやホラーやファンタジーを書く人間はみんな頭が悪い」ということになっちゃいますが、そんなことを本気で主張されているのですか?
どうもあなたは、僕の主張をまったく理解しておられない。「現実離れした話を書く奴は頭が悪い」なんて、誰も言ってやしません。創作者の頭の良さは、プロットの組み立て方、キャラクター描写、オリジナリティなど、様々な要素から判断されるべきです。
だから「時限爆弾に赤と青のリード線」とか「脱出寸前に車がエンストを起こす」なんてシーンを平然と書く脚本家は頭が悪い、と言っているのです。何も考えずに、テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格。それを田中芳樹作品と同列に論じるのは暴論でしかありません。>
本当に救いがたいほどに「頭が悪い」としか言いようのない主張ですね。まさか自分の事を棚に上げて、こんな愚かしい解釈に基づいたレスを返されてしまうとは思ってもいませんでしたよ。
まず「あなたの論理」という言葉自体がそもそも致命的に間違っています。私が使っていたのは正確には「件の『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』『ボルケーノ』評価の際に使われていた【山本弘の論理】」であって、その主張の醜悪さとダブルスタンダード性を立証するために、意図的かつ確信犯的に「山本弘の論理」を銀英伝や創竜伝に当てはめる変換文章を「あえて」作り出していた、というのがあの文章の実態なのですけど。
私は、ストーリーの流れや作品世界の約束事を無視してまで「科学考証の正しさ」とやらに意味もなく執拗にこだわった挙句、無為無用かつ悪戯に作品と製作者とファンを糞味噌に貶めるしか能のない山本弘などと違って、作品中のストーリーや設定や描写をそれなりには尊重するタイプの人間でしてね。あんな間違いだらけのロクでもない理由で作品と製作者とファンの全てを罵倒するような愚劣極まりない主張が「私の本心」などであるはずがないでしょう。だからこそ、私個人としてはあくまでも「山本弘の論理」に対して否定的であることを「それとなく」臭わせるために、「山本弘自身の主張を当てはめれば……」といった類の文章を何度もくどいほどに強調したのですし、No.3952の最後では、わざわざ「山本弘の論理」の醜悪さと滑稽さを風刺したパロディまで書いていたのですけどね。
しかし、件の「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」「ボルケーノ」評価を行っている山本弘には、その主張の正当性と一貫性を保つ「発言責任」というものが存在するはずでしょう。たとえその主張がどんなに愚劣で醜悪で滑稽なシロモノであったとしても、あくまでその正当性と一貫性を保持したいと考えるのであれば、当然「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」「ボルケーノ」だけでなく、ありとあらゆるエンターテイメント作品全てに対して同一の基準を適用するべきですし、またそうしなければならないのです。にもかかわらず、「銀英伝」や「創竜伝」に対しては何故か同一基準の適用が全く行われていなかったからこそ、私は「あの作品に対しては何でこういった主張を展開しないのですか?」という論を展開することで「山本弘のダブルスタンダード性」を問題にしたわけです。
そもそも、山本弘は自分で書いていて気づかなかったのですかね? 「創作者の頭の良さは、プロットの組み立て方、キャラクター描写、オリジナリティなど、様々な要素から判断されるべきです」という文章が、ただひたすら科学考証ベース「だけ」で論じた自分の「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」「ボルケーノ」評価に対する致命的な大ダメージとなっていることに。いやそれだけでなく、今回の山本弘の投稿内容全てが、実は私の主張に対する反論どころか、鏡に写った「過去の自分自身の発言」に対する攻撃にしかなっていない、ということに。私の主張の核心部分について何ひとつ言及せず、山本弘的理論をベースに作成した「風刺目的の変換文章」に対してのみ大真面目なレスをつけているのでは、当然そうならざるをえないでしょう。
山本弘がやっていることは、端から見たら「どうしようもなく愚劣で醜悪で滑稽な一人ボケツッコミ」を行っている以外の何物でもないのです。3流喜劇としてはなかなかお目にかかれない面白い見世物だとは思いますが、仮にも「と学会会長」ともあろうものがそんな無様な醜態を晒しているのでは、自分の地位や信頼だけでなく、下手をすれば「と学会」という看板そのものにも大きな傷がつくことになりかねないのではないですかね。
今まで私が述べたようなことは、私の文章を普通に読んでいけば誰でも簡単に理解できる程度のことでしかないはずなのですけどね。山本弘は目先の科学考証にのみ固執するあまり、人並の文章読解能力をどこか遠くに置き去りにしてしまっているか、重度の視野狭窄症に陥っているかしているのではないでしょうか?
このような人物が「SF作家」を自称し、かつ他人様の著書や作品を「トンデモ本」と認定する「と学会」の会長であるというのは、私には何かタチの悪い冗談でも聞いているようにしか思えないのですが。
ついでにもうひとつ、こんなものも作ってみました。
こちらの方が、今回の投稿における山本弘の滑稽ぶりを表現しやすいでしょうしね。
No.0000 - ◎/○/▽ (■) ●:▼
Re: 田中芳樹問題 / □×△
山本弘さん、こんにちは。
まず最初に警告しておきます。あなたの発言は不必要に支離滅裂すぎます。公の議論の場で公開する文章は、まず相手が何を主張しているかを自らがきちんと理解した上で、何も知らない読者やROMに対しても、自分の主張や意図を正しく伝え、また誤読されたりしないよう常に心掛けるのがマナーです。
これ以上、このような行為を続けられるようであれば、人並の正常な文章読解能力が完全に欠如しているものとみなし、あなたを「ダブルスタンダードだらけのトンデモ3流評論家」認定いたしますので、そのつもりで。
><確かにこの映画にはトンデモない描写が多かった。科学が高度に進歩しているはずの異星人のコンピューターが、地球人が一夜で作ったC・ウィルスであっさり麻痺してしまうとか、異星人が意味もなく人類絶滅を企むとか、明らかに頭の悪い奴が書いた脚本だ。>
はて、「異星人が意味もなく人類絶滅を企む」ですって? 劇中で「資源を(イナゴの集団のように)奪い尽くす」という異星人の侵略動機が明言されていますし、そのうえで「抵抗されないうちに人類の主要な都市を攻撃して絶滅させる」という説明がされていますよ。異星人が人類絶滅を企むのは明確な侵略動機が存在するからです。
「インディペンデンス・ディ」の映画製作者達はちゃんとそういう点にも気を使って脚本を書いてるんです。
>でも、『アルマゲドン』はたぶんそうじゃないと思います。だって、いくら何でも「宇宙に空気がある」と思ってる観客はそう多くないだろうし、それに合わせて小惑星の上に風を吹かせたというなら、それ以外の賢い観客にバカにされるであろうことをまったく計算していなかったわけで、これは本物のバカです(^^;)。>
じゃあお訊ねしますが、科学的に正確にどうやって『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』『ボルケーノ』のような映画を製作することができるのですか?
無理である、と私は断言します。科学的に厳密であろうとするなら、「C・ウィルスを使った人類側の逆転劇」や「大都市をピンポイントで狙ったかのように落下する隕石」や「ロサンゼルスのど真ん中で火山が噴火」なんてものはとても成立しません。むしろ「賢い読者」ならそれが分かります。
「アルマゲドン」で小惑星の上で風がびゅうびゅう吹いてたり、流星が宇宙空間で燃えたりする描写があるというのも同じことで、「劇中でも」言及されている「ガスが吹き出ている小惑星だから」という作品設定をベースにしたストーリー上の必然性なのです。科学を無視する必然があるなら、無視してよいのです。
対する『銀英伝』はどうでしょう。携帯式レールガンが存在したり、氷塊が一恒星系内で一気に亜光速航行に達して軍事衛星を破壊したりすることに、いったいどんな必然があるというのですか? なくたって支障はないでしょう?
>確かにこの映画にはトンデモない描写が多かった。科学が高度に進歩しているはずの異星人のコンピューターが、地球人が一夜で作ったC・ウィルスであっさり麻痺してしまうとか、異星人が意味もなく人類絶滅を企むとか、明らかに頭の悪い奴が書いた脚本だ。
あなたの論理からすると、「SFやホラーやファンタジーを書く人間はみんな頭が悪い」ということになっちゃいますが、そんなことを本気で主張されているのですか?
どうもあなたは、自分自身の主張すらまったく理解しておられない。「現実離れした話を書く奴は頭が悪い」という主張は、他ならぬ山本弘自身が「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」「ボルケーノ」を評価する際に自ら率先して述べていたことでしょう。「創作者の頭の良さは、プロットの組み立て方、キャラクター描写、オリジナリティなど、様々な要素から判断されるべきだ」というのであれば、山本弘自身が提示する「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」「ボルケーノ」批評など、そもそも最初から成立しえないはずではないですか。
だから「山本弘の『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』『ボルケーノ』批評と同じ評価基準を田中作品に当てはめれば、当然『銀英伝』や『創竜伝』もまた『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』『ボルケーノ』と全く同じように評価されなければならないはずなのに、なぜそうしないのか?」、と言っているのです。何も考えずに、個人的な好みに合わせて作品毎に常に異なる評価基準を用いて一貫性のない作品批評を行う奴は、「と学会会長」および「(山本弘定義による)田中芳樹ファン」として失格。それで田中芳樹作品を「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」「ボルケーノ」などと同列に論じないのはダブルスタンダードでしかありません。
あなたの理屈は言い換えればこうです。
「『同性愛とロリコンに対しては、共に人間本来の性的嗜好とは著しくかけ離れたものであり、道義的にも問題があると一般的にも考えられていることなどから、常に一般社会から猜疑と偏見に満ちた冷たい目が向けられている』と言う奴がいるのはおかしい。同性愛はともかく、ロリコンは社会的にも黙認されているというのに。
現在の法律では同性愛による同性結婚は一切認められていないが、ロリコンは男女双方の合意に基づいていつでも結婚できるはずである。なぜ双方を無理矢理ひっくるめて『常に一般社会から猜疑と偏見に満ちた冷たい目が向けられている』などと差別的なことを主張するのか。これは暴論ではないか!」
違うのは、一般的な人間の本能や性的嗜好などと違って、作品の良し悪しは物差しや社会常識では具体的に測定できないってことですね。だからと言って、良し悪しが計れないってわけじゃないんですけど。
どうやら山本弘があちらの掲示板で、何やらご自分が犯したダブルスタンダードを正当化するための理論を展開し始めたようです。
私向けの直接レスではないようですが、これは「山本弘のダブルスタンダード性」を主要テーマとする私の論にも直接関わってくることですので、とりあえず問題となっている山本弘の投稿を転載してこちらでも反論を行ってみたいと思います。
ちなみに、問題の山本弘の投稿はあちらで新規に立てられた新スレッドの方に掲載されており、一方、タナウツ掲示板上における私の投稿(No.3969)もまた、再び誰かの手によってあちらの掲示板の旧スレッドに転載されています。
No.9685 - 2003/04/25(Fri) 13:29
田中芳樹&『アルマゲ』 / 山本弘
>「時限爆弾に赤と青のリード線」や「脱出寸前に車がエンストを起こす」
>と言うシーン…。山本先生。なぜこういったシーンを平然と書く
>脚本家は「頭が悪い」のですか?
他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから。
「名作へのオマージュ」とか、戦隊ものの名乗りのシーンみたいに「絶対に守らなくてはいけないお約束」というならまだしも、そうじゃないでしょ、あれは?
ついでに言うと、シリアスな作品の緊迫したシーンでオマヌケなギャグ(ギャグを意図したものかどうかはともかく)を入れたら雰囲気がぶち壊しになるってことも理解してないし。
No.9750 - 2003/04/26(Sat) 16:47
Re: 田中芳樹&『アルマゲ』 / 山本弘
マックのハンバーガーって、どうやって造られてるかご存知ですか? 僕は昔、バイトしていたことがあるので知ってます。
あの肉(パテ)はすでに丸く成型された状態で、工場から冷凍で運ばれてきます。店ではそれを解凍して焼くだけです。早い話が「冷凍食品」なんですよ、あれは。
冷凍食品やインスタント食品を「料理」と呼ぶ人はいないでしょ?
もちろん、肉を焼く時間、トマトやピクルスを載せる手順、造ってから廃棄するまでの時間など、すべてはマニュアル化されています。スタッフはそれに従っているだけです。
前にも書きましたが、『アルマゲドン』はハリウッドのアクション大作のマニュアルに忠実に作られている映画です。
「観客の共感を呼ぶためには、主人公はエリートではなく、落ちこぼれかブルーカラーの方がいい」
「科学者は無能であるかのように描け」
「観客を飽きさせないように、途中の行程に無理にでもアクシデントを入れろ」
「泣かせを入れたいなら、クライマックスで主要登場人物の誰かを殺せ」
「観客がよく知っている大都市を破壊せよ」
「逃げる際に自動車はエンストさせろ」
……まあ、そういうのが見え見えなんですよ。
マックのハンバーガーを好きなのはべつにかまわない。しかし、「このハンバーガーを作っているスタッフは料理の腕がいいに違いない」と考えるのは間違いです。スタッフはマニュアル通りに作ってるだけなんだから。
誉めるんだとしたら、長い時間をかけて暗中模索しながら、ヒットする映画のパターンを築き上げてきた、過去の先人たちを誉めるべきでしょうね。
No.9795 - 2003/04/27(Sun) 11:14
Re: 田中芳樹&『アルマゲ』 / 山本弘
「ジェリー・ブラッカイマー製作のブツを監督の『作品』として論じること自体に無理がある」
「単なる工業製品」
というのは、『映画欠席裁判』(洋泉社)の中に出てくる、ウェイン町山氏とガース柳下氏の言葉です。
この本はぜひ、大勢の人に読んでいただきたい。いろんな映画(世間で大ヒットしたものも含めて)がけなされまくっていますが、決して暴論になっていません。何しろ二人とも映画マニアで、ものすごい量の知識を元に論じてるから。笑いながら映画の知識が身につきます。おすすめ。
僕の好きな映画も何本かけなされてるけど、正論だけに何も言い返せません。「死んだ親父に会いたいなら、恐山のイタコんとこ行け」って、確かにその通りだし(笑)。
別に『アルマゲドン』をけなしてるのは、この二人だけじゃありません。前にも書いたけど、『アルマゲドン』はあの年のラジー賞の作品賞、監督賞、脚本賞などにノミネートされています。受賞を逸したのは『アラン・スミシー・フィルム』というもっと最低な映画があったからです。つまり『アルマゲドン』は『アラン・スミシー・フィルム』よりはまし(笑)。
一般観客は泣いたかもしれないけど、映画マニアの多くは『アルマゲドン』をひどい映画だとみなしている。これはまぎれもない事実なんです。
大勢の人が好んで食べているからといって、マクドナルドのハンバーガーは決して「いい料理」ではありません。
ものを考えるというのはどういうことか。
たとえば映画の冒頭、真空の宇宙空間でメラメラ燃える流星がいっぱい降ってきて、スペースシャトルが破壊されます。「小さな隕石が飛んでくるところを見せたって迫力がないさ。どうせだったら景気よく燃やそうぜ」という安直な発想なんでしょう。
本当に? 隕石が燃えずに飛んでくるのを描いても迫力がないでしょうか?
隕石が地球に降ってくる際の速度は、銃弾よりもはるかに速い。つまり隕石そのものは肉眼では見えず、遠くから銃で乱射されている感覚だと思えばいい。
僕だったらこういう絵にします。
新しい衛星を軌道上に放出しようとしていたシャトル。突然、衛星の太陽電池パネルが(音もなく)砕ける。「何が起こった!?」「分からん」狼狽する飛行士。
その直後、シャトルの翼や胴にぷすぷすと穴があく。空気洩れが起こり、パニックに陥る船内。
「どうなってるんだ!」
船外作業をしていた飛行士が、宇宙を見上げて叫ぶ。その瞬間、フェイスプレートにぴしっと穴があき……。
どうです、これでも充分すぎるほど恐ろしくありませんか?
その昔、ジョン・カーペンターが『要塞警察』で、サイレンサーを多用した「銃声のしない銃撃戦」という画期的な映像を創り上げていました。斬新であるうえ、下手に銃声がするより、はるかにこわい。
こういう、今までになかったことを考えつくがオリジナリティというものであり、作家の頭の良さを示すものなのです。「迫力がないから燃やそう」というのはガキの発想です。
(そう言えばあの監督、『ザ・ロック』の時も、サンフランシスコのケーブルカーを爆発炎上させて失笑されてたんじゃなかったっけ?)
大都市の破壊シーンにしても同じ。前にも書いたことがありますが、「ベーリング海に隕石が落ちて氷の混じった大津波がアラスカの海岸を襲う」とか「カンボジアに隕石が落ちてアンコールの遺跡が倒壊、ジャングルに大火災が発生」という、今まで誰も見たことのない、なおかつ迫力のある映像を創ることだってできたはずなのに、わざわざ(確率を無視してまで)ニューヨーク・パリ・上海に落とすってのは、「頭が悪い」としか言いようがない。
僕が『銀英伝』を評価する理由の一つは、それまで誰も書いたことのないタイプの小説だからです。作者のオリジナリティがあふれている。そのうえキャラクターの造形に深みがあり、ストーリーの展開にしても、熟考されて書かれていることが分かる。もちろん科学的な間違いをはじめ、欠点はいろいろあるけど、それは全体から見れば些細な傷です。
ハンバーガーが好きなのはかまわない。だけど、シェフが精魂こめて造った料理と比較して、「ハンバーガーと同じようなものじゃん」と主張するのは、明らかに暴論です。
同じシェフの一人として、こういう言い方には怒りを覚えてしまうわけですよ。
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 「田中芳樹&『アルマゲ』」スレッド
http://www3.rocketbbs.com/13/bbs.cgi?id=hiro15&mode=pickup&no=9685
それにしても、何かこの一連のスレッドにおける山本弘って、投稿するたびに自分で勝手に墓穴を掘りまくって自滅への道を突き進んでいるようにしか思えないのは私だけなのでしょうか。ダブルスタンダードを弁解するための投稿で、さらなる致命的な大間違いを表明してしまった挙句、肝心のダブルスタンダードは何ら修正されていないという愚行に陥っているのですから。
今回はその山本弘が陥っている大間違いを、箇条書きでまとめて書いてみることにしましょう。
1.「定型パターン描写」完全否定の愚
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 山本弘の投稿No. 9685より抜粋
<他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから。
「名作へのオマージュ」とか、戦隊ものの名乗りのシーンみたいに「絶対に守らなくてはいけないお約束」というならまだしも、そうじゃないでしょ、あれは?
ついでに言うと、シリアスな作品の緊迫したシーンでオマヌケなギャグ(ギャグを意図したものかどうかはともかく)を入れたら雰囲気がぶち壊しになるってことも理解してないし。>
仮にも「SF作家」を自称し、「と学会会長」の地位に就いている山本弘ともあろうものが、こんな身も蓋もない発想や視点を元にしてしか作品中の設定や演出を評価することができないというのでは困るのですけどね~。映画の雰囲気を盛り上げ、観客受けを狙うために「色々と考えた」末、あえて「他人が考えたシーン」や「使い古されたシーン」をコピーしているのではないか、といった発想など、科学考証原理主義者の山本弘には理解することすらもできないのでしょうが。
それに、山本弘が定義する「他人が考えたシーン」や「使い古されたシーン」なるものが、他の観客にとっては「血湧き肉踊る斬新かつ面白いシーン」として映ることだって決して珍しいことではないのですがね。初めて映画を見る人などは特にそうですし、映画マニアでも、それまで主要に見ていた映画ジャンルの趣旨変え(たとえばラブロマンス系映画 → SFX&アクション映画など)をした人にとっては「初めて見る斬新なシーン」と映ることもあるでしょう。さらには、その映画のカテゴリーに属する作品を何度も観てストーリーパターンを熟知している映画ファンでさえ、そういった「ありきたり」なシーンを素直に割り切って楽しんでいる人がほとんどでしょう。
そもそも、全ての映画がそれまで誰ひとりとして見たことのない演出や描写の連続である必要などどこにもないのですし、そもそもそんな作品は娯楽目的で映画を観に来る観客を無用に疲れさせるだけなのですから、そうそう簡単に大ヒットなどするものではないでしょう。むしろ、山本弘のように「たとえフィクション作品でも『正しい科学考証』や『独創的な演出』はどうあっても実現されなければならないんだ!」という類の「科学教という名のオカルト信仰的な教義」などを絶叫するタイプの人間の方が少数派なのです。そんな「客層」や「客のニーズ」を考慮しながら「安定的な大ヒット」を狙おうとするのであれば、あえて「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーン」を多用することで映画を盛り上げる映画制作手法は、ひとつの選択肢として立派に成立しえるはずではないですか。
そして実際、山本弘が「頭が悪い」と評価している映画は、山本弘に言わせれば「バカな映画制作者」の狙い通りそれで大ヒットしているわけなのですから、「興行収益を上げる」という観点から言えば、あながち間違った映画制作手法でもありません。難解すぎて一部の人間にしか受けない精巧かつ精緻な独創的発想だらけの映画ではなく、一般受けする大衆娯楽作品として映画を製作しようとするのであれば、「正しい科学考証」よりも「演出」や「客受け」を優先し、興行収益の安定的な獲得を狙うのはむしろ当然のことです。
ジャンルを問わず、仮にも作家を名乗っている人物が、素人ですら理解できるこの程度のエンターテイメント作品論も知らないようで本当に大丈夫なのでしょうか?
2.「マニュアル万能主義」の愚
山本弘はあちらの掲示板No. 9750の投稿でマクドナルドのハンバーガーの例を持ち出し、「ハンバーガーの作成手順は全てマニュアル化されている、スタッフはマニュアルに従っているだけ」というたとえ話を元に、「アルマゲドン」を「ハリウッドのアクション大作のマニュアルに忠実に作られている映画」と定義しています。
そして、こんな結論に結び付けているわけですね↓
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 山本弘の投稿No. 9750より抜粋
<マックのハンバーガーを好きなのはべつにかまわない。しかし、「このハンバーガーを作っているスタッフは料理の腕がいいに違いない」と考えるのは間違いです。スタッフはマニュアル通りに作ってるだけなんだから。
誉めるんだとしたら、長い時間をかけて暗中模索しながら、ヒットする映画のパターンを築き上げてきた、過去の先人たちを誉めるべきでしょうね。>
この発言内容だけですでに3つもの致命的な間違いが垣間見られます。ひとつは、「マニュアルに従いさえすれば誰でも簡単かつ自動的に製品が完成させられる」という前提で山本弘が件の発言を行っていることです。
実際には、「マニュアルに従って何かを成功させる」というのはそんな簡単にできるものではありません。山本弘が例に出した「マクドナルドのハンバーガー作成手順マニュアル」にしたところで、それを何も知らない初心者にいきなりやらせたところで失敗するのは火を見るより明らかではないですか。だからこそ、雇用主は初めて自分の店でアルバイトをする初心者や新規雇用者などに対して、ある程度研修を行わせたり、先輩のバイトをサポートに付き添わせて実習させたりして、少しずつ「作成手順マニュアル」に沿った技術を習得させていくように教育していくのです。
そして、そのような「作成手順マニュアル」をマスターして何年も働いている熟練のアルバイトでさえ、場合によっては「作成手順マニュアル」を逸脱してしまい、ハンバーガーの作成に失敗したり、お客に迷惑をかけたり、店に損害を与えたりすることがあるのです。そうなれば、当然そのアルバイトは相応の処分(減給やクビなど)を受けなければなりませんし、場合によっては店やお客に損害賠償を支払わなければならないかもしれません。
これが映画制作であればさらに事態は深刻でしょう。山本弘が挙げた「ハリウッドのアクション大作のマニュアル」なるものに忠実に従った映画が必ずしも大ヒットすると決まっているわけではありませんし、興行収益を上げることに失敗すれば、その責任は全て映画制作者にかかってくるのです。一度映画制作に失敗すれば、その映画制作の責任者達は業界内で冷遇されたり追放されたりするかもしれませんし、場合によってはスポンサーに出資金や賠償を支払わなくてはならない事態が発生することもあるでしょう。そして、山本弘に酷評されている映画制作者もまた、そのような労働環境の下で相応の責任と技術を持って仕事をし、そして成功を収めているのですから、すくなくとも山本弘が提示するような愚劣な論法などで糞味噌に貶められなければならないような存在ではありえないでしょう。
「マニュアルに従って何かを成功させる」ということ自体、ある程度の技術習得や経験などといったものが必要不可欠なのであり、誰でも簡単にできるようなものでも、それで確実に成功が保証されているものでもありません。山本弘の「たとえ話」は、すでにその前提自体が完全に間違っているのです。
3.自らの職業差別意識を曝け出す愚
次に問題なのが、「マニュアルに従って何かを成功させる」仕事に従事している人達に対する山本弘の職業差別意識です。
先に述べたように、山本弘は「マニュアルに従いさえすれば誰でも簡単かつ自動的に製品が完成させられる」という「マニュアル万能主義」に陥っています。だからこそ「マニュアルに従っている」というただそれだけの理由で、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」などの映画制作者を一方的に「バカ」「頭が悪い」呼ばわりしているわけですが、実に皮肉なことに、山本弘が出した「マクドナルドのマニュアル通りにハンバーガーを作るアルバイト」云々の例自体が、この山本弘の愚劣な論法が間違いであることを曝け出してしまっているのです。
これは山本弘の結論である「『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』などの映画制作者は、マニュアルに従っているだけであるが故にバカである」から「マクドナルドのマニュアル通りにハンバーガーを作るアルバイト」云々の事例へと逆に辿ってみればすぐに分かります。そこから出てくる結論とは、何と「マクドナルドのアルバイトは、ハンバーガーをマニュアル通りに作成しているだけであるから頭の悪いバカである」などという、恐るべき職業差別意識に満ち溢れた愚論なのです。言うまでもないでしょうが、こんな愚劣な論法が成立するわけがないことなど自明の理というものでしょう。
前述のように、「マニュアルに従って何かを成功させる」ということ自体、誰にでもできる簡単なことでもなければ、確実に成功が保証された手法でもなく、また失敗すれば相応の責任を取らなければならないわけですから、「マニュアルに従って何かを成功させる」という概念自体は、決して蔑視されなければならないものなどではありません。そしてそれは、マクドナルドのアルバイトでも、山本弘に罵られている映画制作者でも同じことですし、さらに「責任の度合い」という観点で言えば、今更改めて言うまでもなく、映画制作における全ての責任を担わなければならない映画責任者の方がはるかに重いのです。彼らの仕事は、すくなくとも山本弘などに職業差別をされなければならないようなものなどではないでしょうに。
自らが犯したダブルスタンダードを正当化しようとするあまり、さらに周囲から忌避されかねない自らの職業差別意識まで披露してしまうとは、山本弘の3流喜劇役者としての才覚にはなかなか目を見張らせるものがありますね。もちろん「天然」でしょうけど。
4.「料理」の理論で「冷凍食品」を評価する愚
では上記で挙げた2つの欠陥をあえて無視して、山本弘の事例を「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」に当てはめてみるとどうなるか? 実はこの条件でさえ、山本弘の論が間違いであることは一目瞭然なのです。
山本弘は、先の「たとえ話」をベースに「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」を「冷凍食品」とか「単なる工業製品」といった扱いで評価するべきであるとしています。そしてそこから「『このハンバーガーを作っているスタッフは料理の腕がいいに違いない』と考えるのは間違いです」という結論に結び付けているわけですね。
しかし、仮に山本弘の論理が正しいとすると、そもそも「料理」の理論でもって「冷凍食品」「単なる工業製品」扱いとなっている「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」を評価すること自体がそもそもおかしな話でしょう。「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」が「冷凍食品」「単なる工業製品」であり、映画制作者達が「マニュアルに忠実に」それらの映画を製作したというのであれば、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」のような映画ができるのは「全てマニュアルが元凶」ということになってしまい、山本弘が「料理」の理論に基づいて映画制作者達の「頭の良し悪し」を論じることはおろか、作品の出来不出来を論じることすら不可能になってしまうではありませんか。
極めて皮肉なことに、上記の主張は他ならぬ山本弘自身が自ら明言していることなのです↓
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 山本弘の投稿No. 9750より抜粋
<マックのハンバーガーを好きなのはべつにかまわない。しかし、「このハンバーガーを作っているスタッフは料理の腕がいいに違いない」と考えるのは間違いです。スタッフはマニュアル通りに作ってるだけなんだから。
誉めるんだとしたら、長い時間をかけて暗中模索しながら、ヒットする映画のパターンを築き上げてきた、過去の先人たちを誉めるべきでしょうね。>
何か前にも全く同じ文章を書いたような気がするのですけど、山本弘は自分で書いていて気づかなかったのですかね? 「スタッフはマニュアル通りに作ってるだけ」だから「『このハンバーガーを作っているスタッフは料理の腕がいいに違いない』と考えるのは間違いです」と言えるのであれば、同じ理由で「『このハンバーガーを作っているスタッフは頭の悪いバカである』と考えるのは間違いです」と主張することもできるということに。
この論法に従うのであれば、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」が山本弘曰く「バカな映画」である原因は、その全てが「長い時間をかけて暗中模索しながら、ヒットする映画のパターンを築き上げてきた、過去の先人たち」に求められるべきものなのであり、映画制作者達はただ「マニュアル」に従っているだけなのですから何の責任もなく、また山本弘の主張では「マニュアルを踏み外した」というケースも全く成立しえないのですから、「映画制作者の頭の良し悪し」を論じるなど、そもそも最初から論外ということになってしまいます。
この前提で本当に論じられるものがあるとすれば、それはせいぜい「『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』のような映画を出現させてしまう【マニュアル内容】の是非」くらいしか存在しないのです。にもかかわらず、「料理」の理論で「冷凍食品」を一方的に評した挙句、「冷凍食品」を製造しているスタッフやそれを食している一般人を「バカ」呼ばわりしている山本弘は、自分で定義した事を自分から踏み倒しているわけで、本当に頭がどうかしているのではないでしょうか。
それとも、あくまで前項で論じたように、マクドナルドのアルバイトも「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」の映画制作者達も「マニュアルに従っているだけであるが故に頭の悪いバカである」ということで一括りにでもしますかね? その場合は間違いなく「職業差別論者」として認定されることになってしまいますが。
せっかく色々探して「たとえ話」を持ち出してきたというのに、「たとえ話」自体が致命的に間違っている上、反論者に「たとえ話」を逆に利用されてしまうというのでは世話はないですね。山本弘は投稿の際に、自分の文章をもう少し推敲してみる必要性があるのではないかと思うのですけど。
5.「【個人的価値観】に基づくダブルスタンダード」を開き直る愚
ところで「文章の推敲」といえば、同一投稿における下2つの文章もまた、自分で書いていながら自分の文章の問題点に全く気づいていない好例ですね↓
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 山本弘の投稿No. 9795より抜粋
<「ジェリー・ブラッカイマー製作のブツを監督の『作品』として論じること自体に無理がある」
「単なる工業製品」
というのは、『映画欠席裁判』(洋泉社)の中に出てくる、ウェイン町山氏とガース柳下氏の言葉です。
この本はぜひ、大勢の人に読んでいただきたい。いろんな映画(世間で大ヒットしたものも含めて)がけなされまくっていますが、決して暴論になっていません。何しろ二人とも映画マニアで、ものすごい量の知識を元に論じてるから。笑いながら映画の知識が身につきます。おすすめ。
僕の好きな映画も何本かけなされてるけど、正論だけに何も言い返せません。「死んだ親父に会いたいなら、恐山のイタコんとこ行け」って、確かにその通りだし(笑)。>
同上
<僕が『銀英伝』を評価する理由の一つは、それまで誰も書いたことのないタイプの小説だからです。作者のオリジナリティがあふれている。そのうえキャラクターの造形に深みがあり、ストーリーの展開にしても、熟考されて書かれていることが分かる。もちろん科学的な間違いをはじめ、欠点はいろいろあるけど、それは全体から見れば些細な傷です。
ハンバーガーが好きなのはかまわない。だけど、シェフが精魂こめて造った料理と比較して、「ハンバーガーと同じようなものじゃん」と主張するのは、明らかに暴論です。
同じシェフの一人として、こういう言い方には怒りを覚えてしまうわけですよ。>
これだけ書いておきながら全く気づかないというのもある意味才能なのではないかとすら思うのですが、ここに書かれている文章は全て、何ら客観的な根拠を伴っていない「山本弘個人の主観的価値観」の表明でしかないではありませんか。たかがこんなシロモノで映画制作者やファンを一切合財「バカ」「頭が悪い」呼ばわりされたのではたまったものではないのですよ。
たとえば「僕の好きな映画も何本かけなされてるけど、正論だけに何も言い返せません」というのは、単に「山本弘個人がそう思った」というだけでしかありませんし、銀英伝の科学考証批判に対して「同じシェフの一人として、こういう言い方には怒りを覚えてしまうわけですよ」などとのたまうのも「山本弘個人としてはそう思う」だけのことでしかないのです。山本弘以外の人間の中には「映画欠席裁判」という著書の評論内容に対して「正論であろうが何だろうが【個人の主観的価値観に基づいて】怒りを覚えて言い返してしまう」人もいるでしょうし、銀英伝の科学考証批判に対して「全くその通り!」と【個人の主観的価値観に基づいて】同意する人もいるでしょう。そして、この手の主観的価値観の相違を超克し、自分の主観的価値観でもって他人を説得なり同意なりさせようとするのであれば、それなりに客観的根拠を伴った理論が絶対的に必要となるのです。
ところが山本弘はそういった手続きを何ら取ることなく、ただひたすら「山本弘個人の主観的価値観」のみで映画制作者やファンを罵倒したり、自分の好きな作品を擁護したりしようとするのです。「科学考証」や「定型パターン描写完全否定」などの話はその典型例でしょう。
山本弘は「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」では「何が何でも科学考証は正しくなければならない」「定型パターンが何の考えもなく使用されている」と言い、「銀英伝」では逆に「それまで誰も書いたことのないタイプの小説だから許される」と主張していますが、実はこれ自体が単なる「山本弘個人の主観的価値観」に過ぎず、それを「客観的に」立証する具体的なルールなり概念なり法則なりを、何ら自分で提示しているわけではありません。にもかかわらず山本弘は、自らの主張のベースとなる「山本弘個人の主観的価値観」を具体的な客観的根拠の提示で補強することなく、強引に「科学考証」や「定型パターン描写完全否定」などを持ち出して「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」を糞味噌に評価した挙句、あくまでも「山本弘個人の主観的価値観」に基づいて映画制作者達やファンを罵倒しながら、一方、銀英伝に対しては一転して「それまで誰も書いたことのないタイプの小説だから許される」という、これまた「山本弘個人の主観的価値観」に基づいて勝手に矛を収め、問題のある描写を全て無条件に免罪してしまうのです。
しかし、いかに山本弘が提示する「科学考証」や「定型パターン描写完全否定」が実際に正しい理論であったとしても、自らの主張の土台である「何が何でも科学考証は正しくなければならない」「定型パターンが何の考えもなく使用されている」「それまで誰も書いたことのないタイプの小説だから許される」などの主張自体が、あくまでも「山本弘個人の主観的価値観」の発露であるに過ぎず、何ら客観的な根拠を伴ってなどいないのですから、当然それとは異なる価値観を持つ人達を説得も同意もさせることはできませんし、傍目には「ダブルスタンダード」にしか映らないわけです。
世の中には人間の数だけ「主観的価値観」というものが存在するわけなのですから、他人に自説を認めさせようとするのであれば、「山本弘個人の主観的価値観」を肉付けする「客観的根拠」が必要であることなど自明の理であるはずではありませんか。「個人の主観的価値観」でもっともらしく作品を論評するだけならば今時小学生でもできます。ましてや「と学会会長」である山本弘ともあろうものが、泣き喚く子供のワガママのような主張を行ってどうするのでしょうか。
結局のところ、山本弘があくまでも「山本弘個人の主観的価値観」だけに依存して他人や作品を評価する限り、やはり「ダブルスタンダード」のそしりは免れないでしょう。そして、上記引用の発言などに至っては、「俺はダブルスタンダードで他人を罵倒したり擁護したりするんだ、文句あるか!」という「開き直り」以外の何物でもないのです。
山本弘は、自分個人の著しくマニアックな主観的価値観に基づいた視点のみが唯一絶対の作品鑑賞&評価の基準であるとでも勘違いしているのではないでしょうかね。こういう人物こそが本当の意味での「頭の悪いトンデモなバカ」ではないのかとさえ思えてくるのですが。
>「マニュアルに従って何かを成功させる」ということ自体、ある程度の技術習得や経験などといったものが必要不可欠なのであり、誰でも簡単にできるようなものでも、それで確実に成功が保障されているものでもありません。山本弘の「たとえ話」は、すでにその前提自体が完全に間違っているのです。
山本の主張のキモは「マニュアルをなぞるだけの作品作りが創作の名に値するか、まして高度な作品として評価できるか」にあるのであって、上の文章は単にレトリックに噛みついているに過ぎない。増してこれに続く「職業的差別観」うんぬんは完全に「例え話」をネタにした脱線である。創造的でない行為をそう指摘する事が、創造的とは呼べない職業に従事する人たちを差別する事になるのですか?
このような言いがかりこそ、頭の悪い原理主義者に特徴的なものと言わざるを得ませんね。この程度の論客が誇られるような場所ですか、ここは。
お気の毒に。
<山本の主張のキモは「マニュアルをなぞるだけの作品作りが創作の名に値するか、まして高度な作品として評価できるか」にあるのであって、上の文章は単にレトリックに噛みついているに過ぎない。増してこれに続く「職業的差別観」うんぬんは完全に「例え話」をネタにした脱線である。創造的でない行為をそう指摘する事が、創造的とは呼べない職業に従事する人たちを差別する事になるのですか?>
意図的にかどうかは知りませんが、山本弘が声を大にして主張している肝心要の要素を勝手に取り落としてもらっては困りますね。一連の投稿で山本弘は、単に「創造的でない行為をそう指摘する」だけでなく、それを論拠に「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」の映画制作者達を「頭の悪いバカである」とまで断じているのであり、しかもそれこそが一連の議論における山本弘の主張の骨子なのですがね。
そして、その自説の論拠を分かりやすく解説するために、山本弘は「マクドナルドのアルバイトが従っているハンバーガーの作成手順マニュアル」の事例を「たとえ話」として持ち出してきたのですし、その「たとえ話」から「『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』の映画制作者は頭の悪いバカである」という結論へと結びつけているわけですから、山本弘の「たとえ話」が仮に正しいというのであれば、私が論じたような「マニュアル万能主義」や「職業差別意識」などもまた同時に出てこなければ話がおかしくなるのですよ。件の「たとえ話」は、当然のことながら「マクドナルドのアルバイト=『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』の映画制作者」という図式を前提にした上で、両者を「マニュアルをなぞるだけ=簡単なこと&頭が悪いバカである」として一括りに結びつけなければ、そもそも「たとえ話」として全く成立しなくなるのですから。この「山本弘自身が提示する前提とそれに基づいた図式」をベースにして反論することのどこが「単にレトリックに噛みついているに過ぎない」となるのですか?
仮に万が一、私が主張するような問題点が何ら成立しないということになれば、それは同時に、山本弘が持ち出した「たとえ話」もまた全く成立しえなくなることにも繋がるのです。私の問題指摘が正しいか、山本弘の主張の論拠となる「たとえ話」自体が成立しないか、どちらにしても「山本弘が主張する『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』批判の論法自体が間違っている」という最終結論が変わることは全くないでしょうね。
それと、私が提示した5つの論点中、異論があるのは2つだけで、残り3つの論点は全てノープロブレムということでよろしいのですか?
念のため先に言っておきますけど、あなたがもし山本弘を本気で擁護するつもりなのであれば「反論する価値もない」という類の返答はなしですよ。私が提示する5つの論点全てを論破しなければ、私の山本弘批判論を完全に葬り去ることはできないのですから。
どうやら山本弘は、自身が発した「アルマゲドン問題」および「田中作品とのダブルスタンダード問題」に関して最終的な「議論打ち切り宣言」を行ったようですね↓
No.10063 - 2003/04/30(Wed) 17:36
Re: アルマゲドンは本当にダメダメなのか / 山本弘
前のスレッドが長くなりすぎたので、ちょうどいい機会ですから、こちらに続けさせていただきます。
とは言うものの、僕はもう、この議論にうんざりしています。
反論もいろいろ考えたけど、何を書いても前に書いたことの繰り返しになってしまうのでやめました。これ以上、同じことを書きたくない。
僕があきれたのは、
●「ハンバーガー」の比喩を自分に都合よく曲解する人
●素人の判断は専門家より優れていると思っている人(なんか「相対論は間違っている」と主張するトンデモさんみたい……)
●『アルマゲドン』がダメな理由を何度も説明しているのに、「まだ説明してもらってない」などと主張する人
●僕が言ってもいないことに対して怒る人(「マクドナルドの従業員は頭が悪い」なんて言ってないのに)
●長文をアップするのは迷惑だという、ごく当たり前のことを理解できない人
こんなにもこの掲示板の発言者の質が低いとは思わなかった、というのが正直な感想です。
これ以上、繰り返しても何にもならないと思うので、これで最後にします。最後にもう一度だけ、僕の言いたいことを言うので、よーく聞いてね。
うちの嫁さんみたいに『水戸黄門』や『遠山の金さん』で泣く奴だっている。だから『アルマゲドン』で感動して泣いたってかまわない。ハンバーガーが好きでもけっこう。
あれがバカ映画だと分かったうえで、「それでも俺はこれが好きなんだ」と言うなら、僕は何も言いません。
ただ、「この映画の監督や脚本家は頭がいい」と言うのだけはやめていただきたい。それはとてつもなく恥ずかしいことだから。いくら世間でヒットしようが、映画に詳しいマニアや、創作を生業としているプロには、あの映画は根本的にダメだってことが一目で分かるんだから。
山本弘のSF秘密基地・メイン掲示板 「アルマゲドンは本当にダメダメなのか」スレッド
http://www3.rocketbbs.com/13/bbs.cgi?id=hiro15&mode=pickup&no=9955
正直、あまりにも感情的過ぎる一方的な「打ち切り宣言」ですし、その内容自体、今までのプロパガンダ的独演説の単調な繰り返しでしかないので、私としても真面目に反論を返すだけの価値が全く見出せないんですよね。こんな愚劣な感情論など、まともに相手するだけ時間と労力の無駄でしかありませんし。
そんなわけで、今回は以下のパロディをもって、私の主張の代弁とさせて頂きたいと思います↓
No.00000 - ◎/○/▽ (■) ●:▼
Re: 山本弘は本当にダメダメなのか / □×△
前のスレッドが長くなりすぎたので、ちょうどいい機会ですから、こちらに続けさせていただきます。
とは言うものの、私はもう、この議論にうんざりしています。
反論もいろいろ考えたけど、何を書いても前に書いたことの繰り返しになってしまうのでやめました。これ以上、同じことを書きたくない。
私があきれたのは、
●自分が提示した「ハンバーガー」の比喩が持つ意味を自分で全く理解していない人
●自分の映画評価は一般観客や映画制作者より優れていると思っている人(なんか「我は偉大なり、我を信じよ」と意味もなく絶叫するトンデモさんみたい……)
●「『インディペンデンス・ディ』『アルマゲドン』の映画制作者は頭の悪いバカだ」という主張の根拠が「自分個人の主観的価値観」だけしかないのに、それのみで万人を納得させられると思い込んでいる人
●誰ひとりとして言ってもいないことに対して怒る人(「科学考証の観点から言っても、これらの映画の監督や脚本家は頭がいい」なんて誰も言ってないのに)
●長文をアップするのは「議論相手やROMに対して、自分の主張や意図を詳細かつ分かりやすく伝えることによって、誤解されたり曲解されたりしないようにするためのマナー」だという、ごく当たり前のことを理解できない人
こんなにも山本弘の発言者・言論者としての質が低いとは思わなかった、というのが正直な感想です。
これ以上、繰り返しても何にもならないと思うので、これで最後にします。最後にもう一度だけ、私の言いたいことを言うので、よーく聞いてね。
山本弘みたいに『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を嘲笑う奴だっている。だから「科学考証の観点から見たら、『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』は非常におかしな描写が存在するから出来が悪くて面白くない」と評価したってかまわない。ハンバーガーが嫌いでもけっこう。
あれらが一般受けする映画だと分かったうえで、「それでも俺はこれらの映画が嫌いなんだ」と言うだけなら、私は何も言いません。
ただ、映画や作品のテーマや基本的なコンセプトすら全く理解しようともせず、また具体的な客観的根拠を何ら提示することもなしに、「自分個人の主観的価値観」ベースのみの作品評価に基づいて「この映画の監督や脚本家は頭が悪い」と断罪したかと思えば、一方で同じくらい科学考証に大穴が存在する田中作品を、これまた具体的な客観的根拠を何ら提示することもなしに、「自分個人の主観的価値観」ベースのみの作品評価に基づいて「フィクションだから」とか「SF考証に配慮して書かれているから」とか「ストーリー上の必然性だから」とかいった理由で免罪したりするのだけはやめていただきたい。それはとてつもなく恥ずかしいことだから。いくら山本弘が怒り狂おうが、山本弘の個人的価値観を共有しない映画ファンや、創作を生業としているプロには、あれらの映画が一般受けすることや、山本弘の評価手法が支離滅裂かつダブルスタンダードだらけの愚劣で醜悪で滑稽なシロモノであることが一目で分かるんだから。
山本の思想に帰依することで選民意識を満足させていた連中が、自らのすがるものこそがトンデモであると決め付けられたショックに加え、山本側の主張が論として太刀打ちできない現実にヤバさを感じ、
「この件は無かったことにして、これからも山本がトンデモと断じた物件を肴に選ばれし我々が楽しむのを邪魔しないで欲しい…」
と思うあまり議論の打ち切りを叫び、山本もそれに便乗して逃げを打った…といったところでしょうか。
御大は、論としてまるでかなわないので、負け惜しみ気味に
「有名人にかまってもらいたいだけの粘着気質の小物なぞ相手にしてられるか」
くらいに考えているのでは。プラス「創竜伝が」トンデモに該当しないことを証明するためには、数々のツッコミにいちいちまっとうな理由付けをせねばなりません。それがかなり困難を極めることは、山本も理解しているでしょうし。もちろん、田中との良好な関係を維持し続ける以上、トンデモ認定することも出来ないし。事実上身動きが取れない。無様ですね。
ところで、今回の件とは別に。常日頃
「(田中に限らず)大物相手の批判は作家生命にかかわるので出来ない」
などと、みっともない姿勢を若い読者の前にさらすことが、どれだけ悪い影響を与えるのかを考えたことがあるんですかね。かつて自身が特定作家をなじったように。