「私の創竜伝考察シリーズ」も、とうとう30回目を迎えることになりました。正直このシリーズを始めた頃には、時間的にも内容的にもここまで長くなるとは思ってもいませんでしたね(^^;)。当初の予定よりも大幅に長くなってしまったし。
まあそれによって田中芳樹に対する批評内容が充実したものになっているのであればそれでも良いのですが、さて現実はどんなものか、少し不安なところです。
今回で創竜伝9巻の批評は終わりです、それでは始めましょうか。
P201上段~下段
<バルーフ・ゴールドシュタインというユダヤ人がいた。ニューヨークに生まれ、イスラエルに移住した。彼は医師だったが、イスラム教徒の治療を拒否していた。一九九四年二月、彼は多額の生命保険に加入した上で、イスラム教の礼拝堂にはいっていった。そこでは多くのイスラム教徒たちが頭を床につけて神に祈っていた。むろん丸腰である。ゴールドシュタインは自動小銃を取り出し、祈っている人々の背中に銃弾をあびせた。四〇人以上の人々が殺された。「ヘブロンの虐殺」である。
銃弾がつきたところで、ゴールドシュタインは激怒したイスラム教徒に包囲され、乱打をあびて死んだ。彼は「死を恐れず、生命がけで」、神に祈っている人々を一方的に虐殺したのである。これは「何でも生命がけでやればえらい」という通俗道徳を信じる人々にとっては、なかなか厳しい返答であろう。やることの意味を考えずに生命を軽んじるような者は、異なる価値観を持つ者に利用されるのが落ちである。>
ちょっとちょっと田中センセイ、この「ヘブロンの虐殺」とやらのたとえ話と、社会評論の結論である「やることの意味を考えずに生命を軽んじるような者は、異なる価値観を持つ者に利用されるのが落ちである」という文言に、一体どういう相関関係があるのですか? 上記の社会評論を読んだ限りでは、「ヘブロンの虐殺」を起こしたゴールドシュタインの行動は、誰に命令によるものでもない自発的なものであるとしか読めないのですけど。
そもそもユダヤとイスラムとの関係を論じるのであれば、ユダヤ人が他民族から差別・迫害されてきた歴史的背景と、イスラエル建国以来のアラブ諸国との対立の歴史も同時に論じなければ意味がありません。ユダヤ人は歴史的にあらゆる国々と民族から迫害を受けつづけ、第2次世界大戦後になってようやく自分達の国家の建国を認められたという事情があるため、対外的に常に強行路線をとるようになっています。4回にわたる中東戦争はその外交方針の典型例でしょう。
また、イスラエルが領有しているエルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三つの宗教の聖地であり、ここの領有をめぐってイスラエルとアラブ諸国は宗教的に対立しているのです。
この歴史的背景を無視してユダヤとイスラムとの関係を取り上げ、まるでイスラム教側が一方的な被害者であると言わんばかりの社会評論を展開しては、事件の背後関係が不透明なものになってしまい、読者に偏ったイメージを与えてしまう事になってしまうではありませんか。確かにゴールドシュタインの行った所業は誉められたものではないでしょうが、やられた側のイスラム教国家であるアラブ諸国の方だって、1972年のイスラエル・テルアビブの空港で銃を乱射し、多数のユダヤ人を殺害した日本赤軍の岡本公三を「英雄」などと賞賛していますし、「ヘブロンの虐殺」の際にはアラブ過激派がイスラエルに対して報復爆破事件を起こしています。ユダヤとイスラムとの関係は「どっちもどっちな関係」であって「一方的な加害者と被害者の関係」とはとても言えたものではありません。
また虐殺行為それ自体を弾劾するというのであれば、すくなくともイスラエル側だけでなく上記のようなアラブ側の事例も取り上げ、その上で中東地帯における政治的・宗教的対立にも言及しなければ不公平でしょう。虐殺行為を行ったのがイスラエル側だけであるというのであればともかく、現実はそうではないのですから。
「ヘブロンの虐殺」の事例は、イスラエルとアラブ諸国との政治的・宗教的対立がいかに深刻なものであるかを示している例であって、田中芳樹が主張しているような「綺麗事」で片づけられるようなシロモノではないのです。そのような背景を全く無視して自分の勝手な価値観を当てはめ、一方的に裁くような行為は、「やることの意味を考えずに生命を軽んじる」行為と同じくらいに醜悪なものなのではないでしょうか?
P209下段~P210上段
<続と終の後ろの座席では、始と余が天気予報について話している。「到着地ロンドンの天気は晴れ」と機内放送が告げたことから、そういう話題になった。
「第二次世界大戦中、日本には天気予報がなかったんだよ」
「どうしてなの?」
「気象情報は軍事機密だからさ。明日の夜、東京は晴れる、というニュースを敵に知られたら、爆撃されてしまうだろ」
「ああ、そうか。でもそれだと普通の人はすごく迷惑だよねえ」
余は眉をひそめる。
「天気予報どころか、一九四四年におこった濃尾大地震についてもまったく報道されなかった。戦争に勝つため、という理由で、どんなことでもできる時代だったんだ」
「そうか、いやだなあ。あたらない天気予報でも、自由に聴けるほうがいいよね」>
この竜堂兄弟のあまりにも能天気な会話には呆れ果てますね。彼らは「国家総力戦」という言葉を知らないのではないでしょうか(笑)。相変わらず政治と軍事に関する無知が露呈している会話でしかありませんね。一体何が彼らの無知を支えているのでしょうか(笑)。
第一次世界大戦以降、それまでの戦争の質が全く変わってしまいました。植民地や権益を求めるための「限定・局地戦争」が、相手を完全に叩き潰すまで国の総力をかけて戦争を続けるという「国家総力戦」へと変わっていったのです。そしてこの「国家総力戦」において勝利するために、国家は様々な統制を国民に対して行わなければならなくなったのです。具体的には軍需工場への戦時徴用や徴兵制の導入などがそうですが、国家による情報操作・情報統制なども戦争遂行に対して非常に重要な役割を果たしています。これは何も日本だけでなく、アメリカも含めた当時の列強諸国全てに共通したものであり、当時の政治情勢や戦時・非常事態体制の常識から考えればそれほどまでに非難されなければならない筋のものではありません。
そもそもこの竜堂余に対する竜堂始の「講義」の中には、平時体制と戦時・非常事態体制とがそれぞれ異なる規範や常識によって動いているという事に対する説明が全く含まれておりません。昨今の有事法制問題でもよく見られる事なのですが、戦時・非常事態体制の際に平時の常識で動いていたら、却って被害が拡大し、国民生活が大いに損なわれてしまいます。阪神大震災の際の自衛隊の出動の遅れ(これは当時の無能な某首相にも責任があるが)や、救助活動の際に発生した様々な法律上の弊害などはまさにその典型例でしょう。ましてや、何が何でも戦争に勝たなければならない戦時体制においては、阪神大震災時以上の統制が国民に対して要求される事はむしろ当然です。そしてそれは善悪の価値基準によって裁定できるものなどではなく、社会をとりまく情勢が違うというだけの話でしかないのです。
戦時・非常事態体制は、平和な平時体制と状況が違い、それにともない求められるものもまた違ってくるからこそ、平時と違った規範や常識や統制などが存在するのです。その事を無視して「平時の常識」という観点からあの当時の政治情勢や戦時体制を否定的に語ったところで、戦争を感情的・反射的に否定するだけの「戦争アレルギー」を醸成してしまうだけで、なぜそのような統制が行われたかという理由や、戦争や非常事態時における国家統制の重要性などが本当に理解できるわけがありません。医者が病気を治すためには病気の事を詳しく知らなければならないように、平和が大事なのであれば、むしろ政治や戦争に関する詳しい知識がなければ、戦争を防ぐ事などできないでしょう。「天気予報云々」で訳の分からない感情論を振りまわす前に、もう少し当時の政治状況や戦時と平時との差異がなぜ生まれるのかについての言及があっても良かったと思うのですけどね~。まあ竜堂始のような低レベルな偏向教師に、そのようなものを求めるのは無理と言うものなのでしょうが(笑)。
小説中で竜堂始は共和学院の教師だったそうですが、このようなレベルの低い歴史授業を受けていた竜堂始の担当クラスの生徒が実に哀れでなりませんね(T_T)。
P210下段~P211上段
<「崑崙にいたとき辰コウで見たけど、そのころはアジアの軍隊は強かったんだね。その後は日露戦争で日本がロシアに勝つまでアジアの軍隊はヨーロッパに勝てなかったんでしょ。本に書いてあった」
「とんでもない、その本はまちがいだね」
手きびしく始は断定した。
一九世紀後半、フランスはベトナムを侵略し、植民地にしようとしていた。ところがこのときベトナムには「黒旗軍」という中国人の傭兵部隊がおり、それがおどろくほど強かった。司令官は劉永福といい、この人物が指揮して、二度にわたってフランス軍を撃滅している。二度ともフランス軍の総司令官が戦死し、部隊は死体の山を遺して敗走した。これが一八七三年から一八八三年にかけてのことで、「近代になって、アジアの軍隊がヨーロッパの軍隊にはじめて勝った」と大評判になった。日本でも明治一六年七月四日の東京日日新聞が、「劉永福とは諸葛孔明と楠木正成をあわせたような戦術の天才だ」という記事を載せて絶賛している。それまで日本は幕末に鹿児島や下関でヨーロッパの軍隊と戦い、一度も勝ったことがなかったので、すなおに劉永福を賞めたたえたのだ。その後フランスはベトナムにさまざまな圧力をかけ、劉永福を追い出させることに成功する。劉永福は不敗のままベトナムを去らねばならなかったが、彼の名声は衰えなかった。
ところが一九〇五年に日本は日露戦争でロシア帝国に勝利してしまった。たちまち日本人はのぼせあがり、歴史事実を無視して神話をでっちあげる。
「ヨーロッパの軍隊にはじめて勝ったアジアの軍隊は日本軍だ!」>
いやはや驚きました。創竜伝や中国小説において中国の歴史を語る時にアレほどまでに「歴史事実を無視して神話をでっちあげる」人間が、日露戦争の歴史的評価についてあれこれ言う事ができるとは(笑)。それに田中芳樹よ、アンタかつて自分で書いた作品の中で「戦略と戦術とは全く別物である」とヤン・ウェンリーあたりに言わせていませんでしたっけ? それとも単なる戦術レベルでの勝利がそれほどまでに誇るべき事だとでも言いたいのですか? もしそうであると言うのであれば、ヤン・ウェンリーもさぞかし泣いている事でしょうね(笑)。
そもそも劉永福とやらがどれほどまでに奮闘してフランス軍を全滅させ、勝利の快哉を叫んだところで、それは単なる局地的な戦術的勝利であるにすぎず、政治的・戦略的に何らかの利益をベトナムに対してもたらしたものではありません。彼の評価については、田中芳樹の社会評論としては珍しいほど妙に具体的な資料である「明治一六年七月四日の東京日日新聞」が主張しているようにあくまでも「戦術の天才」であって、政治的・戦略的に彼の活躍度は全くのゼロであったと言っても過言ではないでしょう。それはフランスが結局ベトナムを植民地にしてしまった事によって証明されています。そのような「歴史事実を無視して」戦術的勝利をことさら礼賛するという「神話をでっちあげ」て恥ずかしくないのですかね? 確か田中芳樹は「紅塵」の秦檜評価論の時にも全く同じことをやっていたような気がしますが(笑)。
そしてなぜ日本がヨーロッパに勝ったアジアで最初の国であると言われるかと言えば、当然の事ながらロシアの侵攻に対して日本が「戦略的・政治的勝利」をおさめ、当時の有色人種としては初めて国家・民族の独立を保つ事に成功したからです。日露戦争における日本の勝利は、劉永福の単なる個人プレイなどとは訳が違うのです。どちらがより多く歴史に影響を与え、高く評価されるべきであるか、答えは一目瞭然ではありませんか。
しかし田中芳樹はどうやら日露戦争で日本が勝利した事自体がご不満であるようで、下のように文章を続けるんですね↓
P211上段~下段
<小さな日本が大きなロシアに勝っただけでもたいしたことなのだから、事実を事実として誇ればそれでよいのに、それだけでは気がすまないのだ。これから日本の病気がはじまり、「日本はアジアで一番すぐれている。日本以外のアジアはだめだ。アジアは日本のものだ」という妄想がふくらんでいく。日露戦争の開戦の理由として「ロシアに圧迫されている韓国の独立を守る」と世界中に宣言したのに、その六年後には韓国の独立を奪って日本の植民地にしてしまうのだ。>
田中芳樹よ、いくら現実と虚構の区別がつかないとはいえ、現実世界の政治を「政治家の選挙公約」だの「市井の倫理観」のレベルで語ってはイケマセン(笑)。お人好しじゃあるまいし、日清・日露戦争時における「韓国の独立を守る」という宣言(宣戦の大詔)が日本にとって何の国益もなしになされた訳がないでしょう。「韓国の独立を守る」という事が日本の国益に反する事があれば、当時の政治情勢からすれば併合されて当たり前なのです。
そもそも日本が朝鮮半島をめぐって日清・日露戦争を戦ってきた最大の理由は、朝鮮半島が日本の国防上重要な位置にあり、朝鮮半島の安定こそが日本の安定につながったからです(これは今でも同じです)。だからこそ日本は朝鮮半島に安定した親日政権ができる事を期待して「韓国(朝鮮)の独立を守る」という「宣戦の大詔」を挙げて日清・日露戦争を戦ったのです。朝鮮問題を論じるのであれば、まずこの「日本の国防上の問題」を中心に見なければ話が前に進みません。
そして実際、この「宣戦の大詔」にしたがって日本が朝鮮を独立させていこうとしていたのも事実です。それを最もよく表しているのが、日清戦争後に李氏朝鮮の国号が「大韓帝国」となり、李王朝の「王」が「皇帝」になったことです。これは名実共に清王朝の属国でなくなったことを意味します。朝鮮半島の歴史上、朝鮮で「皇帝」が誕生したのはこの時が最初で最後です。この事例だけを見ても日本が「宣戦の大詔」に基づいて行動していたことは明白です。ただしあくまでも日本の国益・国防上の利益を損なわないという条件がありましたが。
ではそれがなぜ「日韓併合」にまで繋がっていったのか? それは安重根というテロリストが、韓国統監府の初代総督であった伊藤博文を暗殺してしまったからです。実は伊藤博文は朝鮮独立論者で、日露戦争後に国防上の観点から日本の保護下におかれていた「大韓帝国」の主権(外交権)をいずれは回復させるつもりだったのですが、それを暗殺してしまったがために日本の世論が一気に硬化してしまい、日韓併合へと話が進んでいったというのが真相です。またこの事件をうけて、当時「大韓帝国」の政党の中で最も大きな力を持っていた一進会からも「日韓併合論」があがっています。
そして1910年、当時の欧米列強と清王朝の了承を受けた上で、日本政府と「大韓帝国」との間に日韓併合条約が結ばれ、「大韓帝国」の王族や両班の地位が保全され、日本の華族として遇されることになった上で日韓併合が実現したのです。そしてその後の日本の朝鮮経営はインフラ整備や朝鮮駐留軍の負担などによって常に慢性的な大赤字で、日本は経済的には一切の利益を上げておらず、ことに大正初期の朝鮮駐留軍の2個師団増設問題では、首相が何回も交代するほどの政治問題にすらなっています。
このようにして行われた日韓併合とその後の朝鮮経営が「日本の病気」だの「妄想」だのに基づいたものであるというのであれば、当時の日本は一体どうすれば良かったと言うのでしょうか。まさか当時の欧米列強の植民地支配と同じように、積極的にジェノサイドを展開し、徹底的な搾取を行うべきだったとは言わないでしょうね(笑)。
P211下段
<そしてそれは長い目で見れば、おとなりの国々を暴力で支配しようという狂気と妄想が、自国の破滅を招く、その第一歩であった。一九二八年にはパリ不戦条約が結ばれ、武力による侵略が国際法において禁じられたのに、南米以外では、ドイツ、イタリア、ソ連、日本の四ヶ国だけがその条約に違反するのだ。したがって、「日本は侵略戦争をやっていない」という主張は、明らかにまちがいである。そもそも自国の領土でもない場所に軍隊を送って占領する事を侵略というのである。>
パリ不戦条約違反? そりゃまたずいぶんひどいザル法で日本を裁いたものですね。相変わらず国際法についての理解がないままに「国際法違反」という文言だけを振りまわしているのが見え見えですな(笑)。知ったかぶりで法律論を振りまわしているその姿は、まさに「性悪説」を誤用した鳥羽靖一郎そのものではありませんか。
このパリ不戦条約ことケロッグ・ブリアン協定は日本国憲法第9条のモデルにもなった条約ですが、実はこの条約は国際法として正常に機能するには肝心なものが欠如しているのです。それは「侵略についての定義」です。
これは国際法に限らず日常で使用される法律にも言える事なのですが、法律を制定する際にはその法の中に記載されている事象に対する定義を定めなければなりません。一例を挙げると、「他人の財物を窃取したる者を窃盗罪とする」という法律を犯した者に対してこの法律を適用するには、法律条文の文言である「他人」「財物」「窃取」の定義をそれぞれ細かく定め、これらの定義に当てはまる犯罪構成要件を被告が満たしていなければなりません。この3つの定義の何かひとつでも欠けていた場合は、法律上、犯罪を構成することにはならないのです。
窃盗罪の場合は「財物の定義」というのがよく法律上問題になっていて、一昔前には電気窃盗の際の「電気」が「財物」と定義できないために「電気窃盗が犯罪にならない」という事が問題になりましたし、最近ではコンピュータのデータ盗難の際の「コンピュータのデータ」がこの「財物の定義」に引っかかりました。このように、法律を適用する際には、法律の条文内容についてひとつひとつ「定義」を定めておかなければならないのです。
この事を踏まえた上でケロッグ・ブリアン協定に話を戻すと、ケロッグ・ブリアン協定がまともに機能するためには、当然の事ながら条文の中で禁止している「侵略」についての定義が必要になります。ところが「侵略」という文言ほど、よく悪しきイメージで使われるにもかかわらず、完全な定義ができないシロモノはありません。
「侵略の定義」については、一応1974年の第29回国連総会によって次のように定義されはしましたが……。
1.他国の領域の攻撃、侵入、軍事占領、全部又は一部の併合。
2.他国の領域への砲撃や兵器の使用。
3.港や沿岸の封鎖。
4.他国の陸海空軍、商船隊、航空隊への攻撃。
5.他国領域にある軍隊を受入国との協定に反して使用し、又は協定期限を越えて
その領域における駐屯を延長すること。
6.第三国侵略のため他国が自国領域を使用するのを容認する行為。
ちなみにここで決められた「侵略の定義」は、国際連合の安全保障理事会が侵略行為の是非を決め、武力行使を含めた制裁を発動することができるため、どうしても「侵略の定義」が必要になってきたがために制定されたものです。安保理に勝手に「侵略」を裁定されてはたまったものではありませんから。
しかしこの定義では、実際問題として全く「侵略」と判定できない事態が多く発生します。たとえば北朝鮮の日本海へのミサイル発射は「2」に該当しますし、日本が在日米軍に対して施設提供や「思いやり予算」などを計上しているのは「6」に抵触します。極めつけは、旧ユーゴスラビアことセルビア共和国に対するNATO軍の空爆は、安保理の決議が行われないまま始められたので、ユーゴ空爆を行ったNATO諸国は「1」から「6」全てに違反している事になります。しかしこれらの行為は本当に「侵略」と定義できるものなのでしょうか? すくなくとも、これらの「侵略行為」に基づいて安保理が何らかの制裁を決議したという話は聞いた事がありません。
このように、法律制定の過程で「侵略の定義」を定め、それに基づいて「侵略の罪」を裁くなど、現実問題として絶望的に困難であると言わなければなりません。「侵略」という判定は元々が自国を攻撃された国の、侵攻してきた相手国に対する主観的・相対的な評価でしかなく、しかもその時点での価値観・政治情勢・国家関係・大義名分・占領行政の評価などによってひとりひとりの評価も全く違ってくるものなのですから、確固たる法律で「これが侵略の定義である」と規定するなどほとんど不可能なのです。
ケロッグ・ブリアン協定にはこの肝心要の「侵略の定義」が全く定められておらず、しかも自衛戦争などの戦争は「合法」として認められたため、法律的には完全なる「死に法」であると言っても過言ではなかったのです。こんなシロモノで「日本の侵略の罪」なるシロモノが勝手に裁かれてはたまったものではありません。田中芳樹も意味不明な「侵略の定義」を振りまわす前に、もう少し法律的知識を勉強した方が良いんじゃないですかね。
ちなみに国際法を蹂躙して行われた「勝者の私刑」と言われる東京裁判において「日本が侵略国家である」と勝手に裁定させたマッカーサーでさえ、朝鮮戦争後の上院の委員会において
「日本が戦争を始めたのは自衛のための戦争であり、東京裁判は間違いであった」
と証言しているのですけど、これでも日本は「侵略国家である」と裁定されなければならないというのでしょうか?
P211下段~P212下段
<とにかくアジアを軽視する日本の態度にはおどろかされる。つい最近も、始は高名な女流作家がモンゴル帝国について書いた文章を読んであきれてしまったことがある。「モンゴル軍を撃退した民族は世界で日本人だけである」という文章である。とんでもないまちがいだ。
モンゴル帝国の軍隊はヨーロッパでは連戦連勝だったが、アフリカではバイバルス将軍ひきいるエジプト軍に完敗した。ベトナムでは陳興道将軍のために三度にわたって惨敗した。ジャワでも一時的に首都を占領したが、結局は撃退されている。宋を滅ぼして中国全土を占領するのには成功したが、「世界最強のモンゴル」が「世界最弱の宋」を滅ぼすのに四十五年もかかっている。宋の人々は四十五年にもわたって侵略に抵抗しつづけたのだ。このような歴史事実を無視して、「モンゴルに勝ったのは日本人だけ」と主張するのは、単なる無知からではない。アジア人やアフリカ人が日本人以上のことができるはずがない、という思いあがりのためである。
「世界は日本と欧米だけで成り立っている」などという態度をそろそろあらためたほうがよいのではないだろうか。その意味で、「三国志」や「風水学」などのブームは、行きすぎはあってもけっして悪いものではなく、そういったものに親しむ若い世代に期待してよいかもしれない。>
この社会評論が、この掲示板でも話題になった塩野七生氏を揶揄した個所ですが、自分が散々創竜伝で侵している数えきれないほどの「とんでもないまちがい」について何も釈明しないくせに、他人の過誤についてはこれほどまでに攻撃できる神経は、いつもの事ながら大したものです。第一、他の作家の作品の内容を批判するのであればせめて名前と書籍名と引用ページぐらいはきちんと付記して下さいよ。この社会評論だけでは、誰の、何の作品を批判しているのかがさっぱり分からないではありませんか。
だいたい「高名な女流作家」こと塩野七生氏が自分の著書の中でミスを犯したからといって、何でありもしない「アジアを軽視する日本の態度」までが言及されなければならないのでしょうか。塩野七生氏と「日本の態度」とは何の関係もありませんし、戦後の日本の外交や経済・文化交流などで「アジアを軽視」する態度を取っていたなどという話は聞いた事がありません。それどころか、朝日新聞や旧社会党の愚劣な主張も含め、むしろ積極的に友好関係を結ぼうとしていたようにしか見えないのですけど。
それにモンゴル軍の記述についてですけど、モンゴル軍を撃退したアフリカ・ベトナム・ジャワの事例はともかく、何で敗北したはずの宋の事例までが取り上げられているのでしょうか? いくら果敢に抵抗していようが「敗北」は「敗北」です。第一「四十五年にもわたって侵略に抵抗しつづけた」ということは、それだけ多くの負担を当時の宋王朝は自国の民衆にかけていたわけで、これは少しも誉められた事ではないではありませんか。宋が軍事的にかなわなかった金を元は滅ぼしたのですから、宋が元にかなうわけがない事など最初から分かりきっている事です。そうであるならば無駄な抵抗などさっさと止めて、秦檜の時のように「王朝の存続と領土の安堵」を条件にして降伏するか臣従を申しこむかしてしまえば、すくなくとも民衆の犠牲は少なくてすんだと思うのですけどね~。愛国心のために戦うことは、田中芳樹の価値観から言えば愚劣な事なのですし(笑)。
このような歴史的側面を無視して、田中芳樹が「宋はモンゴル軍の侵略に勇敢に抵抗したのだ」などと主張するのは、単なる無知からくるではなく、偉大なる中華帝国が周辺の蛮族などに屈した歴史を認めたくない、という思いあがりのためなのでしょうな(笑)。人様に非現実的な説教を並べる前に、まず自分の方こそが「世界は偉大なる中国文明でなりたっている」などという態度をそろそろ改めた方が良いんじゃないですか(笑)。その意味で、田中芳樹の中国小説があまり評価されないという現象は、行きすぎはあっても決して悪いものではなく、そういった評価眼をもつ若い世代に「田中芳樹を更正させる事」を期待して良いのかもしれません(爆)。
さて、次は10巻と11巻の社会評論をまとめて論じてみたいと思います。
あの2つは社会評論の数が少ないので(^^;;)。
> P210下段~P211上段
> <「崑崙にいたとき辰コウで見たけど、そのころはアジアの軍隊は強かったんだね。その後は日露戦争で日本がロシアに勝つまでアジアの軍隊はヨーロッパに勝てなかったんでしょ。本に書いてあった」
> 「とんでもない、その本はまちがいだね」
> 手きびしく始は断定した。
> 一九世紀後半、フランスはベトナムを侵略し、植民地にしようとしていた。ところがこのときベトナムには「黒旗軍」という中国人の傭兵部隊がおり、それがおどろくほど強かった。司令官は劉永福といい、この人物が指揮して、二度にわたってフランス軍を撃滅している。二度ともフランス軍の総司令官が戦死し、部隊は死体の山を遺して敗走した。これが一八七三年から一八八三年にかけてのことで、「近代になって、アジアの軍隊がヨーロッパの軍隊にはじめて勝った」と大評判になった。日本でも明治一六年七月四日の東京日日新聞が、「劉永福とは諸葛孔明と楠木正成をあわせたような戦術の天才だ」という記事を載せて絶賛している。それまで日本は幕末に鹿児島や下関でヨーロッパの軍隊と戦い、一度も勝ったことがなかったので、すなおに劉永福を賞めたたえたのだ。その後フランスはベトナムにさまざまな圧力をかけ、劉永福を追い出させることに成功する。劉永福は不敗のままベトナムを去らねばならなかったが、彼の名声は衰えなかった。
> ところが一九〇五年に日本は日露戦争でロシア帝国に勝利してしまった。たちまち日本人はのぼせあがり、歴史事実を無視して神話をでっちあげる。
> 「ヨーロッパの軍隊にはじめて勝ったアジアの軍隊は日本軍だ!」>
この部分は全編中でも特にデタラメな部分ですね。最初に読んだときは本当に開いた口がふさがりませんでした。
大体、以前東郷平八郎を「単なる局地戦の指揮官」「教科書に載せるのは時代錯誤」とかのたまってたのと同じ人の言葉とは思えませんね(^^;)。
いくらなんでもここまで露骨なダブスタにはさすがにファンの人も鼻白んでしまってるんじゃないでしょうかねえ。
> いやはや驚きました。創竜伝や中国小説において中国の歴史を語る時にアレほどまでに「歴史事実を無視して神話をでっちあげる」人間が、日露戦争の歴史的評価についてあれこれ言う事ができるとは(笑)。それに田中芳樹よ、アンタかつて自分で書いた作品の中で「戦略と戦術とは全く別物である」とヤン・ウェンリーあたりに言わせていませんでしたっけ? それとも単なる戦術レベルでの勝利がそれほどまでに誇るべき事だとでも言いたいのですか? もしそうであると言うのであれば、ヤン・ウェンリーもさぞかし泣いている事でしょうね(笑)。
> そもそも劉永福とやらがどれほどまでに奮闘してフランス軍を全滅させ、勝利の快哉を叫んだところで、それは単なる局地的な戦術的勝利であるにすぎず、政治的・戦略的に何らかの利益をベトナムに対してもたらしたものではありません。彼の評価については、田中芳樹の社会評論としては珍しいほど妙に具体的な資料である「明治一六年七月四日の東京日日新聞」が主張しているようにあくまでも「戦術の天才」であって、政治的・戦略的に彼の活躍度は全くのゼロであったと言っても過言ではないでしょう。それはフランスが結局ベトナムを植民地にしてしまった事によって証明されています。そのような「歴史事実を無視して」戦術的勝利をことさら礼賛するという「神話をでっちあげ」て恥ずかしくないのですかね? 確か田中芳樹は「紅塵」の秦檜評価論の時にも全く同じことをやっていたような気がしますが(笑)。
> そしてなぜ日本がヨーロッパに勝ったアジアで最初の国であると言われるかと言えば、当然の事ながらロシアの侵攻に対して日本が「戦略的・政治的勝利」をおさめ、当時の有色人種としては初めて国家・民族の独立を保つ事に成功したからです。日露戦争における日本の勝利は、劉永福の単なる個人プレイなどとは訳が違うのです。どちらがより多く歴史に影響を与え、高く評価されるべきであるか、答えは一目瞭然ではありませんか。
これも全く同感。
投手がいくつ三振取ったってチームが試合に負けたら当然勝ち星はつきません。
まあ、一応数年間もちこたえさせた、という程度には貢献してるようですが・・・。
結局、余クンの読んだ本どころか始クンの講義の方が「とんでもない間違い」で「でっちあげた神話」だったんですね(笑)。
ついでながら、「単なる局地戦の指揮官」であるこの劉永福も中国の歴史の教科書にはちゃんと載ってるそうですよ田中センセー(笑)。
P201上段~下段
<バルーフ・ゴールドシュタインというユダヤ人がいた………(後略)
この「ヘブロンの虐殺」ですが、気になってサーチエンジン(Yahoo!、Lycos、infoseek、InfoNavigator)にかけてみたところ、かろうじてinfoseek2件、InfoNavigator1件が引っかかっただけでした。
うち、1件が同じサイトなので、事実上2件のみのようです(ちなみに「バルーフ・ゴールドシュタイン」だとゼロ)。
その数少ない情報から判ったことと言えば、
・1993年の暫定自治協定の半年後に起こった
・ユダヤ教過激派による
・60人以上のイスラム教徒が殺された(犯人も死亡)。
・この事件で和平交渉は中断された経緯がある。
ということらしいですね。
まだ、比較的新しい時期の出来事のようなので、この事件について知っている方もおられるのではないかと思います。
もし、居られましたら、この事件について教えていただけないでしょうか。
それにしても、ユダヤとイスラムの関係以前に、そもそも『過激派』と『「何でも生命がけでやればえらい」という通俗道徳』がどうやったら結びつくのか理解出来ん(笑)
相変わらず、恣意的解釈と無茶だらけの恥ずかしい評論のようですね。
>それまで日本は幕末に鹿児島や下関でヨーロッパの軍隊と戦い、一度も勝ったことがなかったので、すなおに劉永福を賞めたたえたのだ。その後フランスはベトナムにさまざまな圧力をかけ、劉永福を追い出させることに成功する。劉永福は不敗のままベトナムを去らねばならなかったが、彼の名声は衰えなかった。
田中氏が「一度も勝てなかった」というこれらの戦いなんですが、実は彼が挙げたベトナムの例とは丁度対称的な感じなんですよね。
薩英戦争では軍船を拿捕されたり、市街を炎上させられたりと被害を受けましたが、実は薩摩側も奮戦し、戦死者数では英軍の方が上回った位です。(一方的な敗北のようなイメージでとらえられているのは明らかに誤りでしょう。)
英側は薩摩武士の気骨に驚嘆し、これを機に問題の先送りばかりでまともな交渉相手たりえない幕府を見離して薩摩を重視するようになりました。
一方薩摩側も攘夷の不可能を悟り、以後両者は逆に急接近していく訳で。
雨降って地固まるとはこのことか・・・(^^)。
長州藩も4カ国連合艦隊に馬関で敗れましたが、和平交渉にあたった高杉晋作は
「彦島を租借させろ。」
という要求を断固つっぱねて、寸毫も植民地化の隙を与えませんでした。(この時晋作25歳!)
いずれも軍事的には「敗北」でしょうが、戦略・外交的には「負けではない」とさえ言える結果だと思います。
「戦術的な勝利」と「戦略レベルで独立を守る」こととどちらをより高く評価すべきかは、銀英伝を書かれた田中センセーなら自ずとわかってらっしゃるでしょう。
冒険風ライダーさんは書きました
>第一、他の作家の作品の内容を批判するのであればせめて名前と書籍名と引用ページ
>ぐらいはきちんと付記して下さいよ。この社会評論だけでは、誰の、何の作品を
>批判しているのかがさっぱり分からないではありませんか。
実名を記して批判できる度胸があるくらいなら、最初からフィクションに名を借りて社会評論をやるようなセコい真似はしないでしょう。
リスクを負わずに批判したいという低劣な精神が、フィクションの中で、匿名でそれとなく示唆しながら批判するというくだらん事をさせているんでしょう。
いっぺん、ノンフィクション(評論本)でも出してやればいいのにねえ。
「ヘブロンの虐殺」
1994年2月25日、イスラエル占領地ヘブロンの中心部にあるイブラヒム・モスクで、男が、モスク内で礼拝をしていたパレスチナ人に向けて自動小銃を乱射、パレスチナ人30人が死亡した。男は生き残ったパレスチナ人によってその場で殴り殺された。さらにヘブロン各地でイスラエル軍とパレスチナ人が衝突、約10人が死亡した。男は、ヘブロンに隣接する入植地キルヤト・アルバに住む米国生まれのユダヤ人、バルーフ・ゴールドシュタイン。1983年にイスラエルに移民。内科医で、過激な入植活動組織「カハ」のメンバー。
この事件の5ヶ月前にイスラエル政府とPLOとの間に暫定自治合意が成立しており、和平交渉の進展に反発しての犯行と思われる。
「カハ」
米国生まれのラビ、メイール・カハネによって創設。カハネはパレスチナ人の国外退去を主張。過激な入植活動を行い、パレスチナ人に対する何件かのテロに関係していたと見られる。カハネは1990年ニューヨークで銃撃され死亡するが、その後も支持者らは活動を続けている。その思想はシオニズムとメシア思想と一体化させた物で、占領地における入植活動を、神の意志の体現と考えた。
「ヘブロン」
ヘブロンの「マクペラの洞窟」と呼ばれる墓所にはユダヤ人の祖とされているアブラハム、その子イサク、その孫ヤコブとそれぞれの妻が埋葬されていると信じられており、ユダヤ人にとっての重要な聖地である。またアブラヒム(イブラヒム)はイスラム教にとっても預言者の一人であり、638年のアラビア人の征服後には墓所の上にイブラヒム・モスクがつくられて、この地はイスラム教徒の聖地ともなった。以来この地に、ユダヤ人とイスラム教徒が併存することとなる。
1500年代には、ヨーロッパで異端審問所から逃れたユダヤ人が、ヘブロンでユダヤ人街を設立した。また、同じ理由のためスペインから逃れたイスラム教徒は、この周辺に落ち着くこととなった。
20世紀初頭までは両者の関係は友好的であったと思われるが、しかし、1929年両者の間で大規模な衝突が発生。多くのユダヤ人が殺され、ユダヤ人のコミュニティは消滅する。
その後、第3次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸を占領した翌年の1968年、少数のユダヤ人グループがヘブロン市内のホテルに立てこもり1929に消滅したユダヤ人居住区を再建すると宣言。イスラエル政府はホテルから退去させる代償として隣接地に入植地キルヤト・アルバを建設。現在6000人のユダヤ人が在住。カハその他の過激な入植活動組織の拠点となっている。
…こんな感じです。
heinkelさんは書きました
> 「ヘブロンの虐殺」
> …こんな感じです。
ありがとうございました。
やはりどこからどうしても狂信的過激派だったんですね。
「通俗道徳」というものは、ダブルスタンダードや論理矛盾の宝庫という側面が確かにあります(もっとも、反面、常識とはそういう側面を持つからこそ成立するという部分があることも事実ですが)。
その部分を批判・指摘すること自体には、私は何かを言うつもりはありません。あえて、静かな水面に波紋を投げかけることも評論の役割だからです(損な役回りやね)。
ですが、あえて静かなところに波紋を投げかける以上は、その質が鋭く問われるはず。
>これは「何でも生命がけでやればえらい」という通俗道徳を信じる人々にとっては、なかなか厳しい返答であろう。
社会が社会である以上、通俗道徳には「人を殺してはダメ」というものは必ずあって(戦争地帯のような例外状況では限りなくその割合が低くなるが、それでもゼロになることはあり得ない)、まさに田中芳樹の挙げる通俗道徳と矛盾します。
例えば日本のように「生命は地球よりも重い」国では、その矛盾は、突き方によっては「なかなか厳しい」問いになるでしょうが…
ついでに、「213年前(だったかな)に、フランスで、民主派が、ゴールドシュタインよろしく『生命がけで』憑かれたように人を殺しまくった(ちなみに大虐殺ですよ、フランス革命は。この騒動で死んだ人は、第一次・二次両大戦合計のフランス総戦死者よりも多い)」おかげで現在の民主社会があるという点も、通俗道徳で隠されてますね。田中センセはどう思うのかな。
>やることの意味を考えずに生命を軽んじるような者は、異なる価値観を持つ者に利用されるのが落ちである。
どうして1+1=○×▽☆…みたいな事になってしまうのか私にはよくわかりませんが、もしかしたら、これって「特攻隊」に対する当てつけのつもりなんでしょうか?(某所(日本茶掲示板)の特攻隊の議論をみていてふと考えついたのですが、何か腑に落ちたので)。
>小村さん
<ついでながら、「単なる局地戦の指揮官」であるこの劉永福も中国の歴史の教科書にはちゃんと載ってるそうですよ田中センセー(笑)。>
それは知りませんでしたね。中国も何と時代錯誤な(笑)。
しかし中国ものに関する田中芳樹のダブルスタンダードは今に始まった事ではありませんからね~。この事を知ったら、過去の主張も綺麗さっぱり忘れて「さすが中国!」と誉めてしまいそうな気がするのですけど。
<「戦術的な勝利」と「戦略レベルで独立を守る」こととどちらをより高く評価すべきかは、銀英伝を書かれた田中センセーなら自ずとわかってらっしゃるでしょう。>
そう言えば、創竜伝に限らず田中芳樹の中国ものの小説の傾向として、どうも全体的に「戦術的な勝利」ばかりが異常礼賛されていて、肝心の「政治的・戦略的評価」がすっかりおざなりにされてしまっているというのがありますね。その結果、名将や英雄の強さが散々強調されるにもかかわらず、ストーリー全体の流れは敗北と滅亡に向かっているという、何とも支離滅裂な描写になってしまっています。
これがどうも田中芳樹の中国ものが面白くない原因のひとつになっているように思えるのですけどね(-_-;;)。
>管理人さん
>やることの意味を考えずに生命を軽んじるような者は、異なる価値観を持つ者に利用されるのが落ちである。
<どうして1+1=○×▽☆…みたいな事になってしまうのか私にはよくわかりませんが、もしかしたら、これって「特攻隊」に対する当てつけのつもりなんでしょうか?(某所(日本茶掲示板)の特攻隊の議論をみていてふと考えついたのですが、何か腑に落ちたので)。>
やはりそうでしょうね。私もこの評論を初めて見た時、真っ先に思い浮かんだのが「特攻隊」と「ヤン・ウェンリーの信念否定論」でしたし。
しかし田中芳樹は信念や理念などといった価値観を全否定するくせに、日本の政治家を非難する時は「確固たる理念も政策もない」などと言うんですよね。ヤンの信念否定論の時もそうでしたけど、正直、この支離滅裂ぶりは何とかならんのかと言いたくなるのですが。
>Merkatzさん
<いっぺん、ノンフィクション(評論本)でも出してやればいいのにねえ。>
出てきたらホントに面白いんですけどね。笑いのネタとしては(笑)。
まあ創竜伝の社会評論のような内容では、仮に出版してもマトモな評論本として評価されるかどうかも怪しいものですけど。
はじめまして、皆様。最近インターネットを本格的にはじめてこのページを見つけました。とにかく書いてあることの内容の深さに驚い
ています。私も田中芳樹の愛読者の端くれです(笑)
彼との最初の出会いはビデオ「我が征くは星の大海」でその後銀英伝
アルスラーン、マヴァール、タイタニア、七都市、そして創竜伝といったところを読んでいる次第です。
それにしてもこのページを見つけほっとしました。それは、創竜伝を
読んで気分が悪くなったのは私だけではなかったと。自分は、ひょっとして変なのではないかと思っていたからです。
ところで大変初歩的な質問かもしれないのですが、どうして田中芳樹
はあれほど中国が好きなのでしょうか?
そして、どうしてこれほど日本が嫌いなのか?
このページの皆様にとってはつまらない質問かもしれませんが、教えていただけませんか。よろしくお願いします。
・ちなみに創竜伝の3巻に「始(恐らくは著者の分身なのでしょう)
は共産主義体制が嫌いである。特に一党独裁というのが気に入らない」
と書いてありますが、共産党一党独裁の中華人民共和国をどう思っているのでしょうか。
風柳人さんは書きました
> ところで大変初歩的な質問かもしれないのですが、どうして田中芳樹
> はあれほど中国が好きなのでしょうか?
> そして、どうしてこれほど日本が嫌いなのか?
> このページの皆様にとってはつまらない質問かもしれませんが、教えていただけませんか。よろしくお願いします。
以前にも書きましたが、
●元々子供の頃に三国志物語にハマッって以来中国の歴史や文物に盲目的な憧れを抱いていた。
● 全共闘華やかなりし世代で、同世代の若者なら誰でも反体制的な気分があった。(田中氏は就職した経験が無いので、その気分のまんまで中年まできてしまった)
本来何の接点も無いはずのこの2つの資質が、ホンカツの『中国の旅』か何かを触媒にして妙な化学変化をきたしたのではないか、というのが小生の「あくまで勝手な」推測です
> ・ちなみに創竜伝の3巻に「始(恐らくは著者の分身なのでしょう)
> は共産主義体制が嫌いである。特に一党独裁というのが気に入らない」
> と書いてありますが、共産党一党独裁の中華人民共和国をどう思っているのでしょうか。
山本 だからあれって、人民が決起して権力者を打倒するというアニメなんですよ。
田中 あー、そういう感じね。でも、宮崎さんは右翼なの?結局は。
岡田 いや、左翼。
田中 あれ?だって中国のこと言ってるんでしょ?
岡田 中国に関して左の人らはすごい複雑なんですよ。
田中 あー、そうなの。どっちが右だとか左だとか決められないのね。
岡田 そうそうそう。で、一応弾圧があったら、した方が悪いというふうに決めようて決めたみたい(笑)。それも文化大革命あとでいろいろゴチャゴチャあって、結局中国人民は正しいんだけども、政府は間違ってると。「あれはブントだね」とか「あれは派閥だよね」とかいうふうになって批判できるようになったんだけど、それは80年になってから。70年で、宮崎さん『パンダコパンダ』作ったのは、もう「中国は偉い!中国から来た動物はもっと偉い!」だから(笑)。
いや、↑コレは『封印』という本に収録されてる対談なんですけどね(^^)。
ちなみに
山本=山本弘
田中=田中公平
岡田=岡田斗司夫
宮崎さん=宮崎駿
です。
小林損三郎さんへ、丁寧な解説どうもありがとうございます。
特に最後の部分は面白いですね。
ところで私はあなたの書きこみ、837)「東郷平八郎と劉永福」
の感想を述べたいと思っていました。
それは一言で言えば「良くぞ書いてくれました」です。
私も、東郷平八郎を「単なる局地戦の指揮官」の部分を読んだ時には
「こんな言いぐさあるか!」というのが正直な感想です。確かに、日
本海海戦は日露戦争の中の出来事ではあると思いますが、単なる局地
戦の範疇に収まる出来事ではないと思います。
それではトラファルガーの海戦は大英帝国とフランス帝国の戦争の
中の一海戦となるのか?
また、ゲティスバークの戦いは南北戦争の中の一局地戦なのか?
そうではないでしょう。これらの出来事は「単なる・・」などという
表現で済まされるものではないと思います。
日本海海戦は日露戦争の勝敗を決定付けた、そして歴史的大事件で
ある事は間違いないと思います。そして東郷平八郎を日本を救った英 雄としても何ら不思議はないでしょう。
とにかく、日本海海戦も東郷平八郎も「単なる・・」などという
枠に収まるものではないのです。
ちなみに劉永福はフランス軍を破ってベトナムから凱旋した後、
臺灣総督として台北に赴任していますが、その赴任中に日清戦争の
敗戦後の下関条約により臺灣は日本に割譲されました。
臺灣住民は日本割譲に抵抗してアジア初の(?)共和国である
“臺灣共和国”を発足させて、劉永福を首領に据えますが、
彼はそんな臺灣住民を後目に日本軍との抗戦を嫌い福建省に
単身逃げ帰ってます(臺灣共和国自身も短命政権として終わっている)。
臺灣史を調べてから黒旗軍のコトを知ったので、自分にとっては
いかに戦が強かろうが、劉永福は臺灣住民を見捨てた卑怯者に
すぎません。総督たる責任を全うせずに、単身、日本軍と交渉はおろか
接触することもなく逃げた将軍です。
このような人物を称揚する田中芳樹の気も知れないんですが…。
まあ、臺灣でも劉永福の銅像があったから、臺灣でもある程度は
功績があったのかなぁ?
ちなみに、劉永福は李蓮杰の≪武状元 黄飛鴻≫
(邦題『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』)
の冒頭に登場し、いずこかに旅立つのを黄飛鴻が見送っています。
アジア民族の民族意識の高揚と言う面では、東郷平八郎の方が
劉永福よりも遙かに意義のある戦勝をモノにしたことは明白ですしね…。
黒旗軍も局地戦でしか活躍してないでしょ…。日本軍に勝ったというならまだしも…
宣和堂さんは書きました
> ちなみに劉永福はフランス軍を破ってベトナムから凱旋した後、
> 臺灣総督として台北に赴任していますが、その赴任中に日清戦争の
> 敗戦後の下関条約により臺灣は日本に割譲されました。
> 臺灣住民は日本割譲に抵抗してアジア初の(?)共和国である
> “臺灣共和国”を発足させて、劉永福を首領に据えますが、
> 彼はそんな臺灣住民を後目に日本軍との抗戦を嫌い福建省に
> 単身逃げ帰ってます(臺灣共和国自身も短命政権として終わっている)。
> 臺灣史を調べてから黒旗軍のコトを知ったので、自分にとっては
> いかに戦が強かろうが、劉永福は臺灣住民を見捨てた卑怯者に
> すぎません。総督たる責任を全うせずに、単身、日本軍と交渉はおろか
> 接触することもなく逃げた将軍です。
> このような人物を称揚する田中芳樹の気も知れないんですが…。
> まあ、臺灣でも劉永福の銅像があったから、臺灣でもある程度は
> 功績があったのかなぁ?
あ、そうなんですか。
『中国武将列伝』の劉永福の項ではこのように↓書いて(語って)いるんですが。
“それで一八九四年に日清戦争が起こると、彼はそのとき台湾の防衛司令官になっています。そして日清戦争が終わると、台湾は日本に割譲されて日本軍が進駐してくるんですね。それで日本軍が降伏しろというんだけれども、嫌だといって抵抗をつづけるわけです。その後、清朝からもうるさくいわれて、しかたなく台湾から引き上げます。その後ずっと長生きしますが、一九一五年に日本の大隈重信内閣があの悪名高い二十一ヵ条の要求を中国に突きつけます。第一次大戦で欧米列強がアジアにかまっていられない隙をねらったもので、中国は日本の事実上の植民地になってしまえ、というひどい要求です。司馬遼太郎さんは講演の中で、「中国の主権も領土権も何も考えない、泥棒、強盗、ハイジャックのような要求」と評しておられますが、司馬さんのような後世の心ある日本人が胸を痛めずにいられないことを日本政府はやってのけたのです。
そのとき、劉永福はもう七十九歳ですが、非常に怒って、義勇軍をつくって日本軍と戦おうとするんですけども、その計画をたてて、実行に移す前に、まあ、いい歳ですから死んでしまうんです。それで、死ぬときに、自分は同じ中国人と戦ったことはない、やっつけたのは外国人だけだ、といって息を引きとるんですね。
で、この人を思想的にどうとらえるかというと、非常に健全なナショナリズムの代表だったかもしれず、あるいは旧式の排外主義者でしかなかったのかもしれません。でも、とにかく一生をヨーロッパとか日本とか、中国やベトナムを侵害しようとする外国勢力と戦いつづけて、誇り高く死んでいった人ですね。とにかく長生きして一九一七年まで、第一次大戦の最中まで生きてますから。”
↑この記述だと清朝に無理強いされて泣く泣く台湾を離れたような印象ですが、実際の所は彼自身面倒を嫌ってトンズラしたということでしょうか。
別の人が書いたと思われる脚注には
「ベトナムや清朝との関係も終始一貫しなかった」
とありまして、このあたりの事情はこの本だけでははっきりしませんね。
注意! 前の書き込みは調べずに記憶に頼って書いたので、相当嘘を
書いてます。半分は嘘なので、信じないように。
小村損三郎さんは書きました
(略)
> ↑この記述だと清朝に無理強いされて泣く泣く台湾を離れたような印象ですが、実際の所は彼自身面倒を嫌ってトンズラしたということでしょうか。
>
> 別の人が書いたと思われる脚注には
> 「ベトナムや清朝との関係も終始一貫しなかった」
> とありまして、このあたりの事情はこの本だけでははっきりしませんね。
別の人というのはらいとすたっふの脚注ですね。
まあ、自分も専門外なのでちょっと調べてみました。
で、『世界大百科事典』日立デジタル平凡社 で劉永福を引くと・・・
“中国,清末の軍人。広東欽州(現,広西チワン(壮)族自治区)の人。傭士の出身で武芸に優れ,1857年(咸豊7)広西で天地会の反乱に参加した。1865‐66年(同治4‐5)ごろ清軍に追われてベトナムに入り,黒旗軍を名のってグエン(阮)朝に公認させた。73年以来,トンキン地方侵略のフランス軍と戦って勇名をはせたが,85年(光緒11)清仏戦争の講和により清軍とともに引き揚げ,清朝の武官となった。日清戦争の際は台湾にあり,日本の占領に黒旗軍を率いて抵抗,民族的英雄と称された。”
とあってちょっと又イメージが違います。
何にせよ彼が清朝に派遣されてベトナムに行ったわけではないことは
コレで分かりましたが・・・(『水滸伝』風に言うと、ベトナム
引き上げの時に初めて“招安”されたと言うこと)。
更に『中国の歴史8 近代中国』講談社を見ると、自分もいくつか
勘違いしていたらしく、下関条約時の台湾巡撫は唐景[山/松]という人で、
劉永福ではなかったようです。ちなみに戦わずして逃げたのも、
唐景[山/松]の方であり、劉永福ではありません。
ココでも細かい間違いしてますが“台湾共和国”ではなくて
“台湾民主国”だったようですね。
で、台湾割譲に対しては、慈禧太后(西太后)派は割譲賛成、
光緒帝派は割譲反対!と清朝内部でも意見が割れ、下関条約調印前
にすでに日本軍は台湾に対して侵攻しつつあったという状況も
忘れてはいけないようです。
1928年5月24日に台湾民主国の総統に祭り上げられた唐景[山/松]で
あったのですが、5月29日に日本軍が台北を占領すると、
とっとと大陸に逃げ帰ったようです。まあ、日本軍と台湾の兵力
を計算して、条約のことなども考えて、台湾を放棄したようです。
また、台湾の実力者達も下関条約で台湾割譲の項があるとの
情報を聞くと却って日本軍に協力するモノもなかにはいたようです。
台湾の実力者は、だいたいこの二派に分かれて、抗日を考えなく
なったようです。後に残るのは、その他の台湾住民と劉永福です。
で、劉永福と黒旗軍の登場があるわけだけど、実は彼は
“劉永福の台湾内部の守備隊があったが、この軍団は決して主導的に動かず、彰化の防衛戦を行っただけで瓦解し、大陸に逃れた。反仏戦争の英雄も、清朝の官僚機構に編入されてからは、民族的英雄とはほど遠い存在になっていたのである。”(上掲書p141)
と言った調子で、イイ所なしで徒に日を稼いだあげくに、
決して清朝から何か言われたわけではなく、ただ単に日本軍にまけて
敗走してたみたいですね・・・。ドリーマーズビューは恐ろしい・・・。
台湾の最期を見届けずに敗走しているのですから、ある程度
“台湾を見捨てた”と言う表現も合っていたのかも知れません。
おまけに日本軍は台湾の占領に手こずりはしますが、
相手は劉永福ではなくて民軍・・・つまり台湾の義勇兵(?)
だったようです。
で、≪中国人名大詞典 歴史人物巻≫上海辞書出版 によると、
台南で日本軍に破れるや日本軍の包囲を突き破って厦門に
帰っているようです。
その終わりも清末の1911年の辛亥革命で独立した広東の
民団総長(国民軍将軍?)に推薦されながら辞退し、その6年後の
1917年に亡くなってます。
1914年の対華21ヶ条要求も時代的にはあうモノの、この時、
1837年生まれの劉永福は77才のはずなんだけど・・・。
数えでも合わないような・・・?
まあ、いずれにしてもこの時代の主人公は李鴻章であり、北洋軍閥
であり西太后(慈禧太后)であり光緒帝であることは間違いないです
(『珍妃の井戸』あたりの時代です)。
それだけに彼に関する資料も少ないのではないでしょうか?
この辺は専門外なのであまり分かりませんが・・・。
あと、行為はどうあれ劉永福は民衆に人気のあった将軍であった
コトは間違いないと思います。ある程度神格化もされてますし・・・。
香港返還前夜に公開された黄飛鴻映画に劉永福が出てきて黄飛鴻に
後事を託すこと自体何か示唆的ですよねぇ・・・。
劉永福とやら・・・と揶揄されるようなことはないかと・・・。
まあ、最低限資料に当たらないと批評ではなく妄想、イチャモン
思いつきの類になりかねませんから・・・。
コレは田中芳樹に限らず万人に当てはまるコトだと思います。