中国で木版印刷が実用化されたのは、唐代初期じゃありませんでしたっけ? 私の資料が古すぎるのかも知れません。
それはともかく、聖書を普及させて欧州の庶民にキリスト教を浸透させた活版印刷の方が、文化上の貢献度としてはよっぽど優れていますね。中国や朝鮮でも活版はグーテンベルク以前にもあったようですが、近代活版術への直接の系譜は(多々の異説はあるにせよ)、冒険風ライダーさんが仰るとおりグーテンベルクだと思います。
仮に中国人が印刷術の元祖だとしても、8巻で西王母が言っていた、
「コロンブスのアメリカ大陸発見を阻止したところで、固有名詞が変わるだけ」
という理屈に沿えば中国人が木版印刷を発明しなくたって、いつかは発明されるものなんだから、ことさら中国人の功績を唱えなくても良さそうなもの。だいたい、元祖が一番だと言うなら、古代フェニキア人が一番偉いに決まってます。なにせ世界共通語の元祖ですから。
少し思ったのですが、田中氏の中国の持ち上げ方は、以前流行ったほめ殺しそのものです。実は田中氏は中国が嫌いなんじゃないでしょうか?(笑)
> ま、そんな下らないことはさておき、青竜王がやたらと絶賛している超普の軍隊統制政策ときたら、私がかつて「銀英伝考察2」で否定したはずの「中央統制型文民支配体制」そのものではありませんか(笑)。アレがいかに軍事運営に関して有害無益なシロモノであるか、私は散々強調しておいたはずなのですけど。
と言ってもこの論考は田中芳樹の眼に触れていないと思いますので、それは言い過ぎかと。
> 大日本帝国憲法が発布されたのは明治22年(1889年)で、その後日本は日清・日露戦争を戦い、さらに第一次世界大戦時にも日本は参戦していますが、この当時には「統帥干犯問題」など全く存在していません。当時の日本は他の西洋諸国と同じく、内閣の責任において宣戦・講和し、軍事予算は議会の承認を得て組まれており、それに対して軍部が統帥権を振りまわすということなどなかったのです。
正確を期せばワシントン軍縮条約のとき加藤全権が軍縮に応じたことをもって「訓令を無視し、統帥権干犯ではないか?」と問題になりました。
このときは常識が勝利して陸海軍のことといえど予算がからむ問題では政府に権限があるという憲法解釈で通りました。思えばこのときに憲法改正を行い、政府が主導権を確立すべきだったと思いますが、今も昔も法学関係者は護憲一筋「憲法は不磨の大典」ですから、当然そういう意見は少数派です。
現行憲法は護持すべき。実情に合わないところは解釈でどうにでもなる。ええ、もちろんこれは戦前のお話しです(笑)
法なんて人間社会を快適にするための道具なんですから神聖視しなくてもいいじゃないのとは、私の独り言です。
> この「統帥権干犯問題」が浮上するようになってきたのは、昭和5年(1930年)のロンドン軍縮条約がきっかけです。当時この条約に反発した陸軍が軍縮を恐れ、自分達に都合の良い憲法学者の説を利用して、大日本帝国憲法の解釈を捻じ曲げた珍説を作り出し、それに当時の帝国議会の二大政党のひとつであった政友会が「政争の具として」これを積極的に利用することを決め、その結果、1930年4月25日の衆議院本会議で、当時の政友会総務であった鳩山一郎が「統帥権の独立」を振りかざして政府を攻撃したのです。これが「統帥権干犯問題」の始まりで、以後、この「統帥権干犯問題」は戦前の日本における政党政治を死滅させていくことになります。
「陸軍」ではなく「海軍」ですね。そもそもロンドン条約は海軍軍縮条約であって陸軍は埒外です。むしろ膨大な予算を分捕りつづける海軍の勢力が弱体化すること自体は陸軍の省益に叶っていますし(笑)
陸軍がこの問題で絡んでくるのは宇垣軍縮や山梨軍縮以後ですね。
最終的には陸軍省、海軍省すらも「統帥権独立」の旗印の下、それぞれの参謀本部、軍令部がどういう作戦をやっているのか、どれだけの損害を出しているのかを把握できないという戦争指導上最悪の状態になります。
> ……で、歴史にお詳しいはずの東海青竜王陛下に是非お聞きしたいのですけど、この大日本帝国憲法の本来の制定プロセスが、宋王朝の軍隊統制政策にどこがどう劣るというのでしょうかね? 終始弱体化して周辺諸国に押されっぱなしだった宋王朝の軍隊と異なり、大日本帝国憲法下における日本政府は、この体制下において陸海軍を統制し、日清・日露戦争を勝利に導き、列強の仲間入りを果たしているのです。この一事をもってしても、大日本帝国憲法およびその制定者達は、すくなくとも宋王朝の軍隊統制政策よりはずっとマシな成果を上げているように思うのですけど。
これは両者に求められる性格の違いに起因すると思います。
日本軍は明治初期の鎮台時代を除けば、基本的に外征軍としての性格を強調して整備されています。対外戦争での勝利を第一義として建設されているわけです。
これに対し、宋軍は基本的に内乱鎮圧用軍隊です。中国史上、宋代に至るまで統一王朝が対外勢力の侵攻により滅びたことは無く、王朝滅亡は農民反乱や重臣や地方軍の反乱という形をとっていましたから、これを未然に防ぐ宋のシステムは非常に優れたものだったと思えます。
実際に宋代は対外戦争は不振だったものの、その政治的安定性は歴代最高といえ、その安定性を背景に経済超大国として発展したわけですから、いちがいに悪いシステムではありません。
問題はやはり、中央官僚が実情を無視した無茶苦茶な外交政策や軍事作戦を実行したことにあり、どんなシステムでも運用する側に問題があればどうしようもないでしょう。
宋滅亡の原因も軍隊の弱さというよりは金国との幾度にもわたる違約など拙劣な外交政策にあるわけですから。
軍隊が強ければ滅びなかったというのはこの場合、木造住宅だから全焼したというもので、むしろ寝煙草など火事の原因となったものを指摘すべきではないでしょうか?
>日傘さん
> 中国で木版印刷が実用化されたのは、唐代初期じゃありませんでしたっけ? 私の資料が古すぎるのかも知れません。
宋王朝以前に存在した印刷術というのは木版画を使った方法で、1ページにつき1枚の版木をいちいち作成して印刷するという、極めて効率の悪い原始的な印刷術です。これを木版印刷の起源とするならば確かに日傘さんの仰る通りです。
しかしここで言われている木版印刷というのは「活字」を使った印刷方法でしょう。中国における活字の起源は11世紀の宋王朝時代、畢昇という人物によって作られた、粘土と松ヤニを使った陶製の活字がその始まりであると言われています。田中芳樹が言っている木版印刷というのは多分これのことでしょう。もっとも、これが本格的な木活字にまで発展するには、さらに時代が下って13世紀・元王朝時代まで待たなければならないようですから、正確には「木版印刷の元ができた」と言った方が正しいのですけど。
> 少し思ったのですが、田中氏の中国の持ち上げ方は、以前流行ったほめ殺しそのものです。実は田中氏は中国が嫌いなんじゃないでしょうか?(笑)
実は私自身もそういう疑問を抱いたことが何度かあります(笑)。で、ホントは日本が大好きなのに、あえて自分に反発を集中させるためにムチャクチャな日本弾劾論を唱えているのではないかと(爆)。
しかしそれにしてはちょっと「ほめ殺し」の回数がやたらと多すぎるように思いますし、中国評論本での純粋な評論の時でさえ同じような論法を展開しているので、やはりアレは本心からの礼賛なのでしょう。あんな方法では却って逆効果でしかないということを、いいかげんに「歴史から学んで」欲しいものなのですけど。
>とっしーさん
>と言ってもこの論考は田中芳樹の眼に触れていないと思いますので、それは言い過ぎかと。
う~む、アレはあの問題の評論と「銀英伝考察2」の批判内容とが妙にリンクしすぎていたように感じたので、「アレを見ていればこんな評論をすることもなかったろうに」と「見ていて反論のつもりで書いていたのならばどうしようもない話だな」の2つの意味を込めた皮肉として書いたものでして。
一応どちらに転んでもそれなりの皮肉として通用するように書いたつもりだったのですけど。
>「陸軍」ではなく「海軍」ですね。そもそもロンドン条約は海軍軍縮条約であって陸軍は埒外です。むしろ膨大な予算を分捕りつづける海軍の勢力が弱体化すること自体は陸軍の省益に叶っていますし(笑)
> 陸軍がこの問題で絡んでくるのは宇垣軍縮や山梨軍縮以後ですね。
> 最終的には陸軍省、海軍省すらも「統帥権独立」の旗印の下、それぞれの参謀本部、軍令部がどういう作戦をやっているのか、どれだけの損害を出しているのかを把握できないという戦争指導上最悪の状態になります。
改めて調べてみたら確かにその通りでした。1925年の宇垣軍縮以後、自分達の軍縮に危機感を覚えていた陸軍が統帥権干犯の憲法解釈を作成し、1930年のロンドン軍縮会議の際にその解釈を知った政友会が政治闘争のために利用し、それに海軍が同調して統帥権干犯問題が表面化したというのが真相です。
これに関しては私の評論の方に間違いがあったようでしたので、ここに訂正させていただきますm(__)m。
> これは両者に求められる性格の違いに起因すると思います。
> 日本軍は明治初期の鎮台時代を除けば、基本的に外征軍としての性格を強調して整備されています。対外戦争での勝利を第一義として建設されているわけです。
> これに対し、宋軍は基本的に内乱鎮圧用軍隊です。中国史上、宋代に至るまで統一王朝が対外勢力の侵攻により滅びたことは無く、王朝滅亡は農民反乱や重臣や地方軍の反乱という形をとっていましたから、これを未然に防ぐ宋のシステムは非常に優れたものだったと思えます。
> 実際に宋代は対外戦争は不振だったものの、その政治的安定性は歴代最高といえ、その安定性を背景に経済超大国として発展したわけですから、いちがいに悪いシステムではありません。
> 問題はやはり、中央官僚が実情を無視した無茶苦茶な外交政策や軍事作戦を実行したことにあり、どんなシステムでも運用する側に問題があればどうしようもないでしょう。
しかし宋王朝的な軍隊統制政策だと、実状に合わない軍隊運営や軍隊に対する過剰干渉を中央政府が行うのは、ほとんど「必然」と言っても良い現象なのではないでしょうか? 一方通行的な中央統制では、むしろ逆に、よほど有能で統率力のある人物が上に立たない限り、マトモな軍隊運営などできなくなってしまうのです。とっしーさんが挙げていた実状無視の中央統制の問題などは、それこそ私が「銀英伝考察2」で指摘した政治システム的な弊害そのものなのですけど。
もちろん、唐王朝末期~五代十国時代における藩鎮を中心とした軍閥割拠の反省から宋王朝の軍隊統制政策が出てきたのは私も承知していますし、戦乱の時代を終わらせ、国内治安の安定をもたらしたという点では評価すべき点もあるのでしょうが、やはりそれがもたらした「軍事力の弱体化」という問題は無視できるものはないですし、ましてや、歴史的背景がまるで異なる宋王朝の政策と旧日本軍の暴走とを比較するのは筋違いもいいところでしょう。
現代の日本政府も、自衛隊の統率・運営に関しては宋王朝と似たような中央統制を行っていますからね~。あの愚劣な惨状を見るたびに「こんな自縄自縛政策のどこがスバラシイのだ」と私は思わずにはいられないのですけど。
> 宋滅亡の原因も軍隊の弱さというよりは金国との幾度にもわたる違約など拙劣な外交政策にあるわけですから。
> 軍隊が強ければ滅びなかったというのはこの場合、木造住宅だから全焼したというもので、むしろ寝煙草など火事の原因となったものを指摘すべきではないでしょうか?
これに関しては、私はアレの次の評論(モンゴル帝国と宋王朝との比較について)で「宋王朝・約320年の歴史の実態」という逆の観点から論じていますけど。何しろあのバカ連中ときたら「軍事力が強いモンゴル帝国は滅ぶのが速かった」と言わんばかりの論を展開していたものですから。
それから私は「軍隊が強ければ滅びなかった」とは一言半句も言っていません。私の主張は「軍隊は強くなければならない」「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」です。第一、私は「偉大なる英雄」岳飛などよりも「屈辱外交の担い手」秦檜の方をこそ高く評価しているのですしね。外交の重要性は充分に承知していますよ。
> しかし宋王朝的な軍隊統制政策だと、実状に合わない軍隊運営や軍隊に対する過剰干渉を中央政府が行うのは、ほとんど「必然」と言っても良い現象なのではないでしょうか? 一方通行的な中央統制では、むしろ逆に、よほど有能で統率力のある人物が上に立たない限り、マトモな軍隊運営などできなくなってしまうのです。とっしーさんが挙げていた実状無視の中央統制の問題などは、それこそ私が「銀英伝考察2」で指摘した政治システム的な弊害そのものなのですけど。
> もちろん、唐王朝末期~五代十国時代における藩鎮を中心とした軍閥割拠の反省から宋王朝の軍隊統制政策が出てきたのは私も承知していますし、戦乱の時代を終わらせ、国内治安の安定をもたらしたという点では評価すべき点もあるのでしょうが、やはりそれがもたらした「軍事力の弱体化」という問題は無視できるものはないですし、ましてや、歴史的背景がまるで異なる宋王朝の政策と旧日本軍の暴走とを比較するのは筋違いもいいところでしょう。
まず最初に。日本軍と宋軍のこのような比較が無茶苦茶であるというご指摘には完全に賛同します。これは田中芳樹の悪癖でしょう。
さて、宋軍のシステム的な問題ですが、軍事力の弱体化については他のリスクを計算した上で導入したのではないかと思っています。
現在のような通信技術が存在しない時代に広大な領土を持つ国家は、大反乱のリスクを背負いながら地方領主、軍司令官に多大な権限を委任するモンゴル帝国タイプか、即応性の低下を忍ぶことにより徹底的な中央統制を導入する宋タイプのどちらかしか手が無いわけです。
軍事力の弱体化を不問に付すわけにはいきませんが、言われているほどダメなシステムだとは思いません。
現在の自衛隊に対する見方に関してはほぼ同意見ですね。
尤も日本人の職業軍人嫌いは(井沢元彦が言うまでもなく)大正時代も軍人は制服通勤すらはばかられ、軍人俸給も据え置かれ続けるという虐待を受けていましたから、伝統的なものなのかもしれません。
阪神大震災は私自身、被災者という点で無関係ではありませんので、当時の最高責任者村山氏と会うことでもあれば、平静ではいられないでしょう。
> それから私は「軍隊が強ければ滅びなかった」とは一言半句も言っていません。私の主張は「軍隊は強くなければならない」「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」です。第一、私は「偉大なる英雄」岳飛などよりも「屈辱外交の担い手」秦檜の方をこそ高く評価しているのですしね。外交の重要性は充分に承知していますよ。
岳家軍を筆頭とする軍閥の強硬派に対し、軍事的背景をほとんど持たない秦檜の意見が通ったというだけでも宋のシステムの利点が明らかだと思います。
それ以前の王朝であれば、おそらく軍事力を背景とした主戦派の主張が通り、対金戦争の継続が図られていたのではないか? と。
もしくは独立した軍事力を背景とし、国政への介入を始めるとか。群雄割拠時代の再来ですが。むろん皇帝のパーソナリティにも左右されるとは思います。
「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」については、当時の通信技術の限界に制約されますから、致し方ない面があります。
もちろん、改善すべき点はいくらでもあり、宋のシステムが最良だとは申しませんが。
現行の自衛隊関連の扱いは私も極めて憂慮すべきだとは思いますが、あまりに独立性が高かった旧軍のそれに比較すれば全然マシです。
欲を言えばもう少し中庸の防衛政策をとってくれればいいんですが、わが国やその国民性はちょっと極端なところがあるようで・・・
ただ海自のDDH代艦導入の手法を見ていると国民不在の文民統制といった観がありますね。手段と目的が倒置しているような気がします。
ま、わが国にはドイツのようなふてぶてしい態度が欲しいところです(笑)
最後に田中芳樹評論とはやや外れた投稿になったことをお詫びします。
> まず最初に。日本軍と宋軍のこのような比較が無茶苦茶であるというご指摘には完全に賛同します。これは田中芳樹の悪癖でしょう。
> さて、宋軍のシステム的な問題ですが、軍事力の弱体化については他のリスクを計算した上で導入したのではないかと思っています。
> 現在のような通信技術が存在しない時代に広大な領土を持つ国家は、大反乱のリスクを背負いながら地方領主、軍司令官に多大な権限を委任するモンゴル帝国タイプか、即応性の低下を忍ぶことにより徹底的な中央統制を導入する宋タイプのどちらかしか手が無いわけです。
> 軍事力の弱体化を不問に付すわけにはいきませんが、言われているほどダメなシステムだとは思いません。
> 岳家軍を筆頭とする軍閥の強硬派に対し、軍事的背景をほとんど持たない秦檜の意見が通ったというだけでも宋のシステムの利点が明らかだと思います。
> それ以前の王朝であれば、おそらく軍事力を背景とした主戦派の主張が通り、対金戦争の継続が図られていたのではないか? と。
> もしくは独立した軍事力を背景とし、国政への介入を始めるとか。群雄割拠時代の再来ですが。むろん皇帝のパーソナリティにも左右されるとは思います。
> 「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」については、当時の通信技術の限界に制約されますから、致し方ない面があります。
> もちろん、改善すべき点はいくらでもあり、宋のシステムが最良だとは申しませんが。
なるほど、時代的な限界や技術的な問題なども考慮してみれば、確かに宋王朝のあの自縄自縛的な軍隊統制政策にもそれなりの理はあったと言えますね。私も唐王朝末期~五代十国時代から続いた戦乱の反省から、あのような軍隊統制政策が出てきた必然性などは一応考慮していたのですが、やや「軍隊の弱体化」というテーマばかりを追ってしまっていたようです。
とっしーさんの仰る通り、宋王朝の軍隊統制政策がもたらした政治的安定の功績は評価されて然るべきでしょう。もちろん「軍隊の弱体化」の問題はそれとはまた別に評価・考察する必要がありますが。
> 現在の自衛隊に対する見方に関してはほぼ同意見ですね。
> 尤も日本人の職業軍人嫌いは(井沢元彦が言うまでもなく)大正時代も軍人は制服通勤すらはばかられ、軍人俸給も据え置かれ続けるという虐待を受けていましたから、伝統的なものなのかもしれません。
全くイヤな伝統としか言いようがありませんね。職業軍人に対する蔑視や差別こそが、国防運営上最大の弊害になりかねないものだというのに(>_<)。
大正時代に軍人が蔑視されるようになった理由には、日清・日露戦争の勝利で多大の犠牲を出したにもかかわらず、軍人が自分の功績を誇って威張りすぎたという事情もあるのですが、実は大正期の軍人蔑視こそが昭和に入って軍隊が暴走した理由のひとつになっていると言われているのですからね。軍隊を蔑視した国民は軍隊に復讐されてしまったわけです。
そしてさらにその報復として、戦後の日本では国民による徹底した軍隊蔑視が続いているわけですが、竜堂兄弟の10倍報復家訓ではあるまいし、この軍隊蔑視の無限円環はいいかげんにやめてほしいものです。こんな関係は国民にとっても自衛隊にとっても不幸なものでしかないのですから。
> 現行の自衛隊関連の扱いは私も極めて憂慮すべきだとは思いますが、あまりに独立性が高かった旧軍のそれに比較すれば全然マシです。
> 欲を言えばもう少し中庸の防衛政策をとってくれればいいんですが、わが国やその国民性はちょっと極端なところがあるようで・・・
> ただ海自のDDH代艦導入の手法を見ていると国民不在の文民統制といった観がありますね。手段と目的が倒置しているような気がします。
> ま、わが国にはドイツのようなふてぶてしい態度が欲しいところです(笑)
戦前の軍隊暴走も、戦後の過度な中央統制も、どちらも著しくバランスを欠いた国防運営であるという点では全く同じでしかないですからね。外部からのチェックシステムが正常に働き、かつ軍隊と政府のバランスの取れた国防体制の整備は、日本にとって焦眉の急です。
世界的に見ても、日本の自衛隊ほどハードウェア・ソフトウェア双方がガタガタで、かつ国民から不信と偏見の目で見られている軍隊も珍しいでしょう。こんな軍隊しか持てない国を指して「日本は軍事大国化しつつある」だの「日本の軍事予算は世界トップクラス」だのと言っている連中が、私には笑止でしかありませんね。
ましてや、その自分達のかつての主張を棚に上げて、阪神大震災の際の政府の対応を非難するような連中に至っては………ねぇ、田中センセイ(笑)。
ども宣和堂です。ちょっといつも疑問に思ってたことを書きます。
※以下中国史の専門的なことが続きます。興味のない方は他のスレッドに※
冒険風ライター様曰く…
> 岳飛? 韓世忠?? 梁紅玉??? 誰かと思えば、たかだか「一局地戦の指揮官」の分際で自分達の武功をやたらと誇示した挙句、南宋と金との絶望的な軍事的格差と、それに伴う宋の莫大な経済的負担を全く無視して「国粋主義」と「中華思想」に基づいた対金侵攻を強硬に主張し、平和を希求していた秦檜と対立していた「右翼の軍国主義者」どもではありませんか(笑)。こんな連中を「スーパーヒーロー・ヒロイン」として賞賛するなど、青竜王の歴史認識は時代錯誤もはなはだしいと断定せざるをえないではありませんか。ねえ田中センセイ(爆)。
秦檜と岳飛の論争という云うか、南宋の和平派と主戦派の評価というのは難しいと思います。以前は自分も大陸や台湾での岳飛への手放しの絶賛を訝って秦檜の肩を持とうとしたことがあるのですが、秦檜は非常に難解です。それと、南宋と金との和約も、調べていくとかなりイメージの違うモノで、冒険風ライダーさま云われるイメージのような“強い強い金と弱い弱い宋”との間に交わされた盟約ではありません。ではちょっと時系列で見ていきましょう。
そもそもの和平交渉自体は、宋にとっては紹興5(1135)年に五国城に捉えられていた、徽宗の死であり、金にとっては有力な皇族である完顔宗翰の死でありました。徽宗の死によってその亡骸の返還を求めるためにも、宋の世論は和平に傾きました。金においては専権的に国政を牛耳っていた宗翰の死は、反対派であったダラン派の浮上を招き、叛乱も多く、宋との戦乱も続く河南の地を宋に引き渡すと言う検案が主流を占めるようになりました。この時に秦檜のラインを伝って宋に提示された金からの和平条件は…徽宗の亡骸と高宗の生母である韋后を帰国させた上で、黄河以南を返還するのですから、宋にとっては良いこと尽くめです。これに対して、厭戦ムードがようやく漂い始めた宋の世論もこの和平条件なら否やもないでしょう。が、最大のネックは宋が金に対して臣礼を取ること、と言う条例が士大夫の激昂を誘い、岳飛や韓世忠等の主戦派の反発を招きました。が、最終決定権のある高宗は秦檜に反対する上奏を受けてもコレを退けることはせずに、和平に傾いておりましたから9割方この和平は成功するように見えました。
と言うよりも、実際に和義は紹興9(1139)年には一時的に成立しているのです。宋金両国承認の上で、金は黄河以南の軍を移動し、宋の東京留守が開封入りしており、宋の歴代皇帝陵への参詣も済ませているくらいです。この時点で本当に和平が成立していれば、秦檜に対する自分のイメージも今ほど悪いモノではなかったと思います。
が、しかし、肝心の金の方で政変が起きます。ダランが反対派である宗幹と宗弼(ウジュ)の一派によって殺害されたのです。田中芳樹の『紅塵』では頭の固い無骨者の様に書かれるウジュですが、この人物は政略の汚いところにも手を染められる武将であり、政治家です。謀略によって岳飛を殺したのは彼という見方も出来るほどです。ともかく、翌紹興10(1140)年、ウジュは軍を動かし黄河以南の宋に返還された土地に殺到します。コレは攻撃と云うよりも違約であり、騙し討ちに近いですから、勿論、宋の世論は断固抗戦…と言うよりも、やっと金の臣と言う屈辱的な呼称を受け入れてまで、交渉でもぎり取った河南の地を非道な裏切りによって奪われようとしたのですから、自衛するのが当然でしょう。宋のこの憤りが軍を強くしたのか?金の軍にクーデターによる動揺があったのか?それは良く分かりませんが、ともかく、この時宋は各地で金軍を破ります(この時、田中芳樹が評価する劉キが毒を川に投げ込んでウジュに勝っている)。しかし、この戦勝に何故か異を唱えたのが秦檜です。彼自身の交渉によって黄河以南を得たはずなのに、彼は自分で勝手に宋金間の国境線を何故か?淮水に起きます。意気を上げて開封に進行しようとする岳飛を留めたのが、秦檜の命令です。
金がクーデターによって動揺していたのは目にもあきらかですし、宋軍の意気も靖康の変以降これ以上に上がったことはないくらいですし、黄河以南を宋の土地だと認めたのは他ならぬ金なのですから、淮水まで引こうという考え自体が理解に苦しみますが、とにかく兵を淮水に引きます。
そして、やめとけばいいのにウジュは更に南進を始め、フラストレーションの溜まった宋軍に、合肥で派手に敗戦します。ココで秦檜によって行われたのが論功行賞で、南宋の各軍閥から軍事指揮権を奪うのが目的です。南宋の一時期、田中芳樹の云うような“強い軍隊”が生まれるのはそれが私家武力集団であり、軍閥的であったからです。岳飛や韓世忠のような“親分”に絶対的な忠誠を誓う軍隊でありこそすれ、高宗に絶対忠誠を誓う軍隊ではないのです。コレを放置しておけば、子のない高宗(高宗の子は金軍から逃げている最中に宋軍の中で兵変があり、一時帝位につけられたが間もなく死んだ)の身に何かがあったときには、必ずや岳飛なり韓世忠に龍袍を着せて万歳を叫ぶに間違いないのです。であるから、宋朝…と言うより、皇帝である高宗は彼らには節度使、范鎭のような権力を振るわれる前に軍事指揮権を解く必要がありました。
コレは中華主義云々と云うよりは、宋の、高宗の皇帝権の安定の為に彼らの権力を削ぐ必要があったのであり、始めの和義が成立さえしていれば、岳飛等の兵権も、もっと緩やかに解けたはずでしょう。岳飛が死んだのも、この兵権を手放さなかったからです。中華主義や政治的安定と云うよりも、高宗と秦檜のエゴが彼らを潰したような印象が非常に強いのです。
(中略)
> そもそも宋王朝時代にアレほどまでの「中央統制型文民支配体制」が確立した最大の理由は、唐王朝時代後期~五代十国時代にかけて、中国国内に多数配置された節度使から発生した「藩鎮」と呼ばれる軍閥が乱立し、中央の命令を全く聞かなくなった挙句、互いに武力抗争を展開し、唐王朝の崩壊とそれに続く戦国乱世を招来させてしまったことにあります。そして二度とこのような事態が起きることを事前に防止するために、宋王朝は徹底した文治主義と君主独裁型の官僚育成に力を注ぐようになったわけです。これに伴い、皇帝自らが試験官となり、官僚に忠誠心を植えつけるための官僚試験「殿試」が導入され、科挙制度がこの時代に完全に整備されます。
と、ここら辺も范鎭と皇帝権は五代では非常に近いモノとなり、本人の望む望まないによらず、部下が無理矢理自分たちの親分を皇帝に仕立てて、クーデターを起こさせると言うのも五代の風潮であり、宋の太祖が最も恐れたことでした。太祖が酒の場でかつての同僚達の兵権を解いたのに対して、高宗が岳飛に対して行った拷問は、同じく軍閥の兵権を解くのに用いた手段とは云え、あまりスマートとは言えないですよね。おまけに秦檜の手だけを汚させて、自分は気弱な皇帝のようなイメージを後世にまで伝えているのですからやるせないです。
また、殿試の補足ですが、科挙が唐代に行われていたときには、及第したときの科挙の監督官を師として一生涯仰ぐ風習が唐代にはあり、皇帝よりも科挙監督の方に忠誠心を感じて、それが政治的な徒党を組んだのが政争の原因となったので、こういう措置が為されたようです。皇帝が最終的な監督官ですから、科挙を通過した官僚は全て皇帝の弟子…と言うような意味合いになるのだそうです。ですから、徒党を組ませず、権力を皇帝に集中させる権力機構を構築したのが宋代なのです。
と、自分には分からないのが、田中芳樹が岳飛は好きなのに、民国あたりの軍閥に対しては冷淡なこと。正式にコメントしたことはないモノの、どうも、曾國藩→李鴻章→袁世凱に連なる北洋海軍ラインやそれに連なる軍閥も完全無視を決め込む有様ですからねぇ…。
そう言えば、冒険風ライダーさまは、どのような戦争が局地的、大局的とお考えでしょうか?宋金戦が局地的となると大局的な戦争とはどういうモノなんでしょうか?
しかしまあ、いい加減、中国の歴史上の人物上げて“スーパーヒーロー”とか称す、センスのない記述はヤメにして欲しいですね。
続けて宣和堂です。
冒険風ライダーさま曰く…
> まあ青竜王が熱心に語りたがっている英雄話など実はどうでもいいことでありまして、ここで語るべきなのはモンゴルと宋王朝についてですね。いつものことなのですけど、モンゴルと宋における軍隊の強弱関係と王朝の寿命って、一体どういう相関関係を持っているのでしょうかね? 第一、「軍隊が強い国は滅ぶのが早い」という法則など私は全く聞いた事がないのですけど。
自分の持論は「飯のまずいところほど兵隊が強い。うまい飯に恵まれた瞬間から兵隊は弱体化が始まる」なんですが…。飯のうまい江南を抑えた南宋が強いワケないですからねぇ…あの現在でも飯のくそ不味いモンゴルの兵隊と比べれば…。
まあ、冗談はさておき…
> そもそも「宋王朝の歴史320年」などと豪語したところで、その実態たるや、非常にお寒いものでしてね。「宋朝弱兵」のおかげで常に周辺諸国と屈辱的な和平条約を結ばざるをえませんでしたし、1126年には新興国家「金」の軍事侵攻によって開封が陥落し、一時的に宋は滅亡してしまっていますな(笑)。で、その時機転を利かせた当時の康王(後の南宋の高宗皇帝)が何とか江南に逃れて宋を再建し、かろうじて金の侵攻を撃退したというのが真相でしょう。しかもその時でさえ、かつて「とうちゃん」が悪し様に罵っていた秦檜が、主戦論をがなりたてていた「右翼の軍国主義者」岳飛を殺害して和平に奔走しなかったら、南宋はもっと早く滅亡していた可能性が非常に高いのですけど(笑)。
どうでしょうねぇ?確かに宋自体は秦檜がいなければ滅んでいたかも知れませんねぇ…。放っておけば岳飛王朝が築かれたかも知れませんし…。まあ、金軍が江南を抑えるのはやはり無理でしょうが…(やはり、金には淮水の線がギリギリだったのだと思います)。
> つまり宋王朝は自らの弱みであるところの「宋朝弱兵」をよくわきまえ、周辺諸国に対して必死の外交努力(ほとんど屈辱外交でしたが)を怠らなかったからこそ、かろうじて何とか存続することができていたわけです。世界の半分を征したと言われるモンゴル帝国と比べ、王朝・国家の生涯としては何とも惨めな話ではありませんか(笑)。
自分は宋は唯一中華思想から抜け出し、対等外交を出来た国なのだと思います。例え屈辱外交だとしても、交渉によって得た平和は尊いですからね。結局、契丹も金も歳幣として貰っていた中国の物品に素朴さと兵の強さを奪われて国を滅ぼしてしまいましたからね…。
コレがストイックな中華主義国家であった明であれば、また話は違うんでしょうけど…。
> そもそも宋王朝とモンゴル帝国との寿命を比較する時に、何で宋王朝の方はその誕生から滅亡までを計算していながら、モンゴル帝国の方は「宋王朝の滅亡」から年数算出を始めているのでしょうか? どう考えても年数算出方法が最初からモンゴル側に不利になるように仕組まれているではありませんか。本当に両国の寿命の比較を行いたいのであれば、モンゴル帝国の方も「その誕生から滅亡まで」の年数を算出すべきでしょう。
細かいことですが、元とモンゴル帝国は似て異なるモノです。モンゴル帝国はご存じの通りチンギス・ハンがクリルタイでハンに推挙された1206年から成立しています。コレがモンゴル帝国。至元8(1271)年にクビライ・ハーンが大元ウルスの国号を定めましたが、ここからが元朝の成立です。元の北帰は至正28(1368)年ですから、97年ですね(大元ウルスは滅亡はしていないので…)。何故、モンゴル帝国と区別するかと云えば、官制などが全く異なり、モンゴル帝国の政治と大元ウルスの政治が全く異なっていたからに他なりません。中国王朝の一つとして考えられる大元ウルスとモンゴル帝国は似て異なるモノです。だから、コレは詭弁です。
でも、国の優劣を存続年数で測るのは、やっぱり愚かですよね…。ガイ山で宋の滅亡とするのは、亡宋の民のささやかな反抗でしょうから、実質は杭州が落ちた景炎元(1276)年でしょうにねぇ…。明の滅亡と比べても変ですね。
> それと思いっきり揚げ足取りになるのですけど、南宋最後の幼帝が殺され、南宋が滅ぶきっかけとなったガイ山の戦いは1279年で、元王朝が滅亡したのは1368年ですから、この間の年月は91年ではなく89年です。中国礼賛に熱中するあまり、連中は小学生レベルの簡単な算数問題をすらミスってしまっているわけです(笑)。偉大なる中国サマに接する事ができてかなりの興奮状態にあることは容易に推測できますが、いくら何でももう少し落ちついてみたらどうなのでしょうか(笑)。
田中芳樹は数字が苦手と見えて、よくよく見ると、この手の間違いを良く犯してます。
> しかも元の時代に発達した文化は何も「元曲」だけではありません。「元曲」に対抗して江南に起こった「南曲」というものもありますし、「水滸伝」「三国志演義」といった口語小説も元王朝時代に原型ができています(現在の形に完成したのは明王朝時代)。また絵画の分野でも「元末四大家」(黄公望・呉鎮・王蒙・ゲイサン)と呼ばれる巨匠が腕を競っています。
元代の魅力はやはり、中国的な観念が排除され、今まで否定されてきたモノに脚光が浴びせられたことだと思うので、この辺は冒険風ライダーさまの主張に否やはありませんね。南宋画院の接収もやりながら、それにとらわれてはいないと思います。とは言え、アラビア風の絵画が故宮に残っているわけではないので、実証は出来ないんですけど…。陶磁器にコバルトによって絵画が描かれたり、バカみたいに大きな皿が作られるのも元代からですから、或いは絵画よりも陶磁器の方に元朝は後世に影響を残したのかも知れませんねぇ…。景徳鎮窯の陶磁器が現在のような陶磁器を焼くのもこのころですからねぇ…。
元末四大家は…好みじゃないのでなんとも言えないですね…。南宋画院の方が自分は好みなので…。
> 「いや、元王朝時代の文化というのはあくまでもモンゴル人自身の文化でなければならない。旧宋人が作った文化など元の文化とは認めない」と強弁するのであれば「パスパ文字」と「元朝秘史」というのはどうですかね? 特に後者の「元朝秘史」などは、モンゴル人の公用語であった「モンゴル語」を使って、蒙古の各氏族の起源とチンギスからオゴタイまでの伝説・史実を記された歴史書なのですけど。
モンゴル人自身は何か作ることによって評価される民族ではなく、受容性があり、なんでも有益なモノは貪欲に取り入れた点が評価されるべきでしょう。パスパ文字や《元朝秘史》を出されるのも、詭弁のような…。何せ、《元朝秘史》に関しては、モンゴル語で書かれたであろう原書が散逸して、漢字で書かれたモノしか残っていないわけですから…。
> 残念でしたね、東海青竜王陛下。元王朝時代には、充実した経済力に基づいて発生した大量の固有文化が存在するのです。まあ中華思想の熱狂的な狂信者であるところの青竜王が、元王朝時代の文化と歴史を認めたくないと考える気持ちも分からないわけではないのですが(笑)。宋王朝の軍事的弱体化を無理矢理に正当化するような愚かな行為などさっさとやめて、素直に「宋王朝はモンゴル帝国より軍事的には弱かった」と認めてしまった方が精神衛生的にも良いのではないですかね(笑)。
何だか、田中芳樹の文章を読んでいると、戦前の歴史家の云っているような文章ですね。今はモンゴル史の杉山御大のおかげで、やや大げさとも思える元朝…と言うかモンゴルの再評価が盛んですから、田中芳樹はこういう潮流も無視したいんでしょうね。最近では大元ウルス(元)とかクビライ・ハーン(フビライ・カン)と言う言い方も定着してきましたからね…。
> そもそも宦官という職業の本分はあくまでも「後宮の管理」であり、その職分を逸脱して権力を掌握したり英雄として活躍したりすることは、実はそれ自体が本来あってはならないことなのです。元々宦官という職種は宮廷の皇后や女官に侍ることができるために皇帝権力に取り入ることが比較的容易な職業であり、それを目的としてわざわざ自らに去勢を施すような人間まで出てくる始末だったのです。そんな職種である宦官がさらに実務面でも活躍するようになったらどうなるのでしょうか?
宦官が皇帝に取り入るだけだったか?と言うとそう言うわけでもなく、皇帝の方が貴族勢力や官僚勢力の掣肘を受けずに政治を行おうとするときに、第三の勢力として宦官は良く利用されました。また、宦官は一族郎党の利益のために政治を行う貴族や官僚とは違い、血の繋がった子孫がいませんから、皇帝一人のために忠誠を尽くすと考えられたのです。歴史書は士大夫によって書かれますから、彼らと対立関係に置かれるコトの多かった宦官が歴史書に書かれる場合は、ある程度は差し引いて考えた方が実像に近づけるはずです。歴史上、宦官を皆殺しにしようとしたのは『三国志』でおなじみの袁紹と後梁の朱全忠ぐらいなモノでしたが、結局は中国から王朝が亡くなるまで宦官も姿を消すことはありませんでした。あれだけ害悪を叫ばれた宦官ですが、なくならなかったからには何か存在理由があったように思います。
> 鄭和や蔡倫の歴史的・文化的功績と、「後宮の管理」という職分しか持たない宦官という職種とは本来分けて考えるべきものでしょう。それを無理矢理に繋ぎ合せて礼賛したところで、却って鄭和や蔡倫に対して失礼になるだけでしかないではありませんか。いくら偉大なる中国サマが大好きだからって、こんな「犯罪正当化論」的な中国礼賛で読者の賛同を得ることができると本気で考えているのですかね、この宦官顔負けの職分逸脱作家業者は。
まあ、唐代の宦官の専横と明代の宦官の専横は分けて考えるべきですけどね…。
> それともうひとつ言及しますけど、上の社会評論で取り上げられている鄭和と蔡倫のうち、こと蔡倫に関する限りは礼賛論法自体もおかしなものですね。上の社会評論で触れられているように、現在では蔡倫以前の時代にも紙の存在が確認されており、その流れに乗って蔡倫は「紙の改良者」として位置付けられているのですから、素直にそのように評価すれば良いものを、何でその事実を無視してまで、わざわざ蔡倫を「紙の発明者」などと持ち上げたがるのでしょうか?
この辺は活版印刷を含めて中国で教育されているお国自慢をそのまま踏襲してますね。北京の歴史博物館に行けばここら辺は模型と銅像で楽しく学べる運びになってます。多分、その孫引き曾孫引きで田中芳樹はこういうコトを書いているわけでしょうが、正直ウザイですね。でも、蒸気機関だって発明者よりも改良者の方が名前が知れているわけですから、この辺は別に叩かなくても…とは思いますが…。
> 自分の持論は「飯のまずいところほど兵隊が強い。うまい飯に恵まれた瞬間から兵隊は弱体化が始まる」なんですが…。飯のうまい江南を抑えた南宋が強いワケないですからねぇ…あの現在でも飯のくそ不味いモンゴルの兵隊と比べれば…。
> まあ、冗談はさておき…
歴史上強兵を誇った国は共通して食生活が貧しいですからね。
みんな冗談めかして言ってますが、やはり真理かもしれません。
欧州でいえば強兵をもって知られる英独は食事の不味さでも欧州屈指ですし、弱兵といわれる仏伊のメシの美味さも有名です。
世界最強を自認する某おコメの国の味覚音痴は海原雄山お墨付きですし、ある意味世界最強の兵質を誇った日本も戦前は非常に貧しい食生活の国でした。
> どうでしょうねぇ?確かに宋自体は秦檜がいなければ滅んでいたかも知れませんねぇ…。放っておけば岳飛王朝が築かれたかも知れませんし…。まあ、金軍が江南を抑えるのはやはり無理でしょうが…(やはり、金には淮水の線がギリギリだったのだと思います)。
金軍ですが、明末清初を鑑みれば、長江以南の政治的統一が維持されていない場合、勢力を盛り返して渡河できていた可能性もありますね。この意味では軍閥の強大化を防いだ秦檜の功績はありそうです。
なにしろ岳飛王朝が成立した場合、良くてたがの緩んだ軍閥連合政権と化し、下手すれば金国を前にして内戦発生。とても統制の取れた戦争指導が行われたとは思えませんので。
>
> 自分は宋は唯一中華思想から抜け出し、対等外交を出来た国なのだと思います。例え屈辱外交だとしても、交渉によって得た平和は尊いですからね。結局、契丹も金も歳幣として貰っていた中国の物品に素朴さと兵の強さを奪われて国を滅ぼしてしまいましたからね…。
> コレがストイックな中華主義国家であった明であれば、また話は違うんでしょうけど…。
宋が中華思想を抜け出したというのはちょっと納得できません。ああ、宣和堂さんに中国史関連で反論するという無謀な私(笑)
なにしろ中華思想の権化とも言うべき朱子学はこの時代に成立したわけですから。中華思想を堅持しつつ、現実に敗北を重ね続けたコンプレックスの時代だったと私は思っています。
> 細かいことですが、元とモンゴル帝国は似て異なるモノです。
これは同意です。ただ広義のモンゴル帝国の範疇には入るかもしれません。 元朝は一応モンゴル諸汗国の宗家という立場だったように思います。
ども、懲りずに投降です。
とっしーさま曰く…
> 金軍ですが、明末清初を鑑みれば、長江以南の政治的統一が維持されていない場合、勢力を盛り返して渡河できていた可能性もありますね。この意味では軍閥の強大化を防いだ秦檜の功績はありそうです。
お初です。宜しくお願い致します。
金と清は同じ民族なのにどうしてああも違うんですかねぇ…。清は明のことを徹底的に研究していた節があるので、詭弁も明の人々が好んで騙されるネタを考えることが出来たんでしょうねぇ…。天命が明を去ったというのはあの時代の共通認識だったわけですから…。
金はそう言った詭弁を弄すことなく攻め込んだワケです。軍閥割拠の南宋でも、金に対しては一致団結して当たりますから、やっぱり難しいですね。金は武将には恵まれましたが、政治家には恵まれませんでしたし…。
> なにしろ岳飛王朝が成立した場合、良くてたがの緩んだ軍閥連合政権と化し、下手すれば金国を前にして内戦発生。とても統制の取れた戦争指導が行われたとは思えませんので。
>
岳飛王朝はナカナカ面白い考察ですよね。単なる兵変で終わったか、軍閥連合政権の親玉で終わったか、宋の政権を丸々乗っ取ったか、北伐を完了して統一王朝の始祖となったか?いずれも可能性がありますが、間違いがないのが岳飛王朝成立は大規模な戦乱が引き続くコトを意味するだろうというコトだけ。やっぱり、手段に問題があったとしても、秦檜に依る和平の方が良かったんでしょうかねぇ…。でも、岳飛王朝があったとしても、軍閥連合政権になる可能性は皇帝権の伸張から考えてなさそうですね…。五代のように、反対勢力が僻地で金に通じる…くらいが関の山ではないかと…。宋の太祖の時がそうでしたし…。
> 宋が中華思想を抜け出したというのはちょっと納得できません。ああ、宣和堂さんに中国史関連で反論するという無謀な私(笑)
> なにしろ中華思想の権化とも言うべき朱子学はこの時代に成立したわけですから。中華思想を堅持しつつ、現実に敗北を重ね続けたコンプレックスの時代だったと私は思っています。
あ、コレは言葉が足りませんでした。宋は北宋と南宋を通じて、自分の政権以外の政治団体も対等と認めました。コレは統一王朝では唯一です。外交的に対等な国の存在を認めたのは、脆弱な軍事態勢の招いた結果であるにせよ、外交上の飛躍的な進歩であったと思います。契丹との外交で問題になったのは燕雲十六州の返却であって、対等な外交が問題とされたことはありませんし、金との外交上でも主に問題となったのは、首都である開封のあった河南の地であって、ココでも相手を対等と認めることは特に問題とはされなかったのです。外交上では実務的に動き、下らない名目のために外交上の不利益を生むことはなかった、と言う意味で、自分は“中華思想から脱却した”と書いたのです。
宋学も北宋の頃は哲学的な太極図の解釈が主なモノでしたが、宋の南選を経験した朱熹から、にわかに宋学は排他的な面を強調するのだと理解してます。ですから、生理的にこういう敵国を対等と認める外交に嫌悪感を感じる人たちがいたことは確かでしょうけど、実際の政治の場でそれを声高に叫ぶ人もいなかったと云うことです。それに、宋代では宋学はあまり勢力を持ちませんしね…。
> これは同意です。ただ広義のモンゴル帝国の範疇には入るかもしれません。 元朝は一応モンゴル諸汗国の宗家という立場だったように思います。
モンゴル帝国と大元ウルスの違いはそれまで形式的には一枚板だった帝国が、各ウルス毎に内戦状態に入るようになったことでもあります。宗主国と言うのも間違いではないですが、それまでのハーンとは明らかに権限の上で違います。そもそも、クビライがクーデターを起こして、クリルタイの意向を正面から否定して樹立した政権が大元ウルスなので、宗主国と言っても他のウルスは事後承諾と言う形で認めているに過ぎませんからねぇ…(この辺のことは大河ドラマではやるんでしょうか?)。
まあ、でも、大元ウルスはその寿命が短いという理由で宋と比較されて劣等だとされる論理は納得がいかないですね。
でも、創竜伝はフィクションなので、多分、作中に登場する宋や元は自分らが知っている宋や元とはまた違う、田中芳樹マインドの中にだけある王朝なのでしょう。史書中の太宗や趙普や耶律休哥もあんなに格好の悪い人ではないので、架空の人物です。よく似ているので、みなさん、勘違いされるのでしょうけど…(この趣旨で文章書こうとして元の小説がつまらないので挫折しました)。
う~む、さすがは宣和堂さん、中国知識に関してはお見事としか言いようがないですね(@_@)。正直に言いますと、私は中国知識全般に関してはせいぜい高校世界史教科書に毛が生えた程度のレベルしかないものですから、宣和堂さんの博学ぶりにはただただ脱帽するばかりです。
> そう言えば、冒険風ライダーさまは、どのような戦争が局地的、大局的とお考えでしょうか?宋金戦が局地的となると大局的な戦争とはどういうモノなんでしょうか?
いや、あれは私の本来の主張ではなく、田中芳樹がかつて創竜伝でがなりたてていた社会評論に対する皮肉として書いたものなのですよ。この社会評論のね↓
創竜伝4巻 P168上段~P169上段
<「あんたたちは、この前の戦争でアメリカと戦ったことを、悪かったなんて思ってないんだろ。いつか復讐してやるぞ、と決心してんだろ。だからこそ文部省は、教科書から『日本が戦争をおこして悪かった』というような記述を消すよう強制してるんじゃないのかい」
日本国の文部省の初等中等教育局といえば、右翼思想派の巣窟といってよい。特定企業から賄賂を受けとり、責任を妻や秘書に押しつけるような手合が、「日の丸と君が代を神聖なものとしてあつかえ。でないと処罰するぞ」と、学校を脅迫するのである。歴史の教科書に東郷平八郎という海軍軍人を登場させるよう義務づけたのも彼らだ。当時の文部大臣でさえ、その時代錯誤にあきれ、「ひとつの局地戦の司令官で戦争全体は語れない。戦争を開始し、終結したときの日本政府の対応と、その後の社会を教えることで、正しい歴史観が身につく」といって反対した。だが、大臣の反対意見さえ無視して、文部官僚は、復古教育を強引に推進しつつある。「ただ一度戦争に負けたからといって、民族の誇りを失うな。われわれは世界一優秀な民族だ。その自覚をもって祖国に献身せよ」これはアドルフ・ヒットラーという男がもっとも好んだ台詞だった。>
田中芳樹は上記の社会評論で、日露戦争の趨勢と日本の命運を左右した日本海海戦を「一局地戦」とまで貶め、その日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎を、出典も定かではない文部大臣とやらの言葉を借りて「一局地戦の指揮官」とまで冷笑したのです。この田中芳樹の主張に従えば、どんなに世界史史上に多大な影響を与えた英雄や会戦でも、それを歴史教科書に取り上げたり、高く評価したりすることは「右翼の軍国主義的な教育」であり、「正しい歴史観」とやらを身につけるには無用であるばかりか有害なことですらあるということになるはずでしょう。
しかし創竜伝4巻でそこまで明言していたはずの田中芳樹が、創竜伝9巻の劉永福や上記のような岳飛関連に関しては、自分が口を極めて罵っていたはずの「右翼思想派の巣窟」と全く同じ、いや、歴史的貢献度から言えば東郷平八郎よりもさらに取り上げる必要性がないであろう歴史的人物を堂々と絶賛するようなことをやっているわけです。この態度の違いはどう考えても明々白々なダブルスタンダードそのものでしかありません。だからこそ、それに対する皮肉として私はあえて岳飛や韓世忠をあそこまでこき下ろし、さらにそれが田中芳樹に対する当てつけであると誰の目にも分かるように、わざわざ語尾に田中芳樹に同意を得るような表現まで付加しておいたわけです。
自らの主張を一貫させ、自らの言動に対する責任を取るためにも、英雄崇拝と英雄否定というこの相反する主張を、田中芳樹は何らかの形で総括しなければなりません。そうしない限り、私は田中芳樹がどんなに偉大な英雄を絶賛しても「一局地戦の指揮官」の名の元に切り捨てますし、その卑怯な態度を批判し続けるでしょう。それが自らの過去の言動に責任を取らない人間に対する正当な評価というものです。
それにしても今回は皮肉が「皮肉」と理解してもらえないことが多いですね。一応文章表現にはそれなりに注意して書いているつもりなのですが(T_T)。
ちなみに私自身は戦争そのものを「大局的」「局地的」という視点で見るようなことはしません。国家の存亡と国益を賭ける戦争をそんな判定基準で見るのも妙なものでしょう。戦術レベルの会戦や国境での小競り合いなどを「局地的な戦い」と評価することならありますが。
何をもって「局地的な戦い」であるかと問われれば「戦いの結果」がどのような戦略的・政治的影響を与えたかによって判定すると答えますね。単に「一方の陣営による戦術的な勝利」に終わっただけであると言うのであれば間違いなく「局地的な戦い」でしょうし、何らかの戦略的意義を持った戦いや、国家の命運を左右するような戦いであれば「歴史上に残る重要な会戦」であると評価します。
ただし、田中芳樹の英雄崇拝に関しては、この件に関する田中芳樹自身の総括がない限り、その内容如何を問わず、上で述べた通りの評価を叩きつけます。
> どうでしょうねぇ?確かに宋自体は秦檜がいなければ滅んでいたかも知れませんねぇ…。放っておけば岳飛王朝が築かれたかも知れませんし…。まあ、金軍が江南を抑えるのはやはり無理でしょうが…(やはり、金には淮水の線がギリギリだったのだと思います)。
この辺りのシミュレーションはやってみたら面白そうには思うのですが、私もどちらかと言えばとっしーさんと同意見ですね。岳飛には他の同僚から嫌われていたようですから、他の軍閥を取りこむのは容易ではなさそうですし。
どうにか軍閥を統合して金に戦いを挑んだところで、宋と金との軍事的格差で、しかも岳飛王朝が金に侵攻するとなると、地の利がないのも加わって泥沼の戦いに陥りそうですし、常に内部分裂の兆候に怯えていなければならない状態ではマトモに戦うこと自体難しいでしょう。しかも岳飛の性格では金との戦いを自発的に止めるようなこともしそうにありませんから、結局、最終的には国力および軍事力が著しく弱体化した挙句、金に武力併合もしくは史実以上に屈辱的な境遇に置かれた属国にされてしまうのがオチだったのではないでしょうか。何しろ、岳飛ががなりたてていた主張は、旧日本軍の陸軍青年将校あたりの主張と全く同じようにしか見えないので(笑)。
岳飛を殺して軍閥の強大化を防ぎ、南宋に平和と経済的繁栄をもたらした秦檜の功績は充分に評価されて然るべきだと思いますね、私は。
> 細かいことですが、元とモンゴル帝国は似て異なるモノです。モンゴル帝国はご存じの通りチンギス・ハンがクリルタイでハンに推挙された1206年から成立しています。コレがモンゴル帝国。至元8(1271)年にクビライ・ハーンが大元ウルスの国号を定めましたが、ここからが元朝の成立です。元の北帰は至正28(1368)年ですから、97年ですね(大元ウルスは滅亡はしていないので…)。何故、モンゴル帝国と区別するかと云えば、官制などが全く異なり、モンゴル帝国の政治と大元ウルスの政治が全く異なっていたからに他なりません。中国王朝の一つとして考えられる大元ウルスとモンゴル帝国は似て異なるモノです。だから、コレは詭弁です。
しかしねえ、そもそも最初に元王朝とモンゴル帝国を区別せずに「宋はモンゴル帝国に滅ぼされた」などと言っているのは、あの評論の大元となっているバカ竜王連中の方なのですし、連中は一度たりとも「元王朝」などという言葉を使っていないのですから、あの評論に関しては別にモンゴル帝国成立からの年数計算を行ってもかまわなかったと思いますけどね。どうせあの連中は、病的な中華思想に基づいて「元」の存在など認めたくなかったがために「モンゴル帝国」などと呼称していたのでしょうが。
どうせ元王朝成立とガイ山の戦いの間なんて8年しか離れていないのですから、素直に「元王朝成立からモンゴル帝国滅亡(北帰)までの時間」を計算しておけば良かったものを(笑)。そうしなかった(もしくは「考えつかなかった」)ということは、連中自身こそがモンゴル帝国と元王朝とを同一視していた何よりの証拠でしょう。あの記述からは「モンゴル帝国の歴史162年」なんて年数が算出されたらマズイと思ったからこそ、わざわざ「宋王朝の滅亡」から計算していたとしか読めないのですけど。
> モンゴル人自身は何か作ることによって評価される民族ではなく、受容性があり、なんでも有益なモノは貪欲に取り入れた点が評価されるべきでしょう。パスパ文字や《元朝秘史》を出されるのも、詭弁のような…。何せ、《元朝秘史》に関しては、モンゴル語で書かれたであろう原書が散逸して、漢字で書かれたモノしか残っていないわけですから…。
う~む、手厳しい(T_T)。パスパ文字と元朝秘史に関しては「モンゴルは宋をほろぼしたあと九十一年で滅亡し、後世に何ものこさなかった」という連中の主張に対する反証を何かひとつでも示せば良かったので出したものなのですが。「元朝秘史」のモンゴル語版が残っていないというのは知りませんでした。
> 宦官について、
「あんなやつらは人間のクズだ。宦官のためにどれだけ中国の歴史がゆがめられたか知れない」
と非難する人もいる。たしかに地位や特権を悪用して世に害毒を流した宦官もたくさんいた。だが、いっぽうでは、歴史と文化に対して大きな貢献をなしとげた宦官も多い。
普通は(日本では)「宦官だからクズだ」ではなく、「(病気でもないのに去勢する)宦官という存在自体が害悪だ」だと思うんですけどね(もちろん、纏足や人肉食と同様一概に文化として否定するわけにはいかないですけれどね)。
田中芳樹の弁護論は職業としての宦官の弁護にはなっていますが、存在としての宦官については触れていませんね。
宦官に対する嫌悪感というのは、どう考えても職業ではなく存在(去勢を制度化したもの)に対してのものです。
そりゃあ、宦官でも立派な人はいますが、彼らはチンポを切られたから立派になったというわけではないでしょう。
にしても、偉大な宦官に司馬遷が上がっていないのは個人的に納得いかないなぁ。
>
> にしても、偉大な宦官に司馬遷が上がっていないのは個人的に納得いかないなぁ。
司馬遷に関しては、「史記」執筆当初はまだ宦官で無かったからじゃないでしょうか。宦官になった大本の動機が「史記」を完成させるためですし。それこそ、チンポ切ったから立派になった人ではないです。
日傘様曰く…
> 司馬遷に関しては、「史記」執筆当初はまだ宦官で無かったからじゃないでしょうか。宦官になった大本の動機が「史記」を完成させるためですし。それこそ、チンポ切ったから立派になった人ではないです。
でも、チンポ斬っても立派だった人として記憶されるべきでしょう。
やっぱり偉大だと思います。で、田中芳樹が何故、宦官として彼の名を上げていないかというと…。何だか、知らないか忘れているか宮刑の意味が分からなかったか、太史公という役職と宦官のイメージがダブらなかったか…どれかだと思います。
でも、チンポ斬られてもあの立派な小説書き上げたんですから、立派です。
何だか寝ながら書いたので、頓珍漢な指摘してましたね。申し訳なかったです>冒険風ライダーさま。
> う~む、さすがは宣和堂さん、中国知識に関してはお見事としか言いようがないですね(@_@)。正直に言いますと、私は中国知識全般に関してはせいぜい高校世界史教科書に毛が生えた程度のレベルしかないものですから、宣和堂さんの博学ぶりにはただただ脱帽するばかりです。
自分も研究者ではない上、最近一次史料にも目を通していないので、相当いい加減だと思ってください。よく間違えるので、人知れず冷や汗ばかりです。
> いや、あれは私の本来の主張ではなく、田中芳樹がかつて創竜伝でがなりたてていた社会評論に対する皮肉として書いたものなのですよ。この社会評論のね↓
あ…なんだか読みが浅かったですね…。この辺は申し訳ないです。確かに、東郷元帥のアレを局地的と評するのはどうしたモノかと自分も思いました。何も先人の快挙を貶めなくてもねぇ…。
>
> 創竜伝4巻 P168上段~P169上段
> <「あんたたちは、この前の戦争でアメリカと戦ったことを、悪かったなんて思ってないんだろ。いつか復讐してやるぞ、と決心してんだろ。だからこそ文部省は、教科書から『日本が戦争をおこして悪かった』というような記述を消すよう強制してるんじゃないのかい」
> 日本国の文部省の初等中等教育局といえば、右翼思想派の巣窟といってよい。特定企業から賄賂を受けとり、責任を妻や秘書に押しつけるような手合が、「日の丸と君が代を神聖なものとしてあつかえ。でないと処罰するぞ」と、学校を脅迫するのである。歴史の教科書に東郷平八郎という海軍軍人を登場させるよう義務づけたのも彼らだ。当時の文部大臣でさえ、その時代錯誤にあきれ、「ひとつの局地戦の司令官で戦争全体は語れない。戦争を開始し、終結したときの日本政府の対応と、その後の社会を教えることで、正しい歴史観が身につく」といって反対した。だが、大臣の反対意見さえ無視して、文部官僚は、復古教育を強引に推進しつつある。「ただ一度戦争に負けたからといって、民族の誇りを失うな。われわれは世界一優秀な民族だ。その自覚をもって祖国に献身せよ」これはアドルフ・ヒットラーという男がもっとも好んだ台詞だった。>
「ただ一度戦争に負けたからといって、民族の誇りを失うな。われわれは世界一優秀な民族だ。その自覚をもって祖国に献身せよ」って、何だか『三国志演義』で関羽が劉備を励ますシーンに似てますよねぇ…(吉川英治だけかなぁ…)。民族の誇り持って何か悪いのかなぁ…。悪いとしたら、詭弁を用いて誇りに変な意味を持たせることだと思うんですけど…。
(中略)
> それにしても今回は皮肉が「皮肉」と理解してもらえないことが多いですね。一応文章表現にはそれなりに注意して書いているつもりなのですが(T_T)。
コレは読みが足りませんでした。何だかコントで「今の何処が面白いの?」と聞いている人のよう…。済みません!言わずもがなのことを…。
(中略)
> 何をもって「局地的な戦い」であるかと問われれば「戦いの結果」がどのような戦略的・政治的影響を与えたかによって判定すると答えますね。単に「一方の陣営による戦術的な勝利」に終わっただけであると言うのであれば間違いなく「局地的な戦い」でしょうし、何らかの戦略的意義を持った戦いや、国家の命運を左右するような戦いであれば「歴史上に残る重要な会戦」であると評価します。
自分もそう考えるのですけど、一つ一つの会戦を局地的か大局的か?と見ていくと大変ですよね…。
『奔流』に出てくる鍾離の戦いなんて、田中芳樹は“赤壁に匹敵する合戦”みたいに書いてますが、どの概説書にも鍾離の戦いって触れられてないんですよね…。やや詳しい専門書でも無視されてますから、そんな戦いを赤壁と比較すること自体がこの人の凄いところだ!と感心しました。この時代は戦乱の時代ですから、コレぐらいの合戦はそこら中でやってたみたいナンですよね…。
> この辺りのシミュレーションはやってみたら面白そうには思うのですが、私もどちらかと言えばとっしーさんと同意見ですね。岳飛には他の同僚から嫌われていたようですから、他の軍閥を取りこむのは容易ではなさそうですし。
嫌われていた…と言うよりも煙たがられていた…と言う感じだと思います。
同僚としてはイヤですよね…。上司としたら、コレは結構働きがいのある人かも知れませんが…。と言うわけで、岳飛は30代で死んでますので、簒奪なり禅譲が50代くらいに起きていれば、或いは老獪な岳飛による、円滑な政権交代が…って皇帝権が確立した宋代では難しいんですけどね…。
> どうにか軍閥を統合して金に戦いを挑んだところで、宋と金との軍事的格差で、しかも岳飛王朝が金に侵攻するとなると、地の利がないのも加わって泥沼の戦いに陥りそうですし、常に内部分裂の兆候に怯えていなければならない状態ではマトモに戦うこと自体難しいでしょう。しかも岳飛の性格では金との戦いを自発的に止めるようなこともしそうにありませんから、結局、最終的には国力および軍事力が著しく弱体化した挙句、金に武力併合もしくは史実以上に屈辱的な境遇に置かれた属国にされてしまうのがオチだったのではないでしょうか。何しろ、岳飛ががなりたてていた主張は、旧日本軍の陸軍青年将校あたりの主張と全く同じようにしか見えないので(笑)。
でも、岳飛が朱仙鎮まで攻め込んだあたりから、金って急速に弱くなるんですよね…。内部的には皇族同士が泥沼の政争を行ってますし、兵自体も奢侈を覚えて弱体化しますし…。基盤自体も急速に成長した金が何故華北を維持できたのか?非常に不思議ですし…(契丹のように燕雲十六州のような小さな地域ならともかく…)。
> 岳飛を殺して軍閥の強大化を防ぎ、南宋に平和と経済的繁栄をもたらした秦檜の功績は充分に評価されて然るべきだと思いますね、私は。
でも、有力な政敵が何故か?失脚したり、政権を奪取した後は起居注や実録さえも取らせず、私史書の編纂に厳罰で望んだりとイヤな部分が多いんですよね…秦檜は…。歴史を記述することを許さなかった長期安定政権だったので、実状が分からず、褒めも出来なければ貶しも出来ないんですよね…。ただただ、気味が悪い…としか言えない…。まあ、人気ないのも分かります。何を目的にしてたのか、全く見えないんですよねぇ…。
> しかしねえ、そもそも最初に元王朝とモンゴル帝国を区別せずに「宋はモンゴル帝国に滅ぼされた」などと言っているのは、あの評論の大元となっているバカ竜王連中の方なのですし、連中は一度たりとも「元王朝」などという言葉を使っていないのですから、あの評論に関しては別にモンゴル帝国成立からの年数計算を行ってもかまわなかったと思いますけどね。どうせあの連中は、病的な中華思想に基づいて「元」の存在など認めたくなかったがために「モンゴル帝国」などと呼称していたのでしょうが。
ありゃ…気がつかずに創竜伝の方では素通りしてましたね…。
まあ、フィクションだと思って気楽に読んでるから気がつかないんでしょうけど…。コレは申し訳ないです。
> どうせ元王朝成立とガイ山の戦いの間なんて8年しか離れていないのですから、素直に「元王朝成立からモンゴル帝国滅亡(北帰)までの時間」を計算しておけば良かったものを(笑)。そうしなかった(もしくは「考えつかなかった」)ということは、連中自身こそがモンゴル帝国と元王朝とを同一視していた何よりの証拠でしょう。あの記述からは「モンゴル帝国の歴史162年」なんて年数が算出されたらマズイと思ったからこそ、わざわざ「宋王朝の滅亡」から計算していたとしか読めないのですけど。
コレは冒険風ライダーさま仰るとおり、贔屓の引き倒しデスね。まあ、だからモンゴル史の先生方に、宋代の研究者達は「中華主義者どもめ!」と良く分かったような分からないような雑言を浴びせられるんですよね…。
元代の社会生活が後世に及ぼしたプラス面も多く指摘されているわけですから、いつまでも“モンゴルによる破壊”神話にしがみついていては、NHKにすら後れをとると思うのですが…。まあ、田中芳樹は戦前の東洋史研究の幻想にすがりついている部分はかなりあると思うのですが…(戦前でも三田村泰助や田村實造等の満蒙研究の成果すら無視してるし…)。正直、時代遅れも甚だしいですね…。
> う~む、手厳しい(T_T)。パスパ文字と元朝秘史に関しては「モンゴルは宋をほろぼしたあと九十一年で滅亡し、後世に何ものこさなかった」という連中の主張に対する反証を何かひとつでも示せば良かったので出したものなのですが。「元朝秘史」のモンゴル語版が残っていないというのは知りませんでした。
『元朝秘史』に関しては色々ややこしいらしいです。でも、『元朝秘史』の書影を高校時代に資料集で見たような気がしたので、世間でも知られたことだと勘違いしてました。でも、モンゴル史では『元朝秘史』より、ペルシャ文献の『集史』の方が重要視されるというのもあるのですけどね…。
でも、元代の文化としては、やっぱり、元曲は宋代では現出しない類の文学でしたし(文人が文語ではなく口語の文学の担い手になることは考えられない)、科挙のない元朝の治下でなければ章回小説が編まれることはまずなかったでしょう(現物は残ってませんが、原型は元代にあったとされます)。担い手である漢人を褒めるよりは、場を提供したモンゴル人が評価されると思うのですよ…。
まあ、それでも田中芳樹は「でも、やっぱり作り手がいないと文化は育たないから漢人の方がエライ!」と言うんでしょうけど…(トホホ…)。
「宋のこの時代、木版印刷の技術が世界ではじめて発明されていた。これによって、同じ内容の本を大量につくることができるようになった。つまり紙も印刷術も中国で発明されたもので、これより千年後、電子出版なるものが発明されるまで、人類の文明は、中国人のこの発明がなくては存続すらできなかったのだ」
「たとえば紙を発明した蔡倫という人は、二世紀初め、後漢時代の宦官である。……現在、世界じゅうで使われている紙の発明者はやはり蔡倫なのである。宦官の悪口を書きたててあるような本でも、紙でできている以上、宦官のおかげで本が出せるのだ」。
あたたたた。こういう発想いいのかね?
そもそも、紙を発明したのが宦官「の一人である」蔡倫で
あるとして、それを「宦官のおかげ」としていいのか?活字を作ったのが宋だか唐だかとして「中国人の発明」となるのかね?
文明というのは、究極的には多くの民族の闘争と交流の混在の中で生み出されていくものじゃないの?それじゃアフリカ某地点で、猿人だか原人だかが「棍棒」を発明したのはもっと凄いのかね?
それに田中氏は万年筆だけど、ワープロ(=コンピュータ)の基礎を作ったのは二進法について画期的な研究をしたノイマン氏で、カレは原爆開発にも携わり、冷戦時代も一貫して反共過激派だった人。
ワープロを使っている以上、反核の文章を書いている人も結局は「核に携わった人のおかげで本が書ける」のだろうか。
つうか、ユリアンおおよそこんなこと言ってなかったっけ?
「先祖を自慢するのは、その人が現在立派じゃないことの証拠」(笑)
> つうか、ユリアンおおよそこんなこと言ってなかったっけ?
> 「先祖を自慢するのは、その人が現在立派じゃないことの証拠」(笑)
確か小林よしのりも似たようなことゴーマニズム宣言で書いてたっけ。
左翼と右翼が仲悪いのは両者が良く似た思想を持つがゆえの近親憎悪であるという説に説得力を持たせるような例ですね。
宣和堂さん、はじめましてです。
> でも、チンポ斬っても立派だった人として記憶されるべきでしょう。
> やっぱり偉大だと思います。で、田中芳樹が何故、宦官として彼の名を上げていないかというと…。何だか、知らないか忘れているか宮刑の意味が分からなかったか、太史公という役職と宦官のイメージがダブらなかったか…どれかだと思います。
言われてみると案外鄭和と岳飛にかまけすぎて忘れているような気がしてきました。それとも、李陵事件は田中氏の嗜好に合わないのかもしれません。
田中氏の好みって、どうも思想家、政治家、軍人に偏ってません? 歴史家や小説家は結構十把一絡げに扱われてるように思えます。ここのところが司馬遷を忘れていたのと関係があるかもしれませんね。
冒険風ライダーさん
> 前述の紙の時もそうなのですが、どうして田中芳樹は中国を絶賛する時、これほどまでに恩着せがましい言い方しかできないのでしょうか? そりゃ田中芳樹の偉大なる中国サマに対する狂おしいまでの愛情はイヤというほどに理解させられていますけど(笑)、こんな礼賛方法では、たとえ言っている事が正しかったとしても、却って中国嫌いを増やすだけなのではないですかね。まあ今回の場合は言っていること自体も間違っていますけど(笑)。
> 紙はまだしも、印刷術までが中国発祥というのは明らかに大ウソですね。確かに世界で初めて木版印刷の技術が実用化されていたのは中国・宋王朝時代が一番早かったのですが、その中国の木版印刷はせいぜい朝鮮に伝わったぐらいで、一般庶民に広まることも、それ以外の他国に大々的に伝えられることもなく、細々と維持されていただけでしかなかったのです。
> なぜかというと、中国・朝鮮における活字印刷は、大量生産技術よりもむしろ多種多様な書面を美しく正確に刷り上げる技術の方が重要視されていたこと、そして何よりも中国・朝鮮では「本は少数の貴族による独占所有物である」という考え方から脱皮することができず、大量生産しようという発想自体が全く出てくることがなかったからです。これでは中国の印刷技術が一般大衆向けに発展する余地など出てくるはずがありません。
> また木版印刷では活字自体があっという間に摩滅してしまうために大量生産能力自体にも限界があり、少数の本しか印刷することができません。本を大量印刷しようというのであれば、木製ではなく金属製の活字を鋳造する必要性があったのですが、前述の理由から、中国・朝鮮でもっぱら使われていたのはあくまでも木版印刷中心で、16世紀の明の時代になってようやく金属製の活字が登場するものの、それが使用されることはほとんどありませんでした。つまり中国製の印刷術が世界における印刷術の発展に影響を与えたなどという説は全く考えられない話なのです。
> では現在世界で使用されている印刷術の祖先はどこにあるのか? それは15世紀にドイツのグーテンベルクが発明した、金属鋳造の活字を使った「活版印刷」で、これは中国における木版印刷とは全く無関係に生まれたものです。そしてもちろん西洋では大量生産技術が重要視され、グーテンベルクの活版印刷発明からわずか50年のあいだに、ヨーロッパ中の約350都市で1000以上の印刷所が造られ、約30000種・推定900万冊の本が発行されたと言われています。このグーテンベルクが発明した活版印刷こそが、世界史における本当の印刷術の開祖なのです。
> 中国を礼賛したいがあまり、田中芳樹はとうとう公然と歴史を改竄するという暴挙にまで至ったというわけですか。そんなザマで、よくもまあありもしない「日本の右傾化歴史教育」をあそこまで非難できるものですね。少しは恥を知ったらいかがです?
少し調べてみたのですが、フビライの弟フラグが建国したイル=ハン国では13世紀末に大量に紙幣を印刷しており、首都タブリーズに出入りしていたイタリア商人に影響を与えていたと考えられているそうですし、イル=ハン国の政治家・歴史家であるラシード=アッディーンが編纂した「集史」の中でも中国の印刷術についての記述があるとの事で、当時ルネサンスを迎えつつあったイタリアを中心としたヨーロッパ各国にモンゴル帝国を介して中国の印刷術が伝わっていたのは確からしく、これから考えればグーテンベルクが発明した活版印刷と中国の印刷術がまったく無関係とは断定出来ないと思います(ちなみにグーテンベルクよりも先にオランダのコステルという人物が活版印刷を発明したと言う説もあるそうです)。
「宋と違い、モンゴル帝国は文化的に何も残さなかった」と主張する某小説も、モンゴル帝国が印刷術を中国からヨーロッパへと伝えてくれたおかげで出版出来たのか!?(笑)
私もモンゴル帝国の版図を見ればヨーロッパとなんの交流もなかったとは思えませんから、グーテンベルグが中国の木版技術からまったく影響を受けない、ということはないとは思いました。しかし、イル=ハン国まではノーチェックでした。
もっとも、発明してもそれを生かせなければ駄目です。だから印刷術の開祖はグーテンベルグになっているわけです。
ところで、「同じ内容の本を大量につくること」というのなら、木版よりも前に孔子の「石による拓本」があるので、印刷術の始まりは孔子でしょうね。春秋時代になります。あえて言うなら印刷術ではなくて、活版術でしょう。どちらにしても中国だけどたまたま中国だっただけで、活版術を印刷術に拡大解釈する手法に変わりなし(笑)。
てんてん dance with penguin
> 少し調べてみたのですが、フビライの弟フラグが建国したイル=ハン国では13世紀末に大量に紙幣を印刷しており、首都タブリーズに出入りしていたイタリア商人に影響を与えていたと考えられているそうですし、イル=ハン国の政治家・歴史家であるラシード=アッディーンが編纂した「集史」の中でも中国の印刷術についての記述があるとの事で、当時ルネサンスを迎えつつあったイタリアを中心としたヨーロッパ各国にモンゴル帝国を介して中国の印刷術が伝わっていたのは確からしく、これから考えればグーテンベルクが発明した活版印刷と中国の印刷術がまったく無関係とは断定出来ないと思います(ちなみにグーテンベルクよりも先にオランダのコステルという人物が活版印刷を発明したと言う説もあるそうです)。
う~む、この辺り、ちょっと「中国の印刷術」の定義が私と他の方々とでは違うものとなってしまっているようですね。No.753の日傘さんのレスで「中国の木版印刷は唐代に確立したのでは?」と聞かれた時からずっと違和感を覚えていたのですが。
実は私があの問題の社会評論の真偽を確認するために色々と調べていた時、No.763で言及した、ちょうど田中芳樹の主張とある程度合致する「陶製の活字」の話を見つけ、現代にまで連なる印刷術の祖先というのが活字を使ったものであることと、例の評論の論調とを考慮した結果、「田中芳樹があの評論で言いたかったのは『最初に【活字印刷術】を発明したのが中国人』ということなのだろうな」と考え、それに対する反証を前提として私は色々と印刷術について述べていたわけです。だから私が述べていた「中国の木版印刷」というのは「木活字印刷」のみに限定していて、「木版画印刷」というのは含まれていないんですよね。あの評論の論調から考えてもこれしか解釈のしようがなかったですし。
これが「木版画印刷」まで含めるというのであれば、確かに中国でその技術が確立したのは唐代であり、また元王朝時代にマルコ・ポーロがカルタを持ち帰ってきたことによって、初めてヨーロッパに「木版画印刷」が紹介されているようですから、これをもって「中国の印刷術がヨーロッパに影響を与えている」というのであれば全くその通りです。
しかし「中国の活字印刷」がグーテンベルクの活版印刷に影響を与えているというのは、それこそ全く考えられない話です。グーテンベルクが発明した活版印刷は、鉛と錫による鉛合金を使ってブロックによる活字を造り、さらに「葡萄絞り機」をヒントにした印刷機械を開発して印刷方法を極めて簡略化したものです。中国の活字印刷系とグーテンベルクの活版印刷とは全く何の相関関係もありませんし、普及度も技術的な格差も段違いです。
一般知識から考えても、あの評論の論調からしても、まさか田中芳樹が原始的な木版画印刷を指して「これぞ人類の文明を支えてきたスバラシイ発明である」などと絶賛するとはいくら何でも思えなかったので、印刷術の開祖と言われる活字印刷、ここでは特に木活字印刷に限定して印刷術について述べていたのですが、どうもそれが混乱の元であったようですね。もう少し木活字印刷と木版画印刷とを区分けして論じておくべきでした。
これで平松さんの疑問は解けるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
なるほど、分かりました。確かに自分が論じたのは木版画印刷についてのみでしたね。木活字印刷と木版画印刷の区別にまではちょっと考えが及びませんでした。
時間がないのでさわりだけ…
中国の木版印刷の開祖は一応、唐代より始まり、燉煌文書の中には唐代の木版印刷のモノも含まれています。燉煌だけに仏典が多いようです。官制の印刷物は五代の馮道によって、儒学の経典である九経が刊行されています。その後も大蔵経や平話等が刷られ、その一部は日本にも伝わってきており、文化の伝播に中国の印刷が一役買ったことは疑う余地もありません。そして、粘土を使った活版印刷は北宋の畢昇によって確立されています(もっともあまり使われることなくお蔵入りしたようですが…)。お札…と言うか手形の元である会紙は南宋の杭州近辺で通行し、交●は元代にほぼ大元ウルスのほぼ全土で通用したと云います。
あと、拓本は我々が思うほど容易に採れるモノではないらしく、何十枚か採ると肝心の石の方が摩滅してしまうため、余程重要な用事でもない限り拓本を採ると云うことは避けたようです。おまけに石の質も時代を下るたびに悪くなっていくというのが定説で、宋代のモノが硬質で評価が高いのに対して、元→明→清と質は低下すると云うことです。
石刻の意味合いは、印刷がなかった頃の写本だと、どうしても書き損じや誤字によって正確に内容が後世に伝わり辛く、また、書物自体も戦乱などによって容易に散逸しやすかったために石に刻んで後世に残すと言う意味合いが強いです。しかし、その石刻自体が損壊した時の保険のために拓本が採られたと理解した方がいいようです。
※ ●=「金」へんに【交】
最近、創竜伝考察シリーズを読み返して思った事があります。
12巻P123下段~P124上段
<「殺される前に助けてやらなきゃ。でも、いいのかな、ここで助けても」
白竜王が気にしたのは、歴史に干渉してもいいものか、という点である。
「心配ご無用よ。あたしたちが助けて、それで助かるなら、それこそが彼らの天命だから。
天命で今夜の死がさだまっているなら、あたしたちが全力をつくしても彼らは助からない。
だからあたしたちが全力をつくしても、さしつかえないのよ」
(以下略)
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まるで旧日本軍ではないかという批判はまさしくその通りなんですが、これは封神演義の
影響ではないかと思いますが、如何でしょうか。
読んだのが随分前ですが、登場人物達がやたらと、特に戦闘前の口上で「天命」「天意」と
いった言葉を連発していたのが印象に残っています。
特に姜子牙など、紂王を助命したいという武王の意向を天命と称して反対し、結局紂王を
自害に追いやってしまいましたし。
12巻の場合、登場しているのは現代日本人の竜堂兄妹ではなく四海竜王ですから、田中氏
としては、チャイニーズファンタジーらしい台詞を言わせたかったんじゃないかと推測しますが、
結果として旧日本軍みたいになってしまったんだと思います。
如何でしょう?
<12巻の場合、登場しているのは現代日本人の竜堂兄妹ではなく四海竜王ですから、田中氏
としては、チャイニーズファンタジーらしい台詞を言わせたかったんじゃないかと推測しますが、
結果として旧日本軍みたいになってしまったんだと思います。>
というより、「天命」だの「天意」だのといった、誰に確認のしようもない曖昧な概念が跳梁跋扈し、それをベースに易姓革命が正当化される思想そのものが、創竜伝曰く「軍隊が中央政府のいうことをきかずに暴走する旧日本軍」と全く同じシロモノでしかないのですからね~。この思想のおかげで中国では有史以来内戦が絶えなかったのですし、「結果として」どころか「一目見ただけで」この構図は明らかなのですが。
そもそも、「登場しているのは現代日本人の竜堂兄妹ではなく四海竜王」だから「チャイニーズファンタジーらしい台詞を言わせたかった」というのであれば、何故宋王朝の「宋朝弱兵」の比較に「二十世紀の大日本帝国」が取り上げられなければならないのですか? 「宋朝弱兵」の比較ならば、私が論の中で出していた「唐王朝時代後期~五代十国時代の藩鎮跋扈」の方が、小説の舞台設定的にも政治・歴史考証的に見てもはるかに妥当なものであるはずでしょうに。
そういう無理をしてまでわざわざ「二十世紀の大日本帝国」を(おそらくは日本罵倒のストレス解消目的で)取り上げ、こき下ろすということを作者および創竜伝の登場人物が「率先して」行っている以上、「そういうお前らも自分達で嘲笑している旧日本軍と全く同じ理論を主張しているのだが、他人様を非難する前に、少しは自分達の行動を振り返ってみてはどうか」という私の主張は、その動機がいかなるものであっても「作者および創竜伝の登場人物にとっては」相当に有効な打撃となりうると思うのですが、如何?
あの、私が田中氏や四兄弟を弁護していると思ったのでたら、それは誤解です。
寧ろ冒険風ライダーさんの考察を肯定した上で、さらに一歩踏み込んだつもりなのですが。
(まあ、大した一歩ではないつもりですが)
仰るとおり、田中氏は作品中で旧日本軍を嘲笑しているのに、その旧日本軍と全く同じ理論を
彼らに主張させています。その点について疑問の余地はありません。
ただ、私は「なんで田中氏は大ッ嫌いな旧日本軍と同じ論理を彼らに言わせたのか」あるいは
「彼らの論理が旧日本軍のそれと同じである事に何で田中氏は気が付かなかったんだろうか」
と、田中氏が何を考えていたのかという事に興味を持ちました。
それで、自分なりに考察した事を書いてみただけです(「単に田中氏は何も考えてなかった」という
考え方もありますが...)。
ですから、
>その動機がいかなるものであっても「作者および創竜伝の登場人物にとっては」相当に有効な打撃となりうると思うのですが、如何?
については「仰るとおりですね」としか申しようがありません。
<あの、私が田中氏や四兄弟を弁護していると思ったのでたら、それは誤解です。
寧ろ冒険風ライダーさんの考察を肯定した上で、さらに一歩踏み込んだつもりなのですが。
(まあ、大した一歩ではないつもりですが)>
そうでしたか。
いや、今回こちらとしては、あなたの書き込みが、
<まるで旧日本軍ではないかという批判はまさしくその通りなんですが、これは封神演義の
影響ではないかと思いますが、如何でしょうか。>
という書き出しから始まっていたので、「動機ないしは元ネタがこうだと推察されるから、これは純然たる小説としての描写であって、特に問題にすべきことではないのでは?」という論理に持っていこうとしていたのではないかと解釈していたのですが、どうもこちらの過剰警戒だったようで。
こちらこそ、投稿の意図を誤解してしまい申し訳ありませんm(__)m。
で、本題についてですが、
<ただ、私は「なんで田中氏は大ッ嫌いな旧日本軍と同じ論理を彼らに言わせたのか」あるいは
「彼らの論理が旧日本軍のそれと同じである事に何で田中氏は気が付かなかったんだろうか」
と、田中氏が何を考えていたのかという事に興味を持ちました。>
私としては「3流ヒューマニズムによる人命尊重を優先したかったから」というのが解答だと思いますね。
A.Naさんが挙げられていた件の描写における例の主張は、四海竜王&太真王夫人一派が、賊に襲われることが事前に判明している宋王朝時代の人間を助ける際に障害となる「人界・歴史干渉行為禁止ルール」を破ることを正当化するために持ち出されたものです。創竜伝12巻の宋王朝時代における四海竜王&太真王夫人一派の行動は、その一挙手一投足全てが天界および仙界が定める「人界・歴史干渉行為禁止ルール」に抵触する(厳密に言えば「その時代の誰かに話しかける」「体に触れる」「物を動かす」というだけでもルール違反となる)ものですし、本来の歴史では「賊に襲われて死亡することが確定している人間」を救出するというのはその中でも最大級の違反行為と見做されざるをえませんから、その違反行為を正当化するための理論武装を連中および作者は必要と考えたのでしょう。そして、その結果出されたのが「3流ヒューマニズムによる人命尊重のためなら法を破ってもかまわない」という論理を屁理屈こね回して言い換えたあの主張だったわけです。
それがまさか「旧日本軍の暴走の正当化論理と全く同じになってしまっている」とまでは、「3流ヒューマニズムによる人命尊重」が全てに優先されてしまっている連中および作者の頭では全く気づきようもなかったでしょうし、仮に万が一(にもありえない可能性だとは思いますが)気づいたとしても「3流ヒューマニズムによる人命尊重」を優先する以上は無視せざるをえなかったのでしょう。何しろ創竜伝は、四人姉妹の50億人抹殺計画「染血の夢」に対して、プランもアンチテーゼもゼロの無責任極まりない「反対のための反対」が正当化されているような作品なのですから、後先考えない「3流ヒューマニズムによる人命尊重」がロクでもない論理で作られていても何ら不思議なことではありません。
政治や法律の世界で「3流ヒューマニズム」などを貫き通しても弊害を生むだけでしかないのですけどね~。
最初の私の投稿を読み直して見ましたが、やはり言葉足らずでした。
「12巻の場合、登場しているのは現代日本人の竜堂兄妹ではなく四海竜王だから、田中氏は
おそらく封神演義の様なチャイニーズファンタジーのイメージを他の巻に比べて濃厚に作品内に
導入したかったのだろう。
しかし封神演義のキャラクター達には、『天命』或いは『天意』と称して己の行動を正当化するという、
旧日本軍にも通じる傾向があって、田中氏はそれらを愚かにも、作品内に反映させてしまっている」
とでも書いた方が良かったかもしれません。
>私としては「3流ヒューマニズムによる人命尊重を優先したかったから」というのが解答だと思いますね。
それは創竜伝において一貫した(田中氏は自覚していないであろう)テーマ(笑)の一つですね。
ともあれ、お返事ありがとうございました。