ロードレオンさん、間を空けて失礼しました。
IKさん、冒険風ライダーさんとのやり取りも進んでおられる様で今更なのですが、一応責任分の解説なり回答など
> いえ、言論の場において「こんな商品を作るな」という表現は、全否定だと認識しています。「発禁処分」ないしは「焚書」というのは、全否定が行動に及んでからの話ですよね。
“「こんな商品を作るな」という表現”は精々「悪評」止まりです。
「悪評」の効能を過小評価はしませんが、「全否定」には程遠いですね。
何故なら作品の発表そのものに実効はないのですし、発表に障るほどの「悪評」ならはっきり申し上げて作家の自己責任です。
商業作家なのですから「受け」の見切りくらいはしてくれると期待しない方がその作家を馬鹿にしているでしょう。
加えて「表現」は「作家の権利」ですが「評価」は「読者の権利」です。
どちらか一方のみが否定される状況を「片手落ち」と呼びます。
> よく分かんなかったんですが、「狭量な発言」というのはIKさんご自身がおっしゃったことなんですけど。
「『それでいい』と言われたから『狭量』と評価します」と言う事だと解釈します。
ロードレオンさんは「謙遜」という物に斟酌なさらない方で、京都で留守の知人宅に上がってお茶漬けを食べながらその知人の帰りを待てる配慮をお持ちと理解します。
いや、論理的には貴方は正しいですよ。
> いや、実際は「相手にしてない」かも知れませんが、表面上は否定的意見を許容していると見なすしかない、ということです。これは、この掲示板と田中氏との関係と同じですよ。
しかしロードレオンさんは上記の定義を最初からはこの掲示板での論議に当てはめて評価する気はなかったのですよね、そうは仰っておられなかったのですから。
「ダブルスタンダード」とまでの失礼を申し上げる気はありませんが、意識的か無意識かに関わらず「不正直」であったことは御留意ありますよう。
> > 気を取り直して、ロードレオンさんの異議は尊重されて然るべき物です。
>
> でも、このサイトは「表現方法の制限」を一つの目的としている訳ですよね(その実現性は別として)。
「価値判断・価値基準における意見交換」も確かにそう表現できる一面はありますね。
ただしその一面を全面に押し出すが如くは
>なお、『「偏狭な視点から狭量な誤解で発言している」と評価されるリスク』というのは、どういう発言のことを言っているんでしょうか?
と評価されるのではないかなと思います。
ロードレオンさんのIKさんへの一連のレスも相当に上記「狭量」関連は最低限私はそういう発言だと評価しております。
> 田中氏が、どこかで「愚民どもめ、俺様が悠久なる中国四千年の歴史の崇高さと毛主席の偉大さを教育してやるのだ」なんて言ったんですか?
先に最低極まる詭弁を弄しておきますと、どの部分で私が田中芳樹氏の事だと言っているのですか?
まあ上記の低劣な冗談はお詫びいたしますとして、創竜伝7巻「黄土のドラゴン」て如何でした?
主人公側の登場人物の科白で「文化大革命の意義とその実行指導者の正当な評価には五十年の時間が必要」という大意のものがありまして、家族の小市民的幸福のために世界(の実力者)を敵に回している竜堂四兄弟はこれを聞いて発言者の老人の見識に感心するという一幕がありました。
先に述べた小市民の自衛権でお騒がせに拍車をかけている竜堂四兄弟の主張としては「それで紅衛兵に粛清された市民や知識人、大勢の中国人達に今すぐ聞いてこい、爺い」と袋叩きにするくらいが物語の整合性とか一貫性という物だと私は思います。
ある意味これなどは重箱の隅ですが、こういった具体的な作品内容とそれに対するこのHPでの評価に対する反論・別観点の提示などにそろそろ話を移行して下さった方がお互いに有益な論議になるかと考えますが。
> 僕は「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認め」るようなことはしてませんけど。
しかしロードレオンさんは田中氏の執筆内容・執筆姿勢に特に疑問はなく、翻って田中氏の作品(特に近年)のそうした点を疑問視するこのHPの議論は「全否定であり客観性を欠く」と評価なさる訳です。
ならば貴方がなさるべきは「田中作品を肯定する論拠の開陳」か「説得力ある『客観的』田中作品批評」であるべきでしょう。
>執筆姿勢や主張内容についての妥当性のある批判については尊重したいと思っています。そして、僕がIKさんさんとの対話の中で繰り返し言っていることは、可能な限り客観性を尊重した方が良くはありませんか?ということです。批判的主張に客観的な根拠があるのであれば、尊重しますよ。
ロードレオンさんは「自分はIKさんに高飛車な言いがかりをつけられている」と「主観的に」解釈なさっておいでですね。
そうでなければ「誠実に異論のすり合わせを行おうとしている相手を小馬鹿にしている」貴方の論調は「客観的に」説得力のかけらもありませんね。
一度御自分が何かを誤解していないか再考察された上でこの議論を続ける事をお勧めします。
堂竜4兄弟の戦いは続く。今日も、「五人姉妹」の手先に成り下がっている、自衛隊の攻撃ヘリが堂竜兄弟を追いかけ回しているのだ。それだけではなく、警察も動員され、あちこちの道をパトカーが封鎖していた。町中でロケット弾や機関砲を撃ちまくっているので、外れ弾による被害が続出している。しかし、肝心の堂竜兄弟には、何のダメージも与えていないので、意味は全くない攻撃であった。
「この町も、国民の税金で養われている警官や自衛隊に破壊されて大変だな」
「権利の上に無関心で眠る人々は、そのうちに代償を払うということでしょうか」
「なんでもいいから、腹へったよー」
「『五人姉妹』はまだ僕たちをあきらめないのかなあ?」
などと言いつつ、逃げ回っている堂竜兄弟である。とはいっても、逃げるばかりではなく、甘く見て突っかかってくる自衛隊員や警官の膝を叩き折り、したたかな教訓を与えてやることも、しばしばであった。
「い、偉大な表現者である中先生に、小説を書くななんて暴言は許せないんだな。な、中先生の書いているものは、フィクションでしかないんだから、それを中先生の意見を表現した評論と決めつけるのは良くないんだな。中先生の『表現』は、僕が完全に客観的と認める者以外には、批判する資格なんかないんだな、ハァハァ」
ラード・リオンは、外の大騒ぎには全く気付くこともなく、パソコンのモニターの前で、キーボードを叩きながら、生臭い息を吐いていた。四畳半の部屋は、散らかりっ放しで埃とゴミに埋もれている。いわゆる「引きこもり」状態で、親にも見放されているのが、彼の現状であった。唯一、ネット世界のみに自分の生きがいを見い出した彼は、一日中パソコンをネットに接続して、キーボードと格闘している。彼にとって、偉大な表現者である中禿樹先生が、インターネットサイトの「中禿樹を撃つ!」で批判の嵐に晒されているのは、断じて許せることではなかったのだ。
「ククククク、YKとかいうやつは、大分おかしくなっているんだな。もう一押しで、叩きつぶせるんだな」
書き上げた文章を投稿しようと、リターンキーを押そうとしたその時だった。突然、窓ガラスが粉砕され、強烈な爆風が部屋の中に吹き込んできたのである。もちろん、ラード・リオンはひとたまりもなく、爆風に吹き飛ばされて部屋の壁に打ち付けられ、気を失ってしまった。
「あ~あ、またとばっちりだ。本当に自衛隊のやることは酷いな」
「まあ、これも五人姉妹の言いなりになっている日本政府の責任ですからね。僕らが気に病む必要はありません」
「でもさあ、この部屋の主、こんな真っ昼間からパソコンに向かい合って、何していたんだろ?こういうのとは、あまり友達にはなりたくないなぁ」
「また来たよ、早く逃げないと」
堂竜兄弟は、部屋ごと吹っ飛ばされ、気を失って倒れているラード・リオンに一遍の同情も示すこともなく、自衛隊のヘリから逃れる為に走り出した。
自分でこれ(↑)を書いておいて言うのも酷い話ですけど、こんな「フィクションの表現方法」は、ロクなもんじゃないですねぇ。「書くな」と言われても、仕方ないと思いますよ。本当にね。
この件に関しては3284で新Q太郎さん…じゃなかった、阿Q太郎さんが大変うまいことを言っておられますね。
http://tanautsu.duu.jp/the-best02_03_04_ac.html#3284
> そして、対等の関係であるならば、「こんな商品を作るな」という言葉はいくらなんでも失礼に当たりませんか?(せめて、~した方がいい、でしょう?)。それとも「お客様(=読者)は神様」なんですかね?
冒険風ライダーさんへ
> これは反論になっていません。それこそあなたの忌み嫌う「言論の場における妥当性のない主張」の典型でしかありませんね。
> 今まで述べてきたように、あなたの言う「内容」とやらを批判しようとしたら、内容の如何を問わず「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」によって田中芳樹が責任逃れをしてしまえる「客観的事実に基づいた構造的問題」が存在するわけなのですから、むしろ「内容」を批判するためにこそ、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」を排除する必要性があるのです。そのような「表現方法」の問題を放置して「内容」とやらを批判したところで、「客観的事実に基づいた構造的問題」に基づいて田中芳樹に逃げられてしまうだけではないですか。
> それに前の投稿でも言いましたが、あなた自身がNo.3368で、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』が抱える『客観的事実に基づいた構造的問題』で田中芳樹を免罪する」というテーマを自ら実践してしまっていることを無視して「その表現方法自体が否定される必然性はない」と述べたところで、そんなものは矛盾に満ちた自爆発言以外の何物でもないでしょうね。自分の投稿No.3368で展開されている「客観的事実」くらい、きちんと尊重してはいかがですか?
内容の批判に対して、もし田中氏が責任逃れをしたとしたら、それはその内容自体が正しくないこと(批判が正しいこと)を田中氏自らが認めるに等しいのですから、それでかまわないのではありませんか? 冒険風ライダーさんは、いったいそれ以上の何を求めているのでしょうか? こちらがあくまでも正しい指摘・正しい批判・正しい主張をしさえすれば、いくらフィクションと銘打っていたとしても、結局のところ逃れることはできないのです。それで十分ではありませんか? 田中芳樹が責任逃れをすることなど心配する必要は全くないんですよ。
たとえ、「それはフィクションです」と言われたとしても、それは逃げられたのではなく、その表現が文字通り「虚構」の内容であり、現実とはかけ離れた内容となっている、ということですから、批判の目的は十分に果たしているのではありませんか?
ちなみに、冒険風ライダーさんたちが、表現された内容だけでなく、「フィクション小説中にノンフィクション風の評論を挿入する表現方法」についてまで批判・否定するのは、火事になる可能性があるから火は使っちゃいけないとか、傷害事件に利用される可能性があるから包丁を使ってはいけない、と主張するようなものですよ。批判すべきは、あくまでも火事・暴力行為なのであって、火や包丁そのものではありませんよね。
>> 「評論」がストーリー&作品設定を崩壊させているとしたら、それは田中氏の不手際であり、その田中氏の不手際を批判するのは当然のことです。しかし、「評論」が必然的にストーリー&作品設定を崩壊させるということが明確に示されない限り、「評論」を挿入する表現方法自体を批判するのは行き過ぎだと考えています。
> 「管理人の本論3 作品理論をぶち壊す創竜伝の時間構成」や「管理人の本論7 トンデモ本の世界」などでは証拠になりませんか? あと、創竜伝10巻で竜堂兄弟が「敵方である牛種の本拠地である」イギリスおよびイギリスの民主主義体制を手放しで絶賛し、日本を罵る評論を唱えまくる展開も、ストーリー&作中設定と大きく矛盾した行為としか言いようがないですね。他にも色々あったように思いますが、大きなところと言えばこんなところでしょうか。
「管理人の本論3 作品理論をぶち壊す創竜伝の時間構成」については、確かに現実世界と小説世界をリンクさせる手法の弊害が出ていますね。ただ、これは作者が注意深ければ回避できた問題であると思います(表現内容の自由度は減りますが)。まあ、内容の整合性を取りにくいので、そういう手法は使わない方がイイですよ、くらいは言えるでしょうけど、内容の整合性が必然的に崩壊する、とまでは言えませんね。
それから「管理人の本論7 トンデモ本の世界」については、少し前に一部で話題になっていた月着陸疑惑に関連した内容になっていますね(月着陸関係の写真・映像には、はためく星条旗も含めて確かに変なものも少なくありませんよ)。この中で管理人さんは『8巻を読んだ時点だと、「なるほど、月には空気があって、そこに天界があるのか」と思わせる展開になっている』とお書きになっていますけど、紹介された第8巻の文章を読むと、どうもそうは読めないんですよね。第8巻の文章では、3つの見方が列記されていますが、あの書き方を見た限りでは、一番最後の見方に重点が置かれているように読めます。したがって、必ずしも『「なるほど、月には空気があって、そこに天界があるのか」と思わせる展開になっている』とまでは言い切れないのではないでしょうか?(まあ、これは単なる僕の印象ですけど)。
イギリスについては、確かに不用意な設定だったかも知れません。
ちなみに、管理人さんは「管理人の本論3 作品理論をぶち壊す創竜伝の時間構成」の中で、『善意に考えれば、創竜伝の世界では、現実世界で起こったことが、現実世界の数倍の凄まじさで、あたかもビデオの早送りのように起きたのだと解釈することが出来る。この場合、現実世界と創竜伝世界では社会の変革を構成する下部構造が全く異なってくるから、創竜伝に出てくる評論・解説は何の意味もないことになるのだが・・・』と書いていますが、取りあえずはこれが「正規(=作者推奨)」の読み方なんじゃないでしょうかね(矛盾を最小限にする、という意味で)。結局、創竜伝に出てくる評論・解説には何の意味もなく、まともに議論するに値しないもの、ということではありませんか?(もともとフィクションなんですし)。
ただ、違う読み方をするとしても、それは言うまでもなく読者の自由ですけど。
> 残念ながら、田中芳樹自身が作中の評論についてそのような基本スタンスを表明したところで、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」によって田中芳樹が責任逃れをしてしまえる「客観的事実に基づいた構造的問題」は相も変わらず存在し続けますので、田中芳樹がいつでも責任逃れできる構造は何も変わらず、したがって「そのような表現方法は止めるべき」という主張を撤回する必然性は全く認められません。
それはおかしいでしょう。田中氏自身が「評論」=「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」と明言したのであれば、「評論」を田中氏自身の意見・主張と受け取ることに、何ら障害はなくなります。田中芳樹が責任逃れをしてしまえる「客観的事実に基づいた構造的問題」が相も変わらず存在しようと、田中氏が自ら認めたのですから、これほど確かなことはありません。なぜ、田中氏のその発言を過小評価するのか分かりません。
> むしろ、そのような表明は「田中芳樹が例の表現方法の『客観的事実に基づいた構造的問題』など百も承知の上で、読者を自分の論調でミスリードするため、『意図的かつ確信犯的に』あのような表現方法を行っていた可能性が高い」ことを示唆するものですらありえるため、道義的・倫理的な責任は却って重くなります。
その場合、そのような「告白」はしないのでは?
> 加えて田中芳樹は、タナウツだけでなく、自分の元に届く手紙にファンレターでも展開されているであろう自らの作中評論に対する反論に対して、誠実な回答・反論といったリアクションをマトモに行う気など全くないようにしか見えないのですからなおのことでしょう。
まあ、返事を強制する訳にもいきませんしね。ただ、返事がない=批判を認めている、と受け取ることは出来ますね。
> しかも対談本やエッセイ本に書かれている内容なんて、田中芳樹ファンでさえ知っている人があまり多くありませんから、仮に田中芳樹自身が「フィクションという免罪符」を駆使しなかったとしても、田中芳樹を擁護するファンがそれを使うことは充分にありえることなのですよ。現に例の「表現方法」を盾にして田中作品を擁護しようとするファンはタナウツ設立以来途絶えた事がありませんし、No.3368でロード・レオンさん自身もまたそれを実践していましたからね~。何も知らないファンのそのような作品を貶める愚劣な行動を是正するためにも、田中芳樹は例の「表現方法」を止めるべきだと私は思うのですけど。
それを言うなら、こういう場で、もっと『田中芳樹自身がそれらの評論を「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」として書いていることを自ら告白している』という「事実」を強調すべきなのでは? 「表現方法」などとは関わりなく田中氏は責任逃れすることなんて出来ない、ということをです。
それにもかかわらず、『田中芳樹が責任逃れをしてしまえる「客観的事実に基づいた構造的問題」』なんかを、いつまでも問題にしているのでは、かえって逆効果ですよ。
ただ、ご紹介いただいた1987年の週刊現代9月26日号のインタビュー記事を読んだ限りでは、冒険風ライダーさんの認識とはやや違うように思えますね。「いざ始めてみると、現実感覚が強くつきまとうので、小説独自の世界をつくりだすのが、なかなかの難物」「ほとんどが想像の世界の産物です。エンターテイメントで行くというのが僕の基本姿勢ですから。面白く仕立てるために、政治家や官僚を登場させたんです」という表現からは、評論風の部分もあくまでもフィクションに過ぎない、と言っているように読み取れるんですけど・・・(ただ、教育問題については、かなり真面目に評論しているようですね)。まあ、他の文章ではどうか、分かりませんけど。
> それからもう一度言いますけど、IKさん関連に関しても、IKさんはあなたがNo.3335で最初に主張していた「作家は主観的発想に基づいて何を言ってもかまわないが、『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」という内容について反論しているだけであって、途中からあなたがIKさんにさえも無断かつ勝手にスライドさせた論点「批判する際にはそれなりの根拠を挙げて発言するべきである」に関しては、何度も言うようにIKさんも特に異論はないように見えるのですがね。何でIKさんの主張を意図的に誤読(としか思えない読み方を)してまでIKさんに変なレッテル貼りを行おうとするのか、私には全く理解できません。
僕のNo.3335の主張は、「『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」ではなくて、「『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【原則として】止めるべき」です。もちろん、例外が常に存在し得ることは認識していましたよ。
それから、僕がIKさんを批判しているのは、根拠の明確でない「書くな」という発言をすることをあくまでも擁護しているからです(「批判する際にはそれなりの根拠を挙げて発言するべきである」に関しては同意しているのかも知れませんが)。
> あなたの最初に発言していた本来の主張内容が、「作家は主観的発想に基づいて何を言ってもかまわないが、『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」であった(すくなくともそう解釈されかねない文章であった)ということは、あなたの一連の投稿を見れば分かりますよ。(中略)そして、「明確・客観的で妥当性のある理由があるのなら、「書くな」と言ってもかまわないこともあるでしょうが」と、「書くな」という言葉を作家に対して使う事を条件つきながら初めて認めたのはNo.3358以降になってからのことです。
あのー、No.3342の『その表現が「他人をこき下ろす」だけのものであるならば、確かに「やめるべき」と言ってもかまわないでしょう』という表現で、正当な理由があれば「書くな」という言葉を作家に対して使う事を認めているんですけど・・・。そう読めませんかね。
> したがって、一連の議論で双方の解釈が合わずに混乱をきたしている原因は、論争相手にすらも無断かつ勝手に論点を変えてしまったロード・レオンさんの方にこそ非があるのではないかと思われます。
したがって、上記の見解は、残念ながら冒険風ライダーさんの勘違い、ということになりますね。例外があり得ることは、最初から認識していました。
> 「批判する際にはそれなりの根拠を挙げて発言するべきである」だったのであれば、それはIKさんも充分に認められていることでもありますし、前半の書き込み不足な投稿でIKさんやROMにあらぬ誤解を与えてしまったことを公式に認めた上で、和解なり謝罪なり、いずれにしても何らかの対処を行うべきなのではないでしょうか。
現在、IKさんからの、『「書くな」という意見の妥当性』の提示を待っているところでして、それを見てから、また判断したいと思っています。長々と、どうもありがとうございました。
S.Kさん、お返事ありがとうございます。
> “「こんな商品を作るな」という表現”は精々「悪評」止まりです。「悪評」の効能を過小評価はしませんが、「全否定」には程遠いですね。
「悪評」というのは悪い批評ですよね(この場合「悪い評判」という語義は不適切なので省きます)。そして「批評」というのは「事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること」であって、普通は「~は良い」とか「~は悪い」とか「~は面白い」とか「~はつまらない」とかいう表現になりませんか? 「こんな商品を作るな」という表現は、どうも「評価」の範疇を超えているように思えるんですよ。「この商品は悪い、つまらない」だったら、まだイイんですけどね
>加えて「表現」は「作家の権利」ですが「評価」は「読者の権利」です。どちらか一方のみが否定される状況を「片手落ち」と呼びます。
これは同意見ですね。そして、「作家の権利(表現)」を(何ら根拠も示さないで)認めない「評価」については批判されても仕方ないと考えます。
>> いや、実際は「相手にしてない」かも知れませんが、表面上は否定的意見を許容していると見なすしかない、ということです。これは、この掲示板と田中氏との関係と同じですよ。
>>
> しかしロードレオンさんは上記の定義を最初からはこの掲示板での論議に当てはめて評価する気はなかったのですよね、そうは仰っておられなかったのですから。
「ダブルスタンダード」とまでの失礼を申し上げる気はありませんが、意識的か無意識かに関わらず「不正直」であったことは御留意ありますよう。
「上記の定義を最初からはこの掲示板での論議に当てはめて評価する気はなかった」ということがどういうことか良く分からないのですが、不適切な内容があったのであれば謝罪したいと思います。
> ロードレオンさんのIKさんへの一連のレスも相当に上記「狭量」関連は最低限私はそういう発言だと評価しております。
よく分かりませんが、僕の発言が狭量だと受け取られかねない、ということですか?
僕は、正否を出来るだけ厳密に判断したいと思っていますが、正しい指摘なら受け入れる用意はありますよ。もちろん、誤解することもあるでしょうけど。
> 主人公側の登場人物の科白で「文化大革命の意義とその実行指導者の正当な評価には五十年の時間が必要」という大意のものがありまして、家族の小市民的幸福のために世界(の実力者)を敵に回している竜堂四兄弟はこれを聞いて発言者の老人の見識に関心するという一幕がありました。
> 先に述べた小市民の自衛権でお騒がせに拍車をかけている竜堂四兄弟の主張としては「それで紅衛兵に粛清された市民や知識人、大勢の中国人達に今すぐ聞いてこい、爺い」と袋叩きにするくらいが物語の整合性とか一貫性という物だと私は思います。
五十年後には毛沢東も失政で糾弾される、ということじゃないですか? という冗談はさて置き、これは確かに素直には首肯できない部分ですね。
> ある意味これなどは重箱の隅ですが、こういった具体的な作品内容とそれに対するこのHPでの評価に対する反論・別観点の提示などにそろそろ話を移行して下さった方がお互いに有益な論議になるかと考えますが。
この一連の議論も全くの無意味とは思っていませんけど。
> しかしロードレオンさんは田中氏の執筆内容・執筆姿勢に特に疑問はなく、翻って田中氏の作品(特に近年)のそうした点を疑問視するこのHPの議論は「全否定であり客観性を欠く」と評価なさる訳です。
これは、S.Kさんの誤解です。「創竜伝の政治・社会批評(?)は風刺とは言えないし、品性が低い(箇所がある)のかも知れません(3335)」と執筆内容に問題があることは認めていますし、「小説をなかなか完結させないこと」が執筆姿勢に含まれるとしたら、それについても大いに批判したいですね。ですから、正当な疑問・批判でしたら、「全否定であり客観性を欠く」などということは言いません。
> ロードレオンさんは「自分はIKさんに高飛車な言いがかりをつけられている」と「主観的に」解釈なさっておいでですね。
これも違いますね。少なくとも僕は「IKさんに高飛車な言いがかりをつけられている」などと思ったことはありません。
> そうでなければ「誠実に異論のすり合わせを行おうとしている相手を小馬鹿にしている」貴方の論調は「客観的に」説得力のかけらもありませんね。一度御自分が何かを誤解していないか再考察された上でこの議論を続ける事をお勧めします。
誤解していると思われる点があるのでしたら、遠慮なくご指摘願います。
不沈戦艦さんへ
> 自分でこれ(↑)を書いておいて言うのも酷い話ですけど、こんな「フィクションの表現方法」は、ロクなもんじゃないですねぇ。「書くな」と言われても、仕方ないと思いますよ。本当にね。
まあ、僕の個人的な感想としては、確かに余り品のいい内容とは思えませんでしたけど、評価してくれる読者がいないとも限りませんし、第三者からは「書くな」とまでは言えないでしょうね。
ただ、自分で『「書くな」と言われても、仕方ないと思います』などと言うくらいであれば、最初から書くべきではなかったのかも知れませんけど。
管理人さんへ
> この件に関しては3284で新Q太郎さん…じゃなかった、阿Q太郎さんが大変うまいことを言っておられますね。
should notでも強過ぎるように思いますね。had better not程度が適当なところではないでしょうか。
ロード・レオン様、
> should notでも強過ぎるように思いますね。had better not程度が適当なところではないでしょうか。
阿Q太郎さんは、「should not」を「must not」よりも、「弱い」表現として挙げられたのではありません。そうではなくて、この両者は、強制力の主体が異なるのです。
「must」といいますと、当事者に選択の自由がありません。
(1)You must stop when the light is red.(赤信号では止まらねばならない)
(2)All guests must vacate their rooms by 12 noon.(お客様には正午までに部屋をお空け願います)
(3)Health care insurance must be affordable.(健康保険料は、支払える程度の額であるべきだ)
というふうに用いられます。(1)は道路交通法、(2)はホテルの規定、(3)は政策を述べたものですが、いずれの場合も、ドライバーや宿泊客や保険会社に選択の余地を与えておりません。これらは、当事者以外のなにものかによる強制です。
これに対して「should」は、当事者が自らに課する義務を表します。
(4)I should survive.(生き残ってやるぞ)
(5)You should get more exercise.(お前、運動不足だぞ)
(6)The report recommended that children should be tested regularly.(報告書は、子供たちを定期的な試験にかけることを、勧めた)
(4)は意思表明、(5)と(6)はアドバイスです。ポイントは、その人が生き残らなくても、言われた方が運動をしなくても、学校が定期試験をやらなくても、それは当人の自由であり、当人の責任で決めることです。
繰り返しますが、これは「強い」「弱い」の違いではありません。「正午までに部屋を空けてください」と「生き残ってやるぞ」では、後者のほうが「強い」意志を表しているでしょう。そうではなくて、前者は当事者以外による強制、後者は当事者の意思もしくは意思決定を助けるための材料の提供です。
そして、インターネットの掲示板という場で行われる限り、どんなに強い表現であろうとも、本質的に後者でしかありえないのです。IKさんが、
>私が執筆権を言葉で否定しようが、選択するのは田中芳樹さん個人です。
と言われるのは、そのことを指摘しておられます。
[should]と「better」の違いは、強弱といえばいえないこともありません。「better」の用法としては、このようなものがあります。
(7)Such things are better left unsaid. (そういうことは言わないほうがいいのでは)
ただ、「should」を使うか「better」を使うかを判断するとき、使用者が考慮するのは、主に情緒的な面での人間関係だと思います。「shouldでは相手の気分を害するかもしれないから、betterにしておこう」という具合にです。これは「must」と「should」の間にある本質的な違い――強制力をもつかもたないか――とは、性質が異なります。要するに、「書くな」という発言をネット掲示板でする人がいても、発言者が田中芳樹氏との間の人間関係が損なわれるリスクを承知の上でやるのなら、それはその人の問題で、あなたや私が(個人レベルでは、私もIKさんと同様に、「書くな」という発言に賛同しておりません)、干渉することではないと思います。
<内容の批判に対して、もし田中氏が責任逃れをしたとしたら、それはその内容自体が正しくないこと(批判が正しいこと)を田中氏自らが認めるに等しいのですから、それでかまわないのではありませんか? 冒険風ライダーさんは、いったいそれ以上の何を求めているのでしょうか? こちらがあくまでも正しい指摘・正しい批判・正しい主張をしさえすれば、いくらフィクションと銘打っていたとしても、結局のところ逃れることはできないのです。それで十分ではありませんか? 田中芳樹が責任逃れをすることなど心配する必要は全くないんですよ。
たとえ、「それはフィクションです」と言われたとしても、それは逃げられたのではなく、その表現が文字通り「虚構」の内容であり、現実とはかけ離れた内容となっている、ということですから、批判の目的は十分に果たしているのではありませんか?>
どうもあなたは「責任の取り方」というものが根本的に分かっていないようですね。そんな簡単なことで「自己責任」というものが果たされるのであれば誰も苦労はしませんよ。
まず「批判が正しいことを田中芳樹自らが認める」は「責任を取る」ということとイコールではありません。それは「責任を取る」という観点から見ればまだ最初の第一ステップでしかなく、さらなる第二、第三ステップを経なければ、「責任を取る」とは到底言えたものではないのです。
いいですか。タナウツにおける田中芳樹&田中作品批判の意図と目的は「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問1に書かれているように、
「田中芳樹が、自らの作品および作中の『評論もどきの自己主張』に対してきちんとした『作家としての責任』を取り、かつての銀英伝を執筆していた頃の田中芳樹に戻ってくれること」
にあるのですし、また設問9でも「発言には責任が伴わなければならない」ということが繰り返し明記されています。そしてタナウツは、設問1で掲げられている目的を達成しなければ、設問2に書かれている真の最終目的「存続理由の消滅による自己否定」に到達することができないのです。
そして「責任」という言葉の定義は次のように定められています(サーチエンジン「goo」の国語辞典)。
せきにん【責任】
(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。「―を果たす」「保護者としての―」
(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。「―をとって辞職する」「だれの―でもない」「―の所在」「―転嫁」
(3)〔法〕法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
これを見れば分かるように「責任を取る、取らせる」という言葉は、上記3つの定義のいずれかを何らかの形で満たした場合にのみ初めて成立するものです。
これは会社の不祥事などを例にしてみると分かりやすいでしょう。会社で何らかの不祥事が発生し、内部告発なりマスコミの報道なりでそれが明るみに出、しかもそれが弁護の余地の全くないものであった場合、会社は不祥事の存在を「公的な場で」認めた上で、今後の再発防止に努めることを誓うと共に、不祥事に関わった社員や役員を処罰したり、最高責任者である社長が辞任したり、場合によっては消費者や株主に対して会社として謝罪や賠償を行ったりすることによって、初めて「責任を取った」と世間一般に認めてもらえるのです。この場合、「不祥事の存在を会社が認める」というのは、責任を果たすための最初の第一ステップであるに過ぎず、そこから先の様々なペナルティを課せられるステップこそが「責任を果たす」という概念の本番なのです。
これを田中芳樹に当てはめると、田中芳樹が行わなければならない「責任の取り方」とは、まず「田中芳樹がこれまでかかわった事柄や行為から生じた結果」すなわち作中のストーリーや社会評論の正当性を「公的な場で」訴えるか、そうでなければそれらが間違ったもの、悪い影響を与えるものであったことを(「暗黙の了解」ではなく)「公的な場で」認めた上で、二度と同じ間違いを繰り返さない事を誓うと共に、自分が犯した結果に対する何らかの償いや罰などといったペナルティを自らに課し、さらに自らに課したペナルティや誓いをその後ひたすら忠実に実行していくことが必要不可欠でしょう。
「責任を取る」とは本来そういうことなのです。もちろん、田中芳樹に課せられるペナルティの内容とか妥当性などといったものについてはまた別に論じられるべきことですが、すくなくとも「責任を取る」条件の第一ステップ「田中芳樹が自分の作品や作中の評論について間違いを認めた」を満たしただけでは「田中芳樹が作家としての責任を取った」ということには全くなりません。反論するなり自らにペナルティを課すなり、何らかのリアクションを行わない限り「無責任」ないしは「責任逃れ」のそしりは免れないでしょうし、仮に間違いを認めたとしても、反省もせずにまた同じ事を繰り返すのでは元の木阿弥でしかなく、「責任を取った」とは到底言えたものではないのですから。
そして「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」には、この一連の「責任を取る」諸々の手続きを、まさに「フィクション」という「葵の印籠」でもって全て無に帰せしめ、田中芳樹の発言責任を全て免罪してしまう「客観的事実に基づいた構造的問題」が存在するのです。まさにロード・レオンさん自身がNo.3368でそのことを忠実に実践してみせたように。だからこそ、田中芳樹に「作家としての責任」を取らせ、また今後第二・第三の田中芳樹を誕生させないためにも、田中芳樹自身の主観の有無に関わらず「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」は排除されなければならないのです。
「責任を取る」という概念の実態と重要性、および「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が抱える「客観的事実に基づいた構造的問題」の本質、これでお分かり頂けましたか?
<それはおかしいでしょう。田中氏自身が「評論」=「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」と明言したのであれば、「評論」を田中氏自身の意見・主張と受け取ることに、何ら障害はなくなります。田中芳樹が責任逃れをしてしまえる「客観的事実に基づいた構造的問題」が相も変わらず存在しようと、田中氏が自ら認めたのですから、これほど確かなことはありません。なぜ、田中氏のその発言を過小評価するのか分かりません。>
<それを言うなら、こういう場で、もっと『田中芳樹自身がそれらの評論を「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」として書いていることを自ら告白している』という「事実」を強調すべきなのでは? 「表現方法」などとは関わりなく田中氏は責任逃れすることなんて出来ない、ということをです。>
もちろん私としては、田中芳樹が犯してしまった「間抜けな失言」は今後とも最大限に活用させてもらうつもりですよ。No.3368に書かれているようなことを主張する人に対しては、あの「間抜けな失言」はまさに理想的な反論として使用することができるのですから。
しかし、私はそれと同時に「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が抱える「客観的事実に基づいた構造的問題」もまた非常に重要な問題であると認識していますし、また何度も言うようにこの問題は田中芳樹個人の主観云々とは別に論じるべき問題であるとも考えています。こちらにもまた「客観的事実に基づいた構造的問題」が存在するということは前述の通りですし、何よりもNo.3368が「客観的事実に基づいた構造的問題」を忠実に実践している立派な「物的証拠」として存在していますからね。
それから「表現方法などに関わりなく、田中芳樹は責任逃れができないことをこの場で強調するべきでは?」という意見に関しては、「すでにやっています」とだけ答えておきましょうか。ただ、この手の宣伝は即効性というものがあまりないので、効いてくるのに時間がかかってしまうものなのですけど。
<僕のNo.3335の主張は、「『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」ではなくて、「『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【原則として】止めるべき」です。もちろん、例外が常に存在し得ることは認識していましたよ。
それから、僕がIKさんを批判しているのは、根拠の明確でない「書くな」という発言をすることをあくまでも擁護しているからです(「批判する際にはそれなりの根拠を挙げて発言するべきである」に関しては同意しているのかも知れませんが)。>
<あのー、No.3342の『その表現が「他人をこき下ろす」だけのものであるならば、確かに「やめるべき」と言ってもかまわないでしょう』という表現で、正当な理由があれば「書くな」という言葉を作家に対して使う事を認めているんですけど・・・。そう読めませんかね。>
<したがって、上記の見解は、残念ながら冒険風ライダーさんの勘違い、ということになりますね。例外があり得ることは、最初から認識していました。>
まず、No.3342の文言に関しては、その文脈から「作家『のみ』に対して向けられたもの」としか解釈できませんでした。この文章の後すぐに「しかし、それは『小説中に「個人的な趣味」にすぎない評論を挿入する悪癖を止めるべき』と同じことではありませんよね」という、どう見ても最初の発言と「対」をなす文章が書かれていましたし、第一、もしこれが読者側にも向けられたものであるのならば、読者側もまた「『作家をこき下ろすから』という理由さえつけておけば、作家に対して好き勝手に誹謗中傷を行ったり、『書くな』と言い放ったりしてもかまわない」ということになってしまい、あなたの主張する「批判する際にはそれなりの根拠を挙げて発言するべきである」と大きく矛盾してしまうではありませんか。だから私はあなたの挙げた文言についてはカウントしなかったのですけど。
それとですね、ロード・レオンさんは「例外があり得ることは、最初から認識していました」と書かれていますけど、No.3358に至るまでの投稿をざっと見た限りでは、そのことがほとんどと言って良いほど他人に伝わらない、もしくは非常に伝わりにくい文章になっています。「そんなことは書かなくても分かるだろう」とあなたは仰られるかもしれませんが、すくなくとも自分の事を誰も知らない人が集まっているところで初対面の相手と初めて議論する際には、最初の段階でクド過ぎるぐらい慎重に文章を書き、注釈とか例外とかいったものを特に強調しておかないと、相手にあらぬ誤解を与えてしまうことが多いものなのですよ。実際、私もあなたの文章の意図を(あなたの目から見れば)間違って解釈していたのでしょう? そういうことで相手が誤解し、人間関係がこじれてしまうという話は決して珍しいことではないものでしてね。
今回のIKさんとあなたの議論で起こったすれ違いもまた、そんな一見当たり前に見える些細な文章の省略が原因で起こったのではないかと私は思うのですけどね。やはり私の目には、両者の主張の間にそれほど大きな違いがあるようには見えないのですし。
それから、
<現在、IKさんからの、『「書くな」という意見の妥当性』の提示を待っているところでして、それを見てから、また判断したいと思っています。>
↑に関してですけど、例の「書くな」という件に関しては、そもそもロード・レオンさんの方が先に「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問5から一方的に引っ張り出してきたものなのですし、IKさんはその意見に必ずしも与しているわけではないと明言しているのですから、IKさんに対して「『書くな』という意見の妥当性」なるものを求めるのはいささか筋違いなのではないですかね? 何度も言っていますけど、IKさんが一貫して述べていた主張は、あくまでも「読者側もまた『主観的に作家に対して意見を述べること【自体】』は『言論の自由の範囲内』にあり」かつ「作家側・読者側共に自分の発言には責任を取らなければならないし、意見の開陳によって自分が他者から反論されたり、場合によっては断罪されたりすることもまた当然である」というものなのですし。
「『書くな』という意見の妥当性」に関しては、むしろ私とあなたでやり取りしている例の「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」関連の議論や、不沈戦艦さんの投稿No.3379のリフレク小説「掲示板伝2」などで、すでに充分すぎるほど開陳されており、それでも充分に代替可能だと思いますので、上記の件と併せて、IKさんに対する要求は取り下げても良いのではないでしょうか?
ロードレオンさん、どうもです。
もう少し解説を入れておきましょう。
> 「悪評」というのは悪い批評ですよね(この場合「悪い評判」という語義は不適切なので省きます)。
いいえ、悪評とは「“悪い”という評価」です。
そして悪いと判断したならそう評価する事自体は何の問題もありません。
「悪い批評」などと形容したら「的を射ていない批評」の事のようではないですか、それはこの話の流れとして非常に不本意です。
>そして「批評」というのは「事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること」であって、普通は「~は良い」とか「~は悪い」とか「~は面白い」とか「~はつまらない」とかいう表現になりませんか? 「こんな商品を作るな」という表現は、どうも「評価」の範疇を超えているように思えるんですよ。「この商品は悪い、つまらない」だったら、まだイイんですけどね
「存在価値を認められない」という評価は十分成立します。
仮に「どんな物でも存在価値を否定してはいけない」なら、ロードレオンさんの「『書いてはいけない』などと書いてはいけない」というIKさんへの要求など存在できる訳がないでしょう。
まあ上記要求自体笑い話レベルの矛盾なのですが。
> これは同意見ですね。そして、「作家の権利(表現)」を(何ら根拠も示さないで)認めない「評価」については批判されても仕方ないと考えます。
それは同意見ですね
ただし「作家の権利(表現)」を(何ら根拠も示さないで)認めない「評価」とはロードレオンさんの主観の外でこの掲示板上の何処にあるという提示はないので無意味な発言だと思います。
> 「上記の定義を最初からはこの掲示板での論議に当てはめて評価する気はなかった」ということがどういうことか良く分からないのですが、不適切な内容があったのであれば謝罪したいと思います。
ロードレオンさんは田中氏の創竜伝における政治家誹謗は抗議がないから黙認されていると言いつつ、「田中芳樹を撃つ!」上の批判の一つである「書くな」発言は田中氏が何も言っていないにも関わらず「許されない」に近い意味合いのスタンスを取っておいでですね。
それはないんじゃないですかと思いましたので。
> よく分かりませんが、僕の発言が狭量だと受け取られかねない、ということですか?
「呼んでいい」と言ったから発言の検証も不完全なうちに「狭量」「ダブルスタンダード」とIKさんを呼ばわるロードレオンさんの礼節や世間知にこそ問題があるように私には見えますので。
> 僕は、正否を出来るだけ厳密に判断したいと思っていますが、正しい指摘なら受け入れる用意はありますよ。もちろん、誤解することもあるでしょうけど。
では上記のIKさんへの対応についての私の感想をロードレオンさんなりに考察してみて下さい。
その上で「別に非礼とは思わない」という結論でしたらそれはそれで仕方がないでしょう。
以後あまり対話が成立するとは思えないですが、それも又仕方ないでしょう。
> この一連の議論も全くの無意味とは思っていませんけど。
それはそう思います。
ただし「全く無意味でない」よりは「有意義」な方が良いのではないかなとも思います。
「意義の所在地の決定」はこの件ではロードレオンさんの思われる通りで結構です。
> > しかしロードレオンさんは田中氏の執筆内容・執筆姿勢に特に疑問はなく、翻って田中氏の作品(特に近年)のそうした点を疑問視するこのHPの議論は「全否定であり客観性を欠く」と評価なさる訳です。
>
> これは、S.Kさんの誤解です。「創竜伝の政治・社会批評(?)は風刺とは言えないし、品性が低い(箇所がある)のかも知れません(3335)」と執筆内容に問題があることは認めていますし、「小説をなかなか完結させないこと」が執筆姿勢に含まれるとしたら、それについても大いに批判したいですね。ですから、正当な疑問・批判でしたら、「全否定であり客観性を欠く」などということは言いません。
了解しました、この点は誤解を認めてお詫びいたしましょう。
> > ロードレオンさんは「自分はIKさんに高飛車な言いがかりをつけられている」と「主観的に」解釈なさっておいでですね。
>
> これも違いますね。少なくとも僕は「IKさんに高飛車な言いがかりをつけられている」などと思ったことはありません。
>
> > そうでなければ「誠実に異論のすり合わせを行おうとしている相手を小馬鹿にしている」貴方の論調は「客観的に」説得力のかけらもありませんね。一度御自分が何かを誤解していないか再考察された上でこの議論を続ける事をお勧めします。
>
> 誤解していると思われる点があるのでしたら、遠慮なくご指摘願います。
まあこれも重箱の隅みたいで恐縮ですが「ご無理なさらないほうが」に続く科白がせめて「良い」ならともかく「イイ」では、真剣に相手を務められている方に対しては嘲弄めいて見えますね。
あと礼儀として「御苦労おかけします」とか「お心遣いいたみいります」位は言った所で「慇懃無礼」と罵倒される事もないでしょうから言ってもいいのではないかと思います。
「気遣い」の範疇ですので強制はしませんが。
S.Kさんも指摘されていますが、ロード・レオンさんはちょっとした言葉の使い方で不必要に無礼に見えてしまっていて、物凄く損をしていると思うんですよね。
ご自身も次のように述べられていますし、もう少し気を使った「会話」をされても良いと思います。
>特定の意見を封殺するようなことはしませんよ。ただ、このサイトの主要な目的の一つは、田中作品を批判して、田中氏の執筆スタイルが改まるように働きかける、というものですよね。他人に働きかけたいのであれば、たとえ一読者の意見といえども可能な限り客観性のある(=説得力のある)意見を心がけるのは、当然のことではないでしょうか? 目的に沿った意見でないと意味がないのです(逆効果の場合さえある)。
> 不沈戦艦さんへ
>
> > 自分でこれ(↑)を書いておいて言うのも酷い話ですけど、こんな「フィクションの表現方法」は、ロクなもんじゃないですねぇ。「書くな」と言われても、仕方ないと思いますよ。本当にね。
>
> まあ、僕の個人的な感想としては、確かに余り品のいい内容とは思えませんでしたけど、評価してくれる読者がいないとも限りませんし、第三者からは「書くな」とまでは言えないでしょうね。
> ただ、自分で『「書くな」と言われても、仕方ないと思います』などと言うくらいであれば、最初から書くべきではなかったのかも知れませんけど。
書いた本人が言うのもなんですが、こんなシロモノを評価する読者なんざ居るとは、到底思えませんけど。「フィクション」の名を借りた、個人攻撃でしかないですもんね。もちろん、承知でやってますが。
でも、あなたの理屈だと、「フィクションの名を借りた個人攻撃」でも構わん、「表現」として認めなければならないんだ、ということになってしまいます。書いた本人が、この例の私のように否定的に捉えて居ようと、田中芳樹のように特に自分の書いたものを否定していなかろうと、「フィクションの名を借りた個人攻撃(ナベツネやら海部俊樹首相【当時】を指している場合もあったですからね。まあ、個人攻撃ばかりとも言えませんけど)」なんぞ、肯定できるものとは言えないでしょう。「書くな」という言葉が出てくるのは、「銀英伝を書いた田中芳樹が、こんなものを書くまでに堕落していることが悲しい」という感情があるからなのではありませんかね。「書くな」という言葉尻を捉えて攻撃するのは、あまりいい行為とは思えませんが。
こんにちは、ロード・レオンさん
数が多いから正しい、少ないから間違っているとは思いませんが、タナウツ理論派の面々を向こうに回しての孤軍奮闘には、ある意味、敬服いたします。
この方々はIKの方が貴殿よりも古株なのでそれで加担するようなやわでもなく、甘い人でもないですね。これだけの方々が根拠を示しながら貴殿の誤読を指摘されていることにもっと注意を払うべきではないでしょうか。そうでなければ、砂漠に水を撒いているが如き徒労感をいたずらに募らせるだけでしょう。
貴殿の主張される「客観的」な議論を私は出来える限り心がけて来たつもりです。それに反して、貴殿はしばしば失礼な物言いをしていらっしゃいました。もしあれが「失礼でない」と言うのであれば、貴殿の国語力はかなり低いものであると言わざるを得ません。
だからと言って謝罪して欲しい訳でもなく、ただ貴殿の実際の議論のなさりようは貴殿の主張とは大いにかけ離れているのではありませんか、と指摘しているのです。それでも貴殿が自己統御能力に欠ける人物であると見られることを承知の上ならば発言権そのものは否定しませんがね。
ただしもともと大してありもしない忍耐心をフル稼働させている私が現状の態度を維持するのが難しくなりつつあるのも事実です。貴殿がそうした態度を変えない限り、貴殿との対話には意味がないと考えます。貴殿も先に同じことを私に言いましたが、私の場合は貴殿と一応の対話を試み、何らかの理解が成立できるよう努力したうえでのことですので、貴殿の議論態度を理由とする対話拒否を言いましてもさほど不当なことではなかろうと考えます。
貴殿の先の文章にレスし、それに補足をつけた上で、貴殿への最終返答とさせていただきます。もちろん他の方との論争はどうぞご自由に。
> > 自分では客観的であると思っている、と言明しております。失礼ですが誤読のしようがない部分だと思いますが。
>
> なるほど、「客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)」という文章の対象はIKさんご自身の意見ではない、ということですね。
これも誤読です。いちいち解説する気になれません。よく読んでみなさいとしかここでは言いたくないですが、しかしそれではあんまりだと言われるかも知れませんから、一応述べておきます。私が貴殿の意見に賛同したところで、私は世界の人々から判断権を付与されているわけでもなんでもないので、それは私個人の主観であると申しているのです。過大評価していただいて光栄です、と申し上げるべきでしょうが、当然、別の見方も存在するでしょう。
> 言論の場において妥当性のない主張が(反論されることなどによって)淘汰されていくのは当然のことではないでしょうか? もっとも発言するな、とまでは言えませんけどね。
??? 発言するなとまで言えないというのならばこれ以上の議論は文字通り無意味ですね。なぜならば発言権をめぐり議論がされていた訳ですから。少なくとも当方はそう理解しています。ここでの貴殿の意見は私のものとまったく同じものです。この前提を貴殿が容認されるならば論争は争点がないのですからそもそも不可能です。
あるいは貴殿は貴殿がある種の主張を発言すべきでない、とおっしゃっておられると受け取った私の読み方を誤読と言うかもしれませんが、少なからぬ人たちが私と同様の読み方をしたようです。私には貴殿が途中で自説を修正して論点をずらそうとしているように見えます。
ええ、敢えて言いますが、負けたくないのでむきになっているように見えますよ。もしそうならば論争は勝ち負けではないのでそのような杞憂は抱かれない方がよろしいかと思います。こちらも勝った、勝ったと騒ぎ立てませんしね。
むしろ一定の理解に達したことをことほぎましょう。
> > いえ、少し分からないでもありません。おそらくきっと貴殿は「書くな」ということこそ「抹殺」ではないかと仰りたいのではないでしょうか(違っていたら訂正して下さい)。これについてもこれは何ら物理的強制力を持たないので抹殺には当たらないとの見解を私は示しています。全否定うんぬんはそれぞれの心の中のことですから、討議するに値しません。田中さんは無視すればいいだけのことですよ。
>
> 相手がどう対応したとしても、文章自体の意味することに、そう変りがあるとは思えません。もちろん、心の中だけで思っているのであれば、何も言いませんよ。その考えを公表したからこそ問題にしています。それに相手が無視すればそれで済むというのは「甘え」ではありませんか?
無視すればすむようなことについて「発言しないことを相手に求める」のは甘えではないのでしょうか。意見というのは表明されない限り存在しないのです。ある種の意見の存在そのものを封殺することを要求して当然とする考えは自分のみをスタンダードだとする甘え以外の何物でもないと思いますが。
しかも「作品」に対する発言なのですからなおのことです。
無視しているだけなのが嫌ならば反論すればいいのです。しかし相手の口を塞ぐ権利は誰にもありません。
けれどもここも「発言権そのものは擁護する」というお考えでいらっしゃるならば、そもそも争点になるような部分ではないですね。
> > ある対象を全否定することの危険性は別の問題でしょう。しかし、その種の全否定を全否定されている。まるで冗談のようなこの事実をどうお考えなのでしょうか。
>
> 全否定であろうと何であろうと、僕は根拠・妥当性のない意見に対しては批判いたします。ただ、全否定ということだけで批判している訳ではありません。
とても今までの論争の経過を見ればそうは思えませんが、これも「発言権そのものは擁護する」という前提に立たれるならば争点になる部分ではないですね。
何人かの方々も主張されていますが、議論と批評のありようについての考えそのものは私はロード・レオンさんと非常に近いと思います。
だからと言って、私は自分の考えが絶対だと思っておらず、もちろんロード・レオンさんの考えを絶対視する訳にはいきません。自分の考えですら60億人類のうちのひとりの考えでしかないと考えでいる人がある人の考えを絶対視することが可能でしょうか。
私が貴殿と同じ意見だとしても、60億のうちたったふたりの共通意見でしかないということです。残りの異論を切り捨てる訳にはいかないのです。
どうも私と貴殿との間の齟齬は貴殿が外部に他者というものを認識されていないことにあるように思われます。ひとりがふたりになったところで、他者というのは存在するのですよ。
> > 「がんばってくださいね」という言葉で彼が筆を折るかも知れません。そんなことまで誰が責任を取れますか。取れるというならば思い上がりも甚だしい。田中芳樹さんという一個の人格に対して失礼です。
>
> 「がんばってくださいね」という言葉に対してまで責任を取れなんて言いませんよ。しかし「がんばってくださいね」という言葉と、「書くな」という言葉ではイコールではないのです。
イコールでないからと言ってどうだと言うのでしょう。ある言葉が他人にどういう影響があるかはわからないのです。だからと言って、その発言そのものを封じるというのはおかしいでしょう? それを言うならば誰も何も言えなくなります。はっきり言って、田中さんの著作の影響で人生を踏み外した人がいないとは限らないでしょう? しかしそれは当人の問題ですね。受け手の責任です。
> > ひとつの人格がひとつの作家としての個人を全否定した。そこに何の問題があるでしょう。人はみな違うのです。人それぞれなのですよ。田中芳樹さんは問題が多い作家ではありますが、文章を書く上でそこまで自立していない人だとはまったく思えません。未成年者に言っているのではないのですよ。書くことによって生計を立てているプロフェッショナルに対して言っているのです。
> > 敢えて忠告をさせていただければ、貴殿はプロフェッショナルに対してもっと敬意を払うべきだと思いますね。
>
> ひとつの人格がひとつの作家としての個人を全否定した。その妥当性を問題にしています。相手がプロであれ、アマであれ、妥当性のない否定は単なる言いがかりでしかありません。それとも、プロフェッショナルである以上、いかなる言いがかりであろうとも甘受すべきだとおっしゃるのでしょうか?
言いがかりと言うのも貴殿の主観でしょう? そう発言する人に言いがかりだと思って言っているのかどうか聞いて御覧なさい。それを言うならば田中さんの「フィクション」も随分言いがかりですよ。
ついでに言うならば言いがかりであっても意見であるならばプロフェッショナルは甘受すべきだと思いますよ。書き手としての私の主観で言うならば「大絶賛」以外はすべて言いがかりに聞こえますね(笑)
> > 「書くな」という意見は何度も申していますが私個人の意見ではないので、その妥当性を示すことは出来ません。ただしそういうことを言う人は、過去にも何人かおりましたし、彼らなりの「妥当性」を示しています。
>
> その「妥当性」とはどのようなものでしょう? 実例を挙げていただけませんか? その「妥当性」に納得がいけば、僕もこれまでの主張を撤回するにやぶさかではありません。
> ちなみに『そこも作者の裁量のうちと言うのも分からないではないですが、それならば所詮はその程度の作品ですよ。それに対して消費者として「こんな商品を作るな」というのは当然だと思います(3340)』という文章の中の「こんな商品を作るな」というのはIKさんご自身の意見ではなかった、ということですね。僕はてっきりIKさん自身の意見だと思ってましたよ。ただ、そうであったとしても、なぜ当然だと思ったのかが、気になるところではありますが(「その程度の作品」とは、どの程度の作品なのか?)。
さあ? まず前提として認識して欲しいのは、私が擁護してきたのは「書くな」という発言権であって発言そのものではないということです。
ですからそうした発言の妥当性も分からないでもないというのは枝葉の部分ですね。枝葉の部分として返答します。
これは田中芳樹さんの筆誅をどの程度の事実として認識してくるかに関わってくると思います。私が何度か以前、言及したフジモリ大統領についての「薬師寺涼子の事件簿」での茶化し方というのは少なくとも私には度が過ぎているように思えました。腐敗と汚職を極め、原住民を虐殺し、義弟さえも手にかける人物として明白にフジモリ大統領をモデルとした人物は描かれていましたが、こういうのは人権侵害ではないのでしょうか。人権侵害を承知で作家として面白いことをやるというのは作家としてはありだと思うのですが、一個の法的存在としてはまた別の側面で判断されるのもやむを得ないでしょうね。
それともそれはただのフィクションだとでもおっしゃるのですか。
ご存知のように現在のペルーのトレド政権は反フジモリを掲げて成立したものですが、フジモリ大統領のそうした犯罪の証拠を充分に挙げているとは言えないですね。あれは白人既得権益層がバルガス・リョサをぶつけてもデクエヤルをぶつけてもフジモリを打倒できなかったので、インディオであるトレドをぶつけたものであろう、と私は認識しています。
もっとも現時点での話ですから私としてもフジモリ大統領の擁護には慎重にならざるを得ませんが確かなソースもなしにある個人を貶めたというのは事実でしょう。
そうしたものに対して例えば本人が、あるいは家族が、大統領の信望者が「書くな」というのは当然じゃないですか。物理的にそれを強制しようというのにはあくまで反対しますが。
明確な根拠もなしに「書くな」というのは確かに問題がある議論の仕方だと思います。ただ、明確な根拠を示すというのも能力の問題がありますからね。能力のない人だって自分の思っていることを示す権利はあるのです。ただ、すぐに粉砕されてしまいますがね、現実には。
フジモリ云々の部分は枝葉の部分であり、議論の本筋とは関係がないですね。これを示したのは私の主観で言えば、親切からであり、余計なことです。求められたからしたまでのことです。
最後に主観と客観について補足したいと思います。
人間の行動の基準として、物理的な法則があるわけではありません。人間行動の客観とは、より多数が合意しえるであろう経験から導き出された主観の方法論であるに過ぎません。
そういう限界のあるものとして、その範囲の中で私は客観的であることを尊重しますが、この客観を地動説のように明白に証明可能なものであるとは考えていません。
根本的に「客観」であることをして主観の存在、表明そのものを
粉砕することについては反対です。
独立運動の闘士、革命家はことごとくテロリストでもありました。キャンプデーヴィッド合意をなしたベギンは対英テロの筋金入りの指導者でしたし、彼は英国によるパレスチナ支配を全否定しました。また、現在、インティファーダを続けているパレスチナの民衆はイスラエルの支配を全否定しているようです。
全否定の表明そのもを抜き出して、糾弾するのは人類の歴史のかなりの部分を否定することにもつながります。その全否定の言葉がどういう状況でつむがれたか、その構造を考える必要があろうかと思います。
さて、きっとご不満もあおりでしょうが、これを私のこの論争における最終レスとさせていただきます。長々とお付き合い下さり有難うございました。
> S.Kさんも指摘されていますが、ロード・レオンさんはちょっとした言葉の使い方で不必要に無礼に見えてしまっていて、物凄く損をしていると思うんですよね。
>
> ご自身も次のように述べられていますし、もう少し気を使った「会話」をされても良いと思います。
> >特定の意見を封殺するようなことはしませんよ。ただ、このサイトの主要な目的の一つは、田中作品を批判して、田中氏の執筆スタイルが改まるように働きかける、というものですよね。他人に働きかけたいのであれば、たとえ一読者の意見といえども可能な限り客観性のある(=説得力のある)意見を心がけるのは、当然のことではないでしょうか? 目的に沿った意見でないと意味がないのです(逆効果の場合さえある)。
>
言葉の使い方とおっしゃられますが、基本的にこのサイトは、田中氏に批判的な人達が良く書きこんでいるサイトなのだから、そこで数ヶ月も孤軍奮闘を強いられれば誰でも言い方きつくなりますよ。
僕も、数年前に、違うハンドルネームで書きこんでましたが、自分では正しいと思っているし、周囲の友人達(必ずしも、田中氏に肯定的でない、むしろ批判的な連中ばかり)に聞いてもまあそこら辺が落しどころじゃないという意見をかいても、ある程度相手の意見を聞いても、すこし言葉がきつくなると、他の人が無礼だとかつっこんでくるし。
結局、人は人、我は我で、人間は自分の意見と同じ人々と群れて、仲間意識を持ちたがる。(私自身も含めて)そのなかで、職業作家として、完璧ならざる自分の意見を発表できるなんて、なんて自分に過信があるのか、自分の能力もわからない愚か者かどちらかだろうとおもいました。いい勉強をさしてもらい、それ以来、このサイトからは遠のいてきましたが、レオン氏ご苦労お察しします。もちろん、レオン氏が、他者と意見交流する時、目標(この場合、相手の意見との一致点の妥結、かつ自分の意図したところで)のため、我を押さえ、常に自分の発言に細心の注意を払えるならともかく、そんな人は、どこにもいません。ちなみにレオン氏は一人ですが、対応している人は複数で、誰が誰の意見にどこまで賛成していて、ある部分を反対しているのかすべて把握して意見をコントロールできる人なんて、これもいません。このサイトの常連達もそうでしょう。
ちなみに、ここの常連の方で、かつて、人のハンドルネームが侮辱的だと言ってけちをつけ、反対者の人格に問題があるような言い方をした人もいます。もちろん、浮沈戦艦氏にたしなめられていましたが。ちなみに、そのあきらかに「言いがかり」に同意した常連の方までいらっしゃいました。人間なんて、しょせんそんなもんですよ。僕を含めてですが。関係者の方、古傷をつついてもうしわけありません。これとくらべれば、レオンしの態度なんて、少し鼻持ちならない知恵自慢程度のものです。
ちなみに、このサイトの方は断定的に言う人が多いです。
私の田中氏に対する意見は、確かに創竜伝はひどい。作品世界は破綻している。でも、フィクション世界に現実の設定を織り交ぜて、批評らしきものを展開する作品展開そのものは作品構成の一手法として認められるべきもので、それに一作家田中氏が失敗しただけで、田中氏がその手法を使わん方がいい(いい作品がかける。例えばアル戦)が、その作品手法そのものがダメだとは言えないと思うのだがね。というあたりです。そんなこと(小説家の小説を書くにあたる手法の選択を言えるほど、印税払っている読者はえらいのだろうか。田中氏がダメだと思うなら買わなきゃいい、所詮ジュニア作家が書くものが、年齢いってから(ちなみに、僕は25ですが)すんなり読めるわけないのに。批判する時間がもったいない。田中氏を卒業できないかと思うのですが。
ちゃんとして評論が読みたきゃ、ほかの人がいくらでもいるじゃないか。わざわざ、創竜伝なんかに手出すこと無いのに。作品としては、田中氏のカタルシスのいみしかないのに。
レオン氏、孤立無援で大変だと思うけどがんばってね。すべてのあなたの意見に賛成はしないから、各論だと反対の部分もあるけど、大筋は合意します。けっこう無礼な文、愛をもって関係者に見ていただければと、「甘え」てみます。
再び、横レスで失礼ですが・・・
>言葉の使い方とおっしゃられますが、基本的にこのサイトは、田中氏に批判的な人達が良く書きこんでいるサイトなのだから、そこで数ヶ月も孤軍奮闘を強いられれば誰でも言い方きつくなりますよ。
この一連のスレについては3365の管理人氏のレスが全てに答えを出していると思うのですが、それには目を通されましたか?
喧嘩腰になったところで、建設的な議論や話し合いにはなりません。管理人氏の言うロード・レオンさんは損をしている、というのはそこにあるのではないでしょうか。加えて、
<ちなみに、このサイトの方は断定的に言う人が多いです。
ということですが、自らの発言に責任を持ち、馴れ合いという「逃げ」を断って、真摯な議論をする事は、常連による馴れ合いに終始している賛美サイトと比べ遥かに健全で前向きな姿勢であると思います。
また、常連達がよってたかってロード・レオンさんを袋叩きにしているというのなら、ロード・レオンさんを含め、ここまでの議論に加わってきた人達に失礼でしょう。管理人氏の「本当に全否定したければ刺しにいく」ではありませんが、ここまでに罵倒のレスがありましたでしょうか?
ところで、匿名希望さんは
<フィクション世界に現実の設定を織り交ぜて、批評らしきものを展開する作品展開そのものは作品構成の一手法として認められるべきもの
との意見をお持ちですが、私はこの話になるといつも思い出すことがあります。
何巻かは忘れましたが、花井婦人が脅迫文書を送ろうとして、しかし手書きだと身元がばれてしまうかもしれないのでワープロを習おう、といったようなエピソードがありましたよね。
花井婦人は物語上の「悪者」で、これも悪者としてのエピソードのひとつなのですが、批判や批評を小説の中の登場人物に言わせる事で、自分の身を安全圏に置こうとする田中氏は、花井夫人とどこが違うというのでしょうか。
作品構成の一手法として認める認めない以前に、田中氏がそこ(横紙破り)から逃げてしまっているではありませんか。
管理人氏の芸の話と重なりますが、何も田中氏の評論など読みたいのではありません。田中氏に「芸人」としての自覚と責任を持ってもらいたいのです。
田中氏はそれで飯を食っているプロなのですから。
ちなみに、ある意味で田中氏を卒業したのでなければ、批判などできないと思うのですが、いかがでしょうか。
駆け出しでごさいます。
私も横レスで失礼いたします。
>印税払っている読者はえらいのだろうか
印税ではなく、読者が払っているのは定価です。印税は出版社が作者に払うものです。
読者はえらいんです。ものすごくえらいんです。なぜならお金を出すからです。
「金を出して、あなたの本を買ってくれた読者は、あなたに何を言ってもいいんです」
私はかつて編集者にそう言われました。いまでも真実だと思っています。
もっとも、作者側にも自己防衛の手段はあるんです。
「だったら、あんたが書けば?」
というものです。自分に対する意見や非難を口にする読者に、面と向かって言う人は、さすがにいませんが、作家はだれしも腹の中ではそう考えているものです。田中氏も例外ではないと思います。
「『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【理由の如何を問わず無条件で】止めるべき」ではなくて、「『書くな』という表現『自体』を読者が作家に対して主張するのは【原則として】止めるべき」
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どの場所にレスつければいいのか分からないので、適当につけますが・・・
他のジャンルを比較してみましょう。
落語で、いろんな名人が回想を残していますが、昔からノテ(山の手)の客はぬるいが下町の客は芸に厳しく、噺の下手なものにはばんばん野次が飛びました。
「ひっこめ!」
「お帰りよ!」
「おみおつけで面ぁ洗って出直して来い!!」
この中から、のちの名人上手は鍛えられたのです
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んで、格闘技、プロレス。
今は欧風に「ブーイング」が主流ですが、80年代新日に乗り込んだ国際はぐれ軍団や、ストロングマシーンズ、たけし軍団に浴びせられたのは「カエレ」コールでした。これは悪役人気の場合も、本気でしょっぱい(つまらない)レスラーへの罵声もありましたが、どっちにしろ命令形っす(笑)
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あ、野球もそうですね。TV・CMにもありましたな。
「ひっこめ原田!」「引退しろ!!」ってやつとか「川藤出さんかい!」「ホンマに出してどないすんねん・・・」とか。
そういえば「かっとばせー、ホームラン」ってのも失礼かもしれん。本人はシングルヒットでいいかもしれないんだから「できるならホームランを打ったほうがいいのではないか」にするべきかもしれない(笑)