はじめまして。
色々と拝見しましたが、チョット意見がありましたので
投稿させていただきます。
2.田中芳樹は本当に中国を知っているか? の項で
田中芳樹が、陸機の言葉を孔子の言葉として紹介してしまった結果
管理人さんは、
・田中芳樹の中国好きはうわべだけのインチキであること。
・田中芳樹は論語はおろか孔子解説本すらも読んだこともないということ!
と、結論付けておられますが、それは言いすぎかなぁと思いました。
中国の歴史や文献ってのは、それは気の長くなるほどありますし、
全部読んでそれを知識として換えるのは至難です。
私も、中国の歴史が好きで色々な文献を読んだりしてますが、
知識として身についたかどうかは分かりません。
勘違いや、思い違いで誤った知識で他人に語ってしまうこともあります。
「陸機の言葉→孔子の言葉」の間違いは、勘違いや思い違いだったの
ではないのでしょうか?
それを、中国好きはうわべだけのインチキとか言われてしまっては
田中芳樹も大変だなぁと思いました。
ただ、本にして書くなら書くことが本当に間違ってないか調べてから
書けよバカヤロウと田中氏に送る言葉であります。
> 勘違いや、思い違いで誤った知識で他人に語ってしまうこともあります。
> 「陸機の言葉→孔子の言葉」の間違いは、勘違いや思い違いだったの
> ではないのでしょうか?
> それを、中国好きはうわべだけのインチキとか言われてしまっては
> 田中芳樹も大変だなぁと思いました。
いや、そのとき勘違いで書いたのなら、後から訂正すればよいだけと思います。
例えば、銀英伝1巻39ページ(1991年59刷)には「戦略戦術シュミレーション」と書かれています。
これは正しくは「シミュレーション」です。「シュミ」じゃなく「シミュ」。
ですが、文庫版では該当箇所はしっかりと「シミュレーション」と訂正されていました。
勘違いで陸機→孔子と書いたならば、後の版では書き換えとけばよいだけのことと思いますけど。
ストーリー展開とは直接関係ないことなんですから。
今出ている版で訂正がなされているかどうかは知りませんが、
していないとすれば、不誠実あるいは無知のどちらかだと言われても仕方がないと思います。
> ・田中芳樹の中国好きはうわべだけのインチキであること。
> ・田中芳樹は論語はおろか孔子解説本すらも読んだこともないということ!
> と、結論付けておられますが、それは言いすぎかなぁと思いました。
>
> 中国の歴史や文献ってのは、それは気の長くなるほどありますし、
> 全部読んでそれを知識として換えるのは至難です。
> 私も、中国の歴史が好きで色々な文献を読んだりしてますが、
> 知識として身についたかどうかは分かりません。
> 勘違いや、思い違いで誤った知識で他人に語ってしまうこともあります。
> 「陸機の言葉→孔子の言葉」の間違いは、勘違いや思い違いだったの
> ではないのでしょうか?
> それを、中国好きはうわべだけのインチキとか言われてしまっては
> 田中芳樹も大変だなぁと思いました。
こんにちは。
「言い過ぎ」とのご指摘がありますが、古い文章と言うこともあり、表現がきついというのは事実だと思います。しかし、論の総体自体は今でも通用すると思っています。
単なる間違いなら誰でもあります。かくいう私だってしょっちゅうです。
それを責められる人間なんていないでしょう。
私があそこで批判しているのはそういうことではありません。
例えば、あそこが単なる故事格言の間違いだったらそれだけのことなんですよ。
ですが、あそこでは場面的に不必要とすら言える格言を知的こけおどしのためだけにわざわざ用い、しかもそれが間違っている。
とんでもなくみっともない姿ですね。
キン肉マンで、「ロビンマスクのヨロイをつけた方が重いから速く落ちる」なんてのは、その小学生並の無知さがいっそのこと爽快です。
しかし、
「悪役に大して優位に立ちたい」
↓
「故事でも垂れて格の違いを見せつけよう」
という、無知に対する知識の優位、「こけおどし」としての知を持ち出したあげく、それが初歩的に間違っているのであれば、田中芳樹の知識に対する態度というのは一体何者なんだろうか、と思います。
表題の「田中芳樹は本当に中国を知っているか?」には、単純な知識量だけでなく、そういう意味もあります。
はじめまして。ウシマルと申します。
まだほとんど目を通していないのですが,まずは、本論(って言っていいのかな?)の大見出しで目をひいた「田中芳樹は中国を本当に知っているか?」を読みました。
そこでちょっと質問があるのですが、教えてください。
1.本当に中国を知っているか?という疑問を基に論を展開しているわけですが、何をもって中国を知っているという規定にしているのですか?(明記されていないので、論を読む限り儒教を肯定することのように思えますが)
2.陸機の言葉を孔子の言葉と間違えている、ということは補記にもあるように正確ではない(孔子も使っている)ので、これにより中国を知らないインチキ、論語や孔子解説本を読んだことがない、と断定するのは無理があるのでは?
3.「余談になるが、儒教の本質は、禅譲・革命を肯定した体制にとっての危険思想でもある。」の部分で「禅譲・革命を肯定した」は、「儒教」と「体制」のどちらに掛るものとして読めばよいのでしょうか。
4.「田中芳樹に贈る孔子の言葉」がありますが、この言葉の訳はどなたの訳によるものでしょうか。
優馬です。
ウシマルさん、いらっしゃい。
じきに管理人さんからお答えがあるとは思いますが、場つなぎで横レスです。
1.本当に中国を知っているか?という疑問を基に論を展開しているわけですが、何をもって中国を知っているという規定にしているのですか?
管理人さんの問いかけは、「中国通」を鼻にかけている(彼の著述によるとそうとしか思えない)田中芳樹が、自分で自慢するほど中国のこと知らないじゃん、ということだと思います。つまり、絶対的な「中国通」の基準なんてものは当然ありえないわけで、自讃と実力の乖離が笑われているわけです。そういう意味で相対的な話です。
「とうちゃん」田中芳樹のミス、勘違い、意図的な歪曲などの指摘は、ザ・ベストにたくさんアップしてありますよ。ついでに言うと、抱腹絶倒のパロディ系もいっぱいおいてありますから、そのへんをゆるゆるとご覧になって、肩の力を抜いてお出でください。1.以外のご質問のお答えも、ザ・ベストに転がっていたような気がしますんで。
それでは。
>1.本当に中国を知っているか?という疑問を基に論を展開しているわけですが、何をもって中国を知っているという規定にしているのですか? (明記されていないので、論を読む限り儒教を肯定することのように思えますが)
>2.陸機の言葉を孔子の言葉と間違えている、ということは補記にもあるように正確ではない(孔子も使っている)ので、これにより中国を知らないインチキ、論語や孔子解説本を読んだことがない、と断定するのは無理があるのでは?
今回の更新で過去の掲示版での議論とのリンクが張られているので参考にしてください。
優馬さんがフォローしてくださっている部分の趣旨がわかるのではないかと思います。
「儒教を肯定することが中国を知っている」というのは、明確に誤解ですね。
中国文化を語る上では、肯定するにしろ否定するにしろ儒教を知らなければならないのに、田中芳樹は儒教について知っているとは思えません。儒教に関しては、通俗的な解釈を丸呑みしているように見る事が出来るという指摘です(そして、彼はそういう中国文化歴史に対する触れ方をたびたびバカにしています)。
2の指摘については、補記でも述べているとおり、孔子の用法だとしたら、周一郎氏が言っているセリフの意味がまったく通じません。「孔子の名言」というのも変ですね。
>3.「余談になるが、儒教の本質は、禅譲・革命を肯定した体制にとっての危険思想でもある。」の部分で「禅譲・革命を肯定した」は、「儒教」と「体制」のどちらに掛るものとして読めばよいのでしょうか。
儒教です。
儒教は本質で禅譲・革命を肯定しており、体制にとっての危険思想でもある。
と書けばわかりやすいでしょうか。
>4.「田中芳樹に贈る孔子の言葉」がありますが、この言葉の訳はどなたの訳によるものでしょうか。
呉智英氏によるものです。
丁寧なお返事頂き、ありがとうございます
早速リンクした内容を読ませていただきます。
1.の質問は優馬さんの言う通り確かに「絶対的な基準」なんてものはないと思います。しかし、公然と他人と批判している以上第三者にも分かりやすい線引きをしているのかと思い、その有無を尋ねたかったわけです。
優馬さんのいう自己の評価と他者の評価の差異に関しても、A氏が「おれは中国に詳しいぜ」と言うのを、B氏が「いや、そんなことないだろう」と言う時、B氏は自分の判断基準を持っていると考えられます(つまりB氏がA氏を否定するに足るなにかをB氏が持っている)。勿論A氏が語る内容を聞いてC氏が「おかしいな。ホントかな。なんか違うんじゃないかな」と疑問を持つことで評価に差ができることもあるわけだから、必ずしも明確な基準が必要であるとは思いません。(なんかうまく説明できないな)
ただ記述者がそういう基準を持っているのであれば、読み手が記述内容を読み、判断するときに役立つと思った次第。質問の仕方が悪かったですね。
「田中芳樹は儒教について知っているとは思えません。」これは管理人さんが推測されていることで、本論の中でもそれを立証する証拠があまりにも少なく、断定してしまうにはちょっと弱い。「知らないのではないか?」という疑問に留めた方が無難なのでは、と思います。
2.のお返事については確認したいこともあるので、後日また質問したいと思います。
3.は了解しました。この方がわかりやすいです。儒教に詳しくない人も多いかと思いますので、この際本論も変更してはいかがでしょうか。
4.もありがとうございます。
また疑問が出ましたら質問させて頂きます。よろしくお願いします。
例えば
「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として
二度目は喜劇として」という名言がありますが、
これは”ナポレオン三世”の(帝政復活という)「行動」を評して
”マルクス”が言った名言とするべきですよね。
「ぼくは孔子ってあんまり好きじゃないけど、たったひとつ
感心している『エピソード』があるんです……」にしておけば
よかったのにと思うんですが。
はじめまして。新Q太郎さん。いろいろ確認してから発言しようと思いましたが急遽書いてみました。
なるほど、そういう考えもありますね。
ただ、孔子が「盗泉」に寄らなかった故事をもとに「誰か」(例えば陸機)がこと言葉を作った、ということがはっきり分かっているのですか?そうでなければ、弟子の誰かに聞かれて、寄らない理由を孔子がこう言ったかもしれないですよね。つまりそのように話が伝わっていると。
また「孔子の名言」を「孔子の言った名言」としています。名言とはそういう意味だから当然ですが、あえて弁護すれば周一郎は「孔子は好きじゃないけど、ひとつ感心している名言がある」と言っているのだから、これを「孔子は好きじゃないけど、ひとつ感心している(孔子の思想を表した)名言がある」とすればあながち間違いでもないのではないでしょうか。実際にそういうエピソードがあるのだから。
結局、周一郎はシグマ社と言う不正行為をしている会社の禄を食む気がないからそういう気持ちをこの言葉に込めているわけで、孔子の清廉さを引き合いに出して断っているのでは?ことさら孔子の名を出したのは一般の人(作中でのシグマ社の使者、あと読者も含む)の孔子と陸機との知名度の差を考えたのではないでしょうか。
てんてんDWPです。
> ただ、孔子が「盗泉」に寄らなかった故事をもとに「誰か」(例えば陸機)がこと言葉を作った、ということがはっきり分かっているのですか?
そのとおり。孔子の行動の故事を元に陸機が作った言葉です。
> また「孔子の名言」を「孔子の言った名言」としています。名言とはそういう意味だから当然ですが、あえて弁護すれば周一郎は「孔子は好きじゃないけど、ひとつ感心している名言がある」と言っているのだから、これを「孔子は好きじゃないけど、ひとつ感心している(孔子の思想を表した)名言がある」とすればあながち間違いでもないのではないでしょうか。実際にそういうエピソードがあるのだから。
たしかにそう読むことは不可能ではないですが、であれば文章作成能力を疑わなければなりませんね。
日本語のルールとしてAは嫌いだが一つ感心しているBがある、とある場合、BはAの一部である必要があります。
Aが人物「孔子」か著作物「孔子」である以上、Bは人物「孔子」か著作物「孔子」に含まれなければなりません。
この場合、名言は人物「孔子」の名言か、著作物「孔子」の中の名言でなければ日本語とは言えません。
それを避けるならまさしく()内の言葉を補う必要があります。
> 結局、周一郎はシグマ社と言う不正行為をしている会社の禄を食む気がないからそういう気持ちをこの言葉に込めているわけで、孔子の清廉さを引き合いに出して断っているのでは?ことさら孔子の名を出したのは一般の人(作中でのシグマ社の使者、あと読者も含む)の孔子と陸機との知名度の差を考えたのではないでしょうか。
中国武将列伝で「三国志だけが中国の歴史じゃない」という台詞を出すなら、ここだけ読者に対する知名度を考えずに敢えて無名の陸機を使うべきだと思います。
てんてん dance with penguin