はじめまして(書き方がよくわからないんです)
私は田中氏が好きですし、このサイトの意見にも大賛成なんですけど、やはりともに与することはできそうにありません。
以下かなり長くなるのですがご容赦下さい。
私はちょっと思ったことをを(おおざっぱにですが)分類して、論じさせてもらおうと思いますが、重なる部分もかなり多いと思うのでやはりご容赦下さい(偉そうでゴメンナサイ)。
1、小説について
このサイトで槍玉に挙げられているのは、創竜伝が小説の形で(極端な)社会評論を論じている、さらにいえばその社会評論が小説の形式を無茶苦茶あるいは責任転嫁している、ということですよね。では、本来小説とはどうあるべきなのでしょうか?
例えば同じ作家である三島由紀夫と田中芳樹とは何が違い、何が同じなのでしょう(ホントは比較してはいけない気がするんだけど)。
この答えはなかなか難しい。というのも小説は「何をどのように書いてもよい(by森鴎外)」ので、形式という点は体系的に無視されるからです。ミステリー、大衆小説、筒井康隆の実験小説、擬古文、官能小説、(そこらの?)インタアネット・ノベル、すべて小説であると主張することが(一応は)可能ですよね。
無論、創竜伝もしかりだと私は思います。そしてこれらはおしなべて日本語で書かれているということで共通しています。つまり、言葉です。
多少はずれるのですが、人間を「言語内存在」と定義した哲学者がいました(誰だったけかな?)。私たちは内面の想念を「言葉(ここでは、表情とか文章も含む広義の)」によって他者に示します。
内在しているものを私たちは外在化しなければメッセージを伝えられませんね。外在化は必然的に聞き手へ影響するものですから、管理人さんのおっしゃられるように権力を持ちます。
ただし、この権力は優位とか劣等とかそういうガチガチなものではなくて、他者に自分の話を「聞かせる」力です。
逆に影響力=権力が定義されるなら、内面の想念に一定の価値を付与する必要があります。支離滅裂の想いを表現しても、他人から不快におもわれるだけでしょう。
さて、そうするとこの拙文を含めて「表現・言葉」というものは一切権力を持つことになり、直接的なマスメディアを除けば小説はそのなかでも最高度の権力を保有することは言うまでもないのではないでしょうか。哲学書、思想書が売れず、小説や漫画が代わって台頭しているのならなおさらだと思います。
小説は価値の提示です。どんなに低劣な本でも価値を示しています、というか示さざるを得ません。だって作品は作家の感性で書かれているんだから。そして作家というのは価値を売却して、生活している人たちなんだと思うわけですね、はい。
話を三島由紀夫(よしりんでもいいんだけど)と田中芳樹にもどして考えてみましょうか。両者は表現者です。私たち一般人は、無責任というわけではないけれどもある程度の言葉の自由を許されるはずです。しかし、言葉で金取っているやつが責任をとらないのは許されません。私たちは「私は明日自殺する」といって自殺しなくてもうそつき呼ばわりされるだけですが、「私は自殺する」といって、それを聞かせた人間から金と慈悲をとって自殺しなかったら問題ですよね。プロとはそういうものでしょう。
三島にしろよしりんにしろ表現者として価値を提示する重大性を認識していますが、田中氏には欠けています。皆さんは「田中芳樹は社会評論を「フィクション」にして逃げている」と指摘していらっしゃいます。しかし、たとえフィクションだろうがノンフィクションだろうがそんなことはどうでもいいことで、表現する者としての自覚の無さが問題なのではないでしょうか?そういった自覚が無いのなら文章を書くことを放棄すべきです。
2、責任の所在
よくこのサイトに批判的な人が「読まない自由」というのを行使するだけでいいじゃないか、とおっしゃっているのをお見かけしたことがあります。あんなルサンチマンに満ちた「創竜伝」を見る必要なんかない(言葉が悪くてごめん)、とおっしゃる。
私の意見としては、「人にあの本は読ませたくない」と思っています。言うまでもありませんが、これは極めてファシズム的な思想と結びつきやすいのでしょう。しかしそれでもなお、やはり私は強くそう思うのです。ここでも各所に散見しましたが別に創竜伝が左傾化していようが右傾化していようが私も構わないと思っています。問題はそのあまりのもイージーな手法なのでしょう。かつての私もそうでしたし、今なお私の周囲には数多くそう言った信仰者がいます(特に男子に多いのですが)。
道徳という言葉はあまりにも恣意的に曲げられやすく、虐殺を正当化する為に使われ、おのおの自らのそれが正しいのだと思っています。しかしそうことを承知した上で私は道徳的に悲しい。
もちろん、田中先生の書く権利を奪うつもりはないけれども、せめて出版社や編集部が本来その役割を担うべきではないでしょうか?その商業主義も持ちつつ、文化(というのはオーバーかな)や公共に触れていることをもう少し知ったほうがよいのでは。そういった意味ではここは貴重ですよね(ま、あたりまえのことか・・・)。
3、インターネットの公共性について
誰かが「インターネットという公共の場で云々」とおっしゃっていました。
しかし、私はインターネットの公共性に関して非常に懐疑的です。インターネットの最大の特徴といえば、秘匿性というやつでしょう。名前を出さずに意見を述べる、つまり責任を徹底的に忌避できるわけです。これは果たして公共といえるのでしょうか?私には疑問です。
公共とは恐らく「他人と折衝(その折衝は責任をともわねばならない)の内につくられる場」だと考えるからです。その意味でインターネットはあくまで個人の位相にあるのではないでしょうか?嫌になればいつでも逃走可能ですからね。
なるほど、管理人さんは本名を公開していますよね。でも、他の人はそうではありません。このサイトが管理人さんだけで作られたものなら正当な意見だと思います。
しかし、匿名の個人がよってたかって田中芳樹を(勿論、彼は攻撃されてしかるべきでしょうが)撃って撃って撃ちまくっています。自分たちの正論で田中芳樹を切りつけています。責任のない言葉は易しいのではないでしょうか。
これでは創竜伝同様、このサイトも自慰的集団と謗られても文句は言えないのではないでしょうか?
おわり
あんまり怒らないで下さいね。
> はじめまして(書き方がよくわからないんです)
はじめまして、N.Mさん。
> 私は田中氏が好きですし、このサイトの意見にも大賛成なんですけど、やはりとも
> に与することはできそうにありません。以下かなり長くなるのですがご容赦下さ
> い。
さて、N.Mさんは「賛同はするけど、わたしたちとは相容れない」ということですが、ちょっとわたしが思ったこと言わせていただきます。
まず1.についてですが、小説として田中氏がどのような手法を用いて書くかは、確かにN.Mさんのおっしゃる通り自由だと思います。でも、このサイトで(創竜伝が)批判されているのは、不必要な社会評論によって小説としての構成や設定が破綻しているばかりか、それが作品をつまらなくしている、という点です。わたしたちは、田中氏の社会評論を用いることを小説の手法として否定しているわけではありませし、つい最近、「ではなぜ創竜伝は人気があるのか?」を考えられる様々な要因を分析し、多くの人々と熱く議論したばかりなんです。もちろん、論理的な批判を目指し、安易な否定などはしていないつもりなんですけどもね(^-^;)。
2.ついては、おおむね同感です。
そして、3.ですが、
> 3、インターネットの公共性について
> 誰かが「インターネットとう公共の場で云々」とおっしゃっていました。
申し訳ありませんが、ここは重要な部分だと思うので正確な引用をお願いします。わたしの記憶ではインターネットの公共性を議論したログはなかったと思います。それに近い言葉としては、以前、“ジャコーさん”という方が発言されたことについて、優馬さんが「公開の場としての礼儀に欠けます」という趣旨の発言をされたことがあったと思います。(わたし自身も、その後、自戒の意味で引用させてもらった憶えもあるのですけど(^-^;;)
「公共性」と「公開の場」では、意味することがまったく違います。インターネット上の掲示板では、極端な話、世界中の不特定多数のいろんな人々がアクセス可能です。そこでは、最低限のモラルや礼儀は必要になることは明白で、それをご指摘された発言なんですよ。
>責任のない言葉は易しいのではないでしょうか。
> これでは創竜伝同様、このサイトも自慰的集団と謗られても文句は言えないのでは
> ないでしょうか?
なるほど、N.Mさんは管理人さん以外の人はハンドルネームということに疑問を感じておられるようですが、多くの常連さんはみな、ちゃんと個人アドレスも公開されています。別に匿名で無責任かつ好き放題に悪口を言っているわけではありません。アドレスを公開するということは、自分の発言に責任を持つ覚悟は、一人一人が持っているということです。
これは、わたし個人の事情ですが、姓を名乗っていないだけで、ハンドルネームの「恵」というのは本名です。ただ、それこそここが「公開の場」である以上、姓名・住所・電話番号etc.の個人情報を公開することはすごくリスクのある行為だと思います。ですから、納得のいかないわたしの主張はメールでも受け付ける覚悟はちゃんとあります。ただ、それ以上のことはしかねますけど。だって、普通は作家さんだって自分のアドレスを公開なんてしないでしょう?それどころか、ハンドルネームを言及し始めたら、作家さんのペンネームだっていわばN.Mさんのおっしゃる「匿名」に近いものがあると思うのですけど(笑)。
> これでは創竜伝同様、このサイトも自慰的集団と謗られても文句は言えないのでは
> ないでしょうか?
上記の理由で、反論は大いにあります。わたしは、掲示板でも個人メールでも責任を持って発言しているつもりです。ですから、論理的に批判している行為を「自慰的集団」などと謗られるのはものすごく心外です。
>あんまり怒らないでくださいね。
それはないんじゃないんですか?
わたしを含む、この掲示板の人々を「自慰的集団では?」とまで投げかけておいて、「怒らないでくださいね」と自分でフォローするなんて。ここが「自慰的集団」ではないことを、拙いながらも証明しているつもりなので、少なくともわたしは怒ってるんですよ、N.Mさん!(`-´)
インターネットと匿名性と公共性に関してはあちこちで死ぬほど議論され、いまだに結論
が出ていない状態なので私は言及するつもりはありませんでしたが・・・
> 3、インターネットの公共性について
> 誰かが「インターネットとう公共の場で云々」とおっしゃっていました。しかし、
> 私はインターネットの公共性に関して非常に懐疑的です。インターネットの最大の特
> 徴といえば、秘匿性というやつでしょう。名前を出さずに意見を述べる、つまり責任
> を徹底的に忌避できるわけです。これは果たして公共といえるのでしょうか?私には
> 疑問です。公共とは恐らく「他人と折衝(その折衝は責任をともわねばならない)の
> 内につくられる場」だと考えるからです。その意味でインターネットはあくまで個人
> の位相にあるのではないでしょうか?嫌になればいつでも逃走可能ですからね。
> なるほど、管理人さんは本名を公開していますよね。でも、他の人はそうではあり
> ません。このサイトが管理人さんだけで作られたものなら正当な意見だと思います。
> しかし、匿名の個人がよってたかって田中芳樹を(勿論、彼は攻撃されてしかるべき
> でしょうが)撃って撃って撃ちまくっています。自分たちの正論で田中芳樹を切りつ
> けています。責任のない言葉は易しいのではないでしょうか。
> これでは創竜伝同様、このサイトも自慰的集団と謗られても文句は言えないのでは
> ないでしょうか?
これについては、少なくとも私は自分個人を特定できるインディビジュアルなMAILアド
レスとURLを公開していますし、シグネーチャを最後に入れることでみずからの著作物
であることを表明しています。そしてこのURLもMAILアドレスもフリーアカウントなど
ではなく、独自ドメインを用いた、完全に個人を特定できるアドレスです。
てんてんDWPというのは作家の使用するペンネームと同等のものであり、匿名ではあり
ません。匿名というのは誰の発言かまったく特定できないものを指すものであり、少な
くとも個人を特定できるのであればペンネームやハンドルネームなどは匿名とはなりえ
ません。もちろん「偽物」問題は存在しますが、私は偽物の登場を防ぐ意味もあって、
自己のURLやMAILアドレスを記述しています(誰かがこの「インディビジュアル」な符
号を使用した場合、「偽物」であると言えるためです)。
てんてん dance with penguin
N.Mさん、はじめまして。
以前2,3回書き込んだことがある程度で普段はほとんどロム専門の太郎と言います。
一応本名ですがフルネームでない点はご勘弁ください。
さてN.Mさんの意見については1,2については若干意見を異にする点があるものの大筋では同意見です。
ただ3に関しては「ちょっと賛成できない。それは違うのではないか?」と思ったものですから分不相応ながら書き込ませていただきます。
N.Mさんが3において仰りたいことは、
インターネット上の発言はその発言者が責任を回避しようと思えば回避できる。だから発言も無責任なものになる。またインターネット自体に公共性があると思えない。
よってきわめて狭く一般性の乏しい秘密めいた空間で、あくまで自己満足のために基本的には無責任な発言をするのであるからそれは自慰行為と同じだ。(あるいは他人からそう思われても仕方がない。)
と言うことでしょうか?(もし私が誤解して受け取っているようでしたらお手数ですがご指摘ください。)
以下はあくまでこの要約が正しいと仮定しての私の意見です。
まず、「インターネット上では匿名ゆえ無責任な発言が出来る。」ということ。
これについては「メールがどのような経路を経て送られてきたか」たどる方法はあるそうですが(私は詳しくは知りませんが)、ある程度そのようなことは言えるでしょう。
ただし、ただしですよ、その事と「ハンドルネームを用いた人の発言は無責任である。あるいは発言に対して責任を回避する目的でハンドルネームを用いている。」ということは断じて、いいですか断じてですよ、イコールではありません。
発言者が特定できるかどうかよりも、問われるべきはその「発言内容」なのではないでしょうか?
その発言内容が正しいのかどうか?根拠があることなのかどうか?此処が一番大切なのではないでしょうか?
そこのところを問わず、単に本名を明らかにしていない点だけを取り上げて「どうせ発言に責任をとらないような輩なのだ」というのは少々乱暴ではないかと思います。(必ずしもN.Mさんそのように決め付けているわけではないようですが、そのような気持ちもあるように見受けられます。)
もっとも、私自身は発言内容が正しければその他の事はすべて免責されうるとまでは思いませんが。(「目的のためには手段を選ばず」ということを免罪符にしてはいけないのではないかと思っていると言うことです。)
実際少なくともこの掲示板を見る限り、多くの方がハンドルネームを用いていますが、だからと言ってその発言の多くが無責任だとは私にはとても思えません。(お笑いネタはその限りではないと思いますが。)
もちろんこの掲示板の参加者の現実の行動にまでは私には責任は取れませんが、少なくとも掲示板上の発言においては自分の考えを感情論に陥らず出来るだけ理論的に述べようとされております。そして自分の発言に責任が取れないような人間は、残念ながら誰にも相手にされなくなり此処から去っていっているようです。このあたり管理人さんをはじめ掲示板の参加者の皆さんが此処を単なる無責任な放言の場としないようにそれぞれ自らの責任において努力されている結果と言えるでしょう。
ただ「責任」という言葉の定義に関してN.Mさんは判断の一つに本名を明らかにしているかどうかを挙げられていますが、私自身は何をもって責任をとったとみなすかということについてはやや曖昧です。出来れば最低限何をクリアしていたら責任をとったとみなせるか、または「本名を明らかにしているか否か」あるいは「匿名なので無責任な発言が出来る」以外の根拠で、この発言が無責任だというのをその理由と共に挙げていただけないでしょうか?
まあ過去ログが膨大なので大変だと思いますが。
またインターネットの公共性ということですが、インターネットは非常に公共性が高いものだと思います。なぜならインターネットは利用しようと思えば誰でも利用できるからです。利用者が匿名であるか否かどうかはあまり関係ありません。誰でも一定の条件を満たせばそのサービスを利用できるというまさにその点できわめてインターネット自体は公共性が高いものであるといえます。このあたりはテレビや本、あるいは役所や公共施設、あるいは電車や道路などと同じことです。(例えば電話、いたづら電話は非常に迷惑なものですが、電話自体は非常に公共性の高いものです。要は利用者のモラルでしょう。)
そしてこのページ自体も決して秘密にしているわけではありません。「田中芳樹」で検索すればヒットします。(私がそうでした。)
田中芳樹氏自身にも講談社経由ではあるが管理人さんが報告している筈です。(これはフィクションではないですよね。管理人さん(笑))
ですからたまたまこのページを知らないからといって、だから公共性がないとはとてもいえない筈です。(例えばあるテレビ番組だって見ない人ににとっては存在することすら知らない場合だってあります。だからといってテレビに公共性が無いとはいえないのと同じことです。)
ちょっと長くなってしまいましたが、私の言いたいことは、
1、インターネットは非常に公共性の高いものである。
2、「匿名で参加できるので、責任を回避することは可能」だからといって、
「匿名の参加者が無責任である」というのはイコールではない。
以上の2点であります。
ではでは。
恵さんご返事ありがとうございます
>タイトル:Re: はじめまして
当たり前のことですが、これが恵さんの「タイトル」ですね。はい、さてよく注目してください。あのタイトルの横にある「Re」とは何の省略でしょうか? ご存知ですね。response「応答」の意です(多分)。英語で「責任」をresponsibilityといいます。response「応答する」+ability「能力」というわけですね。
まあ、それはいったん置いておきましょう。恵さんはおっしゃいました。
(引用開始)
> 3、インターネットの公共性について
> 誰かが「インターネットとう公共の場で云々」とおっしゃっていました。
申し訳ありませんが、ここは重要な部分だと思うので正確な引用をお願いします。わ
たしの記憶ではインターネットの公共性を議論したログはなかったと思います。それ
に近い言葉としては、以前、“ジャコーさん”という方が発言されたことについて、
優馬さんが「公開の場としての礼儀に欠けます」という趣旨の発言をされたことが
あったと思います。(わたし自身も、その後、自戒の意味で引用させてもらった憶え
もあるのですけど(^-^;;)
(引用終了)
私の記憶が曖昧で、公共性について述べる導入部のために曲解した可能性がありま
す。もしそうであれば、お許し下さい。
(引用開始)
>責任のない言葉は易しいのではないでしょうか。
> これでは創竜伝同様、このサイトも自慰的集団と謗られても文句は言えないのではないでしょうか?
なるほど、N.Mさんは管理人さん以外の人はハンドルネームということに疑問
を感じておられるようですが、多くの常連さんはみな、ちゃんと個人アドレスも公開
されています。別に匿名で無責任かつ好き放題に悪口を言っているわけではありませ
ん。アドレスを公開するということは、自分の発言に責任を持つ覚悟は、一人一人が
持っているということです。
これは、わたし個人の事情ですが、姓を名乗っていないだけで、ハンドルネームの
「恵」というのは本名です。ただ、それこそここが「公開の場」である以上、姓名・
住所・電話番号etc.の個人情報を公開することはすごくリスクのある行為だと思いま
す。ですから、納得のいかないわたしの主張はメールでも受け付ける覚悟はちゃんと
あります。ただ、それ以上のことはしかねますけど。だって、普通は作家さんだって
自分のアドレスを公開なんてしないでしょう?それどころか、ハンドルネームを言及
し始めたら、作家さんのペンネームだっていわばN.Mさんのおっしゃる「匿
名」に近いものがあると思うのですけど(笑)。
(引用終了)
誤解です。私の書き方がまずかったようですね。元凶はおそらくこれでしょう。
>インターネットの最大の特徴といえば、秘匿性というやつでしょう。名前を出さずに意見を述べる、つまり責任を徹底的に忌避できるわけです。
私は「名前」を争うつもりはないのです。これを云々するよりも、少しまた長くな
りますが思うところを述べさせて頂くことをご容赦下さい。
私たちは日常生活において様々な人と接触します。この接触は通常、同時同所的な
ものであると想定されます。これを会話に限りましょう。この場合、話し手「私」と
聞き手「あなた」は常に顔が見えている関係にのみ接触を許されるということになり
ます。他者と会話するとき、その他者はその場所にいなければ会話は成立しませんよ
ね。
しかし、手紙と電話という2つの例外があります(異論はあるかもしれませんが、
テレパシーは除いときます・・・)。これらの例外は客観的な、私たちが「空間」と
呼ぶものを無視して、心理的な「空間」を現出させます。つまり、隣家のオヤジと電
話相手の恋人では、恋人のほうが心理的な距離は近いということです。その意味で極
めて特殊な接触です。今、問題にしているメイルは手紙、チャットは電話に該当する
のでしょう。しかし、この2つのカテゴリー(手紙・電話、及び直接的接触/メイル
・チャット)には重大な差異を認めなければならないのではないでしょうか。すなわ
ち、繰り返しになりますが、秘匿性の有無です。電話・手紙には勧誘やダイレクト・
メイルであっても、交渉が成立するのであれば(無言電話や不幸の手紙でなけれ
ば)、相手の正体は絶対必要です。それに対し、後者はいりません。私たちは正体不
明の人にresponseできないはずなのに、なんとメイル・チャットではできる
のです。これは何故でしょうか?
それは私たちが名無権兵衛でないからです。権兵衛君にならない為に、「記号とし
て」ハンドルネイム(というのですか?)を用いることで、アイデンティティーを維
持しているからです。
(引用開始)<
これは、わたし個人の事情ですが、姓を名乗っていないだけで、ハンドルネームの
「恵」というのは本名です。>
(引用終了)
それが事実かどうかなんて問題になりませんよ。私の本名が「N.M」であろうか
なかろうが、それは瑣末なことです。ハンドルネイムは所詮「記号」なんです。ここ
で私たちの交渉が成立するための「記号」に過ぎないんです。その意味で、いくら本
名を主張しようがアドレスを掲載しようが「記号としての情報」が増えただけのこと
ではないのですか?あと、
(引用開始)<
それこそここが「公開の場」である以上、姓名・住所・電話番号etc.の個人情報を公
開することはすごくリスクのある行為だと思います。
>(引用終了)
これが私たちが「記号の存在」でしかないことを証明しているのではないでしょうか
?
(引用開始)<
ですから、納得のいかないわたしの主張はメールでも受け付ける覚悟はちゃんとあり
ます。>
(引用終了)
そういうのを責任とは呼ばないと思いますよ。メイルアドレスを公開することは、一
見その能力があることを示しているように錯覚させます。しかし、実は記号的交渉上
のルールを遵守しているだけです。私は責任を「応答する能力」である、と冒頭定義
づけました。けど、メイルで応答してくるのは、やはり得体の知れない「記号」なん
です。以下、強調したいのですが、記号の本体は決して「実害」を与えられることは
ないのではないでしょうか?或る「記号」に怒ったり、反対したり、賛同を表明する
のも「記号」という身分の範囲でしかできないのではないですか?どんなにすばらしいことを言っても責任はとれない虚構の「Re」です。
ルールは遵守できるのでしょうけど、責任はとりたくても決してとれないと思います
よ。ですから、私はここのことをあえて「自慰的集団」と呼びました。
あと、作家のペン・ネーム云々の話ですけど、田中氏
の「記号」と私たちの「記号」は意味が違うということを指摘させていただきます。
おわり
で、かなりファナティックに書いたのでやっぱりいわせて下さい
あんまり怒らないで下さいね(いえ、挑発しているわけではありませんから、ご勘弁
を)
> 恵さんご返事ありがとうございます
こちらこそ、レスありがとうございます。
> 誤解です。私の書き方がまずかったようですね。元凶はおそらくこれでしょう。
>
> >インターネットの最大の特徴といえば、秘匿性というやつでしょう。名前を出さず
> に意見を述べる、つまり責任を>徹底的に忌避できるわけです。
>
> 私は「名前」を争うつもりはないのです。これを云々するよりも、少しまた長くな
> りますが思うところを述べさせて頂くことをご容赦下さい。
>
> 私たちは日常生活において様々な人と接触します。この接触は通常、同時同所的な
> ものであると想定されます。これを会話に限りましょう。この場合、話し手「私」と
> 聞き手「あなた」は常に顔が見えている関係にのみ接触を許されるということになり
> ます。他者と会話するとき、その他者はその場所にいなければ会話は成立しませんよ
> ね。
> しかし、手紙と電話という2つの例外があります(異論はあるかもしれませんが、
> テレパシーは除いときます・・・)。これらの例外は客観的な、私たちが「空間」と
> 呼ぶものを無視して、心理的な「空間」を現出させます。つまり、隣家のオヤジと電
> 話相手の恋人では、恋人のほうが心理的な距離は近いということです。その意味で極
> めて特殊な接触です。今、問題にしているメイルは手紙、チャットは電話に該当する
> のでしょう。しかし、この2つのカテゴリー(手紙・電話、及び直接的接触/メイル
> ・チャット)には重大な差異を認めなければならないのではないでしょうか。すなわ
> ち、繰り返しになりますが、秘匿性の有無です。電話・手紙には勧誘やダイレクト・
> メイルであっても、交渉が成立するのであれば(無言電話や不幸の手紙でなけれ
> ば)、相手の正体は絶対必要です。それに対し、後者はいりません。私たちは正体不
> 明の人にresponseできないはずなのに、なんとメイル・チャットではできる
> のです。これは何故でしょうか?
> それは私たちが名無権兵衛でないからです。権兵衛君にならない為に、「記号とし
> て」ハンドルネイム(というのですか?)を用いることで、アイデンティティーを維
> 持しているからです。
>
> (引用開始)
> これは、わたし個人の事情ですが、姓を名乗っていないだけで、ハンドルネームの
> 「恵」というのは本名です。
> (引用終了)
>
> それが事実かどうかなんて問題になりませんよ。私の本名が「N.M」であろうか
> なかろうが、それは瑣末なことです。ハンドルネイムは所詮「記号」なんです。ここ
> で私たちの交渉が成立するための「記号」に過ぎないんです。その意味で、いくら本
> 名を主張しようがアドレスを掲載しようが「記号としての情報」が増えただけのこと
> ではないのですか?あと、
>
> (引用開始)
> それこそここが「公開の場」である以上、姓名・住所・電話番号etc.の個人情報を公
> 開することはすごくリスクのある行為だと思います。
> (引用終了)
>
> これが私たちが「記号の存在」でしかないことを証明しているのではないでしょうか
> ?
>
> (引用開始)
> ですから、納得のいかないわたしの主張はメールでも受け付ける覚悟はちゃんとあり
> ます。
> (引用終了)
>
> そういうのを責任とは呼ばないと思いますよ。メイルアドレスを公開することは、一
> 見その能力があることを示しているように錯覚させます。しかし、実は記号的交渉上
> のルールを遵守しているだけです。私は責任を「応答する能力」である、と冒頭定義
> づけました。けど、メイルで応答してくるのは、やはり得体の知れない「記号」なん
> です。以下、強調したいのですが、記号の本体は決して「実害」を与えられることは
> ないのではないでしょうか?或る「記号」に怒ったり、反対したり、賛同を表明する
> のも「記号」という身分の範囲でしかできないのではないですか?どんなにすばらしいことを言っても責任はとれない虚構の「Re」です。
> ルールは遵守できるのでしょうけど、責任はとりたくても決してとれないと思います
> よ。ですから、私はここのことをあえて「自慰的集団」と呼びました。
あのう、とりあえず一言よろしいですか?
あなたの論調では、ネット上での発言のすべては「記号」でしかなく、メールアドレス公開も見せかけの責任だということですが、ではこうしてあなたに反論するわたしのこの書き込みも、あなたの上記の書き込みも単なる「記号」で無責任な行為なんですか?
そもそも、ネット上での発言を「記号」の一言で否定してしまったら、こうしてわたしたちが議論すること自体がまったく成立しないんじゃないんですか?
それと大前提にですね、ここは「中傷に陥らない論理的な批判」を目指して発言される方々の集まるところなんです。田中氏に対する根拠のない誹謗・中傷は行っておりませんけど、論理的な批判をされると田中氏に実害が発生して、わたしたちがその責任をとらないといけないんですか?そうだとしたら、世の中のまっとうな評論家の先生方はみんな批判の対象に責任をとらなくてはいけなくなりますね。
N.Mさん、ネット上での発言に対して本当に求められるのは、「責任」ではなく「モラル」じゃないんですか?あなた自身が主張されているように、突き詰めていくと確かにネットの秘匿性はあるかとは思います。もちろん、あなたやわたし自身に関してもその例外ではありません。でも、だからこそ、わたしたちはあなたの言う「ルール(モラル)」を守って書き込みを行っているのです。実際に、わたしたちが田中氏を根拠なく中傷しているならともかく、そうではないのになぜ「責任」問題が発生するのでしょうか?また、あなたの論調ではあなた自身も自分の発言(書き込み)に責任がとれないということになりますが、それについてはどうでしょうか。あなたも無責任を承知で、上記の「ネット発言=記号論」を展開されているのですか?これって、すごい矛盾だと思いますけど…(^-^;;)
> あと、作家のペン・ネーム云々の話ですけど、田中氏
> の「記号」と私たちの「記号」は意味が違うということを指摘させていただきます。
どう違うというのでしょうか?わたしは「広義で」という意味で言ったつもりですけど、具体的にご指摘していただけませんか?
根拠のない指摘は中傷につながる恐れもありますので、忠告させていただきます。
てんてんDWPです。
>私たちは正体不明の人にresponseできないはずなのに、なんとメイル・チャット
>ではできるのです。これは何故でしょうか?
これはおかしいですね。正体不明な人にレスポンスは可能です。貴方はテレビのタレントの
何を知っていますか?ほとんど知らなくてもファンレターは書けますし、テレビに突っ込み
を入れることは出来ます。田中芳樹氏の作品に突っ込みを入れるのと同等に。
雑誌の読者コーナではまったく知らない他人同士が相手の書きこみに対してリプライを起こ
しています。読者コーナに文章が載った人は正体が判明しているのでしょうか。これも記号
に対してリプライしているのではないのでしょうか?深夜ラジオを聞けば、先週の読者投稿
に対するリプライが読み上げられたりします。しかも「匿名」の内容に対してです。
正体不明な相手に対してリプライすることはネットの特権ではありません。日常に普通に存
在することです。
> それが事実かどうかなんて問題になりませんよ。私の本名が「N.M」であろうか
> なかろうが、それは瑣末なことです。ハンドルネイムは所詮「記号」なんです。ここ
> で私たちの交渉が成立するための「記号」に過ぎないんです。その意味で、いくら本
> 名を主張しようがアドレスを掲載しようが「記号としての情報」が増えただけのこと
> ではないのですか?あと、
ちょいと言わせてもらうけど。言動が矛盾していますよ。
最初に管理人さんを除外した理由はなんですか?あなたの今回の書きこみを見る限りで
は、管理人さんだけが書いたとしても対象となると思いますが。
ところで、あなたが思っているほどネットは匿名性が高くはないです。例えばあなたの
書きこみはログとして残り、そこからプロバイダを通して個人を特定することは可能で
す。同じように私の書きこみが例えば田中芳樹氏の逆鱗に触れ、訴えられた場合、プロ
バイダはログをさかのぼることで私個人を特定することが可能です。もちろんわざとロ
グを残さないサイトも存在しますが、ここは以前に管理人さんが別名で参加された人を
同じプロバイダからアクセスしたと付きとめたようにログが残る場所です。
てんてん dance with penguin
ちょっと横レスかと思いますが失礼します。
なんか「田中芳樹を撃つ!」からネット上でのやり取りそのものの価値ということに主題が移ってしまってるような気がしないでもないですが。(^^
恵さんや、てんてんdwpさんが既に「応答」されていますので、同じ趣旨の事を書き込んでも仕方が無いので、責任ということに関して二言だけ。
>私は責任を「応答する能力」である、と冒頭定義づけました。
まあそれも一つの定義ではあるでしょう。
>ルールは遵守できるのでしょうけど、責任はとりたくても決してとれないと思いますよ。
ルールを遵守するというのも責任ある行動だと思うのですが。
> あのう、とりあえず一言よろしいですか?
> あなたの論調では、ネット上での発言のすべては「記号」でしかなく、メールアドレス公開も見せかけの責任だということですが、ではこうしてあなたに反論するわたしのこの書き込みも、あなたの上記の書き込みも単なる「記号」で無責任な行為なんですか?
> そもそも、ネット上での発言を「記号」の一言で否定してしまったら、こうしてわたしたちが議論すること自体がまったく成立しないんじゃないんですか?
この掲示版の議論は全て私の自作自演、もしくはスクリプトかも知れませんよ。うふふふ。
まあ、それはともかく、責任の問題で言えば、そのために管理人がいるんです。
> この掲示版の議論は全て私の自作自演、もしくはスクリプトかも知れませんよ。うふふふ。
>
う~ん、なるほど(^-^;;)。
前者なら、管理人さんは多重人格者ということに?(しかも頻繁に人格が入れ替わるタイプ?)わたしも“恵”という名の管理人さんの人格の一人だったりしてね?ウフフフフ♪
> まあ、それはともかく、責任の問題で言えば、そのために管理人がいるんです。
必ずしも、管理人さん一人が責任を負う必要はないと思います。いざとなったら責任を回避する、というつもりはわたしにはありませんし、アドレスを公開されている常連の皆さんもそうだと思います。てんてんさんのご説明では、プロバイダから追跡して個人を特定することができるそうですから。
なんか、反論するのも面倒です。どうせ異論を認める気もないのでしょうから、私は何も申しません。あなたが記号と虚構の世界に浸るのを止める権利はありませんから、どうぞお好きなように。
オイラは「野望円舞曲」と、もう一冊とある本を探すので忙しいのだ(^^;)
1ヶ月前くらいに偶然こちらを発見し、ロムさせていただいております。
中傷に陥らない論理的な批判を行うよう心がけつつ、かつ世界観を楽しむことも忘れないこのサイトの内容に好意を持っております。
さて、サイト内容とはかけ離れているとはいえ、なかなか興味深い話題ではありますね。
それでもN.Mさんの元発言の3.の主張は、結局のところ、芸能人を対象とした中傷サイトなどでよく見られる「自分に実害の加わらないところで、人(=その芸能人)のこと好き放題コキおろしてて楽しいか。勝手にやってろ」という投稿とおっしゃってることはそう変わりなく、あまり独創的ではないですが。
まあ、批判サイトが存在するならその批判サイトを批判する意見もあっていいはずですので、そういう意味ではN.Mさんのような投稿も、見てる側としては良いブレーンストーミングになります。
さてさて、N.Mさんの「記号論」は理解できる点もあるのですがそれはそれとして、私が注視したいのはやはり元発言の最後、
「自慰的集団と謗られても文句は言えない」
ここでしょうね。
個人的な考えですが、「自慰(的)行為」がネガティブな意味で捉えられるのは、なんら創造的でもなく触発性もない、大変「虚」な行為だからでしょう。
己(おのれ)一人で完結してしまっている行為だからではないでしょうか。
ですから、管理人さんがここのレスにつけているように、このサイトの全てが管理人さんの「自作自演」であったなら、それこそがまさに「自慰的行為」だといえると思います。
本当にそうだったなら、あきれてモノも言えませんよね(^^;。それだけのことができるなら、もっと別のコトやれよ、という(笑)。
極論ですが、
「オレはこいつがキライなんだー!」
というなんらかの行動をした人がいたとして、その行動がそのままず~っと虚空を漂っていれば、それは自慰行為と等価だと思います。
しかし「うん、俺もそう思うよ」という相手が一人でも現われた時点で、最初の「オレは~キラいだー!」は「自慰行為」ではなく「表現」として成立している、と考えます。
下劣になりますが、例えば(ホントの)「自慰行為」そのものは自慰行為でしかありませんが、そこに鑑賞者が現われた時点で、その自慰行為は鑑賞者にとって「表現」になると思います。
Webサイト上でも同じように言えるのではないでしょうか。
もし、このサイトがまったく誰の目にも触れることのない、管理者さんの虚空への叫びのままだったとしたら、それはとてつもなく虚しい。自慰行為に等しいと言えるでしょう。
しかしそうなっていないのは、まさにN.Mさんのようにレス(投稿)をつけてくださる方の存在が、私のようなROMである者からも明らかにわかるからです。
ここで仮に、私以外の投稿が管理者さんの「自作自演」であったとしても、N.Mさんの投稿すらも演技だったとしても、「私自身」は自分がレスを投稿したことを「知って」います。むろん管理者さんも自分以外の投稿があったことを知ります。この時点ですでにこのサイトは、私と管理者さんの間で「自慰行為」ではなくなりました。
もし、この投稿ですらも「自作自演」だろうと(他のROM人に)思われたら、思われただけならそのままですが、「自作自演だろう」と投稿が入った時点でその投稿した人と管理者さんの間で(以下省略)。
重要なのは「レスポンスがあるかないか」。まさにこの一点なのではないかな、と考えます。
中傷サイトに「自慰的だな」という言葉を当てはめるならば、キライな芸能人などの悪口雑言、罵詈雑言をただ並べ立てるだけに終始し、あげくに「名無しさん」の投稿だったりする場合ではないですかね。
なぜキライなのかを述べてあるならまだいい方だと思いますよ。少なくとも他人に理解してもらおうという努力が見えますから。
私はとある悪口サイトを知っていますが、最近高校生とおぼしき人たちが、自分の周囲の人(クラスメートとか)の悪口を書き連ねるようになって、全然面白くないです。
読んでいる人を面白がらせよう、という姿勢がない。
読んでいるこちらが知りもしない人の悪口を、ただぎゃあぎゃあと並べられても、どんな応答(レスポンス)のしようもありませんからね。
しかし投稿人の周りにしかいない人のことでも、書きようによっては読んでいて「面白い」と言わせることもできます。
「共感してもらおう」「興味を示してもらおう」という姿勢があるかないかは、コミュニケーションをとる上で非常に重要です。
このサイト「タナ撃つ」は、冒頭にも述べましたが大変好意的に楽しませていただいています。
掲示板などでのやりとりも説得力に富むものが大半をしめ、エンターテイメント性の高いものだと思っています。
それを指して「自慰的集団」とまで言われてはちょっと黙っていられませんでしたので、駄文ながら投稿させていただきました。
1はじめまして・・最近ここのページを知ったTAKAと申します。
基本的にネットワークであろうか、現実のNYのスラム街で黒人批判
をしても、昔の旧ソ連のクレムリン前で政権批判などの表現するの
は自由だと思います。法律上でもその権利は守られています。
あとインターネットは匿名性が高いと申していましたが、思って
おられるほど高くはないのも事実ですよね。
でも上記のようなことをしたら例え法律で守られていてもどうなる
かは想像できるでしょうに・・(笑)
この掲示板にまた書いた人が読みにくる限りその人はその場所に
いると解釈できますしね、あらゆる手段で攻撃されても当然です。
この世の中には色々な考え方を持っている方がおられますしその
”自慰的集団”という社会の中でその自慰的集団に対して自慰をや
めなさい。と申し上げても反感を買うだけだと思うのですが?
で田中芳樹氏に批判したい・そして創竜伝を世の中の人に読ませ
たくないとおっしゃるのであればまずここの掲示板に書いても無理
でしょう。まず出版社に対して理由を述べて創竜伝を廃刊してください
とメールすべき。その後で内容証明郵便など法律にもとずいた手段
を用いて裁判まで持っていかれるのがいいのではないでしょうか??
もしくは賛同者を募って署名運動を展開したり、暴力的手段
(出版社の破壊や買い取る)で解決してもいいかもしれません。
権力というのは人の力です。N.Mさんの個人の力がどんなものかは
知りませんが言葉やこういった掲示板の言葉は個人の力(知力、財力、
カリスマ性(賛同者が多い等))に基づいてあると思うのです。
私のような人間は力がないのでそんなに言葉にも力がありませんが・
でもそういった人間でも表現する自由(責任)はありますし、その後
の責任を負わなければいけないと思うのです。(その後の責任というのが
大体、時間や労力、金が必要になる・・(涙)。)
反感を買わないような言葉を選ぶのは難しいですなぁ・・
人の事はあまりいえませんが・・
では TAKA
N.Mさんへ。
卿の議論は下記二点の理由により、「公開の場での議論の礼儀に欠け」ていますね。
1)趣旨不の明瞭な長文
2)無用に非礼な表現「自慰的集団」
趣旨を箇条書きにしてA4一枚にまとめて再提出してください。
そしたら、相手してあげる。
私たちも、そんなにヒマではないのですよ。
(長いので最後の部分だけお読みください。)
みなさん、レス本当にありがとうございます。田中氏とかけ離れていくことに申し訳なく思います。
(引用開始)
> それが事実かどうかなんて問題になりませんよ。私の本名が「N.M」であろうか
> なかろうが、それは瑣末なことです。ハンドルネイムは所詮「記号」なんです。ここ
> で私たちの交渉が成立するための「記号」に過ぎないんです。その意味で、いくら本
> 名を主張しようがアドレスを掲載しようが「記号としての情報」が増えただけのこと
> ではないのですか?あと、
ちょいと言わせてもらうけど。言動が矛盾していますよ。
最初に管理人さんを除外した理由はなんですか?あなたの今回の書きこみを見る限り
で
は、管理人さんだけが書いたとしても対象となると思いますが。
(引用終了)
投稿し終ってなんかへんだな、と思っていました。ごめんなさい、完全に矛盾してます。私の刹那主義がばれてしまった。強引な辻褄あわせだと思いますが、後述させてください。
(引用開始)
>私たちは正体不明の人にresponseできないはずなのに、なんとメイル・チャット
>ではできるのです。これは何故でしょうか?
これはおかしいですね。正体不明な人にレスポンスは可能です。貴方はテレビのタレントの
何を知っていますか?ほとんど知らなくてもファンレターは書けますし、テレビに突っ込み
を入れることは出来ます。田中芳樹氏の作品に突っ込みを入れるのと同等に。
(引用終了)
有名人と一般人の関係は、一般人と一般人のそれとは全く異なると思います。
私はタレントのAさんについて何も知りません。しかし、「A=芸名=記号」がスキャンダルに巻き込まれれば、Aさんにとって致命傷となりかねません。本人と記号がここでは乖離していないのです。
あの、(辻褄あわせですが)本人と記号の乖離を軽減するものとして実名というのは役立つのではないかと・・・。ですから、上で「瑣末」と書いたのは訂正したいです。すいません。
以下の文章は、田中氏とは全く関係がありませんので不必要であれば読み飛ばして頂いて6だけお読みになれれば結構です。また引用部の解釈が、間違っていると思われればご指摘ください。
1、群集について
群集の誕生は近代になってからのことでした。農村から都市に、自由を求めて大量に人々が流入してきたんです。それ以前の都市には、身元のはっきりした人間しか住んでいませんでした。つまり「匿名」の人間として生きることは許されなかったのです。
それが近代になって一新したのです。レ・ミゼラブルに見られるように、当時の(近代の)都市には誰が住んでいるのか誰もわからない状況にあったんです。その後数々の群集蜂起を経て、為政者側がこの匿名性を恐れ、都市整備を行い戸籍をつくったり身分証明書の提携を義務付けたりして、それを剥奪していきました。
フロイトは「集団心理学と自我分析」のなかで群集について、匿名性による責任感
の欠如、伝染性、不安定さの点を述べ、これらが原初的社会、子供、精神病者に通底していることを指摘しています。であれば、人は群れることで原初に回帰する傾向をもつことになります。
また、ハイデガーが云うところでは「・・・目立たず、確認したいがゆえに、『大衆人(ダス・マン)』の真の独裁性が発揮される。彼らが楽しむ通りに私たちは楽しむ。彼らが見て評価する通りに、私たちは文学や芸術を鑑賞し、評価する。彼らがひどいと思う、その同じ物について、私たちも・・・(中略)・・・彼らは私たちのすべてであり、その彼らが日常性におけるあり方を規定している。・・
・(存在と時間)」
つまり、群集とは誰?という問いかけは「彼ら=みんな」ということですね。
子供が母親に「みんなが持っているから、あれが欲しい」と言うときにつかわれる「みんな」とニアリイ・イコールだといえばよりわかっていただけるでしょうか。
さらにハイデガーは大衆人について<公共性(エッフェントリヒカイト)>、<平均性(ドゥルヒシュニットリヒカイト)>、<頽落(デカダンス)>にまで言及していきます。
安易に解釈すれば、世間、日常の中に埋没して、自分独自のあり方を手放すことで私は「大衆人」に「責任」を免除してもらうということでしょうか。しかし、今はこれを問題にしません。
私は、この群集(勿論、私を含みます)が必ずしも悪いと言うのではありません。
ただ、インターネットが「開かれた場」であるというのでしたら観客席にいるのは「彼ら」であると思います。
2、<顔>について
さきの投稿で私は責任を「応答する能力」としました。それを具体化していきます。
私は人が交渉する際、接触の仕方が問題であると述べました。交渉相手は当然他者です。そこには彼、あるいは彼女のまなざしがあるはずですね。
確かにその顔はその人固有のものでしょうが、主体(見る側)にとってその顔は別の抽象的で普遍的な意味合いを持ちます。(私が)見る-(相手が)見る、という認識関係は客観的には成立します。
しかし、主体にとっては、(私が)見る-(私が)見られる、という関係です。そしてこの(私が)見られる、というのは極めて重大な意味を含んでいます。この状況は、他者が主体よりも超越的な存在として現れ、主体を審問する。相手は「見ている」という意識の主体としてではなく、(私が)見られている、というある意味自由を拘束される状況を作り出すものとして現れるのです。
私の好きなE・レヴィナスは「<顔>は言語を通じて主体と関係を持つ。だが、このために顔が<同なるもの>に組み込まれるわけではない。顔は自我と関係しながらも、絶対的なものでありつづける。・・・(中略)・・・倫理的な関係は主体を審問し、その審問は他者から生まれるものである。・・・(全体性と無限)」
接触は、その意味で主体にとって一方的な倫理関係でもあるし、そのために<顔>への審問に「応答する」責任が生じてきます。極端な話、主体であることは他者に関して全的な責任を引き受けることと同義なのです。他者への責任を果たすことで正義が生じ、責任への覚悟から道徳性が生じるのだと私は信じます。
3、名前について
今回の岡山大学文学部後期2次試験の小論文のテーマが「名前は識別する為の機能があるが、他にどのような機能があると思うか、考えて書け」だったそうです(先輩から聞いたのです)。
それの模範回答になるかどうかはわかりませんけど。存在する個物は、言葉の関係性がないところへ現れることはありません。言語は本質的に、存在する個物に名を与え(認識し)、或る意味においては個物の存在を許可します。ハイデガー風に言えば、名前が存在者を唯一にし、保存するのです。
私はハンドルネイムを「記号」といいましたが、この「記号」も確かに名前ですよね。
4、論理的とは何か
一般論は、全体が整合的で矛盾しておらず、ある程度の能力を有するものが見れば誰でも、その筋道が追えるようなこと、だと思います。私も一般論と同様です。
5、総論
私が「自慰的行為」と云った理由は、インターネットという自分以外は間違いなく1、<彼ら>であるという場(開かれた場)において「意見」を述べることは、いくらそれが中傷に陥らない4、論理的な議論であっても、お互いが3、自己のアイデンティティーと乖離した、物語になりにくい無機的な「記号」の存在である為に、2、他者への責任を起点とする正義や道徳性が屈折しやすくなり、そのために田中氏の批判が正鵠を射た論理性と品性あるものでも、なにかテレビゲーム的な感覚だなあ、と思わせるからでした。管理人さん一人の運営であれば3、がはっきりするのではないかと思ったので・・・。
しかし、自作自演とは(・・・)。
最もこれはほとんどのサイトに当てはまることですから、私の考えが屈折してると云われればアウトなんです。
6、お詫び
(引用開始)
<Webサイト上でも同じように言えるのではないでしょうか。
もし、このサイトがまったく誰の目にも触れることのない、管理者さんの虚空への叫びのままだったとしたら、それはとてつもなく虚しい。自慰行為に等しいと言えるでしょう。
しかしそうなっていないのは、まさにN.Mさんのようにレス(投稿)をつけてくださる方の存在が、私のようなROMである者からも明らかにわかるからです。
ここで仮に、私以外の投稿が管理者さんの「自作自演」であったとしても、N.Mさんの投稿すらも演技だったとしても、「私自身」は自分がレスを投稿したことを「知って」います。むろん管理者さんも自分以外の投稿があったことを知ります。この時点ですでにこのサイトは、私と管理者さんの間で「自慰行為」ではなくなりました。
もし、この投稿ですらも「自作自演」だろうと(他のROM人に)思われたら、思われただけならそのままですが、「自作自演だろう」と投稿が入った時点でその投稿した人と管理者さんの間で(以下省略)。
重要なのは「レスポンスがあるかないか」。まさにこの一点なのではないかな、と考えます。
中傷サイトに「自慰的だな」という言葉を当てはめるならば、キライな芸能人などの悪口雑言、罵詈雑言をただ並べ立てるだけに終始し、あげくに「名無しさん」の投稿だったりする場合ではないですかね。
なぜキライなのかを述べてあるならまだいい方だと思いますよ。少なくとも他人に理解してもらおうという努力が見えますから。>
(引用終了)
多分、おっしゃる通りだと思います。あえて「自慰的」と表現しましたが、極めて独善的だったと思います。この表現を撤回し、謝罪します。
ごめんなさい
これはプラトン哲学の「フェノメノンとイデア」、仏教の「応身と法身」のように、古代から世界中で議論されていますね。
2バイト文字の羅列が顕しているところは、書いた人なのでしょうか、それとも書いた人を離れた世界観なのでしょうか。
私の書き込みが自作自演に見えたらそれは自作自演ですし、見えなかったらそれは別の人との議論なのです。
銀英伝でよく言われているように、真実と事実は違うと言うことです。
「法的責任」以外の責任は、確かに曖昧になり得ますけれど、場の雰囲気やルールとして実効的責任が生じます。これが対面の場合の責任と異なるのは優劣(がないとは言わないけど)ではなく差異の次元かも知れませんよ。