薬師寺シリーズ考察8-A

薬師寺シリーズ7巻 霧の訪問者

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収録投稿2件目
board4 - No.8230

Re:薬師寺シリーズ考察8

投稿者:S.K
2009年07月31日(金) 23時12分

>  前述のように、薬師寺涼子とアーテミシア・ロートリッジとでは自分を取り巻く人間関係および生活環境の過酷さがまるで違いますし、作中記述を読む限りでは、自分を守るだけで精一杯な状態にあったと言わざるをえないアーテミシア・ロートリッジに対して「自我を守るのに、たぶん温室が必要な女性だったのだ」などという泉田準一郎の評価は的外れもいいところでしかないのですが、それ以上に明後日の方向を向いているのが薬師寺涼子に対する評価です。
>  泉田準一郎の薬師寺涼子に対する評価が事実であるのならば、何故薬師寺涼子は、「自分より強大な敵」である姉の薬師寺絹子および父親である薬師寺弘毅に対して「正面から戦うのが不利なら、どんな汚ない策を使っても、自分と自分にとってたいせつなものを守りぬく」「ダイヤより固い」決意とやらを行使しようとしないのでしょうか?

 まあ「戦って負けて都度見逃されてている、あるいは勝負になってない」可能性はあるかと。
 薬師寺絹子はお涼を「可愛い妹」と真面目に思っている可能性は高いですし、薬師寺弘毅氏にした所で「お涼の悪罵に値する」という事は「常識的判断として酸いも甘いも噛み分けた大人物」である確率は低くないでしょう。
 であれば「身内のやんちゃに目くじら立てず要所だけ締める」という事態が頻発しているという想定にそう無理はないのでは。
 それに何を言うにも、父姉ともにお涼に「敵認定」されて息災、というのは讃えるべき作中事実ですし。

>このような状況でなお薬師寺涼子の「強さ」を絶賛し、アーテミシア・ロートリッジを「自我を守るのに、たぶん温室が必要な女性だったのだ」などという、それこそ薬師寺シリーズに登場する怪物およびオカルトの存在以上に「非科学的」な評価を下している泉田準一郎は、薬師寺涼子を無条件かつ盲目的に崇め奉っているという点において、自分で批判しているキリスト教の狂信者達とどこが違うというのでしょうか。

どこと言われれば「『逆玉』という要素が絡む分、遥かに泉田クンの方が不純」という点でしょうね。
 宗教的狂信者は少なくとも神の寛大と絶対が万民に及ぼされより多くの幸福が現世に顕現する事を信じていますから。

>  しかも薬師寺涼子は、薬師寺シリーズ2巻「東京ナイトメア」および3巻「巴里・妖都変」で、互いに手を組む同盟の締結を申し出てきた敵からの誘いを「あたしに対等のパートナーなんて必要ないの」などという論法でもって拒否する言動を披露しています。

 これもまあ、両者とも薬師寺涼子のニーズを満たす条件を提示できてない訳ですから拒否も無理はないのでは。

> 銀英伝のヒルダやフレデリカ
> マヴァール年代記のアデルハイド
> アルスラーン戦記のファランギース

 むしろ彼女達が持っているのは「時代の新旧にとらわれない美徳」であって、無理に「近代的」「活劇」を意識するからお涼があのザマなのではないでしょうか。

収録投稿3件目
board4 - No.8231

Re8230:薬師寺涼子の「強さ」とは

投稿者:冒険風ライダー(管理人)
2009年08月01日(土) 01時42分

<まあ「戦って負けて都度見逃されてている、あるいは勝負に
なってない」可能性はあるかと。
 薬師寺絹子はお涼を「可愛い妹」と真面目に思っている可能性は
高いですし、薬師寺弘毅氏にした所で「お涼の悪罵に値する」と
いう事は「常識的判断として酸いも甘いも噛み分けた大人物」で
ある確率は低くないでしょう。
 であれば「身内のやんちゃに目くじら立てず要所だけ締める」という
事態が頻発しているという想定にそう無理はないのでは。
 それに何を言うにも、父姉ともにお涼に「敵認定」されて息災、
というのは讃えるべき作中事実ですし。>

 そんな理由では「薬師寺涼子がアーテミシアよりも強い」ということには全くなりようがありませんね。S.Kさんが挙げられている理由だと、互いの生死と誇りをかけているはずの戦いの中で「薬師寺涼子は姉と父親から【常に】情けをかけられている」ということになってしまいますし、私が主張する「寛大で慈悲深い姉と父親からJACESの力を【乞食のように恵んでもらっている】」JACES依存症の構図は崩れるどころか、より一層強化されてしまう、ということにもなりかねないのですから。
 そして一方、薬師寺涼子が「あいつはあたしと違う」と声を大にして罵り倒しているアーテミシア・ロートリッジの場合、100パーセント確実に「母親に負けたらその時点でお終い」なのでしてね。それと同じ立場に薬師寺涼子が置かれている、という前提でもって「薬師寺涼子がアーテミシアよりも強い」と論じるのでなければ、薬師寺涼子の主張には全く意味がないのですが。
 また、薬師寺涼子が口を極めて罵っている相手は別に姉と父親に限定されるものではなく、これまで登場した各巻のラスボス含む敵の大多数に対しても同レベルの罵倒を繰り広げまくっていましたよね? 彼らに対して薬師寺涼子がどういうスタンスで臨み、如何なる所業と評価を叩きつけてきたのかについて考えてみれば、「お涼の悪罵に値する」という事実のみをもって「常識的判断として酸いも甘いも噛み分けた大人物」と評価するのは不可能ですし、姉と父親に対してもこれまでの敵と同様の制裁を加えて破滅させるべき、という結論にならなければおかしいでしょう。
 すくなくとも薬師寺涼子側に、姉と父親に対して手加減をしなければならない「感情的な理由」はどこにも存在しないのですし。

<これもまあ、両者とも薬師寺涼子のニーズを満たす条件を提示
できてない訳ですから拒否も無理はないのでは。>

 いや、2巻で薬師寺涼子の精神的奴隷たる泉田準一郎が「主人の代弁」という形ではっきりと明言しているんですよ。
「薬師寺涼子という女には、対等なパートナーなんか必要ないんです。彼女に必要なのは忠実な子分だけです」(2巻「東京ナイトメア」P176)って。
 そして3巻「巴里・妖都変」P177~P178でもこれと同様の主張が繰り返されています。
 この辺り、薬師寺涼子は創竜伝における竜堂兄弟のキチガイ連中と同じで、「対等なパートナー」「対等の同盟関係」といった概念そのものを完全に否定していて、しかもそれを「強さ」だと勘違いしているのです。そんな薬師寺涼子相手に「薬師寺涼子のニーズを満たす条件を提示」したところで無益だと思いますけどね。

<むしろ彼女達が持っているのは「時代の新旧にとらわれない
美徳」であって、無理に「近代的」「活劇」を意識するから
お涼があのザマなのではないでしょうか。>

 田中芳樹が「よよと泣き伏すヒロイン」だの「わりと受動的」な女性だのを「前近代的」と定義し「ぼくには書けない」と明言していること自体はまあ、田中芳樹の作家としての個人的なスタンスといったものなのでしょうが、それに対するアンチテーゼが何故薬師寺涼子的なシロモノにならなければならないのかが理解に苦しむところなんですよね。アレは「近代的かつ自立心に満ちた女性像」どころか、「時代の新旧にとらわれない」上に「男女の性別をも問わない」ただの低能キチガイ以外の何物でもないのですし(爆)。
 S.Kさんが仰る「時代の新旧にとらわれない美徳」を延長した女性像を描いていった方が、田中芳樹が本当に描きたかったであろう「近代的かつ自立心に満ちた女性像」というものを本当の意味で表現することができたでしょうに。

収録投稿4件目
board4 - No.8232

Re:幾許の補足

投稿者:S.K
2009年08月01日(土) 05時10分

>  そんな理由では「薬師寺涼子がアーテミシアよりも強い」ということには全くなりようがありませんね。

 これについては「お涼も父姉に喧嘩を売った事くらいはあるのではないか」以上の意味はありませんので、アーテミシアとは取り立てて関係のない話ではあります。
 あと

> S.Kさんが挙げられている理由だと、互いの生死と誇りをかけているはずの戦いの中で「薬師寺涼子は姉と父親から【常に】情けをかけられている」ということになってしまいますし、

どころか客観的には「戦ってると理解されてない」「(お涼の)遊びにつきあっている」構図になっているんではないか思います。
 ただまあお涼の主観は主観として傍目と違う展開もあるのでは?
 という事で「薬師寺涼子が父や姉と戦わない」と言ってしまうのも少し違う気がします。

> 私が主張する「寛大で慈悲深い姉と父親からJACESの力を【乞食のように恵んでもらっている】」JACES依存症の構図は崩れるどころか、より一層強化されてしまう、ということにもなりかねないのですから。

 なりかねないというより「なお笑える」と言いたかったんですがいささか拙文で誤解を招いたようなのでその点お詫びいたします。

>  また、薬師寺涼子が口を極めて罵っている相手は別に姉と父親に限定されるものではなく、これまで登場した各巻のラスボス含む敵の大多数に対しても同レベルの罵倒を繰り広げまくっていましたよね? 彼らに対して薬師寺涼子がどういうスタンスで臨み、如何なる所業と評価を叩きつけてきたのかについて考えてみれば、「お涼の悪罵に値する」という事実のみをもって「常識的判断として酸いも甘いも噛み分けた大人物」と評価するのは不可能ですし、姉と父親に対してもこれまでの敵と同様の制裁を加えて破滅させるべき、という結論にならなければおかしいでしょう。

 どっちみち善悪問わず薬師寺涼子は「好みの忠犬」以外に賞賛も温情もかけないでしょう。
 しかも

>  すくなくとも薬師寺涼子側に、姉と父親に対して手加減をしなければならない「感情的な理由」はどこにも存在しないのですし。

にも関らず「気に食わない父と姉」はラスボス達の様に破滅もせずお涼の悪罵ボギャブラリーを増やし続けているのですから、やはり一味違う人物像を想像してしまう訳です。
 少なくとも姉の薬師寺絹子相手にはお涼信者の泉田警部補にさえ「空転して自滅しているだけではないのだろうか?」と思われている節もありますし。

> <これもまあ、両者とも薬師寺涼子のニーズを満たす条件を提示
> できてない訳ですから拒否も無理はないのでは。>

>
>  いや、2巻で薬師寺涼子の精神的奴隷たる泉田準一郎が「主人の代弁」という形ではっきりと明言しているんですよ。
> 「薬師寺涼子という女には、対等なパートナーなんか必要ないんです。彼女に必要なのは忠実な子分だけです」(2巻「東京ナイトメア」P176)って。
>  そして3巻「巴里・妖都変」P177~P178でもこれと同様の主張が繰り返されています。
>  この辺り、薬師寺涼子は創竜伝における竜堂兄弟のキチガイ連中と同じで、「対等なパートナー」「対等の同盟関係」といった概念そのものを完全に否定していて、しかもそれを「強さ」だと勘違いしているのです。そんな薬師寺涼子相手に「薬師寺涼子のニーズを満たす条件を提示」したところで無益だと思いますけどね。

 これも説明不足で申し訳なかったですが「そんなものはない」という事態込みで 「薬師寺涼子のニーズを満たす条件」を同盟希望者は差し出せない、だから当然拒否される、という話です。
 竜堂兄弟の話でいけば、イギリスで「平和はいいよ、暴力はよくない」と切り出した四人姉妹側の老人は余の説得についてはいい線いったではないですか、「だから事を荒立てるお兄ちゃん達を疑おうね」と攻めどころを間違うまでは。

> <むしろ彼女達が持っているのは「時代の新旧にとらわれない
> 美徳」であって、無理に「近代的」「活劇」を意識するから
> お涼があのザマなのではないでしょうか。>

>
>  田中芳樹が「よよと泣き伏すヒロイン」だの「わりと受動的」な女性だのを「前近代的」と定義し「ぼくには書けない」と明言していること自体はまあ、田中芳樹の作家としての個人的なスタンスといったものなのでしょうが、それに対するアンチテーゼが何故薬師寺涼子的なシロモノにならなければならないのかが理解に苦しむところなんですよね。アレは「近代的かつ自立心に満ちた女性像」どころか、「時代の新旧にとらわれない」上に「男女の性別をも問わない」ただの低能キチガイ以外の何物でもないのですし(爆)。

 田中センセイ定義の「前近代的」は「平凡」と置き換えても通用するので、キチガイであるというだけで「非凡」というのは一つの観点かもしれません。

>  S.Kさんが仰る「時代の新旧にとらわれない美徳」を延長した女性像を描いていった方が、田中芳樹が本当に描きたかったであろう「近代的かつ自立心に満ちた女性像」というものを本当の意味で表現することができたでしょうに。

 いやあ、「創竜伝」を娯楽小説として書いている田中センセイの書きたい「近代的かつ自立心に満ちた女性像」がキチガイであったとして、別に不思議はないと思います。
 思えばヤンのかつての想い人が「私憤と公憤の境界が曖昧で、声は大きいが展望はない」ジェシカ・エドワーズだったという「前科」もありますし(苦笑)。

収録投稿5件目
board4 - No.8233

Re8232:薬師寺涼子的「強さ」の基準

投稿者:冒険風ライダー(管理人)
2009年08月01日(土) 18時56分

<これについては「お涼も父姉に喧嘩を売った事くらいはあるの
ではないか」以上の意味はありませんので、アーテミシアとは
取り立てて関係のない話ではあります。>

<どころか客観的には「戦ってると理解されてない」「(お涼の)
遊びにつきあっている」構図になっているんではないか思います。
ただまあお涼の主観は主観として傍目と違う展開もあるのでは?
という事で「薬師寺涼子が父や姉と戦わない」と言ってしまうのも
少し違う気がします。>

 あそこで論じられていた薬師寺涼子のアーテミシア罵倒や泉田準一郎の薬師寺涼子礼賛というのは、どちらも「アーテミシアとの比較」を元に論じられていますので、「お涼も父姉に喧嘩を売った事くらいはあるのではないか」「薬師寺涼子が父や姉と戦わない」ということを論じるにしても、やはり「アーテミシアとの比較」を元にしなければ意味がないでしょう。
 S.Kさんが仰っている「父姉に喧嘩を売った」程度のことであれば、アーテミシアだって同レベルのことはやっていますよ。作中でも、件の焼身自殺の実行前に、母親の命令を無視してクルマを(運転手を使うことなく)自分で運転して泉田準一郎相手に人身事故を起こしたり、母親の意に背いた恋人を作ったりしていることが明示されていたのですし、「身内に隔意と反発を抱いている」という点では薬師寺涼子もアーテミシアも同じなのですから。
 そして、薬師寺涼子や泉田準一郎は、以下のような基準でもってアーテミシアを「弱い」と評価しているわけでしてね↓

<「だからアーテミシアには同情に値しない! 目的は勝つこと。勝つために戦う。戦力をたくわえ、時機を待ち、戦略を立て、戦術を練る。泣くヒマがあったら、計略をめぐらせろ。自己憐憫にひたる時間があるなら、敵の弱点をさぐれ。母親や主治医におぞまじい秘密があるなら、それをネタに脅迫して、自分の自由と尊厳を守るぐらいでなくてどうする!?」>
<自分より強大な敵に対して怯むことはなく、尊厳を踏みにじろうとする敵に屈することもないだろう。正面から戦うのが不利なら、どんな汚ない策を使っても、自分と自分にとってたいせつなものを守りぬく。その決意はダイヤより固いのだ。>

 当の本人達がこのような基準を提示している以上、これをベースに薬師寺涼子の「強さ」について論じるべきでしょう。この基準から逸脱した「お涼の主観」を持ち出したところで、「(自分達自身が提示している基準から見て)薬師寺涼子が姉と父親から逃げ回っている」という「客観的な作中事実」が覆ることがないことくらいは、いくら「あの」薬師寺涼子や泉田準一郎の低能なオツムでも、身をもって理解する程度のことはできるでしょうし。

<にも関らず「気に食わない父と姉」はラスボス達の様に破滅もせず
お涼の悪罵ボギャブラリーを増やし続けているのですから、やはり
一味違う人物像を想像してしまう訳です。
 少なくとも姉の薬師寺絹子相手にはお涼信者の泉田警部補にさえ
「空転して自滅しているだけではないのだろうか?」と思われて
いる節もありますし。>

 薬師寺シリーズが陥っている今の惨状では、姉と父親に今後どのような人物像を付加したところで、薬師寺涼子絡みの矛盾は避けようがないんですよね。すでに「姉と父親に反発しているにもかかわらず、正面対決を避けている薬師寺涼子」という設定は不動なので、姉と父親に人間的な魅力や強大な権力といったものを付加すればするほど、私が主張する「弱い者には居丈高に振舞う一方、強者には逆らえない薬師寺涼子は卑小な存在」を地で行くことになってしまいますし、逆に薬師寺シリーズに登場する敵と同レベルな卑小なキャラクターにすると、今度は「この程度の人間に逆らうことすらできない薬師寺涼子はどれだけ卑屈な人間なんだ」ということになってやっぱり逆効果。
 薬師寺シリーズの元ネタであるスレイヤーズや極楽大作戦の場合は、その手の「主人公の弱さ」もギャグや主人公の努力目標としてある程度許容される余地があるのですが、薬師寺シリーズの場合、何といっても創竜伝と同様に大量挿入されている社会評論の存在と「敵を倒すことでしか立証できない主人公の強さ」という構造的な問題があるために、その手の「弱さ」の存在自体が一種のダブルスタンダードとして全否定されてしまうようになっているんですよね。そういう状況にある薬師寺涼子に「姉と父親に弱い」という設定を付加したのは、作品として明らかに失敗であると言わざるをえません。
 薬師寺シリーズのコンセプトでは、薬師寺涼子に「弱点など一切存在しない完璧超人」以外の選択肢など残されてはいないのですが。

<これも説明不足で申し訳なかったですが「そんなものはない」
という事態込みで 「薬師寺涼子のニーズを満たす条件」を
同盟希望者は差し出せない、だから当然拒否される、という話
です。
 竜堂兄弟の話でいけば、イギリスで「平和はいいよ、暴力は
よくない」と切り出した四人姉妹側の老人は余の説得については
いい線いったではないですか、「だから事を荒立てるお兄ちゃん達
を疑おうね」と攻めどころを間違うまでは。>

 あれって一般的な外交交渉ではなくて、催眠的な説得術で無防備な竜堂余を篭絡しようとしていたのですから、「対等なパートナー」云々の話とは一概に比較はできないのでは? まああの老人が言っていること自体は至極真っ当なものでしたけど(笑)。
 それにしても、あれだけ作品中で「他人の悪口を言う権利」に象徴される民主主義を称揚しているにもかかわらず、一方で自分達に対する批判は存在自体すら許容しないという竜堂兄弟や薬師寺涼子の山○弘的ダブルスタンダードなあり方にはつくづくウンザリせずにいられませんね。まあこれについては、「とうちゃん」であるところの作者や「らいとすたっふ」からしてそういう体質を持っていることがすでに判明しているわけですから、ある意味首尾一貫してはいるのかもしれませんが(爆)。

<いやあ、「創竜伝」を娯楽小説として書いている田中センセイの
書きたい「近代的かつ自立心に満ちた女性像」がキチガイであった
として、別に不思議はないと思います。
 思えばヤンのかつての想い人が「私憤と公憤の境界が曖昧で、
声は大きいが展望はない」ジェシカ・エドワーズだったという
「前科」もありますし(苦笑)。>

 田中芳樹が理想とする「近代的かつ自立心に満ちた女性像」の条件を満たす女性キャラクターというのは、実は花井夫人や小早川奈津子だったりするのでしょうか(>_<)。

収録投稿6件目
board4 - No.8234

Re:薬師寺シリーズ考察8

投稿者:稲妻
2009年08月02日(日) 23時06分

お久しぶりです。以前に何回か書き込みした稲妻です。宜しくお願いします。

>大統領は就任するとき、聖書を手に置き、神に対して宣誓する。無神論者や仏教徒が大統領になることは絶対にありえない

上記の部分は私はアメリカが民主的な近代国家であるからだと思います。
権威と権力を分けるからやってることですよね。冒険風ライダーさんが言われている通り、聖書(キリスト教)を権威にするのは文化的にも歴史的にも積み重ねがあるから当然のことだと。
そういう点では銀英でアーレ・ハイネセンの像が立っていたのは妥当なことだと思います(ラインハルトに壊されましたね)。

しかし、田中氏の民主主義に対する考えはどうなっているんでしょうか?アメリカ罵倒するなら民主主義も罵倒するんじゃないかと。
あと、田中氏はイスラム教はどう思っているのでしょうか?確実に民主主義が生まれない思想だと思いますが。

収録投稿7件目
board4 - No.8235

Re8234:民主主義あれこれ

投稿者:冒険風ライダー(管理人)
2009年08月03日(月) 00時30分

<権威と権力を分けるからやってることですよね。冒険風ライダーさんが言われている通り、聖書(キリスト教)を権威にするのは文化的にも歴史的にも積み重ねがあるから当然のことだと。
そういう点では銀英でアーレ・ハイネセンの像が立っていたのは妥当なことだと思います(ラインハルトに壊されましたね)。>

 田中芳樹の権威と権力に対する考え方は、銀英伝のミッターマイヤーが主張している↓
「実力あっての権威だ。権威あっての実力ではない」(銀英伝2巻 P234)
が代弁しているのではないでしょうか。権威は権力や軍事力に箔をつける程度の小道具に過ぎない、としか認識していないわけです。
 田中芳樹が礼賛する偉大なる中国サマの歴史では、権威はまさにそういう使われ方しかされていなかったのですから、田中芳樹もそういう考えに染まってしまうのはむべなるかな(苦笑)。

<しかし、田中氏の民主主義に対する考えはどうなっているんでしょうか?アメリカ罵倒するなら民主主義も罵倒するんじゃないかと。
あと、田中氏はイスラム教はどう思っているのでしょうか?確実に民主主義が生まれない思想だと思いますが。>

 田中芳樹は、アメリカと同じくらいの民主主義国家にして先進国のイギリスについては「世界を支配したのは当然であった」とまで言い切っていますからね~(-_-;;)。そして、そこで挙げられている理由(王室に対する悪口を自由に言える、大英博物館は入館料が無料など)について調べてみると、実は全てアメリカにも当てはまってしまうという始末(爆)。このアメリカとイギリスに対する露骨なまでのダブルスタンダードが何故発生しているのか、何度理由をあれこれ推察しても納得の行く解答が得られないところなんですよね。
 イスラム教については、「十字軍以来のキリスト教の被害者」というところで完全に理解が止まってしまっているのではないですかね? アルスラーン戦記1巻のあとがきでは、キリスト教側のリチャード獅子心王とイスラム教側のサラディンを現代的価値観でもって比較した挙句、「この両者が好敵手だなどというのは、すくなくともサラディンにとっては失礼な話でしょう」などと評価していますし、湾岸戦争やイラク戦争の際には、あれだけブッシュ親子を罵りまくっておきながら、イラクのフセインについては全く言及していませんでしたし。

収録投稿8件目
board4 - No.8241

Re:薬師寺シリーズ考察8

投稿者:しせい
2009年09月01日(火) 19時55分

> これまで使っていた度量衡を変えるというのは決して容易なことではありません。まず、ソフトウェア的にはこれまでの旧単位に関する知識は全て「なかったこと」にした上で、新しく新単位についての勉強をしなければなりませんし、ハードウェア的なものについて見ても、旧単位で計る測定機器などを全て破棄した上で新単位の測定機器を新たに調達しなければならないのです。プログラムに組み込まれたものなどであっても、旧単位から新単位への移行にかかる時間と手間と費用は膨大なものになりますし、あらゆる面で多大な負担を強いられるとなれば、新単位への移行に躊躇するのは人間の心理として当然とは言わないまでも理解できることではあるでしょう。

そういえば、ルドルフ大帝も自分の身長・体重を基準とした新度量衡を制定しようとして、経費の凄まじさに断念しましたね。

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