http://www.dccinet.co.jp/tamanoir/idata/iken13.htm
一部の人には有名な大蟻食女史こと佐藤亜紀氏のサイトで、取り上げられている盗作問題を見てちょっと前にあった「椎名高志「極楽大作戦」>田中芳樹「薬師寺シリーズ」パクリ論」を思い出しました。
私は平野啓一郎氏の「日蝕」は読んだものの(ミーハーやね)、件の「鏡の影」は読んでいないので何とも言えませんし、大蟻食女史に対しても必ずしも好印象ではないのですが、パクリに関しての文章は少々膝を打つ感じでした。
(以下引用)
「ぱくり」は文学には必要不可欠である、と私は考えております。シェイクスピアなりダンテなりをぱくるのは、小説の極めて古典的な技法であり、たとえば私の私淑するナボコフの『ロリータ』での、すさまじく迂遠なメリメのぱくり方ともなれば、それだけで一見に値すると言うべきでしょう。通常のぱくりは、一般に古典と見なされ、読んだふりくらいはしていないと恥ずかしい、とされる作品に対して行われます。従って、自作を習作段階の書き手にぱくられたら、そこまで高く買ってくれるかと言って喜んでもいいのではないか、と思わないでもありません。尤も、現存する作家の、たかだか四、五年以内の作品をぱくるのは、些かまずいのも事実です。
さらに言うなら、ぱくる書き手が必ずしも才能のない書き手とは限らないのです。才能のある書き手が、習作段階での補助輪として、既成の作品を使うのはよく見る風景です。いつかは補助輪なしで書くこともできるだろう、という期待を以て大目に見てやるのも悪いことではありません。
ただし、万が一最終選考に残ったりした場合には、私は担当者に問題の部分を指摘して、事前の書き直しをさせた方がいいのではないか、と忠告することになると思います。公にされない段階においては、ぱくりは些細なことです。ただ、それが活字になるのはやはりまずい。ぱくりで書く段階にある書き手をデビューさせてしまうことのまずさはおくとしてもです。
平野氏の『日蝕』を雑誌掲載で読んだ時に私が考えたのは、まさにそういうことでした。他人事ながらちょっと心配になったくらいです。誰かに、あれって佐藤さんの『鏡の影』でしょ、と言われたらどう庇おうかと思いましたが、幸い、当人が十分以上に注意深かったのか、或いは編集部にその辺を忠告する人がいたのか、なるほどあそこをこんな風に料理しなおしたんだね、と思われる部分はあっても、盗作事件の報道でよく見るように、作品Aの文章の抜粋とA'の文章の抜粋として比較対照できそうな箇所はありません。限りなく黒に近い灰色という線でしょう。ただ、これを公にしてしまった編集部に対してはちょっと呆れました。せめてもう一作書かせて、補助輪なしで走行できることを証明してからデヴューさせても、遅すぎることはなかった筈です。
(引用終了)
いくら芥川賞で話題になったとはいえ、デビューしたばかりの青年であってもさえ『ぱくりで書く段階にある書き手をデビューさせてしまうことのまずさ』はあるわけです。
ましてや、「銀英伝」はもとより、「アルスラーン」「創竜伝」さえも真似される対象にあり、事実上若手作家の権威となった田中芳樹が、露骨な「ぱくり」を堂々と出版してしまうのは、職業作家として少々マズいのではないでしょうか。やはり。
ついでに余談ながら、
(引用開始)
正直なところ、九十六年当時の私のキャリアは結構行き詰まっていました。何を書いても誰もまともには相手にしてくれない、ということが次第にはっきりしてきた頃です。十万部とか二十万部とかいう部数を売るには凝りすぎの作品しか書かないし書けないのは自覚していましたが、だからといって日本ファンタジーノベル大賞受賞でデヴュー、では、そもそも文学としての評価の土俵に上らせて貰えない――これは厳然たる事実です。作家志望の方はまかり間違っても私の轍は踏まないように。最初の一歩でアウトカーストになったら、後はずっとアウトカーストというのが、本邦の業界の、誰も口にはしない(口にする時は、そんなことはない、と言うことになっている)常識です。一旦隙間産業に落ち込んだら、生涯、部数とも評価とも、ということは評価経由の部数(賞取って五十万部、みたいな)とも部数経由の評価(平均十万部売るんで文芸誌にスカウトされて、みたいな)とも縁がありません。
(引用終了)
このアウトカースト云々のあたりは「日本ファンタジー大賞」と「星雲賞」の違いはあれど、我らが御大を想起させるものがありますね。
「部外者のお前に何がわかる!?」といわれれば、まあ、それまでかも知れませんが、この物言いはちょっとみっともなくはありません?、と思うのは私だけでしょうか。
Merkatzさんの掲示板
http://cgi.mediamix.ne.jp/~t2185/user-cgi/light.cgi
で少々田中芳樹関係の話題が盛り上がったので、せっかくですから必要部分をここに転載したいと思います。
(ちなみに「@田中芳樹を撃つ!」というのは私のハンドルです)
[279] 投稿者:@田中芳樹を撃つ!(石井由助) 投稿日:2000/04/13(Thu) 02:09
椎名高志氏
薬師寺の件もあったんで、「極楽」を改めて読み返してみたんですが、やはり良くできてますね。
この作品が良く出来ている下部構造として、「一貫した世界観が構築されている(別にキャラを置き換えても話が成立しうる)」「ただ妖怪を倒すというだけでなく、そこに(正統的な)ドラマを被せられる」等々があると思うんですが、そういう地道な土台部分を一切無視して「美神と横島の関係」という一番表層的にわかりやすい部分しかパクれないというのは、田中芳樹の「作家としての才能」以前に、まともな「物語を読む視点」すらも消失しているような、絶望的な気分になります。
新Q太郎さんが「パクリは必要」とおっしゃっていましたが、どうせパクるなら、物語のドラマ性の運び方やギャグセンスをパクってくれた方がまだナンボ良かったことか。
かつては銀英伝で独力でそれを為し遂げた人がねぇ……
[281] 投稿者:冒険風ライダー 投稿日:2000/04/13(Thu) 20:14
>薬師寺シリーズ
多分田中芳樹も、最初のうちは「名探偵コナン」ないしは「古畑任三郎」のノリで作品を書こうと思っていたのでしょうけど(「摩天楼」の前半が何となくそれっぽいので)、それが何で「スレイヤーズ」と「極楽大作戦」の3流以下のパクリになってしまうのかが理解に苦しみますね。
私はラングリッサーやグローランサーのような「身近な作品からのパクリの成功例」というのを知っていますからパクリには肯定的ですけど、パクリを作品に生かすのならばもう少しパクリ対象について考えた上でやれといいたいですね。いくら何でも「リナ・インバースや美神令子的な性格」と「創竜伝的な社会評論ないしは説教」とが本来相反するものであるということぐらい、作品構成の過程で簡単に気がつきそうなものなのですけど。
<ところで椎名高志は今週号はお休みだったのかな?>
いえ、ちゃんと連載をやっていますよ。ちなみに新連載の名前は「ミスタージパング」です。
今回で第7話だそうですが、戦国時代に関する知識を真面目に披露している一方で、信長が暴走族を指揮しているかのような描写があるのが何とも言えません(笑)。
椎名高志氏はホントに「シリアス」と「ギャグ」の使い分けがうまいですね。某作家も少しは見習ってほしいものなのですが(笑)。
[282] 投稿者:@田中芳樹を撃つ! 投稿日:2000/04/14(Fri) 00:34
>いくら何でも「リナ・インバースや美神令子的な性格」と「創竜伝的な社会評論ないしは説教」とが本来相反するものであるということぐらい、作品構成の過程で簡単に気がつきそうなものなのですけど。
コミックスのコメントや各所でのインタビューを見ると、椎名氏は「幽霊なんか居る訳ないやろ」という考えの持ち主のようですけど、だからといって、作中で美神がこんなセリフを吐いたら、ストーリーはぶち壊しだし、世界観も土台から崩壊します。
が、田中芳樹はフィクションの作品中で自分の「本音」を吐いちゃうんですよねぇ…
作者は「幽霊居ない」という思想を持っていても、自分の作ったフィクション世界では、幽霊や妖怪を前提にした思想哲学常識の世界観を構築するのがプロでしょう。
まあ、これは椎名高志が凄いと言うよりは、田中芳樹がトンデモ過ぎっていうのが正しいかも知れないですけどね。
そういや、「トンデモ本」シリーズで、自分の作ったフィクション世界の常識を現実でも信じている某作家などがトンデモとして嘲われていましたね。
それはそれでいいんですけど、全くその逆のトンデモを行く田中芳樹も嘲われても良いんじゃないですかねぇ。
<コミックスのコメントや各所でのインタビューを見ると、椎名氏は「幽霊なんか居る訳ないやろ」という考えの持ち主のようですけど、だからといって、作中で美神がこんなセリフを吐いたら、ストーリーはぶち壊しだし、世界観も土台から崩壊します。
が、田中芳樹はフィクションの作品中で自分の「本音」を吐いちゃうんですよねぇ…>
実は「薬師寺シリーズ」におけるその手の「自縄自縛」は、他にも色々あるんですよね。
たとえば、薬師寺涼子はキャリアの警察官僚にしてアジア最大の総合警備会社「JASES」のオーナー社長の一人娘という設定で、その地位を背景に警察内で好き勝手な活動を作中で展開していますが、この設定だと薬師寺涼子は、彼女が蔑視しているであろう作中の「権力者的な悪役」と全く同類であるという事になります。
これからいくと、薬師寺涼子は創竜伝が多用しているような「権力に対する反体制・反権力的な社会評論」を展開する事など不可能であるはずです。ところがそれにもかかわらず、薬師寺涼子は悪役と自分とが同類である事を全く自覚せずに、平気で「反体制的・反権力的な社会評論」を展開しているありさまです。少し考えればすぐに分かる事なのですが、薬師寺涼子の立場でそんな事をしたら自分が展開した社会評論がすぐさま自分に跳ね返ってきてしまいます。
自分と同類の思想や行動原理を持つ者を否定するというのは、外から見ると非常に滑稽なものでしかなく、その辺りを自覚していないと醜悪極まりない描写になってしまうのですが、薬師寺涼子の場合は肝心のそれがどこにも見当たらないのです。この薬師寺涼子の「無自覚」には、初めて「薬師寺シリーズ」を読んだ時からずっと違和感を覚えているのですが。
また、薬師寺涼子の性格と完全に乖離している「弱者擁護的な言動」にも何とかしてもらいたいものですね。
薬師寺涼子は、そのパクリの元ネタであるリナ・インバースや美神令子がそうであるように「自己中心的」で「独善的」で「他人の迷惑を顧みない」といった性格をしています。ところが、本来ならば薬師寺涼子の個性であり魅力にもなりえるであろうその性格が、次のような主張と相互矛盾を引き起こしているのです。
摩天楼 P194
<あるとき、涼子は何とかという文芸評論家と対談した。どんな凶悪な事件でもかならず加害者を正当化して、一部のマスコミから進歩派だの人権派だのと持ちあげられている男だ。この男は、上機嫌でこんなことをいった。
「ボクはたとえ、自分の妻や子がサリンで殺されても、犯人の人権は守りますよ、生命がけでね。それが知識人としてのつとめですから」
すると涼子は、あくびをひとつしてから応じた。
「つまりあなたは、自分の奥さんや子供さんには、サリンをまかれたりせず平和に生きる権利などない、とおっしゃるんですね。父親に見殺しにされる子供さんのご意見を、ぜひうかがいたいわ」>
東京ナイトメア P134下段~135上段
<「や、やめんか、やめろ!」
白髪の老人が悲鳴をあげた。
「それがどれほどの価値のあるものか、わかっておるのか!?お前なんぞの想像もつかないくらい貴重なものなんじゃぞ」
涼子は平然として老人を見返し、よどみない口調で答えた。
「元の青花釉裏紅大壷。一四世紀前半のものらしいわね。こんなたいそうなもの、財務省の役人なんかに独占させておくべきじゃないわ。博物館で国民みんなに公開すべきものでしょ」>
「父親に見殺しにされる子供さんのご意見を、ぜひうかがいたいわ」
「博物館で国民みんなに公開すべきものでしょ」
この2つのセリフ、上記の薬師寺涼子の性格と明らかに矛盾しているのですけど、上記の問題と同じくこの矛盾にもやはり「無自覚」です。普通、上記に挙げたような性格で、他人を思いやるような言動を「堂々と」展開しますかね?
このような描写があるために、薬師寺涼子の性格が中途半端にしか表現できていないと思うのですが。
「薬師寺シリーズ」にはこの手の破綻言動が数多く存在し、作品の質を損ねています。そこに「パクリ」という要素が強調されているがために「薬師寺シリーズ」は「3流以下のパクリ」と評価されてしまうのです。
全く「とうちゃん」のストレス解消のため(「摩天楼」あとがき参照)にこんな支離滅裂な破綻言動を強制させられるキャラクター達には同情の涙を禁じえませんね(T_T)。
皆さんこんにちわ、かっつです。【自転地球儀世界シリーズ】についてです。
以前1巻を読んだ際の感想は、田中氏独自の教育論と創竜伝ふうの社会批判を混ぜて、3で割ったような、薄甘い作品だということでした。その為、続刊が出たのは知っていたのですが、ちょっと手を出す気になりませんでした。
でも、このサイトで「シリーズ1巻は散々2巻はまあまあ」という感じのご意見が多かったため、「そんなひどくもないのかな」と思い、2巻【カラトヴァ風雲録】を購入して読んでみました(このサイトは田中作品の販促にも役立ってますね!!)。
まあ、面白かったです。もっとも、アルスラーンやマヴァールの初期のような濃密な迫力は、感じられませんでしたが。それでも、最近の創竜伝や薬師寺シリーズよりは、読める作品だと思いました。
ただこれって、戦国美濃の斎藤道三による国盗りとそっくりですよね。
だって、司馬遼太郎版の『国盗物語』(1,2巻のみ斎藤道三が主人公。後半は信長と光秀が主人公になる)のあらすじって、
《生まれは卑しいが野望にみち、文武双方に優れた若者(法蓮坊)が、今まで自分をとらえていた拘束(寺)を脱し(還俗)、名門の子になりすます(松浪家<系図上>。以後松浪庄九郎)。
彼は、諸国を回遊して情勢を探った結果、無能な国主(守護土岐氏)を戴き国内が乱れている土地(美濃)に狙いを定める。そのなりすました高貴な身分を利用して、国主の近親(守護の弟土岐頼芸)に取り入る。功績を立てた機会を利用して、利用した元の名前(松浪)を捨て、主人から新たな名前、当地の名門の家名を賜る(西村。後に長井→斎藤)。
彼は、主人から、その寵姫(深芳野)を貰い受け妻にするが、その妻は既に前夫の胤を孕んでいた。
そして、国主の近親たる主人を担いで、国主を追放し、自家薬ろう中の近親を新たな国主の座に付け、国政を欲しいままにする。
彼は、隣国の有能な国主(織田信秀)等と戦いながら、国内に勢力を浸透させた後、無用になった主人を追放し、名実共に国主の座に着く(斉藤道三)。
しかし、最後には自分の子(実は元の主人の子=斎藤義龍)に、裏切られ敗死する。》
ちょっと長くなりましたが、こんな感じですよね。で、『カラトヴァ』の方は、
《生まれは卑しいが野望にみち、文武双方に優れた若者(ギフレット)が、今まで自分をとらえていた拘束(アルジラ王国及びミロン王子)を脱し(=殺し)、名門の子に(ミロン王子に)なりすます。
彼は、諸国を回遊して情勢を探った結果、無能な国主(国王アスオルフォ4世)を戴き国内が乱れている土地(カラトヴァ)に狙いを定める。そのなりすました高貴な身分や主人の好む女性を利用して、国主の近親(娘婿のオリーブル)に取り入る。功績を立てた機会を利用して、利用した元の名前(ミロン王子)を捨て、国主から新たな名前、当地の名門の家名を賜る(グントラム)。
その後彼は、国主を殺し、自家薬ろう中の国主の近親(オリーブル)を新たな国主(正しくは夫君殿下)の座に付け、国政を欲しいままにする。
彼は、隣国の有能な国主(パドラオン大公国のカンタレス大公)等と戦いながら、国内に勢力を浸透させ、主人の死を奇貨として、名実共に統治者(摂政)の座に着く。
彼は、元の主人(オリーブル)から、その寵姫(ペリセーヌ)を奪い妻にするが、その妻は既に前夫の胤を孕んでいた(後のライムンド王子)》
こんな具合です。ちょっと順序などに異同はありますが、かなり筋が似ていて、固有名詞を変えれば、ほとんど当てはまっちゃいます。「似てる似てる」と思いつつ読み進んでいましたが、「奪った元の君主の妻(ペリセーヌ)が、既に前夫の子を孕んでいた」という箇所を見たときには、「そこまで一緒か」と思わず笑っちゃいました。
ここまでくると、このサイトでも議論になっていた「パクリ」の問題が発生しそうですが(斉藤道三の事績には不明な点が多く、司馬による創作が一般化している傾向が強い)、『カラトヴァ』はまあまあ面白かったし、それに「パクリ」であっても、元ネタを超えれば立派な作品と言えるので、3巻以降に期待したいと思います。
問題は、元ネタを超えられるかですが、田中氏のストーリーテラーとしての実力(ちから)が落ちていなければ、面白いものになり得るんじゃないでしょうか。
なぜなら、かなり元ネタに忠実という印象がありますが、元ネタにない色んな要素が、伏線として登場しています。例えば、ライバル(オトリック)の存在、正体が露見した場合の危険度の高さ、文明度が全く違う異世界からの侵略者の存在、近代世界でなければ全く役立たなさそうな周一郎や多夢をどう使うか(この二人も主人公のはずだ)などです。これは、処理がとても難しいはずですが、1巻と2巻の二つのストーリーを矛盾無く繋ぎ、これらの新たな要素をストーリーの中で際立たせることが出来れば、傑作になりうると思います。
でも、早く続編を出すのが、一番の難題かもしれません(既に5年立ってるしなー)。
かっつさんは書きました
> ただこれって、戦国美濃の斎藤道三による国盗りとそっくりですよね。
>
> ここまでくると、このサイトでも議論になっていた「パクリ」の問題が発生しそうですが(斉藤道三の事績には不明な点が多く、司馬による創作が一般化している傾向が強い)
最近では斎藤道三の国盗りは親子二代がかりの事業だった、という説が有力になってきているようです。
> でも、早く続編を出すのが、一番の難題かもしれません(既に5年立ってるしなー)。
例のニフティの「らいとすたっふフォーラム」によると、『夏の魔術』、『タイタニア』、『灼熱の竜騎兵』の内のどれか(^^::)が来年か再来年に再開の「予定」だそうです。
> 例のニフティの「らいとすたっふフォーラム」によると、『夏の魔術』、『タイタニア』、『灼熱の竜騎兵』の内のどれか(^^::)が来年か再来年に再開の「予定」だそうです。
おいおい、21世紀かい。鬼がスマイル。
ところで斎藤道三だが、椎名高志の新作「MISTERジパング」はなかなか好調。もともと何でもかける人だが、純正ギャグでは描ききれない「少年向けヒーロー」像を思う存分書くつもりだな。
そういうつもりになれば、彼の友人の藤田和日郎にだってたぶん負けないからね。でも、一度成功を収めたのちもこうやって新しいことにチャレンジしているクリエイターがいるのに…
……ジトッ(-- )。
新Q太郎さんは書きました
> おいおい、21世紀かい。鬼がスマイル。
おっと、今確認したら「今年か来年」でした(^^;)。
皆さん失礼。
>
> ところで斎藤道三だが、椎名高志の新作「MISTERジパング」はなかなか好調。もともと何でもかける人だが、純正ギャグでは描ききれない「少年向けヒーロー」像を思う存分書くつもりだな。
>
この作品読んでないんですけど道三の話なんでしょうか。
あと、本宮ひろ志もなんか書いてましたね。
小村損三郎さんは書きました
> 最近では斎藤道三の国盗りは親子二代がかりの事業だった、という説が有力になってきているようです。
有力というほどではなくて、そういう説もあるという程度です。
なにせ道三の生涯を証明する確実な資料というものがなく、
ほとんどが江戸時代に書かれたものであるため、
そのような説も出ているのです。
しかしごく近い時代の資料(信長公記など)では、
圧倒的に道三は一人とするものが多いです。
ところで椎名高志の「MISTERジパング」、
飛び飛びながら読んでいますが、
なかなか面白いですね。
旗指物に「夜呂死苦」って、なんじゃそりゃ(笑)。
>Re824:薬師寺涼子の破綻言動
この「薬師寺涼子の破綻言動」というのは、実際にあのシリーズを読んでみれば瞭然とわかるんですが、逆に読まないとわかりづらいかも知れません。
主人公は傲慢でやりたい放題の警察キャリア、それで「サリン云々」と言うなんて、先入観を取っ払って見たら、「田中芳樹転向したんか?」ともとれますから(笑)
それにしても、田中芳樹は女性の描写が下手だと、ここでは良く言われますが、薬師寺なんかモロ一種の田中芳樹的アニマなんじゃないでしょうかね。
どうせなら、小早川奈津子を主人公にした方がオリジナリティがあって面白いと思うのですが(^^;)。
まあ、マジな話、営業上の理由から美形じゃないとマズいにしても、「性悪女」ならなっちゃんの性格にしておけばいいのに。これが、薬師寺になってしまうのは、優等生にありがちな「理想のワル」への憧れ、みたいなものなんでしょうか?
NNGさんは書きました
> 設定で1つ。
> GS美神にはオカルトGメンっていう組織がありますよね。
> これに相当する組織が薬師寺涼子に存在しないのが納得できません。
> あれだけ怪物が出てきているならあってしかるべきだと
> 思うのですが。
随分昔の書き込みですが、「極楽」読み返したので再びレス。
オカルトGメンといえば、西条が心霊捜査の必要性を政府に認めさせて市民権を得ようというシーンがありましたが、田中芳樹ではこんな事はキャラに言えさせられんでしょう。こんなコトする政府はおかしな悪政政府で(作品は違うけど、創竜伝5巻で竜脈に対しての反論参照)、税金の無駄だから(笑)
じつはこの場合、唯物論が非科学的なんですよね~。
>この作品読んでないんですけど
>道三の話なんでしょうか
失礼、これは若き日の信長および秀吉が主役なんです。しかし道三は、自分の愛娘をヨメにやる信長を強く意識する重要な脇役として出ています。
ちなみにこの作品、呉智英氏いうところのいわゆる「借景マンガ」ですね。つまり「登場人物のセンス、思考様式、行動がすべて現代と同じで、舞台が昔なだけ」なのです。
椎名氏の場合、それを逆に徹底的にやることで、史実との異同や考証なんてことを二義的な問題にしてしまう、という手法をとっています(史実は都合のいいときだけ使う)
暴走族のリーダーのような信長、
マジメな二枚目のゆえに、信長にかなわない明智光秀
「俺も昔は…」と信長の暴れっぶりに目を細める道三、
ませた少年の竹千代(家康)
そして気が弱いいじめられッこだが、いざとなると彼らを超える知恵と勇気をだす日吉(秀吉)つうわけです。
ま、とにかくフツーの歴史物とは違うっすね、いいも悪いも。
しかし、椎名氏のファンサイトで、この「涼子シリーズ」って話題にならないのかね。もともと少ないけどさ。
>管理人さん
<この「薬師寺涼子の破綻言動」というのは、実際にあのシリーズを読んでみれば瞭然とわかるんですが、逆に読まないとわかりづらいかも知れません。
主人公は傲慢でやりたい放題の警察キャリア、それで「サリン云々」と言うなんて、先入観を取っ払って見たら、「田中芳樹転向したんか?」ともとれますから(笑)>
そう言えば以前に「検証!薬師寺シリーズ」を投稿した時にも、小村さんに同じような事を言われましたね(^^;)。
まあ私が「薬師寺シリーズ」で論評する時は、常に「極楽大作戦」、特に「薬師寺涼子と美神令子との比較検証」という観点からやっていますから、どちらも知らない人には確かに分かりにくいのかもしれません。逆にどちらかでも読んでいたら簡単に分かると思うのですが。
しかし警察キャリアの方はともかく、「サリン云々」の方は創竜伝の社会評論にも「想像力云々」だの「被害者の心情を思いやれ云々」などの主張がありましたから、それほどかけ離れているとも言えないのでは?
<それにしても、田中芳樹は女性の描写が下手だと、ここでは良く言われますが、薬師寺なんかモロ一種の田中芳樹的アニマなんじゃないでしょうかね。>
アレはもはや「女性描写が下手」などというレベルの問題ではないのではないでしょうか?
確かに銀英伝やその他のシリーズにおいても、田中芳樹の女性描写は必ずしも上手と言えるものではなかったかもしれませんが、しかしそれでも「見るに耐えない」などというところまでひどくはありませんでした。しかし「薬師寺シリーズ」の場合は、女性描写以前に、もはやキャラクター描写それ自体の問題であるように思います。何と言うか、作品の中で異常にキャラクター性が浮いているとでもいうような感じでしょうか。
この女性描写の違和感も以前から感じているのですが、どうもこれは私では説明しきれません(性格についての違和感は社会評論との相関関係で説明できましたが)。誰か「薬師寺シリーズ」の女性描写の問題について上手く説明できる方はいないでしょうか?
できれば薬師寺涼子と同じような性格設定であるキャラクターとの比較検証という観点から論じてほしいですね。
>新Q太郎さん
<しかし、椎名氏のファンサイトで、この「涼子シリーズ」って話題にならないのかね。もともと少ないけどさ。>
こちらからCMしに行くのであればともかく、それはちょっと難しいでしょうね。
何しろ「薬師寺シリーズ」は椎名高志氏のファンサイトどころか、田中芳樹のファンサイトですらまともに取り上げている所が少ないし、しかもそこですら「パクリ」の話となると「スレイヤーズ」中心で取り上げられているくらいですからね。
この掲示板でだって、私がここにやってくるまでは「スレイヤーズ」中心で語られていたくらいですし。
これは作品の知名度の問題もあるのでしょうが、はっきり言って「薬師寺シリーズ」と「極楽大作戦」とを絡めて論じてあっているサイトはここしかないのではないでしょうか?
新Q太郎さんは書きました
>ちなみにこの作品、呉智英氏いうところのいわゆる「借景マンガ」ですね。つまり「登場人物のセンス、思考様式、行動がすべて現代と同じで、舞台が昔なだけ」なのです。
ところで、田中芳樹の小説というものは、ほとんどが「借景小説」なんですよね。
原義の意味そのままで取れば、彼の歴史小説はモロに借景小説だし、原義の応用で解釈すれば、伝奇モノも一種の借景小説でしょう。
これはどういうことかというと、作品世界は妖怪や霊が実在する世界なのに、それが実在しない現実世界の常識を当てはめているわけです。つまり、「登場人物のセンス、思考様式、行動がすべて現実と同じで、舞台がパラレル世界なだけ」。
歴史小説が借景小説であることに関しては、まあ、その作品の内容次第(あの司馬遼太郎もほとんどそうですし)とも言えますね。但し、私的には、流れだけ史実・原典にヘンに忠実で大胆な解釈があるわけでもなく、かといって当時の思考や社会を鮮やかに書き出して知的好奇心をそそるわけでもなく、退屈ですけど。
伝奇が借景であることに関しては、何を考慮しても分裂症としか言いようがないです。こりゃ。
「『三国志演義』を読んだことがあるだろう。竜穴だけでなく竜脈というものが地中にはある。それを探り当て、わがものとすることによって、帝王は一国を打ち立てることができるのだ」
「いっておくが、『三国志演義』は小説だ。小説に書いてあることを本気にするのは、せいぜい小学生までにしておくんだな」
(創竜伝5 P200)
「売り言葉に買い言葉」の場面であることを考慮しても、これはねぇ…
もし、『三国志演義』で「竜穴」や「竜脈」を扱う理由が、『「フィクション」の意での「小説」を、面白くするため』だとするのならば、始君=田中芳樹の「中国観」の底が知れると私は思います。
P.S.
>しかし、椎名氏のファンサイトで、この「涼子シリーズ」って話題にならないのかね。もともと少ないけどさ。
くだらんことですが、薬師寺読んだ後に「極楽」28巻の「紙の砦」(悪魔に魂売った文豪とライトノベルズ作家がせめぎ合う話)を読むと、ちょっとだけ笑えました。