薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」は、安倍晋三氏が第90代内閣総理大臣の職にあった2007年5月より執筆が始められています。
疑問の余地なくその影響なのですが、8巻「水妖日にご用心」には、田中芳樹の思想的傾向から見れば完全に相容れなかったであろう、当時の安倍内閣および外務大臣だった麻生太郎氏に対する誹謗中傷が満載されています。記者クラブ問題等を論って「政府べったりのマスコミには政府批判ができない」的な論調を創竜伝の頃から展開している田中芳樹が、どう見ても自民党罵倒&民主党贔屓のダブルスタンダードかつ揚げ足取り的ネガティブキャンペーンに終始しているマスコミの超低レベルな政府批判報道の内容を全く疑うことなく妄信して吹聴しているのには、いつものことながら笑うしかありませんでしたね。
しかも、安倍内閣を誹謗中傷する目的で書かれた8巻「水妖日にご用心」が実際に出版されたのは、すでに第一の攻撃対象たる安倍晋三氏は総理大臣を辞任しており、第二のターゲットである麻生太郎氏も外務大臣ではなくなっていた2007年12月ときているわけです。田中芳樹にしてみれば、せっかく安倍内閣を攻撃しまくってストレス発散祭りでも盛大に執り行ないたかったところだったでしょうに、現実の流れが速すぎて執筆のスピード&内容が全く追いつかず、発刊した時点で作品がイキナリ現実と合致しない時代遅れなシロモノと化してしまっていたのは、傍目に見ても実に哀れな限りでした(T_T)。もちろん、これは作品内に時事問題の社会評論を無為無用であるにもかかわらず挿入しようとする田中芳樹の自業自得以外の何物でもないのですけど。
第一、この年の田中芳樹および「らいとすたっふ」は、自分達で公約していたはずの創竜伝14巻の刊行を突然何の公式発表もなく無期限延期にしたり、自分で批判していたはずのパチンコに銀英伝を売り飛ばしたり、挙句の果てにはそれに対する問い合わせ投稿を問答無用で言論封殺したりと、自分達自身、読者および出版社に対して到底顔向けできない愚行&蛮行を色々とやらかしていたというのに、どのツラ下げて政治家批判ができるというのでしょうか。アレらの所業が、創竜伝や薬師寺シリーズで嘲笑われている作中の政治家達のそれとどう違うというのか、田中芳樹&「らいとすたっふ」による言論封殺の被害者たる私としては是非一度問い質してみたいところですね。
それでは、薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」の考察を始めることと致しましょう。
薬師寺涼子の怪奇事件簿8巻「水妖日にご用心」
2007年12月20日 初版発行
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P9下段~P10下段
<「すごいことになってるねえ。マスコミも暇なんだなあ」
「事情をご存じですか」
「うん、何でも、急に外務大臣が来庁することになったらしくてね」
「外務大臣って、つぎの首相候補ですか」
「アニメファンで、マンガしか読んでない人ですよね!?」
私と貝塚さとみが口にしたのは、どちらも事実である。
現在の首相は、就任してそれほど長くはないのだが、疑惑まみれの大臣が自殺したり、防衛省や年金庁が空前の不祥事をおこしたり、独裁者気どりの幼稚な言動が批判をあびたりして、早くも退陣に追いこまれそうな雲行き。そこで最有力の後継者候補とされるのが、外務大臣なのである。
「すくなくとも現在の首相よりはマシ」
というのが、おおかたの評価だが、この人は政治家としての評価以外に、マンガやアニメの熱烈な愛好家として知られていた。移動する車内でもマンガを読みふけっている。そのこと自体は別に悪いことではない。マンガに偏見を持つより、むしろいいことだとは思うが、問題もある。貝塚さとみがいったように、「マンガしか読んでない人」という印象があることで、世界各国の外交官たちの間では「ミスター・ジャパニーズ・コミック」として有名らしい。
いまや外務大臣はベストセラー作家でもある。三ヶ月ほど前、新書で著作を二冊、同時刊行して、これがあわせて五十万部も売れてしまい、大評判になったのだ。その著作のタイトルは、
『人生に必要なことはすべてマンガで学んだ』
『とんでもない国ニッポン』
というのであった。
「とんでもない国」というのは、著者によれば、「美しいだけでなく、ビックリするほどすばらしい国」という意味なんだそうである。>
……自分で言っていておかしいとは思わなかったのでしょうかね、泉田準一郎(=田中芳樹)は。五十万部も売れる「ベストセラー作家(?)」という時点で、件の外務大臣は「文字だけの本の閲読」よりもはるかに難易度の高い「文字だけの本の執筆作業」をこなしていることになるわけで、そこから「マンガしか読んでない人」などという評価が一体どうやったら成立するのか、むしろこちらが聞きたいくらいなのですけど(苦笑)。
さて、前置きでも述べたように、ここで「マンガしか読んでない外務大臣」などという田中芳樹のストレス解消ネタとして誹謗中傷を叩きつけられているのは、安倍内閣当時の外務大臣であり、第92代内閣総理大臣も勤めた実績を持つローゼン閣下こと麻生太郎氏です。一昔前の天然記念物レベルな遺物に過ぎない田中芳樹の反日反米&中国礼賛至上主義的な思想傾向から考えて、「美しい国日本」をスローガンに掲げた安倍晋三氏や麻生太郎氏に対して「とてつもなく」非好意的な評価を下しているであろうことは、太陽が東から昇るくらいに当然のことだったのであって、それ自体は何ら不思議なことではありません。
しかし、これまた今更言うまでもなく、その作家個人のストレス解消ネタに過ぎない誹謗中傷の数々を、仮にもプロの「ベストセラー作家」が、公刊されている己の著書に、しかも作中に登場させなければならない理由も必然性もないにもかかわらずダラダラと開陳されては、読者側としてもたまったものではないんですよね。第一、その主張内容を読んでみても、田中芳樹が麻生太郎氏の著書をマトモに読んですらいないことは一目瞭然なのですし。
何故そんなことが断言できるのかというと、実は田中芳樹が8巻「水妖日にご用心」で書き殴っているレベルの麻生太郎氏のマンガ好き批判は、当の麻生太郎氏自身が刊行している「とてつもない日本」ですでに言及されている状態にあるんですよね。
とてつもない日本 新潮新書版P53
<総裁選に絡んで、いやそれ以外のときでも、私については「マンガ通」「マンガオタク」といった切り口での報道が目に付いた。通がオタクかは知らないけれども、マンガ好きなのは事実であるし、隠してもいないから問題はない。ネット上の百科事典でも、『ゴルゴ13』のファンだ、『風の大地』の愛読者だ、と書かれている。
以前ほどではないにしても、今でも「マンガなんて子供の読むものだ」と思われている方もいらっしゃるだろう。そうでなくても、「政治家が夢中になるものかね」と思われているかもしれない。
いい歳したオッチャンが、老眼鏡をかけてまで電車の中でコミックを貪り読んでいるサマは、まことに嘆かわしい限り、テレビの影響による活字離れに加え、一層の活字離れが顕在化してきている、と眉間に皺寄せておられる方も多いと思う。「麻生はマンガばかり読んでいる」といった報道にもどこか、マンガへの蔑視があるのかもしれない。>
にもかかわらず、上記の著書をネタにしている田中芳樹は、まさに麻生太郎氏自身が言及している<「麻生はマンガばかり読んでいる」といった報道>の文脈をただなぞっているだけの知識と前提に基いた言及しかできていないのです。
しかも、「麻生はマンガばかり読んでいる」の劣化バージョンであるところの「マンガしか読んでない人」云々についても、これまた「とてつもない日本」の中に立派な反証があります。
とてつもない日本 新潮新書版P104
<リリー・フランキーさんの書いた『東京タワー』という小説が売れた。映画やテレビドラマにもなっているのでご存知の方も多いと思う。実はこの小説の舞台になっている福岡の旧産炭地・筑豊が、私の選挙区である。
ずいぶん前には、五木寛之さんの『青春の門』がベストセラーになった。かつては日本の近代化、経済発展を支えた石炭産業の街である。>
とてつもない日本 新潮新書版P116
<NHK大河ドラマ『徳川慶喜』をご記憶だろうか。司馬遼太郎の『最後の将軍』でも有名だが、慶喜公は安政から慶応にかけてものすごい改革を成し遂げた人である。>
他ならぬ自分自身がネタにしているはずの著書の中にこのような記述があることを知っていれば、麻生太郎氏に対して「マンガしか読んでない人」などという見当ハズレな罵倒を投げつける行為など、恥ずかしくてとてもできたものではないでしょう。ちなみに「とてつもない日本」の初版発行は2007年6月。それから半年後に著書を出して後出しジャンケンな社会評論を展開しているというのに、田中芳樹はその後出しジャンケンすら無様に失敗してしまっているわけです(笑)。
第一、麻生太郎氏は、田中芳樹的にはマンガ愛好家云々とは比べ物にならないレベルで絶対に看過しえないであろうこんなことまで堂々と述べているのですけどね↓
とてつもない日本 新潮新書版P12
<日本ではよく「カローシ(過労死)」を例に挙げて、日本人は働き過ぎだ、日本人の働き方は間違っているという人がいる。だがそれはあまりに自虐的で、自らを卑下し過ぎではないだろうか。「ノーキ」を守る勤勉さは、私たちが思っている以上に、素晴らしい美徳なのである。>
とてつもない日本 新潮新書版P13~P14
<バブル崩壊以降、日本はもっとグローバル・スタンダードを導入すべし、などという議論が幅をきかせたけれども、私に言わせれば、むしろ「日本流」がグローバル・スタンダードになっている現実もあるのだ。トヨタ、ソニー、カラオケ、マンガ、ニンテンドー、Jポップ……。「ノーキ」や「カイゼン」が、世界の経済にどれだけ貢献しているか、インスタント・ラーメンやカップ麺が、どれだけの人を救ったか。
日本は、マスコミが言うほどには、決して悪くない。いや、それどころか、まだまだ大いなる潜在力を秘めているのである。>
で、自分の作品をマトモに公刊するどころか「執筆は予定通り遅れています」などという今やシャレにも何にもなっていないタワゴトを常日頃から吹聴しつつ、自分の作品に無意味な社会評論をぶち込んだり、ストーリーの根幹に致命的な欠陥を植えつけたりするといった醜態を晒し続け、品質改善に努めようとすらしない田中芳樹としては、自分の経験を元に「ノーキやカイゼンなど必要ない! 世界的に見て下等で陋劣な変態民族たる日本人はイギリス病を見習うべきだ!」的な主張でも開陳するべきなのではありませんかね? すくなくとも麻生太郎氏のマンガ愛好ぶりを論うよりは、こちらの方がはるかに重要なことなのではないかと思うのですが(笑)。
しかも、麻生太郎氏を「ベストセラー作家」などと定義する主張からしてすでに誤りだったりします。普通に「作家」といえば一般的には「小説家」を意味する言葉ですし、広義的に見ても「映像作家」「放送作家」「陶芸作家」などといった用例のように「芸術・創作作品の制作者」を定義するものでしかありません。麻生太郎氏が執筆している著書は小説でもなければ芸術・創作作品でもなく「評論本」なのですから、「作家」ではなく「評論家」ないしは「筆者」とでも呼ぶべきでしょう。これって仮にもプロの作家である上に、性善説の語解釈や「諸葛亮孔明」などの名前の呼び方に対する誤用にアレほどうるさく御託を並べていた田中芳樹御大がやって良い間違いではないと思うのですがね(苦笑)。
さらに言えば、田中芳樹が論っている麻生太郎氏の刊行著書2冊のうち、「とんでもない国ニッポン」については「とてつもない日本」が元ネタであることが一目瞭然なのに対して、「人生に必要なことはすべてマンガで学んだ」というタイトルが一体どこから来たのか、という問題もあります。麻生太郎氏は確かに「とてつもない日本」とほぼ同時期に著書をもう1冊刊行してはいるのですが、その著書のタイトル名は「自由と繁栄の弧」というのであって、これのどこをどうもじったところで「人生に必要なことはすべてマンガで学んだ」などというタイトルにはなりようがないわけです。
こんないかにも頭の悪いタイトルをどうやって田中芳樹が捏造したのか、私は不思議に思えてしかたがなく、元ネタはどこかとあちこち探していたら、私にとっては大爆笑もののネタにぶち当たりましてね。何と、あの某「と学会」の自称SF作家なキチガイ会長の著書「宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?」の中にある第5章のタイトル名が「人生で大切なことはすべてSFで学んだ」というものでして(爆)。
山本弘公式サイト「宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?」の紹介ページ
http://homepage3.nifty.com/hirorin/kurimanju.htm
もし田中芳樹がここからネタを取っていたのだとすれば、田中芳樹は麻生太郎氏と山本弘の双方に対し非常に残酷な措置を取ったと言わざるをえません。田中芳樹は山本弘に対しても麻生太郎氏と同様に悪し様な評価を下していることになりますし、一方で麻生太郎氏は山本弘と同等のキチガイであると田中芳樹的視点では評価されていることになるわけです。いくら麻生太郎氏が憎いにしても、何の証拠もなく「あの」山本弘と同レベルであるかのごとく見做す言動はさすがに名誉毀損行為に該当するでしょうし、そもそも創竜伝8巻文庫版で山本弘とニコニコ対談をやらかしているはずの田中芳樹が、山本弘を麻生太郎氏と同レベルの存在と評価していること自体、私としては大変驚きを禁じえないのですが(笑)。
まあ、山本弘が元ネタ云々については「ある種の仮定に基いた推論のひとつに過ぎない」として片付けるにしても、麻生太郎氏の著書の捏造タイトルについては、麻生太郎氏に対する「マンガしか読んでない人」云々の悪意に満ちた捏造評価と同時に、マンガ自体に対する悪意をも感じずにはいられないですね。いくら田中芳樹が「そのこと自体は別に悪いことではない」的なフォローをしていようが、件の社会評論自体、麻生太郎氏の評価をネガティブなものにするために、マンガを「マイナスイメージ的な道具」として演出・利用している側面があるのは厳然たる事実であるわけなのですし。
ところで、麻生太郎氏ばりに「ベストセラー作家でマンガ愛好家」である人物といえば、やはり何と言ってもこの御方を外すことはできないでしょう。己が出版している著書の裏表紙でこんな紹介がされている人物です↓
銀英伝3巻 徳間ノベルズ版裏表紙
<近代文学を専攻する田中芳樹の蔵書は、数千冊を超える。そのうち、マンガが約千冊あるというのが他の研究者と違うところだ。気分転換に読むために購入しはじめたのだが、ついにこの冊数にまでなってしまった。今は八年間の大学院生活にピリオドを打ち、休む間もなく、第四巻目の執筆にとりかかっている。>
しかもこの御方、一般人以上にやたらとマンガを愛好していることを隠す気もないらしく、「書物の森でつまずいて……」には、マンガについて熱く語っているエッセイおよびインタビュー記事が総計6つも収録されています。さらにその中では何と「マンガを読んでいなかったら小説を書く方向には進んでなかった」とまで主張されている始末↓
書物の森でつまずいて…… P199
マンガの落とし子たちインタビュー 「コミックトム」1988年11月号収録
<やっぱりぼくとしては、話の面白さとか場面の印象とかいうものをインプリンティングされちゃいましたね。マンガを見て、表現というものの面白さを味わなかったら、小説書くっていうのにも進んでなかったと思う。活字の方に行ったのも、マンガ読んで、本を読む、表現されたものを受けとるみたいな訓練をしたからだと思います。>
で、どう見てもマンガ以外の場所から取り入れた知識が少なからず盛り込まれている「とてつもない日本」の著者である麻生太郎氏が「マンガしか読んでない人」などと評価されなければならないのであれば、マンガについてここまで「異常なこだわり」を持つこの御方もまたやはり「マンガしか読んでない人」と評されて然るべきなのではないでしょうか(苦笑)。オマケにこの御方、近刊のシリーズ作品でも「GS美神 極楽大作戦」というマンガから設定やネタをごっそりパクって作中に反映させているときていますからね~(笑)。全く、プロの小説家ともなればオリジナリティというものは大事でしょうに、他人のマンガからネタをパクるしか能がなかったとでも言うのでしょうか(爆)。
……と、麻生太郎氏のマンガ通ぶりを罵倒する際に、その罵倒が他ならぬマンガ愛好家でもある自分自身にもギロチンブーメランとして跳ね返ってくる可能性について、田中芳樹は少しでも考えてみたことはなかったのですかね? マンガ愛好家という点では田中芳樹と麻生太郎氏は同好の士といっても良いくらいですし、変にマンガを論って攻撃したところで、相手はそれを隠すどころかむしろ大々的に宣伝すらしているくらいなのですから何のダメージにもならないことは最初から分かりきっているでしょうに。
麻生太郎氏を批判するならするでもっと効果的な方法は色々とあったでしょうに、麻生太郎氏の著書に直接当たることなく、TVの偏向ワイドショー番組でやっているレベルの、品性の欠片もない揚げ足取りバッシング報道に終始している程度の低い麻生太郎氏への批判論を何も考えずに無理矢理なぞろうとするから、こんな醜態を晒すことになるのですけどね。第一、こんなことをしていたら、自分が過去にマンガ愛好家であることを告白したり、マンガについて熱く語ったりしているエッセイやインタビュー記事などについても、その信憑性が問われることになりかねないのですが。
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P19上段
<「たしかメヴァト王国というと、ずいぶん時代遅れの専制政治がおこなわれているんですよね」
「そうよ。サウジアラビアやブルネイとおなじよ」
石油大国として知られるサウジアラビアは、国名そのものが「サウド王家のアラビア」という意味で、国全体が王家の所有物なのだ。だから憲法も議会も選挙もなく、国民に政治的権利などない。首相も王族の中から国王が任命する。ブルネイも同様。これほど非民主的な国はないはずだが、アメリカから戦争をしかけられることもなく、日本から経済制裁を加えられることもない。>
こういう文章を読んでいると、現在の田中芳樹の硬直した思考および堕落ぶりがつくづく実感されてなりませんね。「憲法も議会も選挙もなく、国民に政治的権利などない」専制政治を「ずいぶん時代遅れ」「非民主的な国」の一言で片付けられるのであれば、民主主義と専制政治の利点と弊害を可能な限り公平に提示するよう努め、両者の戦いを「アメリカ的価値観に基づいた絶対善と絶対悪の戦い」として描くことを戒めていた銀英伝は一体何だったのかと問わずにはいられないのですが(T_T)。
他ならぬ田中芳樹自身、銀英伝については以下のような文章を書いていたはずなのですけどね~↓
銀河英雄伝説読本 P50~51(月刊アウト 1988年2月号)
<田中:僕が修士論文で書きましたのは、幸田露伴の「運命」という作品でして、中国の明王朝で、皇帝の位をめぐって、叔父と甥が内乱を起こすという話なんですね。そういった歴史的事実と、作家のとらえ方の落差みたいなものを研究したわけです。そこで、当然幸田露伴の作品をずいぶん読んだんです。幸田露伴は、そういった歴史小説とか伝記みたいのをずいぶん書いていて……印象に残ったのは、露伴は、どちらか一方を悪と決めつけるということがないんだということだったんですね。ひとりの人間を主人公にしたら、むしろその敵対するライバルのことも、実にきちんと書いているわけです。ライバルの方から見ると、長所もあるし言い分もあるしという形で……。そういった意味で視点の相対化みたいなものを、そこで少しだけ勉強したような気がするんです。非常に我田引水ですけれど(笑)。>
銀河英雄伝説読本 P150(アサヒ芸能 1988年2月4日)
<主人公であるラインハルトのキャラクターは、意図的に完璧なものにしました。絶対的な専制君主で、能力的にすぐれ、顔もいい。民主主義の欠陥を映し出す鏡にしたかった。それと、主人公を引き立てるために、登場人物の悪口やきめつけは書かないようにしました。それは読者が決めるものですから。>
いつから田中芳樹は、「視点の相対化」をかなぐり捨てた「どちらか一方を悪と決めつける」行為を、作者であるはずの自分自身で積極的に行うようになってしまったのでしょうか? 創竜伝や薬師寺シリーズは、まさに「【主人公を引き立てるため】の【登場人物の悪口やきめつけ】」によって作品の質の低下および読者からの反発を招いているというのに(>_<)。
第一、専制政治を民主主義と比較して「ずいぶん時代遅れ」「非民主的な国」と蔑むスタンスは、銀英伝1巻におけるヤンのイゼルローン攻略後、「帝国との間に有利な条件で講和条約を結ぶ絶好の機会」と主張したレベロの意見を「これは絶対君主制に対する正義の戦争だ」と頑なに退けた挙句、同盟を帝国領侵攻作戦&アムリッツァ会戦の大敗北に導いて国を傾けた5流以下の頑迷政治家連中と全く同じシロモノではありませんか。「あの」ヤンですら、さすがにそのような現実を全く顧みない民主主義原理主義じみた狂信性とは一切無縁だったはずなのですが(苦笑)。
そもそも、民主主義というのは決して万能の政治形態ではありません。国民の大多数に国民意識が醸成されていない国で突然民主主義を導入したところで、少数民族や地方の部族が自分達の権利を主張した挙句、内戦が勃発したり、専制君主以上に強大な独裁者が出現して国政が混乱したり、最悪の場合は国が分裂してしまったりする事態もありえるのです。国王を殺して専制政治を廃止し、共和政に移行したフランスも、長期にわたって国内が混乱した挙句にナポレオンの独裁を許してしまいましたし、東南アジアや中東・アフリカでも、民主主義を導入しながら開発独裁体制に移行したり、部族間抗争や地方軍閥同士による対立から大規模な内戦が勃発し国土が荒廃してしまった国がざらにあります。
民主主義が国の中できちんと機能するためには、その国の構成員たる国民の圧倒的大多数が何らかの共通意識を持ち、一丸となって国を支える体制が予め完備されている必要があります。その共通意識とは、たとえば民族であったり宗教であったり言語であったり、場合によっては「共通の敵に立ち向かう」というある種の政治的プロパガンダであったり、さらには田中芳樹が最も忌み嫌う「愛国心」や軍国ナショナリズムだったりと、国によって様々なあり方が存在しますが、そういった共通意識が国民に浸透していない国で民主主義を導入しても、それは国の崩壊を招く起爆剤にしかならないのです。
サウジアラビアが領有するアラビア半島には、古来より無数の地方部族勢力が存在しており、地方間や宗教上の対立も多く、民主主義を円滑に運用するために必要となる「サウジアラビア人としての共通意識」の形成が充分に成し得ていない状態にあります。そのような専制君主国家で、「ずいぶん時代遅れ」「非民主的な国」だからという理由で下手に民主主義を導入すれば、全国に散在する地方部族勢力は自分達の利益のみを主張するようになり、互いに争い、やがては国を割ってでも独立しようとする事態すら起こりえます。そういう国における専制君主制や独裁制は、力による中央統制を行うことで国の分裂や内戦を抑制し、結果として国民の生活と安全を保証しているという一面もあるのです。
民主主義や専制政治といった政治形態の違いを問わず、国というものはまず自国の維持と自国民の生活と安全を保証することが国民からも最優先に求められるものなのですし、とにもかくにもその維持に努めようとする国を支援し、国交関係を築くことが自国の国益になると判断したアメリカや日本その他の国々が、政治形態の違いを超えて交易を行ったり支援の手を差し伸べたりするのもこれまた当然のことです。だからこそ、サウジアラビアやブルネイは、田中芳樹的視点から見れば「ずいぶん時代遅れ」「非民主的な国」であっても、国際社会で一定の地位を確保することができるわけです。
創竜伝のイギリス礼賛における「新聞が堂々と王室の悪口を書きたてている国は、世界を支配するのが当然である」というタワゴトもそうですが、田中芳樹は一体何が原因で銀英伝の頃には確実にあったはずの「民主主義を必ずしも絶対善視しない」的な視点を失った挙句、一種の狂信者じみた民主主義真理教的な考えを持つに至ったのでしょうか? 自分がこんなザマでは、かつて「イギリス病のすすめ」で取り上げられていた映画「インディペンデンス・デイ」に見られるようなアメリカ人のセンスとやらを笑うこともできないのではないかと思うのですけどね。
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P26上段~下段
<何年前のことだったか、東南アジアのラオスで、亡命ラオス人とアメリカ人が組んでクーデターをおこそうとしたことがあった。大量の武器をそろえて、いざ作戦発動というところでアメリカ政府に一網打尽にされてしまったが、ラオスにかなり大規模な金鉱が発見されてオーストラリアの企業が開発に乗り出した直後のことだった。巨大な資源開発企業が私兵を動かしてクーデターをおこすのは、アフリカでも中東でも中南米でも東南アジアでも、歴史上めずらしいことではないのだ。
犯罪をおこすこと自体が目的ではないが、利益のためには犯罪も辞さない。それが巨大企業の病理というものなのだろうか。>
これってJACESに対する批判なのでしょうか? 確かにあの会社が「利益のためには犯罪も辞さない」「巨大企業の病理」というものに骨の髄まで蝕まれているのは誰の目にも明らかなわけですし(笑)。いや、実際には薬師寺涼子の意向のために「犯罪をおこすこと自体が目的」化している部分もありますから、JACESにおける「巨大企業の病理」とやらは他の巨大企業以上に「病膏肓に入る」状態にすらあると言わざるをえませんね(爆)。
そもそも、このラオス人民民主共和国のクーデター話のどこに「巨大な資源開発企業」が絡んでいるというのでしょうか? ここで言及されているクーデター騒動というのは、2007年にアメリカで発覚したクーデター未遂計画のことを指しているのですが、このクーデターで主役となったのは、ラオス政府によって迫害を受けアメリカに亡命した旧ラオス王国の元将軍でモン族出身のバン・パオという人物で、彼は1960年~70年代のラオス内戦およびベトナム戦争時代、アメリカCIAの支援を受けてラオス国内のベトナム軍および共産勢力と戦った経歴を持っています。
2007年当時77歳だったバン・パオは、現ラオス政府を打倒し新政権を樹立するためのクーデター計画「ポップコーン」を立案。その作戦計画では、2800万ドル(当時の円換算で約35億円)の資金を使い武器と傭兵を調達、計画発動から60日以内にラオス国内の主要な政府施設および交通機関・メディア等を掌握して暫定政権を樹立、90日以内に政府幹部をひとり残らず粛清してクーデターを完了する予定となっていました。そして、その際に武器の調達を仲介し、バン・パオと手を組んでいたのが、元アメリカ陸軍中佐のハリソン・ジャックという人物です。両者を含む総計10名の首謀者達は、アメリカの法律で定められている中立法違反の罪で連邦地裁に起訴されています。
ラオスではベトナム戦争以降、アメリカに協力したモン族とラオスの共産党政府軍との間で争いが絶えず、30万人以上のモン族が国外に非難し、うち約14万5000人ほどがアメリカに亡命しています。この背景事情を見る限り、バン・パオによるラオスのクーデター未遂事件はベトナム戦争の後遺症およびラオス国内の民族問題がこじれた結果起こった事件と考えるべきものなのであって、そこに「巨大な資源開発企業」とやらは影も形も見当らないのですが。
第一、上記引用文で明示されている「巨大な資源開発企業」とやらに該当する存在は、どう見てもラオスの金鉱の開発に乗り出していた「オーストラリアの企業」しかありません。前述した事実を踏まえた上でこの文章を素直に読むと、「オーストラリアの企業」が亡命ラオス人とアメリカ人達を裏から操ってクーデター未遂事件を起こさせていたとしか解釈のしようがないのですが、もちろんそんな事実はありませんし、そもそも、すでにラオス政府との商取引が成立している「オーストラリアの企業」が、わざわざこんな騒動を起こすことに一体どのような利があるというのでしょうか? 文脈がおかしい上に「たとえ話」としても成立していない支離滅裂な社会評論を提示されたところで、読者側は意味不明過ぎて理解に苦しむだけでしかないでしょうに。
泉田準一郎や田中芳樹は、内容以前にそもそも社会評論をマトモに語ることさえできないのですかね? 今時中学生に文章執筆を依頼しても、これよりはマシな文章を書いてくれるのではないかと思えてならないのですけどね(苦笑)。
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P35下段~P36上段
<「ザナドゥの善悪観って、すごく単純だからね。肉食恐竜は悪で、草食恐竜は善。映画でもそうでしょ?」
「見てません」
「えッ、『ダイナソー・パラダイス』を見てないの!? あたしは三回見たけど、ほんとにクダラなかったわよ。あんな映画。つくるのは費用のムダ、見るのは時間のムダだわ」
そんなもの、三回も見るなよ。
「それにしてもさ、TオサムとかFフジオみたいに、自分で創造したわけじゃないでしょ。あっちはグリム童話、こちらはアンデルセン童話、そっちはペロー童話、どれもこれも古典の流用。キャラクターを絵にしただけで、原典の著作権そのものまで自分のモノみたいな顔してるなんて、ずいぶんあつかましいじゃないのさ」
涼子がいうのは正しいと思うが、原典をきちんと読んでいる人なんて、どれだけいるのだろうか。日本人の半数以上は、白雲姫も半魚姫もシソデレラも、ザナドゥが創ったものだと思いこんでいるにちがいない。
だいたいわが国の外務大臣にしてからが、インタビューで、「『こころ』ってマンガはよかったねー」なんていっている。夏目漱石の原作を読んでいないのだ。>
ここで論われているザナドゥというのは、作中の説明によれば「東京湾の東岸、千葉県の西端部に、ザナドゥ・ランドという巨大テーマパークがある」とのことで、どう見ても元ネタは東京ディズニーランドしかありえないのですが、しかしさすがに「ザナドゥ・ランド」ことディズニーランドの側も、よりによって薬師寺涼子と泉田準一郎などに、創造性や著作権について云々されたくはないでしょう(苦笑)。ディズニーランドのキャラクターに創造性や著作権がないというのであれば、スレイヤーズと極楽大作戦の登場人物を超劣化複写技術で適当に組み上げただけの出来損ないな失敗作に過ぎない薬師寺涼子と泉田準一郎もまた、彼らと同類ということになるわけですし(爆)。
しかも大変滑稽なことに、この薬師寺涼子の創造性云々の主張からして実は完全無欠のトレースでしかないという厳然たる事実が存在するんですよね。何しろ薬師寺涼子の主張は、過去の創竜伝の社会評論から何の加工もひねりもなくそのまま持ってきたものでしかないのですから↓
創竜伝2巻 P9下段~P10上段
<ほんとうは、始は、フェアリーランドに代表されるアメリカ人のセンスがそれほど好きではない。フェアリーランドをアメリカでつくった人は、有名なアニメーション製作者で、技術的にすぐれた作品を多く制作したが、その大部分は昔の童話や児童文学をアニメ化したものであり、自分で作品世界を創造したわけではない。ほんとうの生みの親は、グリム兄弟であったりアンデルセンであったりする。アニメという表現形態を生みだした点は偉大であるが、真の意味で創造的な内容のアニメはアメリカには生まれていない、と始は思っているのだった。>
それにしても、わざわざ創竜伝の社会評論をそのまま持ってくるのであれば、薬師寺シリーズにおけるディズニーランドの名前も「ザナドゥ・ランド」ではなく「フェアリーランド」にすれば良かったものを、何故わざわざそこだけは変えるというみみっちいマネなんかしているのですかね? 薬師寺シリーズ4巻「クレオパトラの葬送」では、創竜伝と同じ「国民新聞」がきちんと登場しているというのに(苦笑)。
さらに言えば、薬師寺涼子が「原典の著作権」について云々すること自体、笑止な限りでしかないのですけどね。つい18ページほど前の場面で、それこそ本当に著作権を蹂躙している中国の海賊版業者に「ザナドゥ・ランド」の株を売り渡してやるなどと騒いでいたのはどこのどなたでしたっけ?
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P17上段~P18上段
<ドアが閉まって、大臣の姿が消えると、涼子は音を立てて舌打ちした。
「くだらない男だわ。近いうち泣かしてやる。それにしてもザナドゥ・ランドめ、ダンゼンゆるせない」
「何を怒ってるんです?」
「ザナドゥ・ランドのやつら、守秘義務を守らずに、あたしの名をバラしやがったのよ。あたしは顧客というだけでなく、株主でもあるのに」
「しかたありませんよ。政府から声をかけられたんじゃ」
「その政府に媚びへつらう態度が気に入らないっていってるの。でも、まあいい、資本主義社会で株主を裏切った企業がどうなるか、思い知らせてやる」
「報復ですか」
「お仕置きよ」
「で、何をやる気です?」
「あたしはザナドゥ・ランドの株を百万株ばかり持ってるんだけどね、これをまとめて中国の海賊版業者に売り渡してやるわ」
「そ、それはまずいのでは……」
「どうまずいの?」
「色々とですよ」
「色々とって、どんな色よ。赤? 青? 緑? ミッドナイト・レインボウ?」
それこそ、どんな色だ、いったい。
「小学生みたいなこと、いわないでくださいよ。第一、海賊版業者と知って取引したりしたら、あなた自身、著作権法違反でつかまるでしょうに」
「うるさい、あたしはザナドゥ・ランドの株を売りとばして北京の絶景山遊園地を買いとる。海賊の女王として、世界に君臨してやるのだ」
「海賊の女王なら格好いいですが、海賊版の女王ではあんまり……」>
海賊版のメッカとすら言われる中国や韓国の海賊版業者は、著作権や知的財産権といったものを完膚なきまでに蹂躙するばかりか、「俺達こそが正当な権利の所有者だ」などと逆ギレ裁判すら起こすほどにタチの悪い存在であるということを、こんな形で話題に出しているくらいなのですからまさか知らないわけではないでしょう。ディズニーランドの絵やアニメに関する著作権行使を「著作権の濫用&拡大解釈」であるかのごとく罵っておきながら、他方では本当に著作権を蹂躙する中国の海賊版業者について無批判な態度を決め込む薬師寺涼子などに「原典の著作権」を云々されては、それこそグリム兄弟もアンデルセンもペローも草葉の陰で泣こうというものです。
もっとも、それ以前の問題として、そもそもその頭のてっぺんから足のつま先に至るまで完全無欠な「海賊版」である薬師寺涼子が「原典の著作権」を云々すること自体おかしな話なのですけどね(笑)。まあそれだからこそ中国の海賊版業者とは同じ海賊版同士ウマが合うのかもしれませんが(爆)、リナ・インバースと美神令子のパチモノごときが「原典の著作権」などと身の丈に合わない武器を振り回したいのであれば、必要最低限、自分がパチモノであるという厳然たる事実を、素直に直視した上できちんと公に認めるべきではありませんか。パチモノという事実から目を背けつつ、自分はオリジナルな存在であるといわんばかりに振る舞うのは、それこそ「原典の著作権」に対して大変失礼かつ傲岸不遜な所業ではないかと私は思えてならないのですが(苦笑)。
そして一方、泉田準一郎が主張している内容については、どうやらザナドゥ・ランドの創設者も同じように主張していたようです↓
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P38上段~P39上段
<「全世界に愛と夢と平和を!」
というオダニエルの理念はりっぱなもので、誰ひとり文句のつけようがなかった。また、彼の提供する作品やショーは、たしかに質が高く、魅力的なものだった。国境をこえ、時代をこえて、彼の「お客」は増えていった。
「あいつはグリムやアンデルセンを好きかってに流用してるだけじゃないか」
という非難に対して、オダニエルは傲然と応じた。
「グリム童話やアンデルセン童話を、全部きちんと読んでいるやつが、世界に何人いるというんだ。子どもたちは、私の映画やショーで、彼らの名を知ることになる。グリム兄弟やアンデルセンが生き返ったら、私に感謝してくれるだろうよ!」
どうやらオダニエル自身は、グリム兄弟やアンデルセンに感謝するつもりはないようだ。あれだけグリム童話やアンデルセン童話の設定とキャラクターを流用して大金をかせいでいるのだから、グリム博物館やアンデルセン博物館ぐらい建ててもよさそうなものだが。>
さて、創竜伝の頃から言われているこの「創造性がない」云々の主張ですが、田中芳樹は演劇・実写映画やマンガ・アニメ等の製作がどれだけ難しく、かつ「創造性」が要求されるものであるかが全く分かっていないのではないでしょうか?
たとえば、ここで挙げられているグリム童話やアンデルセン童話には、確かにキャラクターの名前や性格設定といったものが存在するのですが、それらはあくまでも「文章」でのみ表現されているものでしかなく、「目に見える実像」が存在しているわけではありません。「文章」で書かれているに過ぎないキャラクターを「目に見える実像」に変換し、観客が楽しめるものにするためには、当然頭を使わなければいけないわけですし、演劇や実写映画であれば「俳優の選定や目利き」「監督能力」「俳優ひとりひとりの演技力」といった要素が、マンガやアニメであれば「想像力」「顔や体の造形や背景等に関する作画・表現能力」といった「創造性」が相当なレベルで要求されます。さらに場合によっては、原作の不備を補完したり、原作とは別の新しいテーマを訴えたりするために、オリジナルのストーリーや設定を後付で追加しなければならないことだってあるでしょう。
そのため、同じ原作を元に製作された演劇や実写映画であっても、監督や俳優、およびスタッフの資質などによって全く異なる構成の作品が作られますし、マンガやアニメでも製作者の指揮や描写スタイル次第で千差万別の作画や描写が表現されます。製作者達の個性で出来も内容も左右される原作リメイク作品、それはまさに原作と同じか、場合によってはそれ以上の「創造性」が伴うものであると評価されるべきものなのです。
他でもない田中芳樹自身、原作キング・コングのリメイク作品を自ら執筆している実績があるではありませんか。キング・コングのリメイク作品は田中小説版以外にも(その派生系も含め)様々な媒体で数多く製作されていますが、それらの作品にもその作品独自のオリジナリティや創造性といったものが存在するのですし、またそういったものがあるからこそ、原作と比較した上での内容や評価に違いが生まれるわけです。同時期に公開されたピーター・ジャクソン監督のリメイク映画版に比べれば、田中小説版のキング・コングはまごうことなき駄作でしたが、それも両者の個性や創造性の違いを認めた上で比較しあってこその評価なのでしてね(苦笑)。
己の反米思想に基づいてディズニーランドを罵りたい気持ちは理解したくなくても理解させられていますが、あまりその主張を前面に出してしまうと、薬師寺シリーズや田中小説版キング・コングを執筆してしまった後では、創造性云々の批判がギロチンブーメランとなって自分の作品に跳ね返ってしまい、結局自分自身をも貶める醜態を演じてしまうことにもなりかねないのではありませんかね? まあ当の田中芳樹が「あれは小説家ではなくコピーライターとして仕事を請け負ったのであって、ストレス解消のために適当に書き殴っていただけだ」とでも公言するのであれば話は別でしょうけど(笑)。
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P47下段~P48下段
<「さて、ここでひとつ、重大な発表をさせてくれんかね」
殿下に寄りそうようにして、みずからマイクをにぎったのは外務大臣だった。
「えー、今年は国際連合安全保障理事会の非常任理事国が改選される。日本の悲願は、アメリカや中国と同格の常任理事国になることだが、まず目標となるのは、今年、非常任理事国に選ばれることだ。その目標が、メヴィト王国のご好意で、達成されることになった」
(中略)
この件はすでにメヴィト王国から通告されており、日本政府は、みっともないほど狂喜したそうである。
「ふだん友達がいないと、ちょっと好意を示されただけで、はしゃいじゃうのよねえ」
というのが、涼子の意地悪な意見である。
「で、いつのまに、安保理の常任理事国になるのが、日本の悲願になったの?」
「私に尋かないでください」
(中略)
「常任でも非常任でもいいけど、理事国になってどんないいことがあるのよ」
「政治家や外務省のお役人たちが、大国の代表ヅラできるんですよ」
「ナマイキよねー、アメリカの属国のくせにさ。アメリカと対等だっていうなら、大使館の借地料をきちんと取り立てたらどうなのよ。だいたい外務省なんて必要あるの? 廃止して、役人どもを老人介護の現場に振り向けりゃいいのよ」
「極論ですよ、それは」
「うるさい、あたしは極論の人なのだ!」
自分でわかっているなら、私がとやかくいう余地はない。>
相も変わらず、創竜伝の頃から十年一昔的に連綿と続いている「日本には対等の友達がいない」論の蒸し返しですか(笑)。他ならぬ自分自身が、創竜伝の作中キャラクターにこんなことを言わせていた過去の事実を、田中芳樹はもうすっかり忘れてしまっているようで↓
創竜伝13巻 P112上段
<「日本も日本だ。まともな議論には参加せず、裏でこそこそ工作する。経済援助をちらつかせて、ボスのいうことをきくよう強要する。当時の日本政府のやりかたは、とうてい誇りある人間のおこないではなかった」
「まあ私は日本には多少、同情しているのですよ。ボスに見放されたら、世界中に友達などひとりもいない。そう日本の政治家が公言していましたからな。ボスのいうことをきくしかないのです」
「そんなことを公言すること自体が、誇りある人間のおこないではないというのだよ」>
まあ「ふだん友達がいないと、ちょっと好意を示されただけで、はしゃいじゃうのよねえ」などという「誇りある人間のおこないではない」世迷言を堂々と公言している薬師寺涼子が「誇りある人間」などでは断じてないということについては私も全面的に賛同しますね。何しろ薬師寺涼子は、JACESの権力と財力と暴力を使って他者を脅し、ギロチンブーメランなタワゴトを並べ立てるしか能のない頭のおかしなキチガイ女ですし、そのくせそれらの力が使えない姉と父親が相手となると、陰口を並べながら恥も外聞もなくコソコソと逃げ回っているだけときているのですから(爆)。全く、件の世迷言に限らず、薬師寺涼子がこれまで散々繰り出してきた言動の一体どこに「誇りある人間」と呼ばれる要素が存在するというのでしょうか(笑)。
さらにそれ以前の問題として、そもそも日本に対して「友達がいない」などと嘲笑っている薬師寺涼子自身、「対等の友達」なる存在がいるとは到底考えられないのですけどね。薬師寺涼子の周囲には「(自分より上位な)上司、親類」「(自分より下位な)公的&私的な部下、下僕」「(自分と相容れない)敵」はいても「対等の友人」的な存在が登場した覚えなど私が知る限り一度もありませんし、過去には「あたしには対等なパートナーなんか必要ない」的なスタンスを泉田準一郎に代弁させている描写すら存在するのですが、「ふだん友達がいないと、ちょっと好意を示されただけで、はしゃいじゃうのよねえ」というのは、ひょっとして自分自身の「孤独な人生」について言及した発言なのでしょうか(爆)。まあ薬師寺涼子自身の身の上に関しては全くその通りなのかもしれませんが、一応外交上は「友好的な親日国」も少なからず存在する日本に対して、自分個人の経験など当てはめないで頂きたいものですね(苦笑)。
また、国連についての知識の欠落もこれまた相変わらず深刻な限りですね。日本は世界第2位の国連分担金拠出国ですし、その分担金は金額においても分担比率においても3位のドイツをダブルスコアに近い数値で引き離しているほどに大きなものなのですから、分担金相応の地位や発言力を求めるのは、日本の国益に叶うだけでなく、国民の税金を無駄にしないという観点から見ても至極当然な行為というものではありませんか。それを「政治家や外務省のお役人たちが、大国の代表ヅラできるんですよ」などという低次元な見方でしか捉えることができない時点で、薬師寺涼子と泉田準一郎のお粗末な思考水準が知れようというものです。
日本が国連の常任理事国入りするメリットは、何と言っても安全保障理事会に参加できる資格が「常時」得られるようになることで「常に」世界の安全保障に関する議題に関わることができるようになることがまずあります。現行では2年の任期と2期以上連続で担うことができないという制約がある非常任理事国に選挙で当選しないと安全保障理事会には参加することができず、日本の国連における発言の場は大きく制限されています。
その安全保障理事会の参加資格が「常に」得られる立場になれば、日本の国際的な発言力および影響力が増すことと、世界の安全保障に関する情報収集が行いやすくなることは間違いありません。前者はもちろんのこと、外交を行う際に事前に情報があるのとないのとでは、外交の進め方も得られる成果も段違いなのですから、日本の国益の観点から言えば当然大きな利点となるでしょう。
そして実はこれが一番重要なのですが、国連の時代錯誤的な腐朽システムの象徴にして日本の国家安全保障を脅かしかねない元凶でもある敵国条項の撤廃についても大きな影響力を振るうことができるようになります。敵国条項を撤廃するためには国連憲章の改正が必要で、国連憲章の改正には国連加盟国の3分の2以上の賛成が必要とされるのですが、その賛成を得る際にも、常任理事国という看板は役に立つというわけです。21世紀になっても未だに「第二次世界大戦の戦勝国クラブ」をやっている国連がどれほどまでに時代錯誤かつ内部腐朽をきたしているシロモノなのか、まさか理解できないわけではありますまい?
日本の国益というものを永遠に理解することができない低能な脳味噌しか持ちえない薬師寺涼子と泉田準一郎は、すくなくともこの手の説明はきちんと行っている日本の外務省よりもはるかに不必要で無為無用、いやそれどころか、現職の警察官でありながら様々な犯罪行為を行っているという点ではとてつもないほどに有害な廃棄物ですらあるのですから、力の源泉たるJACES共々この世から消えてくれた方が、日本どころか世界のためにすらなるではありませんか(爆)。有害で廃棄物な劣化コピーの分際で人間様の政治に文句を言うなど、それこそナマイキな限りだと言わざるをえないのですが(笑)。
薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」 祥伝社ノベルズ版P57下段~P58上段
<「殿下、日本人は人を体格や体型で差別したりはしませんわ」
「マコトか?」
「ええ、日本人が人を差別するのは、血液型によってです」
「血液型じゃと?」
「ええ、日本人は血液型によって人を差別する、世界で唯一の国民なのですわ。ご存じありませんでした?」
あまりにも場ちがいなことをいい出したお騒がせな人物は、もちろんというべきかどうか、私の上司だった。カドガ殿下と自称する人物に対し、おちょくってやるだけの価値を見出したらしい。
もともと「人間の性格は血液型によって決まる」と珍妙な説を唱えたのは、日本人の奇矯な医学者だそうだが、昭和初期の日本陸軍がそれを真に受けて、兵士の血液型ごとに部隊を編成しようとした。A型の兵士だけで歩兵連隊をつくったり、B型の兵士だけ集めて砲兵大隊を編成したりしてみたのだが、みごとに失敗して、「こんな非科学的なもの、信用できるか」ということになった。
日本陸軍は滅びたが、なぜか血液型信仰だけは残った。昭和初期の日本陸軍よりも、二十一世紀の日本人のほうが、どうやらずっと非科学的らしい。>
どうやらずっと非科学的らしい、どうやらずっと非科学的らしい、どうやらずっと非科学的らしい…………。
いいかげん、原理も不明で「非科学的」な特殊能力を駆使する怪物が跳梁跋扈する薬師寺シリーズの世界においては、万人を説得できる錦の御旗的な力を科学は失ってしまっている、という「今そこにある厳然たる作中事実」を直視したらどうなのですかね、この連中は。第一、「昭和初期の日本陸軍」が血液型性格分類を実験的に導入したことに一体どんな「非科学的」な問題があったというのでしょうか?
戦前の旧日本陸軍が昭和初期に血液型を元にした部隊編成を行った最大の理由は、当時の日本で軍隊蔑視が蔓延していたために軍人志望者が少なく、軍隊は慢性的な人材不足に苦しんでいたことから、将兵ひとりひとりの「気質」および「能力」を正しく分析・把握し、軍隊の組織作りに生かす手段が必要とされていたという事情があります。今でこそ、血液型性格分類は「現時点では科学的根拠がまだ見つかっていない空論に過ぎない」という結論に至っていますが、当時はまだ一学説として提唱されたばかり。その学説が正しいかどうかもまだ分からない状態だったので、「少ない人材を効率よく配置しなければならない」「では試験的にやってみるか」ということで導入されたわけです。
そして、実際に血液型による気質・性格・能力等の統計を行い、実験的に分類された部隊から調書を集め、全体的な傾向や分析方法についての研究が行われた結果、期待した成果は得られなかったとして、1931年に血液型性格分類による部隊編成は廃止されています。
実はこの手順はまさに「科学的な研究の過程」そのものなんですよね。どんな学説も、実際に実験し結果が出るまでは「仮説」に過ぎませんし、その証明のために様々な実験が実際に繰り返されてデータが収集され、その結果として「現時点では科学的根拠がない」という最終的な判定が下されたのですから。旧日本軍による血液型性格分類の壮大な実験は、一般的に信頼されている科学的な説とは最終結果で明暗が別れているだけで、その動機および研究過程は極めて「科学的」なものだったのですし、また「現時点では科学的根拠がない」という結果が得られたことによって初めて、泉田準一郎のごとき「非科学的」というレッテル貼りな主張もできるようになったわけです。
科学の世界では、それまで全く唱えられたことのなかった突拍子もない新説について真面目な研究や実験が行われること自体は何ら珍しいことではありません。元々科学的・技術的な研究や実験で「実際に役に立つ成功結果」が上げられるのは全体の1パーセントあるかどうかですし、残り99パーセントの失敗も「確定的結果を出した1データ」としては重要な知的財産になります。そして「失敗は成功の母」という格言が示すように、その失敗データ全てを含めた過去の知的財産の蓄積が、結果として「1パーセントの成功を生み出す糧」にもなっているのですから、たとえ研究・実験が「現時点では科学的根拠がない」という結論に終わったとしても、その結果を出した研究・実験そのものは大いに意義があるものでしょう。むしろ、既存の価値観にしがみついて問答無用で「非科学的」というレッテルを貼る行為こそが、本当の意味での「非科学的」な所業以外の何物でもないのです。
実際、旧日本軍の「科学的」な実験に「非科学的」というレッテルを貼って嘲笑している泉田準一郎自身はと言えば、作中で登場する様々なオカルト理論や技術について「科学的」に分析を行ってその実態について知ろうとするどころか、「あれはこの世にあってはならないもので、だからこそ亡びたんだと思います」などと存在そのものを頭から全否定して封印することすら求める始末です。現実世界はいざ知らず、薬師寺シリーズの世界ではオカルト的な存在や現象が「実際に」確認&認知されているのですし、それらについて科学的な分析を行うことは、オカルトを駆使した犯罪に対する抑止力や対処能力を身につけることにも繋がり、大げさに言えば科学一辺倒な人類の発展およびそれに伴う弊害の改善にも大きく寄与する可能性すら見出しえるかもしれないというのに、その選択肢と可能性を現実無視かつ時代錯誤な固定観念から闇に葬り去ろうとしているわけです。これこそ「非科学的」な醜態を晒している以外の何だというのでしょうか。
全く、昭和初期の日本陸軍や二十一世紀の日本人などよりもはるかに、泉田準一郎の存在そのものが「どうやらずっと非科学的らしい」と評さざるをえないところなのですけどね(爆)。
前巻に引き続き、薬師寺シリーズ8巻「水妖日にご用心」も1巻2考察で進行致します。
続きはまた次回。