全ての考察シリーズの原点となった「私の創竜伝考察シリーズ」も、今回でとうとう40回目を迎えることになりました。正直、このシリーズを始めた時は、ここまで長い期間、それもこれだけ大量の文章を書き続けることになるとは思ってもみなかったのですけどね(^^;;)。たったひとつのシリーズ作品の論評をよくもまあこれだけ続けられるものだと、我ながら感心するというか呆れるというか……。
ただ、これだけ「私の創竜伝考察シリーズ」が長期にわたって、それも大量の文章と引用文でもって連載され続けているということは、私個人の気力と根気がそれだけ続いていることもさることながら、同時に私がネタにできる「創竜伝や田中芳樹が抱える問題点」がそれだけ大量に存在していることをも意味するわけで、本来ならこれは由々しき問題であるはずなんですよね。創竜伝や田中芳樹に何ら問題が存在しなければ、私もわざわざこのような長い連載をひたすら続ける必要もなかったわけですし、その方が田中芳樹にとっても創竜伝という作品にとっても、そして何より大多数のファンにとっても本来幸福なことだったのは間違いないのですから。
まあ、今更「無い物ねだり」などしても仕方がありませんし、あくまで田中芳樹が創竜伝をはじめとする自分の作品群の問題点を何ら是正しないというのであれば、私としても田中芳樹が創竜伝を完結させるか自主廃刊するまで、使えるネタは徹底的に使い潰し、創竜伝の矛盾と破綻の全てを完膚無きまでに叩き潰すしかないのですけどね。それこそが、かつて尊敬していた作家に対する一読者としての「せめてもの慈悲」、もしくは「供養」というものでしょうし。
今回で創竜伝13巻の論評は終了となります。それでは始めましょうか。
P225上段~P226上段
<サロンの中央では、甲冑姿の征夷大将軍・小早川奈津子が、蜃海、虹川、水地の三人を相手に、幕府の基本政策を立てている。
「あんまり左がかった政策を並べてはならぬぞえ。神国ニッポンを再建するためのマツリゴトをおこなうのじゃから」
「あいや、将軍さま、右も左も関係ございません。とにかく、東京のエセ政府にとことんイヤガラセするのが肝要でございます」
「う、うむ、さようか」
というわけで、征夷大将軍が首をかしげている間に、幕府の政策はつぎつぎと決まっていった。コンセプトはいずれも、「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」ということである。
A、国連安保理決議のない超大国の武力行使に反対
B、夫婦別姓を容認
C、外国人にも参政権をあたえる
D、宗教法人に課税する
E、特殊法人はすべて廃止し、官僚の天下りは禁止
F、外国からの移民・難民に門戸を開放する
小早川奈津子の目から見ると、どうも「左翼的」で「進歩的」なことばかりに思える。>
……今まで竜堂兄弟一派の面々が、ことあるごとに支離滅裂な社会評論を使って断罪しまくっていた、日本の政治&社会システムに対する代案がこれなのですか……。「左翼的」とか「進歩的」とかいう以前に、何だか「絶望的」な気分にさせられてしまいましたね(>_<)。私には連中の提示する「政策【モドキ】」が「非現実的」かつ「妄想的」で、しかも「破滅的」であるようにしか思えないのですけど(T_T)。
第一、「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」などという、まさに「反対のための反対」を行うこと自体が自己目的化しているとしか評しようのないコンセプトを、この期に及んで未だに恥ずかしげもなく堂々と提示している時点で、著しく「退嬰的」かつ「守旧的」で救いようのない竜堂兄弟一派の政治的スタンスが、これ以上ないほど醜悪な形で浮き彫りになってしまっているのですけどね。かつて似たようなコンセプトで政策を提言していた旧社会党が、いかに国民を顧みない政治を行い、悲惨な末路を辿ったのか、まさか知らないわけではないでしょうに、連中は「第二の万年野党政権樹立」でも目指すつもりなのでしょうか(爆)。
まあとりあえず、連中が提言している「政策【モドキ】」の問題点について、いつものごとく絨毯爆撃的に検証してみることにしましょうかね。
A.国連安保理決議のない超大国の武力行使に反対
仮にも国際政治を論じるに際して、こんな「笑いのネタとしか思えないヨタ話」などを「大真面目な政策」として堂々と掲げること自体、国際法や国際政治について、竜堂兄弟一派の連中が救いがたいまでに無知であることを立証していて哀れみを誘いますね(T_T)。こんな「政策【モドキ】」がどれほどまでに非現実的な妄論で、かついかに大きなリスクを抱えなければならないシロモノであるのか、少し考えてみれば簡単に理解できそうなものなのですけど。
どうせあの3バカトリオが定義している「超大国」とやらはアメリカ「だけ」のことを指している以外の何物でもないのでしょうから、まずはそれを前提に語りますと、仮に今現在の日本が本当に「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」しようと意図する場合、それは必然的に現行の日米安保条約の全面改定ないしは完全破棄をも視野に入れなければならなくなります。なぜなら、日本に在日米軍が駐留し、また日本から何らかの支援をアメリカが享受し続ける限り、日本は問答無用で「アメリカの同盟国ないし味方」と国際社会から見做され続けることになるからです。
たとえば、創竜伝13巻で呆れ果てるほど積極的に取り上げられているイラク戦争でも、日本は中東諸国からアメリカ・イギリスに次ぐ第3の参戦国と見られていましたし、フランスの週刊誌「ル・ヌーベル・オプセルヴァトール」の記事などは、日本のことを「アメリカ同盟軍を支持した世界唯一の国、しかし大多数は戦争に反対した」と紹介しています。日本の内心がどうであろうが、アメリカ軍に対して日米安保条約の名の下に様々な便宜を図ったり、アメリカの要請に応じる形でイージス艦をインド洋に派遣したりする行為は、公式的にはアメリカを支持する表れであると国際社会からは見做されるのです。だからもし竜堂兄弟一派が主張するような「アメリカの武力行使」に反対の意思表明を「実行性を伴う形で」行うというのであれば、在日米軍の全面撤退、場合によってはアメリカとの軍事同盟そのものの破棄をも含めた現行の日米安保条約の全面改定ないしは完全破棄が必要不可欠とならざるをえないのです。
考えてもみて下さい。日本が「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」する傍らで、アメリカ軍が日本の在日米軍基地を利用したり、日本政府から諸々の政治的・経済的支援を受けたりして「国連安保理決議のない武力行使」を行っているという滑稽な状態を。もちろん、こんな形で「反対」など表明したところで、「反対」されている当のアメリカは痛くも痒くもないでしょうし、国際社会からも「日本はアメリカの武力行使に対して反対を表明しているのに、裏ではアメリカの武力行使を援助している。言行不一致かつ二枚舌だし、とても信用のおけない国だ」という非難の声が殺到することでしょう。これでは政治的に全く無意味であるばかりかマイナスですらあることは言うまでもありません。
しかし、では実際に在日米軍の全面撤退やアメリカとの軍事同盟そのものの破棄をも含めた現行の日米安保条約の全面改定ないしは完全破棄をアメリカが許すか、となると当然許しはしないでしょうし、日本の国民の大多数もまた、将来はともかく現時点ではアメリカと完全に決別することを望みなどしないでしょう。アメリカにとって、日本の在日米軍基地や日本政府の政治的・経済的支援には莫大な戦略的価値が存在するのですし、また日米共に、同盟によって得られる利益は政治的にも経済的にも莫大なものがあります。内心はどうであれ、双方共に手を組む価値があるからこそ、日米同盟は成立しているのであり、それを維持するためにはある程度の共同歩調を取る必要性が存在するのです。
にもかかわらず、たかが「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」するだけのためにアメリカとの軍事同盟を解消し、アメリカを敵に回すのは、日本・アメリカ双方にとって「百害あって一利なし」な愚行でしかありませんし、下手すればそれこそ「第二次日米戦争」の勃発すら招きかねません。教条主義的な「戦争反対イデオロギー」などのために、自国に国際摩擦や戦争を勃発させてどうするのですかね(>_<)。
現時点の日本が本当に「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」しようとするのであれば、これほどまでに巨大なリスクを覚悟しなければならないのです。あのおバカな連中が、この非現実性と危険性を理解し、かつそれをクリアするだけの、それも今まで連中自身が得意気になって開陳していた社会評論との整合性が完全に保たれる形での妙案を用意しているとは到底思えないのですがね。
また、この「政策」のそもそもの疑問点として、「国連安保理決議のない超大国【以外】の武力行使」については反対しなくても良いのか、という問題があります。「国連安保理決議のない武力行使」とやらは別にアメリカだけの専売特許というわけではないのですから、アメリカに特化して反対しなければならない理由はありません。
たとえば、1990年におけるイラクのクウェート侵攻は当然のことながら「国連安保理決議のない武力行使」でしたし、湾岸戦争後も、イラクは何度も「国連安保理決議」に違反し続けてきました。アメリカはこれを根拠にイラク戦争遂行を決断したわけです。
さらに、現在に至るまで続いている中国のチベット侵略や満州領有なども、国際法的に見れば立派に「国連安保理決議のない武力行使」に該当しますし、ロシアもチェチェン共和国などで「国連安保理決議のない武力行使」を「現在進行形で」積極的に行っています。さらに中東・アフリカ諸国などの一部地域では、中小規模の「国連安保理決議のない武力行使」が、いちいち数えるのも面倒なほど毎日のように頻発している始末です。これらの「国連安保理決議のない武力行使」について言及することなく、色々と問題はあるにせよ、それらをある程度抑止する効果の存在は否定できない「超大国の武力行使」に対してだけ反対の声を上げるというのも、独裁政治を忌み嫌い、民主主義と国際平和とヒューマニズムを心より愛するであろう竜堂兄弟的理論からすれば非常に理解に苦しむところなのですけどね。
そもそも、アメリカの場合もそうなのですけど、ここで竜堂兄弟一派が主張する「反対」とは具体的にどのような手段で実現させるものなのでしょうか? もしそれがただ「反対」を叫ぶだけで良しとするものであるというのならば、それは「政策」ではなく「宗教的念仏信仰」とでも評するべき無意味なシロモノでしかないですし、もし軍事力や経済力といった何らかの力を背景に「反対」を遂行するのであれば、それは竜堂兄弟一派が全面的に否定しているであろう「戦前の軍国日本」や「何かと武力に訴えたがる超大国アメリカ」と何ら変わるところがありません。もちろん「無法には無法で返しても良い」とする竜堂家家訓の論理も、これまた竜堂兄弟一派がさぞかし忌み嫌っているであろう「国連安保理決議のない超大国の武力行使」を正当化させかねない論理ですのでNGですね。
結局のところ、あの3バカトリオが提唱するこの「国連安保理決議のない超大国の武力行使に反対」という「政策【モドキ】」は、生半可なやり方では「口先だけで実行力皆無かつ言行不一致なシロモノ」にしかならず、かといって本気で実行しようとすれば、日本にとって大きなマイナス要素をもたらすだけでなく、竜堂兄弟一派がかつて得意気になって開陳していた社会評論の論理がそっくりそのまま自分達自身に跳ね返るという無様な醜態を晒すことにも繋がるわけです。あの連中がこんな「政策【モドキ】」を掲げるなど、日本にとっても連中自身にとっても自殺行為であるとしか考えられないのですけどね。
C.外国人にも参政権をあたえる
F.外国からの移民・難民に門戸を開放する
よくもまあこんな史上最悪のタッグを考えついたものですね。一連の「政策【モドキ】」を提示するに際して、竜堂兄弟一派は日本を健全化させるどころか、逆に日本を劫火のもとに滅ぼそうとすら画策しているであろうことがよく分かります。
そもそも、選挙権・被選挙権などの「参政権」というのは、国籍や年齢による明確な制限が存在するものであり、全ての人に無条件で認められる権利ではありません。参政権に制限が設けられているのは、国民の選挙で選ばれる議員や知事・市長村長といった人達に対して、立法権・行政権などといった公権力の行使に携わるための一定の資格と能力が求められるからです。国の「参政権」は「特別な権利」「特権」とでも定義されるものであり、すくなくとも理念的には「資格や能力の制限がなく、また人種、性別、宗教、言語、財産、国籍などの相違を越えて、全ての人に平等に保障されねばならない権利」とされる基本的人権とは明確に区別されているのです。
国際法的に見ても、国際人権規約(B規約)25条の「政治に参与する権利」では、「すべての市民は、第二条に規定するいかなる差別もなく、かつ、不合理な制限なしに、次のことを行う権利及び機会を有する」とした上で、その条文中にあるC項目の「一般的な平等条件の下で【自国の】公務に携わること」という規定によって明確に外国人を除外していますし、それは国連規約人権委員会報告書でも「例外的に第25条の参政権のように、【その国民だけに】適用されるものもある」として認められています。また世界人権宣言第21条の「参政権」においても、1項「すべての人は、直接に又は自由に選出された代表者を通じて、【自国の】政治に参与する権利を有する」および2項「すべて人は、【自国において】ひとしく公務につく権利を有する」という条文でもって、「参政権」があくまでも「【自国の】国民【のみ】」の権利であることを謳っているのです。
また、日本国憲法第15条1項にも「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、【国民固有の権利】である」とあり、1995年2月28日の最高裁判決も、これがあくまで「日本国籍を保持している日本国民」に限定されるものであることを認めていますので、法理論上「日本国籍を保持している日本国民」ではない外国人に「国民固有の権利」である参政権を与えることはできないように規定されています。これらのことから考えれば、日本国籍を取得していない外国人に対して参政権を付与するのは、国際的な慣習法から考えても国内法的に見ても明らかに違法であると言わざるをえません。
さらに実際問題として、日本国籍を保持しない外国人の場合、その国家的忠誠義務は当然日本ではなく「国籍を保有する自分達本来の祖国」に対して向けられることになります。所詮は一時的な生活居住地にすぎない日本と自分の祖国との間に、もし何らかの国家的利害が絡んだ対立や有事・紛争などが生じた場合、その外国人が自分の祖国のための「日本に対する売国的行為」に走らないとは誰にも断言できないでしょう。それが日本の国益と国民主権、さらには日本国民の生命と財産を脅かす危険性が極めて高いことは言うまでもありません。
このような問題だらけの外国人参政権付与が日本で取り沙汰されている背景には、主に在日韓国人を中心に組織されている在日本大韓民国民団(民団)と、創価学会および公明党の思惑があります。民団は日本への帰化や結婚による日本国籍取得などで年々組織離れが進んでいる在日韓国人を繋ぎ止めるという組織防衛のために、創価学会および公明党は在日韓国・朝鮮人に参政権を与えることによって学会員の獲得と選挙での公明党票の拡大化を狙うという党利党略のために、それぞれ外国人参政権付与を訴えているわけです。もちろん、両者の思惑が大多数の日本国民の利益に少しも貢献する類のものなどでないことはあまりにも明白です。
もし外国人が本当に日本の国政に参画したいと言うのであれば、まずは日本に帰化して日本国籍を取得するのが筋であり、本来行うべきは、そのための手続きを簡素化・実効化させ、かつ本当に日本に帰化する意思のある人達のみを有効に選抜できるシステムを構築するための「国籍法の改正」でしょう。にもかかわらず、国際社会や国家間の問題が複雑多様化する中で、日本と運命を共有する責任のない外国人の無条件かつ無制限な権利拡大を行い、国の運営を一部でも担わせることは、主権国家の根幹を揺るがすことにもなりかねない危険で愚かな選択であると評価せざるをえないのです。
そして、単体でさえ問題がありすぎる「外国人にも参政権をあたえる」にさらに危険な拍車をかけるのが、「外国からの移民・難民に門戸を開放する」というもうひとつの「政策【モドキ】」です。この2つの「政策【モドキ】」のコンビネーションが意味するのは何なのか?
極めて皮肉な話なのですが、その答えは何と創竜伝13巻の作中で、しかも他ならぬ竜堂兄弟自身が、これ以上ないほど明確な形で出してしまっているんですよね↓
P138下段~P139上段
<「アメリカといったが……」
慎重に、さぐりをいれた。
「アメリカは日本を完全に五一番めの州にでもするつもりなのか」
「まさか」
「石使い」ジェイン・ステイブラーは、形のいい鼻の先で笑った。続が皮肉っぽく彼女を見つめ、始がおだやかに問う。
「なぜだ」
「自分で考えてみたらいかが」
その挑発に、始は乗ったふりをした。
「そうだな、いくつか理由があるだろうけど、まず第一に、一億三〇〇〇万人の日本人がアメリカ国籍を得たら、アメリカの人口の30パーセントが日系市民になってしまう。参政権もあたえなくてはならない。まかりまちがえば日本人がアメリカ合衆国大統領になってしまうかもしれない。実際にそういう人材がいるかどうかは別にして」
始は「石使い」を見やった。>
この竜堂始の発言中の「アメリカ」を「日本」に、「日本人」を「外国人」に変えてしまえば、それが「『外国からの移民・難民に門戸を開放する』『外国人にも参政権をあたえる』という2つの政策を全て忠実に実行したらどうなるのか?」という問いに対する答えになるのです。つまり「日本は外国人に乗っ取られ、まかり間違えば外国人の内閣総理大臣が誕生しかねない」ですね。
実のところ、上記引用のようなたとえ話は、19世紀のハワイにおいて、アメリカ系白人移民の大量流入という形で本当に実現しているのです。かつてハワイを統治していたハワイ王国は、1830年代以降、西欧型の政治制度を本格的に取り入れ、欧米からの白人に助言を求めるようになった結果、白人勢力が著しく増大し、ハワイの政治や経済界の実権を掌握していき、やがてハワイ併合まで画策するようになります。そして1880年代には、白人勢力はハワイで圧倒的な力を保持するようになり、1893年、アメリカ系白人達は、時のハワイ女王リリウオカラニが白人勢力を抑えるために起こしたクーデターを逆手にとって革命を起こします。やがてそれは紆余曲折を経て、1898年のアメリカによるハワイ併合にまで至ったのです。このハワイ王国の滅亡は、移民を無条件に受け入れ、かつ政治的権利まで与えたらどうなるのかを、実地でシミュレートした結果であると言えます。
また、戦前の満州地方も、移民の大量受け入れによって、ハワイ王国と似たり寄ったりな末路を辿っています。元々満州地方は漢民族の領土ではなく、金や清を建国した女真族が居住していた土地で、特に中国全土を支配した清王朝などは、満州を祖宗発祥の地として神聖視し、漢民族の流入を防ぐために「満州封禁令」や「漢民族の満州への移住禁止令」などをしばしば発布していたほどです。ところが漢民族はあの手この手で満州地方に大量移民して満州地方を「数の力」で乗っ取った挙句、清王朝滅亡の際には「すでに大量の漢民族が居住している」という既成事実を盾に、本来の領土保持者であったはずの女真族を差し置いて勝手に領有権を主張するまでに至りました。まさに「移民の大量流入」によって他民族の土地が奪われることになってしまったわけです。
この漢民族(中国人)の大量移民を使った「事実上の中国領化」もしくは「静かなる侵略」とでも言うべき手法は、満州地方だけでなく、これまた元来中国の領土ではないはずの新疆ウイグル自治区やチベット自治区に対しても「西部大開発」の名の下に公然と行われていますし、さらにはロシア極東地方(北満州)にもまた、中国系入植者による「チャイナタウン」が現地に数多く形成される形で推進されつつあります。しかも、漢民族(中国人)の大量移民が行われた土地では、移民側が現地に全くと言って良いほど政治的・経済的・文化的に同化しないがために、従来の現地住民との間でトラブルが絶えず、深刻な社会問題が数多く発生している始末なのです。このような「大量移民による『静かなる侵略』」の危険性を無視して、移民の大量受け入れを無条件に行うことは、国民の生活環境を著しく悪化させることになるばかりか、最終的には国家の自殺にも繋がりかねないと言わざるをえないでしょう。
かくのごとく、国にとって「移民」とは極めて恐ろしい楔として機能しうるものなのであり、ただ無条件に受け容れてさえいればそれで良いわけではないのです。そして「難民」も、数が多くなれば上記の事例と似たり寄ったりな事例を招くことはまず間違いありません。ましてや、その移民や難民に対して無条件かつ無制限に参政権などを与えていけば、まさに上記引用のたとえ話と酷似した事態か、あるいはそれこそ白人移民に侵食されたハワイ王国や、漢民族の大量移民に飲み込まれた満州・新疆ウイグル・チベット地方のような末路が、そう遠からぬ未来、日本に襲いかかってくるであろうことは火を見るよりも明らかではありませんか。
もし万が一こんな2つの「政策【モドキ】」を実施してしまったら、世界中の国が、日本を内部から乗っ取るための国策として、自国内で処理に困っている貧民や余剰労働者達を、それも年間数十万~数百万単位で「移民/難民」と称して送り込んでくる可能性が高いでしょう。特に前述のように「大量移民による『静かなる侵略』」を歴史的に推進してきた前科が多数存在する中国からは、現在でさえ「蛇頭」を使った不法入国者達が後を絶たないどころか、毎年増加傾向にすらあるというのが実情だと言うのに、下手をすれば数千万単位の移民/難民が殺到する事態すら想定されます。移民/難民の無条件受け入れと、日本国籍取得の必要がない外国人参政権付与という2つの政策は、その相乗効果によって、日本という国家と国民を完全に崩壊・解体させてしまう破滅への扉を開くことにもなりかねない、国としては絶対に行ってはいけないシロモノなのです。
それにしても、あのおバカな竜堂兄弟でさえ、上記引用の問題提起で「日本にアメリカが乗っ取られる」程度のことを考えることができたというのに、何故わざわざ「外国人にも参政権をあたえる」「外国からの移民・難民に門戸を開放する」という、日本を破滅に導きかねない2つの「愚策」をあの3バカトリオが提示したのか、是非とも知りたいところですね。もしその危険性に気づかなかったというのであれば、あの3バカトリオは竜堂兄弟にすら劣る頭のイカれた低能揃いとしか言いようがありませんし、全てを承知の上であえて提示したのならば、最初から日本を滅ぼすことを意図して「政策【モドキ】」を立案している、確信犯の「無政府主義者」ないしは「売国奴」ということになります。
最初から頭がイカれているにせよ、隠されたゲスな下心があるにせよ、こんな連中に日本の政治を云々する資格があるとは到底考えられないのですけどね、私は。
D.宗教法人に課税する
オウム真理教だか創価学会だかの事件や騒動の頻発などで、宗教に対する国民世論が硬化したことに力を得たのかどうかまでは知りませんが、こんな大衆迎合主義のマスコミ辺りがステレオタイプ的なプロパガンダで大々的に煽っているような「政策【モドキ】」などを今更得意気になって提言されましてもねぇ~。巷に溢れている「宗教法人叩き」の流行に乗り遅れまいと、奈落に向かって爆走するバスに死に物狂いでしがみついているサマは、見ていて非常に滑稽でしかないのですけど(笑)。
そもそも、宗教法人に限らず、日本では基本的に「非営利法人」全般に対して、多かれ少なかれ「原則非課税」の基本方針が貫かれています。ここで言う「非営利法人」には宗教法人の他、民法に基づく公益法人・NPO法人・学校法人・更生保護法人・社会福祉法人・職業訓練法人などがあり、これらの「非営利法人」には、その全てに、法律で定められた33種類の収益事業(不動産業や出版業など)からの利益を除いた収入に対して、原則非課税が認められているのです。これは1900年に日本で初めて法人税が導入されて以来、変わることなく続いている原則でもあります。
何故このような原則非課税措置が、宗教法人も含めた「非営利法人」全般に対して認められているのかというと、法人税が所得税の前取りであり、法人の所得に対して法人税を課し、さらに個人の配当所得に対して所得税を課すことは「二重課税」に繋がると考えられているからです。一般的な営利法人(株式会社や有限会社など)では、事業で収益を上げて余剰金が発生すれば、それを株主や社員に配当したり、様々な用途に充てたりすることで運営を行っていくわけですが、「非営利法人」の場合、配当を受ける株主などはそもそも最初から存在せず、また余剰金の社員への分配は法律で禁じられています。そのため、法的には「非営利法人」の事業に法人税を課すべき根拠が見当たらない、ということになって、原則非課税が貫かれていることになっているわけです。
さらに、「非営利法人」における寄附金・会費・補助金・助成金・基金の利息などといった収入は、収益事業におけるそれとは性質が大きく異なります。「非営利法人」に対して出資された寄附金や会費などは、あくまでも「非営利法人」が運営する特定の事業の遂行に必要な費用として運用されることが求められます。このことは、たとえ特定目的のために出された寄附金や会費が結果的に余ってしまった(余剰金が生じた)としても、その余剰金を「非営利法人」が独自の判断で他の用途に使用してはならず、あくまで当初の特定目的のために「のみ」使わなければならない(どうしても使えない場合は「当初の特定目的」の将来必要となるかもしれない資金として積み立てておかなければならない)、といった「使用用途の制限」が存在することを意味するのです。
これが株式会社などの「営利法人」であれば、同じようなケースで余剰金が生じた場合、それは「営利法人」の自由な意向によっていくらでも他の用途(株主への利益配当や設備投資など)に使用することができます。しかし「非営利法人」における寄附金・会費・補助金・助成金・基金といったものには、そういう自由が法人側にはそもそも全く存在しないわけです。そして税法上では、そのような「自分の裁量で自由に処分することができないお金」に対しては「税金を負担する能力(担税力)」がないものと見做され、税をかけることはできないとされているのです。そのため、「非営利法人」では寄附金や会費などについても原則的に課税されるべきではないとされ、一方でそういった流れとは全く関係のない収益事業の収益については、前述のようにたとえ「非営利法人」であっても課税するべきであると規定されているわけです。
この時点で、宗教法人だけでなく、全ての「非営利法人」に対して原則非課税が認められているのに、何故宗教法人【のみ】に限定して課税を行わなければならないのか、という問題が生じてしまいます。それでもあくまで「宗教法人に課税する」というのであれば、「非営利法人」全般に対しても同様の措置を取らないと法的な整合性が取れませんし、結果として著しい不公平すら発生しかねないのではないかと思うのですがね。
また、よく「免税特権を悪用して金儲けをしている」などとマスコミから叩かれまくっている宗教法人ですが、実のところ、そのような宗教法人は全体からみればほんの一部に過ぎません。大部分の宗教法人はむしろ逆に、一般庶民と比べても非常に貧乏な収入でどうにかその日暮らしを質素に営んでいる、というのが実態なのです。
そもそも、日本国内に点在する約18万4000の宗教法人のうち、約8万を占める神社や、約7万7000の寺院では、神職や住職自らが会社員・公務員といった他の職業を掛け持ちしている小さな社寺が多く、法人全体の年間収益が一般的な勤労世帯の年収額(全国平均で約600~700万円)すら下回っているところも決して少なくありません。宗教法人の経済的基盤は、葬儀の際に「檀家」と呼ばれる社寺の信徒から寄附される布施収入がほとんどを占めていますが、過疎化が進む田舎の寺院などでは、人口減少の煽りを受けた「檀家」や葬式数の減少などによる経済的困窮を理由に、倒産に追い込まれる宗教法人すら多数存在するのです。
それに、「非営利法人」である宗教法人が原則非課税であるといっても、宗教法人に雇用されている僧侶・神官・教師などといった「個人」に対しては、あくまでも一般的なサラリーマンと同じ扱いが適用されているのです。すなわち、給与からは源泉徴収されますし、個人所有の建築物や物品に対しても諸々の税金がかかるわけです。しかも彼らは多くの場合、就業規則もなければ労働組合もなく、オマケに「年中無休」で仕事をしなければならないので、単純に「労働環境」だけ見れば、むしろ宗教法人に勤める僧侶や住職などの方が、一般的なサラリーマンよりもはるかに厳しいとすら言えます。宗教法人の原則非課税方針には、世間一般と比べて圧倒的に不利な労働条件下に置かれている彼らの経済的負担をある程度軽減している一面もあるのです。
その上宗教法人には、原則非課税とされる非営利活動と、唯一例外的な課税対象となっている収益事業との区別が不明瞭なケースが数多く存在し、これが税務当局と宗教法人との間で頻発する多くのトラブルの原因となっています。たとえば、「祈祷」などの純然たる「宗教行為」は「非営利活動」と判断されて非課税とされます。しかし一方、「教義を流布する」ための有料の出版物や月報誌などの発行は、一見すると「非営利活動」に見えるかもしれませんが、法的にはあくまでも「出版業という収益事業」として扱われるのです。この「線引き」は意外と難しく、ひとつの収入源に対して、税務当局側が「収益事業だから課税する」と主張するのに対して、宗教法人側は「宗教行為に対する見解の相違」という持論を展開するといった、双方の認識が完全に食い違っているケースがよく見受けられるわけです。
こういった大多数の宗教法人の懐事情を無視して、文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに「宗教法人に対する課税」を強行すれば、短期的には中小零細宗教法人の経済的破綻と倒産の乱発をもたらし、中・長期的には日本の宗教的伝統文化の破壊すらもたらす危険性があるでしょう。しかもそのような状況においてさえ、大規模な宗教法人は、合法的に税を納めなくても良いようにするための防衛策を講じ、結果として無傷のまま生き残る可能性が非常に高いのです。本来税を課せられるべき大金持ちが合法的に課税を免れ、その下のクラスの「小金持ち」以下に対して集中的に税の取り立てが行われたがために、結果として文化や産業の中核が失われてしまったという構図は、田中芳樹が推奨する「英国病」下のイギリスにおいて何度も繰り返し見られた光景ではありませんか(笑)。これから考えても、「宗教法人に対する課税」は、宗教法人にまつわる問題の解決にも税収の増加にも全く寄与しない、非常に短絡的かつ大衆迎合的な「嫉妬の産物」でしかないのです。
扇情的なマスコミ報道などを何も考えず安易に鵜呑みにしているから、政治システムの存在意義や本当の欠陥などが全く理解できないままに、見当外れかつ大衆迎合的な「政策【モドキ】」などをがなりたてる愚に陥ってしまうのですけどね。まだ自分達の無知と無定見を自覚しては頂けないのですか、竜堂兄弟一派の皆様(笑)。
E.特殊法人はすべて廃止し、官僚の天下りは禁止
というか「特殊法人改革」って、確か小泉政権における一大政策のひとつとして掲げられていませんでしたっけ? 2001年(平成13年)6月22日に施行された特殊法人等改革基本法(時限立法で2006年(平成18年)3月31日廃止予定)に基づいて特殊法人等改革推進本部が設置され、小泉総理は一貫してその本部長の地位に就いており、その下で実際にいくつかの特殊法人の統廃合や民営化などが決定しているのですから。創竜伝のストーリーに全く関係がなかったはずのイラク戦争関連の時事ネタは嬉々として作品世界に持ち込んできたくせに、こういう話だと「中央政府はやっていなかったことにする」というのでは、あまりにも御都合主義かつダブルスタンダードなやり方なのではないのですかね? 第一、創竜伝でクーデターを起こした新首相とやらには、「小泉総理的要素」もあからさまに挿入されているというのに(>_<)。
さて、竜堂兄弟にも小泉政権にもかくのごとく「改革」の対象として名前が挙がっている「特殊法人」という組織は、そもそも何が問題とされているのでしょうか? 巷でよく言われている問題点を簡単にまとめてみると、
「特殊法人には、民間企業の事業と競合して民業を圧迫している法人がある。また、多大な財政支出を当てにして非効率な経営を続けた結果、多額の不良債権を抱え込むケースや、官僚の主要な天下り先になっているなどの問題点が指摘されているため、抜本的な改革が必要とされる」
といったものになるのですが、実のところ、この論調には「そもそも特殊法人という組織形態が何故作られたのか?」という観点が致命的に抜け落ちてしまっています。
特殊法人というのは元来、「国策として遂行すべき事業」や「収益性は低いが公共性の高い事業&業務」を、国に代わって遂行させるために設置された組織形態です。こういった事業では、採算性を第一に考える民間の企業ではリスクやコストが大き過ぎて実施できなかったり、仕事が遅々として進まなかったりすることが多々あるからこそ、特殊法人という組織形態で事業&業務が遂行されるようになったわけですから、短期的に採算が取れないことはある意味当然であると言えます。ですから、まず「採算性が悪い」「非効率な経営が行われている」といったこと「のみ」をもって「特殊法人は良くない」という結論には繋がらないはずです。
たとえば、日本の特殊法人改革議論の中で真っ先に取り上げられている、日本道路公団・首都高速道路公団・阪神高速道路公団・本州四国連絡橋公団といった道路関係四公団が事業として行っている高速道路建設や連絡橋、それにSA(サービスエリア)・PA(パーキングエリア)その他施設の建設などといった事業は、最初から民間に全業務を委託して整備をすすめていくことは事実上不可能です。採算性を第一に優先する民間企業のやり方では、当然のことながら「採算に合わない道路は作らない」ということになり、「採算に合わない」と判断された地域、具体的には高速道路建設に莫大な費用がかかる地域や人口希薄地帯などの道路整備がおざなりにされてしまいます。それでは国内の高速道路網整備が進まないからこそ、道路関係四公団という特殊法人が設立され、その下で高速道路関係の事業&業務が遂行されることになったのです。そしてそこには、ある程度採算性を度外視してでも高速道路ネットワークを整備することによって、日本全国を一体化させるという「国策としての構想」が最初から存在していたわけです。
この道路関係四公団が廃止&民営化されると、当然上記で挙げたような「採算第一主義」によって切り捨てられるところが出てきます。それは、「採算が合わない」と判断された、未だ高速道路の完全整備が実現していない地方の市町村や、新規の高速道路整備を期待している地区の住民です。これらの地域に住んでいる人達にとっては、自分達が使用できる利便性の高い交通網を整備してもらうことこそが、結果的に自分達自身の(経済的な意味も含めた)利益となるのですから、たとえ採算を無視してでも高速道路網を整備してくれと要望するのは当たり前のことです。しかし彼らにとって、道路関係四公団という特殊法人の廃止&民営化は、結果的に自分達の要望が叶えられる道を閉ざしてしまうことになるわけですから、何ら利益が得られないばかりか、現状の不便な状態で満足することを他者から強制される結果にも繋がりかねないわけです。
また、元々道路関係四公団の最終目標は、全国の高速道路を全て一体化させた上で一斉に無料開放することにあり、それが実現すると同時に、道路関係四公団はその全ての業務を国に委託して解散することに本来なっていたはずなのですが、これが現時点で廃止&民営化され、「採算第一主義」が採用されることになれば、高速道路利用は永遠に有料のまま固定されることになってしまいます。民営化された新会社が採算を取り、さらに利益を上げていくためには、高速道路利用者から使用料金を取ったり、SAやPAでテナントを経営している民間企業などから賃貸料や使用料を徴収したりしなければならないのですから、当然それは「目に見える」負担となって消費者に跳ね返ってこざるをえません。そればかりか、場合によっては採算重視の観点から値上げが行われることだってありえるでしょう。それでは結局、現状と何ら変わることがないのです。
ちなみに現在、日本の高速道路料金は世界随一の高さを誇っていると言われていますが、それは道路関係四公団の運営にかかる経費や新規高速道路の建設費用などのほとんど全てを道路料金でまかなっているためで、その状況を改善するには、国民の税金を投入する以外に有効な方法は存在しないのです。しかしそれでは、高速道路を全く利用しない人間も高速道路の維持費を負担するということになりますし、将来的に高速道路維持のための増税が行われることになる可能性もありえます。まさに「タダより高いものはない」を地で行くことになってしまうのですが、そのリスクを背負ってでも国税投入を断行し、料金無料化を実現させるべきなのか、大いに議論の余地はあることでしょうね。
こういう問題を「経済性」や「効率性」だけで語るのは、まさに「木を見て森を見ず」とでも評するべき話なのではないでしょうか。
あと、もうひとつ例を挙げておきましょうか。小泉政権の特殊法人改革の中でも特に目玉商品とされていた、石油公団の廃止問題です。
すでに2005年(平成17年)3月末で廃止されることが正式に決定している石油公団は、1967年(昭和42年)、アメリカの国際石油資本(メジャー)から独立した日本独自の石油・天然ガス資源開発を推進することや、緊急時における石油・天然ガスの備蓄を行うことを目的に、エネルギー安全保障上の観点から設立された特殊法人です。元々石油や天然ガスなどの資源開発は「当たれば一攫千金、外れれば大損」的なギャンブル要素が非常に強く、莫大なリスクとコストがかかるものです。それでは着実な採算性を求める民間では資源開発事業を進めることが難しいからこそ、石油公団がその手の事業を一手に引き受けるようになったという経緯があるわけで、「採算性が悪い」「莫大な債務を抱えている」のは、最初から宿命づけられていた至極当然の帰結というものでしょう。
少資源国日本にとって、石油や天然ガスといったエネルギー資源の確保が非常に重要な問題であることは今更言うまでもないでしょう。田中芳樹や竜堂兄弟が口を極めて罵っている第二次世界大戦の日本参戦にしても、連合国によるABCD包囲網によってエネルギーの確保ができなくなり、経済的に追い詰められたことが原因のひとつとして挙げられるのですし、また日常生活を振り返ってみても、石油や天然ガスがいかに必要不可欠なものであるかは誰でも簡単に理解することができるはずです。「エネルギーの確保」というテーマは、単に経済や効率の面からだけ論じるのではなく、安全保障の観点からも同時に検証していく必要がある問題であることは間違いありません。
石油公団は、日本におけるエネルギー安全保障の一端を担っていたわけなのですから、単純に廃止が決定されたからといって無邪気に喜んでばかりもいられないでしょう。今後も、石油や天然ガスの輸入相手をどう分散し、資源の安定供給を確保するために国のエネルギー安全保障をどう再構築するかの国家戦略が問われることに変わりはないのですから。その問題を放置すれば、最終的にはアメリカや国際石油資本、創竜伝世界で言えば四人姉妹の意のままに、日本のエネルギー生命線が牛耳られることにもなりかねないのですけど、それで良いとはまさか断言しますまい?
道路関係四公団や石油公団の例に見られるように、特殊法人は確かに経済面や効率性のみを基準に見れば、民間では見られないような弊害や問題点ばかりがクローズアップされる形態ではあるものの、国家戦略や安全保障、それに採算性や効率性だけでは決して測れない公共性や利便性などの観点から考えればむしろ必要とされる部分も決して小さなものではないのです。特殊法人改革とは、個々の特殊法人における事業や業務の存在意義や問題点をひとつひとつ細かに検証していった上で、その後の代替案も含めた廃止なり変革なり現状維持なりを【特殊法人毎の事情に応じて】それぞれ別個に決めていくべきものなのであって、総論として「特殊法人だから一律全面廃止」などと頭から決めつけて絶叫するだけでは、国家運営にも国民生活にも無用の混乱と弊害を招くばかりで「百害あって一利なし」でしかありません。まあ「反対のための反対」を思想信条としている竜堂兄弟一派の皆様方には永遠に理解できないことなのかもしれませんがね(笑)。
また官僚の天下りの件に関しても、私が以前に「対談本『イギリス病のすすめ』についての一考察・後編」で論じたように、日本の国家公務員は労働三権すら保障されない環境の下、安月給かつ残業だらけの過酷な労働条件を課せられているのですから、その問題を無視してただ「天下りの禁止」だけを抜き出して糾弾してみても全く意味がありません。下手に禁止をかけたところで、天下りは形を変えるなり地下に潜行するなりすることで、より巧妙化・陰湿化してしまうのがオチですし、最悪の場合、国家公務員という職種そのものが「きつい・きたない・危険・嫌い・給料が安い・抗議できない」という「6Kの仕事」と見られて魅力がなくなってしまい、なり手がいなくなって人材の質がさらに低下することすら考えられます。原因の根本を改善しない限り、表面的な禁止措置で上から抑えつけても、ほとんど効果は上げられないのが現実なのです。
よって、この「政策【モドキ】」も全く賛同することはできません。そもそも、あれほどまでに支離滅裂な社会評論をのたまうしか能のない竜堂兄弟一派のお歴々に、衝動的な破壊行為以外の政治活動が遂行できるとは、全くと言って良いほどに考えられないのですしね(笑)。
B.夫婦別姓を容認
で、実は私が個人的に一番問題だと考えている「政策【モドキ】」はこれなんですよね。この「政策【モドキ】」は、純粋な政策としても問題があるというだけでなく、作品設定の面から見ても破綻をきたしているのです。
これに関してはまず、小早川奈津子と、3バカトリオのひとりである蜃海との間で、以下のような会話が展開されているのですが……↓
P226上段~P227上段
<「これ、者ども、幕府のあるべき姿をさだめるにあたって、ささいなことはそなたらにまかせておったが、ちと変ではないか。夫婦別姓などを認めたら、日本の古きよき伝統が失われてしまおうぞ」
いまやこの笑劇における自分の役割を、すっかりわきまえた蜃海が、すました表情で小早川奈津子に一礼する。
「ええ、つつしんで征夷大将軍に申しあげます」
「うむ、申してみよ、聞いてとらす」
「博学多識の征夷大将軍におかれましては、もちろんとっくにご存じであられましょう。もともと日本の伝統は、夫婦別姓であるという歴史的事実を」
「そ、そうか、いや、もちろん存じておるぞ」
知らなかったが、知らないとはいえず、小早川奈津子は巨眼を白黒させる。蜃海はすまして日本史上の実例を並べたてた。かつて竜堂始が弟たちに語ったように、「源頼朝の妻は北条政子、足利義政の妻は日野富子」という具合である。
「ところが、明治になって薩摩や長州のイナカザムライどもが無法にも権力をにぎりますと、日本古来の伝統と文化を破壊しようとして、夫婦別姓という夷狄の習慣を持ちこみ、強制したのでございます」
「そ、そうであったのか……いや、もちろん、それぐらいのことは知っておったぞえ」
「そうでございましょう。つまり、いまヒステリックに夫婦別姓禁止をとなえる輩は、日本古来の伝統を知らない無学者か、さもなくば夷狄の手先として日本の社会を破壊しようとたくらむ非国民でございます。断固として、やつらの陰謀を撃ちくだかねばなりません」「うむ、わかったわかった、あたくしは神国の守護者として、ダンコ夷狄の陰謀を撃ちくだこうぞ」
「それでこそ、あっぱれ、征夷大将軍のホマレと申すものでございます」
じつのところ蜃海は独身だし、夫婦が別姓だろうが同姓だろうがどうでもいいのだが、甘言によって権力者(?)をたぶらかす楽しみは捨てられない。さらに言葉をかさね、日本はいい国と信じてやって来る外国人に参政権を与えることこそ、あまねく世界に幕府の度量をしめすもの、という理屈で、小早川奈津子に承諾させてしまった。>
これを読んで私は思わず爆笑してしまいましたね。相も変わらず杜撰な論理展開で夫婦別姓制度導入を理論的に正当化しようとする涙ぐましい努力もさることながら、かつての愚かな社会評論を蒸し返しているにもかかわらず、それ関連の話題では本来一番直視しなければならない肝心要の作中記述に全く気づかないその大ボケぶりに。まああの連中にマトモな記憶能力と情報識別能力を期待すること自体に無理があると言われれば、「全くその通り」と返答するしかないのですけど(笑)
上記引用で地の文が性懲りもなく蒸し返していたかつての夫婦別姓関連の社会評論とは、創竜伝10巻における以下の記述のことを指しています↓
創竜伝10巻 P94上段~P95上段
<日本の新聞がスタンドで売られていた。国際衛星通信版というやつで、東京のTV番組まで載っている。新聞にしてはばかばかしいほど効果だが、日本のことが気になって、買ってしまった。富士山大噴火の関連記事がほとんどだが、実施された夫婦別姓制度についての記事もある。
「こうやってすこしずつ日本の社会も変わっていくんでしょうかね」
「さあ、それはどうかな」
始は首をかしげた。
「もともと日本でも中国でも、文化的な伝統は夫婦別姓だったんだ。源頼朝の妻は北条政子だし、足利義政の妻は日野富子だった。夫婦同姓になったのは明治時代からだ」
「近代国家になりたい、というわけで、ヨーロッパ式を持ちこんだんですね」
「だから夫婦別姓はむしろ旧くからのアジア的伝統への回帰なのかもしれない。夫の姓を名乗るのはイヤ、父親の姓を名乗りたい、というのは、進歩的と持ちあげたり、家庭制度を破壊するとさわいだりすることなのかなあ、はたして」
「夫婦であたらしい姓をつくるとか、姓そのものをなくす、というのなら画期的だと思いますけどね」
「むろん選択の余地は多いほうがいいに決まってる。夫婦が対等に話しあって、たがいに納得すればいいことさ」
「日本では流行が正義ですからね。そのうち同姓の夫婦が、遅れているとか保守的だとかいわれて、非難や嘲笑をあびるかもしれませんよ」
「まさか……と思いたいなあ」>
さて、この引用文章の中には、創竜伝13巻における竜堂兄弟一派が提唱する「政策【モドキ】」の前提そのものを覆しかねない致命的な矛盾が存在します。それは一体何か?
私が一番最初に引用したP225上段~P226上段の文章と、上記引用文とを比べてみて下さい。以下のような食い違いが存在するはずです↓
<というわけで、征夷大将軍が首をかしげている間に、幕府の政策はつぎつぎと決まっていった。コンセプトはいずれも、「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」ということである。>
<富士山大噴火の関連記事がほとんどだが、実施された夫婦別姓制度についての記事もある。
「こうやってすこしずつ日本の社会も変わっていくんでしょうかね」>
お分かり頂けましたでしょうか? そう、すくなくとも「【創竜伝世界における】夫婦別姓制度」というのは、何と作品設定では「東京の政府」とやらが【すでに実施している】政策であると規定されているのです。つまり、あの3バカトリオは「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」というコンセプトの元に様々な「政策【モドキ】」を立案していると公言しておきながら、その中に「東京の政府」がすでに実施している「コンセプトに反する政策」を愚かにも入れてしまっているわけです(爆)。
もちろん、「2003年現在における【現実世界】」においては、夫婦別姓制度は寸毫たりとも法的に確立などされておりません。しかし、他ならぬ創竜伝の作中記述が「夫婦別姓制度は実施されている」と明言してしまっている以上、「創竜伝世界の作品設定としては」そちらが現実世界の事象よりも優先されて適用されるのは当然のことでしょう。しかも引用部分を見れば分かるように、創竜伝10巻における「実施された夫婦別姓制度」という作品設定は、「源頼朝の妻は北条政子、足利義政の妻は日野富子」云々のエピソードが語られている文章の「至近距離(ノベルズ版の場合は同一ページの上段部分)」にその起源となる記述が存在しているのです。ならば創竜伝で夫婦別姓関連の話題を蒸し返す際には、当然それに関わる「作品設定」の存在をこそ真っ先に把握し、かつ第一に重要視しなければ、作品の整合性が全く取れなくなってしまうではありませんか。
さらに、創竜伝10巻における夫婦別姓制度が創竜伝世界で実施され、その話題が記事として掲載されるに至ったのは、創竜伝13巻から遡ることわずか2~5日程前の話でしかなく、一般人並の政治的関心さえあれば誰でもまだ記憶している程度のことでしかないのです。しかも3バカトリオのひとりである蜃海三郎は、ストーリー上の必然性や前後の脈絡もなしに突然創竜伝世界に出現したインターネットを使いこなすことができる、竜堂兄弟一派随一の情報屋という設定なのですから、竜堂兄弟でさえイギリスという異国の地で知った「夫婦別姓制度が日本で実施された」という事実を知らないということは、常識的に考えれば本来ありえない話であるはずでしょう。にもかかわらず、どうやら肝心要な場面で、またもや創竜伝13巻最大の特性である「アルツハイマー型老人性痴呆症」が発症してしまったようです(爆)。
まあそのような「何を今更なキャラクター論」は置いておくとしても、この事例は創竜伝の作中記述や世界設定が、実は作中でダラダラと展開される社会評論に奉仕する程度の存在でしかないことを、これ以上ないくらいグロテスクな形で表現していて皮肉もいいところですね。創竜伝の作者である田中芳樹は、本来「源頼朝の妻は北条政子、足利義政の妻は日野富子」云々の話を蒸し返す際に、同じページの中にある「【実施された】夫婦別姓制度についての記事もある」という文章にこそきちんと注意を払わなければならなかったはずなのですよ。前者は創竜伝のストーリーとは何ら関係のないシロモノでしかありませんが、後者は動機がどうであれ、とにもかくにも創竜伝ストーリーの中に組み込まれている歴然とした作品設定なのですから。社会評論を書き殴る自慰行為に熱中するあまり、自分で規定した作品設定の内容を完全に見落としてどうするのでしょうか。
ストレス解消目的の社会評論を語りたいがためにその場凌ぎの作品設定をでっち上げた挙句、他の作中記述や作品設定との整合性を顧みようともしない。これはエンターテイメント創作家としては本末転倒もはなはだしいのではないですかね。
ところで、創竜伝10巻における竜堂始・続の会話描写といい、今回の一件といい、何故竜堂兄弟一派は「夫婦別姓は日本古来の文化的な伝統」などという理論でもって「夫婦別姓制度の導入」に何が何でも賛意を示そうとするのでしょうか? 以前に「私の創竜伝考察31」で指摘したことを繰り返しますけど、連中の主張する「日本古来の文化的な伝統」であるところの「夫婦別姓」は、竜堂兄弟一派が信奉している「民主主義真理教」の教義のひとつである「近代的な男女平等思想」どころか、それとは全く相容れない前近代的な血統保持・家名相続を目的とした男尊女卑思想に基づくものですらあることくらい、ほんの少しでも基礎的な歴史知識をかじっていれば誰でも簡単に理解できる程度のことでしかないでしょうに。
それに実のところ、連中が得意気になってがなりたてている「夫婦別姓は日本古来の文化的な伝統」という主張自体も、それはあくまで公家社会や武士階級などといった、全体から見ればごく一部の「特権階級」に対してしか適用されない程度のシロモノでしかなく、大多数の一般庶民にとっては雲の上の物語でしかなかったのですけどね。「庶民の間に根付いた伝統」という観点から見るのであれば、むしろ「夫婦同姓」の方がはるかに「日本古来の文化的な伝統」に基づいているばかりか、国民感情にも合致しているものであるとすら言えるのです。
そう書くと、「江戸時代までの一般庶民は自分の苗字(姓)を持つことを許されてはいなかったのではないか?」という疑問を抱く方がいるかもしれませんが、実は江戸時代に禁止されていたのは「一般庶民が苗字を【公式に】名乗ること」であって、「私的に」苗字を保持することや、「公式の場以外で」苗字を名乗ることについては特に問題とされることはなかったのです。江戸時代における一般庶民の多くが実際に苗字を持っていたことを示す史料は数多く残っており、私的な借金証文や寺社への寄進帖などにその足跡を辿ることができます。
たとえば農民が借金する場合の署名を調べていくと、自分の名前を公式文書の中で「五木村 権兵衛」という形式で署名している人が、私的借金証文には堂々と「加藤権兵衛」と苗字付きで署名している例が数多く存在するのです。そういった苗字の由来は、戦国時代から江戸時代になって帰農した元下級武士が先祖代々隠し持っていたものだったり、居住地名や出身地名を名乗ったものであったり、元々苗字のなかった僧職者の場合だと仏典や仏具などから創設したものだったりと様々で、明治維新後に誕生したいわゆる「明治新姓」は種類こそ多いものの、それを名乗る人の総数は全体から見ると極めて少ないのが実情だったのです。
その影響からか、田舎では極端な場合、何と「一村同姓」にまで至ったケースすら存在します。そのようなところでは、「商売の屋号」や「特徴的な住環境」といったものを使い、たとえば「○○屋の与作さん」「××川の田吾作さん」といった具合に他人を識別して互いを呼び合っていました。これらの事例は「家族」、より正確には「同じ家に住んでいる人」をひとまとまりにした形態であり、「夫婦同姓」の原型とも言える慣習であったと言えるのです。
さて、明治維新後の1870年(明治3年)、時の明治政府によって一般庶民が自分の姓を公式に名乗ることが解禁され、その5年後の1875年(明治8年)には苗字必称令が出され、全ての日本国民に公的な苗字を持つことが義務づけられるのですが、その後明治政府からは「婦ハ生家ノ姓ヲ称スルヘシ」という「夫婦別姓」を推奨する通達が地方自治体に対して何度も繰り返し出されています。
当時はまだ「結婚後の夫婦の姓をどうするか」ということに関する規定はまだ存在しておらず、格式のある家や士族・華族階級などはそれまでの伝統に倣って「夫婦別姓」を、大多数の一般庶民は前述した慣習から「夫婦同姓」を採用するという並立状態が発生していました。これでは同姓と別姓が混在し、役所が混乱するのは目に見えていたため、地方自治体から何度も中央政府に対して夫婦の姓に関する問い合わせが出され、その都度、地方行政を統括する内務省が同じ指令を出す、ということが続いていたわけです。
ところがそれに対して、地方からは「内務省指令が地方一般の慣行に反する」という反対意見が何度も出されました。たとえば、1889年(明治22年)の「宮城県伺」には「女子が嫁に入った場合、石川県伺いに対する指令では生家の姓を称すべしとされたが、しかし婚家の姓を称するのが地方一般の慣行であるから、そのようにした方が財産その他の公私の取り扱いが便利である」という意味のことが述べられており、1890年(明治23年)5月2日の「東京府伺」でも「妻が夫の姓を名乗るのは民間普通の慣例であるが、内務省の指令によると生家の姓を名乗るようにとのことである。しかしそうすると、習慣に反して公文上だけ生家の姓を書かなければならず、錯誤を生じかねないし、苦情もあると聞く。したがって今後は夫の姓を称するようにさせたいが、いかがであろうか」と書かれています。
これらの資料は、地方一般の慣行や習慣においては「夫婦同姓」が普通であったこと、そこに無理矢理「夫婦別姓」を導入して妻に生家の姓を名乗らせると、色々な不都合や間違いが起こりやすいこと、そしてそれ故に法律上も妻が夫の姓を名乗れるようにしてはどうかという要求が国民から出されていたことを示しているのです。これから考えても、明治維新以前から、「夫婦同姓」が国民の間に定着していた慣習であったことは一目瞭然でしょう。
そしてさらに時代が下った1898年(明治31年)、フランス民法典を手本として日本最初の民法が施行され、その第746条に「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」という姓に関する規定が盛り込まれました。明治民法では「夫婦同姓」というよりは「家族同姓」が謳われており、政府においても国民においても、夫婦単位というより家族単位が意識されていたのです。また、表面的にはあくまで「妻が夫の姓を名乗る」しか選択肢がなかった戦前の民法下でも、夫が一旦妻の親の養子となった後に婚姻する婿養子制度を使うことによって、事実上「夫が妻の姓を名乗る」道も残されていました。現代の水準から言えば不十分なものであったにせよ、近代的な男女平等という観点から見れば、これほどまでに先進的な民法は当時世界中探してもなかなか存在するものではなかったのですがね。
竜堂兄弟一派の皆様方が、自らの信奉する愚かしい「民主主義真理教」の基本教義を無視してまでこだわっていた「日本古来の文化的な伝統」とやらを使った判定は、所詮は「特権階級の伝統」でしかない「夫婦別姓」を推進する論拠にならないばかりか、むしろ逆に「夫婦同姓」「家族同姓」に対してこそ軍配が上がるものですらあったわけです。歴史的事実を捻じ曲げ、自らの宗教的信仰にも逆らい、創竜伝の作品設定すらも無視してまで「夫婦別姓」なるマガイモノを容認して国民をミスリードしようとする、おバカなキミ達の本心と動機が何処にあるのか、そろそろ正直に白状しては頂けないものですかね(笑)。
とまあ、あの連中が提唱していた6つの「政策【モドキ】」について検証してみましたが、結局、その全てが連中の無知と政治認識の低レベルぶりを立証するだけの結果に終わってしまいました(爆)。まあこれは最初から十二分に予測できたことではありましたが(笑)。
それにしても、この一連の「政策【モドキ】」における愚かしい惨状を見るにつけ、どうも竜堂兄弟一派のお歴々は、朝日新聞や赤旗の記事辺りにでも書かれているような、一見奇麗事ばかり並べ立てた「人道的」で「感情的」かつ「反権力的」な「政策【モドキ】」を次々に立ち上げてさえいれば、それだけで政治問題の全てが自動的に解決するし、国民も素直に自分達を熱狂的に支持してくれるという「取らぬ狸の皮算用」的な見込み違いでもって、一連の愚劣極まりない「政策【モドキ】」を立案してでもいるのではありませんかね? 実際には、利己的であるが故に賢明な国民は、真に自分達の利益にならない政策には見向きもしないものですし、そもそも、そういう幼稚な正義感に基づいた甘い誘惑を囁いて国民を煽動するやり方は、竜堂兄弟や田中芳樹が全否定しているであろう、かつてのナチス・ドイツがよく多用していた手法なのではないかと思うのですけど(爆)。
こうなると、何故竜堂兄弟一派の連中が、創竜伝の作中でストーリー的には全く無為無用な社会評論を延々と唱え続けなければならないのか、改めて問い直されなければなりませんね。第一、連中はどうも本気で日本を混乱に陥れること「自体」を目的に「京都幕府」という名の暴力組織を樹立するつもりのようですし、そもそも桁外れの過剰防衛に加え、今や先制攻撃すらも是とするらしい「自己防衛本能」に見られるような「独善的自己中心主義」の権化とも言える竜堂兄弟一派のお歴々に、自分達に関わらない他人や組織のことについて云々する資格など最初から存在しないでしょうに。
それに、上記で政策提言などを行ったそのすぐ後に、相も変わらずこんなタワゴトを堂々と語ってしまうようではね~↓
P235上段~P236上段
<人間の形をした四頭の竜は、あごまで湯につかって、つい三〇分前とうってかわったのんびりしたひとときをすごした。年少組が出ていったあと、年長組はまだしばらく広い浴槽を占拠した。
「しかし、幕府か。一日にして妙な状況になったよな」
「東京の政府もですが、アメリカはどう出ますかね」
「アメリカと仲よくするのに、何の異論もない。だいたいアメリカ全体が悪いわけじゃない。十字軍妄想に取りつかれた狂信的帝国主義(ネオコン)政権が、血と権力に飢えて暴走しているだけなんだから。理性的で穏健な国際協調派が選挙に勝てば、アメリカの国策も変わるだろう」
「そうすると、日本の国策も変わりますね。まあほとんどぼくたちが気にすることでもありませんが」
竜堂兄弟、つまり四海竜王は、「人類の敵」と呼ばれている。逆は真ではなく、竜王たちにとって人類は別に敵ではない。そんなものいちいち敵にする気はないのである。
「そういうことさ。狂信的帝国主義政権を賛美する日本の御用文化人たちはこういう――アメリカに追従する以外、日本の生きる方途はない、それが現実だ、現実を見ないものはオロカ者だ――とね」
「つまり、日本を変えるのに、日本自体を変える必要はない、アメリカを変えさえすればいい。それが現実というわけですね」
「その現実をどう評価するかは人それぞれだ。まあ東京の政府が狂信的帝国主義政権にこびへつらうのなら、京都の幕府は国際協調派と仲よくするさ。先方は迷惑だろうけどな……」>
ええ、全く先方にとっても非常に迷惑な話だと思いますよ。相も変わらず「他力本願」的かつ無責任な基本スタンスで「理性的で穏健な国際協調派が選挙に勝てば、アメリカの国策も変わるだろう」だの「まあほとんどぼくたちが気にすることでもありませんが」だのと能天気にほざいているような愚かな連中に見込まれ、望みもしない同盟を結ばされるのではね(笑)。
それにしても、いくら支離滅裂かつ愚劣で醜悪極まりない「政策【モドキ】」であったとはいえ、とにもかくにも上の方で政策立案ゴッコなどを展開しているものだから、さすがに少しは何か学ぶところでもあったのかと思っていたのに、またもや性懲りもなく「染血の夢」計画を阻止しようとしていた頃と全く同じメンタリティで敵に当たろうとするとは、どうやら竜堂兄弟一派の辞書の中に「成長」だの「進歩」だの「経験」だの「教訓」だのといった言葉は欠片たりとも存在しないようですな(>_<)。「バカは死ななきゃ直らない」とはこういう連中のことを指す格言なのでしょうか。
そもそもこの連中は、「創竜伝世界におけるアメリカ」というものの実態がどのようなものであるのか、未だに何も分かっていないのではないのですかね? あれほど創竜伝の作中記述に何度も繰り返し明示され、かつ自分達の敵として何度も直接間接に関わってきたというのに、この期に及んでもまだ「だいたいアメリカ全体が悪いわけじゃない」だの「理性的で穏健な国際協調派が選挙に勝てば、アメリカの国策も変わるだろう」だのといった、支離滅裂かつ現実無視なタワゴトをいとも簡単に主張できてしまう辺り、本当にどうしようもないと言わざるをえないのですけど。
キミ達竜堂兄弟一派が感情的な理由だけで意味もなく敵視している「アメリカを裏から支配する四人姉妹」の実態を、もう少しその近視眼かつ視野狭窄に陥っている目をかっぽじってよく見てみなさいよ。そんなタワゴトが創竜伝世界ではいかに見当外れかつ無為無力なシロモノでしかないのか、マトモな現実認識能力と理解力がありさえすれば分からないはずはないと思うのですがね↓
創竜伝2巻 P146下段~P147上段
<四大財閥RMMD連合は、二〇世紀のアメリカ合衆国大統領の【全員】を支配下においていた。その支配に抵抗する者は排除された。ケネディ大統領がそうであり、黒人人権運動指導者キング牧師がそうであるという。さらに、原子力発電反対派に対する弾圧や謀殺もすさまじく、「シルクウッド事件」と呼ばれる謎の殺人事件もおきている。>
創竜伝3巻 P11下段~P12下段
<「過去のことよりも現在のことだ。ひとつ決めておかねばならぬことがあった。フォレスターが再選を望んでおるが、奴をどうする」
下僕のように呼びすてられた男は、現在、ホワイトハウスの借家人という身分であった。
「一期かぎりだな。中央情報局という巨大組織をよく運営していたから、できる男かと思ったが、ふん、しょせん火つけ強盗どもの親分だ。やることなすこと下衆で、しかもそれをタフネスと勘ちがいしとる」
「西欧各国の政府からも苦情がきとる。自由世界の盟主たる合衆国大統領が、ロシアの書記長より風格がないようではこまる、とな。一期だけホワイトハウスに住まわせてやって、報奨は与えた。これ以上、奴の分にすぎた処遇をしてやる必要もあるまい」
「代わりは誰にする。ミシガン州知事のハリスンか、上院のウィンフィールドあたりか?」
「これまで保守色が強すぎた。毒を薄めるためだ、リベラル派に人気のあるウィンフィールドでどうかな」
ごく気軽に、いくつかの事項が決定されていった。ハイスクールの野球部長が、新人戦の出場選手を選ぶよりも簡単そうに見える。実際、四人の男にとって、それ以上の意味もなさそうであった。
「ウィンフィールドは財政基盤が弱い。この二年間に、一〇億ドル単位の援助を出してやる必要があろう」
「それはかまわぬ。犬でも馬でも、飼えば餌をやるのは当然のことだ」
「では決まりだな、ひと息いれるとしようか」>
これらの記述を読んでみれば、創竜伝世界におけるアメリカ合衆国大統領というのが全て四人姉妹の支配下にあり、竜堂兄弟一派が期待している「アメリカの民主主義的な手続きに基づいた選挙」とやらに依存する「だけ」では、アメリカの国政が変わることなどありえないとされているのが一目瞭然ではありませんか。四人姉妹にとって、アメリカ合衆国大統領など自分達の下僕にすぎないし、自分達のコントロールによっていつでも自由自在に首をすげ替えることができる程度の存在でしかないのです。
そしてこの関係は、創竜伝13巻に至っても全く変わることなく続いており、しかも竜堂兄弟もまたそのことを敵から告知されているはずなのです↓
P139下段~P140上段
<「豊かな国、利用価値のある国には親米政権を樹立するわけだ。それ以外の国には、例の五〇億人抹殺計画を発動するわけか」
ふたたび「石使い」は笑った。
「いちいちそんな手間をかける必要も意味もないわね。貧困からぬけ出せない国、資源のない国、戦略的に価値のない国。それらには干渉しない。自由に何でもすればいい。お好きなように」
「かってに飢えて死んでしまえ、というわけか。それにしても四人姉妹はいつからアメリカ帝国の国策に協力する下請け機関になりさがったんだ?」
「逆よ」
「石使い」の返答は短い。まだ始は、四人姉妹が五〇億人抹殺計画を放棄したことを知らなかったが、「石使い」との対話でひとつの感触を得たように感じた。ロンドンのはるか上空で、四海竜王は四人姉妹の支配者を倒した。その後、四人姉妹の方針は変わったのだ。その理由は?>
P212上段
<始は、先刻、京都でのことを思い出していた。「アメリカ軍の道具になったのか」という質問に対して、「石使い」は「逆よ」と答えたのだ。四人姉妹のほうがアメリカ軍を道具にしている、ということだろう。アメリカ軍に命令し、あるいは資金を提供して、新兵器を研究開発させる。それを実践に投入する前に、秘密の実験をおこなうのは、当然のことだろう。当然のこととはいえ、知られてはこまる。>
これほど親切丁寧に「アメリカおよびアメリカ合衆国大統領は四人姉妹の利益に奉仕する存在でしかない」ということが作中で、しかも自分達の目の前で繰り返し明示され、さらには自分達自身もそのことを承知してさえいるというのに、何故あの連中は、所詮は四人姉妹のコントロール下に組み込まれているシステムでしかない「アメリカの民主主義的な手続きに基づいた選挙」とやらにそこまで期待をかけることができるのでしょうか? 連中の思考パターンはもはや「現実を見ていない」どころか「現実を目の当たりにしても認識・容認することができない」というレベルにまで到達しており、常人の理解の範疇をはるかに超えてしまっています。これはまさに「民主主義真理教の狂信者」を体現している以外の何物でもありません。
もし竜堂兄弟一派が本気でアメリカの「狂信的帝国主義(笑)」的な国政が気に入らないから変革させたいと考えるのであれば、自分達で四人姉妹を、それも政治的・経済的な圧力をもって屈服、もしくは破滅させるしかないのです。自分達こそが政治運営の先頭に立ち、責任を持って行動しなければならないその事態にさえ、未だに狂った宗教的信仰に満ち溢れた「他力本願」的なタワゴトを口走った挙句、「まあほとんどぼくたちが気にすることでもありませんが」などと無責任な放言まで吐き散らすことのできるその最低最悪の思考回路は本当に救いようがありませんね。それでは結局、「反対のための反対」「悪口を並べるだけの現状追認」にしかならないという厳然たる事実を、あの連中は永遠に理解することができないのでしょうか?
私が竜堂兄弟一派を「人としての限界をはるかに超えた愚劣で醜悪で低能な頭のイカれた狂人の集団」と見做している最大の理由は、まさにこの現実世界&創竜伝世界のどちらにも全く立脚しない妄想主義と無責任ぶりにあるのですけどね~(T_T)。
それとですね、批判内容の愚劣さと支離滅裂ぶりはともかく、竜堂兄弟一派の皆様方が個人的にアメリカを蛇蝎のごとく毛嫌いすること自体は「どうぞご勝手に」としか言いようがありませんが、いくら何でも「ネオ・コンサーバティブ」という正式名称と「新保守主義」という訳語を与えられている「ネオコン」という略称に対して、「狂信的帝国主義」などという誤った翻訳を返すのはいかがなものでしょうか? ましてや、かつて「性悪説」や「諸葛亮孔明」などの誤った理解や誤用をあれほどまでにギャーギャー咎め立てていたほど「言葉の定義や使い方」にうるさい連中であればなおのこと、単語は正しく使わなければならないのではないかと思うのですがね(笑)。
それに実のところ、「ネオコン」の強い影響下にあるブッシュ政権がアメリカの保守陣営を代表する共和党政権だからといって、別に「ネオコン」がアメリカの伝統的な保守政策を体現しているというわけではないのですけどね。実際の「ネオコン」は「転向左翼」「冷戦リベラル」であるという見方がアメリカ国内には広汎に流布しており、むしろアメリカ民主党リベラルの外交方針に近い考え方を持っているのです。
元々伝統的なアメリカ共和党が目指す政策目標は「小さい政府」「減税」「政府の強い権力焼き製から貿易や市場の自由を守る」「自国優先の不干渉主義」といった、いわゆる「モンロー主義(孤立主義)の実現」にあります。第一次世界大戦の後、民主党のウッドロー・ウィルソン大統領が提唱した「国際連盟」にアメリカが加盟しなかった背景には、外国の戦争処理に関与することを嫌った共和党政権が強硬に反対したという事情があったのですし、1995年の大統領選挙に共和党から出馬し、保守本流を自認していたパット・ブキャナン氏などは、自国の課題に専念するための「アメリカ中心主義」「外国に対する不干渉主義」を提唱していたものです。
ところが「ネオコン」の基本理念は、前出のウィルソン大統領が説いた「世界を民主主義にとって安全なものにする」という原点に返ろうというものであり、アメリカの力を使って外国への政治的・経済的・軍事的な介入を行うことで、世界の国々をアメリカ的価値観と合致した「自由と民主主義」に作り変えようというものです。また、金融と資本の完全な自由化と規制撤廃を求め、世界を開放された自由市場とする「グローバリゼーションの実現」をも目的としています。これでは「ネオコン」が共和党の歴史的伝統を汲んでいるとは言えません。
このような「ネオコン」の思想形態と、あれほどまでに「民主主義真理教」を信奉している竜堂兄弟一派の価値観は、相容れないどころかむしろ合致しているようにすら私には思えるのですけどね。何しろ、アメリカの総力を上げて世界中に自由と民主主義を広めようというのですから、すくなくとも竜堂兄弟一派のごとく自由と民主主義をこよなく愛し、かつ絶対視するような人達にとって、これほどまでにスバラシイ御膳立てはそうそうあるものではないでしょうに(爆)。
それに竜堂兄弟は以前、かつて七つの海を支配し、世界各国で不当な侵略と殺戮と掠奪を繰り返し、植民地帝国を自負していた「自由と民主主義の国」イギリスについて、次のような礼賛論を提唱していたではありませんか↓
創竜伝10巻 P148上段~下段
<すでに夕方に近く、暗い空の下でロンドン塔は黒々とわだかまっている。宮殿と要塞と牢獄とを兼ねる石造りの城は、歴史と武器と財宝との一大博物館である。
一方では侵略と掠奪によって多くの国々に危害を加えながら、もう一方では自由な議会と自由な大学と自由な新聞とをつくりあげ、多くの亡命者を保護し、人類の文化遺産を保護してきたのが英国の近代史だ。ロシアやドイツや日本で秘密警察が言論弾圧に狂奔していたころ、英国では新聞が堂々と王室の悪口を書きたてていた。これひとつとっても、ロシアやドイツや日本ではなく、英国が世界を支配したのは当然であったような気が、始はする。まったく、ソビエト連邦やナチス・ドイツや大日本帝国が世界を支配するようになっていたら、どのような世の中が出現していたことか。現在よりひどい時代になっていたことはまちがいない。>
これから考えれば、すくなくともイギリスと同じ程度には「自由な議会と自由な大学と自由な新聞とをつくりあげ、多くの亡命者を保護し、人類の文化遺産を保護してきた」アメリカに対してもまた、「世界を支配するのは当然である」という結論が当然導き出されるのではないのですかね? ましてや「ネオコン」の方々は、かつてのイギリスでさえ欠片たりとも実行しようとすらしなかった「自由と民主主義の世界配布」などという「崇高なる理想」を自らの力で実現させ、世界を独裁者の圧政と従属から解放しようとしているのですから、ここはむしろ諸手を挙げて全面的に賛同すべきところでしょう(爆)。にもかかわらず、「自由と民主主義」をこよなく愛する竜堂兄弟一派の皆様方が、「狂信的帝国主義」などという意味不明な造語をでっち上げてまで「ネオコン」の方々を貶めようとするのは感心できませんね~(笑)。
結局のところ、たとえ口先だけであるにせよ、「ネオコン」が何を目指し、何を主張しているかについての理解を深めることもなしに、「十字軍妄想に取りつかれた」だの「狂信的」だのと頭から決めつけて貶めようとするから、こんな矛盾が生じる羽目になってしまうのですよ、竜堂兄弟一派の皆様。民主主義的恩恵を盾にした過去のイギリス植民地侵略免罪&礼賛論にも、自らの思想信条である「【狂信的】民主主義真理教(笑)」にも反して、何故アメリカに対してだけは「狂信的帝国主義」などという「性悪説の誤解や諸葛亮孔明の誤用にも劣る【意図的な誤訳】」を持ち出してまで何が何でも貶めようとするのか、そろそろ責任ある明確な説明があっても良いのではないかと思うのですけどね、私は。
創竜伝座談会 P244~P245
<続 さて、そろそろはじめるとしましょうか。おや、終君、なんだか今日はおとなしいですね。
終 べ、別に。
続 何があったんです、余君?
余 始兄さんがご機嫌悪いんだよ。
始 べつに悪くないぞ。
続 あ、ほんとに悪いですね。
始 あのなあ。
続 悪くて当然です。イラク国立博物館のムザンな掠奪の報が伝わってきましたからね。
余 それも組織的だったんだよね。
始 開戦前に、アメリカの美術商の団体が、政府に対してイラクからの美術品の流入を認めるように圧力をかけた。というイギリスのガーディアン紙の報道がある。
続 つまり彼らは大規模な掠奪がおこることを、あらかじめ知っていたんですね。
終 うわー、そういうことか。イヤな話だなあ。
余 正義と平和をもたらしたはずのアメリカ軍は何してたの?
始 アメリカ軍は石油省の建物は厳重に警備していたけど、国立博物館のほうは知らん顔だったんだ。当のアメリカで、芸術行政担当の高官が抗議の辞任をしたくらいだから、アメリカ軍の責任はまぬがれない。>
いつもの事ながら、ただ単に「イラク国立博物館が掠奪に遭って不愉快だ」とだけ述べておけば良いものを、わざわざご丁寧に「イラク国立博物館の掠奪は、事前に全てを承知していながら、美術品を裏で収奪するために意図的に放置していたアメリカの陰謀である」などという余計なトンデモ電波陰謀論をでっち上げて支離滅裂なアメリカ断罪論をこしらえてしまう、その相変わらずなやり方は大したものですね。そんな電波妄言を繰り返せば繰り返すほど、キミ達竜堂兄弟が読者から呆れられ、バカにされた挙句、最後には見捨てられてしまうという厳然たる事実の存在に、いいかげん気づいて頂きたいものなのですけど(笑)。
第一、アメリカ軍がバグダッドを占領したドサクサに紛れてイラク国立博物館で大規模な掠奪を働いていた人達の多くは暴徒化したバグダッド市民でしたし、そのような事態を招いた責任の多くは、秩序立った降伏の道を選ばずに行方不明になってしまい、バグダッドを無政府状態の混乱に陥れたフセイン政権に求められるべきものです。本来、敗戦が決定し、これ以上の抗戦が不可能な状態に陥った国の最高責任者は、敵に対して秩序立った降伏を行い、国と国民の財産と安全を維持する義務があります。にもかかわらず、フセイン政権はバグダッド陥落と同時に突如行方不明となり、イラク国民を置き去りにしたのですから、統治責任の観点から見ても、本来真っ先に糾弾されるべきはフセイン政権であるべきはずでしょう。
また、イラク戦争当時のアメリカ・イギリス両軍は、必要最小限の命令の遂行と、正規・不正規のイラク軍と戦うこと以外の活動を基本的には行わない方針を取り続けていました。掠奪を行う暴徒の鎮圧や犯罪の取り締まりなどといった、普段警察が行っているような治安維持活動に手を染めると、自分達を標的とした自爆テロ攻撃などに悩まされる状態が長引き、撤退したくてもできなくなる事態に繋がる恐れがあったからです。それに、下手にアメリカ軍が治安維持活動に着手すれば、結果としてその銃口が一般的なイラク国民に向けられることにもなるわけで、現地で無用なトラブルや対立を招く原因にもなりかねません。
まあ結局は、イラクが事実上の無政府状態に陥り、代替組織のないままに各地で掠奪や暴動が相次いだために、アメリカ軍も本腰を入れて治安維持活動に乗り出さなければならなくなり、現地のアメリカ軍は占領の長期化と慢性的に頻発する自爆テロ攻撃に悩まされる事態に直面する羽目となったのですが、すくなくとも当初の計画ではそんな方針であったわけです。だからこそ、アメリカもイギリスも、イラクの治安維持のために自国の軍事力や兵隊の人命・政府予算を使うことに消極的だったのであり、それがバグダッド市民による無秩序な掠奪行為を「結果として」放置することに繋がってしまった、これが件の事件の真相なのです。
さらに、イラク国立博物館掠奪事件で掠奪の被害に遭った収蔵品は、当初17万点以上と報じられていましたが、その後の調査で、この報道は当時、イラク唯一の政党であったバース党によって任命されていた博物館職員のウソを、反米に傾いていた西ヨーロッパやアラブ諸国のメディアが、イラク解放の暗部に焦点を当てようと躍起になるあまり、ロクに検証することもなく採用した誤報であることや、文化財の大半が国立博物館やイラク中央銀行の地下室などに事前に保管されていたことなどが判明し、被害総計は17万点から3000点にまで大きく下方修正されています。
そして事件直後、アメリカのラムズフェルド国防長官は「略奪は不幸なことだが、人間は完全ではない。戦場で起こったことで止めるのは困難だ」と述べると共に、犯人グループの追求と掠奪された収蔵品の回収に協力する方針を示しましたし、実際、アメリカ軍自身が押収した掠奪品や、バグダッド市民による自主返還などで、掠奪の被害に遭ったの収蔵品の半数以上が相次いで回収されているのです。
確かにイラク国立博物館の掠奪は、アメリカの政戦両略における見通しの甘さと「過失責任」が問われるべき事件ではあったでしょうが、この流れの一体どこに、竜堂兄弟ががなりたてるトンデモ電波陰謀論を立証する証拠が存在すると言うのでしょうか? いつものことながら頭の具合を疑わざるをえない被害妄想だけは大したものですが、もう少しその中身の足りない頭に一滴残らず上っている沸騰状態の血液を冷却し、首から下へと流した上で、物事を冷静に見て聞いて語った方が良いのではありませんか?
そう言えば、イラク国立博物館を襲った人達の多くが暴徒化したバグダッド市民という話を聞いた時にふと思ったのですけど、竜堂兄弟的価値観から考えれば、むしろアメリカ軍やイギリス軍が直々にイラク国立博物館を、それこそ組織的かつ徹底的に掠奪し尽くしてくれた方が却って望ましいことですらあったのではないですかね?
何せあの連中、以前こんなことをほざいていたくらいなのですから↓
創竜伝10巻 P81上段~下段
<大英博物館に対しては「世界最大の盗賊の宝物庫」という悪口がある。何しろ世界各地へ出かけては侵略と征服と掠奪とをくりかえした大英帝国の、いわば悪事の証拠品が集められているのだ。エジプト、インド、アフリカ諸国、中近東諸国、それに中国。王宮に火を放ち、王墓をあばいて奪った彫刻、絵画、陶磁器、宝石、金銀細工、織物、古文書の巨大な山。ギリシアやエジプトの政府が、「我々をだまし、あるいは力ずくで奪った財産を返せ」というのも、もっともなことである。
そういった事情を承知の上で、始はやはり大英博物館の存在に感動する。知識に対する貪欲さ、美に対する執念、文化に対する敬意、それらの人類の精神的な活動が、地球上の一点に集まり、「大英博物館」の名に象徴されているからだ。英国人が奪いとっていくまで、各国の人々が自国の文化や歴史の貴重さに気づかず、砂に埋もれ、朽ちはてるままに放置しておいたのも、残念ながら事実である。もし王宮の奥に隠して誰にも見せないというのなら英国人を弁護する余地はないが、すべてがたいせつに保存され、修復され、展示されており、外国人である竜堂兄弟も無料で見学できるのだから、ある意味で、軍事力と資本力によって世界を制覇した大英帝国が、文化においては敗者におよばないことを自覚した証拠ともいえるのだ。>
これから考えれば、無政府状態に乗じて無秩序な掠奪行為に走り、「自国の文化や歴史の貴重さに気づか」なかったイラクの人達によって、せっかくの貴重な文化財を紛失されてしまうよりは、むしろアメリカ軍やイギリス軍がイラク国立博物館の収蔵品を全て押収してしまい、それらを全て大英博物館なりスミソニアン博物館なりに大切に保存・修復・展示して無料で一般公開してくれた方が却って良かったということになるはずでしょう(笑)。それは「ある意味で、軍事力と資本力によって世界を制覇したアメリカやイギリスが、文化においては敗者におよばないことを自覚した証拠ともいえる」ことになるはずなのですから、ここは「何故アメリカ軍は掠奪を放置したんだ!」ではなく「何故アメリカ軍やイギリス軍は自ら組織的かつ徹底的に掠奪を行わなかったんだ!」と憤るのが、本来竜堂兄弟達が取るべき正しい対応というものではありませんか(爆)。
だからですね、自分達がかつて作中で何を言っていたのかを顧みないままに、その場凌ぎの社会評論などでっち上げても滑稽でしかないと言うのですよ。まともな記憶能力も学習能力も存在しないキミ達は都合良く忘れていても、読者はキミ達の愚かな発言内容の数々をそうそう忘れてはいないものなのですからね、竜堂兄弟の皆様(笑)。
創竜伝座談会 P245~P246
<終 やっぱり石油が目的だったのか。
続 これも開戦前ですが、アメリカ上院の外交委員長が明言してるんですよ。「我々はイラクの石油ビジネスをコントロールする。事業に加わりたければ、最初から参加しなければならない」ってね。日本の新聞にもちゃんとのってます。
余 でも日本の文化人のなかには、「アメリカがイラクを攻撃するのは正義のためで、石油が目当てではない」っていう人もいるよ。
続 そういうことをいう人は、「アメリカの上院議員はウソつきだから信用するな」とでもいいたいんでしょうよ。たしかに、石油だけが目当てではなかったでしょうけどね。
始 もともとイラクに戦争をしかけた理由は、「イラクは大量の生物化学兵器をかくしている。それを発見し、破棄するために、戦争以外の手段はない」ということだった。
続 ところが戦争でイラク軍は生物化学兵器を使用せず、戦後も今日まで発見されないまま。「大量に発見した」とか「工場が見つかった」という報道は全部ウソでした。
終 今後、発見されるかもしれないわけ?
続 アメリカ軍の手でね。
終 じゃ捏造するかもしれないじゃん。ほら、いつかの旧石器みたいにさ。
余 発見できればいいけど、できなかったら、「戦争をしかけたのはまちがいだった、ごめんなさい」というのかしら。
始 いや、反省なんかしないだろう。口をぬぐって知らん顔さ。
続 戦争に賛成した日本のマスコミもおなじですよ。「これは正義の戦争だ、すんだことをいつまでもガタガタいうな」と、早くもいいはじめてますからね。
終 あ、知ってる。戦争がはじまるずっと前に、まっさきにバグダッドから逃げ出した新聞社だ。
余 戦争をとめられなくて無力感をおぼえてる、という人たちも多いみたいだね。
始 いや、無力感をおぼえる必要はない。人間に記憶があり、社会に記録があるかぎり、この醜悪な「正義の戦争」に誰が賛成し、誰が反対したか、歴史にはっきりと残る。だからこそペンは剣より強いんだ。忘れないこと、それにつきる。>
「ペンは剣より強いんだ」「忘れないこと、それにつきる」ねぇ……。仮にも世界の政治や社会や国際情勢などを批判するに際して、いつでも無敵の免罪符を使った責任回避が可能な「フィクション小説」という媒体を使った挙句、批判対象を曖昧にボカしながら糞味噌に貶めるような駄文を「個人的なストレス解消」などのために書き散らすような作家や、過去から何も学ぶことも覚えることもなく、自分達の独善性や無責任を少しも顧みることなしに暴力を濫用する民主主義真理教の狂信者ごときがそんな説教を垂れたところで、説得力も何もありはしないのですよ(笑)。この連中は自分達が他人からどのように見られているのか、少しでも考えてみたことがあるのですかね?
第一、「ペンは剣より強いんだ」などと述べたそのすぐ手前で、「戦争に賛成した日本のマスコミ」だの「戦争がはじまるずっと前に、まっさきにバグダッドから逃げ出した新聞社」だのといった、具体的な批判対象を特定させない表現を使ったマスコミ批判など展開してどうするのでしょうか。本当に「ペンは剣より強いんだ」と考えているのであれば、「戦争に賛成した日本のマスコミ」がどこのマスコミであるのかを明示した上で「名指し批判」をするのが筋でしょうに、わざわざ隠す必要がどこにあるというのです?
それに、「戦争がはじまるずっと前に、まっさきにバグダッドから逃げ出した新聞社」については、日本の大手メディアの全てがこれに該当してしまいます。イラク戦争開戦前の3月17日にバグダッドのプレスセンターが閉鎖された際、日本の大手メディア報道陣はその全てが全面撤退しているからです。開戦からアメリカ軍による軍事制圧までに至るバグダッド市内の様子を伝えた日本の大手メディアの報道は、その情報ソースのほとんどをイラクに残留していた若干数のフリージャーナリストの取材やレポートなどに依存していたというのが実情で、これは日本における大手メディア全てが、過去の様々な戦争報道の中で多かれ少なかれ何度も行ってきた報道手法です。だから件の文言は、たとえて言えばミステリー小説の中で「犯人は誰か?」という問いに対し「それは人間だ」などといった類のマヌケな回答を返すようなもので、全く何の意味もない(それでいて悪意に満ちた)痴者のタワゴトでしかないのです。
こんなマヌケな言い回しなどをするくらいだったら、最初から特定の新聞社を「名指しで」批判していた方がはるかに良かったのではないかと思うのですけどね~(>_<)。
それからイラクの大量破壊兵器(WMD)発見云々の件についてですけど、そもそも政情や治安が不安定なイラクで大量破壊兵器の証拠を捜索すること「自体」が、いかに多くの時間を要し、かつ困難を極めるものであるのか、そして「結果」ではなく「動機」でもって「のみ」政治を語る行為がいかに愚かしいことであるのかを、この連中は全く分かっていないとしか言いようがありませんね。
これは創竜伝13巻発売後のことになるのですが、2003年10月2日に、イラクで大量破壊兵器の捜索に当たっていたアメリカ中央情報局(CIA)調査団のデビット・ケイ顧問が、アメリカ下院議会の情報特別委員会(秘密会)に対して暫定報告書を提出しています。その要旨を簡単にまとめると、次のようなことが記録されているのです↓
・ 3ヶ月間イラクで捜索を行ったが、現段階で実際の大量破壊兵器は見つかっていない。
・ しかし、これは結論ではない。今後6~9ヶ月で状況はより明確になるだろう。
・ 調査団は3ヶ月間の間に、現地で3度の攻撃を受け、4人が負傷するなどの厳しい条件下にあり、またイラクの治安情勢問題のため思い通りに活動できていない。
・ 2002年後半に国連査察団がイラクに復帰した際、イラクが隠蔽していた大量破壊兵器の関連プログラムや装備を多く見つけた。
・ 開発に携わったスタッフが戦争前後に証拠や関連物資を国外に持ち出した可能性がある。
・ イラクの科学者らの証言によれば、フセイン大統領は明確な核兵器保有の意図を持っていた。しかし、1998年以降に核兵器を実際に開発したり、核分裂物質を製造しようとしたりした証拠は見つかっていない。
・ イラクは国連決議で認められた射程150キロを大幅に超える射程1000キロの弾道ミサイルの開発を行っていた。
・ イラクは北朝鮮からミサイルやその技術を入手しようとして、1999年12月に協議を始め、2000年10月にはバグダッドで接触している。
・ イラクが大量破壊兵器研究施設の広範囲なネットワークを秘密裏に保有し、うち20数か所の施設はイラクの諜報機関によって密かに運営されていた可能性があると結論づけている。
これを読めば分かるように、デビット・ケイ顧問の暫定報告書では、確かに2003年10月2日現在でもイラクで大量破壊兵器の「現物」は見つかっていないと明言してはいるものの、それに補足する形で、未だ最終結論が出せる段階ではないことも強調していますし、また、イラクが大量破壊兵器の開発を秘密裏に進めていたこと、イラク側が証拠を隠蔽したり国外に持ち出したりした可能性があること、国連決議に違反した長距離ミサイルを開発するために北朝鮮と接触していたこと、などといった情報が併せて提示されています。これらの報告内容は、イラクのフセイン政権に「大量破壊兵器を保有する意図と行動」があったことを意味するわけですから、これだけでも、アメリカがイラクを攻撃する大義名分としては十二分に成立しえるのではありませんか?
それに、元々イラク戦争前の国連による査察についても、国際原子力機関(IAEA)の査察団は「査察の完了までには数ヶ月かかる」という発表を2003年1月16日に出していますし、また上記で示したように、2003年10月時点で提示されたCIA調査団の報告書でも、最終的な結論を出すには今後6~9ヶ月もの時間がかかること、さらにはイラクの治安情勢問題のために、現地の調査団が思い通りに活動できていないことなどといった情報が盛り込まれているのです。これらのことから考えれば、この問題が元々からして早急に結論が出せるような類のシロモノではなかったことが簡単に理解できるはずでしょう。
にもかかわらず、竜堂兄弟のお歴々は、アメリカ軍によるイラク占領統治が始まって間もない2003年5月5日(創竜伝13巻座談会が執筆された日)の時点で、早くも「戦後も今日まで発見されないまま」「『大量に発見した』とか『工場が見つかった』という報道は全部ウソでした」などと勝ち鬨を上げてしまう始末。連中は「現時点で結論を出すのは早すぎる」と、件の発言を行う前に少しでも考えたことはなかったのでしょうか(笑)。
さらに前回の考察でも論じたように、フセイン政権当時のイラクには国連安保理決議に何度も違反してきた前科がありますし、またイラク戦争は国連安保理決議678・687・1441の内容に基づいて行われているのですから、法的根拠の面から言っても何の問題もないでしょう。しかも、これには「イラクが大量破壊兵器を持っているのか否か」だけでなく、「国連安保理決議違反の常習犯であるイラクに対してどう対処するのか?」という問題も別個に含まれているのです。国際政治の世界では、国連など所詮は「無為無能の無駄飯食らい」程度にしか見做されてなどいないのですから、「国連による平和や調停の実現」という観点から見れば、むしろ結果的に国連がアメリカによって「権威付け」されたことを素直に喜ぶべきところですらあるでしょうに(爆)。
第一、仮に竜堂兄弟が主張するようにアメリカが本当に石油目的でイラクに戦争を仕掛けたのだとしても、建前として「イラクの脅威の除去」や「大量破壊兵器の破棄」などの大義名分を挙げておくことに、一体何の不都合が存在すると言うのですかね? アメリカのみならず、世界中どこの国の外交政策でも、建前上は立派な理念や奇麗事を並べた大義名分を掲げつつ、本音である既得権益や勢力拡張を図っているものです。国際政治というのは元々そういう常識で成り立っている世界なのですし、それはこれからも変わることはないでしょう。むしろ、大真面目に理念や奇麗事「だけ」で国際問題を捉えようとする手法こそが、国際政治の世界では「非常識」であり、周囲から「格好の獲物」と見做されかねない極めて危険なやり方なのです。
アメリカは自国の国益獲得や安全保障のために戦いつつ、同時に(たとえそれが他者から見れば独善的で、かつ「アメリカにとって都合が良い」ものではあったにしても)国際的な平和達成のために将来的な脅威を取り除くという目的で「も」戦っていた、それで充分ではありませんか。政治の世界で本当に評価の対象とされるのは「動機」ではなく「結果」なのですし、自国の国益や安全保障のために取った行動が、結果的に相手国の利益に「も」なったり、国際平和に「も」貢献したりすることだってあるのですから、石油目的でイラク戦争が遂行されていたという動機「のみ」をもって、アメリカ「だけ」がことさら特筆大書的に非難されなければならない理由などどこにも存在しないでしょう。
むしろ、竜堂兄弟曰く「狂信的帝国主義」ことネオコンが主張しているような「自由と民主主義の世界配布」を、自国の国益や安全保障に全く配慮することなく、アメリカが本気でなりふり構わず実行に移そうと画策し始めた時の方が、それこそ「狂信的」ではるかに危険ではありませんか。この観点から言えば、竜堂兄弟が得意気になって罵倒している「醜悪な正義の戦争」とやらの実態は、むしろアメリカが「自国の国益と安全保障を第一に考える」健全な国家であることの証明にもなっているわけで、すくなくとも竜堂兄弟一派の「3流ヒューマニズム」ないしは「狂信的民主主義真理教」的な考え方よりは余程マトモな思考法だと私は思うのですけど、違いますかね?
で、創竜伝13巻座談会における竜堂兄弟のお歴々は、本来作品とは全く関係のないイラク戦争関連の時事問題を延々と語り倒した挙句、最後には保険でもかけたつもりなのか、こんな極めつけの妄言を口走るまでに至っています↓
創竜伝座談会 P249~P251
<終 (中略)ところでさ、このごろ、第一〇惑星が地球にぶつかるとかいう話がメディアに出てるけど、あれどうなの?
始 また妙なことに興味を……。
続 第一〇惑星が地球に接近するか衝突して人類が滅亡する、なんてエセ予言、オカルトの世界ではめずらしくも何ともありませんよ。
始 年月日を指定して「人類滅亡」を主張する予言が的中したことは、むろん歴史上に一度もないんだが、信じる人がやっぱりいるんだなあ。
余 作者は信じてるの?
終 いくら作者でも、それはないだろ。
余 でもこの前、K談者の編集さんにいってたよ。「五月一五日に第一〇惑星が地球に衝突するんだから、仕事なんかしてる場合じゃない」って。
始 そりゃ信じてるんじゃない。信じたフリしてなまけようって魂胆だろう。
続 さすが終君の生みの親ですね。やることがせこい。
終 俺を引きあいに出すなよ!
始 ま、軽く反撃をくらってたからな。
余 どんなふうに?
続 「はいはい、わかりましたから、五月一四日までは仕事をしてください。一六日からも仕事をしてください」っていわれて、ムクれてましたけどね。
終 編集さんのほうが一枚も二枚も上手だよな。
続 それくらいでなきゃ、作家のような人種をあやつることはできませんよ。
終 作者が仕事の山に埋もれるのは自業自得だけど、予言がはずれたら、予言した人はどうするんだろう?
始 それは決まったやり口がある。「第一〇惑星が地球に衝突しなかったのは、教祖サマが霊能力で阻止したからだ」といえばいいのさ。
余 ずるいね。
始 ま、うかつに予言なんてするものじゃない。おれたちの場合だって、この本が出るころ、イラクの大量破壊兵器がぞろぞろ見つかっているという事態に直面するかもしれないしな。今日は何だか話題がとっちらかったが、もうそろそろ時間じゃないか。>
ええ、確かに迂闊に予言なんてするものではありませんね(笑)。「イラク国立博物館の掠奪は、事前に全てを承知していながら、美術品を裏で収奪するために意図的に放置していたアメリカの陰謀である」の話は、その後のアメリカ高官の発言やアメリカ軍の行動によって完全に否定されてしまいましたし、大量破壊兵器云々の件も、前述のように創竜伝13巻座談会が書かれた時点ではまだ明確な結論が出せるようなシロモノではなかったのですから(爆)。
それにしても、「うかつに予言なんてするものじゃない」なんて文言が、よりにもよって創竜伝の作中で堂々と開示されることになるとは正直思ってもいませんでしたね~(>_<)。そもそも創竜伝という作品自体が、元々「二〇世紀の終わりを数年後にひかえた年」を舞台にしつつ、過去および現在進行形で書かれてきた経緯を持っているというのに、どの面下げて「何を今更なオカルト批判」などを、しかも他人事のような態度で滔々と語っているのでしょうか、この連中は。他ならぬ「とうちゃん」や自分達自身が過去、どのような「予言」を行い、どのような形で後始末をしてきたのか、少しは振り返って考えてくれてもバチは当たらないと思うのですけど。
「とうちゃん」や竜堂兄弟というより、創竜伝キャラクター・地の文問わず、創竜伝のそこかしこで何度も繰り返し言われてきた「予言」の代表例と言えば、何と言っても創竜伝8巻辺りまでしつこいぐらいに言及された「日本の経済力は世界一」云々の文言と、すくなくとも創竜伝7巻まではその存在が確認されていたはずの「ソ連」関連の記述が挙げられるでしょう。これらの「予言」は1987~1992年までの間に書かれたものであり、作品設定として作られたにせよ、評論を語るための道具であったにせよ、すくなくとも先の未来をある程度見据えた上で書かれたものであったことは疑いようのないシロモノだったはずです。
で、これらの「予言」が1990年代初頭のバブル崩壊やソ連崩壊で見事に瓦解した後、「とうちゃん」や創竜伝の作中キャラクター達は一体何をしていましたっけ? 予言が外れたことについて謝罪も反省も述べないどころか、現実世界の政治情勢に迎合して目先の巻の作品設定を勝手に改竄してしまった挙句、お互いが口裏を合わせて過去の「予言」の前科を全て「なかったこと」にして闇に葬ろうとしていた努力の跡さえ垣間見られるではありませんか。何しろ、創竜伝8巻ではいつの間にやらソ連が何の伏線も必然性もなしに崩壊してしまっていましたし、創竜伝13巻では、他ならぬ「日本の経済力は世界一」と【過去に主張していた当人達】が「そんなものは妄想だ」などとわめき散らすことで、支離滅裂かつ滑稽な自傷行為を行っていたのですからね(笑)。「とうちゃん」や竜堂兄弟的な定義では、こういうのを「予言が外れた際の責任の取り方である」とでもいうのでしょうか(爆)。
また、創竜伝13巻ではイラク戦争を遂行したアメリカに対して、国連安保理決議を盾に取った罵倒文句が鬼の首でも取ったかのように叩きこまれていますが、確か湾岸戦争の際、竜堂兄弟達はかつて以下の会話を交わしていたのではなかったのですかね?
創竜伝7巻 P127上段~下段
<「何年か前の第一次湾岸戦争の結果を見たろ? 独裁国に兵器を供給し、それを爆弾とミサイルでたたきつぶし、そして復興する。実際の戦費は、同盟国に支払わせる。利益をえたのはいったい誰だ?」
そう始は続に注意をうながしたことがある。一九九〇年代にはいると、戦争はあきらかに「国家の商売」となった。ずばぬけて戦力の強い国が、「国際連合」の看板を利用して、各国から用心棒代をまきあげるようになったのだ。>
ええ、もちろん1991年の湾岸戦争は、ソ連崩壊以前では非常に数少ない「国連安保理決議を背景に行われた戦争」のひとつです。そして「一九九〇年代にはいると、戦争はあきらかに『国家の商売』となった」という「予言」も、その後の世界情勢を見れば到底当たっているとは言えませんし、「ずばぬけて戦力の強い国が、『国際連合』の看板を利用して、各国から用心棒代をまきあげるようになったのだ」の文言も、「予言」としては完全に外れているとしか言いようがありませんね。
ところが、その12年後にイラク戦争が勃発すると、かつて「ずばぬけて戦力の強い国の看板道具」とまで酷評していたはずの国連を、今度は手のひらを翻すかのように「絶対的なルール」であるかのごとく持ち上げ、あまつさえ、「国連安保理決議のない超大国の武力行使に反対」などという愚劣な反米スローガン的「政策【モドキ】」として掲げるまでに至る始末。もちろんここでも、かつて行われた「予言」の後始末はおろか、突然全く正反対の意見へ転向したことに対する何らかの総括ないしは説明すらも全く行われておりません。
そしてさらに悪質な「予言」になると、こんなとんでもないシロモノまで存在するのです↓
創竜伝8巻 P161下段~P162上段
<「このごろは政治家まで環境保護を守ろうなんていいだしましたからね。利権の種でも見つけたんでしょうよ」
漢鐘離が口を挟む。
「政治家を信用しとらんようだが、なかには国民のためにつくす政治家もおるじゃろう」
「なかには!?」
続が冷笑をひびかせた。
「政治家は国民のためにつくすのが当たり前です。公僕なんですからね」
続の口調は辛辣をきわめた。
「小説を書く作家もいる、とか、試合に出るプロ野球選手もいる、とかいう表現をしますか。しやしませんよ。当然の職業上の義務ですからね。政治家だけがその義務を果たさなくていいわけがありません」
「野党もだめかね」
「日本の野党は与党のおこぼれにあずかりながら、永遠に野党の地位に安住して、政策上の責任をとろうとしないんです。同罪ですね」>
で、竜堂続が「日本の野党は与党のおこぼれにあずかりながら、永遠に野党の地位に安住して、政策上の責任をとろうとしない」とまで吐き捨てたわずか1年後、細川連立政権による「与野党逆転型の政権交代」が本当に実現してしまい、さらにその翌年には、当時の「万年野党」こと社会党の首相による自社さ連立政権が誕生するに至りました。この時点で創竜伝8巻における竜堂続の「予言」は見事に破綻してしまうことになったわけですが、それに対して創竜伝が沈黙を守った挙句出してきたのが、「私の創竜伝考察37」でも言及した「阪神・淡路大震災当時の日本政府批判」です。
これなどは、かつての自らの「予言」に対して無視・黙殺を決め込んだばかりか、「社会党の村山富市」がしでかした失態を、あろうことか「与野党逆転による政権交代」がただの一度たりとも行われていないはずの創竜伝世界に持ち込むことで、あたかも「与党(自民党)がやったこと」にしてしまうという、まさに「冤罪の押しつけ」を行っているわけです。これが「予言」や「評論」として完全に失格であるばかりか、「政治風刺」の観点から見ても大問題であることは今更言うまでもないでしょう。
「予言」の危険性を十二分に承知していながら、その場で適当にでっち上げたとしか思えないデタラメな「予言」を、たかが「個人的なストレス解消目的」などのために乱発し、しかも結果的にそれが外れたことに対しては完全無視を決め込んだ挙句、現実世界の政治情勢に迎合して作品設定を勝手に改竄したり、突然何の説明もなく自分の意見を正反対に引っくり返したり、他人に冤罪を押しつけたりすることで、過去の「予言」の存在自体をなかったかのごとく隠蔽工作を行い、さらなる「恥の上塗り」をする。田中芳樹と創竜伝の作中キャラクターが過去に行ってきたのはまさにそういうことなのです。これに比べれば、「エセ予言」が外れた際に、とにもかくにも自らの弁明を公の場で(たとえその内容が御都合主義的かつ支離滅裂なシロモノではあるにしても)開示しようとする「オカルトの世界」とやらの人達の方が、すくなくとも「自分の発言に対して責任を取る」という点では、まだはるかにマトモであるようにすら見えるのですけどね。
第一、その「オカルトの世界」の人達を批判するに際して、相も変わらず批判対象を名指しすることなく曖昧にボカしながら言及すること自体、醜悪極まりない無責任な態度としか言いようがないではありませんか。「第一〇惑星」「五月一五日」なんてキーワードでごまかさずに、はっきり名指しで「パナウェーブ研究所」と明言すればそれで済むだけの話でしかないのに、そんな簡単なことすらできないというのでしょうか? 本当に「誰が賛成し、誰が反対したか、歴史にはっきりと残る」だの「ペンは剣より強いんだ」だの「忘れないこと、それにつきる」だのといったお題目を連中が掲げるのであれば、なおさらはっきり名指し批判を行うべきですし、それができなければ「オカルトの世界」の人達以上に自分達自身を貶めることになるということを、いいかげんに理解した方が良いのではありませんかね?
それにしても、イラク戦争関連といい、パナウェーブ関連といい、何故こうも本来作品とは全く関係のない「現実世界の時事問題」などを、現実世界と何の関わりも持たない架空の作中キャラクター達が、しかも速報性や歴史記録という役割に全く向かない「フィクション小説」という媒体の中で延々と語らなければならないのでしょうか? いくら積極的共犯かつ自業自得であるとはいえ、たかだか「個人的なストレス解消」などのために、作者のマリオネットとして支離滅裂なタワゴトを意味もなく毎回毎回しゃべらされ続けているがために、これより下の底辺など存在しないのではないかとすら思えてくるくらいの「愚か者」にまで貶められてしまう作中のキャラクター達が、私は非常に哀れに思えてならないのですが(T_T)。
いいかげん、自分の作品中で活躍するキャラクター達を、もう少し愛情をもって大切に扱っては頂けないものなのですかね、田中センセイ。同人誌で自分の作品のキャラクターを同性愛ネタにされて「キャラクターは我が子も同然。勝手にポルノ映画に出演させられ、喜ぶ親がどこにいる!」などと激怒するくらいならば、自分の作品中における社会評論群についても全く同じことが当てはまるということを、その老化現象が加速度的に進行しつつあるとしか思えない頭を死ぬほど酷使してでも認識するべきでしょうに。
ところで、以前田中芳樹は創竜伝に関して、身の程知らずにもこんな暴言を吐いていたらしいんですよね↓
書物の森でつまずいて…… P169(「IN★POCKET」1997年8月号収録)
三百万部突破記念「創竜伝」インタビュー
<――:
ところで、初めの構想では全部で何巻ぐらいの感じだったんですか?
田中:
『銀河英雄伝説』も『アルスラーン戦記』も、着地点が決まっていて第何巻に何を書くという計算がたつ作品なんです。ところがそうでないのもあるというのが、『創竜伝』でよくわかりました。ラストは決められるんですが、そこにいくまでにどれくらいかかるのかの予測がつかないんです。実のところ、この四兄弟を使うとどんな話でもできるんです。
古代中国のファンタジーにしても、秘境冒険小説にしても、ホラータッチでもミステリーでも、なんでもできるんですね。昭和初期の旧満州あたりにしても、それなりの話が出来ちゃうんですよ。当分終わりそうにありませんので(笑)、お付き合いいただければ幸いです。>
これって事実上の「完結公約破棄宣言」ですよね? 以前田中芳樹は、創竜伝の完結について以下のような公約を行っていたのですから↓
創竜伝7巻座談会 P228
<余 だいじなことを忘れていたよ。「創竜伝」は何巻で完結するの?
始 そうそう、だいじなことだな。いちおう一〇巻完結だそうだ。
終 発禁にならなければ、だろ。
続 発禁になればそれまで。ならなければしかたないから一〇巻まで本編を書いて、そのあと二巻ぐらい番外篇を書く。それで本当におしまいだそうです。>
で、さらに銀英伝完結に際しては、以下のようなことも述べていたはずです↓
銀英伝10巻あとがき P239
<それにしても、ほんとに、まったく、ようやく、やっと、どうにか、ついに、終わりました。これで「銀英伝」も小説になれました。これまでは【小】説でしたから。完結していない小説など、屋根のない家も同様で、細部がどんなによくできていても、全体的な評価をしていただくわけにはいきません。これで悪いなら悪いなりに、全体像を批評していただくことができます。
一〇巻で終わるということは、かなり以前から宣言していたはずなのですが、一部では信用していただけなかったらしく、「一〇巻で終わらずにもっと続けるそうだ」とか、「いや、八巻で中断して投げだすそうだ」とか、奇妙な噂が流れ、その噂をもとにして一方的に抗議されたりもしました。作品の質やミスに対して批判を受けるのは当然のことですが、作品に対する作者の愛情を疑われたことは、私にとっては、はなはだ不本意なことでした。それらの噂や抗議に対する私の返答は、ここに銘記されたとおりです。ご納得いただければ幸いです。>
この銀英伝10巻あとがきの論法に従えば、作品の完結公約について「途中で投げ出すつもりだ」とか「完結公約巻で終わらずにもっと続けるそうだ」とかいった類の噂は「作品に対する作者の愛情を疑う」ことであり、作者にとっては「はなはだ不本意なこと」であったはずです。にもかかわらず、創竜伝を本編10巻・外伝2巻で終わらせると公約していたはずの他ならぬ作者自身が「当分終わりそうにありませんので(笑)」などと笑いながら主張し、新たな完結の目処も公示することなくダラダラと連載を続行する。これが「読者を愚弄した完結公約破棄」以外の何であるというのでしょうか。
しかも田中芳樹曰く「この四兄弟を使うとどんな話でもできるんです」や「それなりの話が出来ちゃうんですよ」などといった大言壮語の実態たるや、「自分が予め張っておいた伏線を完全に無視する」だの「20世紀が舞台の作品世界を何の脈絡もなく突然21世紀に時空転移させる」だの「回想シーンと実際の該当シーンにおける作中描写の内容が全く合致しない」だの「過去の世界観やストーリーの流れをも無視して新たな作品設定をでっち上げる」だのといった、ストーリー&設定破綻のオンパレードで、とてもプロの作家が執筆したとは思えないようなシロモノにしかなっていないではありませんか。そんなレベルの作品で読者からカネを巻き上げること自体、自分の作家履歴と作品、そして何よりも田中芳樹ファンの全てに対する冒涜というものでしょう。
さらに田中芳樹は、同じインタビューの中でこんなことまで述べていましたよね↓
書物の森でつまずいて…… P163(「IN★POCKET」1997年8月号収録)
三百万部突破記念「創竜伝」インタビュー
<――:
三百万部おめでとうございます。今までで一番大変だったことは何でしたか?
田中:
この『創竜伝』は、物語については、最初に世界観を作ったときからできているので困るということはないんです。自分の頭の中にあるストーリーや場面をどうやって読者の方に伝えるか。それを文章にするのが苦しい。そして、これは他の作品でも同じですが、自分の書きたいことと読者の方の期待に乖離が生じないか。自分の書きたいことだけ書いてても独善的になるし、といって一部の読者に媚びてもいけないし……。>
こういうことを自分で述べておきながら、創竜伝や薬師寺シリーズにおける己の執筆姿勢が「自分の書きたいことだけ書いている独善状態」や「一部の読者に媚びている愚」に陥っており、結果として「自分の書きたいことと読者の方の期待に乖離が生じ」ていることに何で気づかないのですかね? 前にも述べた通り、アンタが自分のエンターテイメント作品中に好き勝手かつ大量に書き殴っている社会評論単体に一顧の価値も存在せず、読者の大半も非常にウザがっているであろうことは、「イギリス病のすすめ」や「書物の森でつまずいて……」などといった著書が壊滅的なまでに売れていないという事実ひとつ取っても一目瞭然でしょうに。
かつての自分が心底毛嫌いし、否定していたであろう「作品完結公約の破棄」を、それもこれ以上ないほど醜悪な形で放言することによって自らの作品と作家経歴を貶め、個人的なストレス解消を目的にした駄作品を乱発することで読者の期待をも裏切り続ける田中芳樹の「プロ作家としてあるまじき退嬰的醜行」は、人間に記憶があり、社会に記録があるかぎり、歴史にはっきりと残ることになるのです。「ペンは剣より強い」「忘れないこと、それにつきる」という、他ならぬ自分自身が作中キャラクターに発言させた言葉の重みを、その身をもって大いに味わって頂こうではありませんか、田中センセイ。
冒険風ライダーさんはじめまして。
考察シリーズは興味深く読ませて頂いてます。
さて、一つだけどうしても気になったので書かせて頂きます。
>アルツハイマー型の老人性痴呆症
という表現が各所にちりばめられていますが、調べてみるとこの病気は65才以上の「老人」がかかるものだと説明がありました。
そして、30代前半から発症するのは若年性アルツハイマー病というそうです。
冒険風ライダーさんが、アルツハイマー型の老人性痴呆症だと言って罵倒している人達はどう見ても65才以上には見えません。
いくら「ネタ」だとわかっていてもちょっと不快です。(もちろん考察FAQも読んで敢えてそう言う表現をしているというのもわかっています。)
病気の名前を罵倒のネタにするのは流石にやりすぎではないでしょうか?
<調べてみるとこの病気は65才以上の「老人」がかかるものだと説明がありました。
そして、30代前半から発症するのは若年性アルツハイマー病というそうです。
冒険風ライダーさんが、アルツハイマー型の老人性痴呆症だと言って罵倒している人達はどう見ても65才以上には見えません。>
もちろん、これは全て承知の上で意図的かつ確信犯的に「比喩的な罵倒文句」として使っているのでしてね。
今回用いた「アルツハイマー型【老人性】痴呆症」という表現には、次の3つの意味が込められています。
1.未だ完結の目処すら立っていない創竜伝という作品の「シリーズ開始から今までにかかっている時間の【驚異的な長さ】」と、昨今の時事問題が(作品論的には)意味もなく挿入されることに対する皮肉
2.その作品中で、破綻した言動を十年一昔のごとくいつまでも執拗に繰り返す作者の「著しく硬直した頑迷かつ公式論的な老人的発想法」に対する皮肉
3.その作者の命ずるままに支離滅裂なタワゴトを吐き散らした挙句、結果的にこれまでのストーリーの流れや作品設定を無視・忘却してしまう作中キャラクターの「重度の物忘れによる設定破綻」「作者自身が憑依しているとしか思えない言動」に対する皮肉
要するに、「アルツハイマー型【老人性】痴呆症」の「老人性」という言葉が真に適用されているのは、作中キャラクターの表層的な年齢ではなく、完結の目処もなしにダラダラと続いている創竜伝という作品と、作者&作中キャラクターの発想法&言動などに対してであるわけです。だから私は、作中キャラクターに対してだけでなく、「創竜伝13巻という【作品の特性】」に対してもまた「アルツハイマー型老人性痴呆症を発症している」といった主旨の指摘をしています。厳密に正しい意味で言葉を使っていない、と言われれば確かにその通りなのですけどね。
あと、こと竜堂兄弟一派に関しては、上記に加えて「3000年の時を経て転生した」だの「それ以前は天界にて玉皇大帝や仙界に【有力な重臣として】仕えていた」だのといった「数千年単位で長寿なキャラクター設定」に対する皮肉、という意味も濃厚に含まれていますね。何しろ連中には、創竜伝6巻における鳥羽茉理とランバート・クラークの会話で「(創竜伝世界では立派に実在しており、かつ自分達の存在理由にもなっているはずの)輪廻転生」を全否定していたという前科がありますし、それでいてその事実を全く反省も総括もしないばかりか、逆に「自分達の輪廻転生の事実を敵に向かって大々的に誇示する」といった描写まで存在するわけですから、それに対する皮肉として「お前らは数千年以上も生きている存在で、そのためにボケが進行しているのだ(笑)」というメッセージを暗に込めているわけです。
もちろん、それで不快感を抱くというのであればそれは個人の自由というものですが、すくなくとも私としてはそういった意味で使っている言葉である、というのはご理解頂きたいですね。
冒険風ライダーさん、詳しい説明ありがとうございました。
たしかにそう言う意味なら納得できます。
失礼しました。
はじめまして。当方、中学時代にアルスラーン戦記と銀河英雄伝説にはまり、それが元で創竜伝を買い続けてきました、七瀬と申します。
アルスラーンと銀英伝は傑作だと友人に断言し続けてきたこともあり、田中芳樹はかなり好きな作家だったはずなのですが、創竜伝の最近のありようには読むだに胸が痛くなっていました(苦笑)。
こちらの創竜伝考察も非常に興味深く、しきりにうなずくところが多かったです。
ただ、私から言わせていただければ、13巻・京都幕府政策の欠陥は、あの政策内容そのものではないと思います。
幕府――新政権を造り上げ、東京の政権に対抗しようと言うのなら、普通絶対にあるはずの政策がすっぽり抜けているんですね。
創竜伝世界の日本で目の前で起きているはずの大災害――
そう、富士山大噴火に関する対策が何一つ言及されていない点です。
インフラ復興、被災者支援、治安維持、それらを行う為に税金をどうするのか。
本当に新政権を作ろうというなら、支持を集めるためにもそれくらい考えて言及するだろ、とか思うのですが。
少なくとも、私が創竜伝世界にいて、東京の政府に対抗する組織をつくり、その基本政策を考えるなら、「災害復興についての諸政策概要」くらいは当たり前に組み込むと思います。「東京の政権は災害復興を怠っている、これでいいのか」くらいのことはいって、国民煽りますよ、ふつー。
目の前の現実的な問題をまったく考えてません、京都幕府。
仇敵(笑)の東京政権の方が治安出動やら何やら相談していて、はるかにまともに見えます。
幕府の政策を考えた連中は庶民の暮らし向上に関与しない「進歩的」な政策だけを考えて、目の前の被災者はどーでもいいと考える人でなし揃いだ――などというツッコミはあえてしますまい。
一番問題なのは、京都幕府の政策を考えるに当たり、田中芳樹氏が完全に物語世界ではなく現実世界を向いてアイデアを書き散らした、ということです。
京都幕府を物語世界の日本政権に対立する勢力として本気で構想したのなら、こんなばかげたことはありえないはずですから。何せ私でも考えられたくらいですからね。
創竜伝は完全に、フィクションの名を借りた無責任な自己主張に成り下がった。
本気でそう思います。
……「はじめまして」のくせに長文乱筆失礼しました。
ではでは。