はじめまして。風狂と言うものです。
田中芳樹に疑問を感じている人は、やはりいるのだなぁと確認でき、
うれしいです。
管理人さんには、これからもがんばってほしいと思っております。
ところで、ホントにくだらないことですが創竜伝について一言。
竜堂兄弟よ。君達の父親とは、竜堂司の息子(名前不明、没年不明、 本当の息子か婿養子なのかも不明、作中に出てきたのは一回のみ、しかも
台詞なし(笑))ではなかったか?
全くの赤の他人を「とーちゃん」呼ばわりして、文部省推薦を勝ち取ろうとは言語道断!恥を知れい!
ほんっとすいません。くだらんことです。
田中芳樹に限らないんですが、自らが作り出した作中の人物に、
自分のことを「とーちゃん」呼ばせることに対して、昔っから嫌悪感
持ってるものですから。
みなさんは、どう思っていらっしゃるでしょうか?
よろしければ、お聞かせください。
> はじめまして。風狂と言うものです。
はじめまして、風狂さん(^-^)
> 竜堂兄弟よ。君達の父親とは、竜堂司の息子(名前不明、没年不明、 本当の息子か婿養子なのかも不明、作中に出てきたのは一回のみ、しかも
> 台詞なし(笑))ではなかったか?
> 全くの赤の他人を「とーちゃん」呼ばわりして、文部省推薦を勝ち取ろうとは言語道断!恥を知れい!
>
> ほんっとすいません。くだらんことです。
> 田中芳樹に限らないんですが、自らが作り出した作中の人物に、
> 自分のことを「とーちゃん」呼ばせることに対して、昔っから嫌悪感
> 持ってるものですから。
> みなさんは、どう思っていらっしゃるでしょうか?
> よろしければ、お聞かせください。
では、「かーちゃん」と呼ばせるのはどうでしょうか?(笑)
ごめんなさい、↑は冗談ですが(^-^;)、「とーちゃん」と作中人物のかけ合いはあくまで座談会だけの“ファンサービス”を越えるものではありませんから、わたしは別に問題ないと思います。
人によって好き嫌いはあると思いますが、何の根拠もなく「自分が嫌いだから」とか「自分とは違う思想・認識だから」という理由だけで批判を始めると、中傷(単なる悪口)に墜ちてしまう危険があります。それは、この掲示板の趣旨に合致するものではないと思われます。
むしろ、作中で「ナルサスの絵・田中芳樹の遅筆云々~」などと悪ノリを過ぎて場違いなことを登場人物に語らせる場面などを、「作家としてのモラル」を問う批判として行えばいいんじゃないんでしょうか?
創竜伝の社会評論の醜さは、まさに作者の「自分とは違う思想・認識だから」という思想によって、相対的な視点を欠如したまま断行されている点に根元があると思います。
風狂さん、「批判」という行為をする人は、常に自分たちの襟を正していないと、いつ自分が第二の田中芳樹氏になるかわかりません。「中傷」に陥らず、根拠と説得力を持った「批判」をお互い心がけたいものですね(^-^)。
P.S.わたしはあとがきの座談会、けっこう好きです。個人的な意見ですが、あとがきのない小説って何か味気ない感じがするので、座談会自体は「一粒で二度おいしい」んじゃないでしょうか?(あぁ、作り手の思惑にどっぷりはまっちゃってますね、わたし…(^-^;;)
恵さん、レスありがとうございます。
ですが、ちょっと誤解をさせてしまったようですね。
私は、「作中の人物に自分のことを『とーちゃん』と呼ばせること」、それ自体についての感想をお聞きしたかったのであって、田中芳樹と創竜伝は例として出させてもらっただけなんです。これをもって、彼の人とその作品を批判をする気は全くありません。
やはり、書き方がまずかったのでしょうか。申し訳ないです(反省)。
さて。皆さんにお聞きして、自分がこの表現について嫌いな理由を言わないのもなんですから、少々長くなりますが述べさせてもらいます。最後までお付き合いしていただければ幸いです。
私はこの表現を嫌いだと言いましたが、ある種の手続きを踏んだ上でのこと
でしたら、実はそれほどでもないんです。
創竜伝を例にさせてもらいますが、例えばあとがきを「創竜伝楽屋裏始末期」みたいな形をとって、役者達の雑談会のようなものにしてもらったなら、役者達に何を言わせようと、自分としては全く問題がないんです。
それならば何故いいのかといいますと、このような設定を持ってくることに
よって、本編の設定を全てご破算にすることができるからです。そうすれば、
例えば始役の人が、作者を『とーちゃん』と呼ぼうと何と呼ぼうと、全て許容
できます。勝手ですけど。
本編の人間関係その他諸々の設定全てがなくなってるという、約束事が
できるんですから。
ですが、創竜伝の座談会はそうではありません。竜堂兄弟は本編の設定のまま、兄弟のままで会話を進めています。別にそれでもいいんです。だけどそれなら、その設定を崩さずに話を進行してさせて欲しいんです。
だけど作者を『とーちゃん』と言わせた日にゃ、しょうもないと自覚しつつも言いたくなるんです。
「おまえらのとうちゃんは誰なんだ~!」って(笑)。
以上、単なる個人的な好みの話でした。ここまでお付き合いいただいた方、
ありがとうございます。
「あんたの書いていることは、掲示板の趣旨と異なる」と思っている方。たまにはこんな馬鹿もくることがあるのだと、ご容赦ください。
> 恵さん、レスありがとうございます。
こちらこそ、レスありがとうございます。
> ですが、ちょっと誤解をさせてしまったようですね。
> 私は、「作中の人物に自分のことを『とーちゃん』と呼ばせること」、それ自体についての感想をお聞きしたかったのであって、田中芳樹と創竜伝は例として出させてもらっただけなんです。これをもって、彼の人とその作品を批判をする気は全くありません。
> やはり、書き方がまずかったのでしょうか。申し訳ないです(反省)。
書き込んだ後、自分でも感想を越えてちょっと飛躍して言い過ぎた感がありましたので、こちらこそ申し訳ありませんでしたm(-.-)m。(わたしも反省してます)
> 「あんたの書いていることは、掲示板の趣旨と異なる」と思っている方。たまにはこんな馬鹿もくることがあるのだと、ご容赦ください。
いえいえ、そんなことないですよ(^-^)。いろんな意見・主張があるのもここに限らずネット掲示板のいいところです。全員が同じ思想で、同じことばかり書いてるというのも、わたしは気持ち悪いと思いますから。
ただですね、掲示板の趣旨とは「中傷に陥らない、論理的・建設的な田中氏批判を目指す」ことなんです。
主観的な「好き嫌い」では、「論理的な批判」はできませんよね?とわたしは言いたかったんです、風狂さん。
ぜひ、またいろんな意見をお聞かせ下さいね♪
ではでは☆
書き込みをやってるうちに、ふと思ったんですが、
田中芳樹の作品において、父親という存在が肯定的に
扱われたことは(一部例外を除き)、あまりないですね。
大抵が、侮蔑、否定、恐怖、無視、打倒の対象で、
尊敬と超克の対象としてえががれたことは、一度と
してないのでは?
彼の私的な事については、自分は何も知りませんが、
昔、父親と何かあったんでしょうか?
横レス失礼します。
> 書き込みをやってるうちに、ふと思ったんですが、
> 田中芳樹の作品において、父親という存在が肯定的に
> 扱われたことは(一部例外を除き)、あまりないですね。
> 大抵が、侮蔑、否定、恐怖、無視、打倒の対象で、
> 尊敬と超克の対象としてえががれたことは、一度と
> してないのでは?
>
> 彼の私的な事については、自分は何も知りませんが、
> 昔、父親と何かあったんでしょうか?
私はどちらかと言うと母性の方が軽く扱われているような印象を受けます。
父親に関しては、ヤン・タイロン、ジェラード・アッテンボロー等の、比較的例外とみなすことの出来る人物が存在しますよね。それに対し、幼児期の人格形成に少なからず影響する母親的存在は、作品中に触れられていることはまずありません。(単に私が失念しているだけかもしれませんが)
まあ、このあたりは田中氏の女性観が影響してくるのでしょうが、少なくとも田中氏が父親を意図的に描写から外しているようなことは無いと思います。むしろ、竜堂司やビュコックなどの賢者の役割を持つ老人が数多く登場しているところを見ると、田中氏の嗜好上、両親というファクターはあまり眼中に入らない性格のものではないでしょうか?
それと、田中氏のプライベートから関連性を見出すのは、あまり適切でないような気がするんですがどうでしょう?
こんにちわ、風狂さん。
> 書き込みをやってるうちに、ふと思ったんですが、
> 田中芳樹の作品において、父親という存在が肯定的に
> 扱われたことは(一部例外を除き)、あまりないですね。
> 大抵が、侮蔑、否定、恐怖、無視、打倒の対象で、
> 尊敬と超克の対象としてえががれたことは、一度と
> してないのでは?
ちょっと文章が矛盾していませんか?「(一部例外を除き)」と注意書きされているのに、「一度としてないのでは?」と受けるのはおかしいと思います。(「一部例外」とはいえ、存在しているのならね)
文中からどちらかを削除しないと変ですよ。
あと、日傘さんが例に挙げてくださいましたが、ヤン・タイロン、ジェーラート・アッテンボローなど、例外で片づけるには惜しい人物がちゃんと存在しています。主人公キャラとは言えないかもしれませんが、マヴァール年代記のリドワーン卿(名前、合ってますよね?ドキドキ(^-^;)、銀英伝のミッターマイヤーも父親ですが、「侮蔑、否定、恐怖、無視、打倒の対象」ではありません。No.918のレスで、田中氏の否定的イメージばかり先行させて批判すると、批判自体がご自分に返ってくると、あなたに忠告させていただいたつもりだったのですけど(^-^;)。
>
> 彼の私的な事については、自分は何も知りませんが、
> 昔、父親と何かあったんでしょうか?
ここも日傘さんのおっしゃる通り、適切な表現ではないと思います。
風狂さんご自身も、具体的な根拠もない憶測で、
「昔、風狂さんは父親と何かあったんでしょうか?」
などと、プライベートをあげつらわれると気分を害されるでしょう?相手を思いやる想像力を、わたしは田中氏から学んだつもりでいます。田中氏自身も想像力の欠如が著しい昨今ですが、自戒の気持ちを持って批判に取り組みたいものですね、お互い。
(もう、わたしはこれ以上何度も同じことを言いませんから。後はご自分の発言を顧みて、思うことが何もないなら、あなたとは共に語り合えるお方ではないと判断させていただきます。)
風狂さんの投稿を見てちょっと思ったことがあります。
以前、田中芳樹氏の描く女性キャラクターはひどいと言う話題が出てたことがありました。(ザ・ベストにもまとめられております。)
まあ、「ひどい」という一言にまとめて一連の話題を形容してるのは、
あくまで私の便宜上ですので必ずしも的確でないことはお詫びいたします。
それで本題なのですが、
確かに田中芳樹氏の描くヒロイン・クラスの女性(といってもこれも必ずしも明確な境界線があるわけではないのですが)は、
いわゆる「良妻賢母」型とか「優等生」型が多いようです。
しかし、ヒロイン・クラス以外では結構いろんな女性キャラもいるのではないかと思います。
例えば、
行方不明のわが子にしか興味のない、魔性の女ではなくただの母親でしかない「タハミーネ」さんとか、
悪女になりきれない「ドミニク」さんとか、
仇の男に惚れてしまう、ある意味純情な「エルフリーデ」嬢とか、
どう見てもイドリスより上手で、権力をつかもうとする「テオドーラ」さんとか。
以上思うままに上げてみましたが、その他にもいるかもしれません。
まあ、いわゆるファンがつくような女性キャラはあまり描けないのかもしれませんが、決してワンパターンではなく結構いろんな女性キャラがいると思うのですが、どうでしょうか。
よく検証せず印象で書いてしまったところがあるのでやや心苦しいのですが・・・
日傘さん。ありがとうございます。
> 私はどちらかと言うと母性の方が軽く扱われているような印象を受けます。
> 父親に関しては、ヤン・タイロン、ジェラード・アッテンボロー等の、比較的例外とみなすことの出来る人物が存在しますよね。それに対し、幼児期の人格形成に少なからず影響する母親的存在は、作品中に触れられていることはまずありません。(単に私が失念しているだけかもしれませんが)
>
> まあ、このあたりは田中氏の女性観が影響してくるのでしょうが、少なくとも田中氏が父親を意図的に描写から外しているようなことは無いと思います。むしろ、竜堂司やビュコックなどの賢者の役割を持つ老人が数多く登場しているところを見ると、田中氏の嗜好上、両親というファクターはあまり眼中に入らない性格のものではないでしょうか?
>
田中氏の作品において、母親に対するものは結構肯定的なものが多いと
思うんですよ。竜堂始には、母親に対する思慕の念を度々語らせてますし、
ルパート・ケッセルリンクの父親に対する憎悪は、ルビンスキーが社会的に
全く無視した母親への、深い愛情の裏返しでしょうから。
幼児期の人格形成に多大な影響を与えるのは、父親と母親です。
そして、子供の心に重大なトラウマを植え付けるのは、父親だけでなく
母親であることもあります。ですが、田中氏の作品においては、そういう
役割を持つのは父親ばっかりです。この差はなんだろうかというのが、
書き込みしたときの疑問の詳しい説明なんですが、どうでしょう?
それと、一つ屋根の下で一緒に暮らしていたのにも関わらず、祖父には
多大なる影響を受けたのに、父親からは全くなしというのは、まずありえ
ないでしょう。なのに創竜伝において、祖父と母親については結構書かれて
いますが、父親に関しての描写はほとんどなしというのは、自分としては
不自然に感じました。まあ、竜堂司に比重を置きすぎて眼中に入らなかった
と、言われてしまえばそれまでですけど。
> それと、田中氏のプライベートから関連性を見出すのは、あまり適切でないような気がするんですがどうでしょう?
いや、これについてはすいません。謝ります。
自分としては、父親像、母親像の原点は、自分の父親と母親だと思ってたんで、ただそれだけで、よく考えずに書き込んでしまったんですが、誤解受けるだろうなあと、あとから後悔しました。
私は、「田中芳樹のプライベートを暴け」なんて煽る気は全くないですし、
田中氏の私事をもって、彼の作品を否定する気もありませんので、その点は
ご理解願います。
恵さん。ありがとうございます。
> ちょっと文章が矛盾していませんか?「(一部例外を除き)」と注意書きされているのに、「一度としてないのでは?」と受けるのはおかしいと思います。(「一部例外」とはいえ、存在しているのならね)
> 文中からどちらかを削除しないと変ですよ。
あ、いや、自分としては矛盾してないと思うんですけど。
確かにヤン・タイロンなど、少数ながら父親として肯定的に扱っている
人物もいますが、しかしそのなかでも、超克の対象となった父親はいない
ですよ。
少々(というかかなり)舌足らずな文章だったようで、申し訳ないです。
それと自分にとって、尊敬と超克は同一線上のものだったので、
「尊敬されてる父親もいるのに、全くいないとは何事だ」と思わせて
しまったところもあるようですね。すいません。
> あと、日傘さんが例に挙げてくださいましたが、ヤン・タイロン、ジェーラート・アッテンボローなど、例外で片づけるには惜しい人物がちゃんと存在しています。主人公キャラとは言えないかもしれませんが、マヴァール年代記のリドワーン卿(名前、合ってますよね?ドキドキ(^-^;)、銀英伝のミッターマイヤーも父親ですが、「侮蔑、否定、恐怖、無視、打倒の対象」ではありません。
ヤン・タイロンやアレックス・キャゼルヌについてはともかく、リドワーン
やミッターマイヤーについては対象外なのではないかというのが、正直なところですね。何故なら「~の対象」と書いた通り、自分は我々読者からの視点
からではなく、父親に対する子供からの視点ということで述べさせてもらってますので。
つまり、対象外とした人物は、確かに魅力的な人物として描かれていますが、リドワーンの息子もミッターマイヤーの息子達も、父親にどういう感情
を寄せているか、といった描写はないので判断の仕様がないです。個人と
しては好人物ではあるけれど、だからといってよい父親であるとは限りません。学校の教師としては、たくさんの生徒に慕われたよい先生であっても、
家庭では、息子の素行不良を直すことのできない父親、といった例もありますのから。
個人として示す父性と、現実の父親としてのものは、同一線上にあるとは
限らないとおもうのですが、どうでしょう。
>No.918のレスで、田中氏の否定的イメージばかり先行させて批判すると、批判自体がご自分に返ってくると、あなたに忠告させていただいたつもりだったのですけど(^-^;)。
この点については、まだ誤解されたままのようですね。自分は
「作家達がこのような表現を使うのは嫌い」と言った事はありますが、
「このような表現を使う作家達は嫌い」と言った覚えはないですよ。
私は、田中芳樹に対して否定的なイメージなど持ってはいませんよ。
私的な感情と批判を混同する愚かさは、承知しているつもりです。
> > 彼の私的な事については、自分は何も知りませんが、
> > 昔、父親と何かあったんでしょうか?
>
> ここも日傘さんのおっしゃる通り、適切な表現ではないと思います。
この点に関しては、謝ります。
ですが、日傘さんへの返信でも書いた通り、田中氏のプライベートな面を
あげつらう気も、暴露させようと煽る気も、自分にはありません。
もう一度確認させていただきますが、自分は田中芳樹を否定する気は、
ありません(批判する気はありますが(笑))。
悪意を持って書いたものではないということを、ご承知おきください。
日傘さんも恵さんも、ジェラード・アッテンボローの父親と言う面に
ついて肯定的なようですね。
ですが自分は、ジェラード個人に対する印象は、確かに魅力的な好人物と
して写るんですが、父親としてはかなりとんでもない様に見えますね。
いかに信頼できる祖母がいるからといって、何年もいかなる便りを一つも よこさないし、何の知らせもないまま、勝手に結婚してるし、娘の命の危機
を感じる事がなかったら、この人死ぬまで人生の全てを中国に捧げて、帰って
くる事なかったんじゃないかと思いますね(笑)。
それに、ジェラードはヤン・タイロンのように、父親のエゴ(親族に取られるくらいなら、いかなる所へも一緒に連れて行く)を爆発させた事もないし。
どうもジェラードの娘に対する視点は、「独立した一個人」ではあっても、「娘」ではないように見受けられるんですが、どうでしょうか?
> 日傘さんも恵さんも、ジェラード・アッテンボローの父親と言う面に
> ついて肯定的なようですね。
> ですが自分は、ジェラード個人に対する印象は、確かに魅力的な好人物と
> して写るんですが、父親としてはかなりとんでもない様に見えますね。
> いかに信頼できる祖母がいるからといって、何年もいかなる便りを一つも よこさないし、何の知らせもないまま、勝手に結婚してるし、娘の命の危機
> を感じる事がなかったら、この人死ぬまで人生の全てを中国に捧げて、帰って
> くる事なかったんじゃないかと思いますね(笑)。
> それに、ジェラードはヤン・タイロンのように、父親のエゴ(親族に取られるくらいなら、いかなる所へも一緒に連れて行く)を爆発させた事もないし。
共和学園を例に出すまでも無く、基本的に田中氏の推奨する教育方針は放任主義であることは明白です。曰く、「他人に迷惑をかけずに自分で責任をとれ」と。
確かに破天荒なキャラであることは相違ないのですが、根本的な部分ではそれほど田中世界の父親像から逸脱しているとは思えませんよ。それを言ってしまえば、形こそは違えどもヤン・ウェンリ―だって世間から見れば、相当に非常識な父親です。ああいう非常識さは田中作品では概ね善として扱われていることですし、第一娘の命の危機を感じて戻ってきたこと自体が、十分父親としての愛情が存在している何よりの証拠ではないでしょうか?
私は風狂さんが仰られる父性の欠如よりも、むしろ自信に裏打ちされた包容力の全面的な押し出しを感じました。
>
> どうもジェラードの娘に対する視点は、「独立した一個人」ではあっても、「娘」ではないように見受けられるんですが、どうでしょうか?
「独立した一個人たれ」とは思っているでしょうが、「娘にあらじ」とは思ってないでしょう。
日傘さん、ありがとうございます。
> 共和学園を例に出すまでも無く、基本的に田中氏の推奨する教育方針は放任主義であることは明白です。曰く、「他人に迷惑をかけずに自分で責任をとれ」と。
> 確かに破天荒なキャラであることは相違ないのですが、根本的な部分ではそれほど田中世界の父親像から逸脱しているとは思えませんよ。それを言ってしまえば、形こそは違えどもヤン・ウェンリ―だって世間から見れば、相当に非常識な父親です。ああいう非常識さは田中作品では概ね善として扱われていることですし、
ヤン・ウェンエリーは、彼個人としては確かに非常識な人物といえるかも
しれませんが(「矛盾のひと」ですからね(笑))、父親としての彼は、かなりまとも(表現悪いのはご容赦)に思えますね。
他人の息子は戦場で戦わせているのに、ユリアンにはそこにいって欲しくないという「父親のエゴ」、ユリアンの将来の希望と、自分の希望の違いに悩む「父親としての葛藤」、ハイネセン脱出のときに、ユリアンの帰るところをなくしてしまったことに対して負い目を感じる「父親としての気負い」など、
かなり父親としていい感じに書かれています。
父親としてのヤンは、彼の父ヤン・タイロンと同じく自分としては例外に
はいる人物ですね。
それと、こうした父親としてのヤンを、否定的に扱っていないところを見ると、「田中芳樹の理想の教育方針は放任主義」とは一概には言えないんじゃ
ないかとおもいますけど。
それともうひとつ、日傘さんは、個人としての「人」と、父親としての「人」は同じものだと思ってません?自分は必ずしもそうだとは限らないと
思っているんですけど。田中作品で例をだすと、ハイドリッヒ・ラングなんか
どうでしょう。外においては悪党、家庭においてはやさしい父という、
公人としては「侮蔑、恐怖、嫌悪、否定」の対象ですけど、父親としてはそうではないという、これまた自分としては例外にはいる人物なんですけど。
>第一娘の命の危機を感じて戻ってきたこと自体が、十分父親としての愛情が存在している何よりの証拠ではないでしょうか?
> 私は風狂さんが仰られる父性の欠如よりも、むしろ自信に裏打ちされた包容力の全面的な押し出しを感じました。
これに関しては、突っ込みがあると思ってました。
確かに、帰ってきたという行為を見れば、父親としての愛情が十分存在
していると思えなくもないんですが、自分としては少々ずれている様な気が
するんです。
ジェラードは義侠心あふれる人物として描かれてますよね。そしてかれは、
「知人の命の危機」でも「知人の子供の命の危機」でも、自分が必要と思えば、同じようにすっ飛んで駆けつけるでしょう。それと同じようなレベルに
感じられるんですよ。
どうしてかというと、彼には「お前は俺の娘だ、だから俺はここにいるんだ」という、父親としての、言葉では説明できない気負いというものが、彼には感じられないんです。父親として、ヤンには感じえたものが、彼には感じられないのは寂しい気がします。
自分としては、ジェラードという人物は、「理性という面では、父親である事を認識していても、心情という面ではまだ父親といものを確立していない人物」のように見えますね。娘に相談なく結婚して、しかもそれを知らせもしないというのは、その最たる例だと思います。
まあ、読み切りの作品だし、そこまでの心理描写をするには紙面が足りなかった、といわれてしまえばそれまでですけど。
> 「独立した一個人たれ」とは思っているでしょうが、「娘にあらじ」とは思ってないでしょう。
自分は、「ジェラードが娘をどう扱おうとしているのか」、という事を言ったのであって、「娘をどう思っているのか」と言った覚えはありませんよ(視点という言葉をつかったのはそのためです)。
「娘にあらじ」とは、自分も、思っていないとおもいますよ。
日傘さん、わざと趣旨かえてません?(誤解でしたらすいません)
> 恵さん。ありがとうございます。
レス遅れてごめんなさい、風狂さん。
> ヤン・タイロンやアレックス・キャゼルヌについてはともかく、リドワーン
> やミッターマイヤーについては対象外なのではないかというのが、正直なところですね。何故なら「~の対象」と書いた通り、自分は我々読者からの視点
> からではなく、父親に対する子供からの視点ということで述べさせてもらってますので。
> つまり、対象外とした人物は、確かに魅力的な人物として描かれていますが、リドワーンの息子もミッターマイヤーの息子達も、父親にどういう感情
> を寄せているか、といった描写はないので判断の仕様がないです。個人と
> しては好人物ではあるけれど、だからといってよい父親であるとは限りません。学校の教師としては、たくさんの生徒に慕われたよい先生であっても、
> 家庭では、息子の素行不良を直すことのできない父親、といった例もありますのから。
> 個人として示す父性と、現実の父親としてのものは、同一線上にあるとは
> 限らないとおもうのですが、どうでしょう。
そうですね。リドワーン、ミッターマイヤーを例に出したのは、確かに不適切でした。書き込んですぐに、「父親」というワードだけで挙げてしまったことに自分でも気づいていたので、ここは訂正させていただきます。
>
> >No.918のレスで、田中氏の否定的イメージばかり先行させて批判すると、批判自体がご自分に返ってくると、あなたに忠告させていただいたつもりだったのですけど(^-^;)。
>
> この点については、まだ誤解されたままのようですね。自分は
> 「作家達がこのような表現を使うのは嫌い」と言った事はありますが、
> 「このような表現を使う作家達は嫌い」と言った覚えはないですよ。
> 私は、田中芳樹に対して否定的なイメージなど持ってはいませんよ。
> 私的な感情と批判を混同する愚かさは、承知しているつもりです。
わたしは誤解などしていません。あなたが田中氏を否定的なイメージで批判しているとわたしが指摘させてもらったのは、↓の
> 田中芳樹の作品において、父親という存在が肯定的に
> 扱われたことは(一部例外を除き)、あまりないですね。
> 大抵が、侮蔑、否定、恐怖、無視、打倒の対象で、
> 尊敬と超克の対象としてえががれたことは、一度と
> してないのでは?
という発言からです。この中のどこに、各作品等からの具体的な引用と結論にいたるまでの考察があるというのですか?
堅苦しいとお思いになるかもしれませんが、先に「これは個人的な感想ですが」という断りでもない限り、わたしは上記のような発言は批判文として解釈させてもらってます。(だって、ここはそういう趣旨のサイトですから)
どうも、ずっと会話がかみ合わないのですが、わたしは田中氏に対して批判的な発言を行うときは、自分なりにけっこう神経を使って引用や考察を加えているつもりです。でも、上記のあなたの発言は、あなた自身が心の中でどう思っていようとも、かなり漠然としたイメージだけで発言されたように見えてしまいます。(日傘さんが反論の具体例を挙げるまで、それもまったくされていませんでしたし)
> 私的な感情と批判を混同する愚かさは、承知しているつもりです。
わたしもまったく同感なんですけど。でも、ここまでわかっておられるのに、かみ合わないのは「批判」の意味の解釈がわたしとは違うのでしょうか?そろそろ言い疲れてきたのですが、具体的な引用も根拠もない文章は「批判」とは呼べないとわたしは思います。「批判」されるなら、田中作品の「どこがどのようにおかしいのか」を明確にされないと。
ですが、「いや、あれは単なる疑問で批判などではないんです」とおっしゃるなら、わたしも納得します。わたし自身が誤解していたということで。
> レス遅れてごめんなさい、風狂さん。
恵さん、ありがとうございます。
ホントに議論が噛み合ってなかったようですね。しかも原因は完全に私に有りですね(謝)。
どうも「批判」の意味の解釈ではなく、議論の組み立て方が違ったようす。 私の議論のやり方は、まず結論のみを言い、そこに至ったまでの考察や細かい事などは、質問や反論があってから述べるというやり方なんです。まあ、自分でも、誤解を受けやすいやり方ではあると思いますが、その場での議論でしたら、そうでもないんです。そのことについて話す気が相手にないならすぐに解るし、さっさと違う話に変えることができますしね(笑)。
しかし、掲示板での議論では、問題ありすぎのようですね。指摘されるまで気付きませんでした。申し訳ないです。
とりあえず、田中氏の作品における父親~ の話は、自分としてはまだ疑問
の段階です。明確な扱いの酷い例はあるけれど、何故そのような扱いになるのかという、明確な根拠はまだ解らないので、批判にも批評にもいけないといったところでしょうか。
その疑問が出てきた根拠と、明確な例の詳しい話は、またあとで述べたいと思います。時間も時間ですし(現在 1:00過ぎ)。
「またか」と思わずお付き合いいただければ幸いです。
最後に、お付き合い下さった恵さん、日傘さん、それと私の書き込みを読んでくださった皆さん、解りにくい文を書いてすいませんでした。
気遣いのない奴のうかつさと、笑って下されば幸いです。
どうも、風狂です。
前回のスレは、途中で趣旨変えてしまいましたし、お相手していただいた恵さんから、どうとでもとれるような書き方はやめて欲しい、との突っ込みも受けましたので、あらためてやり直させていただきたいと思います。
あきれずにお付き合いを、お願いします。
趣旨は、「何故、田中作品における父親という存在は、子供にとって否定的な対象になることが多いのか?」ということです。
自分がこの疑問を抱くようになったのは、創竜伝において父親に対する記述がまるでない事に、「竜堂兄弟、もしかして意図的に父親のことを無視してるのはないか」と思った事が発端です(まあ、勘ぐり過ぎといわれれば、それまでですが)。これが、「田中作品において、子供にとっての父親という存在は、大抵いい思いを抱かれていないのではないか」というものに変わるのに、あまり時間はかかりませんでした。
自分の記憶を検索しただけでも、ラインハルトとその父親(銀英伝)、ルパート・ケッセルリンクとアドリアン・ルビンスキー(銀英伝)、カルマーンとその父親(マヴァール年代記)、とかなり簡単に出てきます。
それに対して母親という存在は、概ね肯定的に扱われています。ロイエンタールの母親(銀英伝)ぐらいではないでしょうか。否定的に扱われたのは。
子供にとっての否定的な存在になりえる可能性は、父親と母親、同じくらいにありえる筈(というよりむしろ母親の方が多いのではないか?(偏見))なのに、そういう役回りは父親ばかり。田中作品における不自然な偏りは、明らかに思われます。
ですが、このような結論に達しても疑問はまだ消えません。
「何故、こういう偏りが現れるのか」
この疑問に対する判断材料が、自分には全くない為、全ては推論の域を出ません。
自分の推論ですが、可能性の問題としてなら考えられるものを三つほど。
①「父親は男がはじめて出会う敵」といった意識が強く作用してる
②彼にとっての父親像の原点、彼自身の父親の存在が影響を与えてる
③単に父親の方が書きやすかったから
①については、「敵であると同時に越えるべき対象でもある」といった意味合いもあるのに、超克の対象として描かれた父親というものは皆無なので、まずありえないと自分では考えてます。
②については、ありえない答えではないと思われるが、プライベートな問題なので田中氏自身が公表しない限り、推論の域を出ないといったところ
(彼のプライバシーを暴けと煽っているわけではありません。念のため)
③については、もっとも無難かつ一番可能性の高い答えであり、また、私にとっては推論の段階でも、悪夢以外のなにものでもない答え。
「あまりにも力が抜けすぎる(泣)!」
とりあえず、自分としては以上です。
言いたい事は、明確に伝わり得たと思うのですが、どうでしょうか?
長々と書き連ねてしまいましたが、ここまで読んで頂けた方々、ありがとうございました。
ご意見、お聞かせくだされば幸いです。
ここのwebpageのトップが会社のフィルタに引っかかって来れなくなったてんてんdwpです。
#でも掲示板のほうはフィルタ貼ってないし(笑)。
> 子供にとっての否定的な存在になりえる可能性は、父親と母親、同じくらいにありえる筈(というよりむしろ母親の方が多いのではないか?(偏見))なのに、そういう役回りは父親ばかり。田中作品における不自然な偏りは、明らかに思われます。
竜はどうだか知りませんが(笑)、ちょっと心理学をかじると、人間は基本的に男なら父親が女なら母親が敵となることがわかります。
それは男なら母親、女なら父親を基準とした三角関係になるからです。
よって、別に不自然ではなく、むしろ自然と考えたほうがいいでしょう。つまり、
> ①「父親は男がはじめて出会う敵」といった意識が強く作用してる
というのが一般的な人間の(幼児期の)心理になります。
> ①については、「敵であると同時に越えるべき対象でもある」といった意味合いもあるのに、超克の対象として描かれた父親というものは皆無なので、まずありえないと自分では考えてます。
に関しても解答があります。
この状態から大人になるにつれて二種類の方向に別れます。
一つ目は親を超えてしまった場合。
この場合はもはや親を相手にしなくなります。つまり気にもかけない。
二つ目は親に越えられない場合。
この場合は更に何種類かのパターンになりますが、基本的には親とは別の道を進むことで比較されないようにすることが多いです。いわゆる逃避です。
この場合、自我の崩壊を防ぐため親を馬鹿にするか逆に尊敬するかの両極端に別れることが多いようです。
田中作品における父親というのはちょうどこの二つ目に当てはまります。
なぜこの「親を越えられない場合」のパターンになるのかに関しては別途検討が必要でしょうが、男(いや竜まではわからんけど)の父親に対する態度としては、まったく問題がないと思います。
てんてん dance with penguin
> どうも、風狂です。
こんにちわ、風狂さん。
前回、「議論について」をやりとりさせていただいたご縁がありますので(^-^;)、今回は「田中作品における父親~」のご意見に対してレスさせていただきます。
> 前回のスレは、途中で趣旨変えてしまいましたし、お相手していただいた恵さんから、どうとでもとれるような書き方はやめて欲しい、との突っ込みも受けましたので、あらためてやり直させていただきたいと思います。
あの~、いい加減に自分でもしつこいとは思うんですが、「どうとでもとれるような書き方はやめて欲しい」という言い方は、わたしはしていませんけど。具体例も挙げずに「~だと思う」はここでの「批判」にはなりませんよ、と忠告したんです。それを「どうとでもとれるような書き方はやめて欲しい」と受け取るのはさすがに曲解だと思いますけど、どうでしょうか?
> 自分がこの疑問を抱くようになったのは、創竜伝において父親に対する記述がまるでない事に、「竜堂兄弟、もしかして意図的に父親のことを無視してるのはないか」と思った事が発端です(まあ、勘ぐり過ぎといわれれば、それまでですが)。これが、「田中作品において、子供にとっての父親という存在は、大抵いい思いを抱かれていないのではないか」というものに変わるのに、あまり時間はかかりませんでした。
わたしの場合、田中作品で描かれる「父親像」に違和感や疑問を持ったことはあまりないです。風狂さんは、創竜伝の竜堂兄弟の「父親不在」設定から最初に疑問を持たれたということですが、わたしにはそんなに違和感のある設定とは思えないんですけど…。
なぜなら、この設定こそ「現在の竜堂兄弟の個々の自我の確立」に最も深く関わっていると思われる部分だからです。始はみんなの親代わりを自認しているからこそ苦労性な性格なわけで、弟たちも兄であり「家長」という名の「父親」である始を慕っているからこそ、4兄弟の絶大な信頼関係があると思うんです。もしも本当の父親が健在で、彼らの祖父並みに影響力がある人物だったなら、それぞれの関係や性格も必然的に変わってくるでしょう。「父親不在」だからこそ、今の竜堂兄弟の性格があるんだと思います(ここでは、あえて彼らの性格の善し悪しを言うつもりはないですけどf(^-^;)。
風狂さん、上記の理由で今回のあなたの疑問、わたしは動機の部分からいま一つ理解しにくいというのが本音です。(疑問を持たれること自体は問題ないんですけど)竜堂兄弟の「父親不在」に疑問を持たれるなら、あなたはどういう設定にしたら適当だと思われますか?
仮にですね、風狂さんの「田中作品における子供が父親にいい思いを抱いていない疑惑」が事実だったとしても、それが原因で作品が面白くない、とはわたしは思いません。むしろ、田中氏は「自立した個性が活躍する物語」を魅力的に描く作家だと思っています。作品のテーマから単に「親離れ」や「父親越え」を描く必然性がなかっただけだとわたしは解釈していましたし、それを突き詰めていくと、最後はわたしたち「読み手側の好き嫌い」の問題に行き当たるだけなんじゃないでしょうか。
> 言いたい事は、明確に伝わり得たと思うのですが、どうでしょうか?
上でも言っていますが、わたしにはちょっとあなたの動機がわかりにくかったです。竜堂兄弟が父親を意図的に無視していたとしても、それは彼らの価値観の問題ですし、本編でも「とにかく印象の薄い人だった」というような記述があったと記憶しています(もしくは、母親の方?)。風狂さんが「父親不在」が変だと思われる根拠はなんでしょうか?まさか、純粋に「父親をないがしろにするなんてけしからん!」と思っておられるわけではないでしょう?
> 長々と書き連ねてしまいましたが、ここまで読んで頂けた方々、ありがとうございました。
いえいえ、ご苦労様でした。またご意見が返ってくるのは承知していますので(笑)、今後ともよろしくお願いします。
どうも、恵さん。
あきれずにお付き合いありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
> あの~、いい加減に自分でもしつこいとは思うんですが、「どうとでもとれるような書き方はやめて欲しい」という言い方は、わたしはしていませんけど。具体例も挙げずに「~だと思う」はここでの「批判」にはなりませんよ、と忠告したんです。それを「どうとでもとれるような書き方はやめて欲しい」と受け取るのはさすがに曲解だと思いますけど、どうでしょうか?
私は、恵さんの№951の書き込みにおける“上記のあなたの発言は、あなた自身が心の中でどう思っていようとも、かなり漠然としたイメージだけで発言されたように見えてしまいます”という言葉からそのように解釈してました。
曲解ではないと思ってますが、あなたが何に重きをおいて発言したかを理解していなかったと言う事で、お詫びします。
> わたしの場合、田中作品で描かれる「父親像」に違和感や疑問を持ったことはあまりないです。風狂さんは、創竜伝の竜堂兄弟の「父親不在」設定から最初に疑問を持たれたということですが、わたしにはそんなに違和感のある設定とは思えないんですけど…。
> なぜなら、この設定こそ「現在の竜堂兄弟の個々の自我の確立」に最も深く関わっていると思われる部分だからです。始はみんなの親代わりを自認しているからこそ苦労性な性格なわけで、弟たちも兄であり「家長」という名の「父親」である始を慕っているからこそ、4兄弟の絶大な信頼関係があると思うんです。もしも本当の父親が健在で、彼らの祖父並みに影響力がある人物だったなら、それぞれの関係や性格も必然的に変わってくるでしょう。「父親不在」だからこそ、今の竜堂兄弟の性格があるんだと思います(ここでは、あえて彼らの性格の善し悪しを言うつもりはないですけどf(^-^;)。
>
> 風狂さん、上記の理由で今回のあなたの疑問、わたしは動機の部分からいま一つ理解しにくいというのが本音です。(疑問を持たれること自体は問題ないんですけど)竜堂兄弟の「父親不在」に疑問を持たれるなら、あなたはどういう設定にしたら適当だと思われますか?
> 仮にですね、風狂さんの「田中作品における子供が父親にいい思いを抱いていない疑惑」が事実だったとしても、それが原因で作品が面白くない、とはわたしは思いません。むしろ、田中氏は「自立した個性が活躍する物語」を魅力的に描く作家だと思っています。作品のテーマから単に「親離れ」や「父親越え」を描く必然性がなかっただけだとわたしは解釈していましたし、それを突き詰めていくと、最後はわたしたち「読み手側の好き嫌い」の問題に行き当たるだけなんじゃないでしょうか。
>
>
> > 言いたい事は、明確に伝わり得たと思うのですが、どうでしょうか?
>
> 上でも言っていますが、わたしにはちょっとあなたの動機がわかりにくかったです。竜堂兄弟が父親を意図的に無視していたとしても、それは彼らの価値観の問題ですし、本編でも「とにかく印象の薄い人だった」というような記述があったと記憶しています(もしくは、母親の方?)。風狂さんが「父親不在」が変だと思われる根拠はなんでしょうか?まさか、純粋に「父親をないがしろにするなんてけしからん!」と思っておられるわけではないでしょう?
私としては、恵さんの問いたい事は「創竜伝において、何故あなたはそのような疑問をもったのか、私にはそのことについては設定上、全く問題ないよう見えるのに」ということだと解釈しましたが、動機という言葉が引っかかってます。
私のどの行動に対してのものでしょうか?
このようなスレを立てた動機なら、「自分の疑問が全くの的外れで大恥かいても、疑問は疑問だから晴らしておきたい」という思いからです。疑問そのものは、動機ではありません。
言葉のすれ違いが結構多く、誤解云々の言い合いが多いので、まずはこの点を明らかにしてから反論に入りたいと思っております。全く見当違いなことに反論するのは回避したいんで。
よろしくお願いします。
> いえいえ、ご苦労様でした。またご意見が返ってくるのは承知していますので(笑)、今後ともよろしくお願いします。
「律儀な奴」と思われたんでしょうか(笑)、それとも「話し相手のいない寂しい奴」と思われてしまったんでしょうか(大笑)
てんてんdwpさん、ありがとうございます。
これ以降もよろしくお願いします。
> 竜はどうだか知りませんが(笑)、ちょっと心理学をかじると、人間は基本的に男なら父親が女なら母親が敵となることがわかります。
> それは男なら母親、女なら父親を基準とした三角関係になるからです。
> よって、別に不自然ではなく、むしろ自然と考えたほうがいいでしょう。
心理学については全くの無知なものですので(泣)、外れているかも知れませんが、てんてんdwpさんが言われる事を自分なりに解釈してみると、現実として子供(男の場合)が母親を敵としてみたとしたら、それは母親という存在を敵として見たのではなく、その母親の中にある父親的なもの、つまり子供の精神上において母親が父親と化してしまった場合のみの現象である、ということでしょうか?
だとしたら、田中氏がそのような母親を書かない理由が、自分にはちょっと解りません。そのような母親なら、田中氏にとってむしろ書きやすい対象なのではないかなと思うのですが(男性的な女性という点で)。
やはり敵という存在なら、そのような母親より父親のほうが解りやすいということで、③の推論が正解となるのでしょうか。
> > ①については、「敵であると同時に越えるべき対象でもある」といった意味合いもあるのに、超克の対象として描かれた父親というものは皆無なので、まずありえないと自分では考えてます。
> に関しても解答があります。
> この状態から大人になるにつれて二種類の方向に別れます。
> 一つ目は親を超えてしまった場合。
> この場合はもはや親を相手にしなくなります。つまり気にもかけない。
> 二つ目は親に越えられない場合。
> この場合は更に何種類かのパターンになりますが、基本的には親とは別の道を進むことで比較されないようにすることが多いです。いわゆる逃避です。
> この場合、自我の崩壊を防ぐため親を馬鹿にするか逆に尊敬するかの両極端に別れることが多いようです。
> 田中作品における父親というのはちょうどこの二つ目に当てはまります。
> なぜこの「親を越えられない場合」のパターンになるのかに関しては別途検討が必要でしょうが、男(いや竜まではわからんけど)の父親に対する態度としては、まったく問題がないと思います。
非常に、興味深かったです。①の推論はありえないと思ってたんですが、どうやらそうでもないようですね。
我ながら勝手なんですが、別途検討の件については、ぜひともお願いしたいところです(笑)。
> どうも、恵さん。
> あきれずにお付き合いありがとうございます。
> 今後ともよろしくお願いします。
こちらこそ、ご丁寧にありごとうございます。
> 曲解ではないと思ってますが、あなたが何に重きをおいて発言したかを理解していなかったと言う事で、お詫びします。
「曲解」という言い方は、確かにわたしも言い過ぎました、ごめんなさい。
> 私としては、恵さんの問いたい事は「創竜伝において、何故あなたはそのような疑問をもったのか、私にはそのことについては設定上、全く問題ないよう見えるのに」ということだと解釈しましたが、動機という言葉が引っかかってます。
> 私のどの行動に対してのものでしょうか?
> このようなスレを立てた動機なら、「自分の疑問が全くの的外れで大恥かいても、疑問は疑問だから晴らしておきたい」という思いからです。疑問そのものは、動機ではありません。
> 言葉のすれ違いが結構多く、誤解云々の言い合いが多いので、まずはこの点を明らかにしてから反論に入りたいと思っております。全く見当違いなことに
> 反論するのは回避したいんで。
> よろしくお願いします。
う~ん、わたしの考えてること、なかなかうまく伝わらないですねぇ(^-^;)。
>このようなスレを立てた動機なら、「自分の疑問が全くの的外れで大恥かいても、疑問は疑問だから晴らしておきたい」という思いからです。疑問そのものは、動機ではありません。
わたしは、あなたの疑問そのものに意見をしているわけではありません。また、「疑問そのものは、動機ではありません」とおっしゃっていますが、でも「なぜ(父親が~)疑問に思ったのか?」というきっかけ(動機)は必ず存在するはずですよね?そのあなたのきっかけが、わたにはわかり難いと申し上げているのです。
> 私のどの行動に対してのものでしょうか?
何度も言いますが、きっかけ(動機)を明確にされていない点です。もう一度引用させていただきますが、
>このようなスレを立てた動機なら、「自分の疑問が全くの的外れで大恥かいても、疑問は疑問だから晴らしておきたい」という思いからです。疑問そのものは、動機ではありません。
これ、わたしにはすごく難解な文章に見えるのです。動機についての説明になっていないというか。あなた自身の心情はよくわかるのですが、疑問が発生したきっかけ自体は、最初に創竜伝の竜堂兄弟を見て、ということをあなたは前回おっしゃいましたよね?上記の発言では「なぜ疑問に思われたのか?」の説明になってないと思います。
風狂さん、はっきりわたしの本音を言わせてもらえば、今の時点ではこの話題自体が実は感情移入しにくいのです。だって、ご自分の疑問のきっかけ(動機)も明確にされずに「疑問を晴らしたいのです」とおっしゃられても、共感も感情移入もできにくい話題では、レスしようがないというか…。
> 「律儀な奴」と思われたんでしょうか(笑)、それとも「話し相手のいない寂しい奴」と思われてしまったんでしょうか(大笑)
もちろん、前回の議論の経緯から、あなたを律儀な方だと判断しての発言なんですよ。わたしは、あなたの発言に対していろいろ疑問を持っていますが、あなた自身に悪意を持っているわけではありませんから、どうか悪い意味でとらないで下さいね(^-^)。
あの・・・
> 心理学については全くの無知なものですので(泣)、外れているかも知れませんが、てんてんdwpさんが言われる事を自分なりに解釈してみると、現実として子供(男の場合)が母親を敵としてみたとしたら、それは母親という存在を敵として見たのではなく、その母親の中にある父親的なもの、つまり子供の精神上において母親が父親と化してしまった場合のみの現象である、ということでしょうか?
違うってば。異性親というのは恋愛の対象なんです。同性親が敵となります。だからたとえ母親が父親っぽかろうと、それは敵とはなりえません。男の子は父を敵とみなすことはあっても母を敵とみなすことはあまりないのです。
これは父親が子供と一緒に風呂に入れられる期間の平均からもわかります。もう、圧倒的に女の子のほうが長い。
なぜなら、男の子にとっては父は初めて遭遇する敵であり、ライバルなわけですからどうしても一緒に風呂に入るという行為を続けられない。対して女の子というのは母親と取り合っている恋愛対象なので、自分の優位性を示すために結構大きくなるまで父と風呂に入っていることがあるのです。
この原生的な心理はすぐに世間体とかそういったものによって消えますが、深層心理としてはどうしても残るものです。
てんてん dance with penguin
風狂さんへ。
まだあなたからのレスがない状況でどうかとは思いましたが、今回の「田中作品における父親軽視描写論」、わたしからのレスはこれで打ち切らせてもらうことをお知らせします。
理由は、
1.本質的にこちらの掲示板が「批判サイト」であり、あなたが主張されている「疑問を晴らしたい」ということでは長々と議論することに抵抗があること。ここは一般的な意味でのファンサイトではありませんから、謎解きがしたいのならファンサイトでどうぞ。
2.「父親の描写」にこだわるあなたの気持ちが理解しにくいこと。一見して、あなたの主張には「わたしは~という理由(例)から~だと思う」という流れがあるように見えますが、あなたが「なぜ」父親の描写に疑問を感じ、結論に達したのかを教えていただかないと、誰もコメントのしようがありません。そもそも、何度もこちらの掲示板で繰り返し議論するような話題でもないと思います。田中氏が父親を差別的に描写しているというならともかく。わたし以外ではてんてんさんしかレスされていないのがいい証拠ではないでしょうか。
…以上です。あなたからもいろいろ言いたいことはあるかもしれませんが、前回からの議論を最初から見ていると、あなたの言動はわたしに指摘されてから無理に「理屈」を後付けしているようにも見えます。(どこが?と言われるなら、「やり直し」をあなた自身が希望されていること自体が、です。そして1と2の理由から、いつまでたってもわたしはすっきりした気持ちで議論ができないのです)
勝手ですが、とにかく今回の話題ではわたしからのレスはこれで最後とさせていただきます。よろしくご了承くださいね。
恵でした☆
てんてんdwpさん、ありがとうございます。
> あの・・・
>
> > 心理学については全くの無知なものですので(泣)、外れているかも知れませんが、てんてんdwpさんが言われる事を自分なりに解釈してみると、現実として子供(男の場合)が母親を敵としてみたとしたら、それは母親という存在を敵として見たのではなく、その母親の中にある父親的なもの、つまり子供の精神上において母親が父親と化してしまった場合のみの現象である、ということでしょうか?
> 違うってば。異性親というのは恋愛の対象なんです。同性親が敵となります。だからたとえ母親が父親っぽかろうと、それは敵とはなりえません。男の子は父を敵とみなすことはあっても母を敵とみなすことはあまりないのです。
> これは父親が子供と一緒に風呂に入れられる期間の平均からもわかります。もう、圧倒的に女の子のほうが長い。
> なぜなら、男の子にとっては父は初めて遭遇する敵であり、ライバルなわけですからどうしても一緒に風呂に入るという行為を続けられない。対して女の子というのは母親と取り合っている恋愛対象なので、自分の優位性を示すために結構大きくなるまで父と風呂に入っていることがあるのです。
> この原生的な心理はすぐに世間体とかそういったものによって消えますが、深層心理としてはどうしても残るものです。
お答えいただきましたことに感謝します。
ありがとうございました。
恵さん、ありがとうございます。
動機という言葉を、一応辞書を引いて調べましたが、「行為を決定する原因となるもの、きっかけ」とありました。
ですので、「疑問を持った動機」と言われたことが、私には意味がわかりませんでした。疑問をもつことは、行為ではありえないし(この辺は見解の相違でしょうか?)、動機という言葉が、私のどの行動にたいしての言葉なのか、
全く見当がつきませんでした。
私が行った行動としてあるのは、書き込みした事だけでしたので、違うとは思いつつも、とりあえず説明させていただきました。
恵さん、ありがとうございました。
てんてんさんから十分納得のできる答えをいただき、私も終了させようと思っていたところ、先に終了宣言されてしまい、格好のつかない限りです(笑)。
打ち切りを言い渡された事だし、このまま逃げを決め込もうかとも正直思いましたが、それでは自分の行動に責任を取った事にならないし、恵さん、日傘さんをはじめ、ご迷惑をかけた方々に申し訳が立たないので、最後に自分がこのような書き込みを行った理由を述べ、終わりにしたいと思います。
(このあとに書いた文章を、自分で見直してみましたが、少々文体が重くなり驚いてます。実際にはそれほど重い話ではありません)
私が父親についての書き込み(前回の中盤以降からのもの)を行った目的は、自分が田中芳樹に対して不用意にも抱いてしまった疑問を払拭する事でした。
ことの起こりは、私にとっての田中芳樹という人物が、全く訳がわからなくなり、それと同時に創竜伝という作品において、どこまでが物語として書かれているのかが、解らなくなったことからでした。
そのような時に、恵さんもあげられた竜堂始が語った一言「とにかく印象の薄いひとだったと憶えている」という言葉に、「何故そんな言葉を使わせるのか、いかに彼らにとって過去の人になってしまったとはいえ、同じ家に住み、感情の発露を見た人に対して、印象が薄いで終わるはずがない。もっと無難な書き方もできたであろうに、何故この表現を選んだのか」と、思ってしまったとたん、それまではただ単に書く必要がなかっただけと、気にもとめなかった父親に関することが、意図的に無視されたものであるように見え、それが他の作品にも飛び火し、今までは物語の設定上、当然と思っていた父子の関係が、半分そう見えなくなってしまっていました。
「田中芳樹は父親という存在にたいしてあまりいい感情を持っていないのではないのか」
完全に結論から出てきた考え方、下衆の勘ぐりと言っていいものであり、またその事に対する自覚もあった為、慌てて否定しようとしましたが、私にとって、このことに対して否定しうるだけの知識や材料もなく、完全に消却する事ができず、心の奥底に押し込めたままの状態が続きました。
そのまま、放っておくことも出来ましたが、好きだった作家に対してそういうものを残しておくのは、いい気分ではありません。
そんななか、このサイトの存在を知り、最初の書き込みをしたあと、ここならば、そのことに対して振り払えるものが得られるかもしれないと思い、今に至ったしだいです。
それならば、始めからそのように書けばいいのにと思われるでしょうが、「そのようには見えない」という結論で終わってしまったら、私にとっては書き込んだ意味がありません。私にとってその事を明確に否定しうるものが欲しかったわけです。
それに、下衆の勘ぐりと自覚してるものを、そのまま書くのは少々恥ずかしく、我ながら稚拙とは思いましたが、あのようなものを立ち上げる結果となりました。
ここがどのような場所かもわきまえず、ただかき回すようなことをしてしまった事に、申し訳なく思っています。
性懲りも無く、また遊びにくる事もあるかも知れませんが、そのときには大目にみていただきたいと思っています。
すいませんでした。ありがとうございます。
> > 心理学については全くの無知なものですので(泣)、外れているかも知れませんが、てんてんdwpさんが言われる事を自分なりに解釈してみると、現実として子供(男の場合)が母親を敵としてみたとしたら、それは母親という存在を敵として見たのではなく、その母親の中にある父親的なもの、つまり子供の精神上において母親が父親と化してしまった場合のみの現象である、ということでしょうか?
> 違うってば。異性親というのは恋愛の対象なんです。同性親が敵となります。だからたとえ母親が父親っぽかろうと、それは敵とはなりえません。男の子は父を敵とみなすことはあっても母を敵とみなすことはあまりないのです。
これに補足。母親を敵とみなすというのは父性に対してではなく、もっと単純なものです。つまり愛情の裏返しです。
たとえば叱ってもらいたいという甘えの反動。もっと構って欲しいという自己主張の反動。母親という保護者からの脱出を試みようとする自我によるもの。逆説的な破壊衝動。
これらは本質的には「好きな子をいじめちゃう」のと変わらないんです。自分の胸に手を当てて考えてみて下さい。
てんてん dance with penguin