はじめまして。
よくこのホームページをのぞかせてもらいますが、大変興味深い、というか、よくぞここまで、と感心して読ませていただいてます。特に(こう書かないと対象者が多すぎますので)冒険風ライダーさんの多方面に渡る造詣の深さには圧倒されるばかりです。
ですが、最初に断っておきますが、ぼくは現在進行形で田中芳樹氏のファンです。例え現在がどうあれ、人生の聖書に祭り上げている銀英伝を書き上げた作者に対して畏敬の念を持って「氏」をつけさせていただきます。
長い前振りでしたが、別にここで擁護論とか中傷をするつもりはありません。もともと呼びつけにしろという注意書きもなかったのですが、自分のスタンスの明確化というやつです。
ここでは「田中芳樹氏の戦記作品に登場する」スーパー軍師の存在への対抗札として提起してみたいと思います。
スーパー軍師とは、ナルサスやヴェンツェル、リュウ・ウェイといった放っておくと、想定しうる最悪の状況下さえ(読者から見れば)苦労らしい苦労もなく解決する人物たちのことです。はっきり言って、同じ分野(知力)で戦う限りいかなる人物であろうが彼らに抗するのは不可能であり、パワーバランスを粉砕するという意味においてはゴジラやリナ・インバースよりタチが悪いこと請け合いです。
彼らを倒すにはどうすればいいか。現時点で倒されている人物に注目してみると、ヒントがあるような気がします。
ヴェンツェルです。この際、戦術的な問題は横に置きましょう。彼と相打ちにまで持っていったのは、マヴァール戦記の主役(?)カルマ―ンです。スーパー軍師を倒すためには主役をぶつけるしかない!
以上です。
では、おもしろくありませんね。少し理由を。
このサイトでまだ存在が許されている作品には七都市物語、タイタニア、銀英伝などがあります。少なくともぼくが読んだ範囲では、ということですが。これらの作品には共通点があります。それは敵味方にわかれた主役と準主役の存在です。
氏の作品を読むとよく分かるのですが、氏が感情移入するキャラクター(おそらく主役級であろう)は強いんですよね。もちろん作品の構成として、そうでなくても強いキャラクターたちはいますが(印象としてはギーヴやロイエンタールなんかがそうかな?)、感情移入されているキャラクターたちの強さは神懸っています。そしてその最もたる者たちこそがスーパー軍師の面々です。
敗北しらずのヤンや竜堂始なんかも、そういった意味ではこの面々に加えていいでしょう。彼ら両名と氏のシンクロ率の高さは方々で語られていますので。
こうやって見ていくと、氏は自分が感情移入する面々には敗北を与えません。ヴェンツェルは泥沼の相打ち、ヤンはテロと、死にはしていますが、戦闘において一方的な敗死をしたキャラクターはひとりとしていません。語り口を変えれば、感情移入しないキャラクターたちには冷酷なまでの敗北を与えることがあるために、パワーバランスが崩れることにつながるのではないでしょうか。
それゆえ感情移入キャラクターが敵味方にわかれる作品では、どちらに転ぶかわからない(と思わせる)緊張した展開を成功させているように思えます。この意味において、アルスラーンの一方的な勝利の連続も説明がつくのではないかと。
今後の氏の作品が、感情移入キャラクター同士の激突がパターンとなっても、銀英伝クラスの緻密さで以って行えば、批評のパターン化に比べて、あきることなく読めるのでは。というか、激突までの作品展開量と氏の執筆速度を考慮すれば、死ぬまでいけるでしょう。それ以前に既刊シリーズの全部を完結させることが今世紀中に可能なのか、という説の方が有力でしょうが。
もっともこの程度の認識は一般に流布しているようにも思えますが。ここでは蛇足にしかならないかな。
では、ここからオリジナル(のつもり)です。
スーパー軍師への対抗。これには前述したような感情移入キャラクター同士の激突しかないと書きました。ところで氏の強い感情移入キャラクターには軍師タイプのほかにもうひとつありますよね。さすがに現代ものではそうそう軍師を出すわけにはいかないようです。もうひとつのパターンとは、大した特技がなく、不特定多数の異性にはもてないのだが、なぜか可愛い異性の相棒ができる(いる)という、タイプの男性。コーヘイ兄ちゃん、シュウさん、お父さん、大きいお兄ちゃん(すみません、彼らの漢字がわからなかったので。呼称でわかりますか?)がそうです。
なんといっても彼らは一般人よりも責任感が強いくらいしか特技がないのに、一般人なら十回は死にそうなところを五体満足のまま切り抜けていきます。頑丈さがない分だけ、竜堂兄弟などよりもサバイバヴィリティにおいては良い点を与えてももよいでしょう。彼らにはスーパー軍師が与えられた知力の代わりに、あらゆる災難も切り抜ける生存率100%の運があります。これはなかなかの数字といってもいいでしょう。伝記ホラーのバッドエンド確率(なんじゃそりゃ?)と氏の作品数を考えれば、不幸な主役が二、三人いてもおかしくないですよ。ですが、彼らは死にません。スーパー一般人と呼称してもいいくらいです。
ならば、無敗北率100%を誇るスーパー軍師には、生存率100%のスーパー一般人たちをぶつければ、勝てないまでも氏の作品に新たな方向性が生まれてくるに違いない!(断言)
まぁ、これも結局はパターンのひとつに過ぎないんですけどね。
最初はまじめに始まったはずなんですが、どんどんどうでもいい方向になっていったなぁ。最初に「田中芳樹氏の戦記作品に登場する」と限定している時点で、作風へのツッコミにならざるをえなかったと。
はじめましてのくせに、長々と書きました。では
> ここでは「田中芳樹氏の戦記作品に登場する」スーパー軍師の存在への対抗札として提起してみたいと思います。
> スーパー軍師とは、ナルサスやヴェンツェル、リュウ・ウェイといった放っておくと、想定しうる最悪の状況下さえ(読者から見れば)苦労らしい苦労もなく解決する人物たちのことです。はっきり言って、同じ分野(知力)で戦う限りいかなる人物であろうが彼らに抗するのは不可能であり、パワーバランスを粉砕するという意味においてはゴジラやリナ・インバースよりタチが悪いこと請け合いです。
> 彼らを倒すにはどうすればいいか。現時点で倒されている人物に注目してみると、ヒントがあるような気がします。
> ヴェンツェルです。この際、戦術的な問題は横に置きましょう。彼と相打ちにまで持っていったのは、マヴァール戦記の主役(?)カルマ―ンです。スーパー軍師を倒すためには主役をぶつけるしかない!
> 以上です。
>
> では、おもしろくありませんね。少し理由を。
> このサイトでまだ存在が許されている作品には七都市物語、タイタニア、銀英伝などがあります。少なくともぼくが読んだ範囲では、ということですが。これらの作品には共通点があります。それは敵味方にわかれた主役と準主役の存在です。
> 氏の作品を読むとよく分かるのですが、氏が感情移入するキャラクター(おそらく主役級であろう)は強いんですよね。もちろん作品の構成として、そうでなくても強いキャラクターたちはいますが(印象としてはギーヴやロイエンタールなんかがそうかな?)、感情移入されているキャラクターたちの強さは神懸っています。そしてその最もたる者たちこそがスーパー軍師の面々です。
> 敗北しらずのヤンや竜堂始なんかも、そういった意味ではこの面々に加えていいでしょう。彼ら両名と氏のシンクロ率の高さは方々で語られていますので。
> こうやって見ていくと、氏は自分が感情移入する面々には敗北を与えません。ヴェンツェルは泥沼の相打ち、ヤンはテロと、死にはしていますが、戦闘において一方的な敗死をしたキャラクターはひとりとしていません。語り口を変えれば、感情移入しないキャラクターたちには冷酷なまでの敗北を与えることがあるために、パワーバランスが崩れることにつながるのではないでしょうか。
> それゆえ感情移入キャラクターが敵味方にわかれる作品では、どちらに転ぶかわからない(と思わせる)緊張した展開を成功させているように思えます。この意味において、アルスラーンの一方的な勝利の連続も説明がつくのではないかと。
> 今後の氏の作品が、感情移入キャラクター同士の激突がパターンとなっても、銀英伝クラスの緻密さで以って行えば、批評のパターン化に比べて、あきることなく読めるのでは。というか、激突までの作品展開量と氏の執筆速度を考慮すれば、死ぬまでいけるでしょう。それ以前に既刊シリーズの全部を完結させることが今世紀中に可能なのか、という説の方が有力でしょうが。
> もっともこの程度の認識は一般に流布しているようにも思えますが。ここでは蛇足にしかならないかな。
>
> では、ここからオリジナル(のつもり)です。
> スーパー軍師への対抗。これには前述したような感情移入キャラクター同士の激突しかないと書きました。ところで氏の強い感情移入キャラクターには軍師タイプのほかにもうひとつありますよね。さすがに現代ものではそうそう軍師を出すわけにはいかないようです。もうひとつのパターンとは、大した特技がなく、不特定多数の異性にはもてないのだが、なぜか可愛い異性の相棒ができる(いる)という、タイプの男性。コーヘイ兄ちゃん、シュウさん、お父さん、大きいお兄ちゃん(すみません、彼らの漢字がわからなかったので。呼称でわかりますか?)がそうです。
> なんといっても彼らは一般人よりも責任感が強いくらいしか特技がないのに、一般人なら十回は死にそうなところを五体満足のまま切り抜けていきます。頑丈さがない分だけ、竜堂兄弟などよりもサバイバヴィリティにおいては良い点を与えてももよいでしょう。彼らにはスーパー軍師が与えられた知力の代わりに、あらゆる災難も切り抜ける生存率100%の運があります。これはなかなかの数字といってもいいでしょう。伝記ホラーのバッドエンド確率(なんじゃそりゃ?)と氏の作品数を考えれば、不幸な主役が二、三人いてもおかしくないですよ。ですが、彼らは死にません。スーパー一般人と呼称してもいいくらいです。
> ならば、無敗北率100%を誇るスーパー軍師には、生存率100%のスーパー一般人たちをぶつければ、勝てないまでも氏の作品に新たな方向性が生まれてくるに違いない!(断言)
makiyaさんはじめまして。
同じ新参者の身の上で恐縮ですが、いい着眼点とは思いますが田中氏には不可
能に近いと思われます。
以下に理由を二つほど
1)スーパー軍師には不幸な王様追尾装置がついている
ヤンが真に嫌悪し恐怖していたのはラインハルトではなくトリューニヒト
でした。
ナルサスの理想の最後の障壁はヒルメスではなくアンドラゴラスの筈でした。
リュウ・ウェイのアクイロニアにおける安息を奪ったのは結果的にはモー
ブリッジJr.ではなくリュウの友人である現元首でした。
にもかかわらず彼らは物語の中の偶然必然の要求で後者に味方し前者を害
している訳です。
アルスラーン戦記読本のヒルメスに対する田中氏のコメントを見る限り、
おそらく田中氏は存在論的に貴種と称される人種が大嫌いなのでしょう。
よってスーパー軍師は全ての存在に優先し時には物語の整合性の垣根さえ
飛び越えて不幸な王様を著者に代わって虐待しなくてはならない訳です。
2)スーパー軍師は常にスーパー一般人の味方である。
makiyaさんも言われる通り田中氏は耕平兄ちゃん、シュウさんといった一
般人を愛していると思われます。
だからこそ1)の逆の理屈で作者の神の手の代行者たるスーパー軍師は常
にスーパー一般人を庇護する様に仕組まれている事がほとんどです。
『マヴァール年代記』のリドワーンなどその好例でしょうし、ヤンやリュ
ウ・ウェイなどは2つのカテゴリーにまたがる究極一般人とさえ言えましょ
う。
もとより田中氏は勧善懲悪ならぬ“自分の理想が自分の嫌悪の対象を駆逐す
る”勧好懲悪の傾向がありますし(銀英伝でさえ物語の悪は全て地球教徒の
仕業で幕が降りましたし)ここ近年はそれが著しいので“活劇の整合性やダ
イナミズムを損なわないためのバランス感覚”を要求するのはやはり困難か
と思われます。
しかしこう考えると『七都市物語』のバランスの美しさって作者の偏愛対象
が後方に下がったまま中断してくれたおかげなんですね。
田中先生、飽きてくれて有難うございました。
makiyaさんも有難うございました。
改めて田中氏を嫌いになった理由が、マヴァール3巻終わり近辺のリドワーンがヘナチン野郎であるが故にカルマーンの苦悩もヴェンツェルのやる気も踏み倒して物語のおいしい所を全部もっていった所から始まった事を思い出させて
いただけました。
それでは、長文レス失礼いたしました。
> makiyaさんはじめまして。
> 同じ新参者の身の上で恐縮ですが、いい着眼点とは思いますが田中氏には不可
> 能に近いと思われます。
> 以下に理由を二つほど
> 1)スーパー軍師には不幸な王様追尾装置がついている
> ヤンが真に嫌悪し恐怖していたのはラインハルトではなくトリューニヒト
> でした。
> ナルサスの理想の最後の障壁はヒルメスではなくアンドラゴラスの筈でし た。
> リュウ・ウェイのアクイロニアにおける安息を奪ったのは結果的にはモー
> ブリッジJr.ではなくリュウの友人である現元首でした。
> にもかかわらず彼らは物語の中の偶然必然の要求で後者に味方し前者を害
> している訳です。
> アルスラーン戦記読本のヒルメスに対する田中氏のコメントを見る限り、
> おそらく田中氏は存在論的に貴種と称される人種が大嫌いなのでしょう。
> よってスーパー軍師は全ての存在に優先し時には物語の整合性の垣根さえ
> 飛び越えて不幸な王様を著者に代わって虐待しなくてはならない訳です。
>
> 2)スーパー軍師は常にスーパー一般人の味方である。
> makiyaさんも言われる通り田中氏は耕平兄ちゃん、シュウさんといった一
> 般人を愛していると思われます。
> だからこそ1)の逆の理屈で作者の神の手の代行者たるスーパー軍師は常
> にスーパー一般人を庇護する様に仕組まれている事がほとんどです。
> 『マヴァール年代記』のリドワーンなどその好例でしょうし、ヤンやリュ
> ウ・ウェイなどは2つのカテゴリーにまたがる究極一般人とさえ言えましょ
> う。
>
> もとより田中氏は勧善懲悪ならぬ“自分の理想が自分の嫌悪の対象を駆逐す
> る”勧好懲悪の傾向がありますし(銀英伝でさえ物語の悪は全て地球教徒の
> 仕業で幕が降りましたし)ここ近年はそれが著しいので“活劇の整合性やダ
> イナミズムを損なわないためのバランス感覚”を要求するのはやはり困難か
> と思われます。
> しかしこう考えると『七都市物語』のバランスの美しさって作者の偏愛対象
> が後方に下がったまま中断してくれたおかげなんですね。
> 田中先生、飽きてくれて有難うございました。
> makiyaさんも有難うございました。
> 改めて田中氏を嫌いになった理由が、マヴァール3巻終わり近辺のリドワーンがヘナチン野郎であるが故にカルマーンの苦悩もヴェンツェルのやる気も踏み倒して物語のおいしい所を全部もっていった所から始まった事を思い出させて
> いただけました。
> それでは、長文レス失礼いたしました。
レスありがとうございます。
S.K さんのおっしゃる「スーパー軍師は常にスーパー一般人の味方である」という点には自分も気づいておりました。ですが、最初に述べたとおり、ぼくは田中芳樹氏のファンです。ファンといっても相当に性根が悪い方に分類されるでしょうが。ファンでも、氏の現在手がけている作品たちの勧善懲悪もどきの一方的な勝利には物足りない、というのも本音です。
ここからの記述は支離滅裂となってしまうかもしれませんが。
ラインハルトとヤン、(七都市物語りも?)を見ればわかるように、非常に優れた才覚同士は作品の構成上、必然的にぶつかりあいます。必然的に、というのは、不自然な展開なくスムーズに、と言い換えられるかもしれません。それは至極最もな理由です。
そしてもうひとつ、氏の作品のキャラクターたちには苦悩しないという特性があります。例外としては、このサイトで述べられているように、ヴェスターラント事件後のキルヒアイス、銀英伝におけるラインハルト打倒に悩むヤン、くらいでしょうか。それら以外のキャラクターたちは飄々と苦難を乗り越えていきます。これは前回挙げたスーパー軍師のように自分を取り巻く環境自体を変革するキャラクターたち以外でも、スーパー一般人たちですらも開き直りですが悩みません。これは氏が説く、信念の弊害と真っ向から反しながらも、一見してかっこよく魅力的に映ります(主観)。
ここで問題なのが、悩むのは悩んだところで完璧な解決が可能なスーパー軍師ばかりだということです。彼らの前では実に都合よく事態が変わっていきます。一般人の、絶望的な状況に対する足掻きなんてありません。それこそが氏の作風の限界とも言われています。
だが、だからこそ、氏の作品内における神とも言うべきスーパー軍師に対して、スーパー一般人があがいていく姿を読んでみたい! ここでスーパー一般人を推すのは、前回書いたように氏の感情移入キャラクターではないと無残な結果しか待っていないことがわかりきっているからです。スーパー軍師をいきなり嫌いな思想に負けさせろとも、無理なことは言いません。これを書き上げことができれば、氏の作家としての格は間違いなく1つあがることでしょう。
なんだかツッコミが聞こえてきそうですねぇ。「それができるのなら、そもそも田中芳樹はこうならなかったぞ」と。
ですが、まぁ、「スーパー軍師には不幸な王様追尾装置がついている」の指摘は完全に想定外でした。言われてみれば、その通りですね。これだけでもここにカキコした意義はあったと思います。
スーパー軍師対スーパー一般人の対決では、上位の軍師に対する下位の一般人からの反抗としか書きようがないでしょう。そしてそれに、権力の掌握を嫌う氏では、自分の分身に権力の掌握はさせないでしょう。したとしても、文句のない、完璧な権力者としてスーパー軍師を書くでしょうから、一般人に理に適った動機を与えることが難しい。一応書いておきますが、感情移入度から考えれば、名君ラインハルトはスーパー軍師ではないありません。
> スーパー軍師とは、ナルサスやヴェンツェル、リュウ・ウェイといった放っておくと、想定しうる最悪の状況下さえ(読者から見れば)苦労らしい苦労もなく解決する人物たちのことです。
>
これに氏の感情移入度も加えておくべきでした。キャラクター例でわかっていただけるとは思いますが。
無責任な主張なのは承知の上で、この不利な状況を乗り越えた対決を読んでみたいです。自分の思想が真っ二つに分かれて苦悶する氏がみたいんだろう、というツッコミは不可です(笑)。では
> レスありがとうございます。
> S.K さんのおっしゃる「スーパー軍師は常にスーパー一般人の味方である」という点には自分も気づいておりました。ですが、最初に述べたとおり、ぼくは田中芳樹氏のファンです。ファンといっても相当に性根が悪い方に分類されるでしょうが。ファンでも、氏の現在手がけている作品たちの勧善懲悪もどきの一方的な勝利には物足りない、というのも本音です。
> ここからの記述は支離滅裂となってしまうかもしれませんが。
> ラインハルトとヤン、(七都市物語りも?)を見ればわかるように、非常に優れた才覚同士は作品の構成上、必然的にぶつかりあいます。必然的に、というのは、不自然な展開なくスムーズに、と言い換えられるかもしれません。それは至極最もな理由です。
> そしてもうひとつ、氏の作品のキャラクターたちには苦悩しないという特性があります。例外としては、このサイトで述べられているように、ヴェスターラント事件後のキルヒアイス、銀英伝におけるラインハルト打倒に悩むヤン、くらいでしょうか。それら以外のキャラクターたちは飄々と苦難を乗り越えていきます。これは前回挙げたスーパー軍師のように自分を取り巻く環境自体を変革するキャラクターたち以外でも、スーパー一般人たちですらも開き直りですが悩みません。これは氏が説く、信念の弊害と真っ向から反しながらも、一見してかっこよく魅力的に映ります(主観)。
> ここで問題なのが、悩むのは悩んだところで完璧な解決が可能なスーパー軍師ばかりだということです。彼らの前では実に都合よく事態が変わっていきます。一般人の、絶望的な状況に対する足掻きなんてありません。それこそが氏の作風の限界とも言われています。
> だが、だからこそ、氏の作品内における神とも言うべきスーパー軍師に対して、スーパー一般人があがいていく姿を読んでみたい! ここでスーパー一般人を推すのは、前回書いたように氏の感情移入キャラクターではないと無残な結果しか待っていないことがわかりきっているからです。スーパー軍師をいきなり嫌いな思想に負けさせろとも、無理なことは言いません。これを書き上げことができれば、氏の作家としての格は間違いなく1つあがることでしょう。
>
> なんだかツッコミが聞こえてきそうですねぇ。「それができるのなら、そもそも田中芳樹はこうならなかったぞ」と。
>
> ですが、まぁ、「スーパー軍師には不幸な王様追尾装置がついている」の指摘は完全に想定外でした。言われてみれば、その通りですね。これだけでもここにカキコした意義はあったと思います。
>
> スーパー軍師対スーパー一般人の対決では、上位の軍師に対する下位の一般人からの反抗としか書きようがないでしょう。そしてそれに、権力の掌握を嫌う氏では、自分の分身に権力の掌握はさせないでしょう。したとしても、文句のない、完璧な権力者としてスーパー軍師を書くでしょうから、一般人に理に適った動機を与えることが難しい。一応書いておきますが、感情移入度から考えれば、名君ラインハルトはスーパー軍師ではないありません。
>
> > スーパー軍師とは、ナルサスやヴェンツェル、リュウ・ウェイといった放っておくと、想定しうる最悪の状況下さえ(読者から見れば)苦労らしい苦労もなく解決する人物たちのことです。
> >
>
> これに氏の感情移入度も加えておくべきでした。キャラクター例でわかっていただけるとは思いますが。
>
> 無責任な主張なのは承知の上で、この不利な状況を乗り越えた対決を読んでみたいです。自分の思想が真っ二つに分かれて苦悶する氏がみたいんだろう、というツッコミは不可です(笑)。では
私が勝手に作った「エーリッヒ・フォン・タンネンベルク伯爵」は、到底田中芳樹には好かれそうにないですね。「存在論的に貴種と称される人種」もいいところですから。しかも「スーパー軍師」ですから、田中芳樹には「実に嫌な奴」と思われそうな気がします。でも、プロイセン貴族出身の名将、ってのは結構いたんですけどね、実際は。マンシュタイン(「エーリッヒ」はここからもらってますが)だってそうですし。むしろ、ラインハルトの天才ぶりは、どういう設定でああなっているのか、今ひとつ解りにくいと思いましたね。キルヒアイスの名将ぶりも。貧乏な下級貴族やら平民やらが、軍幼年学校に入って以降、あっという間に戦場で功績を立ててのし上がっていく、というのは(若すぎますし)。ヤンは「歴史に興味を持っていたから、戦史の知識が豊富」ということで説明できると思いますけど。
>ナルサスの理想の最後の障壁はヒルメスではなくアンドラゴラスの筈でした。
アルスラーンはわりと好きですけど、あそこまで安直だった第一部のラストは、ちょっとないんじゃないの、とは思ったです。「アンドラゴラス Vs アルスラーン」は一瞬で終わってしまいましたしね。
makiyaさん、恐縮です。
前回のレスで表現の足りない部分がありましたので補足いたします。
『スーパー軍師はスーパー一般人の味方』といたしましたがこう訂正します。
『スーパー軍師はスーパー一般人の生贄』であると。
ご存知の通り田中氏のスーパー軍師は大なり小なり『理想家』です。
ゆえにスーパー軍師は、『理想』のキャンバスである世界の代弁者、スーパー
一般人が苦悩の果てに「死ね」と求めてきた場合死ぬ義務があります。
そうでない少数の例外は武運つたなく『理想』の障害者と刺し違えて果てるか
単なる暴君のなり損ねとして神である田中氏の手により無様な破滅を賜る事になります。
多数派の好例は銀英伝のヤン、オーベルシュタインであり少数派の好例はマヴァールのヴェンツェルでしょう。
七都市のリュウ・ウェイも“アクイロニアの混乱が市民に害を及ぼすのを嫌っ
て自発的に追放された”という事でやや幸運な多数派と言えると思います。
では何者なら田中氏の作品に正しい対立、正しい苦悩を与えられるのか、一つ
の可能性を提示したいと思います。
それは、『復讐鬼』です。
自業自得や八つ当たり以外の要素により人生で最も大切な何かを不当に奪われ
もう復讐以外の何者も持たなくなった存在だけがスーパー一般人をも『見殺
し』の罪状で裁く事が許されるのです。
よく田中氏は作品中で“衆愚”としての一般市民を描きますが、作者の嫌悪を
かわずにこの一般市民に不利益を働けた人物は私の知るかぎりただ一人、ブエノスゾンデの存亡など知った事かとばかりに妻の仇である独裁者ラウドルップ
を射殺しブエノスゾンデを捨てたギュンター・ノルトだけでした。
『自由・自律・自尊』をおそらく自己の正義の最終防衛線にしているであろう
田中氏は、それを不当に害された存在の報復を否定できないのです。
ゆえに、復讐鬼と、その行動により間接的に重大な損失を被るかもしれない
スーパー一般人との衝突と葛藤というのは、ある程度makiyaさんの要求を満た
しつつ辛うじて田中氏にも表現できる可能性がある対決ではないでしょうか。
ここからは余談で恐縮ですが創竜伝でも、牛種陣営に竜堂兄弟の竜化の巻き添えをくらって家族や大事な存在を喪った、例えば『トライガン・マキシマム』
のホッパード・ザ・ガントレットのような刺客が激怒の余り血涙を流して襲っ
てくれば、負けないまでも少しは自分たちの無思慮を反省してくれないもので
しょうか。
そこに至ってさえ刺客を一捻りにした挙句「彼も牛種の犠牲者なんだ」だの
「八つ当たりもはなはだしい、自業自得ですね」などとほざいた日には是非
もない、人類最強の男空条承太郎に「ちがうね、彼はてめーらの被害者だ。
本物の自業自得ってやつを受け取りやがれッ!!」とスタープラチナのオラ
オラ5億発で天界の果てまですっ飛ばしてやって欲しいものです。
……ある意味田中芳樹からはずれた話で申し訳ありません。
タイトルから『反銀英伝』ではないですか、やはりそれにふさわしい田中氏に
なしえない主人公としてタンネンベルグ候には聳え立っていただきたいと思い
ます。
不沈戦艦さん、レス有難うございます。
と言ってmakiyaさん宛ならでしゃばり申し訳ありませんが。
『大逆転!リップシュタット戦役』いつも面白く読ませていただいて
おります。
タンネンベルグ陣営の将帥も続々登場し、ラインハルト陣営との会戦も本格化
しそうで楽しみですが、個人的にはもっと楽しみなのがそれを乗り越えた後の
タンネンベルグ候が作中でも言及した“ノーブレス・オブリージ”、これに基
づく社会の再構築のプランニングです。
正史でのラインハルトの統治はそれなりに評価できるものでした。
勝者は最終的に統治の義務を担う訳ですからやはりこの最終段階で候につまづ
いては欲しくありません。
最低限、“貴族のバカボン”が形容矛盾になる世を築いていただきたいものです(貴族なら無条件で有能にして大体において高潔、もしくはバカボンな段階
で爵位剥奪)。
それでは今後も楽しみに読ませていただきますのでどうかご自愛の上執筆におはげみ下さいますよう。
追記:酉も面白く読ませていただいてますので本当にお体を大事に。
誤解を招く表現がありましたので少々の手直しと注釈を。
一般人に死ねと言われて死んだ典型がヤン→これは5巻までの“民意に選ばれ
た政府”のデタラメな決定に従って死地に赴いていた点を指すもので、6巻及
び8巻の個人ないしは特定集団による謀殺未遂や暗殺テロはヤン自身には事後
選択の余地さえなかった行為として除外しております。
田中芳樹氏は存在論的に貴種と称される人種が大嫌い→二十歳前のお姫様や気
品ある老婦人などには例外的に愛や敬意を注いだ事例もありました。その代り
“由緒正しい血統の若くて有能な美男”は十割方生き地獄の果てに本物の地獄
に叩き落とされてますが。
失礼いたしました。
> では何者なら田中氏の作品に正しい対立、正しい苦悩を与えられるのか、一つ
> の可能性を提示したいと思います。
> それは、『復讐鬼』です。
> 自業自得や八つ当たり以外の要素により人生で最も大切な何かを不当に奪われ
> もう復讐以外の何者も持たなくなった存在だけがスーパー一般人をも『見殺
> し』の罪状で裁く事が許されるのです。
> よく田中氏は作品中で“衆愚”としての一般市民を描きますが、作者の嫌悪を
> かわずにこの一般市民に不利益を働けた人物は私の知るかぎりただ一人、ブエノスゾンデの存亡など知った事かとばかりに妻の仇である独裁者ラウドルップ
> を射殺しブエノスゾンデを捨てたギュンター・ノルトだけでした。
> 『自由・自律・自尊』をおそらく自己の正義の最終防衛線にしているであろう
> 田中氏は、それを不当に害された存在の報復を否定できないのです。
> ゆえに、復讐鬼と、その行動により間接的に重大な損失を被るかもしれない
> スーパー一般人との衝突と葛藤というのは、ある程度makiyaさんの要求を満た
> しつつ辛うじて田中氏にも表現できる可能性がある対決ではないでしょうか。
ありがとうございます。
S.Kさんの指摘は実に的を得ていると思えます。
RESを読んだ後の自分の思考順路を書いてみます。間違っていると思われたら、ご指摘をいただけるとうれしいです。
> 『自由・自律・自尊』をおそらく自己の正義の最終防衛線にしているであろう
> 田中氏は、それを不当に害された存在の報復を否定できないのです。
竜堂兄弟の恨みは十倍、ヤンの1発殴られたら1・1発の仕返し、に代表される思想の応用ともいえるかもしれませんね。ですが、あえて言うなら、スーパー一般人は「見殺し」をしないのではないかと。すごい屁理屈に聞こえるかもしれませんが。
氏の作品でまともな対立になるには、氏が不足なく感情移入できるキャラクターが二分化することです。氏の思想では「スーパー一般人をも『見殺し』の罪状で裁く事ができる」者には感情移入自体ができないのではないかと思うんです。それは結局、スーパー一般人の一人勝ちになってしまいそうな気がします。氏は思想も発言も物騒ですが、行動まで過激かというと、どうでしょうか。ただし、この復讐者の構成で書くのなら、銀英伝6巻冒頭で述べられた、シリウス指導者対地球のスーパー一般人なら結果が決まっていることをのぞけば、相当に面白くなりそうな気がしますね。あれを読んだ分では地球側の人材は、有能でも馬鹿ぞろいばかりのようですから。この地球のスーパー一般人がルシタニアの騎士見習のようになっては興ざめですが。(笑)
ところで例にあがったギュンター・ノルトについて考えている最中に浮かびました。
七都市すべてが一応民主主義制度をとっていたので、都市が滅びたところで民主主義制度そのものの存続の危機というわけではなかったとはいえ(だからこそ、か?)、市民を見捨てていくという行動は、矛盾を抱えたままで、それでもラインハルトと戦うために同盟を背負ったヤンとは明らかに違います。氏の好きな、独裁による政権掌握拒否という点では実に自然な行動です。もし七都市の中に専制都市があって、そこが攻めてきたらどうしたのかな、彼。独裁か、専制への屈服か。また違った対応が見れたでしょう。もしその状況下でさえも見捨てるという選択肢が取れるほど覚悟が徹底していれば、彼は氏の作品を根底から変えるきっかけとなったかもしれませんね。
今回は比較の対象として用いましたが、氏の作品は民主主義信奉から離れられませんね、やっぱり。そういえば氏の描く銀英伝では、民主主義とは信奉すべき制度であっても、それを構成する市民はどのような者たちでもいいような印象を受けますね。そりゃ同盟市民全員が熱心な民主主義者ということはないでしょうが、戦略上の難関という理由だけでハイネセンに残った者たちを無視していいものではないのでは。(ちと現実無視した理想論過ぎるか?)イゼルローン共和国などという制度存続のためだけの小集団は、例えジョークにしてもタチがわるいでしょう。民主主義制度と国家を入れ替えると、3巻の査問委員会でヤンの毒舌が自分にはね返ってくるかも。
> ここからは余談で恐縮ですが創竜伝でも、牛種陣営に竜堂兄弟の竜化の巻き添えをくらって家族や大事な存在を喪った、例えば『トライガン・マキシマム』
> のホッパード・ザ・ガントレットのような刺客が激怒の余り血涙を流して襲っ
> てくれば、負けないまでも少しは自分たちの無思慮を反省してくれないもので
> しょうか。
> そこに至ってさえ刺客を一捻りにした挙句「彼も牛種の犠牲者なんだ」だの
> 「八つ当たりもはなはだしい、自業自得ですね」などとほざいた日には是非
> もない、人類最強の男空条承太郎に「ちがうね、彼はてめーらの被害者だ。
> 本物の自業自得ってやつを受け取りやがれッ!!」とスタープラチナのオラ
> オラ5億発で天界の果てまですっ飛ばしてやって欲しいものです。
いえいえ、ついていけますよ。(笑)
ジャンプ漫画の男◯とJ◯J◯(伏字になってない)はまだ通じるんですね。
「八つ当たりもはなはだしい、自業自得ですね」はおそらく言うことはないのでは。というのも、彼なら自分に向かってくる時点で、相手の人権は消滅しますから、そんな口上を述べる間もなく、被害者は殴られて口がきけなくなるでしょう。
>「エーリッヒ・フォン・タンネンベルク伯爵」は、到底田中芳樹には好かれそうにないですね。
確かに。それに、氏の作品では思想の同調率と能力は基本的に正比例ですし、反する思想の持ち主の場合、能力に限界が設けられているようですから。もしエーリッヒ・フォン・タンネンベルク伯爵が現在の能力のまま本伝に登場したとしても、能力を発揮する前にブラウンシュバイク公あたりの低俗な策謀に足を絡めとられることでしょう。氏の言葉に従うなら陰謀には知能の高さよりも品性が関係するらしいですから、不可能ではないかも。そして故事に倣って、敗戦直前に公爵が「エーリッヒ・フォン・タンネンベルク伯爵はどこにいる!?」と叫べば完璧。このように貴族の低劣さが証明されるのです(笑)。
このままでは中傷だな。メルカッツの苦労を見た身としては、無能な貴族なら逆転可能な切り札を持ったとしても、この程度のことはやるのではと思ったので。根拠はありませんが。(やはり中傷かな?)
ぼくも不沈戦艦さんの作品は読ませていただいています。このサイトの常連さんたちの知識の深さはすごいの一言ですね。これからも完結までがんばってください。
makiyaさん、いたみいります。
さて、それでは少しばかり拙論の補強をさせていただきます。
『スーパー一般人は見殺しをしない』は、スーパー一般人が「来夢守護神モード」の耕平か竜堂兄弟でない限りクリア可能な問題点です。
私曰くの復讐鬼は、ブラジルで起った惨劇に対して日本人に『見殺し』の罪状を突き付けるクラスの代物ですから。
先のギュンター・ノルトの行いと作者の扱いは前述の通りですが、彼に対して
AAA(だったかな?クルガンかギルフォードだったかも知れない)に石を投げたブエノスゾンデの少年が何をしたというのでしょう。
しかし少年はこれからおそらくそう短くはない期間被征服民の屈辱を味わう訳
です。
救国の英雄が独裁者ごと少年の故国を断罪したがために。
また、思い入れが全く無いのもまずいでしょうが、極端に肩入れしない個性で話を組み立てた方がかえって田中氏は冷静に創作できるのではないでしょうか(今となっては、というやつですが)。
七都市物語ばかり引き合いに出すのも恐縮ですが、アルマリック・アスヴァールVSケネス・ギルフォードやギュンター・ノルトVS六都市連合など、特に一方
に肩入れすること無く良質の佳品に仕上がっていると思います。
また、スーパー一般人対復讐鬼ならば思いきって筋の通った悲劇を目指すのも
方法でしょう。
ラグラングループの話が出たのでこんな例えを一つ。
シリウス軍のフランクール司令は、地球シリウスを問わず救命活動に励むボランティアグループの婦人と想いを通わせる様になった。
だが地球で活動する彼女が戦災孤児や病人を連れて逃げ込んだ先は地球政府の本拠、ヒマラヤだった。
それでも躊躇することなくヒマラヤに注水、三十万人を殺害したフランクール
は哄笑し、号泣していた。
こんなのも一つのスーパー一般人対復讐鬼になりうると思うのですが。
この場合敗者はもちろん生き残ったフランクール(復讐鬼)です。
まあ、拙案の出来不出来は今回のところは見逃してください。
それでは。
わざわざ補足するようなことでもないですが、スーパー軍師と不幸な王様追尾装置
のような関係は、岳飛と秦檜(ついでに陳慶之と梁(南朝))の関係から流用して
いると思われます。
せっかく敵を追いつめても本国の理不尽な命令によって無に期してしまうって事が
よほど無念なのでしょう。(戦争は政治の延長とうたっている割に)
で、作品で書いて「みんなもそう思うよな? な?」って言いたいのでは。
田中氏の忌避する『三国志』の曹操と孔明の関係に近いものがあると思っております。
意識的と断言はしませんが、田中氏は「崇高な理念と稀有な才能を持ち合わせ
かつ由緒正しい家柄の出自である文字通りの貴人」が「より良く世の中を運営していく」事が嫌でたまらなく、さりとて馬鹿が束になっても太刀打ち出来な
い事を理性では承知しているので「世界はどのような不利益があろうとも民草
の総意により運営されるべきであり、決して『血筋が由緒正しい』『少しばか
り才能に恵まれている』くらいの事で一個人の恣意に委ねてはいけない」との
主張を持つ超絶的な知略(もしくは理不尽な幸運)の持ち主をあえて作中でけ
しかけているのではないでしょうか。
少々話がそれるので恐縮ですが、いささか僭越な主張をいたしますと「命賭け
て遵守すべき何か(個人、主義、制度、常識、道徳など)を探す権利を保障す
る限りにおいて『バカは考えるな』という言いぐさは正しい」と思っておりま
す。
人間だれしも向き不向きがあるというのは定説ですが、思考という行為これ一
点のみ例外の聖域であると言うのはおかしな事ではないでしょうか。
勿論『考えるのに不向きな人間』は卑しいと主張するものではありません。
幕末創作劇における新撰組や白虎隊、『水滸伝』の黒旋風の李鉄牛や『三国
志』の張飛などは人間としての尊さと利口か馬鹿かはさほど関係ない証明の
類例だと思います。
でも田中氏の作品は(田中氏に非ず)英雄の才知も愚直の誠実もあざ笑って
「みんなで決めてなるようになるのが一番良い。その過程で起る悪い事は、
“俺だけ皆と違う”と勝手に思いあがったりいじけたりしたはね上がり者の
せいだ」みたいな傾向を感じます。
『優しい全体主義者』という形容は流石に不穏当で不適当でしょうか。