実は私も銀英伝は大好きで、「どこそこで誰が言った台詞」まで覚えるぐらい読み込んでいた時期がありました。
で、私はなんと言ってもヤン・ウェンリーを一番高く評価していました。
その理由は「田中氏一流の現代日本人の国家観に対する皮肉」だと思っていたからです。
ヤンは二巻で救国軍事委員会側の第11艦隊と戦う前に
「かかっているのは国家の存亡だ、個人の自由・人権に比べれば大したことはない」
これを読んだときは「何て戦後日本人的な発想だ」と思いました。
このヤンの発言は明らかに間違いです。救国軍事委員会そのものとの戦いはあくまでも内戦であり、かかっていたのは「同盟の自由・民主主義」だったはずです。
それは3巻以降のヤン自身の発言からも明白であり、もしこのような言い方をするなら
「かかっているのは個人の自由・人権だ、国家の存亡に比べれば大したことはない」
と言わねばならないはずです(勿論、そう書くべきだったと言うのではなく、正しい言い方をすればこうなるという意味ですが)。
ここでのヤンの発想には前提の間違いはおくとしても、「同盟が滅びれば、個人の人権や自由はどうなるのだ」という視点がすっぱり抜けています(3巻の査問会でこの発言を追求する側の間抜けぶりも酷かったです。「同盟以外に、誰が人権を守るのだ」と何で聞かないのか不思議でしょうがなかったです)。
そしてそれまで空洞化しつつあった同盟の民主主義が急速に破綻し始めるのも、3巻以降の話であり即ち同盟の国力が低下し、国の屋台骨がぐらつき始めてからです。つまり作中でも明確に「国が動揺すれば、民主主義は危機に陥る」ことが描かれているのです。
にもかかわらずヤンは相変わらず、国家の行く末と自由・民主主義は無縁であるかのような発言ばかり繰り返しているのはご存じでしょう。確かに両者はイコールではないですが、密接な関わりがあるのは間違いないのに、その部分を頭から排除しているヤンの思考回路は随分不可解です。
私はここに「国に依存していながら、国の存在を意図的にか、無意識にか無視する」戦後日本人の悪いところをズバリついていると思ったモノです。
その後、それが田中氏の本音だと知ったときは、もうあっけにとられました。そんなわけで最近の氏の著作は全く読んでません。
ついに掲示板に出ましたねえ、ヤン閣下のあの科白。
「かかっているものは、たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利に比べればたいした価値のあるものじゃない・・・」
この迷言を聞くたびに、ヤン閣下は軍人の道を進まれて本当に良かったと胸をなで下ろす。彼に歴史学者となられたら、ごく2流の存在でしかない。ゼミの学生が気の毒じゃないか(笑)。
この思想は6巻p79に於いて、ヤンが考えていたという敗戦後の自由惑星同盟再建構想により鮮明に表れていると思うのでそちらも引用しよう。
「この計画の目的は、民主共和生態の再建にある。(中略・必ずしも独立は必要ない云々)、国家は市民の福祉と民主共和制の理念を実現する手段の具象化であって、それ自体の存立は何ら目的たりえないことを銘記せよ」
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>「同盟が滅びれば、個人の人権や自由はどうなるのだ」
>という視点がすっぱり抜けています
という言葉にまず尽きると思うのですが、そもそもヤン閣下は、その生涯全10巻中8巻(笑)、を通じてエル・ファシル政府やイゼルローン共和「国!」を戦いの中で守ろうとしたではないか。
この時点で閣下の行動は、思想を裏切っている。まあこの素晴らしい「言行不一致」のお陰で自由惑星同盟の伝統は生き長らえたのだから文句をつける筋合いでもない。
しかし思想家ヤン氏に自省して貰いたいのは、貴方がエル・ファシル政府やイゼルローン共和国を「市民の福祉と民主共和制の理念」のために必要としたなら、それは必然的に「存立」が必須条件ではなかったか?ということだ。
屋根がぶち壊れたとき「屋根は、人が雨露をしのいで安眠する目的で存在するもので、屋根の存続それ自体が目的ではない」という奴は阿呆であろう。その「安眠」のためには否応なく屋根を直さなきゃいけないのだ。
つまり。ヤン閣下が、オゴソカな国歌やトリューニヒト氏が演説の中に登場させる美辞麗句としての国家を嫌うのは、まあ趣味の問題。
しかし「民主政体、個人の人権・自由」を守るための、貴方の「政体」防衛戦争も結果として「国家」防衛だった。
いかなる自由共和政府でも、彼らが『統治』している以上、腐敗や清廉に係わりなく必然的に、一般の名もなき人々に犠牲を強いて存在し、その上にのみ成り立っていた、という事実から目をそらすなと言いたいのだ。
この点に関してヤン閣下を見ているとなんか、酒を「これは『般若湯』だから」と言い訳して飲んでいる坊さんの様なセコさを感じるのだ。
>「たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利に比べれば
>たいした価値のあるものじゃない・・・」
これが支離滅裂な偽善であることは、艦隊のジョン君(仮)に聞いてみれば話が早い。彼が徴兵の結果か、愛国心に燃えて志願したのかは知らないが、ジョン君(仮)にとっては、「個人の自由と権利」に従えば宇宙空間で反乱軍とドンパチやるのより故郷に帰って恋人キャサリン(仮)と森の中で語らうほうがいいに決まっている。
小林よしのり的「公と私」というのでは必ずしもない。ジョン君がヤン閣下の下で叛乱軍と闘うのは、国家の「抑圧」の結果であり、またその抑圧によって2巻の時点では同盟の民主政体が守られた、というしんどい逆説を言っているのだ。
そしてヤン演説的発想の一番イヤなところは、「個人の自由と権利」を一番重んじているというタテマエを母体とすると、戦闘員一人一人がすべて喜んで、自発的に闘っている、というフィクションが生まれるということだ。このおぞましいカラクリは中国の「大躍進」政策や北朝鮮の「千里馬運動」と兄弟でもあるのだ。
ヤンというか田中氏はこの矛盾を軽減するため、イゼルローン共和国政府や提督の「不正規隊」は自ら希望した志願者がほとんどであるような設定をしている。
しかし、志願兵であろうがなかろうが軍が直接的な「戦闘」の場面において(消防士や警官と同じように)「個人の自由や権利」を無視・軽視して成り立っていることは、断じて間違いがない。
そこを考えずにこんな演説をしてしまうヤン閣下に、歴史学者になられても困るなあ、と思うのである。彼の2流の国家論が3巻のディベートで勝利を収めるのは、査問委員会の出席者が5流くらいの人物設定だっただけにすぎない(これが創竜伝のルーツか!)。
・・・・さて、ワタシ的には「田中思想批判」はこれで大体、核の部分を書ききれたと思う。後はこれらを展開するか、小ネタになる予定。
いわゆる民主主義と絶対王政への二極分化。
この設定は、「個人の自由と権利(要は人権)」というフィクション(そう、フィクションなのだ!)が何によって保証されているのか? という原理を考えるのに絶好の舞台である。しかし、このような舞台を作り上げたことと、そこまで行きながら、そうはならなかったところに、作家田中芳樹の才能のすばらしさとその限界を私は感じる。
「同盟以外に、誰が人権を守るのだ」という北村さんの問いかけはそのものズバリを突いている。この現代社会の地球上に於いても、フィクションが通じないところがいくらでもある。田中氏も、例えば、アンゴラでもタンザニアでもどこでもいいが無政府状態の内戦地帯に行ってみるといいかもしれない。たぶん殺されかけるだろうから「私の命を奪うことは人権侵害だ」と言ってみるといい(創竜伝の5巻で、レイプされそうになった鳥羽茉理に、「…あんたたちみたいな連中がいるから、まじめに人権擁護運動をやっている人たちが迷惑するんだからね。他人に迷惑をかけて、責任をとらずにすませようなんて、考えが甘いわよ。そこをおどき、恥知らず」と言わせているので、私は田中氏がこう言うと信じるし、是非言って欲しい)。もちろん、それがなんの役にも立たないことは、明らかである。まだ念仏でも唱えた方がマシだ。そして、もし、それで命が助かったのなら、それは人権侵害をすると、人権の守護者である国連軍さまや日本政府さまの印象が悪くなるという単純な(政治的・経済的etc)力学からであって、別に人権が天賦された普遍なものであるというフィクションを信じたからではない。
人権でもなんでもいいが、「天賦された普遍なものがある」と無批判に信じていると言う点に於いては、田中氏もヤンも宗教家と実はたいして変わらないのだ。
前にほつまさんが憲法解釈で言葉遊びをされていたが、いまさらながら、その尻馬に乗ってみたい。
日本国憲法の第22条の2項には、こうある。
「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を有さない」
つまりは、国籍離脱の自由である。田中氏は大嫌いであろう日本の国家の庇護を棄てて外国人になることもできるし、それどころか、国籍を有しない、単純純粋な「個人」となることも出来うる。
>「かかっているのは国家の存亡だ、個人の自由・人権に比べれば大したことはない」
そう! 実は、これは実際に実行できうるのだ。
是非とも、田中氏には、権力者が必然的に発生する(共産主義の崩壊でそれは明らかになった!)国家などに頼らず、「個人の自由・人権」だけを頼りに無国籍状態で生き抜いて欲しい(というと、「批判と否定の区別が付かないヤツ」とか言われるのかな? しかし、日本国籍を棄てずに維持している以上は、その理由を明らかにして欲しいものだ。考えるに、氏が日本国籍を棄てない理由は、日本は徴兵制もなく戦争をしない国だし、日本語が通用しないと日本語作家の氏の場合は手に職がないし(たぶん、だけど)、氏の小説がこれだけ売れるのは日本の消費社会が問題を孕みつつも情報とモノに関してはユートピアだからだろう。つまりは、親のスネを囓りながら何かと親に反抗するガキんちょと同じで、日本の国家に甘えているだけなのだ)。
おそらく、いかなる国家の庇護を受けない無国籍状態に耐えられるのは、ずば抜けた戦闘力と行動力と情報力を併せ持つゴルゴ13でもない限り無理だろう。それでも、いつのたれ死ぬか判らない、不安定なものだ。
しかし、仮に無国籍状態の田中氏が新宿あたりでのたれたら、寛大な日本政府は国民の税金を使って日本国民ではない田中氏を助けるだろう。素晴らしきかな人権福祉国家ニッポン!ではないのかな? ここまで、民主的な国は西欧の一部と北米くらいしかないと思うけどなぁ……
それと、これは皮肉とかではなしに、単純素朴な疑問なのだけど、田中氏はあんなに中国大好きなのに、どうして移住しないのだろう?
>ヤン閣下は軍人の道を進まれて本当に良かったと胸をなで下ろす。彼に歴史学者となられたら、ごく2流の存在でしかない。ゼミの学生が気の毒じゃないか(笑)。
もっとも根元的、かつ、それゆえにナサケナイ「反銀英伝」ですよね。これって。
アンネローゼの鼻があと1センチ低かったら、銀河の歴史は変わっていたか?
北村さんが言われている、「国家の存亡と民主主義」の問題は、私もおかしいと思いました。ヤンは民主主義を信奉しているくせに、同盟など滅びても構わないという考えの持ち主です。同盟が何もせず滅びてしまったら、残るのは帝国のみ。同時に民主主義も死んでしまうことになぜ気付かないのでしょうか。偽善というより単に想像力に欠けている気がします。
ヤンの国家が目的ではなくて手段だ<少し違っているかも>
という。論理はナチスの「我が闘争」にも書かれていることで、
そのことからしても、民主主義的な論理ではないことになるのでは
ないでしょうか?
新Q太郎さん、こんにちは
>「個人の自由と権利に比べれば・・・」「それなら、私帰っていいですか?」
>これが支離滅裂な偽善であることは、艦隊のジョン君(仮)に聞いてみれば話が早い。彼が徴兵の結果か、愛国心に燃えて志願したのかは知らないが、ジョン君(仮)にとっては、「個人の自由と権利」に従えば宇宙空間で反乱軍とドンパチやるのより故郷に帰って恋人キャサリン(仮)と森の中で語らうほうがいいに決まっている。
どわはははは。相変わらず冴えてますねー。バカウケ。
>そしてヤン演説的発想の一番イヤなところは、「個人の自由と権利」を一番重んじているというタテマエを母体とすると、戦闘員一人一人がすべて喜んで、自発的に闘っている、というフィクションが生まれるということだ。このおぞましいカラクリは中国の「大躍進」政策や北朝鮮の「千里馬運動」と兄弟でもあるのだ。
なるほど(ちょっとマジ)。
ヤン艦隊の面々に感じた違和感と胡散臭さの正体はこれだったのかな。