初代管理人の本論2 関連議論集6

本論2について色々

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board4 - No.116

個人的意見

投稿者:ウシマル
2001年05月09日(水) 12時34分

 どうも。以前質問致しましたウシマルです。
 さて、昔の話をむしかえす様で恐縮ですが、前回答えをいただいた後、自分でも調べものをして(と言っても大したものではないけど)、自分なりに考えをまとめてみました。
 最初に言っておきますが、これはあくまでも僕個人の考えでしかありません。だから管理人さんに僕の意見を認めてもらおうとか、ましてや考えを訂正してもらおうなどとおこがましいことは思っていません。それどころか、僕は他の皆さんに比べ浅学の身ですので(知識量も読んだ本の量も格段に違うのが感じられる)、僕自身の間違いが多々あるやも知れません。また、場当たり的な発言を時々してしまうのでそんなことがあるかもしれません。また、僕が解っていないことが多くて、手前勝手な意見になっているかもしれません。そのときはやさしく諭すか、戯言と聞き流してください。
 さて、例の「田中芳樹は中国を本当に知っているか?」ですが、僕がこれをを最初に読んだとき、ちょっと違和感を抱きました。諸所に見られる断定口調、なのにそれを裏付ける情報が提示されていないことなどです。例えば、前半部で

< なにやら、知らぬ間に田中芳樹が中国文学の代表者の一人のような事になっている。>

< 田中芳樹が書く現代物に多く見られる、「作者が色濃く投影された主人公(当然、美化されている)と、それに付き随う副主人公である中学生前後の少女」のパターンである。>

< この物語の主人公、白川周一郎は、いわゆる読書型の知識人である。田中芳樹が現代物で一貫してとっているスタンスだ。「高次元の正論家」(「地球儀の秘密」本文より引用)なのも一貫している。>

< 田中芳樹が中国古典(特に老荘思想)を溺愛しているのは周知の事実であるが、例にもれなく、この白川周一郎も事あるごとに中国格言を引用する。>

などですが、「中国文学の代表者の一人のような事」というのはそう言えるだけの資料があるのでしょうか。「作者が色濃く投影された主人公」とはどんな根拠に基づくものなのでしょうか。「中国古典(特に老荘思想)を溺愛しているのは周知の事実」と言うのは何に拠っているのでしょうか。断定する以上根拠はあるはずです(本人が明言しているとか)。田中氏のことを知らない人にもわかるように根拠を示して欲しい(単に僕が知らないだけで管理人さんには基本的なことかもしれませんが、一般常識じゃないのでご容赦を)。それに、「例にもれなく」とは何の例なのでしょう(田中氏の作品に、ということでしょうか)。
 また、現代ものに多く見られるパターン、現代物で一貫しているとっているスタンス、事あるごとに中国格言を引用、という部分。
いま、僕の手元に平成11年6月15日講談社発行の『田中芳樹公式ガイドブック』があります。田中氏の作品の概略がすぐわかるものです。
これによると、現代物(現代を舞台にしているもの)といえる長編作品は10作品(1シリーズは1作品とする)。そのうち20代後半から30代前半の主人公に中学生前後の少女が付き随うのは3作品。3割じゃとても「多く見られる」とはいえないのではないでしょうか(野球の打率なら充分でしょうが)。仮に中学生前後の少女が主人公とセットになっているものとしても4作品。たいして変わりはないでしょう。短編も数えればもっと低い率になります。
 また、主人公が読書型の知識人であるのが現代物で一貫してとっているスタンス、と言いますが、まだまだ半人前の大学生であったり、傭兵であったり、警察官であったり、一貫しているとは思えません。さらに「高次元の正論家」なのも一貫していると言いますが、引用している『地球儀の秘密』の中でも姪の多夢のこととなると、と限定されており、どんな時もそうであるとはされていません。むしろ自分のことになるととたんにレベルが下がる、とまで書かれています。他の作品においては何をかいわんや、でしょう。
 さらに、白川周一郎が「事あるごと」に故事成語など使うとありますが、『地球儀の秘密』で故事成語を使っている場面は、
 「やれやれ気の毒に。狡兎死せざるにすでにして走狗は煮られたり、か。(後略)」P64
 「いわく、渇しても盗泉の水を飲まず。餓えても周の粟を喰らわず、だったかな」P64
 「(前略)おれは自信家だが、シグマが三顧の礼をつくして求めてくるとまでうぬぼれちゃいない。(後略)」P68
ぐらいしか有りません。次点として、
 「(前略)倉橋浩之介氏は偉大だと思うけど、シグマの粟を食らう気にはなれないな」P103
というところでしょう。ほかにも故事成語を使っている場面はありますが、それは別の人物で、白川周一郎のものとしては上記のものだけです。
 これだけで果たして「事あるごと」と言えるでしょうか。
 これらは、ある情報を明示せず自分の意見だけを言うことにより、読み手を自分の意見に引き込もうとしているように思えます。つまり、僕が違和感を抱いたのは、虚実織り交ぜ若しくは虚のみを、それが事実であるかのように言うこと、または都合のいい部分だけを取り上げることによって読み手をミスリードしているのではないか、ということです。論旨とあまり関係のない部分でさえ、書き手の考える田中芳樹像を読み手にイメージさせようとしているように思えます。
 田中氏は中国を本当に知っているのだろうか、と言う命題にさまざまな証拠を出し、論理的に検証していくというより、すでに行きつくべき結論があり、ただそこへ読み手を誘導している、という感じがするのです。
その上、こうも言っています。

< どうしてかなぁ? なぜかなぁ? 作者が投影される主人公だと一緒にいるのがいつも中学生の少女なのは? 実に不思議だ。
しかし、まあ、今回話題にしたいのはこんなことではない。こんな謎の答えは誰にでも分かることだから。>

 ここで言われているのは、先程の10作中の3作品のことですね。この3作品は『自転地球儀世界シリーズ』、『晴れた空から突然に・・・』、『夢幻都市』です。
 それぞれ、白川周一郎・多夢、梧桐俊介・日記、相馬邦夫・葉月のカップリングになっています。二人の関係はと言うと、前の2つが「叔父・姪」で後の1つが「父・娘」です。主人公は、立場的にも社会的にも弱い少女を守る保護者です。田中氏は肉親の情に厚い、面倒見のいい人なんですね。(笑)
 それはともかく、これも実像とは言い難いある種のイメージを、不要に読み手に喚起していると思います。田中氏に対する負のイメージを植え付けていると言うか、そんな感じです。
 さて、本題の部分ですが「田中芳樹は本当に中国を知っているか?」と言う疑問に対しその理由を挙げて結論を出している形ですが、田中氏を「中国好きはうわべだけのインチキ」、「論語はおろか孔子解説本すらも読んだことがない」と結論を出すために挙げている理由がたった1つだけで、こんなにも断定的な結論を出していいのだろうか、出せるものなのか,と言うのが正直な感想です。これについては最初の質問でもしていますが、その答えとなるものは他の議論にもなかったように思います。
 ここで問題にされているのは「渇しても盗泉の水を飲まず」ですが、これの正誤についてはかなり意見が出ています。そこに出た意見や、僕が知りえたことを簡単に整理すると、
 ○これは、晋代の陸機が詩の中で使った句である。
○陸機は孔子の故事を元にこの句を創作した。
○孔子には、盗泉という名を嫌いその水を飲まなかった故事がある。
○曾子にも、盗泉を飲まなかった故事がある。
○孔子がこのような言葉を言ったかのかわからない。
といったところでしょうか。
 補記で紹介されているように、もともと「孔子は盗泉の水を飲まなかった。清廉であるべき孔子がその名を嫌ったからだ」と言う故事があり、それは『文選』や『水経注』に記されているようです。『水経注』のことは補記に書かれてますし、『文選』は陸機の詩が載っているのだから、解説にそのようなことが書かれているのは疑いないと思います。しかしまた、この故事は孔子の弟子の曾子のものという話もあります。『淮南子』には「曾子廉に立つ。盗泉を飲まず」という文があるそうです。ですから、今この段階では本当に孔子の故事であるのかはわかりません。はっきりしているのは孔子の故事といわれているものを元に陸機が詩の句を作った、ということでしょう。ただし、『淮南子』の文章もあるように完全に陸機の創作といえるかどうか。もしかしたら、知らないだけで元からそのような言い回しがあったかもしれません。まあ、そういった資料が見つからない以上は陸機の創作であることは間違いないと思います。だから管理人さんの主張が正しいのだとは思いますが、田中氏の表現でもいいのではないかという気持ちもまだちょっと捨てきれません。不合理ですが。
 なんにせよ、このただ一例をもって田中氏を「インチキ」「孔子を知らない」と決め付けるのは乱暴だと思います。第一、「孔子を好きじゃない」と言っているのはあくまでも白川周一郎で、田中氏ではありません。実際『論語』から引いた言葉を他の登場人物に言わせていることもあり、田中氏のことを本論中でのように結論を出すのには無理があるでしょう。ですから当然その後にある、結論を前提とした管理人さんの意見も根拠に欠けるものになっていると思います。あ、それから「渇しても・・・」の意味について管理人さんは「一般的な意味でとれば、困っているときでも紛らわしいことはしない、という意味になるのだ。」と言ってますし、補記でも同じことを言っていますが、一般的でも、孔子の用法でも不正(というか、不正を感じさせるもの)を嫌う意味なのだと思いますが・・・。いかがでしょう。
 後半部では、本論で導き出された結論を前提に田中氏の批判をしていますが、先に書いたように結論自体が根拠に欠けるものであるため、田中氏に対する決め付けにやはり違和感があります。特に田中氏の思考回路は簡単だというところは、ただひとつの事柄から、ああまで言い切ってしまうのはどうかと思います。あまつさえ、田中氏の動機まで勝手に決めてしまうのはいかがなものでしょうか。しかもこの書き方はもう単なる中傷にしか見えません。
 中国史を語るうえで儒教ははずせない、と言う管理人さんの意見には全く賛成です。漢代には国教にもなっているくらいで、それだけ密接なものであるといえましょう。ですがこれまで見たように田中氏が「儒教を知らない」または「儒教を無視している」とはいえない以上「どう考えても田中芳樹はインチキ」とすることはできません。従って、ここで出されている結論にはその有効性が非常に薄いと言わざるを得ません。
 余談では儒教について言及されていますが、僕は儒教について勉強したことがないので正直わからないことだらけです。儒教が体制にとって危険思想というのは本当なんでしょうか。『論語』陽貨篇の一章を引いているからこれがその証拠と言うのでしょうけど、『史記』によれば公山氏は、主人である、魯国の重臣季桓子との仲がよくなくて叛いているようだし、反体制的な意図があったのかどうか。孔子にしてもなかなか政治にかかわれない時期であせっていたようだし、公山氏が仮に反体制的な意図を持っていたとしても、孔子はその考えに賛同していたのかどうか。実際に孔子は公山氏の下に行かなかったし、それどころか魯国の司空から大司冠にまでなっています。後年、公山氏が魯の都を襲ったときには魯公を守って公山氏を退けてもいます。とても公山氏が叛いたことに共感を持っていたとはいえないでしょう。似たような話が同じ陽貨篇にもう一章ありますが、こちらも子路が反対して結果的に行かなかったわけですが、二度とも子路が反対したのは、普段の孔子からは考えられないことだったからではないでしょうか。『史記』の仲尼弟子列伝には、宰予が斉国で田氏とともに反乱を起こして刑死した時、それを恥としたとあります。これらを見ると儒教が反体制的な危険思想というのにはちょっと疑問が湧きます。
 最後には『論語』の一章を引いて田中氏の送る言葉としています。

<  「子曰わく、郷原は徳の賊なり」(陽貨篇)
 《俗耳に入りやすい評論や批判を口にするものは、社会を堕落させる徳の賊である》>

 でもこんなこといったら、このサイトにも跳ね返ってしまうことのような気がするのは僕だけでしょうか。
 それより、前の質問でこの訳が誰のものかお聞きしましたら、呉智英氏によるとの回答をいただきました。呉氏が何処でどういうつもりで訳したかは知りませんが、元は郷原は村の謹直な人のことで、そういう人の行いは君子の徳に似ているが、実際はそうではないからかえって徳を損なう人である、というような意味で、社会に影響を与える、というよりは個人的な「堕落」を問題にしている感が強いと思います。
 また、田中氏作の『創竜伝』の1シーンを引き合いに出しているところがあります。そこでは、主人公たち(竜堂兄弟)の叔父(鳥羽靖一郎)が『荀子』の性悪説の誤用したことをあげつらって喜んでいる、と書かれています。このところを読めば田中氏にいい印象はもてないでしょう。ですが、本編を実際に読めば印象が変わると思います。鳥羽靖一郎は自分が悪いことをしていると自覚していながら、その自分の行動を正当化するために読んでもいない『荀子』の性悪説を持ち出しているわけで、誤用というような簡単なものではなく、自分の都合のいいように意味を捩じ曲げている、悪用とでもいうものです。本来の意味も知らずに言葉を悪用しているのを、それは違う、一度でも本当の文章を読んだのか、と詰め寄ることをあげつらっていると悪い印象で言われたらどうしようもないように思います。それにこういう批判の文とはいえ、相手をバカ呼ばわりしたら、これは単なる悪口に成り下がってしまうとのではないかと考えます。
 あと、1つとても不思議なことがあります。それは先ほどの『創竜伝』のシーンの続きのところ、靖一郎に詰め寄る竜堂続の台詞にこんなものがあります。

 「自分の意見に説得力がないから、偉大な先人の権威を借りたくなるという心情はわかりますけどね。それならそれで、もっと正確に引用して下さい。恥の上ぬりになるだけですよ」(文庫版『創竜伝』3巻P95より)

 田中氏が「よく知りもしない哲学者や思想家の片言隻句を名言集のたぐいから引用して」いるだけと考えるのなら、格好の口撃材料だと思いますが・・・。自分のことを棚に上げている、と。続きのシーンで同じページにあるのだから気づかないはずがないのに、全く触れていないのは本当に不思議です。なぜでしょう。ついつい要らぬ事を勘繰ってしまいたくなります。

 あとこれは全然別のことなのですが、本論の中に掲示板の内容をリンクさせたものがありましたが、ああいうところに自分の質問したことがのってると、なんかそれだけでなんか嬉しくなってきちゃう、じゃなくて、その中で書籍の出版形態を変えたことを憤慨する意見がありました。確かに僕も、それはふざけていると思います。コミックスでもありますからね。単行本が出て、愛蔵版が出て、保存版が出て、あげく総集編だのコミック文庫だの、同じ作品でよくこれだけやるな、と思うことがあります。が、しかしこれは作者のせいでしょうか。これは読者をなめきった出版社の陰謀(出版関係の人スイマセン)ではないでしょうか(ちなみに僕はよくなめられてました)。作者に対し怒りを向けるのは筋違いなのではないのでしょうか。これをもって、田中氏の人柄や考え方をどうこう言うことは、できないと思います。大体ハードカバーの本を文庫におとしたりする事は昔からあることで、殊更田中氏のケースだけを取り上げることはないと思います。それに買うことを強制されているわけではなく、取捨選択の自由は消費者にあるわけだし、買う買わないは個人の自己責任によるもので、買いたくなければ買わなければいいだけのこと、と考えます。

収録投稿27件目
board4 - No.117

Re:個人的意見

投稿者:
2001年05月09日(水) 19時52分

恵です。
はじめまして、ウシマルさん(^-^)あなたのご意見、興味深く拝見させていただきました。わたしは管理人さんではないので反論する立場ではないかもしれませんが、とりあえずあなたの疑問に対してわたしが思ったことを少し書かせていただきますね。

♯「中国文学の代表者の一人のような事」というのはそう言えるだけの資料があるのでしょうか?
田中氏の作品には中国を舞台にした物も多く(翻訳物も含みます)、その完成度の高さ(賛否両論あるでしょうけど)からもご本人に中国の歴史と文学に関する蘊蓄がかなりあることは間違いありません。「代表者の一人」という言い方は「管理人さんが感じる世間一般のイメージ」かもしれませんが、少なくともそう呼ばれてもおかしくないだけの経歴と素養は、田中氏にはあると思います。

♯作者が色濃く投影された主人公?
田中氏はもともと大学院卒で、相応の教養と知識を持った人です。キャラクターたちの性格はともかく、自身を投影した読書型の知識人(泉田警部補でさえ、「大学卒」でクーンツを読んでいる読書人ですし、耕平も「大学生」というそれなりの知識階級の立場です。傭兵というのは田中作品の中でもかなり特殊な例ではないでしょうか?)が主人公の多くを占めているのも確かだと思います。田中氏も幻影城時代の短編ではいろんな作風にチャレンジされていますが、それらは黎明期の試行錯誤でしかなく、昨今の作品ではだいたいパターンが確立されたと言っていいでしょう。これは悪い意味ではなく、作者の性格や経歴が作品に影響してくるのはごく当たり前のことですから、ファンであるわたしも全~然OKなんですけどね(^-^;;)。

♯事あるごとに中国格言を使う?
 「やれやれ気の毒に。狡兎死せざるにすでにして走狗は煮られたり、か。(後略)」P64
 「いわく、渇しても盗泉の水を飲まず。餓えても周の粟を喰らわず、だったかな」P64
 「(前略)おれは自信家だが、シグマが三顧の礼をつくして求めてくるとまでうぬぼれちゃいない。(後略)」P68
ぐらいしか有りません。次点として、
 「(前略)倉橋浩之介氏は偉大だと思うけど、シグマの粟を食らう気にはなれないな」P103
というところでしょう。ほかにも故事成語を使っている場面はありますが、それは別の人物で、白川周一郎のものとしては上記のものだけです。

「事あるごとに」というのは、言い過ぎかもしれませんね。でも、普通に生活してたら、わたしたち日本人がそもそも中国の格言を知っていても使う機会はまずないんじゃないでしょうか?小説の中とはいえ、それをあえて何度も使わせているのは、「田中氏は自分の知識を無用に誇示したいのではないか?」と管理人さんは言いたかったんだと思います。わたしも、冗談以外で格言(というか、ことわざ)を使ったことはありませんから(笑)、読んでいて違和感はありましたけど。

♯儒教が体制にとって危険思想というのは本当なんでしょうか?
わたしも儒教にあまり詳しくありませんけど、確か儒教は「革命」を肯定しているから体制にとって危険だ、と聞いたことがあります。体制側は当然、自身の永続的な維持を願うものですから、「革命を肯定する思想などけしからん!」ということではないでしょうか?

♯書籍の出版形態を変えるのは、出版社の陰謀で、田中氏の人柄や考え方をどうこう言うことは、できないと思う
この主張は田中氏の弁護になっていないと思います。再販の企画自体は出版社の意向でも、田中氏は納得できなければ拒否すればいいのですから。もちろん、再販されたものは「田中芳樹」の名前で販売されているわけですから、企画の流れをご本人が知らないわけはありません。過去に掲示板でも議論されましたけど、田中氏と出版社の力関係は、田中氏のほうが圧倒的に強いとの仮説も出ています(わたしも賛成です。ベストセラー作家の田中氏がもう書かないぞッ、とへそを曲げたら困るのは出版社の方でしょうから)。つまり、ご本人は拒否できる立場にあるのにそれをなされないのは、再販にある程度肯定的だからではないでしょうか?もしかすると、人のいい田中氏が出版社に拝み倒された、という読者の知らない事情もあったかもしれません。でも、あこぎな金儲けを批判する(創竜伝の社会評論等)田中氏にとって、それが免罪符になるとはわたしには思えませんけど、どうでしょうか?

☆おまけ
ウシマルさんのご意見に対して否定的なことばかり書きましたが、ご自分なりの根拠を丁寧に提示されている文章に好感が持てたことを、全体の感想として付け加えさせていただきます。

収録投稿28件目
board4 - No.118

Re:個人的意見

投稿者:本ページ管理人
2001年05月10日(木) 00時31分

現在、個人的事情により(今月末まで仕事にて出張中)本格的な書き込みが出来ないでいます。
大変申し訳ありませんが、返答まで時間がかかることをご了承ください。

収録投稿29件目
board4 - No.132

Re:個人的意見(管理人さん&恵さんありがとうございます)

投稿者:ウシマル
2001年05月15日(火) 12時36分

> 現在、個人的事情により(今月末まで仕事にて出張中)本格的な書き込みが出来ないでいます。
> 大変申し訳ありませんが、返答まで時間がかかることをご了承ください。

 はい。了解です。別にせっつくつもりは毛頭ありませんから、まずはお仕事ガンバッて下さい。しかし、待っているのはなんかテストが帰ってくる生徒のような心境ですな。ドキドキものです。
 それと
 恵さん、はじめまして。そしてありがとうございます。
 確かにこの意見は、僕から管理人さんへ発信したものですが、僕一人ではわからないことは多々ありますし、個人の考え方や物事の捉え方は千差万別ですから、多くの人の意見が聞けることは貴重なことだと思います。
 恵さんのおっしゃることは、確かに一々もっともだと思います。ですが、ちょっと言葉が足りなかった感もあるので、一応僕の意見も書かせていただきます。

<(引用)田中氏の作品には中国を舞台にした物も多く(翻訳物も含みます)、その完成度の高さ(賛否両論あるでしょうけど)からもご本人に中国の歴史と文学に関する蘊蓄がかなりあることは間違いありません。「代表者の一人」という言い方は「管理人さんが感じる世間一般のイメージ」かもしれませんが、少なくともそう呼ばれてもおかしくないだけの経歴と素養は、田中氏にはあると思います。>

 そう言われればそうですね。過去の活動実績を見れば、そういう評価がされることも充分頷けます。ただ田中芳樹という作家を知っている人であれば、だと思います。僕は「代表者の一人」ではない、というつもりではありません。ただ田中氏がマイナーだとは決して思いませんが(むしろメジャーなほうだと思っています)、世間一般の認知度がどれくらいあるのか知らないのです。中国を舞台にして小説を書いている人は他にも大勢いますが、その中でどれだけ広く知られているか、客観的なデータがあってのことかと思ったのです(実際のところ何部売れているのでしょう。詳しいこと知らないんですが)。と、いいますのも、これだけインターネットが普及している現在、このサイトを訪れる人の中には作家・田中芳樹を知らない人もいるのではないか、その人が批評を読むに当たり余分な先入観が与えられてしまうのではないか、と心配したわけです。杞憂でしたでしょうか。

<(引用)「事あるごとに」というのは、言い過ぎかもしれませんね。でも、普通に生活してたら、わたしたち日本人がそもそも中国の格言を知っていても使う機会はまずないんじゃないでしょうか?小説の中とはいえ、それをあえて何度も使わせているのは、「田中氏は自分の知識を無用に誇示したいのではないか?」と管理人さんは言いたかったんだと思います。わたしも、冗談以外で格言(というか、ことわざ)を使ったことはありませんから(笑)、読んでいて違和感はありましたけど。>

 そりゃそうですね。僕だって普段使っているか、と問われたら使ってない、と答えるでしょう。だって、使っているところ思い出せませんから。思い出せないと言うのは使ってないか、気づかないほど自然に使っているかでしょう。後者ではありえないから、やっぱり前者でしょうね。まあ、蛇足とか矛盾とか簡単なものなら使っているかもしれませんが。でも登場人物にことわざや故事成語を言わせるのは田中氏に限ったことではないと思うし(但し、具体例はありませんので単なる思い込みかも)、小説の台詞が芝居がかっていてもおかしくはないと思うので、僕は違和感はなかったですよ。

<(引用)わたしも儒教にあまり詳しくありませんけど、確か儒教は「革命」を肯定しているから体制にとって危険だ、と聞いたことがあります。体制側は当然、自身の永続的な維持を願うものですから、「革命を肯定する思想などけしからん!」ということではないでしょうか?>

 そうなんですか。僕は根気がないので(そういう問題か?)『論語』も全部読んでないんです。何処に書かれているかご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。

<(引用)この主張は田中氏の弁護になっていないと思います。再販の企画自体は出版社の意向でも、田中氏は納得できなければ拒否すればいいのですから。もちろん、再販されたものは「田中芳樹」の名前で販売されているわけですから、企画の流れをご本人が知らないわけはありません。過去に掲示板でも議論されましたけど、田中氏と出版社の力関係は、田中氏のほうが圧倒的に強いとの仮説も出ています(わたしも賛成です。ベストセラー作家の田中氏がもう書かないぞッ、とへそを曲げたら困るのは出版社の方でしょうから)。つまり、ご本人は拒否できる立場にあるのにそれをなされないのは、再販にある程度肯定的だからではないでしょうか?もしかすると、人のいい田中氏が出版社に拝み倒された、という読者の知らない事情もあったかもしれません。でも、あこぎな金儲けを批判する(創竜伝の社会評論等)田中氏にとって、それが免罪符になるとはわたしには思えませんけど、どうでしょうか?>

 前にも書きましたが、ハードカバー(に限りませんが)で出版された本が文庫になって発売される、というようなことは以前から行われていることです。これ自体は僕の経験で言えば、中学、高校のお金がないころは高いハードカバーより安い文庫になってくれたほうが、はるかにうれしかったものです。陰謀うんぬんは冗談にしても、購買層を広げる意味では的確ではないでしょうか。田中氏が拝金主義を批判していながら、拝金主義に手を染めているのであれば確かに問題ですが、購入者がいなければお金にならないのだし、買う・買わないは購入側に選択権があるのは前に書いたとおりだと思います。田中氏も、同じ人が2冊も3冊も買ってくれるものと期待しているわけではないと思います。あと、出版社との力関係ですが、恵さんのご意見も説得力ありますけど、僕は逆転していないと思うのですが・・・。確かに出版社にとってお金になる人物なのは、実際に出版されていることから間違いはないと言えますが、出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます。もちろん勝手な思い込みですが。

最後になりましたが、おまけの部分ではありがとうございます。こう言って頂くとうれしいです。推敲を重ねた甲斐があったと言うものです。いつもこう思われるようにしたいものですね。

収録投稿30件目
board4 - No.133

Re116:過去の管理人さんの主張と私の解釈に基づく先行解答

投稿者:冒険風ライダー
2001年05月16日(水) 00時19分

 ウシマルさん、はじめまして。
 管理人さんがしばらく出張するとのことですので、過去の管理人さんの主張を元にして私がある程度の解答を出しておくことにしましょう。
 それと管理人さんがレスを返すまでの間に、他のザ・ベストファイルなども読まれておいた方が良いと思います。下でも書きますけど、そちらにウシマルさんの疑問に対する解答が書かれているものがあったりしますので。

<また、主人公が読書型の知識人であるのが現代物で一貫してとっているスタンス、と言いますが、まだまだ半人前の大学生であったり、傭兵であったり、警察官であったり、一貫しているとは思えません。さらに「高次元の正論家」なのも一貫していると言いますが、引用している『地球儀の秘密』の中でも姪の多夢のこととなると、と限定されており、どんな時もそうであるとはされていません。むしろ自分のことになるととたんにレベルが下がる、とまで書かれています。他の作品においては何をかいわんや、でしょう。>

 「読書型の知識人」というのは職業設定ではなく性格設定のことを指しているのではないですか? 教師とか学者とかいった具体的な職種を指しているのならともかく「読書型の知識人」だけでは、職業設定を指す言葉としてはあまりにも具体性がなさすぎるのですけど。
 ここで管理人さんが主張している「読書型の知識人」というのは「趣味で何十冊もの本を乱読・熟読しており、そこから多くの知識を得ている読書マニア」のことを指しているのであって、別に「大学生」だの「教師」だの「警察官」だのといった特定の職種を指しているわけではないでしょう。性格設定であれば、現代物どころか田中作品に登場している主人公達のほとんど全てが、かなりの確率でこのスタンスを踏襲しています。銀英伝のヤンもそうですし、アルスラーン戦記のナルサス、タイタニアのジュスランなどもこの範疇に入ります。
 現代物に限定するとしても、ウシマルさんが挙げられた3作品の主人公以外に「夏の魔術シリーズ」の能戸耕平、「薬師寺シリーズ」の泉田準一郎、短編でも「冬木涼平シリーズ」の冬木涼平、それに何よりも田中作品現代物小説の代表格たる「創竜伝」の竜堂始があの定義に当てはまります。どう考えても、かなりの確率で「読書型の知識人が主人公」というスタンスを貫いているようにしか見えませんが。

<さらに、白川周一郎が「事あるごと」に故事成語など使うとありますが、『地球儀の秘密』で故事成語を使っている場面は、
 「やれやれ気の毒に。狡兎死せざるにすでにして走狗は煮られたり、か。(後略)」P64
 「いわく、渇しても盗泉の水を飲まず。餓えても周の粟を喰らわず、だったかな」P64
 「(前略)おれは自信家だが、シグマが三顧の礼をつくして求めてくるとまでうぬぼれちゃいない。(後略)」P68
ぐらいしか有りません。次点として、
 「(前略)倉橋浩之介氏は偉大だと思うけど、シグマの粟を食らう気にはなれないな」P103
というところでしょう。ほかにも故事成語を使っている場面はありますが、それは別の人物で、白川周一郎のものとしては上記のものだけです。
 これだけで果たして「事あるごと」と言えるでしょうか。>

 あの文章で管理人さんが言いたかったのは「白川周一郎が事あるごとに故事成語を使う」ということではなく、「田中芳樹が中国系の知識に精通している」ということなのではないでしょうか。本論2の原文である↓

<田中芳樹が中国古典(特に老荘思想)を溺愛しているのは周知の事実であるが、例にもれなく、この白川周一郎も事あるごとに中国格言を引用する。>

 という文章を見ても「田中芳樹が中国古典(特に老荘思想)を溺愛しているのは周知の事実」の部分を強調するために、あえて白川周一郎の事例を出したと解釈できるのですが。
 それに仮にウシマルさんが仰られる通りの内容で管理人さんが「白川周一郎が事あるごとに故事成語を使う」と主張していたとしても、恵さんも仰られているように普通一般の日本人がめったに中国格言など使わない環境下において、しかも200ページに満たない小説1冊の中で、さらには全ページの6~7割ぐらいしか登場していないキャラクターの言動として考えると、格言引用数3~4回という数値はむしろ多い部類に入るのではないかと思うのですが。

<ここで言われているのは、先程の10作中の3作品のことですね。この3作品は『自転地球儀世界シリーズ』、『晴れた空から突然に・・・』、『夢幻都市』です。
 それぞれ、白川周一郎・多夢、梧桐俊介・日記、相馬邦夫・葉月のカップリングになっています。二人の関係はと言うと、前の2つが「叔父・姪」で後の1つが「父・娘」です。主人公は、立場的にも社会的にも弱い少女を守る保護者です。田中氏は肉親の情に厚い、面倒見のいい人なんですね。(笑)
 それはともかく、これも実像とは言い難いある種のイメージを、不要に読み手に喚起していると思います。田中氏に対する負のイメージを植え付けていると言うか、そんな感じです。>

 これに関する解答は以下の通りです↓

初代掲示板 No.711(ザ・ベスト「創竜伝のエンターテイメント性2-B」収録)
<これについては、過去に掲示板やメールで様々な方から忠告されています。私も、異論はありません。
 これらの初期のコンテンツは、直そうと思えばいつでも直せましたし、レイアウトを変更したときなど、直す機会もありました。
 それにも関わらず修正しなかったのは、散々得意げに開陳しておいて、いざとなったら都合の悪い部分を隠すという方法が、私にとって感覚的にイヤだったからです。もし、これが事実誤認や当方の認識不足などのような緊急を要す場合でしたら修正や補記(例えば盗泉における水経注の指摘のような)・謝罪をしますが、この件については私はそこまでする必要もないことだと思っています。
 もちろん、「口汚くののしりやがって」と思われるのは自由ですし、私もそう思われても仕方がないと思っています。そして、指摘されたからと言って隠したりせず、それを甘んじて受けることが責任ではないかと、私個人は考えています。とにもかくにも、あのような形で発表してしまったことの責任はとらなくてはならないと思うのです。>

 これでウシマルさんの疑問に対する解答には充分になっているのではないでしょうか?

<また、田中氏作の『創竜伝』の1シーンを引き合いに出しているところがあります。そこでは、主人公たち(竜堂兄弟)の叔父(鳥羽靖一郎)が『荀子』の性悪説の誤用したことをあげつらって喜んでいる、と書かれています。このところを読めば田中氏にいい印象はもてないでしょう。ですが、本編を実際に読めば印象が変わると思います。鳥羽靖一郎は自分が悪いことをしていると自覚していながら、その自分の行動を正当化するために読んでもいない『荀子』の性悪説を持ち出しているわけで、誤用というような簡単なものではなく、自分の都合のいいように意味を捩じ曲げている、悪用とでもいうものです。本来の意味も知らずに言葉を悪用しているのを、それは違う、一度でも本当の文章を読んだのか、と詰め寄ることをあげつらっていると悪い印象で言われたらどうしようもないように思います。それにこういう批判の文とはいえ、相手をバカ呼ばわりしたら、これは単なる悪口に成り下がってしまうとのではないかと考えます。>

 鳥羽靖一郎の性悪説誤用を指摘し、正しい意味を教え諭すという「だけ」であるのならばそれはそれで結構なことです。しかし連中は、性悪説を誤用した鳥羽靖一郎相手にこんなことをほざいています↓

創竜伝3巻 P78上段
<「荀子は、不正をはたらく政治家を、こんなにも憎んでいたんですよ。叔父さんとはえらい違いですね。叔父さんに好きといわれて、さぞ荀子も迷惑なことでしょう」>

 これは明らかに性悪説誤用に対する批判には全く不要なセリフでしょう。こんなことを言われたら、たとえその主張内容が正しかったとしても、説教(というより侮辱)された相手は説教者に対して悪感情を抱くに決まっているではないですか。それにウシマルさんの主張だと「批判の文とはいえ、相手をバカ呼ばわりしたら、これは単なる悪口に成り下がってしまう」のではないのですか?
 さらに創竜伝5巻では、「諸葛亮孔明」を誤用した敵に対して、竜堂始がこんなことを述べていますな↓

創竜伝5巻 P201上段
<「だ、だまれ。諸葛亮孔明は歴史上最大の大軍師なのだぞ」
「ついでに教えておいてやるが……」
 始の声は、さらにひややかさを増した。
「諸葛亮と姓名で呼ぶか、諸葛孔明と姓プラス字で呼ぶか、どちらかにしろ。諸葛亮孔明などと姓名と字をあわせて呼ぶような呼びかたは、中国では絶対にしない。風水や奇門遁行がどうのこうのというくらいなら、そのていどの常識はわきまえておくんだな」>

 まあこの描写に関しては「敵をあえて挑発する」という意図もあったようなのですけど、それを差し引いても、こうまで自らの知識をひけらかし、相手の「無知」に対して居丈高に説教することが、どれほどまでに相手のマイナス感情を刺激し、対人関係を悪化させることになるのか、少しは連中も考えてみた方が良かったのではないですかね? 自分が同じように言われた時、どう感じるかを考えてみれば、こんな居丈高かつ断罪論調的な物言いは普通はできないと思うのですけど。
 それから田中芳樹ないしは竜堂兄弟は、作中において散々なまでに「礼儀を守らない奴に礼儀を守る必要はない」などと平然と口にし、さらには「恩は2倍にして返せ、怨みは10倍にして返せ」とまでのたまっています。ならば田中芳樹ないし竜堂兄弟達は、自分達が批判される際に同じ手法で10倍返しされたとしても文句を言うことはできないでしょう。自分達がかつて好き勝手にのたまった主義主張に対して、きちんと責任を取っていただかないと。
 田中芳樹や竜堂兄弟自身の誤用・悪用・事実改竄・虚実混同・その他諸々の間違いに関しては、ザ・ベストや考察シリーズのファイル群に多数収録してありますので、そちらを参照すれば、すくなくとも田中芳樹や竜堂兄弟にあんな説教をする資格などないことが分かるかと思います。

>書籍の出版形態

 これに関してもザ・ベスト「田中芳樹の職業倫理」の3-A3-Bで同じような質問に基づく議論が収録してあり、管理人さんの意見もそこに書いてありますので、そちらを参照してみてはいかがでしょうか。

収録投稿31件目
board4 - No.134

Re:個人的意見(No.132について)

投稿者:
2001年05月16日(水) 17時36分

こんにちわ、恵です☆

> 恵さん、はじめまして。そしてありがとうございます。

こちらこそ、レスありがとうございました、ウシマルさん。
そして、冒険風ライダーさん、わたしが舌足らずでいたらなかった部分を論評として上手にまとめておられる点、さすがに見事ですね☆
冒険風ライダーさんの意見にほぼ同感なのですが、人の意見にただ賛成するだけというのも面白くないので(笑)、管理人さんが帰ってこられるまでの有意義な時間の過ごし方として、ウシマルさんにはもう少し意見交換に付き合っていただけると、わたしも嬉しいです(^-^)

>でも登場人物にことわざや故事成語を言わせるのは田中氏に限ったことではないと思うし(但し、具体例はありませんので単なる思い込みかも)、小説の台詞が芝居がかっていてもおかしくはないと思うので、僕は違和感はなかったですよ。

台詞に芝居がかかるのは、違和感はあっても別に悪いことじゃないと思います(あくまで『小説』の中の台詞ですから。ルール違反でもないでしょうね)。ただ、ウシマルさんご自身も自覚があるみたいですが、現代を舞台にした小説で故事成語を言わせるものって滅多にないですよね?それも一度ならともかく、あえて何度も行っているところに、違和感があるんです。できるだけ現代人の使う現代用語を正確に扱うことで、物語(フィクション)のリアリティー性が増していくとわたしは思いますので、現実にあまり使わない言葉は多用しない方がいいんじゃないでしょうか?わたしの場合、いくら作り話でもあまりに非現実的な台詞を聞くと、一気に興ざめしてしちゃうんですけど…f(^-^;;)。

>そうなんですか。僕は根気がないので(そういう問題か?)『論語』も全部読んでないんです。何処に書かれているかご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。

ごめんなさい、この部分はわたしも「人から聞いたことがある」、という程度の知識で書いてしまいました。現在、論語関係のサイトで自分なりに検索をしているんですが、あまりに数が多くてなかなか確認ができません。宣和堂さんをはじめ、中国関係のスペシャリストの方からご教授いただけたらすっごく助かるんですけど(←図々しくてごめんなさ~い(>_<)、とにかく確認がとれるまでお待ちいただけると幸いです。

>前にも書きましたが、ハードカバー(に限りませんが)で出版された本が文庫になって発売される、というようなことは以前から行われていることです。これ自体は僕の経験で言えば、中学、高校のお金がないころは高いハードカバーより安い文庫になってくれたほうが、はるかにうれしかったものです。陰謀うんぬんは冗談にしても、購買層を広げる意味では的確ではないでしょうか。田中氏が拝金主義を批判していながら、拝金主義に手を染めているのであれば確かに問題ですが、購入者がいなければお金にならないのだし、買う・買わないは購入側に選択権があるのは前に書いたとおりだと思います。田中氏も、同じ人が2冊も3冊も買ってくれるものと期待しているわけではないと思います。あと、出版社との力関係ですが、恵さんのご意見も説得力ありますけど、僕は逆転していないと思うのですが・・・。確かに出版社にとってお金になる人物なのは、実際に出版されていることから間違いはないと言えますが、出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます。もちろん勝手な思い込みですが。

「出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます」
↑ご自身も認めておられますが、このご意見には根拠がありませんね。
ベストの議論と同じ内容を言いますが、現実に田中氏は自分の書きたい作品だけを執筆しているという状況です。(ご本人のストレス解消としか思えない薬師寺シリーズや創竜伝など)各出版社の販売戦略(細かいことですが、田中氏が“経営戦略”には口が出せなくて当たり前ですから、販売戦略の間違いですよね?(^-^;;)としては、とにかく書けばヒットする田中氏に休眠シリーズの再開を!と思っているはずです。(タイタニア、灼熱の竜騎兵、クラン、地球儀の秘密など)本当に立場が弱い作家さんなら、無理矢理書かされてもおかしくないんですが、田中氏はそうではありません。自分で優先順位をつけて執筆ができる人なんです。そうでないと反論なされるなら、今度は具体的な根拠をお願いしますね。

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board4 - No.135

Re:個人的意見(販売形態について)

投稿者:てんてんdwp
2001年05月16日(水) 21時53分

てんてんdwpです。

> 「出版社の経営戦略にまで口が出せるほどなんて、そうそうなるものじゃないと考えてます」
> ↑ご自身も認めておられますが、このご意見には根拠がありませんね。
> ベストの議論と同じ内容を言いますが、現実に田中氏は自分の書きたい作品だけを執筆しているという状況です。(ご本人のストレス解消としか思えない薬師寺シリーズや創竜伝など)各出版社の販売戦略(細かいことですが、田中氏が“経営戦略”には口が出せなくて当たり前ですから、販売戦略の間違いですよね?(^-^;;)としては、とにかく書けばヒットする田中氏に休眠シリーズの再開を!と思っているはずです。(タイタニア、灼熱の竜騎兵、クラン、地球儀の秘密など)本当に立場が弱い作家さんなら、無理矢理書かされてもおかしくないんですが、田中氏はそうではありません。自分で優先順位をつけて執筆ができる人なんです。そうでないと反論なされるなら、今度は具体的な根拠をお願いしますね。

これについてお答えしておきます。田中芳樹クラスになれば可能です。文庫化は一切認めないといって干されるクラスじゃありませんから。
証拠を示しましょうか?平井和正という作家がいます。この作家は自分の本が「読み捨てられる」ことに不満を抱き、あるときからハードカバーか新書でしか作品を発表しなくなりました。そのことは地球樹の女神だったかな、その前後の作品に理由も含めて書かれていますよ。
ちなみに著作権法を読むとわかりますが干されることを覚悟するならたとえ無名の新人作家であっても文庫化を拒否することは可能です。いわんや田中芳樹おや。発行部数は増やすことは(基本的に)できませんが減らすことは可能なんですよ。
というわけで、この件に関しては終了でよろしいですか?

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board4 - No.136

体制と儒教

投稿者:葉藪砂人
2001年05月17日(木) 13時19分

通りすがりのものです。

>引用開始
(引用)わたしも儒教にあまり詳しくありませんけど、確か儒教は「革命」を肯定しているから体制にとって危険だ、と聞いたことがあります。体制側は当然、自身の永続的な維持を願うものですから、「革命を肯定する思想などけしからん!」ということではないでしょうか?
 そうなんですか。僕は根気がないので(そういう問題か?)『論語』も全部読んでないんです。何処に書かれているかご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。
引用終了<

私も儒教に詳しいわけではありませんが、知っている範囲で少し。
儒教ってのは、中国やら朝鮮やら日本やらに入ってきて体制側に使われてきているのですから、体制擁護に便利な面があるのは確かだと思います。(具体的な根拠を挙げろ! とか言われると困るのですが)
それで、なぜ反体制の面をもっているかというと、基本的に儒教というのは、国家が国民と国土を統治していられるのは、徳だとか天帝からの委任があるからだとか、そういったものが前提にあるからなのでしょう。
つまり、皇帝が天下を支配していられるのは、何らかのバック(人民の支持であるとか、天の命令だとか)を根拠としていて、何の根拠も無く皇帝は天下を支配できるとはしていないのだと思います。
まぁ、天の命令(いわゆる天命)なんてあやふやな物なら、どうとでもなりそうなのですが、それは反乱側にも言えることで、向こうも「天命我にあり」とか言い出してしまえば、お互いが正当性を主張しあうことになってしまうのだと思います。
この考え方は、
「皇帝はなぜ偉いのか?」
「それは~である」
といった定義を作ることにより、天下支配の正当性を与えたのでしょうが、逆にいえばその「~である」の部分が否定されてしまえば、それは「皇帝(天下支配の正統者)ではない、匹夫(ただの男、ただの人)である」となるわけです。
そんな感じで、皇帝の支配が不服になったとき、その理由を挙げていけば易姓革命(A姓の人からB姓の人への支配権がうつる)もOKですよ、という思想になるのでしょう。

また、体制にとって危険ではない思想を考えてみると、
「皇帝が偉いのは、皇帝だからだ。その理由は天地が存在するのと同じだ」
とか、理屈になっていないような思想なら全然危険ではないと思います。
要するに、儒教というのは天下支配の論理体系を示しているわけです。

まぁ、これは「~の~に書いてある」とかの確実な情報ではないのですが、私個人の儒教解釈として参考にしてみてください。
でも、革命思想は孔子じゃなくて、孟子あたりがいっていることのような気もします。

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board4 - No.137

儒教における革命思想

投稿者:新Q太郎
2001年05月17日(木) 22時32分

儒教における革命思想(湯武放伐論)というのは非常に大きいテーマであるのですが、参考までにこんなとこを紹介しましょう。

http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/abesonnou14.htm

※孔子と湯武放伐

※孟子と易姓革命論

の項目をどうぞ。

-----------------------
ところで「革命思想」というもののジレンマについて。それは、その思想を担いで闘い、旧勢力を倒したとき、その「革命思想」が体制になるのですね。

「共産主義」は革命思想かもしれない。
しかしソ連が成立したあと、子ども達は学校で共産主義のただしさを教えられ、
「○○君は卒業後、共産党に入れるんだって」
「彼はエリートだからなあ」というように、いい子が学ぶよいこのイデオロギーになったわけです。それと同じ事が漢以降の儒教にあったのでしょう。

ちなみに江戸時代ごろ、「『孟子』(のような危険思想本)を積んだ船は、日本につく前に嵐にあって沈む」といわれていたとか

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board4 - No.138

儒教&販売形態

投稿者:
2001年05月18日(金) 01時01分

恵です(^-^)。
新Q太郎さん、葉藪砂人さん、儒教関連のレスをありがとうございました☆
特に新Q太郎さんがご紹介してくださったサイトは、わかりやすい解説でとても勉強になりました(大感謝!ですm(-.-)m)。ここから得た知識をもとに、ウシマルさんの疑問への回答をしたいと思います。

まず、論語のどの部分に革命思想(らしきもの?)があるかというと、
「八いつ第三ノ一・六,先進第六ノ十七,季氏第十六ノ一,微子第十八ノ三等」
の部分に、孔子が魯国の季氏 という重臣を非難する文章があるそうです。これは、直接革命思想に触れる内容ではないようですが、要するに「孔子は周の建国期の封建制度に戻れと常々説いている」→「もともと一諸侯でしかなかった周は殷を滅ぼして正当王朝となった」→「周を肯定する孔子は、潜在的に革命も肯定している」と読みとることができる、ということのようです。
儒教という大きな枠組みの中でみれば、積極的に「易姓革命」を論理としてあらわしたのは、孔子ではなく孟子だそうです。原文は紹介されていませんでしたけど、新Q太郎さんからご紹介いただいたサイトの管理人さんの解説によると、

>孟子が説くに「中華の王は天が選ぶ、しかし天が(著者注:ユダヤ教のGODの様に預言者を通して意思を伝えたりするように)直接何らかの方法でそれを伝えるわけではない。誰かが王となる、それに対して百姓(民衆)がそれを受け入れて政治がうまくいき、自然現象が順調に回る。これが王が天によって選ばれたことの証明となる。」「徳を失った王は既に資格を失っている。その王は湯武が桀紂を放伐したように打倒して良い。」これが易姓革命論です。
徳を失った王朝は革命によって滅びて異姓に王位が移ります。その方法は武力による放伐と前王朝から平和裏に王位が譲られる禅譲があります。中国の王朝は全て形式的には禅譲の形を取ってはいますがそのほとんどが放伐であったのは御存知の通りです。 易姓革命論は放伐によって成立した王朝にとって都合がいいこともあって中国に広く受け入れられました。

ということだそうです。つまり、孟子を儒教の大家と定義するなら、間違いなく「儒教は体制にとって危険思想」と言えると思いませんか、ウシマルさん?

#販売形態について
てんてんさん、具体的な根拠を教えて下さってありがとうございました☆

>これについてお答えしておきます。田中芳樹クラスになれば可能です。文庫化は一切認めないといって干されるクラスじゃありませんから。
証拠を示しましょうか?平井和正という作家がいます。この作家は自分の本が「読み捨てられる」ことに不満を抱き、あるときからハードカバーか新書でしか作品を発表しなくなりました。そのことは地球樹の女神だったかな、その前後の作品に理由も含めて書かれていますよ。
ちなみに著作権法を読むとわかりますが干されることを覚悟するならたとえ無名の新人作家であっても文庫化を拒否することは可能です。いわんや田中芳樹おや。発行部数は増やすことは(基本的に)できませんが減らすことは可能なんですよ。
というわけで、この件に関しては終了でよろしいですか?

はい、わたしはいいと思います。ウシマルさんが、違う角度から反論の根拠を提示されたら別ですけど。

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board4 - No.142

Re:個人的意見(No.132について)

投稿者:ウシマル
2001年05月22日(火) 13時01分

 どうも、こんにちわ。ウシマルです。

 今日はまず教えていただきたいことがあるのですが、なにせインターネットはバリバリの初級者なので、基本的な質問をお許し下さい。
僕が書き込んだ意見に複数の方からレス(ところでこれはなんかの略ですか?)をいただきましたが、このお返事はそれぞれにするべきなのでしょうか、それとも一つにまとめてしまってもよいものでしょうか。

>台詞に芝居がかかるのは、違和感はあっても別に悪いことじゃないと思います(あくまで『小説』の中の台詞ですから。ルール違反でもないでしょうね)。ただ、ウシマルさんご自身も自覚があるみたいですが、現代を舞台にした小説で故事成語を言わせるものって滅多にないですよね?それも一度ならともかく、あえて何度も行っているところに、違和感があるんです。できるだけ現代人の使う現代用語を正確に扱うことで、物語(フィクション)のリアリティー性が増していくとわたしは思いますので、現実にあまり使わない言葉は多用しない方がいいんじゃないでしょうか?わたしの場合、いくら作り話でもあまりに非現実的な台詞を聞くと、一気に興ざめしてしちゃうんですけど…f(^-^;;)。

 僕は小説を読むときは、先が気になってとにかく先へ先へと読み進んでしまうタイプで、じっくりと読んでないんです。そのせいで、恵さんが言われるようなことをあまり気にしてないだけかもしれませんが(それにそんなに沢山の本を読んでいるわけじゃないし)。まあ、本を読んでの感想は人それぞれですし、だから読書感想文なんてものが成り立つわけですし、何がいいとか悪いとか決められるものではないと思っています(あんまり頭使ってないだけかもしれませんが)。ですから恵さんのおっしゃることは重々わかりますが、僕個人はやっぱりそんなに気になりません(が、今後はどうかわかりません。意識するようになると思いますから)。

>ごめんなさい、この部分はわたしも「人から聞いたことがある」、という程度の知識で書いてしまいました。現在、論語関係のサイトで自分なりに検索をしているんですが、あまりに数が多くてなかなか確認ができません。宣和堂さんをはじめ、中国関係のスペシャリストの方からご教授いただけたらすっごく助かるんですけど(←図々しくてごめんなさ~い(>_<)、とにかく確認がとれるまでお待ちいただけると幸いです。

 なんか余計な手間をかけさせてしまったようで、こちらこそすみません。他人任せだけもなんですし、僕も調べてみます。わかったら教えて下さい。

>本当に立場が弱い作家さんなら、無理矢理書かされてもおかしくないんですが、田中氏はそうではありません。自分で優先順位をつけて執筆ができる人なんです。そうでないと反論なされるなら、今度は具体的な根拠をお願いしますね。

 いえ、反論はありません。もともと出版業界に身を置いてるでなし、作家と出版者の関係は単なる想像ですから。そうですか、そういうものですか。それじゃ最後に確認だけしたいのですが。(くどくてすみません)
 つまり、作家は誰でも文庫化を拒否できる権利がある。但し、それには仕事を干される危険性を伴う。しかし、出版社にとって有益な作家は仕事を干される危険性は減少し、代わりに発言力が増大する。ある程度自分の意見を通せる発言力を得た作家(ここでは田中氏)が、自身で金儲け主義を非難しておきながら、己の発言力を使ってそれを留めるでなく、看過しているのは金儲け主義に走っている疑いがある、自分の主張に行動が伴っていない、と、こういうことですか?
 でも文庫化=金儲け、そうとも言えるし、そうでないとも言える。う~ん。
 まあいいか。実状を知らないことで頭を悩ませても疲れるだけですし。とにかく、これで間違いなければ、てんてんdwpさんが言うようにこれにて閉幕です。

収録投稿37件目
board4 - No.143

Re:個人的意見(ウシマルさんへ)

投稿者:
2001年05月22日(火) 15時36分

恵です、こんにちわ☆

>  今日はまず教えていただきたいことがあるのですが、なにせインターネットはバリバリの初級者なので、基本的な質問をお許し下さい。
> 僕が書き込んだ意見に複数の方からレス(ところでこれはなんかの略ですか?)をいただきましたが、このお返事はそれぞれにするべきなのでしょうか、それとも一つにまとめてしまってもよいものでしょうか。

返事は一つにまとめていいと思います。それぞれ「~さんへ」と区切ってあれば、問題ないんじゃないでしょうか?(わたしはいつもそうしてます)それと、「レス」はレスポンスの略だと思います(たぶん(^_^;)。

>  僕は小説を読むときは、先が気になってとにかく先へ先へと読み進んでしまうタイプで、じっくりと読んでないんです。そのせいで、恵さんが言われるようなことをあまり気にしてないだけかもしれませんが(それにそんなに沢山の本を読んでいるわけじゃないし)。まあ、本を読んでの感想は人それぞれですし、だから読書感想文なんてものが成り立つわけですし、何がいいとか悪いとか決められるものではないと思っています(あんまり頭使ってないだけかもしれませんが)。ですから恵さんのおっしゃることは重々わかりますが、僕個人はやっぱりそんなに気になりません(が、今後はどうかわかりません。意識するようになると思いますから)。

以前、「どうして創竜伝は売れるのか?」という議論をこちらでさせてもらったことがあるんですけど、(詳しくはベストをご覧になってくださいね)ウシマルさんの「本の読み方」はその時出た仮説を証明して下さってますね(笑)。つまり、

「ファンの多くは(社会評論等を)読み飛ばしているのでは?」

ということです。でも、ファンの方々のそういう読み方を、わたしは別に批判するつもりはありません。ウシマルさんのおっしゃる通り、読み方は人それぞれだとわたしも思いますから。
ただ、批判や意見をするためには、それなりにその対象をよく読んで理解することは最低限、必要なことだとわたしは思いますけどね。

>  なんか余計な手間をかけさせてしまったようで、こちらこそすみません。他人任せだけもなんですし、僕も調べてみます。わかったら教えて下さい。

これについては、NO.138の「儒教&販売形態」で、わたしなりに調べた結果と結論を書き込ませていただきましたので、そちらをご覧になってくださいませ。

>  いえ、反論はありません。もともと出版業界に身を置いてるでなし、作家と出版者の関係は単なる想像ですから。そうですか、そういうものですか。それじゃ最後に確認だけしたいのですが。(くどくてすみません)
>  つまり、作家は誰でも文庫化を拒否できる権利がある。但し、それには仕事を干される危険性を伴う。しかし、出版社にとって有益な作家は仕事を干される危険性は減少し、代わりに発言力が増大する。ある程度自分の意見を通せる発言力を得た作家(ここでは田中氏)が、自身で金儲け主義を非難しておきながら、己の発言力を使ってそれを留めるでなく、看過しているのは金儲け主義に走っている疑いがある、自分の主張に行動が伴っていない、と、こういうことですか?
>  でも文庫化=金儲け、そうとも言えるし、そうでないとも言える。う~ん。
>  まあいいか。実状を知らないことで頭を悩ませても疲れるだけですし。とにかく、これで間違いなければ、てんてんdwpさんが言うようにこれにて閉幕です。

その通りだと思います。
あと最後に、田中氏の場合「ハードカバー→文庫」という一般的な図式ではなく、「ノベルズ→一部を加筆修正したノベルズ」という再販のやり方に問題があることを指摘させていただきます(夏の魔術シリーズ等)。
確かに購入層を広げるという意味では「ハードカバー→文庫」は健全な手法ですけど、この場合では目的が違います。田中氏が「苦労なく儲けている」ように見えても仕方ないと思いますけど。
…ということで、わたしからの再販についての意見はこれで本当にお終いにしたいと思います(くどくなって申し訳ありませんでした、皆様m(-.-)m)。

収録投稿38件目
board4 - No.152

Re:個人的意見(ウシマルさんへ)

投稿者:ウシマル
2001年05月26日(土) 13時00分

ウシマルです。恵さん、ありがとうございます。お手数をかけました。

>>孟子が説くに「中華の王は天が選ぶ、しかし天が(著者注:ユダヤ教のGODの様に預言者を通して意思を伝えたりするように)直接何らかの方法でそれを伝えるわけではない。誰かが王となる、それに対して百姓(民衆)がそれを受け入れて政治がうまくいき、自然現象が順調に回る。これが王が天によって選ばれたことの証明となる。」「徳を失った王は既に資格を失っている。その王は湯武が桀紂を放伐したように打倒して良い。」これが易姓革命論です。
徳を失った王朝は革命によって滅びて異姓に王位が移ります。その方法は武力による放伐と前王朝から平和裏に王位が譲られる禅譲があります。中国の王朝は全て形式的には禅譲の形を取ってはいますがそのほとんどが放伐であったのは御存知の通りです。 易姓革命論は放伐によって成立した王朝にとって都合がいいこともあって中国に広く受け入れられました。

ということだそうです。つまり、孟子を儒教の大家と定義するなら、間違いなく「儒教は体制にとって危険思想」と言えると思いませんか、ウシマルさん?

本当にお手数をおかけしました。ありがとうございます。
そうですか、『論語』ではなくて『孟子』だったんですね。
孟子は確か孔子の正統を継いでいるはずだから、広義で言えばそういえますね。徳なきものは君主たる資格なし、「君君たらざれば臣臣たらざるなり」と言うところですね。君主に徳がなければ「命を革める」こともやむなし、というのは納得いきます。王朝交代期には暴君・暗君がいたのは事実ですから。
まだ考えがまとまらないのでとりあえずこんなところで。

>返事は一つにまとめていいと思います。それぞれ「~さんへ」と区切ってあれば、問題ないんじゃないでしょうか?(わたしはいつもそうしてます)それと、「レス」はレスポンスの略だと思います(たぶん(^_^;)。

ご教授ありがとうございました。

>ただ、批判や意見をするためには、それなりにその対象をよく読んで理解することは最低限、必要なことだとわたしは思いますけどね。

それは確かにそうですが。先を急いで読んではいますが、別に読み飛ばしているわけではないですよ?そこに引っかかってあれこれ考える必要のないものと思っているだけです。

収録投稿39件目
board4 - No.161

Re:個人的意見(ウシマルさんへ2)

投稿者:
2001年05月28日(月) 23時21分

恵です。お返事遅れてごめんなさい、ウシマルさん。

> ウシマルです。恵さん、ありがとうございます。お手数をかけました。

いえいえ、どういたしまして☆
わたし自身も他人様の知識から結論を出させていただいたので、そのように言われると恐縮しちゃいますf(*^_^*)。

> >ただ、批判や意見をするためには、それなりにその対象をよく読んで理解することは最低限、必要なことだとわたしは思いますけどね。
>
> それは確かにそうですが。先を急いで読んではいますが、別に読み飛ばしているわけではないですよ?そこに引っかかってあれこれ考える必要のないものと思っているだけです。

たぶん、そうおっしゃると思いました。わたしも失礼を承知であえてあのように書いたのは、前回のあなたの書き込みにあった、

>僕は小説を読むときは、先が気になってとにかく先へ先へと読み進んでしまうタイプで、じっくりと読んでないんです。そのせいで、恵さんが言われるようなことをあまり気にしてないだけかもしれませんが(それにそんなに沢山の本を読んでいるわけじゃないし)。

↑という文章を普通に読んだら、あなたの読書スタイルが「本をしっかり読み込んでいないタイプ」という印象を受けたからなんです。わたしが勝手に誤解していた部分もありますが、ウシマルさんもやや言葉足らずっだったのではないでしょうか?

お互い、誤解のない物言いを心がけたいものですね(^_^;)

収録投稿40件目
board4 - No.339

Re:個人的意見 遅くなりました。ひとまず…

投稿者:本ページ管理人
2001年06月27日(水) 00時36分

返事がだいぶ遅れています。本当に申し訳ありませんでした。
これ以上あまり引きずっていても仕方がないので、簡潔にですがお答えします。
基本的に常連の方に議論していただいて、私としてもその結果の内容に大きく異論はないため、補完的な部分について述べたいと思います。

>「中国文学の代表者の一人のような事」というのはそう言えるだけの資料があるのでしょうか

これについては、この文章を書いた当時「隋唐演義」が大々的に売り出し中だったという事情があります。
TVCM、新聞の大きな広告などがじゃんじゃん流されていた時期です。
もっとも、現在から見れば(現在だからこそ)失笑ものでしかないですけど。

>これらを見ると儒教が反体制的な危険思想というのにはちょっと疑問が湧きます。

これについては新Q太郎さんが解説されていますが、つまるところ、日本では共産党は反体制思想ですが、中国では体制思想です。
 また、共産主義は本質的に間違いなく革命思想ですが、ソ連や中共では独裁の思想的支柱にもなりました。毒と薬の両面性ですね。

> 田中氏が「よく知りもしない哲学者や思想家の片言隻句を名言集のたぐいから引用して」いるだけと考えるのなら、格好の口撃材料だと思いますが・・・。自分のことを棚に上げている、と。続きのシーンで同じページにあるのだから気づかないはずがないのに、全く触れていないのは本当に不思議です。なぜでしょう。ついつい要らぬ事を勘繰ってしまいたくなります。

別に何を勘ぐられても文句はありませんが、別に他意はありません。

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