冒険風ライダーさんは書きました
>> いくら田中芳樹が作家として堕落したとしても、ここまで愚劣な対応をするほどまでに「人間として堕ちた」とは思いたくないところですが、仮に田中芳樹がこのような対応をしたとしても私は一向に構わないと思っていますよ。その愚劣な対応も田中芳樹批判のために使用させていただきますので(笑)。
> むしろ作家批判という観点から言えば、作家側のこのような対応によって完全に作家側のメッキを剥ぐ事ができます。自らの作品に対して何の責任感も持たず、間違いを指摘されて居直るような作家を、それほど狂信的ではない普通のファンが見たら一体どう思うことでしょうね。第一このような対応は、作家自身が「自分の小説はどうしようもない駄作である」と明言しているようなものではありませんか。自分を支持しているファンに対してこれほど失礼な態度はないでしょう。
>
>
> <大上段を振りかぶったような「ラインハルトのミス」から攻めるより、「そのミスをうまく小説上で反映できなかった田中芳樹のミス」という方向性で批判されたほうが、彼らは「ぐうの音」(死語ですか)も出ないと思うのですがね?
> それこそ私がやられたような、「私は戦略なんか知らない」と居直られることもないでしょうし……。「ラインハルトのミス」から批判すると、トカゲの尻尾的に逃げられる可能性もあると思いますよ。彼らにとって、「ラインハルトのミス」はその程度の価値しかない問題なのですから。
> つまり「戦略を批判する」ことは、「批判する側の戦略」も問われていることと同じだと思いますよ。また批判自体が適切であるが故に、氏の批判方法では意味をなさないと、一文入れた次第です。>
>
> 私もかつては熱狂的な田中芳樹ファンでしたからね。その経験が今の戦略につながっているのですよ。かなり有効な戦略だと思うのですがね。
>
> それと私自身も架空歴史系に限定してはいますが、ときどき田中芳樹作品の擁護や矛盾の解読をしています。作品の擁護とはこのようにやるものだという範を示しているつもりです。実はこの戦法も、狂信的なファンの愚劣な擁護論を封じるには結構有効な戦略であると考えているのですが。
>
もうここまで確信犯なら、私にはどんな言葉もありません。
ただ経験論から言えば、
1 ある程度、相手の撤退路を残してやる。
2 同時に自分も深入りしない
の、二点が重要でしょうか。
そして目的は、田中芳樹(別に彼に限らず)という作家を「完全撃滅」ではなく、狂信的なファンですら彼の作品に接するときに、適度な距離を置かせることだと思われます。
それこそファンとしてひどい作家と心中するのもいやですが、それ以上にひどい作家を批判するために自分の時間を潰す(もっと面白い小説を読める!)のも馬鹿馬鹿しいでしょう。
>
> <昨年、冒険風ライダー氏と「田中芳樹と●巻●雄の対談があったら面白い」ということで少々盛り上がりましたけど……。
> その時は書きませんでしたが、田中芳樹より荒●義●のほうが、数倍エグイ人物です。直接書簡でやりあっただけに、そう断言できますね(笑)。>
>
> だとしたらますます見てみたいですね(笑)。罵倒合戦に終始するか、逆に意気投合するか、はたまた心理的な駆け引きが行われるか、いずれにしても相当な見物であると思いますけど(笑)。
いや、まぁ見物なんですが……。
まずどちらも作品にやましい部分があるから、本音は出さないでしょうな。それを駆け引きというかは、別として。
だからはじめは互いの作品を絶賛しあって、作風の話題に入り、次が「社会問題を小説にどう活かしているか、またその手法の今後」という方向性から、最後にエール交換でしょう。
面白いと言えば面白いし、つまらないと言えばつまらない。その程度に過ぎませんよ。むしろ行われる前に散々推測して、その後発表されたものと対比させるほうが、数倍面白い(こっちのほうが趣味が悪いか?)。
でもどうせ対談をやるなら、雑誌ではなく、ちゃんと単行本で出して欲しいものです。
出版社? そりゃ『幻冬舎アウトロー文庫』に決まりですよ(笑)。
>不沈戦艦さん
遅ればせながら「バーミリオン関連」についてのレスです。
<「ヤンが同盟政府を見捨てられない」って本当に帝国軍の将帥たちには解らんのでしょうかね?いや、だとすると何でヤンがイゼルローンを放棄したのかさっぱり解らなくなるような。「同盟政府などどうでもよい」とヤンが考えたのなら、イゼルローンに籠もっている方が得でしょう。それこそシェーンコップの言うように「イゼルローン共和国という考え方も悪くない」のですから。後で、実際イゼルローンのハードウェアに頼らなければならない事態を作ってしまっていますし。>
ヤンのイゼルローン放棄については、政治的・戦略的な観点から見る事で充分に説明できるのではないでしょうか?
もしあの時点でヤンが同盟政府を見捨ててイゼルローン要塞にこもっていた場合、ランテマリオ会戦で同盟軍は完全敗北し、その時点で同盟は降伏せざるをえなくなります。ただし小説中の銀英伝がそうであったように、帝国の内政事情や同盟市民の反発などが考慮されて一応形式的な独立は保つ事ができるでしょう。そしてその際、同盟がその「形式的な独立」を保つための条件のひとつとして「イゼルローン要塞の返還」が挙げられることは確実です。帝国側から提言するかもしれないし、同盟の側から申し出るかもしれませんが、「イゼルローン要塞」が帝国政府と同盟政府との間で政治的取引として使用される事は簡単に想像できます。したがって、どの道イゼルローン要塞は帝国に返還されざるをえないのです。
もしヤンが仮にその帝国と同盟の和平交渉を無視して「イゼルローン共和国」をでっちあげたところで、帝国と同盟の双方を敵に回すだけで政治的に圧倒的に不利になるばかりですし、最悪の場合「帝国と同盟の連合軍」とヤンとの戦いにまで発展するかもしれません。ヤンは政治的にも軍事的にも完全に孤立し、完全敗北の運命が待っているだけです。それに同盟という「民主主義政体の存続」を無視してまでイゼルローンに立てこもったところで、一体誰がヤンを「民主主義の英雄」とみなしますかね? むしろヤンに対する非難の声が上がるのではないかと思いますけど。
戦略的な観点の方は言うまでもないでしょう。当時のヤンの戦力でイゼルローンに立てこもったところで、ラインハルトの圧倒的な戦力にかなうわけがないのです。しかもあの時は帝国側出口の方にもロイエンタール率いる3~4万隻前後の大艦隊がいましたから、ヤンは完全に要塞の中に閉じ込められてしまいます。
つまりヤンがどのように考えていようと、イゼルローンに立てこもるという策は愚策なのです。銀英伝8巻におけるラインハルトのイゼルローン遠征よりもはるかに不利な政治的・戦略的状況下で戦わなければならないのですから、ヤンは「自分の保身」という観点から言ってもイゼルローン要塞を離れなければならなかったのです。
あの当時の帝国側の将帥やラインハルトも、あの状況下でイゼルローン要塞に立てこもる愚は当然知っていたでしょう。ラインハルトやロイエンタールも、ヤンがイゼルローンに拘泥しない事を予見していましたし、ヤンの方も「どうせ帝国にイゼルローンは返還しなければならない」と主張していましたしね。したがって、
「ヤンの性格がどうであれ、政治的にも戦略的にもヤンはイゼルローン要塞を放棄せざるをえない」
あの状況で帝国の将帥やラインハルトはこういう風に考えたのではないでしょうか。
<7巻以降はラインハルトだけが「予は戦いたい」とばかり言っている「戦争キチガイ」みたいで、他はマトモです。「陛下がお出ましにならなくても、我々が戦います」ってみんな言っていますから。その方が近代国家としては普通ですよ。君主が自分で前線に出る、だなんてナポレオン時代じゃあるまいし。あ、そのあたりがラインハルトのモデルでしたっけ?前に論争していて言われたような。>
そういえばラインハルトは、銀英伝10巻のシヴァ星域会戦の演説の際に次のような宣言を出しています。
銀英伝10巻 P150上段
<「戦うにあたり、卿らにあらためて言っておこう。ゴールデンバウム王朝の過去はいざ知らず、ローエングラム王朝あるかぎり、銀河帝国の軍隊は、皇帝がかならず陣頭に立つ」
皇帝の声は、水のように艦橋を満たした。
「予の息子もだ。ローエングラム王朝の皇帝は、兵士たちの背中に隠れて、安全な宮廷から戦争を指揮する事はせぬ。卿らに誓約しよう。卑怯者がローエングラム王朝において至尊の座を占めることは、けっしてない、と……」>
まもなく平和の時代が到来するという時期にわざわざこんな軍国主義まがいの宣言を出す神経もどうかと思いますけど、それ以上にこの宣言は、政治的にはローエングラム王朝の命運を左右しかねないほどの弊害をもたらす宣言であるといっても過言ではありません。
というのも、この宣言によって「ローエングラム王朝の皇帝は戦争の際に常に前線に立たなければならない」という事が初代皇帝によって明言された事になるからです。これが皇帝の権力争いの際に利用されるであろうことは容易に想像できますし、「戦争を起こしたら皇帝が陣頭に出てくる」のですから、どんな無謀な反乱でも勝利の可能性が見えてくる訳で、このため「皇帝殺害」を目的とした反乱が多発する恐れが出てきます。そもそもユリアン達イゼルローン勢力を撃滅すれば銀河帝国以外に国家が存在しなくなるにもかかわらず、何でこんな宣言をしなければならないのか理解に苦しみます。まさか「まだ俺は戦争を行うぞ」とでも宣言しているつもりなのでしょうか?
「ローエングラム王朝初代皇帝」という絶対的な立場にある自分の政治的宣言が後世にどれほどの影響を与えるのか、ラインハルトは全く考えていなかったのではないでしょうか。
<「ヤン艦隊出現!ラインハルト艦隊と戦闘開始!」って連絡が貴下の艦隊司令官たちに行っていたんですかね?どうも銀英伝を読んでいても、そういう記述がないような気が。「ローエングラム公がヤンと戦い始めた!すぐ戻ってこい!」と反転命令がラインハルトから出てこなければ、艦隊司令官たちは「補給基地を攻撃・占領しろ」という最初の命令に従いますよ。これは「直ちに反転してこい!」とタイミング良く伝令を送らなかったラインハルトの問題ではないかと。ヒルダだけが勝手に真っ先に出ていって、ミッターマイヤー艦隊に到達しているのですから、これはラインハルトのミス、というか意固地でしょう。「部下の艦隊は来なくてもいい。自分だけで格好良くヤンに勝ってみせる!」という。>
ヤンの戦術的な挑発に乗ってしまって以降はともかく、すくなくともバーミリオン会戦初期段階におけるラインハルトはそこまで意固地にはなっておりません。下の文章がそれを証明しています。
銀英伝5巻 P197上段
<この段階において、ラインハルトは何ら能動性をしめさず、ヤンの攻勢を受けとめてその浸透力をそぎとることに専念している。ヤンとの正面からの戦いは、広大きわまる自由惑星同盟の全体を罠とした包囲殲滅戦の一部分にすぎないのだ。諸将が派遣された宙域からから反転してバーミリオン星域へ殺到してきたとき、はじめてこの戦いはクライマックスをむかえるのである。その華麗かつ壮大なクライマックスに先だつ準備が、比較的地味なものになることは、やむをえなかった。>
そもそもバーミリオン会戦時におけるラインハルトの防御戦法は、帝国軍の将帥たちが反転してくる事を前提に立てられたものなのです。まあバーミリオン会戦後半でヤンの挑発にみすみす乗ってしまったラインハルトですから、結果的には「部下の艦隊は来なくてもいい。自分だけで格好良くヤンに勝ってみせる!」と思った事は間違いないでしょうが、すくなくとも計画立案と実行初期の段階では、ラインハルトは感情を排していたのではないでしょうか。
また「部下に対する命令」についてですが、これは銀英伝によくでてくる「通信妨害電波」で説明できるのではないでしょうか。
つまりヤンが出てきた時点で連絡しようとしても、通信を妨害されて全く連絡ができない状態になるために、ラインハルトはバーミリオンにおいて命令を出せなかったというわけです。ヤンにしても、戦略的事情から言ってもラインハルトを攻撃したという事実を隠したいでしょうし、戦術的観点から言っても相手の通信・連絡を自由にさせてしまったら自分に著しく不利になってしまいますから、そりゃ通信妨害を積極的にやってくるでしょうね。
そしてシャトルなどの伝令手段では命令通達に時間がかかりすぎる上に撃墜の危険性も高く、オマケに燃料による航続距離の問題もありそうですから(銀英伝でも、スパルタニアンなどの小型戦闘機は空母などからの補給が必要という設定になっています)、短距離連絡手段としてはともかく、長距離連絡手段としてはあまり実用的ではないでしょう。だからこれも使えません。
したがって、バーミリオン会戦が始まってからラインハルトが反転命令を出す事はほぼ不可能です。
ではどうやって帝国軍の将帥たちは「ラインハルトがヤンと接触した」という事実を知る事ができるのか? それは簡単で、上記の通信事情を逆利用してやれば良いのです。
銀英伝5巻のバーミリオン会戦に入る前に、帝国の輸送船団がヤン艦隊に攻撃されましたが、この時ラインハルトは、輸送船団の護衛に当たっていたゾンバルト少将との定期連絡が不定期になったことから危険を察知し、シュタインメッツ艦隊を送りこんでいます。結局、すでに輸送船団は壊滅していましたが、バーミリオン会戦の際にもこれと同じ方法を使えば良いのです。
つまりラインハルトと将帥達とが積極的に連絡を行い、それがヤンとの接触で不可能になったときをもって将帥達は反転攻勢に出れば良いのです。これならばラインハルトが自ら反転命令を出す必要はありません。
それに作戦立案の段階で、ラインハルトはきちんと将帥達に作戦の目的と反転攻勢について説明しているのですよ。
銀英伝5巻 P156下段
<「ロイエンタール!」
「はっ」
「卿は艦隊を率いてリオヴェルデ星域におもむき、そこの敵補給基地を攻略するとともに周辺航路を制圧せよ」
ロイエンタールが返答をのみこんでラインハルトを見かえすと、若い独裁者は低く笑ってみせた。
「わかるな? これは擬態だ。他の者にも、それぞれ艦隊を率いて私のもとから離れてもらう。私が孤立したと見れば、ヤン・ウェンリーは洞窟から野原へ出てくるだろう。網をはって、そこを撃つのだ」>
このように、ラインハルトは敵補給基地攻撃命令が擬態であるとはっきり宣言していますし、その目的がヤンを誘い出す罠である事も言明しています。
さらにラインハルトは次のような命令を下しています。
銀英伝5巻 P158下段
<「そして彼の進撃がとまったとき、卿らは反転した艦隊をもって彼を包囲し、その兵力を殲滅し、私の前に彼をつれてくるのだ。生死は問わぬ。彼の姿を自由惑星同盟の為政者どもにしめし、彼らに城下の盟を誓わせよう」>
上記の命令では「補給基地を攻撃・占領してから反転してこい」とは全く言っておりません。あくまでもヤンの殲滅こそが目的であり、敵補給基地攻撃など、ヤンに兵力を分散したように見せるための手段であるに過ぎないのです。ここまで自らの作戦意図を明言しているラインハルトの意図を、しかし帝国軍の将帥達は全く理解していなかったとしか言いようがない行動を取っているのですからね。
私がバーミリオン会戦において「将帥達の方に問題がある」と主張した理由はこれなのですよ。まあ実行過程においてはラインハルトもヤンの挑発に乗ってしまったという非がありますから、どっちもどっちなのかもしれませんが。
<うん、これは面白い視点でしたね。何だかラインハルト自身が、実は軽蔑していた筈の門閥貴族と何ら変わらなくなってしまった、というのは。勝ちたいと思った時に勝てる、わざわざ相手の有利な条件で戦って、流血を楽しんでいるとしか思えないラインハルト。これは確かに加虐趣味なだけでしょう。
でもこれ、田中芳樹は意図的に「ラインハルトが、蔑視していた筈の門閥貴族と同様に精神を腐蝕させていく歴史の皮肉」を書いたのでしょうか?どうもそうは思えないんですよ。最後まで「ラインハルトは政戦両略の天才」と位置づけているだけのようで。「政戦両略の天才」と「不敗の名将だが民主主義に殉じた(不本意ながらやっている)軍人」を書きたかっただけで。田中芳樹は、ラインハルトの理念が腐敗していくのが、全然解っていないで書いているような気がするんですけど。>
絶対分かってはいなかったでしょうね。もし理解していたのであればヤンがラインハルトを批判していたはずですから。なぜあそこまで人格的に致命的な欠陥のある人間が全く批判に晒される事がないのか、私は理解に苦しむのですけど。
銀英伝において、ラインハルトを正面から批判できた人間がオーベルシュタインただひとりだけであった(それも否定的意見に近い形で)というのは奇怪としか言いようがありませんね。
不沈戦艦さんは書きました
> 上記の言葉は銀英伝5巻以降のラインハルトの行動全てにあてはま
>りますね。マル・アデッタ会戦やイゼルローン遠征などはバーミリオ
>ン会戦以上に全く必然性がありません。どちらもわざわざ戦う必要は
>ないのですし、戦うなら戦うでラインハルトが出てくる必要は全くあ
>りません。しかも敵側に戦場を指定させ、わざわざ敵に有利な環境下
>で戦っていますが、これなどは本来のラインハルトの「戦略デザイン」
>の観点から言えば愚劣の極みでしょう。
7巻以降のラインハルトの行動には皆さん批判的なようですが、確かに「ラインハルトの好み」で行動した面はあるにせよ、それでも有る程度の合理性はある行動と見ています。
その根拠を前に戦乱の時代におけるリーダーとなりうる、つまりカリスマ性を生む根拠について述べます。
1,個人的戦闘能力
呂布、いわゆる「悪の魔王」系キャラなど
2,戦術家として卓越している
項羽、豊臣秀吉、ナポレオンなど
3,戦略家・政治家として卓越している
曹操、徳川家康など
4,特に取り柄はないが求心力がある
劉邦、劉備、水滸伝の宋江など
勿論、これらは厳密な区分けがあるわけではありません(例えば項羽は多分に「1」の要素もありますし、劉備や家康も戦術家としての能力は優れていました)。
で、銀英伝に話を戻すとラインハルトは当初「2」でありかつ「3」、ヤンは自身が「3」で有るにもかかわらず現実には「2」となります。
(ヤンにとって身近な人間はともかく、反帝国の中心となった最大の理由は「戦術家としての名声」であったわけであり、また歴史として見れば「戦略家ヤン」の出番は事実上無いのでこう評価しました)
そこでラインハルトの最大の権力基盤が軍部であり、その軍において彼の絶対的なカリスマを支えていたのは「常に前線に立って戦う戦争の天才」の姿(すなわち「2」)であり、それだからこそあれだけ急激に成り上がることが出来たと言えます。
つまりラインハルトは権力を維持し続けるために「戦争の天才」であり続ける必要があった、少なくとも「そう評価する理由があった」のです。
それを考えるとマル・アデッタのようにわざわざ相手の土俵にのった上で、圧倒的兵力をもって少数の敵を叩きのめすのは、有る程度の犠牲は避けられないにしても、「戦争の天才」の名声を高めますから、むしろラインハルトにとって政治的にプラスであり、それは帝国の基盤を盤石にすると言う面に関しては望ましいとの見方も出来ます。
逆を言えば謀略で相手を取り除くのは、犠牲が出なくとも「戦争の天才」の姿を示すことが出来ませんから政治的な利点を損なうとも言えるのです。
ラインハルトの覇業がひとまず完了する5巻までは、勝つために「救国軍事委員会」や「オフレッサーの裏切り」「皇帝亡命」よろしく謀略をもって敵を混乱させる必要がありました、また謀略を用いてもまだ「戦争の天才」を示せる相手がいましたが、それ以降は違います。
つまり7巻以降は「勝つこと」はもう当たり前で、「いかなる形で勝つことが皇帝のカリスマを高めるか」を考えるようになったと見れば、(それが支持されるかどうかは別として)あの一見無茶に見えるイゼルローン遠征にもそれなりの合理性が見いだせます。
確かにヒルダやミッターマイヤーらはこれについて批判的です。しかしそれは皮肉にも彼らがラインハルトに身近にいるため、つまりここでは上記のヤンのカリスマと正反対の現象が起きていたと見ることが出来ます。
言うまでもなく、この場合「泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロ」のように常に戦い続けねばならず、帝国が安定期に入ると実に拙いことになりかねません。
その意味ではラインハルトは「実に理想的な時期に死んでくれた」と言う評価も出来ます。
とまあひねくれた私は皆さんに異論を唱えるべく「7巻以降のラインハルトの武力行使」の合理的根拠を考えてみました。
出来れば田中氏は帝国の一見強大なようで実はもろい一面の存在を作中何度も挙げておきながら、強引でも合理的理由を描けなかったのは確かに銀英伝の瑕疵ではあると思いますが、この点に関して殊更非難する気はありません。十分に面白かったと思っていますから。
> いくら田中芳樹が作家として堕落したとしても、ここまで愚劣な対応をするほどまでに「人間として堕ちた」とは思いたくないところですが、仮に田中芳樹がこのような対応をしたとしても私は一向に構わないと思っていますよ。その愚劣な対応も田中芳樹批判のために使用させていただきますので(笑)。
> むしろ作家批判という観点から言えば、作家側のこのような対応によって完全に作家側のメッキを剥ぐ事ができます。自らの作品に対して何の責任感も持たず、間違いを指摘されて居直るような作家を、それほど狂信的ではない普通のファンが見たら一体どう思うことでしょうね。第一このような対応は、作家自身が「自分の小説はどうしようもない駄作である」と明言しているようなものではありませんか。自分を支持しているファンに対してこれほど失礼な態度はないでしょう。
> 私だったら、そのやり取りの一部始終を全て記録した上でホームページ上で公開し、積極的にCMして回りますね。そして自分はあくまでもファンに対して冷静に対応し、ファンないし作家と自分との差を第3者に見せつけてやれば、まずそれほど熱狂的でもないファンが作家から離れはじめ、熱狂的なファン達も次第に自らの過ちに気づく事でしょう。あくまでも気づかないというのであれば放っておけば良いのです。ファンがどんどん減少していくために、彼らは自滅への道を歩まざるをえなくなりますので。そこまで都合良く進まないとしても、すくなくとも作家やファンの信頼性に大きな傷をつけることは充分に可能でしょう。
> 何しろ作家自身の行動なのですからね。これほどまでに作家を直接攻撃できる絶好の材料はめったにないでしょう。なまじ小説を通じて作家を批判するよりもはるかに確実かもしれません。速水さんが引用されたような事情は、むしろ私としては望むところですよ。田中芳樹やファンがそこまで堕ちるとは思いたくないところではありますが。
なぜそこまで作者本人を攻撃せねばならないのだ。作者を叩く事で信者の目を覚まさせ、著作の売上が減れば少しは作者も反省し正道に戻るだろうとでも考えているのだろうか。
そもそも田中信者とは、田中芳樹本人に会ってその人柄に心服した訳ではなく、その作品に感銘を受けて「このような素晴らしい小説を書ける人は尊敬すべき人格者に違いない」と思いこみ、以後の田中作品に対し無批判に崇拝する人種だと思う。その信者達が作家田中芳樹を甘やかし、また作者本人がその甘えに依存し作品の質の低下を招いているのが、現在の田中芳樹を取り巻く状況ではあるまいか。
ならば作者に対する過度の攻撃は無用。信者に対しては、経典といえる緒作品が内包する構造的矛盾、事実歪曲、作者自身の偏向した観念等を、事実を元に理性的に説けば良い。目が覚めぬまでも、「盲信」に僅かでも疑念の種を植えれば、いつか花開くときが来よう。
ちなみに上に引用した冒険風ライダー氏の作戦を行ったとすると、「確かに田中芳樹に非はあるだろうが、作者の人格を殊更あげつらう鬱陶しい行為」として、逆に田中芳樹に同情票が集まると思うが。
<ラインハルトの最大の権力基盤が軍部であり、その軍において彼の絶対的なカリスマを支えていたのは「常に前線に立って戦う戦争の天才」の姿(すなわち「2」)であり、それだからこそあれだけ急激に成り上がることが出来たと言えます。
つまりラインハルトは権力を維持し続けるために「戦争の天才」であり続ける必要があった、少なくとも「そう評価する理由があった」のです。>
これは「合理的根拠」というよりは、私がNo.566で主張した
<「主観的な合理」という名の「客観的な非合理」>
というものなのではないですかね? ラインハルトがこのように思いこんでいたというのならば納得しますが。
確かにラインハルトの最大の権力基盤は軍部でしたが、しかしだからと言ってラインハルトがそれほどまでに軍部に対して気を使わなければならない立場にあったでしょうか? 帝国軍の将帥は、ラインハルトに対して常に「前線に出ない方が良い」とか「ヤンごときと直接戦う必要はない」といった諫言を行っていますし、戦争理由にそれなりの必然性があったはずのランテマリオ会戦やバーミリオン会戦の時でさえ、ラインハルトはそういった諫言を受けています。ラインハルトが本当に権力を維持しつづけるために「常に前線に立って戦う戦争の天才」でありつづける必要性があるのならば、何でこのような諫言が自らの権力基盤であるはずの「軍部」から出てくるのですか? 本来ラインハルトが最も気を使わなければならないはずの「軍部」からこのような慎重論が常に出てくること自体、ラインハルトの心配が全くの杞憂である事を充分に証明してくれているではないですか。
そして仮にそれに従ってラインハルトが前線に出なかったとしても、それによってラインハルトが非難にさらされる事はまずなかったでしょうし、その方がむしろ部下達も安心して戦う事ができたでしょう。ラインハルトが戦死するという最悪の事態の可能性を減らす事ができるのですから。それをひたすら自らの個人的感情で一貫して退けてきたのはラインハルト自身です。
それに万が一、自らが乱発した戦争で敗北した場合、それこそ自らが拠って立つ「戦争の天才」という権威が大きく失墜してしまう可能性が高く、最悪の場合は王朝の基盤を揺るがしかねないものにまで発展するかもしれません。ラインハルトに対する名声はわざわざ戦争を起こさずとも充分に安定しているというのに、わざわざそんな危険を犯す必要がどこにあるというのでしょうか。
むしろ「権力の維持」という観点から見ると、ラインハルトが本当に気を使わなければならなかったのは、彼を「解放者」として称えている「平民」や「一般兵士」の方でしょう。
彼らがラインハルトを支持する最大の理由は、自分達を門閥貴族の圧政から解放し、さらに同盟との長期に渡る戦争に終止符を打ってくれた存在だからであって、「常に前線に立って戦う戦争の天才」というのは、「解放者ないしは戦争終結者」としての存在理由があるからこそ価値があるものなのです。したがってラインハルトが無益な戦争ばかりするようになれば、いかにラインハルトが「戦争の天才」だからといって、彼らがラインハルトを支持する事はありえません。現にイゼルローン遠征やロイエンタールの反乱によって、兵士達にも「いいかげんにしろ」という反感や延戦気分がつのっています(銀英伝10巻 P34)。
そもそも銀英伝7巻以降のラインハルトの敵は「平民」にとって本当に敵対すべき存在だったでしょうか? ビュコックがマル・アデッタで自殺行為的な抗戦姿勢を示そうが、ヤンがイゼルローンに立てこもってラインハルトと戦おうが、ロイエンタールが反乱を起こそうが、そんなもの「平民」にとっては何の関係もないことですし、そこでラインハルトの「戦争の天才」ぶりが示されたところで、彼らは別に何とも思わないばかりか、むしろそんなものに巻き込まれることに対する不満の方が大きいでしょう。無益な戦争が勃発する事によって自分が死んでしまうかもしれないのに、それよりもラインハルトの「戦争の天才」が示される事の方が大事であるなどと考える人はまずいないでしょう。
ラインハルトもやたらとこの手の「名声」を気にしているような事を口にしていますけど、どうもラインハルトの感情的行動原理の自己正当化のようにしか見えないんですよね~(-_-;;)。
<つまり7巻以降は「勝つこと」はもう当たり前で、「いかなる形で勝つことが皇帝のカリスマを高めるか」を考えるようになったと見れば、(それが支持されるかどうかは別として)あの一見無茶に見えるイゼルローン遠征にもそれなりの合理性が見いだせます。>
確かに戦略的に圧倒的劣勢に立たされている敵に勝つのは当たり前の事です。しかしその際に味方の犠牲が甚大なものになってしまったとき、上層部に対して「あの程度の敵に何をしているんだ」という不満が高まってしまうのではないですか? これは「皇帝のカリスマを高める」という目的から言ってもマイナスだと思いますけど。
<この場合「泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロ」のように常に戦い続けねばならず、帝国が安定期に入ると実に拙いことになりかねません。
その意味ではラインハルトは「実に理想的な時期に死んでくれた」と言う評価も出来ます。>
これについては全面的に賛成です。
このスレッド、なにやら変なモノまで出てきていますが、それはともかくとしても、この件に一言も触れないのはいささかマズいのではないでしょうか。
作家の態度を問うているのであれば、批判する側もその態度を明らかにしなければ話になりません。
少なくとも、このスレッドで議論になっているNo.573が「確信犯」であるか、それとも「筆が走りすぎたのか」くらいは明言されたほうが良いのでは?
それによって、この掲示板を読んでいる方々が冒険風ライダーさんに対して取るべき評価と態度がはっきりすると思います。
<このスレッド、なにやら変なモノまで出てきていますが、それはともかくとしても、この件に一言も触れないのはいささかマズいのではないでしょうか。
作家の態度を問うているのであれば、批判する側もその態度を明らかにしなければ話になりません。
少なくとも、このスレッドで議論になっているNo.573が「確信犯」であるか、それとも「筆が走りすぎたのか」くらいは明言されたほうが良いのでは?>
正直なところ、最近私は投稿に集中できない状態にあったし、それにあの一連のスレッドの文章の流れをよく読んでみればあんな誤解をするはずがないだろうと考えていたので、あえて無視していたのですが、管理人さんがそう仰るのならば解答しましょうか。
まずあのスレッドの流れから説明しましょうか。
あれはそもそも、不沈戦艦さんの投稿「バーミリオン会戦の謎」に対して私がストーリー設定に基づいてそれなりの解答を出したのに対して、速水さんが「そんな批判方法では作家に逃げられてしまうのがオチ」と言われた事がそもそもの発端なんですね。
そして速水さんがある作家に対して行った批判に対するその作家の対応を例に出して「あなたの批判手法ではこんな対応を取られてしまうのですよ」と言われたので、私は「自分の作品に対する批判に対してそんな愚劣な対応を作家側が取るのであれば、私は相応の報復手段に出る」と言ってみたまでの事です。したがって、これはそもそも「もしこういう事が起こったら」という仮定の話なのですよ。だからこそ私はNo.573で「田中芳樹がそこまで堕ちたとは思いたくないところですが」と言ったのですけどね。その「仮定の話」に対してあそこまでヒステリックな対応を取られるとは思いませんでしたな。
絶対に起きないであろう、もしくは起きてほしくない万が一の可能性に対しても万全の備えをしておく。私が言った事はこれだったのですけどね。
そして私がなぜあのような返答を言ったかと言えば、No.573でも主張したとおり、速水さんが引用されたような作家の対応は、自分の作品と、自分を信頼してくれているファンに対してあまりにも失礼かつ無責任な態度ではないかと考えるからです。
小説中に間違いや矛盾点が出てくるのは、所詮完璧ではない人間が書いた作品である以上、ある程度はやむをえない事と言えます。しかし速水さんが引用されているように、その間違いや矛盾点を他人に指摘された時に「それがどうした」などと言って開き直った挙句、批判に対して何ら理論的な反論をする事なしに人格攻撃をするという手法に出る事が、はたして自分の作品と、自分を信頼してくれているファンに対する誠実な態度と言えるのかどうか。
もし作家が本当に自分の作品に誇りを持ち、ファンを大事にするような人間であるのならば、指摘された矛盾点や間違いに対してそれなりの反論なり釈明なりをするべきなのです。私のようにストーリー設定に基づいてつじつま合わせをしても良いし、矛盾が発生した事情(テーマ優先でそこまで考えが及ばなかったとか)を説明し、そしてその上で、自分の作品の価値や訴えたかったテーマなどを説明して理解を求める事こそが、自分が出した作品に対する作家としての責任であり、またファンに対する誠実な態度と言えるのではないですか?
それができず、自分の作品を自分で貶めるような言動に出るような作家や、それに便乗して人格攻撃を行ってくるようなファンは当然批判されてしかるべきでしょう。そしてNo.573で、私はその批判方法の中でも一番強力かつ効果的であろうと考える批判手法を提示してみせたのですよ。自分でも相当にえげつない手法だとは思いますが、あれぐらいやらないと相手も自らの過ちに気づかないでしょう。何しろ、自分の作品に対してムチャクチャな自己正当化を行うような相手なのですからね。報復手段を選んでいる余裕などありません。
もちろん私が今まで言った事は、あくまでも「ファンにとって最悪の事態の想定」であって、これが実際に行われるかどうかは、結局のところ作家である田中芳樹の反応次第なのですよ。私は田中芳樹が自分に対する批判に対してそこまで堕ちた対応をするとは思いませんし、思いたくありませんが、万が一にもやられたら徹底した対応をする、ということです。
自分が作り上げた作品に対する責任の放棄、これは作家だけでなく全ての職種に対する最大級の批判要素たりえると思うのですがね。