反銀英伝・思想批判編
3-A

民主主義と専制政治(1)

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コンテンツの総収録投稿数67件の内、1~7件目の投稿を掲載

収録投稿1件目
board1 - No.439

言葉遊び またまた

投稿者:本ページ管理人
1998年12月19日(土) 15時24分

(続は)ものを考えないような人間は、権力者にどんな目にあわされてもしかたないし、ものを考えない人間を大量生産するような国は滅びてもしかたがない、と思っているのである。(創竜伝3巻P145)

「日本は民主国家なんだ。国民が自分で政権を選ぶことができる。あんな老人を暗闇から追い出して、腐敗していない清潔な政府を民意によって作ることができるのに、そうしないのは国民の責任じゃないか」(夜への旅立ちP69)

 さて、初期作品から創竜伝まで一貫している「民主国家では国民一人一人が責任をとれ」論ですが、ところで日本国憲法15条第4項には以下のような項目があります。

『すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に際し、公的にも私的にも責任を問はれない』

 よく読んでください。いいですか。
 「選挙人は、その選択に際し、公的にも私的にも責任を問はれない」…「公的にも私的にも責任を問はれない」ですよ。おお、なんて言うことだ! 民主主義者を自他共に認めていて、護憲論者で改憲論者を「憲法改悪をもくろむ」なんて言い方で貶めている田中センセが、よりによって憲法を否定した主張をするなんてっ!! 

収録投稿2件目
board1 - No.440

田中氏は「撃壌の歌」を歌っているのか?

投稿者:北村 賢志
1998年12月19日(土) 22時26分

>さて、初期作品から創竜伝まで一貫している
>「民主国家では国民一人一人が責任をとれ」論

 確かに銀英伝でも6~7巻にて、ヤンが「同盟崩壊時の大混乱・無秩序状態」の危険性を考えていないとしか思えない描写が有りましたね。
 帝国の首脳部がその事態を心配しており、何よりヤン自身が、その前の5巻でラインハルトを殺したときの「帝国の大混乱」については悩んでいるのに、このとき「同盟崩壊による大混乱」を考えないのはかなり無理がありました。
 どうやらそれを説明するのが「国は滅びても、人民は残る」とのヤンの言葉らしいですが、そこには前に取り上げた2巻のセリフと同様「その場合の自由、人権、民主主義はどうなるのだ」との視点がやっぱり抜けています(無秩序状態となるとさらに財産、生命が掛かることになりますが)。
 普通だったら「ヤンにはもうどうすることもできない。同盟は自身を殺そうとした相手でもあるので義理も無いのから、それは諦めた」とする描写が入っても良さそうなモノですが、ファミリー全員がそこを抜かしている(としか思えない)のは非常に不自然でした。
 どうも田中氏は「国が滅びても国民には関係ない」との感覚を持っているようです。
 中国の諺「鼓腹撃壌」にて「君主のことなど自分には関係ない」と農民が歌っている(これを「撃壌の歌」と言います)のを聞いて、尭帝が「自分の統治がうまくいっていることを知り安心した」という話がありますが、まさに田中氏の感覚はこの農民と同じモノではないでしょうか。

収録投稿3件目
board1 - No.441

ちょっと不適切では?

投稿者:ドロ改
1998年12月19日(土) 23時34分

>中国の諺「鼓腹撃壌」にて「君主のことなど自分には関係ない」と農民が歌っている(これを「撃壌の歌」と言います)のを聞いて、尭帝が「自分の統治がうまくいっていることを知り安心した」という話がありますが、まさに田中氏の感覚はこの農民と同じモノではないでしょうか。

これは、「君主が何もしなくても国家が治まる」
状態を理想とする中国の思想が表れた逸話
ですから、「守ってもらってることも知らずに呑気な奴だ」
と言う文脈で用いるのは不適切だと思います。
ただ,上の思想を辿っていくと田中芳樹の
思想の源流にたどり着く気はします。
徹底した「何もしない」小さな政府と,
弱者の受け皿となる在地社会。
この、近代以前の中国の社会構造に、
民主主義を組み合わせたものが、
田中芳樹の描く理想像のバックボーンではないでしょうか?

収録投稿4件目
board1 - No.442

独自解釈だったかもしれません。

投稿者:北村 賢志
1998年12月20日(日) 00時28分

>これは、「君主が何もしなくても国家が治まる」
>状態を理想とする中国の思想が表れた逸話
>ですから、「守ってもらってることも知らずに呑気な奴だ」
>と言う文脈で用いるのは不適切だと思います。

 いま手元には無いのですが、私が読んだ本では、伝説とともに結論として
「統治がうまくいっていれば、人々はそのありがたみを忘れてしまう」
という意味で紹介されていました。
 確かに儒教道徳から考えれば、ドロ改さんの言われる方が正しいと思います。
 ひょっとするとその本独自の解釈だったのかもしれません。

収録投稿5件目
board1 - No.443

鼓腹撃壌は無政府共産ではない

投稿者:本ページ管理人
1998年12月20日(日) 03時23分

 撃壌歌ですか。
 たしかに、鼓腹撃壌の故事からすると、北村さんの本の解釈はちょっと特殊かも知れません。

>>さて、初期作品から創竜伝まで一貫している
>>「民主国家では国民一人一人が責任をとれ」論
>
> 確かに銀英伝でも6~7巻にて、ヤンが「同盟崩壊時の大混乱・無秩序状態」の危険性を考えていないとしか思えない描写が有りましたね。
>ただ,上の思想を辿っていくと田中芳樹の
>思想の源流にたどり着く気はします。
>徹底した「何もしない」小さな政府と,
>弱者の受け皿となる在地社会。
>この、近代以前の中国の社会構造に、
>民主主義を組み合わせたものが、
>田中芳樹の描く理想像のバックボーンではないでしょうか?

 ただ、私の『「民主国家では国民一人一人が責任をとれ」論』説を前提にした、北村さんの文脈の流れから行くと、田中芳樹の理想世界像に鼓腹撃壌を当てはめるのは違うような気がします。むしろ、『>この、近代以前の中国の社会構造に、>民主主義を組み合わせたものが』の民主主義の部分が色濃く反映されていて(=メイン)、中国古代の社会構造は、むしろそのメインを覆う表皮なのではないかと思うのです。
 というのは、「民主国家では国民一人一人が責任をとれ」論を前提にした『徹底した「何もしない」小さな政府と、弱者の受け皿となる在地社会。』は、つまるところ「無政府共産」以外の何者でもないからです。「鼓腹撃壌」は、伝説的名君による最高の政治によって統治されることによって発生した、「君主が何もしなくても国家が治まる(と民衆が思えている)」社会であり、田中氏の理想社会とは全く別物です。撃壌歌を歌っているおっさんが、「一人一人が責任をと」っていることによって、君主がいなくても国家が治まっているのとは違うのです。
 これに限らず、田中氏の中国理解は、確かに知識の量は凄いのだけれど、その解釈を自分の都合のいいように歪めていることが多いと思います(氏が批判している詰め込み式の知識と大して違わない)

収録投稿6件目
board1 - No.444

「帝力我に何の・・・」

投稿者:新Q太郎
1998年12月20日(日) 05時51分

「尭舜伝説と鼓腹撃壌」に関連して、ちょっとした思想対決が昔あったんですよね。

司馬遼太郎は「明治という国家」の中で、明治革命によって日本人が「国民」となったことを大変高く評価し、それまでの日本人を「鼓腹撃壌」の農民と同じ状態だったと(批判)しました。
そして江戸の(武士以外の)日本人も、鼓腹撃壌の農民もいわば「阿Q」と同じである、と書くのです。
考えようによってはこんな厳しいことばもない。彼は無責任で呑気で自立心がない、旧時代の悪にどっぷり漬かった、「士大夫」の反対概念としての「匹夫」の代表です。
「帝力我に何の・・・」と、国家に対して責任を負わず、国の防衛に関しても「それはお武家様の考えること」と無関心な彼らは本質的に「阿Q」と同じであるというのだから。

ところがこれに書評家の井家上隆幸は「そうじゃねえだろ、といいたい」と猛反発しました。
彼はゴールデン街世代のせいか(笑)、隆慶一郎などの公界アウトローものを極めて高く評価し、その主人公たちは「帝力我に何の・・・」というキャラクターだからこそ素晴らしいのだ、と力説していました。
つまり「鼓腹撃壌」の人々はだからこそ自由で独立した、責任ある男達なのだ、という論理ですね。

無縁・公界もののブーム(もののけ姫含む)なども手伝い、また
司馬→権力者、支配者の歴史、
隆慶一郎、松本清張→民衆、抵抗者の歴史
などという杜撰な見方なども関係して(「梟の城」は?)いたりするのですが、そこまで論じるには力が足りない。

「与党精神」「野党精神」とも関係してくるかな?

収録投稿7件目
board1 - No.447

ちょっと保留気味見解

投稿者:本ページ管理人
1998年12月21日(月) 02時27分

>司馬遼太郎は「明治という国家」の中で、明治革命によって日本人が「国民」となったことを大変高く評価し、それまでの日本人を「鼓腹撃壌」の農民と同じ状態だったと(批判)しました。
>ところがこれに書評家の井家上隆幸は「そうじゃねえだろ、といいたい」と猛反発しました。
>彼はゴールデン街世代のせいか(笑)、隆慶一郎などの公界アウトローものを極めて高く評価し、その主人公たちは「帝力我に何の・・・」というキャラクターだからこそ素晴らしいのだ、と力説していました。

司馬遼太郎の説の方が、おそらく福沢諭吉の延長線上にあろう為か、説得力が有るような気がします。いくらなんでも、隆慶一郎の主人公を捕まえて鼓腹撃壌は無いと思うのだけど。

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