田中芳樹の作風に「全共闘」的なスパイスがきいているのは確かだと思います。
ただ、自分の理論や価値観を相対化できないなどとはさすがに考えにくいのではないでしょうか?
誰でも"立場"というものを持てば必然的にどこか視点に"偏り"が生じます。
このことから逃れられる自我はない訳で、問題はそれを「絶対化」したり「正当化」してしまって他人との間で比較考量したり客観化したりできなくなることでしょう。
恐らく田中芳樹は"自己の相対化"ができているはずです。
なぜなら、彼の政治批評や意見や引用はちょっと露骨すぎるくらいにあからさまで単純化されているからです。
創竜伝の何巻かの後書き座談会で、「いかに登場する政治家などを卑小に描くかが作者の苦労のしどころだ」みたいな言葉がありますが、これが彼の本音だと思います。
本当に読者に対して思想的な影響力をおよぼしたいと意図して書かれているのならば、これほど「わかりやすく」は書かないでしょう(笑)。
村上龍の作品みたいに読めば読むほどズブズブと深みにはまっていって人間存在の不条理さなんかに苦しんだり悩んだりしてブルーになる作品もあれば、勧善懲悪でわかりやすいおとぎ話的な(読む前から100%安心して読める)生臭い犯罪やらレイプやら中絶やら児童虐待やらが出てこない作品・ハッピーエンド確実な作品もジャンルとして存在意義があります。
というか、そういう作品こそが俗に言う"王道"なわけで、そうでない作品は所詮はマイナーにしかなれません。
※むろんそういった作品は作品で存在意義は立派にありますが。
読者の望む作品を作り出すのが作家の仕事なのですから、田中芳樹はその義務(?)を立派に果たしています。
その証拠に彼の作品はほとんどがベストセラーです。
ここにいる方々が田中芳樹に対して違和感をもつようになったのは、「読者としての自分」が変わった(=大人になった)からでしょう。
彼の作品は中高生ぐらいの子たちが読んで適当なものです。
大人になってみれば『ノンタン』や『アンパンマン』はアラやからくりが観えてしまってつまらなくなるのは当たり前です(というか、そうなれないのならばモラトリアムやってるんであって困ります、社会全体としてみれば。個人的にはかまいませんが)。
大人になってまで"おとぎ話"を読もうとするから無理がでてきているんであって、早く卒業するべきである、というだけのことでしょう。
ちなみに、最近の創竜伝のパワーが著しくダウンしてきているのは事実ですが、それも当然のことです。
なぜならこの作品は本来は第一巻のみで完結するはずだったのですから・・・。
それを無理矢理出版社からの要請で続けようとした時点で破綻が生じるのはもう覚悟の上だったハズです。
初めから全構想を練って作り上げた『銀河英雄伝説』とは話がまったく異なります。
最新巻なんかは終わり頃の『ドラゴンボール』や『幽遊白書』などと同じような感じじゃないでしょうか。
作者本人は書きたくないのに、出版社からの突き上げにあってやむを得なく書いている・・・。
だから苦肉の策で、夢でみたネタなんかで書かざるを得ず(別にそのこと自体を否定するわけではありませんが。ただ、あまり充実性が感じられるシナリオづくりではないですよね)、設定なども似て非なる異世界である、みたいにしなければならなかったのでしょう。
むしろ田中芳樹としては『魔天楼』なんかのシリーズの方に意欲を感じている気がします。
未完でシリーズを終えてしまうのは確かに攻められるべきことかもしれませんが、逆に私としては無理に続編を書いて前の作品群を台無しにするよりも、そこで止めておく方がベターだと思うのですが。
最後に、作品の主人公が作者の分身であることは当たり前です。
いくつかの作品でその主人公に中学生の女の子がそばにいることは、作者の自我の偏りの反映かもしれませんが、そんなことにケチをつけはじめたらあらゆる作品はみな妄想の産物なのですから困ってしまいます。
※というよりも、大人が読むことを前提にして書かれている訳ではないので、むしろ少年・少女が登場する方が自然なはずです。
ただ、導く存在が子供でも困るので青年や中年・壮年の男性という読者が納得しやすい・入り込みやすいキャラにしているだけ、というのが実際のところでしょう。
どちらも幻想で、それを共同化して楽しんだり知識・イメージ.etcを受け取ったり考える元にしたりすればいいのであって、それは小説に限らず大前提です。
このことを嘲笑するのは"ためにする批判"でしかありませんし、無意味です。
きちんと読者が相対化できるようなレベルで書かれているのですから、それは逆に無意識的に
「俗に言われている正義みたいなものは実は一面的なのではないか?」
と気づかせる側面の方が強いでしょう。
物語は物語です。
そして、田中芳樹の書く物語は"おとぎ話"です。
Bさんの意見に、ちょっと納得が行かなかったので、言葉足らずは自覚していますが反論など。
私は田中芳樹が価値観を相対化出来ているか否かについて、明言するほどの情報は集めておりません。しかし
>本当に読者に対して思想的な影響力をおよぼしたいと意図して書かれているのならば、これほど「わかりやすく」は書かないでしょう(笑)。
これはその判断材料にならないと思います。
プロパガンダ・広告の類はその手法として少なからず単純化を使ってきたのではないでしょうか。
>村上龍の作品みたいに読めば読むほどズブズブと深みにはまっていって人間存在の不条理さなんかに苦しんだり悩んだりしてブルーになる作品もあれば、勧善懲悪でわかりやすいおとぎ話的な(読む前から100%安心して読める)生臭い犯罪やらレイプやら中絶やら児童虐待やらが出てこない作品・ハッピーエンド確実な作品もジャンルとして存在意義があります。
・・・これは田中作品を後者にあたるものだとおっしゃっているように読めるのですが、わたしの邪推でしょうか。でないとしたら、暴力と性的偏見(我ながら拘ってるな~(^^;))と人間存在の不条理さと醜悪さにみちた某田中作品はどうなるんでしょう。
>逆に無意識的に「俗に言われている正義みたいなものは実は一面的なのではないか?」
と気づかせる側面の方が強いでしょう。
これは人によりけりですから、そういう面もあるかもしれない、とは思います。
でもその程度のことに気付くのに、あんな不愉快なものを読むのはなんだかなぁ~
・・・っと、私情になってきましたのでこの辺で帰ります。
>ここにいる方々が田中芳樹に対して違和感をもつようになったのは、「読者としての自分」が変わった(=大人になった)からでしょう。
というのは、確かに一理あると思います。しかし、その他の主張には首を傾けざるを得ないですね。
>恐らく田中芳樹は"自己の相対化"ができているはずです。
>なぜなら、彼の政治批評や意見や引用はちょっと露骨すぎるくらいにあからさまで単純化されているからです。
>創竜伝の何巻かの後書き座談会で、「いかに登場する政治家などを卑小に描くかが作者の苦労のしどころだ」みたいな言葉がありますが、これが彼の本音だと思います。
これは、おそらく7巻のあとがきだと思います。
『第七巻の原稿を書きあげた後、証券会社や銀行を中心に政財官界のスキャンダルが続出して、作者がぼやいていましたね。「どんなに小説家が頭のなかで悪事をこしらえても、現実の政財官界の連中にはとてもかなわない」って』
そういうわけで、「いかに登場する政治家などを卑小に描くかが作者の苦労のしどころだ」とは田中芳樹は全く言っていません。ついでに言えば、政治家というキャラクターを卑小に書くのは勝手ですが、現実を小説という立場から卑小化して書くこと(拙論「田中芳樹の認識」等参照)が、どうして自己の相対化とつながるのか、はっきりと言って理解できません。
しかも、笑止なことにさっきのあとがきは、こんなふうに続くんですよ。
『それはもう当然のことだな。ソ連でも政変があったし。小説が現実に追いつくのは大変だけど。(後略)』
このあとがきからも判るように、
>ちなみに、最近の創竜伝のパワーが著しくダウンしてきているのは事実ですが、それも当然のことです。
>なぜならこの作品は本来は第一巻のみで完結するはずだったのですから・・・。
>それを無理矢理出版社からの要請で続けようとした時点で破綻が生じるのはもう覚悟の上だったハズです。
>初めから全構想を練って作り上げた『銀河英雄伝説』とは話がまったく異なります。
>最新巻なんかは終わり頃の『ドラゴンボール』や『幽遊白書』などと同じような感じじゃないでしょうか。
>作者本人は書きたくないのに、出版社からの突き上げにあってやむを得なく書いている・・・。
にある、『ドラゴンボール』や『幽遊白書』の破綻と、創竜伝の破綻は全くの別物です。何故なら、前者は、長期連載の弊害である敵のインフレ状態が主で破綻しましたが、創竜伝ではそうではありませんね。私が批判している創竜伝の破綻は、本論3で書いたとおり、「小説が現実に追いつ」こうとする姿勢による破綻なのです。
そもそも、>作者本人は書きたくないのに、出版社からの突き上げにあってやむを得なく書いている・・・というのが、仮に本当だとしても、私は同情はしませんね。銀英伝一〇巻のあとがきで、「巻数は公約だ。信じて欲しい」と言った人ですから、むしろ圧力に屈して巻数を増やしたということのほうが問題だと思います(しかし、銀英伝が始め一巻完結という話は聞いたことがありますが、創竜伝がそうだという話は寡聞にして知らないのですが…)。
繰り返しますと、私が創竜伝の物語として破綻していると指摘するのは、何故物語の整合性をぶち壊してまで『小説が現実に追いつく』…要は社会評論をする…必要があるのか、ということなのです。
>彼の作品は中高生ぐらいの子たちが読んで適当なものです。
>
>大人になってみれば『ノンタン』や『アンパンマン』はアラやからくりが観えてしまってつまらなくなるのは当たり前です(というか、そうなれないのならばモラトリアムやってるんであって困ります、社会全体としてみれば。個人的にはかまいませんが)。
もし、私が「竜の化身の超能力者が世界を支配する組織と闘う、なんてガキっぽいな。くだらねぇ小説だ」という批判をしているのなら、御説ごもっともだと思います(私もいまさらファンタジア文庫読むのもツライし)。しかし、私が批判しているのは、そういう事じゃないんですよ。創竜伝のやり口は、少年向けだろうと、壮年向けだろうと、変わらずにくだらないんですよ。「銀英伝のころの誠実さと創竜伝の腐り果てた姿」と言う意味で、私は田中芳樹に違和感を感じるようになったのです。
>大人になってまで"おとぎ話"を読もうとするから無理がでてきているんであって、早く卒業するべきである、というだけのことでしょう。
といいますが、銀英伝は今読んでも充分面白いのですから。「王道」ってのは、こういうもののことじゃないですか。
>最後に、作品の主人公が作者の分身であることは当たり前です。
>いくつかの作品でその主人公に中学生の女の子がそばにいることは、作者の自我の偏りの反映かもしれませんが、そんなことにケチをつけはじめたらあらゆる作品はみな妄想の産物なのですから困ってしまいます。
>どちらも幻想で、それを共同化して楽しんだり知識・イメージ.etcを受け取ったり考える元にしたりすればいいのであって、それは小説に限らず大前提です。
>このことを嘲笑するのは"ためにする批判"でしかありませんし、無意味です。
これについては、過去に掲示板やメールで様々な方から忠告されています。私も、異論はありません。
これらの初期のコンテンツは、直そうと思えばいつでも直せましたし、レイアウトを変更したときなど、直す機会もありました。
それにも関わらず修正しなかったのは、散々得意げに開陳しておいて、いざとなったら都合の悪い部分を隠すという方法が、私にとって感覚的にイヤだったからです。もし、これが事実誤認や当方の認識不足などのような緊急を要す場合でしたら修正や補記(例えば盗泉における水経注の指摘のような)・謝罪をしますが、この件については私はそこまでする必要もないことだと思っています。
もちろん、「口汚くののしりやがって」と思われるのは自由ですし、私もそう思われても仕方がないと思っています。そして、指摘されたからと言って隠したりせず、それを甘んじて受けることが責任ではないかと、私個人は考えています。とにもかくにも、あのような形で発表してしまったことの責任はとらなくてはならないと思うのです。
B氏の意見、私も読みましたけど、同意できない点が多いですね。単純化された批評は「相対化」が出来ているということなのでしょうか?むしろプロパガンダとしてスローガンを掲げるとき、単純明快な方が、一般受けするし大衆煽動には効果的です。共産主義云々を言わなくても、ナチス・ドイツのやり口を見ても一目瞭然でしょう。当時のドイツ国民は、ヒトラーを熱狂的に支持した訳ですから。
「創竜伝は中学生程度向けの、アンパンマンのような勧善懲悪ものに過ぎない」
という主旨のことを述べておられるが、とてもそうは思えません。むしろ、作者が構築した創竜伝の世界を、自分自身である程度信じているのでは?と思えますね。荒巻義雄の「紺碧の艦隊」の中に出てくる「影の世界政府」なるものを、作者がある程度自分でも信じているよう(にしか思えないもので)なことに似ていませんか。また、B氏は
「田中芳樹は創竜伝など書きたくはないのだ。出版社に無理矢理書かされている」
という意味のことも言っておられますが、それにしては「無理に書かされている」のが創竜伝一本だけってのは妙です。アルスラーンはどうしたのでしょうか?タイタニアは?あれもこれも出せば売れること間違い無しだから、出版社は書いて欲しくてしょうがないと思いますよ。むしろ、田中芳樹と出版社の関係は、出版社が拝み倒して、ようやく書いて頂いている、という状態ではないでしょうが。普通の作家とは完全に力関係が逆転していると思います。出せば売れるのだから。そうでもなければ、ここまで書き散らして放ったらかしの作家など、とうの昔に干されていますよ。とすると、田中芳樹は自分の意思(出版社に強制的に書かされる力関係ではない)で、シリーズ物の中では創竜伝だけを書き続けている、ということになります。つまり創竜伝を書きたいんですよ、田中芳樹自身が。ところが、それを読んだ私などは「作者の理想とする世界と、現実の世界とのギャップに対する不満からの鬱憤晴らし」としか読み取れなくなり、読む気がしなくなって田中芳樹自体を見放してしまう、という反応になる訳です。「子供向けのおとぎ話からの卒業」でも何でもありません。創竜伝自体が、害毒を撒き散らしているから、嫌になる訳です。この点、B氏の、田中芳樹の現状に対する考察は完全に誤りだと思いました。
私としては、「個人的欲求不満の解消の為にやっている小説など、商業ベースではなく同人ででもやってくれ」と言いたいですね。管理人さんも同じでしょう。これを「子供向けおとぎ話」として評価せよ、と言われましてもね~。ドラゴンボールや幽遊白書とはかなり違うと思います。また、創竜伝を読んで
「俗に言われている正義みたいなものは実は一面的なのではないか?」
などと考える人はそんなにいないでしょう。普通の反応は、根っからの田中芳樹ファンで「その通り、政治家も官僚も大企業も腐っている!」と純粋真っ直ぐに同意するか、「何だこれ?無茶苦茶じゃないか。偏見だらけで読むに耐えん」と思うかのどっちかでしょう。私は後者でしたけど。銀英伝のように、「人それぞれの正義について」など、考えさせられるテーマのものではないと思いますよ。単純化した設定に相応しく、単純化した反応が普通ですから。B氏のような思考を持つ人は少数派だと思います。
ええーなんか気恥ずかしいのですが、初めまして、宣和堂であります。中国史系の家頁で“田中芳樹 七つの大罪”なるコーナーを書いている者です。
まず最初に、管理人の石井様、ご丁寧なメール及び当頁へのリンク、ありがとうございます。
リンクの確認がてらこの家頁に寄らせていただいたところ、B様の書き込みを見て感じる所があったので書き込ませていただきます。
まず、『創竜伝』は田中芳樹(敬称略)が『北斗の拳』や『魁!男塾』(すいません、こういう性分です)のように、商業主義に毒された出版社に強要されて書かされているように意見されておられますが、これはいくら何でも無理があります。
彼に出版社に対する責任感が微塵でもあれば『銀英伝』の外伝も『灼熱の竜騎兵』も『タイタニア』も『アルスラーン戦記』も、とっくの昔に完結していなければなりません。
おまけに各作品のあとがきに書かれている、中国モノの「光武中興モノ」や「唐太宗立志伝的なモノ」も刊行されいなければなりません。
このように、他の仕事は逃げ出しているにもかかわらず、『創竜伝』のみ刊行していたというのは、穿った見方をすれば、K談社との繋がりを絶ちたくなかったから、と見ることもできます(3月にはk談社から念願のハードカバーで又、人の褌で商売するとの噂もあります)。
おまけに、『創竜伝』の9巻と10巻を読み直していただければ分かりますが、ココの間で、重大な方向転換が為されています。9巻の終わりで10世紀後半の宋遼国境に下り立った終君が曹彬の頭の上あたりを飛んで次巻に続いておきながら、10巻では、そんなことは無かったかのように、ただひたすらイギリスを薙ぎ倒す竜堂兄弟の描写だけで、宋遼国境戦は伏線すら登場しませんでした。犬の松永君の飼い主(二郎神君)の伏線も、引くだけ引いてお蔵入りです。一つ間をおいて11巻で触れるのかと思えば、外伝の名を借りた下らないSFを読まされました。自分は田中芳樹の政治認識には興味なかったのですっ飛ばして読んでます。主に中国史に関係あるところしか覚えていませんが、少なくとも、9巻までと10巻からは、明らかにプロット上の変更若しくは断続が見られます。しかも田中芳樹は、わざわざプロットを崩してまであえて自己満足の便所の落書きを、まるまる1冊、たぶん、出版社に強要されることなく書いてます。いくら自分がファンだととはいえ、この作家のプロ根性とやらを疑います。あんまり腹が立ったので、講談社に茄子付き嫌がらせ応援お手紙を送ろうかとも思いましたが、まだやってません。
お伽噺だとしても、作家としてこの態度、Bさんはどう受け取っておられるのでしょうか?
長くなりましたが、政治抜きにしても、『創竜伝』は中国風伝奇物語としてもソロソロ破綻しようとしています(最も整合性なんて端から求めていなかったけど…)。私の目から見ても、『創竜伝』は既に作者自身の手によって破壊されていると思います。
ええ、皆さんのあとで書くことないんですけど、お伽噺とは、その時代ごとにかえられた政治プロパガンだそうで、その意味で創竜伝はお伽噺といえるでしょう。
宣和堂さん、こんにちは
実を言いますとあなたの家頁を石井さんに紹介したのは私なんです(^^)。
>このように、他の仕事は逃げ出しているにもかかわらず、『創竜伝』のみ刊行していたというのは、穿った見方をすれば、K談社との繋がりを絶ちたくなかったから、と見ることもできます
実はこれは私も疑っています(笑)。
T間とかK川とか田中氏の中ではヒエラルキーの低そうな、脱却したいと思ってる出版社の本は書かなくても構わないけど、K談社には何としても顔つなぎをしておかねばネバ、なんて意識があるんでは、と勘ぐってしまいますね。
創竜伝は「書きたくて書いている」と言うよりは、「自分の意志で書いてるには違いないが、そういったしょうもない理由が先に立っている」から、ああいう投げやりな内容になっているんではないか、ってのはさすがに邪推し過ぎかな(笑)。
「魔天楼」シリーズについては読んでないので何とも言えません。
私もT間やK川はあまり好きじゃないけど、「幻影城」亡き後の田中氏が作家として1本立ちできるまでプロデュースしてくれたのはこの両社(特にT間)ですよね。
そこでの未完シリーズをほっぽり出して他所への顔つなぎばかりというのもちょっと義理を欠く姿勢のような。
まあ、芸能人でもスポーツ選手でも、ステップアップする為には世話になった人でも切り捨てたり踏み台にしていかなきゃならん時もあるので作家はそんなことをしてはイカン、とは一概に言えませんが。
それでも上記のアルスラーンの続きが本当に出れば
「これで今後数年分の義理は果たした」
なんて本人は勝手に考えるかもしれないけど(爆)。
>(しかし、銀英伝が始め一巻完結という話は聞いたことがありますが、創竜伝がそうだという話は寡聞にして知らないのですが…)。
創竜伝は銀英伝と同じパターンで、「最初の巻が売れれば続きを出す」という前提で刊行されました。(1巻の初版には“1”の数字が入っていない)
ですから、1巻だけでも一応話が完結するようにしてある訳です。
ただ、銀英伝についても、全体の構成をまとめたのは「2巻を書き上げた後」だったはずです。
「始めから全10巻で構成できていればキルヒアイスをあんなに早く殺さなかった」(田中芳樹・談)
もっとも全体のストーリーについて、銀英伝は始めからある程度の骨格があったのに対して創竜伝はあやふやだった(最後までは考えてなかった)、というのはあるかもしれません。