初めて書き込ませて頂きます。
皆さんの議論の中では、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」の解釈を、問題文そのものを公開しているように考えられているように見られ、自分はその点に疑問を抱きました。
仮に試験問題を「宋代における芸術家・芸術作品(これには詩や文学・音楽・焼き物なども含めます)を一つ挙げ、それについて知っていることを記述せよ」とすると、この問題について、①どこまで教えるか、②いつ教えるか、によって大きく状況が異なります。
①では、宋代だけを指定すれば、あらかじめ調べなくてはならない範囲は政治・経済からありとあらゆる分野に及びます。宋代の芸術家・芸術作品として指定しても、この時点で予想される問題のパターンは多数あり、代表的な人物や作品を調べるだけでも大変です。
②の条件は試験についてどれだけ自分で調べられるかの時間的な余裕を決めるもので、①の指定範囲を決める際の指標としても重要です。
この条件は竜堂始の授業スタイルを評価する上で重要だと考えられますが、皆さんの考えをお聞かせください。
拙文失礼しました。
<私はあなたとけんかしたかったわけじゃないし、論破してやろうとしたわけでもない。
あなたが現実に立脚して、竜堂始の教育方針を批判なさったのを読んで、現実はそうだけども、教育の本来の目的を考えると、歴史嫌いを増やしてばかりだった従来のやり方より、竜堂始のやり方のほうが、歴史を好きになる生徒を増やす可能性が高くて、望ましいあり方なんじゃないかな。と、述べたに過ぎません。>
<私は事実や現実を無視しているのではありませんよ
それは問題が大きいから、変えた方がいいと思っている。と述べたのです
試験をクリアするための、直前の暗記、それがいかに残らないかはあなたも知っているはずです。
そしてそれが試験以外にはたいして役に立たないことも。
現実への対応を至上の課題とし、試験に合格しさえすればいいんだから、そのための訓練さえすればいい。
そんなことしか考えられないなら、あなたと話をしても何の意義もありません。
現実は神聖不可侵ででもあるかのようですね、あなたにとっては。
現実に対応するだけで、問題意識も持たず、理想も持たず、、、それでふんぞり返ってるのだからたいしたものですよ。
あなたは現実を崇拝しておられるようですが、私はその現実は歪んでいてよろしくない、できれば変えていく方がいいと思っているわけで、話がかみあうわけがない。>
何度も何度も言っていますがね、「理念や理想を謳う際には、まず【現実の問題】から片付けなければならない」というのはごくごく当たり前の話でしかないのですよ。目の前の「現実の問題」をひとつひとつ片付けていかなければ、いくら高邁な理念や理想を謳いあげたところで実現達成には至らないし、下手をすれば【現実の問題】よりもはるかに大きな弊害が発生することだってあるのです。そのおバカな実例は、このスレッドでもしばしば論じられている「ゆとり教育」の失敗や、創竜伝における竜堂兄弟の言動の数々にイヤというほど示されているでしょう。
理念や理想が先なのではありません。現実こそが最優先なのであり、それを満たした上で初めて理想を目指す、これこそが本当に「理想を最も確実に実現できる」正しいやり方なのです。逆に、「現実の問題」にも満足に対処どころか処方箋の提示すらもできない人間が理想を実現できるはずもないのですよ。だからこそ、私は現実を第一に考えるのですし、それを無視して「理想という名の妄想」を唱えまくる連中に対しては、徹底的に「現実の問題」を突きつけてやるわけです。
そして、あなたの「カンニング容認論」を含めた一連の発言全てに当てはまる最大の問題は、「現実の問題」すら満足に解決できない、それどころか場所によっては「望ましいこと」とむしろ肯定すらしているにもかかわらず、一方で「実現できない理想」をもって「現実」を叩くその姿勢にあるのです。はっきり言いますけど、これは「あの」竜堂兄弟のバカ連中が根底に抱えている「負の要素」と全く同じシロモノです。私が一番嫌い、しかも醜悪だと考えているそのやり方を、よりによって私の眼前で派手に披露され、さらにそれが私の論の正当性に関わるものであったからこそ、私としても徹底的に反撃に出ざるをえなかったのですがね。
現実を無視して理想ばかり唱えたところで何も問題は解決しないし、他人を説得することもできないのですよ。世の中、そんなに甘くはないものでしてね。
<いいですか?試験直前に他人の作ったノートをコピーしたプリントから、試験に出そうなを暗記し、もちろんこんな暗記は試験が終われば殆ど忘れてしまうものですよ、それで赤点を免れてよしとする程度のものよりも、よくまとめられたノートを2度書き写す方がよほど勉強になる、と言っているのです。
自筆ノートの持込を認めているのですから、それはもう不正ではない、記憶力なんか試したいと思ってないんですから、そんなルールは必要ない。ルールを守らない不公正な競争だなどと何度あなたがわめいたところで、そんな言い分はまったくもって筋違いなんですよ。定期試験では認められていたんだから、センター試験でもノートを持ち込んでいいはずだ、なんて誰も言わないんですから。いちいち言うまでもないほどに自明なことなんですがね。>
「センター試験でもノートを持ち込んでいいはずだ」などという論理が通用しない「からこそ」、学内の定期試験でカンニングが常習化していると、センター試験や全国模試に臨む際に壊滅的な結果を招くことになる、と私は何度も述べてきたはずなのですがね。いつまで経ってもその事実を理解して頂けないとは悲しい限りです。
それに教師が「自筆ノートの持込を認めているのですから、それはもう不正ではない」なんて、そんなことがよくもまあ言えたものですね。あなたの論理だと、たとえば教師が生徒に対してタバコや酒や乱交パーティーを容認さえすれば、「それはもう不正ではない」し、「ルールを守らない犯罪行為だなどと何度あなたがわめいたところで、そんな言い分はまったくもって筋違いなんですよ」ということになってしまうのですか? 生徒の不正行為を己の権力によって正当化しようと考える教師など、それこそ「最低の教師」にして「最低の人間」以外の何物でもないでしょうに。
自分がいかにバカげたタワゴトを並べているのか、あなたは少し頭を冷やして考え直した方が良いのではないですかね。
<確かに、私立の進学校などは、あなたの言うような営業努力もあって、受験対策、そのための技術を叩き込むことに注力しているでしょう。しかしそんな学校ばかりではない、スポーツに力を入れている学校もあるし、商業や工業のようにスキルを身に付けさせることを重視する学校もある、そして最も多いのは普通の公立校で、進学する生徒もいるだろうし、専門学校に進むもの、就職するもの、さまざま生徒がともに学んでいる場ですね。
進学指導だけが至高の目的で、他のものはくだらない理想論だと一蹴なさりますか?
作中の共和学院はどんな学校でしたっけ?
少なくとも創設者が求めていた姿は、あなたのいうような現実への対応を旨とするものではなかったはずです。
その精神からみれば、始のようなやり方は望ましいもの、完璧ではないにせよ、だったはずです。>
こういうのを論理のスリカエというのですよ。いつ話が「試験方法の是非」から「進学指導だけが至高の目的」だの「くだらない理想論だと一蹴」だのといったものに変わったのですか? 自分から話を持ち出してきたくせに、話をどんどん拡大&スリカエないで頂きたいものですね。
それと、上の話でもそうですが、「教師の権力」だの「創設者の精神」だのといった「虎の威」を借りてこなければ、とうとうあなたは自説を正当化することさえもできなくなってしまったのですか? 第一、「作中に存在する事実を【事実として】認めること」と「その事実をどのように評価するか」は全く別のカテゴリーに属する問題であって、両者は必ずしも対立する概念ではないのですがね。
≪こんなことが言えるのであれば、私だって「あなたの意見は、学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです」とかいえてしまうわけなのですけど≫
<そうですよ?私があなたの意見を理解はしても同意はしないのと同様、あなたはあなたの視点から、それは肯えない、でいいではないですか。一つの価値観に合意しなければならない必要はないんで、あなたが穏やかな論調を通してくだされば、もう少しましな話になったと思いますがね。たとえ、あなたにとって、私の意見が顧慮に値しなくても、ですよ。>
相手の意図を捻じ曲げた中途半端な引用は自分の信用を落とすだけですよ。私の元の文章は以下の通り↓
<こんなことが言えるのであれば、私だって「あなたの意見は、学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです」とかいえてしまうわけなのですけど、【それが反論になるとまさか本気でお考えで?】>(【】部分は省略された箇所)
で、この省略された部分こそが実は一番大事だったのですけど、私はあなたに対して、「私があなたの意見を理解はしても同意はしないのと同様、あなたはあなたの視点から、それは肯えない」という「当たり前の主張」などを、何故わざわざ「私への反論」として展開するのか、ということを問うていたはずなのですがね。
それに対してわざわざ文意を曲げてまで上のような回答をしたということは、No.6300におけるあなたの元発言「あなたの意見は、高等学校は大学進学のための訓練機関である、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです」は、実は何の意味もない主張であった、と解釈してよろしいのですね? 私はてっきり、何か私に対する反論のつもりで書いた文章だったとばかり思っていたのですが。
「一知半解な理解力の持ち主」に「確信犯的に相手の主張を捻じ曲げる人間」という評価が今更加わっても、他人の目を気にしないあなたは何の痛痒も感じないのかもしれませんが、それが社会的には損をする評価であるということを、この機会に学ばれるとよろしいのではないでしょうか。
<私がいつ「人が変わったように」ドーピングを糾弾しましたか?学内の試験において人のノートを写すこととは性質が違う、決まりを破ったという点だけを見れば、入試でのカンニングと同じ枠組みにする理屈は理解できる、そう申し上げたに過ぎませんね。
いまやドーピングは個人の問題ではありませんので、入試でのカンニングと同一視するのも、私としては採らざるところですがね。
かなり性質の違うものを一面だけ見て同列に扱うあなたの神経を疑いますがね。>
<ドーピングの規定は、競技の公平さを保つこと以上に、選手を守ることが目的です。そのために体調が悪くても市販の薬を飲めないなどという問題点も聞きますがね。ま、余談ですが。>
だからですね、学内の定期試験だろうがセンター試験・全国模試だろうが、「カンニングは個人の問題ではありません」し、「試験の公平さを保つこと以上に、学校・教師・生徒全てを守ることが目的」でもあるのですよ。この場合、「守る」対象は社会的評価・将来性・学力水準・学校運営などといったものになりますがね。これもすでに何度も繰り返し述べてきたことですが。
ドーピングを否定すればするほど、その論理はそっくりそのままカンニングにも跳ね返ってしまうのに、その事実を無視してひたすらダブルスタンダードを正当化しようとするから、「人が変わったように」ドーピングを糾弾しているなどと言われるわけですよ。これだけ言われて「置き換え」が全くできないというのもある意味すごいことなのですが。
<あなたの信奉なさる現実は「努力」を客観的かつ公正に評価してなどおりませんよ。「結果」を公正に評価しているだけです。
そして努力はイコール結果ではありませんね。
結果だけで判断することは、ばれさえしなければルールを破ってもいいということになりかねないんですよ。だから不正が根絶できないでしょうが。
あなたの大嫌いなルール違反の摘発は、教師や監督官の手腕や判断力によっているわけですね。冤罪で涙を呑む生徒がでないことを切に願いますよ。>
あなたの信奉なさる理想は「結果」を客観的かつ公正に評価してなどおりませんよ。「努力」を教師の主観で評価しているだけです。
そして主観はイコール公正ではありませんね。
主観だけで判断することは、教師の容認さえあればルールを破ってもいいということになりかねないんですよ。だから不正が横行するんでしょうが。
あなたの大好きな努力の評価は、教師や監督官の手腕や判断力によっているわけですね。冤罪と不当評価で涙を呑む生徒がでないことを切に願いますよ。
……普通ならば、こういう「置き換え」をやって見せれば、自分の主張がおかしいことにイヤでも気づけるはずなのですがね。
<もう苦痛をこらえてお返事なんてなさらなくて結構ですよ?
あなたの傲慢で頑迷な言い分を読むのは私にとっても苦痛なのでね。>
初めて意見が一致しましたね。一連の議論における最大の収穫と言えましょう。
もう苦痛をこらえてお返事なんてなさらなくて結構ですよ?
あなたの傲慢で頑迷な言い分を読むのは私にとっても苦痛なのでね。
> どうして、
> 1が論述式で、4が選択式、に限定されてしまうのですか?
> (選択式って、ここでは、多肢択一選択や、年号の解答など短答式を総称した意味ですよね。)
> 都合の良い状況設定を行っていませんか?
論述問題の採点には採点者の主観が入るのが問題で、公正さが損なわれる、との指摘があったので、選択式中心、という主旨で用いました、「それのみ」という意味ではありませんよ。
> 「論述式」と「選択式」の優劣を、問題提起しているわけでは、ないでしょう?
もちろん
> 従来の試験方法にも論述式がある以上、
> 上の三点セットである竜堂始の試験方式と比較すべきは、
> 従来における「論述式」の試験方法、になるのですよ。
これは、どうも、しっくりきませんね
センター試験における得点競争に備える必要性(全て記号選択ですね)や、詰め込み、暗記力、そういうものに直結するのは選択問題のほうです。
また、あなたとほぼ同じ立場であろうと思われるあの方は「論述」を客観性や公正さを欠くものだと批判なさってるのですが?
その点から対比としては(殆どが)記号選択のものになるのではないでしょうか?
もちろん、2次試験への対応のために論述も含まれますので、総合して、ということならわかりますが、従来式の論述問題のみとの比較、になるのは納得しかねます。
また、私は、授業内容が試験内容と無関係とは思えませんので、それと切り離すのこともできません。
あなたにとっては無関係なようですが、私はそのようには考えられませんので、択一せよという問いは意味を成しません。
> しかし、1の場合は、「試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記」すら、しないわけですよ。ただ、書き写すだけなんですから。それとも、2度筆写すれば、「試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記」よりも深く、脳裏に刻み込まれるとでも言うのですか?
そうですよ
> 大体、ここでも、すべての生徒が歴史に興味を十分持っていると言う前提で話をしていませんか?
していませんね
興味を持っていない生徒について話している部分ですし。
その前提において、いい加減な暗記よりも、あなたのいう「単なる書き写し作業」のほうがましだと思います。
> ***********
>
> いいかげん、自分が、どういう前提で、問題提起を始めてしまったか、ということにお気づきになったでしょうか、黒崎さん?
ですから、試験の方法と、授業で扱う内容は、密接に結びついています。
竜堂始の試験方式の方が、授業の内容を、より学生に歴史の面白さや魅力を伝える方向で構成できる、と申し上げてます。
歴史や地理が嫌われる最大の要因は暗記が苦痛だからです。
その点を大きく緩和できることが、始のやり方の利点です。
はじめからずっとそう述べているのです。
点数競争であるセンター試験への対応に結びつかないこと、受験に備えたい現実のニーズに応えていないということ、それはその通りです、そして一人の教師が見る生徒の数も極力すくなくすることが望ましいですし、現場や教育行政を鑑みても、実現は難しいことでしょう、ですが、学校教育の本来の目的というのは、さまざまな知識や文物などの魅力を伝え、子どもに多くの可能性を示すことです。
ですから、社会科嫌いを増やす従来のやり方よりも、竜堂始のやり方のほうがいい、と申し上げたのです。
多分に理想主義であることは、自覚しておりますので、理念としては、と繰り返し申し上げました。現実に無理やりあてはめて、全ての学校でこのやり方を徹底せよ、などと言っているのでもありません。
いくらかでも取り入れて、歴史や地理の魅力を伝えられる授業内容に変えていけたらいい、と思っているのです。
授業の内容を変えるということは、試験のやり方や評価方法も変化するということです。
私の文章で、私の意図が伝わらないのは、私の責任が大きいわけですが、あなたは誤解なさっておられます。
6231へのレスも兼ねさせていただきますが
人のノートを写すにしても、自分の手を使って書くわけですから、同時に、読み、頭を通すわけです、そして設定されたテーマについて整理するわけで、これは立派に学習行為です。
私自身も、人のノートの丸写しが増え、答案にも人の答えを写すだけの生徒が増える・・・と、思ってしまっておりましたが、やや考えが変わりました。
それほどに(回答まで含めた)丸写しが横行するとは思えなくなったからです。
その理由は、学生の試験に臨む目的が、あなたをはじめとする方々の仰るように、1点でも多くの得点確保、周りの人間より少しでも上の順位、であるならば、人と同じ答えではだめ、ということになるではありませんか。同じ答えでは同じ点数になってしまいます。そして平均点の上昇は自分の優位を崩しますし、そもそも、ノートを貸すとき、仮に、既に解答案を作成していたとしても、「答えまでは写すなよ」と釘を刺すでしょう?人に差をつけて上に上がりたいのに、自分と同じ点数を取らせてあげるんですか?同じで済めばまだいいでしょうが、その友人が自分で何か加えたら、超えられてしまうかもしれませんね。貸す側としては許容できることではないですね。
50字前後、せいぜい100字、以下の語句を含めよ、など一般的な試験に用いられる短い論述なら、殆ど同じ文章でも通りますが、始のそれは自由度が高い論述ですから、丸写しではあまりにも不自然で、「どっちが写したの?」ということになり、ノートを確認したり問いただされたりすれば、処罰はともかく、その友人にノートを見せてもらえなくなりますね。また、「素晴らしいノート」の作者が作った解答プランでも、それが何点に値するのかはわからないわけです。
消極的な理由で選択した場合や、教師とそりが合わないなどでやる気が失せていても、通常はノートくらい取るでしょうし、資料にも目を通すでしょう、授業参加は望めませんが。それなりに「自分のノート」があり、それを予告されたテーマによって、友人の援助で補完する、というものが、最も多いケースになるのではないでしょうか。
そして上の理由から、丸写しはリスクが高いですし、誰もが、いくらかでも人より上に行きたいわけですから、自分なりの答えを考える、ということになります。
普段から全くノートを取らず、睡眠か内職に時間を費やしてしまった、という学生の場合、ノートは友人の丸写しになるでしょう、しかし解答まで共有するでしょうか?クラスメート・友人とはいえ、潜在的に、あるいは露骨に、競争相手なわけですよね。
自分が最下位でもかまわない、というのでなければ、直前まで修正するでしょうし、友人同士でも全く同じものにはしない、と考える方が自然なのではないでしょうか。
それでも、もし殆どの解答が全く同じ文章であったならば、それは組織された抗議、として生徒と話し合う必要があるかもしれませんね。
アメリカが「詰め込み教育」を取り入れることにした実情は、労働者の約2割が実質的な「文盲」、仕事に必要な読み書きの能力がない、また現役の高校生のやはり約2割が十分な読み書きの能力を持っていないという調査結果です。その状態が詰め込み教育の導入で改善された、ということで、「低下」と「向上」という言葉の対比はあまり適切でないかと思います。
また、ゆとり教育というのは、1978年に始まったもので、もう30年近くになるわけです、近年特に問題視されている教育水準の低下の原因を「ゆとり教育」に求めるのは適当とは思えません。少子化や家庭・地域社会の変質によって学校で授業が成立しにくくなっている現象など、考慮しなければならない問題は多岐にわたり、あなたの厭われる問題の拡散になってしまいますね。
<6322
立場が異なると「暗記する」ということの意味が、全く異なってきます。
「暗記する」という積極的作業を殆ど評価できませんので、意義の相対的格差は縮まらないという見解にも同意できません。
あなたに納得していただく必要があるのでしょうか?
私はあなたや、あの人の言っていることに、納得できません。
あなたにはあなたの立場や価値観がおありになって、私の言っていることは到底理解することはもちろん受け入れることもできない、というのであれば、それはそれで結構ではないですか。
あの人の書いた文章を読んで、私の考えを述べました、それはあなたやあの人の考えを変えさせるためではありません。
現実を受け入れることと、理想を放棄することは別物で、私は理想を捨てるつもりはありませんので、あなたがたの言いようは、私には理解は出来ますが、同意はいたしませんし、私の考えを変えさせるほどの普遍性も客観性も説得力もありません。
あなたは私が問題をそらしたり摩り替えたりしているとお責めになりますが、まず、私の主旨を誤解なさっておられるのですし、自分の言ってることが相手に理解されない時や、意図したような答えが返ってこない時に、相手を責めるより、ご自分の使った言葉や方法を検討なさるべきですね。
また、あなたにとって当然の前提や、正しい理屈を、私が共有しないからといって非難されるのも、おかしいです。
私の見解をあなたが共有できないのと同じことです。
私は私なりにではありますが、あなたが問いたいと書かれたことについて、真面目に読み、考えて答えています。
あなたの望む答えにはなっていないようですが、だからといって責められても困ります。
それから、余談ですが、あの人の発言は、「厳しい」というものではありません、「粗暴」なだけです。
親しくしていらっしゃるようなので、好意的なのは理解できますけど。
> また、ゆとり教育というのは、1978年に始まったもので、もう30年近くになるわけです、近年特に問題視されている教育水準の低下の原因を「ゆとり教育」に求めるのは適当とは思えません。
??いわゆる「ゆとり教育」と貴方の言う「ゆとり教育」は別物であり、言葉遊びに過ぎません。
いわゆる「ゆとり教育」が始まったのは1998年であり、近年の教育水準の低下と関連付けるのは自然な結論です。
ところで貴方は「教科の魅力を伝えること」を授業の目的とお考えのようですがなんで、そんなことをする必要があるとお考えですか?
噛み砕いていうと、「なぜ歴史嫌いが増えてはいけないのか?」「何故歴史好きを増やす必要があるのか?」ということです。
私は歴史好きが増えようが減ろうが当人たちの趣味の問題であってどうでもいいと考えます。
歴史好きもアニメ好きもゲーム好きも趣味としては全くの等価です。
何で歴史好きだけ、学校の授業を使ってまで増やす必要があるんでしょうか?
学校で取り上げてもらえるだけありがたいと言うべきでしょう。
学校の授業が歴史嫌いを増やしている?
じゃあ、そんな授業やめればいいじゃないですか。
歴史好きを増やすための授業なのに逆に歴史嫌いを増やしている。
そんな有害無益な授業やめてしまえばいい。
> もちろん、2次試験への対応のために論述も含まれますので、総合して、ということならわかりますが、従来式の論述問題のみとの比較、になるのは納得しかねます。
No.6268の黒崎さんの記載
<私は竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」というのは、従来の試験方式よりは、生徒の力を育てる可能性が大きいと考えます。>
上のように書いていますよね。
竜堂始の試験方法が、従来の試験方式のすべての形態よりも優れている、ということでしょう?
だったら、従来の試験方式のすべての形態に対して優位性を証明しないと、駄目じゃありませんか?
黒崎さんのNo.6268の主張を潰すには、従来の試験方式にある一つの形態が、竜堂始の試験方式よりも優位であることが証明できれば、よいのですよ。
だから、「従来の選択式の試験方法」だけでなく、「従来式の論述問題のみとの比較」についても、「竜堂始の試験方式」が優位にあることが証明できなければ、黒崎さんのNo.6268の主張は、成り立ちません。
いいかげん、私が指摘している内容が、お分かりになったでしょうか?
> また、私は、授業内容が試験内容と無関係とは思えませんので、それと切り離すのこともできません。
なぜですか?
教科(歴史)の教育方針を、「授業内容」+「試験方法」とのセットで考えることは全然可能ではありませんか?
同じ「授業内容」であっても、異なるパターンの「試験方法」を適用することは当然可能です。
どういう根拠で、「切り離すができない」のですか?
> > しかし、1の場合は、「試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記」すら、しないわけですよ。ただ、書き写すだけなんですから。それとも、2度筆写すれば、「試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記」よりも深く、脳裏に刻み込まれるとでも言うのですか?
>
> そうですよ
ははは。笑えますね。まったく。
黒崎さんの主張では、面白く興味深く書かれたものであれば、「2度筆写」すれば、何度も復唱したり書き写したりして暗記する場合よりも、深く覚えこむことができる、ということですよね。
こんなことが一般に成立するのであれば、
「2度筆写」すればたちまち覚えられるテキスト、などというものが市場に溢れかえることになりますよ。もちろん、授業の影響も大きいとのことですから、その「2度筆写」用テキスト以外に、分厚い「面白おかしい内容把握用テキスト」が、「面白い授業の相当物」として添付されることになるんでしょうね。
自分で、言ってて、おかしいと思わないのですか?
まあ、「2度筆写」が「通常の暗記」ほどの効果がでない、ことを認めてしまったら、No.6268の主張が根本的に破綻することには、さすがに気が付いているようなので、これは認められないんでしょうけどね。
無茶な主張を継続すればするほど、傷が深くなりますよ。
なにせ、掲示板と言うものは、他人が見ているものですからね。
> 点数競争であるセンター試験への対応に結びつかないこと、受験に備えたい現実のニーズに応えていないということ、それはその通りです、そして一人の教師が見る生徒の数も極力すくなくすることが望ましいですし、現場や教育行政を鑑みても、実現は難しいことでしょう、ですが、学校教育の本来の目的というのは、さまざまな知識や文物などの魅力を伝え、子どもに多くの可能性を示すことです。
> ですから、社会科嫌いを増やす従来のやり方よりも、竜堂始のやり方のほうがいい、と申し上げたのです。
上の引用部分の下の二行を除く内容に関しては、私自身、それほど異論があるわけではないのですよ。
ただ、「竜堂始のやり方」、
特に「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」
の部分には、致命的な問題があることを認めざるを得ないのです。
「竜堂始の試験方法」が、そもそも何を意図しているものか、理解していますか?
理想的状態において、通常の論述式の試験などより、大きな効果があることを意図したものですよ、この試験方法は。
通常の論述式の試験であっても、1時間とか、せいぜい2時間といった試験時間の拘束がある以上、ちょっとした回り道も許されず、いかに効率的に試験時間内に解答を出すか、という点が、試験での成功につながります。
それでは、かならずしも生徒の全能力を引き出したとはいえない。だから、予め「試験問題を予告し」、週末を利用して、半日でも一日でも時間に拘束されること無く、回り道をしながらでも自分なりの結論を出してみて欲しい、そういう願いから、「竜堂始の試験方法」が意図されているわけでしょう。
だから、非常に意欲的な生徒たちの間で、しかも点数や評価が過剰に絡まない環境下であれば、このような「竜堂始の試験方法」は、他の試験方法に比して、そうとうな優位性を発揮するのではないか、と思いますよ。
しかし、これを、それほど意欲のある生徒でもなく、しかも点数や評価の絡む試験にしてしまっては、「カンニング」が横行してしまって、そもそもの目的が達成されないことになってしまうのですよ。
> アメリカが「詰め込み教育」を取り入れることにした実情は、労働者の約2割が実質的な「文盲」、仕事に必要な読み書きの能力がない、また現役の高校生のやはり約2割が十分な読み書きの能力を持っていないという調査結果です。その状態が詰め込み教育の導入で改善された、ということで、「低下」と「向上」という言葉の対比はあまり適切でないかと思います。
教育水準が低レベルにある場合に、「詰め込み教育」が効果的であることを、黒崎さん自らが、証明してしまっていませんか?
↓の記載のような事実に対する、非常に効果的な説明になっていませんか?
No.6279の黒崎さんの記載
<先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。>
> また、ゆとり教育というのは、1978年に始まったもので、もう30年近くになるわけです、近年特に問題視されている教育水準の低下の原因を「ゆとり教育」に求めるのは適当とは思えません。少子化や家庭・地域社会の変質によって学校で授業が成立しにくくなっている現象など、考慮しなければならない問題は多岐にわたり、あなたの厭われる問題の拡散になってしまいますね。
私が指摘している「ゆとり教育」も、現在採用されている「学習指導要領」(1998年)のことですね。世間的に解釈されて言う用法ですので、文部省の設定した厳密な用語から外れている点は認めましょう。
ただ、黒崎さん自身が意識している「ゆとり教育」も、下の記載のように、現在採用されている「学習指導要領」(学校週5日制導入、教科内容3割減等)に基づくもののように思われますので、この点での認識は一致していた(お互いに誤解を招くことは無かった)と思いますけどね。
要は、揚げ足を取りたかった、だけ、でしょうか?
No.6318の黒崎さんの記載
<ゆとり教育のせい、というよりは、それにともなう教育内容・時間削減のやり方がよくなかったのかな、と思っておりますが、>
それから、私は、「ゆとり教育」がわが国の教育水準低下の100%の決定要因であるとは主張しておりません。大きな寄与をしているだろう、と考えるだけです。
「少子化や家庭・地域社会の変質」というのは、わが国にのみ存在する問題ではなく、先進工業国一般で発生している問題なので、アメリカで「詰め込み教育」によって、教育水準が向上したような例は、非常に示唆に富む現象なのですよ。「少子化や家庭・地域社会の変質」による寄与以上の効果を、「詰め込み教育」や「ゆとり教育」といった教育方針が生み出している、と考えられるのです。
「あなたの厭われる問題の拡散」と、他人事のように言っていますが、
私の主張している趣旨は理解していますか?
通常の人間は、10人が同時に喋ってもその内容を理解したとか言う聖徳太子ではないのですから、物事を理解するには、できるかぎり個別の問題に切り離して考える必要があるのですよ。
お分かりでしょうか?
分かってないから、「あなたの厭われる問題の拡散」などといった表現が出てくるのでしょうが。
> あなたに納得していただく必要があるのでしょうか?
> 私はあなたや、あの人の言っていることに、納得できません。
> あなたにはあなたの立場や価値観がおありになって、私の言っていることは到底理解することはもちろん受け入れることもできない、というのであれば、それはそれで結構ではないですか。
黒崎さんは、何のために、掲示板に自らの意見を書いているのですか?
はっきり言いますが、人に見せるためですよね。
人に見せることで、人を納得させよう、という動機がここに存在しているのですよ。
もし、「人を納得させよう」という動機がまったく存在しないのであれば、そもそも掲示板に自らの意見を書く必要性などないはずです。自分で心の中にしまっておけばよいのですから。
自分のやっていることを棚に上げないでください。
私自身も当然、人を納得させるために書いているわけですが、
納得させる対象は、「黒崎さん」が主であるというよりは、この掲示板の閲覧者が主です。私としては、「黒崎さんの主張に納得できない根拠」を、「この掲示板の閲覧者」に提示したいのです。つまり、黒崎さんの感情的同調者を除き、物事を理性的に判断してくれる人が、「黒崎さんの主張」と「私の反論」とを見て、「黒崎さんの主張」は「間違っている」と結論してくれればよいのです。
私としては、黒崎さん自身が納得してくれなくても一向に構いません。黒崎さんの主張に説得力を感じるような人がいないように、反論を行っているのです。
> 現実を受け入れることと、理想を放棄することは別物で、私は理想を捨てるつもりはありませんので、あなたがたの言いようは、私には理解は出来ますが、同意はいたしませんし、私の考えを変えさせるほどの普遍性も客観性も説得力もありません。
上にも述べたように、私の主眼は、「この掲示板の閲覧者」に「私の反論」を納得させることにあります。
したがって、冒険風ライダーさんと同じく現実を重視すべき、としたり、客観的な根拠を求めるのも、黒崎さんの主観(「私の考えを変えさせるほどの普遍性も客観性」)に合致することよりも、「多くの人にとっての普遍性や客観性」に合致すること、が重要だからです。
> あなたは私が問題をそらしたり摩り替えたりしているとお責めになりますが、まず、私の主旨を誤解なさっておられるのですし、自分の言ってることが相手に理解されない時や、意図したような答えが返ってこない時に、相手を責めるより、ご自分の使った言葉や方法を検討なさるべきですね。
いやいや、質問に対する答えを見れば、相手がどういう考えなのか、予測することができますから、私が「黒崎さんの主張」を理解する上で、まずまず効果が上がっています。
それだけでなく、「この掲示板の閲覧者」にとっても、私の反論によって、「黒崎さんの主張」が一体全体どういうものであるのか、が分かりやすくなっているものだと思いますよ。
> また、あなたにとって当然の前提や、正しい理屈を、私が共有しないからといって非難されるのも、おかしいです。
人それぞれが持っている前提、それが主観というものです。
言葉が足りないと、何を前提に喋られているのか、他人には分からないのですよ。
同じ価値観の持ち主同士が、議論をしているわけではないのですから。
私は、特定の人間の価値観自体を非難しているわけではありません。
何を前提としているのか、それを知りたいのです。
「私は冬でも泳いでいます」とある人が言ったとき、その人間がどこにすんでいるのか、知らなければ、いくらでも誤解を招くでしょう。南国の人間で冬でも水が暖かいのであれば自然ですし、冬は氷つくほど寒いけど地域の慣習としてやっている場合もあるかもしれません。
自分の前提が、何の説明も無く、人に伝わると考えることこそ、恐ろしい傲慢、というものですよ。
> 私は私なりにではありますが、あなたが問いたいと書かれたことについて、真面目に読み、考えて答えています。
> あなたの望む答えにはなっていないようですが、だからといって責められても困ります。
もう少し気楽に考えてはどうですか?
私の目的は、「この掲示板の閲覧者」に「私の反論」を納得させることにあります。
他の人も「おかしいと思うだろうなあ」という部分を、私は指摘しているまでのことです。私の指摘自体が、他の人から見て「おかしいと思う」ような内容だったら、私が恥を書くだけの話です。
ぜんぜん、問題はありません。
> 私自身も、人のノートの丸写しが増え、答案にも人の答えを写すだけの生徒が増える・・・と、思ってしまっておりましたが、やや考えが変わりました。
> それほどに(回答まで含めた)丸写しが横行するとは思えなくなったからです。
> その理由は、学生の試験に臨む目的が、あなたをはじめとする方々の仰るように、1点でも多くの得点確保、周りの人間より少しでも上の順位、であるならば、人と同じ答えではだめ、ということになるではありませんか。同じ答えでは同じ点数になってしまいます。そして平均点の上昇は自分の優位を崩しますし、そもそも、ノートを貸すとき、仮に、既に解答案を作成していたとしても、「答えまでは写すなよ」と釘を刺すでしょう?人に差をつけて上に上がりたいのに、自分と同じ点数を取らせてあげるんですか?同じで済めばまだいいでしょうが、その友人が自分で何か加えたら、超えられてしまうかもしれませんね。貸す側としては許容できることではないですね。
> 50字前後、せいぜい100字、以下の語句を含めよ、など一般的な試験に用いられる短い論述なら、殆ど同じ文章でも通りますが、始のそれは自由度が高い論述ですから、丸写しではあまりにも不自然で、「どっちが写したの?」ということになり、ノートを確認したり問いただされたりすれば、処罰はともかく、その友人にノートを見せてもらえなくなりますね。また、「素晴らしいノート」の作者が作った解答プランでも、それが何点に値するのかはわからないわけです。
> 消極的な理由で選択した場合や、教師とそりが合わないなどでやる気が失せていても、通常はノートくらい取るでしょうし、資料にも目を通すでしょう、授業参加は望めませんが。それなりに「自分のノート」があり、それを予告されたテーマによって、友人の援助で補完する、というものが、最も多いケースになるのではないでしょうか。
> そして上の理由から、丸写しはリスクが高いですし、誰もが、いくらかでも人より上に行きたいわけですから、自分なりの答えを考える、ということになります。
> 普段から全くノートを取らず、睡眠か内職に時間を費やしてしまった、という学生の場合、ノートは友人の丸写しになるでしょう、しかし解答まで共有するでしょうか?クラスメート・友人とはいえ、潜在的に、あるいは露骨に、競争相手なわけですよね。
> 自分が最下位でもかまわない、というのでなければ、直前まで修正するでしょうし、友人同士でも全く同じものにはしない、と考える方が自然なのではないでしょうか。
>
> それでも、もし殆どの解答が全く同じ文章であったならば、それは組織された抗議、として生徒と話し合う必要があるかもしれませんね。
(1)「素晴らしいノート」の作成者
「素晴らしいノート」の作成者は、同じクラスの優秀な生徒に限られるわけではありません。親兄弟や、家庭教師、さらには熟講師、などという可能性が十分にあるのです。
(2)交友関係の問題
「ノートを貸すとき、仮に、既に解答案を作成していたとしても、「答えまでは写すなよ」と釘を刺す」ことは、当然考えられますね。
そうすると、生徒間の交友関係によって、「丸写しが横行」の程度が代わってくることになります。それは、相互に協力し合う場合もあれば、他のこと(他の教科での協力関係や、別のことで恩返し)で交換することもあれば、金銭の授受など、も行われるかもしれません。かならずしも平和的に行われるとは限らず、腕力に物を言わせて、優秀な生徒が屈服される場合もあるかもしれません。また、仲良しグループから外れている少数の者だけが、「素晴らしいノート」の「丸写し」から外されてしまう、などという場合もあるでしょう。
(3)カンニングを問題視することによる生徒の信用問題の発生
「それでも、もし殆どの解答が全く同じ文章であったならば、それは組織された抗議、として生徒と話し合う必要があるかもしれませんね。」
このようなことを実施すると、非常に問題が複雑化します。
自分のノートを、「友人同士でも全く同じものにはしない」ものにすることは当然考えられますね。しかし教師の目から見て、基本的に同じ内容であった場合、当然一方が他方のノートを写した、と考えてしまうことになるでしょう。これを、教師が「問題」にするのであれば、魔女裁判的な状況を招いてしまうことになります。「あいつが俺のノートを写したんだ(あいつが魔女だ)」といった生徒間の裏切りや、一生懸命自分でノートを作った生徒が「お前がきちんとノートを取るはずが無い」といった誤解を教師から受けることもあるでしょう。教師の側でカンニングを問題視すると、このような生徒間の信用問題を引き起こすことになってしまいます。
上は、私が、No.6325の黒崎さんの記載に限定しての問題点の指摘ですが、
「カンニング」の問題については、当初から冒険風ライダーさんが、重ね重ね指摘しています。
例えば、下の問題です。
No.6287の冒険風ライダーさんの記載
<そもそも、あなたはカンニングという行為が何故「不正行為」呼ばわりされるのかということが全くと言って良いほど分かっていないのではないですか? 上で挙げたスポーツにおけるドーピングもそうですが、試験の際にカンニングが何故いけないかというと、それが本当に真面目に勉強している他の生徒との間で著しい不公正を招くからです。真面目な人間がバカを見るような不公正を招く「不正行為の横行」を許す教師は、その存在自体が学校にとっても保護者にとっても、そして何より生徒にとっても極めて有害なシロモノでしかありません。>
上の問いをまったく忘却しているようですが、
「それほどに(回答まで含めた)丸写しが横行するとは思えなくなった」から、問題がなくなるわけではないのですよ。
たった一人でも、「丸写し」するものがいれば、
「不正行為の横行」を教師が許容する、ということになるのですよ。
そして、それを防止すべく「制裁」を実行しようものなら、学級内で魔女裁判を行うようなものです。
そして、少なくとも、
「論述式」+「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」
の三点セットである竜堂始の試験方式でなければ、
このような問題は、発生しないと言うことです。
ここまでいえば、
「この掲示板の閲覧者」には、十分な判断材料を提供したでしょう。
今後、私の反論がないとしても、それは、反論の必要を認めないせいだと考えてください。
初めて投稿させて頂きます。皆さん、よろしくお願いします。
このスレの意見の食い違い?は、それぞれの方の状況想定に違いがあるからではないでしょうか?
その意味でも、Yawgmothさんの問いかけは重要だと思いますが、それに誰も返答されなかった様ですので、賛同の意味も込めて,
ここに投稿させて頂きました。
始の教育法(テスト方法)はその状況想定によってはカンニング行為が成立しますが、
以下のように想定すれば、カンニング行為が成立しなくなると思います。
1)どの程度問題を公開するか(Yawgmothさんの想定)
2)答え方が無限にある問題(私の想定)
1)の想定で考えると、問題が完全に明確になっていないので、
自筆ノートのコピーが横行したとしても、そのノートから
答案用紙にどう答えを書くか(これは個人の力量次第になるはず)で答えが変わりますので、結果が同じになることは無くなります。
そしてその結果は、自筆ノートのコピーという行為がカンニング行為に相当しないことの証明になるかと。
また、
2)の想定で考えると、問題が明確になっていたとしても、どうとでも回答できる問題(たしか始の出す問題はこういう類であったように思います。)なので、
答えもこれが正解という物はなく、今まで得た知識から、自分なりの見解を書くしかなくなります。
(記述式のテストって本来そういう回答を目的としていると私は思っています。)
ただし、この場合は、自筆ノートのコピーによって、全く同じ答えの存在を許す可能性がありますので、
例えば、同一と見なされる答えを見つけた場合は、双方とも評価しないとしたり、
テスト後に自筆ノートの回収を行うなどして、
自筆ノートのまるまるコピーというカンニング的な行為は
回避させることが出来るかと思います。
カンニングという行為が成立しなければ、黒崎さんの主張する効果が期待出来る分、理想的な授業・テストになるかと思います。
大学入試等には役に立ちませんが。
以上です。
まだ、HPの全部に目を通せていませんので、既に同種のやりとりがあった場合には
重複してしまったことをお詫びします。
ただ、もし良ければ、どこに同種のやりとりがあったかを教えて頂けると助かります。
長文失礼致しました。
時(対象生徒の年齢・時期)と場合(学校のレベル等)によりますが。
あとは、問題内容と採点基準ですね。
すくなくとも、上位の大学に進学する生徒がこの試験方式のみを問題にして文句を言うほど悪い方式だとは思いません。
ただし、推薦や内部進学を行う生徒が不満を持つ可能性は大いにあります
前回の書き込みで切れてしまったので続きと補足です。
私は、竜堂方式(論述式・内容予告・ノート持ち込み可)が生徒の意欲を増し、学習効果をアップさせると言う意見にに基本的に賛成です。
理由は、授業をまじめに受け、ノートをとる人数が増えるであろうからです。
ただし、条件があります。
一つ目は、内容予告があいまいであること。例えば、「ギリシアのポリスについて」とか、「産業革命について」とか。
二つ目は、実際の試験問題が具体的であること。前述の内容予告からの出題では、「ポリスの政治形態の特徴とその限界をアテネを例にして論ぜよ」とか、「産業革命がなぜイギリスで起こったのか、当時の内政・外政と産業革命に必要な要素を含めて論ぜよ」とか。
三つ目は、試験の解説を授業で行うこと。模範解答や採点基準を公開し、教師の独断と偏見で採点しているのではないことを公開することです。
竜堂方式の是非を問うのに公然的なカンニング行為(ノートの複写)についての論議がなされていますが、予告される試験内容があいまいであれば、ノートを試験前に複写するより授業でこまめにとっておいたほうが楽なのは確実です。この、「授業をまじめに受けておけば得だよ」と言うメッセージを送ることが、あまりやる気のない生徒を授業に向かわせる方法としては非常に有効です。どんなに魅力的な授業を行っても、聞いてくれなきゃ意味ありませんから。
また、現在の大学入試においては知識よりも「なぜ」そうなったのかを問われる問題が多いため、竜堂方式が必ずしも模試や大学入試を無視したものとはいえません。竜堂方式で高得点を得るためにきちんと勉強しているものが模試では全く点が取れないということはあまりないと思います。
以上の理由で、私は竜堂方式「論述式・内容予告・自筆ノート持ち込み可」の試験が生徒の意欲と学習効果の向上に有効だと言う意見に賛成です。
始の試験で果たして「カンニング」は可能なんでしょうか?
終の発言から察するに「中国史における黄河の役割を記せ」というような考えるしかないようなものしか出ないんですよね?
無論、ノートに書いてあるかもしれないですが。
> 始の試験で果たして「カンニング」は可能なんでしょうか?
> 終の発言から察するに「中国史における黄河の役割を記せ」というような考えるしかないようなものしか出ないんですよね?
試験予告の題材の内容について「これを理解していればまず基本は充分」という内容を講義していなければこの時点で竜堂始は教育者失格じゃないですか。
あと「試験に出す」と具体的な問題設定を生徒に教えた上でその項目についての知識を始は生徒に描写している、という説明だった筈です(これについては原作が手もとになく記憶で書いておりますので事実誤認であれば謝罪して撤回します)。
これで不真面目な生徒が真面目な生徒のノートを詐術や盗難、暴力で強奪して複写、試験の場に持ち込んで使用したなら所謂カンニングかはともかくれっきとした不正行為でしょう。
> 無論、ノートに書いてあるかもしれないですが。
そういう訳で書いてなかったら始に、少なくとも「学問の教育」を云々する資格はないですね。
> あと「試験に出す」と具体的な問題設定を生徒に教えた上でその項目についての知識を始は生徒に描写している、という説明だった筈です
今、1巻から読み直しをしていて、2巻に入った所ですが、
少なくとも、1巻には上記を示すような記述は無かったように思われます。
また、2巻では既に講師もやめていますので、これ以降の巻で試験に関する記述は出てこないのではないかと思われますが。。
(上記内容に相当すると思われる記述がありましたら、改めて報告させて頂きます)
どなたか、ここで記述しているよ、と分かる方がいらっしゃったら教えてください。
ここからは、感想になってしまって恐縮ですが、
少なくともこの試験に関する話題に限り、批判が前提で
話が展開されているように見受けられます。
小説内では、ほんの数行しか触れていない試験方法に対し、こうなったら、試験が成り立たないから駄目だ、という
仮定に始まって、結果として、始の試験のやり方は駄目だ、
始は駄目だ、最終的にこういうことを書く作者は駄目だと
持って行こうとしているようにしか見えませんでした。
批判を展開されている方も始の試験方法を完全否定している訳ではなさそうですから、
良い物は良いと素直に認めてよいように思えるのですが。(もちろん最善とかではなく、単に試験方法の一つとして認める程度です)
少なくとも、この試験の事で小説そのものや作者を批判するというのは出来ないかなと私は思います。
> ここからは、感想になってしまって恐縮ですが、
> 少なくともこの試験に関する話題に限り、批判が前提で
> 話が展開されているように見受けられます。
> 小説内では、ほんの数行しか触れていない試験方法に対し、こうなったら、試験が成り立たないから駄目だ、という
> 仮定に始まって、結果として、始の試験のやり方は駄目だ、
> 始は駄目だ、最終的にこういうことを書く作者は駄目だと
> 持って行こうとしているようにしか見えませんでした。
研究ならそれでいいんですが授業というならその問題に対する知識は十全に教授しないと駄目でしょうし、この場合それ以外の考察や学習をあまりに重視するのも問題なのでは?
> 批判を展開されている方も始の試験方法を完全否定している訳ではなさそうですから、
> 良い物は良いと素直に認めてよいように思えるのですが。(もちろん最善とかではなく、単に試験方法の一つとして認める程度です)
良いとは言いませんが全く間違った教育ではないのでそれは私個人は是とできる条件を具体的に提示して認めたともりですよ(No.6629)。
> 少なくとも、この試験の事で小説そのものや作者を批判するというのは出来ないかなと私は思います。
「進学校に向いてない授業を好き好んで進学校で行う」竜堂始はどうかと思いますしそれは肯定的に描写するなら多少作劇間違ってないか?とは思います。
竜堂始が『常識の規格外な人物』とか『ピカレスクヒーロー』なら多少考え直すべきかも知れませんがそうなんでしょうかね?
脇から失礼します。何時も楽しくROMらせていただいています。初カキコなので少し緊張していますが参加させて頂きたいと思います。
さて、私の意見からすると「始式試験」は恐らく多くの生徒にとって困り物になる可能性が高いと思います。
それと言うのも確かにこういった「考えさせる」試験はその教科が好きな興味のある生徒にとっては正に夢の様な試験になると思いますが、作中でもそんなような事が言われていたかと思いますが「嫌いな興味のない生徒」にとっては精神的な拷問の様なものになってしまいます。しかも評定がかかっている以上、余り無視するわけにもいきません。
無論、私も「嫌な教科は受けなくても良い」と主張したい訳では有りません。幾ら教育といっても究極的には「客商売」であり一種の「サービス業」に変わりはない訳ですから、最低限の基準として「嫌いな興味のない生徒」でも我慢できる程度の授業に留めるべきだ、と考えます。
そして、私の意見としては「嫌いな興味のない生徒」が我慢できる最低線は「受験に対応できるか」の一点にほぼ絞られるかと考えます。
何故かと言うと嫌いな興味のない生徒は多くの場合「嫌いな若しくは興味のない教科」とは大学受験が終ったら、縁を切ろうと考えている場合が多い様に思われるからです。
そして「始式試験」は現行の大学入試制度が大きく変更される様な事がない限りでは有体に言ってしまえば「無駄」以外の何もでもない様に思われます。確かに現行の「暗記重視」型の大学入試が問題ない訳ではないですが、何をするにしても最低限の「暗記」は必要です。
その意味で「始式テスト」は、最低限の「暗記」を確認する事ができるか、という点について非常に大きな疑問を待たざる得ません。
私個人の意見としてはこういった生徒のことを真に考えるのならば、生徒により当たり外れの多い試験ではなく確かに問題も多く有りますが通常の「暗記型試験」の方が良い様に思われます。大学入試は多くの生徒にとって、人生の設計に大きな影響を与える出来事です。それ軽視する様なことは長期的には兎も角、少なくとも短期的には生徒の為にならない可能性が高いように思われますし、長期的にも余り役に立たない可能性が高いかと思われます。
> 「進学校に向いてない授業を好き好んで進学校で行う」竜堂始はどうかと思いますしそれは肯定的に描写するなら多少作劇間違ってないか?とは思います。
> 竜堂始が『常識の規格外な人物』とか『ピカレスクヒーロー』なら多少考え直すべきかも知れませんがそうなんでしょうかね?
すみません。
進学校という設定はどこかに書かれてましたでしょうか?
私は、共和学院とは、エスカレータ式の私立学校という認識でした。
(幼稚園から大学まであるので)
エスカレータ式の学校の場合、一度入ってしまえば、まず問題ない成績を収めれば
大学まで苦も無く進学できると思っています。
そして私の勝手な思い込みかもしれませんが、私立学校は、独特な授業をすることを
校風?としている所も多々あるように思ってます。
ましてや、学園創立者が”始”の祖父である以上、始のような授業をするというような
校風が世間一般に知られていると思って間違いないのではないでしょうか?
少なくとも世間一般にあるような進学校という認識はなさそうです。
(祖父の死後は進学校としての方向転換がなされているかもしれませんが
世間が見方を変えるほどの年月が経っていないかと)
で、私立の高校である以上、どの高校を選ぶかは、生徒の自由であり、
有名国公立を進学先に選ぶのであれば、その前の段階として、共和学院の高校という
選択自体がなされないかと。
何が言いたいのかというと、「進学校」という設定が崩れれば、
その先の批判が全て崩れると思うので、「進学校」にこだわってみました。
その他に批判展開されている方も「受験」を問題にされていたようですので、
それについても、上記のように考えたならば、問題なくなるかと思います。
ここからは、また私見になりますが、
小説って、細かい設定を一つ一つ補足していては、小説の中身が薄くなったり、
間が悪くなったりで、かえって小説の質が悪くなると思うのです。
で、1巻の授業の話のあたりは、”始”の性格とか思想とかを簡潔に示すための
材料にすぎず、そう考えれば、あれ位の記述で十分だと思うのです。
あれ以上の説明や補足は本編に関係ありませんので、書かれた場合、
話のテンポが悪くなりますから。
で、授業についての議論では、その説明されていない部分を悪く仮定した上で、
批判展開されている様に思えたのです。
「その教科が嫌いな生徒」を好きにさせるには、従来の授業より”始式”の方が
良いように思えます。
また、受験を問題としていますが、その点については、6646でも触れましたが、
その授業を受ける生徒にとって、現在の大学入試のような受験が発生しない環境で
あるならば、その問題点はクリアされると思います。
そして、小学校から大学まである共和学院は他大学に進学しようと考えない限り
受験を気にする必要がないかと。
受験を気にしなくなった場合、授業は、その教科に興味を持たせ、考察等をさせて
身になる知識を植えつけていくという方向にシフトしていくのではないでしょうか?
(単なる暗記は、受験が無かった場合、本当に無意味な作業になってしまうので)
ふと思ったのですが、本来高校ってどういう位置づけになるのでしょうね。
現在の日本では、大学に行くための予備校的な位置づけになってるような気がします。
中学までは国から義務教育とされてますので、決められた量の知識を植えつけていく
必要がありますので、始式は論外なのでしょう。
大学は本当に得たい知識を習得しにいく場であり、また研究の場でもありますから、
「嫌いな生徒」を考慮するなど論外ですし、
全員に一定レベルの知識を植えつけるための授業も必要ないはずです。
単位を得るためには、自主的に一定レベルの知識を得る努力をする必要ありますし。
ということで”始式”が主流になるのかと。
(私自身も大学で”始式”のテストを受けましたし)
で、高校は義務教育ではないし、今のような大学へ行くためだけの授業っていうのも
本来の目的ではないような気がします。
まあ、でも大学に行くためのステップであることは間違いないので、
どちらかといえば、大学でしなければいけないような考察の訓練とか大学についていけるだけの知識の習得となるのでしょうか?
とするならば、”始式”が高校で実施されることにも多少は意味が出そうな・・
ふと今回のことを考えていて疑問になってしまいました。
>GGGさん
まず最初に
> 今、1巻から読み直しをしていて、2巻に入った所ですが、
> 少なくとも、1巻には上記を示すような記述は無かったように思われます。
GGGさんの方が正しい筈です、前回見落とした事を含めてお詫びして撤回いたします。
ただそうなると世界史教師竜堂始の授業って何をやっているのかという疑問はありますが。
流石に「黄河文明」とか「易姓革命」とかひたすら課題用キーワードを羅列していくだけというのはありえなさそうですし万一やっていたらそれはあんまりな授業だと思います。
> すみません。
> 進学校という設定はどこかに書かれてましたでしょうか?
> 私は、共和学院とは、エスカレータ式の私立学校という認識でした。
> (幼稚園から大学まであるので)
> エスカレータ式の学校の場合、一度入ってしまえば、まず問題ない成績を収めれば
> 大学まで苦も無く進学できると思っています。
> そして私の勝手な思い込みかもしれませんが、私立学校は、独特な授業をすることを
> 校風?としている所も多々あるように思ってます。
> ましてや、学園創立者が”始”の祖父である以上、始のような授業をするというような
> 校風が世間一般に知られていると思って間違いないのではないでしょうか?
少なくとも世間一般にあるような進学校という認識はなさそうです。
> (祖父の死後は進学校としての方向転換がなされているかもしれませんが
> 世間が見方を変えるほどの年月が経っていないかと)
>
> で、私立の高校である以上、どの高校を選ぶかは、生徒の自由であり、
> 有名国公立を進学先に選ぶのであれば、その前の段階として、共和学院の高校という
> 選択自体がなされないかと。
鳥羽靖一郎叔父はそのあたりかなり「努力」していたようですが。
教育委員会やその上に彼らが期待する所の「優秀で有用な人材の輩出を目指しますので(便宜を宜しく)」とか「そういう学校」としての宣伝とか教師陣の編成・指導とか。
> 何が言いたいのかというと、「進学校」という設定が崩れれば、
> その先の批判が全て崩れると思うので、「進学校」にこだわってみました。
> その他に批判展開されている方も「受験」を問題にされていたようですので、
> それについても、上記のように考えたならば、問題なくなるかと思います。
具体的には書かれていませんが「鳥羽靖一郎氏が俗物で」「『自由・自律・自尊』の額が『努力と勤勉』に置き換えられ」「現在の教育体制でより儲かる経営を目指し」「お上の覚えもめでたくありたい」という、あるいはこれに近い描写はありましたよね。
この条件を満たす解答なら「所謂有名大学への進学率も高くいずれは自分の所が早稲田・慶応に並ぶ名門校志願」というのが妥当ではないかなと予想します。
あと傍証として始の授業に来た生徒の苦情は「受験に役立つ授業をしてくれ」でしたし。
> ここからは、また私見になりますが、
> 小説って、細かい設定を一つ一つ補足していては、小説の中身が薄くなったり、
> 間が悪くなったりで、かえって小説の質が悪くなると思うのです。
> で、1巻の授業の話のあたりは、”始”の性格とか思想とかを簡潔に示すための
> 材料にすぎず、そう考えれば、あれ位の記述で十分だと思うのです。
> あれ以上の説明や補足は本編に関係ありませんので、書かれた場合、
> 話のテンポが悪くなりますから。
> で、授業についての議論では、その説明されていない部分を悪く仮定した上で、
> 批判展開されている様に思えたのです。
「歴史を理解する」上で受験に最低限必要な暗記事項あたりは知っていても損はない事も多いですよ。
にも関わらず「受験向きじゃない」と不平をいう生徒が出る事と、試験時の「複製ノートへの対応」が曖昧な当りがかえって始へのマイナスポイントにならないかと懸念されるのではと予想します。
>synさん
私はsynさんのご意見に同意する所大なのですが一点だけ
> さて、私の意見からすると「始式試験」は恐らく多くの生徒にとって困り物になる可能性が高いと思います。
> それと言うのも確かにこういった「考えさせる」試験はその教科が好きな興味のある生徒にとっては正に夢の様な試験になると思いますが、作中でもそんなような事が言われていたかと思いますが「嫌いな興味のない生徒」にとっては精神的な拷問の様なものになってしまいます。しかも評定がかかっている以上、余り無視するわけにもいきません。
> 無論、私も「嫌な教科は受けなくても良い」と主張したい訳では有りません。幾ら教育といっても究極的には「客商売」であり一種の「サービス業」に変わりはない訳ですから、最低限の基準として「嫌いな興味のない生徒」でも我慢できる程度の授業に留めるべきだ、と考えます。
> そして、私の意見としては「嫌いな興味のない生徒」が我慢できる最低線は「受験に対応できるか」の一点にほぼ絞られるかと考えます。
> 何故かと言うと嫌いな興味のない生徒は多くの場合「嫌いな若しくは興味のない教科」とは大学受験が終ったら、縁を切ろうと考えている場合が多い様に思われるからです。
ここは少しだけ始を庇っていいのかなという事で一点。
おそらく、最低限『創竜伝』執筆開始当事の教育事情であれば生徒には「『日本史』『地理』『政治経済』『倫理』から受験科目を選び『世界史』は捨てる」という受験科目選択が可能ではなかったかと思われるからです。
> そして「始式試験」は現行の大学入試制度が大きく変更される様な事がない限りでは有体に言ってしまえば「無駄」以外の何もでもない様に思われます。確かに現行の「暗記重視」型の大学入試が問題ない訳ではないですが、何をするにしても最低限の「暗記」は必要です。
> その意味で「始式テスト」は、最低限の「暗記」を確認する事ができるか、という点について非常に大きな疑問を待たざる得ません。
> 私個人の意見としてはこういった生徒のことを真に考えるのならば、生徒により当たり外れの多い試験ではなく確かに問題も多く有りますが通常の「暗記型試験」の方が良い様に思われます。大学入試は多くの生徒にとって、人生の設計に大きな影響を与える出来事です。それ軽視する様なことは長期的には兎も角、少なくとも短期的には生徒の為にならない可能性が高いように思われますし、長期的にも余り役に立たない可能性が高いかと思われます。
故にどうしても始式授業とソリが合わなければ『選択しない、竜堂講師に師事しない』事は可能だった筈です。
ただ「本質的に世界史は好きで今のうちに基礎を少し学んでもおきたいが、努力と要領良さの評価に差がなかったりあんまり先生の恣意的な価値観(始にはこれがありそうですので)を聞かされるのも遠慮したいな」とかえって歴史好きの生徒が遠回りしてしまいそうな気の毒をかこつ懸念はありそうですね。
S.Kさんへ
>GGGさんの方が正しい筈です、前回見落とした事を含めてお詫びして撤回いたします。
なんか恐縮してしまいます。
あの書き込みは、そうだったかな?っていう疑問を含めた書き込みでしたので。
まだ先の巻(番外編の辺りで臨時講師してたりしますので)で
触れてる可能性もありそうなので、また、そこまで読み進んで
見つけたら報告させて頂きます。
>あと傍証として始の授業に来た生徒の苦情は「受験に役立つ授業をしてくれ」でしたし。
これは、1巻p100の高等科長のセリフですね。
「竜堂講師、君の授業のやりかたに対して、このごろ不満が表面化している。年代もおぼえないし、他大学を受験する成績優秀な生徒から抗議がきておるんだよ」
という所ですね。
確かに他大学を受験する人には不利な授業なのでしょうね。
私としては、大学まである私学に入って、わざわざ、他大学を受験しようと思っているなら、学校の行う授業に文句言ってないで、予備校などで受験用の勉強をしたほうが、とも思いますけど。。
一方で、2巻p9にこんな文章もあります。
「始が去った後、共和学院の高等科では、「竜堂先生の復帰」を求める署名運動が行われているそうだ。」
という記述もあります。
これが、始の授業を良しとした結果かどうかは分かりませんが、
少なくとも、生徒にそれなりの人気のあった先生だったようですよ。
まあ、若くてかっこよい先生だから、っていう一点かもしれませんが。
なんにせよ、小説の中の少ない情報からは、始の授業や、先生としての評価を決定づける確かな情報は示されていないというのが
私の主張する所です。
情報が少ないので好意的にも否定的にも取れるのですが、
ここでは否定的に取って批判展開してるようですので、
ちょっとあんまりかな、と思った次第です。
後、ちょっと気になったので、1~2巻を流し見てたのですが、
始の祖父が亡くなって何年になるのでしょうね。
どこかに書いてあったような気もするのですが。。
私の中では、まだ叔父が理事長になって、そんなに年数経ってないように感じてました。
なので、前回のような書き込みになっています。
(前の理事長の校風が世間的に残っているという点)
以下は、レスというより、私の感想と紹介的な書き込みですので、読み飛ばしてください。
それにしても、こういう検証を含めての小説読みっていうのは
疲れますね。
私は、初めて読むときはきちんと隅々まで読むのですが、二回目以降は結構流し読みですので。
で、流し読みには、創竜伝って結構テンポも良いので、読みやすいんですよ。細部の矛盾とかも気にならないですし。
なので、ここで言われてるほど駄作とは思えないんですよね。
与党批判的なところも、銀英伝の時と変わらないですし、
この作家の作風かな~と思う程度ですし。
ちなみに私が読んでる田中作品は、
銀英伝、創竜伝、アルスラーン戦記の三作のみです。
読んだ順番も上記どおりですね。銀英伝はアニメの方も全て見てます。
田中作品以外には、夢枕獏さんや菊池秀行作品を好んで読んでます。
変わった所で隆慶一郎(故)さんです。
いずれも遅筆?な方ばかりですので、田中作品の遅さも気にならないです。(慣らされているだけ?)
隆さんにいたっては、お亡くなりになっているので、ホントに話の途中で途切れてる作品とかもあり、
こうなってしまうと読者としては悲しいですね。
なので創竜伝とアルスラーンは終わらせて欲しいものです。
どうやら議論は終ってしまったようですが、興味を持ちましたので私の意見をひとつ言わせていただきたいと思います。
始式のテスト方式が成立する要因として、2つの前提が必要なのだと思います。
1つは、「個々の生徒の学習意欲が高い」
つまり人のノートなどをあてにせずに、自分で授業中に的確なノートを作成するだけの意欲がある。まあつまらない授業でしたら、問題外でしょうが。
2つめは、「ある程度の基礎学力がある」
論述問題にあたって場当たり的な知識ではたいした意見は出てきません。つまり基本的な問題点を把握し、自分の意見を提出するには基礎な知識がなければ、結果としてノートの丸写しにしかならない。
この2つの前提があって初めて可能なのではないかと思います。
この2つの前提があり、始式のテスト方法が実際に行われているのが大学ではないでしょうか。私も実際にいくつかの講義では、「自筆ノート持込可」「問題の事前の提示」などの条件でテスト受けました。
ただ結果として、それが他のテスト方法よりも身に付いたかというとはっきり言ってそんなことはありません(あくまで私の例ですが)
何度も言われてるように誰かのノートがクラス中に出回り、ひたすら写し、それを参考にそれらしいことを書くのですが、テストが終わるとほぼ忘れてます。
自分で選んだ専門課程であるはずの大学ですら、とりあえず単位が取れればいいとの人達ばかり。もちろん私もそうでしたが。まだ興味の分野も定まってない(?)高校生にそこまで特定の教科への興味を期待するのは難しいかと思います。
ただ従来のテスト方式でもほぼ同じことが言えます。
私は高校時代は世界史が非常に好きで、成績もかなりよく、受験科目も世界史だったのでかなり勉強しましたが、それでもいまとなっては年号などまるっきり忘れてます(私の記憶力が悪いだけかもしれませんが・・・)
ただし、大学受験が目的の高校なら暗記でいいんじゃないでしょうか。私は、高校の意味が大学予備校とは思いませんけど。
また学力の客観的な測定としての試験というものを否定するわけではありませんし、その社会的意義も理解しているつもりです。詰め込み教育の利点もあると思ってます。
ただ学校の授業で学べることなど時間的にも制約があり、たかが知れており、表面的にならざるを得ないと思いますし、足りない部分は自分で補うしかないと思ってます。それならば歴史を学ぶ意義などを義務教育の段階できっちり教えてくれたならもっと自発的な習得につながるとおもうんだけどなあ。
つまり何がいいたいかというと、私にとってはどちらのやり方にしても利点欠点はあるので、そのどちらかに無理やり決めなければならないという点で延々と議論することはたいして意味があるようには思えないということです。
皆様の論点が始を否定するか肯定するかになっており、いささか議論としては視点が狭く不毛な気がします。それよりかは、両方のいいところを止揚して、より良い教育制度とは何かといった意味のある議論へと結びつける契機として考えられないものでしょうか?
こちらのサイト様の特性上、それは他でやれって感じなのかもしれませんが。
雑文失礼いたしました。
以前創竜伝1巻での竜堂始の世界史のテストについて議論が交わされていてそれを読んでいろいろと思ったことを書かせていただきます。もう一度読み返そうと思ったのですが該当部分が見つからなかったので、いくつか間違い等あると思いますので先に謝っておきます。
私個人の意見としては竜堂始のテスト方法に反対します。
生徒は自筆ノートでカンニングなどの問題が議論されておりましたがカンニング行為などしないという前提で考えても難しいと考えております。
自筆ノート作成に必要な資料を生徒の人数分だけ用意することは不可能だと考えます。
一クラス30人と考えて3クラスあれば90人が同じ問題について同時期に調べることになります。多少調べ方によって必要とされる資料がバラける可能性がありますが半分と考えても45冊の資料が必要とされます。こういった歴史の本がたくさん出版されているとは考えられません。90人が違う資料を求めたとしても90冊も「中国史における長江の役割」について書かれた本が図書館においてあるとは思えませんし本屋にもないでしょう。教科書1冊だけで竜堂始式の世界史テストを行うのならばあまり意味がないと思います。大学でこのような方式をすることがありますが論文を書くのに参考文献が一冊だけであるなら担当教師はよい成績をくれないであるでしょうし自分と違う意見と比較することでより理解を深めていくと思います。
次に他大学を受験する生徒のことをまったく考えていないことです。作中にも成績優秀な生徒から苦情が来ているとの描写があったと思うのですが他大学受験者だと思われます。例えば有名大学教授の山田先生の本を読んで山田先生の授業を受けたいと思い有名大学の受験を考えたとき受験の事を全く考慮しない竜堂始の授業より受験のことを考えた通常の授業の方がありがたいと思います。竜堂始は世界史を本当に好きになってほしいと思ってこのような授業をしているかもしれませんが深く歴史を学ぼうとすればよりレベルの高い学校を目指す生徒も出てくることも考えてみると受験対策も少しは考えていくべきだと思います。
遠い昔に終わってしまった議論かも知れませんがのどに引っかかった魚の骨のように気になっておりますのでよろしくお願いします。
文月様、初めまして。ダイスと申します。
レスを失礼致します。
>私個人の意見としては竜堂始のテスト方法に反対します。
僕個人としては、別にどっちでもいい、と考えています。
積極的に反対する理由も賛成する理由も見出せないからです。
>自筆ノート作成に必要な資料を生徒の人数分だけ用意することは不可能だと考えます。
どうして自筆ノートを作成するのに必要な資料を『誰か』が用意して、それを生徒に提供するというのを竜堂始の試験の為の前提だと考えられたのでしょうか?
別に学校側(竜堂始)から資料を提供してもらわなくても、生徒が自分で試験の問題に関する資料を探して調べて、ノートを作ればいいだけの話だと思いますが。
竜堂始自身『ノートを自力で作ることが大切なんだから』(文庫版1巻53p7行目)と言っています。
> 一クラス30人と考えて3クラスあれば90人が同じ問題について同時期に調べることになります。多少調べ方によって必要とされる資料がバラける可能性がありますが半分と考えても45冊の資料が必要とされます。こういった歴史の本がたくさん出版されているとは考えられません。
どういう根拠でそういった歴史の本が沢山は出版されていないと考えられたのでしょう?
試しに国立国会図書館のサイトで『長江』というキーワードで検索したら、300件以上ヒットしましたが。勿論、中には写真集など全く歴史に関係ないものも含まれますが、こういった資料の中から生徒が自分で『試験に使えそう』と思えるものを探せばいいのでは?
>90人が違う資料を求めたとしても90冊も「中国史における長江の役割」について書かれた本が図書館においてあるとは思えませんし本屋にもないでしょう。
何故『1つの図書館』における蔵書の数で『90冊も中国史における長江の役割」について書かれた本は置いてない』という論理に至られたのかもよくわかりません。
そもそもどうして90人全員が同じ図書館で資料を探す必要があるのでしょうか。
生徒1人1人がそれぞれ自分の住んでいる区なり、町なり、市なりの図書館に出向いて、自分でそれに関する資料を探せばいいだけでしょう。
共和学院は私立なんですから、まさか90人全員が同じ市区町に住んでいるわけではないでしょうし。
それに別に「中国史における長江の役割」について、それだけを専門に書いた本じゃなくても、中国の歴史について書かれた何冊か本の中から、中国史における長江について述べられた部分を生徒が自分で見つけて、ノートに整理して自筆の資料にし、テストの際にはそこから他人とは違う自分だけの解答を展開すればいいと思いますし、それが竜堂始がこの試験方式について意図するところだと考えます。
記述式である以上、唯一無二の正解はあり得ませんから、調べた資料がそれぞれ違っても、結果として中国史における長江の役割について述べられていれば正解になるでしょう。
確かに物凄く勉強する効率は悪そうですし、大変そうですけど。
>次に他大学を受験する生徒のことをまったく考えていないことです。作中にも成績優秀な生徒から苦情が来ているとの描写があったと思うのですが他大学受験者だと思われます。例えば有名大学教授の山田先生の本を読んで山田先生の授業を受けたいと思い有名大学の受験を考えたとき受験の事を全く考慮しない竜堂始の授業より受験のことを考えた通常の授業の方がありがたいと思います。竜堂始は世界史を本当に好きになってほしいと思ってこのような授業をしているかもしれませんが深く歴史を学ぼうとすればよりレベルの高い学校を目指す生徒も出てくることも考えてみると受験対策も少しは考えていくべきだと思います。
この意見に関しては同感です。
はじめまして
> 以前創竜伝1巻での竜堂始の世界史のテストについて議論が交わされていてそれを読んでいろいろと思ったことを書かせていただきます。もう一度読み返そうと思ったのですが該当部分が見つからなかったので、いくつか間違い等あると思いますので先に謝っておきます。
> 私個人の意見としては竜堂始のテスト方法に反対します。
当時私も反対派でしたから言いにくいですが「事前調査ありの即製レポートで単位を貰う」と考えれば、まああれはあれでありなのではないでしょうか。
> 生徒は自筆ノートでカンニングなどの問題が議論されておりましたがカンニング行為などしないという前提で考えても難しいと考えております。
「ノート見ながら記述していい」段階で「カンニング」という概念自体が無意味化すると思います。
> 教科書1冊だけで竜堂始式の世界史テストを行うのならばあまり意味がないと思います。大学でこのような方式をすることがありますが論文を書くのに参考文献が一冊だけであるなら担当教師はよい成績をくれないであるでしょうし自分と違う意見と比較することでより理解を深めていくと思います。
短文であれ、間違っていなければ始教諭としては合格点を与える他ないのではないでしょうか、「参考資料をより多く揃えられる金持ちと要領のいい奴優遇」とは理念上言われたくないでしょうし。
>次に他大学を受験する生徒のことをまったく考えていないことです。
時代も変わりましたし、生徒も「理数系以外は受験に必要ないんだが、高校卒業に必須の文系単位が一つ安易に取れる」的に利用していく形もあるでしょう、正直始の理念と相反していますし私もどうかと思う教科履修のあり方ですが。
ダイス様、S.K様 ご意見、補足ありがとうございます。
ダイス様
>どうして自筆ノートを作成するのに必要な資料を『誰か』が用意して、それを生徒に提供するというのを竜堂始の試験の為の前提だと考えられたのでしょうか?
これですが竜堂始が資料を用意するなどと考えたわけではありません。共和学院の図書館に行って資料を探し出すことを前提としておりました。問題は図書館が資料を生徒の人数分だけ提供することができるかどうかです。
従来の教育では教科書を覚えこませる詰め込み教育であったため図書館に調べるだけの資料を備えている必要がなかったため図書館の蔵書は文学に偏っているそうです。公共図書館に関しても小学校レベルの調べ学習で生徒が同じ分野の本を探しに来るため書庫から古い本を出してきたりその分野の本を貸し出し禁止にしたりと対応に苦労されているようです。
竜堂始が周囲の図書館と連携をとっていればいいのですが・・・。
>どういう根拠でそういった歴史の本が沢山は出版されていないと考えられたのでしょう?
不景気のため出版社がそういったあまり売れない分野の本を出さなくなったという記事を読んだのでそう思い込んでおりました。
申し訳ありません。田舎に住んでいるせいか本屋さんに漫画などがたくさんおかれていて専門書が隅で小さくなっているのを見ているのであまり出版されていないんだなと思っておりました。
現代日本の図書館はまだそういったテスト方式に対応できるだけの力は持っていないのではと思ったので書き込ませていただきました。
S.K様
短文でも間違っていなければということですが短文でまとめられるのはある意味才能が必要な気がします。
> 短文でも間違っていなければということですが短文でまとめられるのはある意味才能が必要な気がします。
「『全員共通の教科書の記載と竜堂始先生の授業内薀蓄 』程度の情報量」という意味合いで「短文」としましたが、テスト用紙一枚分くらいはこれだけで十分埋まる程度にはなると思います。
ついでに、やはり高得点が欲しければ「調べる努力」か「要領よく纏める才能」のいずれかは教育的に要求しても良いのではないでしょうか?
当方そこまでしなくても「合格点」は貰える試験形態なのだろうと、竜堂始の理念から逆算して推測しておりますが。