はい! 質問です。
なぜわざわざ批判するために本を買うのですか? 内容を知るためには、その本を読まなければいけない。それは当然ですが、どうにも「そのためだけに本を買う」という行為は、私には疑問なのです。そんなに嫌いなら読まなければいいと思うのですが。
後、このHPの目的が理解しづらいです。田中氏個人を理屈づけて馬鹿にするサイトですか? 確かに田中氏の本には偏った思想が(大量に)含まれていますが、それを丸々信じる読者が馬鹿なのです。田中氏に何を求めるのですか?
やまださんは書きました
>後、このHPの目的が理解しづらいです。田中氏個人を理屈づけて馬鹿にするサイトですか? 確かに田中氏の本には偏った思想が(大量に)含まれていますが、それを丸々信じる読者が馬鹿なのです。田中氏に何を求めるのですか?
私は「田中芳樹の本に(大量に)含まれる偏った思想を、丸々信じる読者」に対する責任を求めたいです。
やまださんは書きました
> はい! 質問です。
> なぜわざわざ批判するために本を買うのですか? 内容を知るためには、その本を読まなければいけない。それは当然ですが、どうにも「そのためだけに本を買う」という行為は、私には疑問なのです。そんなに嫌いなら読まなければいいと思うのですが。
「批判するために本を買う」のが『「そのためだけに本を買う」という行為』ではないからです。ついでに、逆を言えば、読まずに批判する方がよっぽどけしからんと思います。
ただ、おっしゃっていることは、ごもっともで、全く常識的な行動のひとつだと思います。田中芳樹がこのような有様である以上、買わないのが智慧であるとも言えるでしょう。現に、私やここの常連の方の反応は、「何故創竜伝や薬師寺シリーズがあんなに売れているのか」ですから。
> 後、このHPの目的が理解しづらいです。田中氏個人を理屈づけて馬鹿にするサイトですか? 確かに田中氏の本には偏った思想が(大量に)含まれていますが、それを丸々信じる読者が馬鹿なのです。田中氏に何を求めるのですか?
批判とバカにすることは全く違うと私は考えています。
それはともかく、「丸々信じる読者」関連の問題ももちろんありますが、さらなる問題は、小説上必然性のない「偏った思想が(大量に)含まれて」いることによって、肝心の小説・物語に悪影響を与え、破綻させていることです。また、同時に、そのせいで評論・思想部分が無責任状態になっているということもあります。
私は別に田中芳樹に特別を要求しているわけではありません。
作家として、必要最低限の事は守ってくれと言いたいだけです。
本ページ管理人さんは書きました
> 批判とバカにすることは全く違うと私は考えています。
私もそう思います。ただ中傷としか思えない意見が随所にあるような気がします。せっかくのHPがその事によって、管理人さんの考えを潰しているのではないでしょうか。非常にもったいなく思います。
「小説上必然性のない~無責任状態になっている」というのは、半分同感です。田中氏の日本軍の描写は、まさしく氏の考えの垂れ流しであり、小説という形式上反論の余地がありません。しかしその事によって四兄弟の思想、物語の中の位置付けというものが明確になっているのではないでしょうか。そうして出来上がったキャラクターに対し、好意なり反感なり様々でしょうが。その意味では、悪影響のみ、とはいえないと思うのです。
破綻に関しては、ソ連やらの時事風刺はどうしようもないのでは。いまさら時代設定を一巻当初に戻すわけにはいかないし、かといって書き直されても納得がいかない。それにそこに時間をかけて更に遅筆が進む、となれば馬鹿らしい限りです。そこらへんは責められてもいいところですね。あと個人的に私は火浦功氏が好きです。だから作家のいいかげんさはなれているので、田中氏の執筆態度は気になりません。作家というのは出来上がった小説のみで評価されるもので、別にロリコンだろうが社会適応者だろうが、たとえ人殺しでもいいと思うのです。創竜伝その他の作品でも、内容のみの批判はしてしかるべしですが、作者個人に対する批判は、悪口でしかなり得ない。私の思う、読者の礼儀です(早く出す、完結させる、よりよい作品を創るなどは作者の礼儀です)。
モトラさんは書きました
> 私は「田中芳樹の本に(大量に)含まれる偏った思想を、丸々信じる読者」に対する責任を求めたいです。
もとらさんは読者にどのような責任を求めるというのですか? 個人の本の読み方は影響される事はあっても、他人に強制されるものではありません。私は「丸々信じる読者が馬鹿」といいました。たとえば「信じる読者」に対しこの様な意見もある、と提示する事は可能ですが(たとえばこのHPのように)、それを信じさせる事は結局田中信者をシフトさせるだけです。形が変わるだけで同じことなのでは? 彼らは責任をすでにとっています。それは「丸々信じ込む」ことによって、他人の考え方を聞く事ができない。すなわち考え方の多様性を知らず、多角的な視野を持つ事ができないことです。その一つだけでも充分ではありませんか?
「読者」ではなく、「田中芳樹」に対してです。
「丸々信じる読者」に対して説教垂れろとも、謝れとも思いませんが、(小林よしのりや富野由悠季のように)最低限「自らの読者への影響力に、自覚的であって欲しい」と願っています。
モトラさんは書きました
> 「読者」ではなく、「田中芳樹」に対してです。
> 「丸々信じる読者」に対して説教垂れろとも、謝れとも思いませんが、(小林よしのりや富野由悠季のように)最低限「自らの読者への影響力に、自覚的であって欲しい」と願っています。
なるほど、確かにそのとおりですね。では私の読者責任論は的外れだったわけですか。失礼に思われたのならあやまります。
優馬です。
今月は日本に「一時帰国」しておりまして、ネット環境から一時的に縁遠くなっておりました。物理的に近づいてもネット的には遠ざかるというフシギな経験でした。
さて、「やまだ」さんが「ばちがいかな?」とおっしゃりながら、疑問を呈しておられた本サイトの性格についてです。
おそらく私や「やまだ」さんを含めてだと思うのですが、ある特定の人々にとって、本サイトはとても魅力的です。過去ログをむさぼるように読んでしまうというような経験をさせてくれるサイトというものは、そうはあるものではありません。本サイトは少なからぬ人間を惹きつける力があります。
その魅力について私が本質的な部分と考えるのは、「自分の中でモヤモヤしていた疑問に対して、考え方のスタンスを与えてくれること」ということです。
つまり、多くの(もと)田中芳樹ファンにとって
「銀英伝大好き!」「アルスラーンも好き!」
「でもなんか創竜伝ってヘンだな。」
「なんか読んでいて不愉快になるぞ」(ここで本を買わなくなる者多し)
★「田中芳樹を撃つ!」との出会い。「そうか、そういうことか!」
・・・というような経過が、ここのサイトに集っておられる方々には、多かれ少なかれ、あるのではないでしょうか。
いわば「田中芳樹に裏切られたトラウマ」を共有する人々の「癒し」の場ではないかと(爆)。・・・すみません、あくまでも私の場合はそうだというだけで、みんながみんな、そのような「トラウマ持ち」ではないとは思いますが・・・。
私の好みとしては、「裏切られた元恋人」に対しては、理詰めで知的に苛めてあげたいですね。それも、できれば「正道」に立ち返っていただきたいという気持ちがどこかにあるもので、つまりまだまだ惚れている部分がどうしようもなくあるもので、我ながら「しょーがねーなー」と思うのですが、建設的な「忠告」をしてあげたい。あんまり露骨な「悪口」は不愉快に感じてしまいます。当てこすりや皮肉は、度を超さない限り可なんですが。
帰国中にアルスラーンの10巻「妖雲群行」を買いました。やっぱり、面白いです。ストーリーが薄いとか、キャラ造形が類型的とか、いろいろ批判はできるとは思いますが、久々の「田中芳樹節」を堪能いたしました。(結局、まだまだ「ファンの尻尾」を引きずっている私です。)
私は田中芳樹はレトリック(修辞)の作家だと思います。
「王朝は民衆の頭上を流れ去る川にすぎぬ。だが、どうせなら濁流よりは清流がよい。」(同書43頁)
というような「きいたふうな」気障なレトリックを面白いと思うかどうかで田中芳樹ファンになるかどうかが決まるような気がします。架空歴史物語の中での疑似名言集。どこかで聞いたような、でもちょっと新鮮な名言を、格好いいキャラに吐かせるという手法は、わかっていても魅力的です。そう、田中芳樹の架空歴史ものは、我々が歴史を読むときの「楽しみ」の部分だけを取り出してきて凝縮したような趣きがあります。そういう「架空歴史譚」という新規ジャンルを創設し、新しいマーケットを拓いたという点については、田中芳樹は日本の娯楽小説界において空前にして絶後の業績を上げたといえるのではないでしょうか。
架空世界であれば、自分に都合良く話を展開できるし、キャラの「薄さ」もあんまり気にならないのですが、これが我々の生きる「現代」となるとそうもいきません。
「創竜伝」の失敗は、「架空歴史譚」の手法を無自覚に現代に応用しようとしたことでしょう。生きている現代史は、一作家に都合良くは展開してくれませんし、作家よりも詳しい人が多くいて、疑似名言が「世迷い言」にしかならないという悲惨を招来しました。
なお「架空歴史譚」は、「架空戦記」とは抜本的に異なります。後者が基本的には戦争の勝ち負けのレベルの違いであるのに対して、前者は世界設定全体から作家の創作になるものです。
SFとの違いはもう少し微妙ですが、「異質なものとの出会う驚き」を本質とするSFと異なり、「架空歴史譚」の物語は我々が慣れ親しんだ人類の感性に立脚しています。「架空歴史譚」にはエキゾチズムはあっても、センス・オブ・ワンダーはない、といえるのではないでしょうか。