「ラインハルトこそが『目前の敵と戦わないのは卑怯だと考える近視眼の低能』ではないか?」と書きましたけど、それと同趣旨で一言。
さて、ラインハルトの「戦争の天才」ぶりは、「自分で構想した戦略デザインに相手を引きずり込んで、有無を言わさず自分が有利な条件での戦闘を強いる」点にあった筈です。
ところが、バーミリオンに至るラインハルトの戦いぶりは何なのでしょうね。全然「戦争の天才」らしくないです。逆にヤンの戦争のデザインにまんまと引き込まれてしまっているのですから。しかも、戦術的にはヤンが勝ったと言えるような苦境に陥ってしまった訳ですし。ラインハルトは突然「低能」になっちゃったの?とでも言うしかないですわ。
さて、銀英伝5巻のように、ヤンの挑発に乗って自分の艦隊だけでヤンと戦わずとも、ラインハルトの「自分で前線に立ちたい」という希望を叶えつつヤンを引きずり出し、大兵力で袋叩きにして楽勝する方法はあります。実に簡単。ウルヴァシー守備の兵力(2個艦隊もあれば充分、不安なら3個艦隊)を残して、全軍でバーラト星系に向かえばいいだけ。しかもなるべく派手に、公然とゆっくり進撃して。電波を発信しまくって、敵の通信の妨害もしない方がいいでしょう。その場合、ヤンは負けを覚悟で隠れ場所から出てきて、ラインハルト艦隊につっかからずにはいられません。「帝国軍の大艦隊、バーラト星系に侵攻中」との報を受け取ったら、同盟政府が悲鳴をあげ、ヤン元帥に迎撃を命令するでしょうから。いくら「元帥の好きなように戦ってくれ」とアイランズ国防委員長以下が言っていても、首都が脅かされる場合はそうもいかんでしょう。政府が首都から退去できる訳ではないでしょうし。「同盟からの離脱を叫ぶ中立星系が乱立する」という悪夢があります(その場合は同盟が瓦解する)から、同盟政府は政治的にハイネセンを死守せざるを得ません。それを知っているヤンは、帝国軍のバーラト星系侵攻を見過ごすことはできないでしょう。
「バーラト星系に侵攻して一旦同盟政府を降伏させても、帝国軍が立ち去った後、ヤンが出てきてハイネセンを奪還し、再度同盟を復活させるだろう」というのは、馬鹿げた予想でしょう。バーラト星系に帝国軍が攻め込んでも、ヤンが出てこないというのはあり得ないでしょう。「戦わずして敗れる」という事にもなってしまいますので。
本来、ラインハルトの「戦争の天才」ぶりから言ったら、バーラト星系侵攻を殊更大げさに見せつける事で否応なくヤンを隠れ場所から引きずり出し、大兵力で袋叩きにするのが当然ではないでしょうか。何で「自分に有利な条件を整えて、相手に不利な条件での決戦を強いる」のを得意にしているラインハルトが、ノコノコ逆の立場にはまってしまうんでしょうかね。実に不思議ですわ。「ヤン相手に戦術的に勝つこと」に異常にこだわっているようですし。
「戦いを格好良く勝とうなどとは、例え彼我の兵力差が1対10の圧倒的に有利な場合でも、絶対にやってはいけないことだ」
という言葉を、バーミリオンのラインハルト・フォン・ローエングラム公爵に捧げたいと思います。
戦争の天才である筈のラインハルトが、何でバーミリオンの時だけこうなっちゃったんでしょうか。この辺の話の組立ては杜撰ですね。「ヤンはラインハルトしか見ていない」と冒険風ライダーさんが言ってますけど、「ラインハルト以下の帝国軍の将帥たちも、ヤンしか見ていない」と言えると思いました。
不沈戦艦さん、お久しぶりです。いつも酉板で「悪ふざけ架空戦記」を楽しく拝見させていただいております。
ところで「バーミリオン会戦の謎」についてですが、
<「バーラト星系に侵攻して一旦同盟政府を降伏させても、帝国軍が立ち去った後、ヤンが出てきてハイネセンを奪還し、再度同盟を復活させるだろう」というのは、馬鹿げた予想でしょう。バーラト星系に帝国軍が攻め込んでも、ヤンが出てこないというのはあり得ないでしょう。「戦わずして敗れる」という事にもなってしまいますので。>
これを主張したのはミッターマイヤーですが、実はこの主張、すくなくとも当時の帝国軍が持っていた「ヤンについての知識」からはじき出された考え方としてはそれほど「馬鹿げた予想」ではありません。
というのもこの当時、ヤンが「民主主義擁護」の観点から同盟を必死になって死守するであろうことを、帝国側は知らなかったのです。したがって、ミッターマイヤーを始めとする帝国軍の将帥たちは、たとえ同盟が降伏してもヤンが同盟政府から独立して帝国と戦いつづけると考えていたため、このような考え方が出てきたのではないでしょうか。
銀英伝本編にもそのことを裏付けている個所があります。
銀英伝5巻 P154上段~下段
<このとき、帝国軍の領袖たちの目が、同盟の首都や政府よりヤン・ウェンリー艦隊に向けられていたのを、固定観念としてしりぞけることはできないであろう。同盟政府よりヤン・ウェンリーの武力こそが、彼らにとっては現実の脅威だった。政府なき軍隊が自立化したとき、征服者たちの権力と権威はたもてようがないのである。>
この考えからいけば、ヤンを無視して同盟政府を倒す事はむしろ愚策です。ヤンを同盟政府という呪縛から解き放つ事になってしまい、帝国にとってはかなり厄介な事態となるのですから。ヤンの今までの「奇跡」から「彼を完全に自由にさせてしまっては今まで以上に厄介になる」とラインハルトや帝国軍の将軍達が考えるのも無理はありません。何しろ「ヤンが同盟を見捨てられない」という事実を彼らは知らないのですから。
バーミリオン会戦の時点でヤンの性格をある程度見破っていたのは、帝国軍の中ではヒルダただ一人しかいませんでした。しかもそのヒルダですら、絶対の自信があったわけではありません。したがって、あの時点でヤンをおびき出そうとしたラインハルトの意図は、限られた情報からはじき出された結果から考えてみれば、それほど間違ったことではなかったと思います。大兵力でまとまっているとヤンが出てこない可能性がありますから。
そしてバーミリオン会戦以降は、帝国側にもヤンの性格は完全に分かっているのですから、むしろ参謀や将軍達の方がラインハルトよりもまともな考えを打ち出すようになり、実際、ラインハルトに対して一度ならず諫言も行っています。したがって、
<「ラインハルト以下の帝国軍の将帥たちも、ヤンしか見ていない」と言えると思いました。>
というのはバーミリオン会戦時はともかく、すくなくとも銀英伝7巻以降には当てはまらないのではないでしょうか。
もっとも、レンネンカンプに対しては立派に当てはまりますが(^^;)
しかしそれとは別に、バーミリオン会戦時におけるラインハルトの作戦は、構想はともかく、実行過程においては破綻しているとしか言いようがありません。
わざとラインハルトの戦力を手薄にしてヤンを誘い出す、という作戦自体は良いのですが、問題なのはその際に「同盟の補給基地攻撃」という名目で分散していった帝国軍の将軍達が、名目通り本当に同盟の補給基地を攻撃しに行ってしまった事です。兵力を分散するフリをヤンに見せておきさえすれば良かったはずなのに。
そもそも最初の作戦案では「ヤンを誘い出して時間稼ぎをし、帰ってきた帝国軍と挟み撃ちにして最終的に包囲殲滅する」という考えであったのですから、同盟の補給基地がどうであろうと、ラインハルトが攻撃された時点で引き返してこなければならなかったはずです。したがって、本当なら彼らはあまり遠くに行ってはいけないはずなのですが、ミッターマイヤーやロイエンタールでさえ、本当に同盟の補給基地を攻撃・占領している始末ですからね。そんな事をすればラインハルトの意図が完全破綻するであろうことは目に見えているというのに、彼らはラインハルトの意図が全く読めなかったのでしょうか?
<「戦いを格好良く勝とうなどとは、例え彼我の兵力差が1対10の圧倒的に有利な場合でも、絶対にやってはいけないことだ」
という言葉を、バーミリオンのラインハルト・フォン・ローエングラム公爵に捧げたいと思います。>
上記の言葉は銀英伝5巻以降のラインハルトの行動全てにあてはまりますね。マル・アデッタ会戦やイゼルローン遠征などはバーミリオン会戦以上に全く必然性がありません。どちらもわざわざ戦う必要はないのですし、戦うなら戦うでラインハルトが出てくる必要は全くありません。しかも敵側に戦場を指定させ、わざわざ敵に有利な環境下で戦っていますが、これなどは本来のラインハルトの「戦略デザイン」の観点から言えば愚劣の極みでしょう。そこまでしてラインハルトは「自らの矜持」だの「軍事的ロマン主義」だのを満足させたかったのでしょうか?
しかもラインハルトの主観はどうであれ、傍目から見れば、ラインハルトは自分の戦略的格差をことさら誇示するために、不必要かつ犠牲を伴う「弱いものいじめ」を楽しんでいるようにしか見えません。何しろ戦略的格差から言ってもラインハルトが負けるはずがないのですからね。自分の絶対的な優越を自覚せずに相手に戦いを求めるという姿勢は、かつて彼が蔑視していたであろう門閥貴族と全く同じではありませんか。
はっきり言って銀英伝5巻以降のラインハルトは、「戦争の天才」とはとても呼べたものではありません。何しろ、その時点で一番犠牲を伴う選択肢ばかり選んでいるのですからね。これが政治家としても戦略家としても失格である事は言うまでもないでしょう。
ヤンもラインハルトも、結局お互いを感情的に意識しすぎて道を誤ったとしか思えませんね。政治に感情を持ち込むとロクでもない結果を導く好例です。
不沈戦艦、冒険風ライダー両氏の“ガチ”なやりとりには、いつも感服させられております。
さて、そこに軍事戦略について門外漢の小生がわざわざ乱入することはないのですが、ただ一点において述べたいことがあります。
> マル・アデッタ会戦やイゼルローン遠征などはバーミリオン会戦以上に全く必然性がありません。どちらもわざわざ戦う必要はないのですし、戦うなら戦うでラインハルトが出てくる必要は全くありません。しかも敵側に戦場を指定させ、わざわざ敵に有利な環境下で戦っていますが、これなどは本来のラインハルトの「戦略デザイン」の観点から言えば愚劣の極みでしょう。そこまでしてラインハルトは「自らの矜持」だの「軍事的ロマン主義」だのを満足させたかったのでしょうか?
> しかもラインハルトの主観はどうであれ、傍目から見れば、ラインハルトは自分の戦略的格差をことさら誇示するために、不必要かつ犠牲を伴う「弱いものいじめ」を楽しんでいるようにしか見えません。何しろ戦略的格差から言ってもラインハルトが負けるはずがないのですからね。自分の絶対的な優越を自覚せずに相手に戦いを求めるという姿勢は、かつて彼が蔑視していたであろう門閥貴族とまったく同じではありませんか。
> はっきり言って銀英伝5巻以降のラインハルトは、「戦争の天才」とはとても呼べたものではありません。何しろ、その時点で一番犠牲を伴う選択肢ばかり選んでいるのですからね。これが政治家としても戦略家としても失格である事は言うまでもないでしょう。
> ヤンもラインハルトも、結局お互いを感情的に意識しすぎて道を誤ったとしか思えませんね。政治に感情を持ち込むとロクでもない結果を導く好例です。
この主張は、まったくの同感です。
ですがここで本来問われなければならないことは「戦略の妥当性」ではなく、「それをどのように作品内に活用しているか」ではないでしょうか?
あくまで仮の話ですが、ラインハルトがヤンを意識しすぎたがため、自分の戦略の本質を見失っていく……という展開をしていたなら、彼の「戦略の天才がどう転落していったか」を読者に読ませることになりませんか。結果としてそれが、「政治に感情を持ち込むとロクでもない結果」になり、ラインハルトも実は彼の軽蔑していた門閥と本質的には変わらなかったという、アイロニーを秘めていると思えるのですよ。またこちらのほうこそ、田中芳樹が本来書きたかった話=テーマに合致するとは考えられませんか。
つまり「ラインハルトのミス」自体が問題ではなく、彼のミスをうまく作品に使えなかった「田中芳樹のミス」こそ責められるべきでしょう。言葉を換えれば「軍事戦略上のミス」ではなくて、「小説構成上のミス=“小説という戦略”のミス」ではないでしょうか?
出過ぎた真似をしましたが、今後ともよろしく。
<あくまで仮の話ですが、ラインハルトがヤンを意識しすぎたがため、自分の戦略の本質を見失っていく……という展開をしていたなら、彼の「戦略の天才がどう転落していったか」を読者に読ませることになりませんか。結果としてそれが、「政治に感情を持ち込むとロクでもない結果」になり、ラインハルトも実は彼の軽蔑していた門閥と本質的には変わらなかったという、アイロニーを秘めていると思えるのですよ。またこちらのほうこそ、田中芳樹が本来書きたかった話=テーマに合致するとは考えられませんか。
つまり「ラインハルトのミス」自体が問題ではなく、彼のミスをうまく作品に使えなかった「田中芳樹のミス」こそ責められるべきでしょう。言葉を換えれば「軍事戦略上のミス」ではなくて、「小説構成上のミス="小説という戦略"のミス」ではないでしょうか?>
田中芳樹が本当にそこまで考えて銀英伝を書いていたというのならば、ラインハルトの感情的な行動原理も非常に面白い問題提起になったと思うのですが、オーベルシュタインの謀略論が本来は肯定ではなく否定対象として問題提起されていたように、田中芳樹もラインハルトについてそこまでは考えていなかったのではないでしょうか?
第一、田中芳樹が本当にそのような面白い問題提起を自発的かつ確信犯的にできるような作家だったら、創竜伝のような低レベルな作品は恥ずかしくて書けないでしょう。何しろ、ヤンやラインハルトに象徴されるような「感情に基づく行動原理」が、そっくりそのまま竜堂兄弟に受け継がれているのですから(しかもそのことが完全に肯定的に描かれています)。
また銀英伝において、ラインハルトは常に「理想的な専制君主」ないし「その偉大な才能のゆえの民主主義に対する脅威」として描かれています。また銀英伝のテーマも「最悪の民主主義と最善の専制政治の比較」という線でほぼ統一されています。したがってテーマの問題提起から言ってもラインハルトには「理想的君主」でいてもらわなければならず、また銀英伝において一貫して展開されている「ルドルフ批判」の観点から見ても、
「実はラインハルトは、自らのプライドのために無意味な戦争を行って兵士や国力を無為に浪費するという一点において、ルドルフや門閥貴族と何ら変わるところがなかった」
などという事実が発覚すると、せっかくのテーマが破壊されてしまうのです。田中芳樹もそれは避けたかったのではないでしょうか。
> また銀英伝において、ラインハルトは常に「理想的な専制君主」ないし「その偉大な才能のゆえの民主主義に対する脅威」として描かれています。また銀英伝のテーマも「最悪の民主主義と最善の専制政治の比較」という線でほぼ統一されています。したがってテーマの問題提起から言ってもラインハルトには「理想的君主」でいてもらわなければならず、また銀英伝において一貫して展開されている「ルドルフ批判」の観点から見ても、
> 「実はラインハルトは、自らのプライドのために無意味な戦争を行って兵士や国力を無為に浪費するという一点において、ルドルフや門閥貴族と何ら変わるところがなかった」
> などという事実が発覚すると、せっかくのテーマが破壊されてしまうのです。田中芳樹もそれは避けたかったのではないでしょうか。
これはその通りでしょうね。
ただ、読み手の作品に対する評価は、たびたび作者のテーマの思惑から独り立ちするんですよね。
極端に言えば、中高の国語教育で絶対作者が思っていないようなことが正解になっていることとか(笑)
そのように考えて、私は銀英伝はずいぶんな幸運の上に書かれた物語だと思います。
いつもお世話になっています。
さて、小生の書き足らなさもあったのですが、小説において「軍事的に合理的な行為」が「常に正しいとは限らない」ということです。それこそラインハルトが、いつもいつも正しい戦略ばっかりやっていたら、味も素っ気もないでしょう。
作家は、いわゆる軍事専門家とは違います。同時に、両者が戦略にアプローチする部分も、似て非なるものがあります。
専門家は、「絶対に間違いが許されない」ですが、作家は間違えても許されるはずです。なぜなら作家は「『間違えた戦略』という非合理的な要素を、いかに合理的に書くか』を書かねばならないのですから。つまり作家にとって、どうして「正しい戦略が必要なのか」といえば、「正しい戦略を知らなければ、間違えることが出来ない」のです。無論、冒険風ライダー氏ほどの方なら、この程度の説明など不用でしょうが……。(☆)
となると、『銀英伝』において、「戦略の天才」であるはずのラインハルトがいかに感情的になり、戦略を間違えなければならない必然があるかという「(無茶苦茶なまでに)非合理的なことに対する合理的な説明」を、作品のなかに入れていなければならないはずです。ですが、私ごときが読んでも、そんなものはまったく見つけられませんでした。私は、ラインハルトのミス以上に、田中芳樹の描写の足らなさ(他の部分には力を入れているのに……)のほうが、腹を立てたのですが。
ですから、作品を最小限しか弄らずに、「合理的に非合理さ」を説明するなら、「戦略の天才ラインハルト 転落の軌跡」(ビジネス書にありそうなタイトルだ)こそ、一番素直な代案だと思い書いたのですが(★)。
> 田中芳樹が本当にそこまで考えて銀英伝を書いていたというのならば、ラインハルトの感情的な行動原理も非常に面白い問題提起になったと思うのですが、(一部略)
田中芳樹もラインハルトについてそこまでは考えていなかったのではないでしょうか?
> 第一、田中芳樹が本当にそのような面白い問題提起を自発的かつ確信犯的にできるような作家だったら創竜伝のような低レベルな作品は恥ずかしくて書けないでしょう。
すべておっしゃる通りです(笑)。
ですがこうなると、やはり問題は「ラインハルトのミス」ではなく、「田中芳樹の作家としての技量」が問題になっているということではありませんか?
> また銀英伝において、ラインハルトは常に「理想的な専制君主」ないし「その偉大な才能のゆえの民主主義に対する脅威」として描かれています。また銀英伝のテーマも「最悪の民主主義と最善の専制政治の比較」という線でほぼ統一されています。したがってテーマの問題提起から言ってもラインハルトには「理想的君主」でいてもらわなければならず、また銀英伝において一貫して展開されている「ルドルフ批判」の観点から見ても、
> 「実はラインハルトは、自らのプライドのために無意味な戦争を行って兵士や国力を無為に浪費するという一点において、ルドルフや門閥貴族と何ら変わるところがなかった」
> などという事実が発覚すると、せっかくのテーマが破壊されてしまうのです。田中芳樹もそれは避けたかったのではないでしょうか。
これは私の書き方が悪かったのでしょう。私の書きたかったニュアンスは「田中芳樹という作家が目指しているテーマ」であり、「『銀英伝』という作品自体のテーマ」という意味ではなかったつもりです。
誤解をさせるような書き方で、申し訳ない。
しかしそうなると、『銀英伝』は、確固としたストーリーの上で書かれたものでしょうか?
書いていて、こういう疑問が頭をよぎりました。
少なくとも『創竜伝』や『○○の艦隊』のように、後付けのストーリー(延長に延長を重ねるうちに、作品が破綻した)のではないと思うのですが……。それこそ冒険風ライダー氏や、管理人氏はいかがお考えでしょう?
☆ まだいるのかどうかわかりませんが、自称「軍事専門家」の書いた架空戦記ほど、救いようのないものはないですね。知識は正しくても、小説としては中途半端で、奥行きが全然なくて面白くない。
知識の質や量の問題ではなく、小説家の知識と専門家の知識の差というものがわかっていない。そんな連中、それに「小説」を書かせる編集者、出てこい!
★ こうしておけば、ロイエルタール(でしたっけ?)が最後のほうで謀反を企てた理由も、もっとはっきりすると思われます。「昔のラインハルトには勝てないが、いまのラインハルトなら勝てる」と。
<『銀英伝』において、「戦略の天才」であるはずのラインハルトがいかに感情的になり、戦略を間違えなければならない必然があるかという「(無茶苦茶なまでに)非合理的なことに対する合理的な説明」を、作品のなかに入れていなければならないはずです。ですが、私ごときが読んでも、そんなものはまったく見つけられませんでした。私は、ラインハルトのミス以上に、田中芳樹の描写の足らなさ(他の部分には力を入れているのに……)のほうが、腹を立てたのですが。>
ラインハルトがあそこまで「転落」していったのには、銀英伝の中でも一応2つばかり理由が語られてはいるのですけどね。ひとつはキルヒアイスの死であり、もうひとつはラインハルトの性格です。
キルヒアイスはラインハルトにとって心の支えであったばかりでなく、ほとんど唯一気を許す事ができた相談相手でもありました。そのキルヒアイスが死んだ事によってラインハルトは深刻な精神的・心理的ショックを受けてしまいます。そのショックを忘れるために不必要に戦争を求めたというのがまずひとつ。
そして何よりも、ラインハルトの性格それ自体が元々戦争を好む傾向があったことが挙げられます。それに加えて、ラインハルトを取り巻いていた環境も、ラインハルトに戦争状態こそが自然であるという認識を埋めこんでいったのでしょう。そのため銀英伝5巻以降の戦争終結後の平和状態にラインハルトは絶える事ができず、それから逃れようと相当な無理をしてまで戦争を求めた事が、ラインハルトが異常なまでに戦争において感情的になり、戦略や政治的選択を間違え続ける事になった理由なのです。何しろ銀英伝本編自体に「ラインハルトは戦争を必要としていた」というような描写があちこちにありましたから、同意はしませんが理解は十分にできるものです。
これははっきり言ってラインハルト以外の人間、特に戦争に駆り出されるであろう兵士達にとっては到底納得できない理由ではあるのですが、自分が主観的に正しいと思い込んで行動している事が、客観的に見ると全く説明できない異常な行動に見えるということは、別に小説の世界に限らず現実世界でもよくあることです。
ラインハルトの戦争に対する葛藤というのは、すくなくとも私が挙げたヤンの3つの思想的矛盾よりは明確に描写されているのですから、「ラインハルトの転落」という「(客観的に見て)非合理的な行動の(ラインハルトの主観的に)合理的な理由」は充分に説明できるのではないでしょうか。
<やはり問題は「ラインハルトのミス」ではなく、「田中芳樹の作家としての技量」が問題になっているということではありませんか?>
これは「テーマを訴えたいという欲求」と「小説のストーリー進行上の要求」とのバランスがうまくとれていないからなのではないでしょうか? 私がヤンの思想的矛盾のひとつとして挙げた「シビリアン・コントロールの矛盾」にそれが良く表れています。
あそこでヤンが同盟の無条件停戦命令を受諾する事は「シビリアン・コントロールの重要性」というテーマを訴えるためには必要不可欠なものです。しかしストーリー上、ヤンが戦うための戦力をある程度温存しておく必要があり、またヤンの感情的な理由もあって、結局のところ停戦命令に逆らってメルカッツ提督にある程度の戦力を持たせて逃がしてしまいます。テーマとストーリーの要求が全く正反対であるために中途半端な描写になってしまっているのです。
ラインハルトにも同じことが言えまして、「民主主義と専制政治の対決」というテーマ上、ラインハルトに積極的に戦ってもらう必要があったにもかかわらず、今まで検証してきた通り、ストーリー上では、戦略的にラインハルトが戦わなければならない必然性が全くありません。この矛盾を回避するために、能動的に行動できるラインハルトの側に無理矢理戦争理由を見出させる必要があり、そのためにラインハルトの異常なまでの戦争に対する執着をあえて演出する必要があったのではないでしょうか。
もっとも、このような矛盾に直面した最大の原因といえば、やはり、
<後付けのストーリー(延長に延長を重ねるうちに、作品が破綻した)>
という理由が大きいのではないかと思いますね。
創竜伝と同じく銀英伝も、最初は1巻のみで完結の予定だったのを全10巻に延長したと聞きます。この弊害がアムリッツァとキルヒアイスの「早すぎる死」となって出てきていますから、これに散々田中芳樹も悩まされたのではないでしょうか?
<こうしておけば、ロイエルタール(でしたっけ?)が最後のほうで謀反を企てた理由も、もっとはっきりすると思われます。「昔のラインハルトには勝てないが、いまのラインハルトなら勝てる」と。>
ロイエンタールの反乱はロイエンタール自らが能動的に起こしたものではなく、地球教徒のお粗末な陰謀とグリルパルツァーの造反によって、いわば受動的に引き起こされたものですから、元々ロイエンタールの側に「反乱の合理的な理由」などなかったのではないでしょうか。
あえてロイエンタールの側に「反乱の理由」を説明させるとすれば、「ロイエンタール自身の誇りと生存意義のため」といったところなのではないですかね。
冒険風ライダーさんは書きました。
> ラインハルトの戦争に対する葛藤というのは(中略)、「ラインハルトの転落」という「(客観的に見て)非合理的な行動の(ラインハルトの主観的に)合理的な理由」は充分に説明できるのではないでしょうか。
>
> <やはり問題は「ラインハルトのミス」ではなく、「田中芳樹の作家としての技量」が問題になっているということではありませんか?>
>
> これは「テーマを訴えたいという欲求」と「小説のストーリー進行上の要求」とのバランスがうまくとれていないからなのではないでしょうか? 私がヤンの思想的矛盾のひとつとして挙げた「シビリアン・コントロールの矛盾」にそれが良く表れています。
> もっとも、このような矛盾に直面した最大の原因といえば、やはり、
>
> <後付けのストーリー(延長に延長を重ねるうちに、作品が破綻した)>
>
> という理由が大きいのではないかと思いますね。
> 創竜伝と同じく銀英伝も、最初は1巻のみで完結の予定だったのを全10巻に延長したと聞きます。この弊害がアムリッツァとキルヒアイスの「早すぎる死」となって出てきていますから、これに散々田中芳樹も悩まされたのではないでしょうか?
>
正直な話、『銀英伝』は不要だから、全部実家に送り返して現在手元にないのですが……。
なるほど、冒険風ライダー氏は、小生の読み足らなかった部分について、すべて明確に説明されています(さすがですねぇ)。
だからこそあえて苦言を申し上げた次第なのですが、実は小生も、以前ある作家の同人誌に、「この人は戦略を知らない」と批判文を書いたことがあります。直接名前は書きませんが、『ほにゃららの艦隊』で大ブレークされ、いまは誰にも見向きをされなくなった、北海道在住の方です(☆)。
その際、当の御仁とファンの反応が素晴らしかった。当事者は「私は戦略など知らない。だからどうした」的な居直りをし、またファンたちもそれを鵜呑みにして逆に私を批判してきたのですから。
同様に、田中芳樹(やファン)にしたところで、冒険風ライダー氏が「どれだけ戦略が間違えている」と懇切丁寧に説明しようが、彼らは聞く耳など持たないでしょう。それこそ彼らは、「『主観的な合理性』という名の客観的な非合理」な対応をやってくるはずです。それこそ「批判している人間の自己満足」だというような。
嫌な言い方ですが、彼らを納得させるには「肥溜めのなかで泥レス」をやるぐらいにレベルを落とした戦いをやるか、あるいはもっと間接的で、一見効力がないようでもじわじわ締め付ける手を打つかの二通りが考えられます。一番意味がないのは、氏のやられているような一般常識的なことを並べた戦略だと愚考します。彼らはそれを、すべて悪意に解釈してしまいますから……。
ですから、大上段を振りかぶったような「ラインハルトのミス」から攻めるより、「そのミスをうまく小説上で反映できなかった田中芳樹のミス」という方向性で批判されたほうが、彼らは「ぐうの音」(死語ですか)も出ないと思うのですがね?
それこそ私がやられたような、「私は戦略なんか知らない」と居直られることもないでしょうし……。「ラインハルトのミス」から批判すると、トカゲの尻尾的に逃げられる可能性もあると思いますよ。彼らにとって、「ラインハルトのミス」はその程度の価値しかない問題なのですから。
つまり「戦略を批判する」ことは、「批判する側の戦略」も問われていることと同じだと思いますよ。また批判自体が適切であるが故に、氏の批判方法では意味をなさないと、一文入れた次第です。
また氏がおっしゃられたように、「テーマを訴えたいという欲求」と「小説ストーリー上の要求」の矛盾は、『銀英伝』に限らずどの小説でもあることでしょう。
しかしラインハルトという魅力的で、かつ屈折した稀代の名キャラクターを創造しているのに、『銀英伝』はそれが反映されているとは言い難いのも事実です(★)。
もっと彼のキャラクターを活かした、内面を引き出せるストーリーがあったか、あるいは「何の魅力の欠片もないただの戦略の天才」でとどめておくかの、作者には二つの選択肢があったように思います。個人的には『銀英伝』のストーリーが大幅に変わってでも、前者のほうを読みたいですが……。
やはり最終的に帰結するのは、田中芳樹の技量というか、作家としてのセンスの問題でしょう。「どちらを捨てて、どちらを優先するか」というのも、ひとつの「戦略」なのですから(※)。作家が小説のなかの戦略を間違えたとしても許されたとしても、こちらを間違えていたらシャレでは済みません。
こちらから攻めたほうが、遠回りですが、確実ではありませんか?
☆ 昨年、冒険風ライダー氏と「田中芳樹と●巻●雄の対談があったら面白い」ということで少々盛り上がりましたけど……。
その時は書きませんでしたが、田中芳樹より荒●義●のほうが、数倍エグイ人物です。直接書簡でやりあっただけに、そう断言できますね(笑)。あ、何も私が自慢することではないですか。
結果的に読者を離れたのは、それ以外の事件が原因です。その件に関しては、冗談抜きで訴訟を考えたほどです(弁護士にも相談したところ、「勝ち目がない」というので泣く泣く諦め、その後数ヶ月間はノイローゼにされました)。
細かいことは、いろいろ問題があるので書けません。ひとつだけ書くとすると、「デビュー作を潰された」ということでしょうか(皮肉なことに、そのほうがいまの私にはプラスになったのですけども)。
ラインハルトには負けますが、私も結構、屈折しているんですよ(笑)。
★ 最近私の周りで流行っている言い回しですが……。
「キミは死んで○年目に、『知ってるつもり』で放送される」
ラインハルトも、やっぱりそうですよ(笑)。
嫌味な司会が「何が彼をそこまでかき立てたのでしょうか?」と言うと、何の必然性もないゲストのタレントが「うーん。やっぱり親の愛に餓えてたんでしょうねー」って答えたりして(ハマり過ぎてて、全然笑えないな)。
※ これは●巻氏が書いてたのですが、「小説は一種の戦略であり、作家も一種の戦略家である」。人間的には嫌いですが、この言葉は評価したいですね。
> ★ 最近私の周りで流行っている言い回しですが……。
> 「キミは死んで○年目に、『知ってるつもり』で放送される」
> ラインハルトも、やっぱりそうですよ(笑)。
ヤンの場合だと、どうも「栄光なき天才たち」というイメージが私の中にあります(^^;)
こんにちは。しばらく置いてしまってごめんなさいね。
冒険風ライダーさんは書きました
> これを主張したのはミッターマイヤーですが、実はこの主張、すくなくとも当時の帝国軍が持っていた「ヤンについての知識」からはじき出された考え方としてはそれほど「馬鹿げた予想」ではありません。
> というのもこの当時、ヤンが「民主主義擁護」の観点から同盟を必死になって死守するであろうことを、帝国側は知らなかったのです。したがって、ミッターマイヤーを始めとする帝国軍の将帥たちは、たとえ同盟が降伏してもヤンが同盟政府から独立して帝国と戦いつづけると考えていたため、このような考え方が出てきたのではないでしょうか。
> 銀英伝本編にもそのことを裏付けている個所があります。
>
> 銀英伝5巻 P154上段~下段
> <このとき、帝国軍の領袖たちの目が、同盟の首都や政府よりヤン・ウェンリー艦隊に向けられていたのを、固定観念としてしりぞけることはできないであろう。同盟政府よりヤン・ウェンリーの武力こそが、彼らにとっては現実の脅威だった。政府なき軍隊が自立化したとき、征服者たちの権力と権威はたもてようがないのである。>
>
> この考えからいけば、ヤンを無視して同盟政府を倒す事はむしろ愚策です。ヤンを同盟政府という呪縛から解き放つ事になってしまい、帝国にとってはかなり厄介な事態となるのですから。ヤンの今までの「奇跡」から「彼を完全に自由にさせてしまっては今まで以上に厄介になる」とラインハルトや帝国軍の将軍達が考えるのも無理はありません。何しろ「ヤンが同盟を見捨てられない」という事実を彼らは知らないのですから。
「ヤンが同盟政府を見捨てられない」って本当に帝国軍の将帥たちには解らんのでしょうかね?いや、だとすると何でヤンがイゼルローンを放棄したのかさっぱり解らなくなるような。「同盟政府などどうでもよい」とヤンが考えたのなら、イゼルローンに籠もっている方が得でしょう。それこそシェーンコップの言うように「イゼルローン共和国という考え方も悪くない」のですから。後で、実際イゼルローンのハードウェアに頼らなければならない事態を作ってしまっていますし。
ラインハルト自身も、イゼルローンを放棄したヤンの考えを、「同盟が勝つ唯一の方法」の実現のために、ラインハルトを戦死させること、「わからぬか。戦場で私を倒す事だ」と断言しているのですから、5巻の時点でのヤンが同盟の存続を第一に考え、行動していると帝国軍の将帥が理解していなかった、とは奇妙な気がしますけど。そういう意味で、「ハイネセンに進撃すれば、ヤンは負け覚悟で出て来ざるを得なくなる」というのは、ヒルダが僅かに考えたくらいで、他の誰も気付いていないというのはおかしいと思います。そもそも、ラインハルトのいつもの戦争のデザインでは「相手をこちらの有利な条件に否応なく引きずり込む」ということばかりだったのに、ここで突然「ヤンの有利な条件に引きずり込まれて、それに疑問を感じない」というラインハルト自身もおかしいし、部下もそれが解らない凡将ばかりになってしまった、というのは何なのでしょうね。いや、この辺は「対等な条件での、バーミリオンの両雄対決」が書きたいばかりに無理な理屈付けているような気がしてしょうがないんですけよ。5巻のこのあたりは「ご都合主義だな」と思ったもので。荒巻義雄よりゃ遙かにマシですけどね。
なにせ、いくら有効な戦略でも、「ヤンの策動を無視してハイネセンに直進した帝国軍に対し、同盟政府がパニックに陥ってヤン元帥にバーラト星系正面での迎撃を指令。『シビリアンコントロール』だからと泣く泣く出てきたヤン艦隊が大兵力の帝国軍に袋叩きにされて最後は降伏。ヤン艦隊の壊滅で同盟敗北決定」じゃ身も蓋もないですから。それにこれじゃ、楠木正成の湊川みたいですし。
実は、同盟自体が堅固なら、それでも抗戦可能です。中国の国民党や共産党みたいに、政府が逃げ回ればいい訳で。それこそヤン艦隊と一緒にでも。広い同盟領内を引きずり回され、帝国への敵愾心に満ちた民衆
に有形無形の嫌がらせやテロを受け続けたら、ラインハルトと雖も敗退しそうな気がしますけどね。「南京が落ちたら重慶に逃げる」をやれば実は同盟はかなり戦えるのではないかと思います。味方の犠牲を無視すれば。もっとも、銀英伝の世界で「同盟領がどのくらい広いのか?」が今イチ明確ではないので、これで絶対に同盟の勝ちとまでは言えないでしょうが。
銀英伝世界でこれが出来ないのは、同盟がそんなに堅固ではなくて、ハイネセンが陥落したら帝国に降伏してしまうような星系ばかりだから、ってことなんでしょうけど。だから同盟政府はハイネセンから退去できない訳で。同盟が堅固だったら中国式の便衣兵戦術を駆使した抵抗が可能なんですが。だからと言って、基本的に「きれい事」を大事にしているラインハルトが、同盟領で言うことを聞かない惑星に対して、ヴェスターラントの虐殺みたいな事はできんでしょうし。
> バーミリオン会戦の時点でヤンの性格をある程度見破っていたのは、帝国軍の中ではヒルダただ一人しかいませんでした。しかもそのヒルダですら、絶対の自信があったわけではありません。したがって、あの時点でヤンをおびき出そうとしたラインハルトの意図は、限られた情報からはじき出された結果から考えてみれば、それほど間違ったことではなかったと思います。大兵力でまとまっているとヤンが出てこない可能性がありますから。
> そしてバーミリオン会戦以降は、帝国側にもヤンの性格は完全に分かっているのですから、むしろ参謀や将軍達の方がラインハルトよりもまともな考えを打ち出すようになり、実際、ラインハルトに対して一度ならず諫言も行っています。したがって、
>
> <「ラインハルト以下の帝国軍の将帥たちも、ヤンしか見ていない」と言えると思いました。>
>
> というのはバーミリオン会戦時はともかく、すくなくとも銀英伝7巻以降には当てはまらないのではないでしょうか。
> もっとも、レンネンカンプに対しては立派に当てはまりますが(^^;)
>
そうですね。7巻以降はラインハルトだけが「予は戦いたい」とばかり言っている「戦争キチガイ」みたいで、他はマトモです。「陛下がお出ましにならなくても、我々が戦います」ってみんな言っていますから。その方が近代国家としては普通ですよ。君主が自分で前線に出る、だなんてナポレオン時代じゃあるまいし。あ、そのあたりがラインハルトのモデルでしたっけ?前に論争していて言われたような。
> しかしそれとは別に、バーミリオン会戦時におけるラインハルトの作戦は、構想はともかく、実行過程においては破綻しているとしか言いようがありません。
そうですね。どう考えても破綻していると思いますわ。
> わざとラインハルトの戦力を手薄にしてヤンを誘い出す、という作戦自体は良いのですが、問題なのはその際に「同盟の補給基地攻撃」という名目で分散していった帝国軍の将軍達が、名目通り本当に同盟の補給基地を攻撃しに行ってしまった事です。兵力を分散するフリをヤンに見せておきさえすれば良かったはずなのに。
> そもそも最初の作戦案では「ヤンを誘い出して時間稼ぎをし、帰ってきた帝国軍と挟み撃ちにして最終的に包囲殲滅する」という考えであったのですから、同盟の補給基地がどうであろうと、ラインハルトが攻撃された時点で引き返してこなければならなかったはずです。したがって、本当なら彼らはあまり遠くに行ってはいけないはずなのですが、ミッターマイヤーやロイエンタールでさえ、本当に同盟の補給基地を攻撃・占領している始末ですからね。そんな事をすればラインハルトの意図が完全破綻するであろうことは目に見えているというのに、彼らはラインハルトの意図が全く読めなかったのでしょうか?
>
と、言うより「ヤン艦隊出現!ラインハルト艦隊と戦闘開始!」って連絡が貴下の艦隊司令官たちに行っていたんですかね?どうも銀英伝を読んでいても、そういう記述がないような気が。「ローエングラム公がヤンと戦い始めた!すぐ戻ってこい!」と反転命令がラインハルトから出てこなければ、艦隊司令官たちは「補給基地を攻撃・占領しろ」という最初の命令に従いますよ。これは「直ちに反転してこい!」とタイミング良く伝令を送らなかったラインハルトの問題ではないかと。ヒルダだけが勝手に真っ先に出ていって、ミッターマイヤー艦隊に到達しているのですから、これはラインハルトのミス、というか意固地でしょう。「部下の艦隊は来なくてもいい。自分だけで格好良くヤンに勝ってみせる!」という。だから、
「戦いを格好良く勝とうなどとは、例え彼我の兵力差が1対10の圧倒的に有利な場合でも、絶対にやってはいけないことだ」
と言ってみせたんですわ。下のやつ(↓)ね。
> <「戦いを格好良く勝とうなどとは、例え彼我の兵力差が1対10の圧倒的に有利な場合でも、絶対にやってはいけないことだ」
> という言葉を、バーミリオンのラインハルト・フォン・ローエングラム公爵に捧げたいと思います。>
>
> 上記の言葉は銀英伝5巻以降のラインハルトの行動全てにあてはまりますね。マル・アデッタ会戦やイゼルローン遠征などはバーミリオン会戦以上に全く必然性がありません。どちらもわざわざ戦う必要はないのですし、戦うなら戦うでラインハルトが出てくる必要は全くありません。しかも敵側に戦場を指定させ、わざわざ敵に有利な環境下で戦っていますが、これなどは本来のラインハルトの「戦略デザイン」の観点から言えば愚劣の極みでしょう。そこまでしてラインハルトは「自らの矜持」だの「軍事的ロマン主義」だのを満足させたかったのでしょうか?
> しかもラインハルトの主観はどうであれ、傍目から見れば、ラインハルトは自分の戦略的格差をことさら誇示するために、不必要かつ犠牲を伴う「弱いものいじめ」を楽しんでいるようにしか見えません。何しろ戦略的格差から言ってもラインハルトが負けるはずがないのですからね。自分の絶対的な優越を自覚せずに相手に戦いを求めるという姿勢は、かつて彼が蔑視していたであろう門閥貴族と全く同じではありませんか。
> はっきり言って銀英伝5巻以降のラインハルトは、「戦争の天才」とはとても呼べたものではありません。何しろ、その時点で一番犠牲を伴う選択肢ばかり選んでいるのですからね。これが政治家としても戦略家としても失格である事は言うまでもないでしょう。
> ヤンもラインハルトも、結局お互いを感情的に意識しすぎて道を誤ったとしか思えませんね。政治に感情を持ち込むとロクでもない結果を導く好例です。
うん、これは面白い視点でしたね。何だかラインハルト自身が、実は軽蔑していた筈の門閥貴族と何ら変わらなくなってしまった、というのは。勝ちたいと思った時に勝てる、わざわざ相手の有利な条件で戦って、流血を楽しんでいるとしか思えないラインハルト。これは確かに加虐趣味なだけでしょう。
でもこれ、田中芳樹は意図的に「ラインハルトが、蔑視していた筈の門閥貴族と同様に精神を腐蝕させていく歴史の皮肉」を書いたのでしょうか?どうもそうは思えないんですよ。最後まで「ラインハルトは政戦両略の天才」と位置づけているだけのようで。「政戦両略の天才」と「不敗の名将だが民主主義に殉じた(不本意ながらやっている)軍人」を書きたかっただけで。田中芳樹は、ラインハルトの理念が腐敗していくのが、全然解っていないで書いているような気がするんですけど。
<実は小生も、以前ある作家の同人誌に、「この人は戦略を知らない」と批判文を書いたことがあります。直接名前は書きませんが、『ほにゃららの艦隊』で大ブレークされ、いまは誰にも見向きをされなくなった、北海道在住の方です(☆)。
その際、当の御仁とファンの反応が素晴らしかった。当事者は「私は戦略など知らない。だからどうした」的な居直りをし、またファンたちもそれを鵜呑みにして逆に私を批判してきたのですから。
同様に、田中芳樹(やファン)にしたところで、冒険風ライダー氏が「どれだけ戦略が間違えている」と懇切丁寧に説明しようが、彼らは聞く耳など持たないでしょう。それこそ彼らは、「『主観的な合理性』という名の客観的な非合理」な対応をやってくるはずです。それこそ「批判している人間の自己満足」だというような。>
いくら田中芳樹が作家として堕落したとしても、ここまで愚劣な対応をするほどまでに「人間として堕ちた」とは思いたくないところですが、仮に田中芳樹がこのような対応をしたとしても私は一向に構わないと思っていますよ。その愚劣な対応も田中芳樹批判のために使用させていただきますので(笑)。
むしろ作家批判という観点から言えば、作家側のこのような対応によって完全に作家側のメッキを剥ぐ事ができます。自らの作品に対して何の責任感も持たず、間違いを指摘されて居直るような作家を、それほど狂信的ではない普通のファンが見たら一体どう思うことでしょうね。第一このような対応は、作家自身が「自分の小説はどうしようもない駄作である」と明言しているようなものではありませんか。自分を支持しているファンに対してこれほど失礼な態度はないでしょう。
私だったら、そのやり取りの一部始終を全て記録した上でホームページ上で公開し、積極的にCMして回りますね。そして自分はあくまでもファンに対して冷静に対応し、ファンないし作家と自分との差を第3者に見せつけてやれば、まずそれほど熱狂的でもないファンが作家から離れはじめ、熱狂的なファン達も次第に自らの過ちに気づく事でしょう。あくまでも気づかないというのであれば放っておけば良いのです。ファンがどんどん減少していくために、彼らは自滅への道を歩まざるをえなくなりますので。そこまで都合良く進まないとしても、すくなくとも作家やファンの信頼性に大きな傷をつけることは充分に可能でしょう。
何しろ作家自身の行動なのですからね。これほどまでに作家を直接攻撃できる絶好の材料はめったにないでしょう。なまじ小説を通じて作家を批判するよりもはるかに確実かもしれません。速水さんが引用されたような事情は、むしろ私としては望むところですよ。田中芳樹やファンがそこまで堕ちるとは思いたくないところではありますが。
<大上段を振りかぶったような「ラインハルトのミス」から攻めるより、「そのミスをうまく小説上で反映できなかった田中芳樹のミス」という方向性で批判されたほうが、彼らは「ぐうの音」(死語ですか)も出ないと思うのですがね?
それこそ私がやられたような、「私は戦略なんか知らない」と居直られることもないでしょうし……。「ラインハルトのミス」から批判すると、トカゲの尻尾的に逃げられる可能性もあると思いますよ。彼らにとって、「ラインハルトのミス」はその程度の価値しかない問題なのですから。
つまり「戦略を批判する」ことは、「批判する側の戦略」も問われていることと同じだと思いますよ。また批判自体が適切であるが故に、氏の批判方法では意味をなさないと、一文入れた次第です。>
その「ラインハルトのミス」がどのような理由で発生したのかが具体的に分からない限り、それこそ「私はそんな理由であの描写を書いたわけではない」と逃げられてしまうのがオチなのではないでしょうか? 「単純ミス」とか「純粋に軍事知識が足りなかった」という可能性だって考えられますからね。
それにそこまで作家をやたら引き合いに出しても、一般のファンがついてこれないのではないですか? 「私はこの作品が好きだけど作家の事はどうでもよい」というファンだっていますからね。そういう人達に対して、作家をひたすら引き合いに出して作品批判をしても、あまり意味がないのではないでしょうか。
私自身、田中芳樹の思想に対していろいろと考えるようになったのも、多くの田中芳樹作品を読みふけっていろいろ考え、疑問点に気づいたり矛盾を感じたりして以降の事ですからね。やはり作家である田中芳樹を批判するのならば、その作品の思想や内容を問うことこそが常道です。そしてその方がファンもついてこれるでしょう。何しろ、自分達がよく知っている作品の内容なのですからね。分かりやすさから言ってもこちらの方が確実ですし、ファンも少しは疑問を持って小説を読んでくれるでしょう。
私もかつては熱狂的な田中芳樹ファンでしたからね。その経験が今の戦略につながっているのですよ。かなり有効な戦略だと思うのですがね。
それと私自身も架空歴史系に限定してはいますが、ときどき田中芳樹作品の擁護や矛盾の解読をしています。作品の擁護とはこのようにやるものだという範を示しているつもりです。実はこの戦法も、狂信的なファンの愚劣な擁護論を封じるには結構有効な戦略であると考えているのですが。
<昨年、冒険風ライダー氏と「田中芳樹と●巻●雄の対談があったら面白い」ということで少々盛り上がりましたけど……。
その時は書きませんでしたが、田中芳樹より荒●義●のほうが、数倍エグイ人物です。直接書簡でやりあっただけに、そう断言できますね(笑)。>
だとしたらますます見てみたいですね(笑)。罵倒合戦に終始するか、逆に意気投合するか、はたまた心理的な駆け引きが行われるか、いずれにしても相当な見物であると思いますけど(笑)。
> そうですね。7巻以降はラインハルトだけが「予は戦いたい」とばかり言っている「戦争キチガイ」みたいで、他はマトモです。「陛下がお出ましにならなくても、我々が戦います」ってみんな言っていますから。その方が近代国家としては普通ですよ。君主が自分で前線に出る、だなんてナポレオン時代じゃあるまいし。あ、そのあたりがラインハルトのモデルでしたっけ?前に論争していて言われたような。
ナポレオンやそれ以上昔の戦争をモデルにしていると思います。
銀英伝のボードシミュレーションゲームのデザイナーが「ナポレオニックをモデルにした」とも言っていましたし、アレクサンドルの焦土戦術や三帝会戦をモデルにしたフシも見られますね。
ついでに言えば、疾風ウォルフのモデルは韋駄天ハインツのように思われますから、あのあたりはいいトコ取りなんでしょうね。
まあ、銀英伝の戦争に「近代戦争」を当てはめるのは、ドラえもんを揶揄するようなものだと思います。
> でもこれ、田中芳樹は意図的に「ラインハルトが、蔑視していた筈の門閥貴族と同様に精神を腐蝕させていく歴史の皮肉」を書いたのでしょうか?どうもそうは思えないんですよ。最後まで「ラインハルトは政戦両略の天才」と位置づけているだけのようで。「政戦両略の天才」と「不敗の名将だが民主主義に殉じた(不本意ながらやっている)軍人」を書きたかっただけで。田中芳樹は、ラインハルトの理念が腐敗していくのが、全然解っていないで書いているような気がするんですけど。
まず「意図的」ではないと私も思います。
あなたの書きこみを読んで、「なんか田中芳樹も随分な憎まれようだなあ」と可哀想になりました。
過去ログを読んだ限りでは、かなり批判というか、ツッコミの厳しすぎる人だと思いましたが「面白い小説を書きさえすればいいんだが・・・」という考え自体には文句の付けようが無いと思っていたのですが、今回の書きこみはちょっとあんまりではないでしょうか。
なんだか「機会さえあれば俺が田中芳樹を廃業させてやる!」かのような意気込みを読ませられても、正直どのような読後感を望まれているのかわかりかねます。
> いくら田中芳樹が作家として堕落したとしても、ここまで愚劣な対応をするほどまでに「人間として堕ちた」とは思いたくないところですが、仮に田中芳樹がこのような対応をしたとしても私は一向に構わないと思っていますよ。その愚劣な対応も田中芳樹批判のために使用させていただきますので(笑)。
むしろ作家批判という観点から言えば、作家側のこのような対応によって完全に作家側のメッキを剥ぐ事ができます。自らの作品に対して何の責任感も持たず、間違いを指摘されて居直るような作家を、それほど狂信的ではない普通のファンが見たら一体どう思うことでしょうね。第一このような対応は、作家自身が「自分の小説はどうしようもない駄作である」と明言しているようなものではありませんか。自分を支持しているファンに対してこれほど失礼な態度はないでしょう。
私だったら、そのやり取りの一部始終を全て記録した上でホームページ上で公開し、積極的にCMして回りますね。そして自分はあくまでもファンに対して冷静に対応し、ファンないし作家と自分との差を第3者に見せつけてやれば、まずそれほど熱狂的でもないファンが作家から離れはじめ、熱狂的なファン達も次第に自らの過ちに気づく事でしょう。あくまでも気づかないというのであれば放っておけば良いのです。ファンがどんどん減少していくために、彼らは自滅への道を歩まざるをえなくなりますので。そこまで都合良く進まないとしても、すくなくとも作家やファンの信頼性に大きな傷をつけることは充分に可能でしょう。
何しろ作家自身の行動なのですからね。これほどまでに作家を直接攻撃できる絶好の材料はめったにないでしょう。なまじ小説を通じて作家を批判するよりもはるかに確実かもしれません。速水さんが引用されたような事情は、むしろ私としては望むところですよ。田中芳樹やファンがそこまで堕ちるとは思いたくないところではありますが。
この部分は、完全に「自分に都合の良い未来」を仮定しているようにしか見えません。「一向に構わない。愚劣な対応も批判に使わせてもらうだけ」と言った後に「田中芳樹がそこまで堕ちるとは思いたくないところではありますが」と白々しい一文を付け加えるのもいかがなものかと思いますが。
このサイトで言うところの「批判」とはあくまで「現在の田中芳樹の姿勢に疑問を投げかけ」、「正道に立ち返る」のを促すためのものであって、「堕落した田中芳樹が羞恥心にいたたまれなくなり、自らペンを折る」まで非難し続ける、という意味では無いと思いますが。