司馬遼太郎批判が一部で盛り上がっているのは、自由主義史観派(ひょっとして死語?)が持ち上げたので、左翼的立場の人間が叩きにかかったからではないでしょうか。
隆慶一郎は、反権力の人なのですかねえ。どのみちマッチョな作家だと思うのですが。
むしろ、反=司馬遼太郎と言えば、山田風太郎の明治物が思い浮かぶのですが。『警視庁草紙』や『幻灯辻馬車』の暗い明治観とか。
やぶにらみさんが名前を出されてますが、田中氏はどうも司馬遼太郎が嫌いらしいですね。
「項羽と劉邦」についても「司馬さんは劉邦が好きらしいけど、これを読んだだけではこの時代のことは分らない。」というようなことを言ってるし、「中国武将列伝」では「日本史には騎兵戦術の天才は存在しない。源義経の用いた戦術は大陸的な意味での騎兵戦術とは別物」などと、どう見ても司馬さんの義経評へのあてこすりとしか思えないようなことを言っています。(司馬さんが言ってるのは「騎兵の特質を全面的に活用することで戦局に徹底した影響を与える」という意味ですよね)
「日本人は自分の手で体制をひっくり返したことがない唯一の先進国民だ。」(創竜伝)
「革命も独立も日本の歴史には無いもの」(灼熱の竜騎兵)
といった部分も、司馬さんが明治維新についてやたらと「革命」という言葉を使うことに対するあてつけとしか思えませんね。
邪推すると、「壮大で崇高な他国の歴史に比べて日本の歴史はつまらなくて程度の低いもの」と暗に言ってるような感じがして何かイヤ。
田中氏は元々インタビューなんかではいつも同じ事しか言わない人なんですけど(笑)、最近よく言うのが、
「私は歴史をエンターテイメントとして書きたい。処世術や経営術の教科書として歴史小説を書くようなことは無粋でくだらない。(大意)」
ビジネス雑誌の歴史小説特集等に非常な嫌悪と反感を抱いているようで(実は私もそうですが)、そこに必ず出て来る司馬遼太郎が嫌いになっちゃったんでしょうかね。
だとしたら本多勝一や佐高信と同レベルだな。これは読む側の問題で作者になんら責任のあることではないのに。
ヤンのキャラクター造形の中核が「花神」からきてることは明らかだと思うんだけど・・・。
一方、妙に海音寺潮五郎が好きらしく、しょっちゅう「これは海音寺さんがおっしゃていたことですけど・・・」と言って発言を引用してます。
何故なのかはさっぱり分りません。「天と地と」「平将門」位しか読んでないもので。
山田風太郎については、田中氏も解説を書いてる忍法帖シリーズしか読んでいません。(どれも面白いが、私的にピックアップすると「甲賀忍法帖」「外道忍法帖」「魔界転生」あたりかな。でもやっぱりこの人は天才。くだらなさもここまで来れば芸術だ(笑)。)
明治物は司馬作品に対するアンチテーゼとして評価が高いようですね。
歴史家としての評価はともかく、小説家としての司馬遼太郎はやはり凄いですね。「凄いのは竜馬というより司馬遼太郎のフカシでしょう」っていうのは、歴史家に対しては罵倒ですが、小説家としては最大級の賛辞ですね。
このフカシをこけてないと言う点で、なんやかや言っても、田中芳樹は「歴史小説家」として、司馬遼太郎の足元にも及ばないと言えます。
とにかく有り余る印税で資料を買い込み、その知識に関してはそこらの三流学者じゃ手も足も出ないというのは司馬田中両氏に共通していますね。そして、その有り余る知識の運用法(世界観とでも言うのかな)が、非常にアヤしいと言う点でも(つまり、知識を物語の小物として使う技術には優れているけど、構築された世界がアヤシイというか)。
あくまでも「フカシ」である小説に、勝手に経営を求めちゃったり、歴史観を求めちゃったりする人が出てきたのは、実は司馬遼太郎の評価にとって大変不幸なことなのではないかと思っています。
>あくまでも「フカシ」である小説に、勝手に経営を求めちゃったり、歴史観を求めちゃったりする人が出てきたのは、実は司馬遼太郎の評価にとって大変不幸なことなのではないかと思っています。
あくまでも「フカシ」である小説(銀英伝)に、勝手に理想政治や民主主義を求めたりする人が出てきて、その声に最悪の形でファンサービスしてしまったのが、実は創竜伝なのかも???
数年前、吉岡平氏との対談で、田中氏が例によって十年一日のごとく
「三国志で止まっちゃう人が多いのは残念だ。」
とのたまってたのに対して吉岡氏が
「止まりもするような気がしますが(笑)。」
と返してました。
思うに「三国志で止まっちゃう人が多い」のは「三国志(演義)」が、(中国物だから、とかいうことは関係なく)一個の独立した作品として読者にこの上ない満腹&満足感を与えるスグレモノであること、の証左であって、日本人の嗜好の偏り云々とはまた別の問題でしょう。
吉川英治・横山光輝・光栄のゲーム・人形劇、といった“優れた宣伝文書”に恵まれてるのは事実ですが、それは裏を返せば三国志でさえそれら先人の苦心の作の上に今日の人気がある、ということです。ならばなおのこと、世間様にグチをたれる前に日本人向けの“優れた宣伝文書”をものしてみせろ!という感じがしますね。
せっかく紹介した「隋唐演義」に「つまらん!」という声が殺到したのを一体田中氏はどう思ってるんでしょうか。まさか
「この素晴らしさが理解できないのは日本人の感性が鈍いからだ。」
なんてことは言わないでしょうが。
どこかの先生が「完訳三国志」を出した時、読者から
「お前のは本当の三国志と違って面白くない。完訳とか言いながらいい加減な訳をしてもらっては困る。」
という手紙が来たそうです。
「ちゃんと訳してるのに変だな。」
と思いながら読んでいくと、この人の言う「本当の三国志」というのが吉川「三国志」のことだったそうで(爆)。まあ、かように優れた小説作品はオリジナルをも凌駕する強い印象を残すものなんですな。
企画を通すことは難しいかもしれませんが、この際本腰を据えて田中「隋唐演義」「説岳全伝」なんかを全8巻位で世に問うてみてはどうですかね。
自分のオリジナルなら、「岳飛伝」というタイトルでも構わない訳だし(笑)。
>歴史家としての評価はともかく、小説家としての司馬遼太郎はやはり凄いですね。
歴史小説の使命は「魅力的な虚像」を作ることにある、と田中氏も言ってまして、これは私も全く同感であります。
もっとも、「歴史上の事実や人物に作者の想像で肉付けしてしまう歴史小説というジャンル自体に問題がある」なんてのたまふホンカツ先生のような方もいらっしゃいますが(笑)。
>「凄いのは竜馬というより司馬遼太郎のフカシでしょう」っていうのは、歴史家に対しては罵倒ですが、小説家としては最大級の賛辞ですね。
いやもう、世間で確立してる「竜馬」のイメージというのは“「竜馬がゆく」という小説の主人公”の人物像であって、実在の“坂本龍馬直柔”とは全然別物ですからね。
実際は、西郷なんかからは使いっ走り程度にしか見られていなかったとも言うし。薩長連合で果たした役割についてもワン・オブ・ゼムでしかない、ってのが実態みたいだし。
小説による「フカシ」でイメージが固まった人物としては吉川英治の「宮本武蔵」と双璧と言えるでしょう。
もちろん新撰組&土方歳三についても同様。
>あくまでも「フカシ」である小説に、勝手に経営を求めちゃったり、歴史観を求めちゃったりする人が出てきたのは、実は司馬遼太郎の評価にとって大変不幸なことなのではないかと思っています。
司馬さん最後の小説作品となった「韃靼疾風録」というのがあります。
明から清への激動期を背景に、日本人の若者と韃靼族の公主のヒロインの軌跡を描いた、意外にもジュブナイル風の味わいの冒険ロマンで、ほぼ同時代を舞台にした井上祐美子の「女将軍伝」の530倍位面白いです。
比べる方が間違ってるか(笑)。
私的には超オススメなんですが、案の定というか、ビジネス雑誌の司馬特集なんかでは見事なまでに“完全無視”されています。
でも、これを「最後の小説」にしたのは、ひょっとして自分の作品の世間での読まれ方に対するある種の抵抗だったのかも、ってのは穿ちすぎかな?
>井上祐美子
私、この人の小説をしばらく買ってました。もちろん、オビに田中芳樹先生のお墨付きがあったから(我ながら痛すぎる)。
それにしても、失礼ながら田中派閥の中国文学の旗手(何故か全員女性(笑))達は、全員イマイチですな。「チャイナ・ドリーム」なんかもまるで同人誌みたいだし(内容も根性も。ホントに中国文学を広める気、あるのか? 大体、田中芳樹御大にしろホントに広める気があるのだったら使い古しを載せたりしないで、書き下ろせよ)。
唯一イラストの皇なつき(畏れ多いようでATOKが名字を「すめらぎ」で変換してくれなかった)だけは悪くないと思いますけど、支持範囲や応用範囲が狭そうですしね(よけいなお世話)。
お初にお目にかかります。
通りすがりの旅人ともうします。
私も、多くの方々と同じように、銀英伝は好きだけど、創竜伝が好きではございません。
で、銀英伝を読んだとき、補給と情報の重要性を説いていたり、戦術上の奇策よりも、戦略レベルで敵よりも多くの兵を集めることが重要だといった内容に革新さを覚え、なんてすごい作家なんだ!と思いました(高校生の頃)。
が!
最近、「坂の上の雲」を読んだのですが、なんと、上記のことはぜーんぶ書いて有るではないですか!
おまけに、銀河帝国は、腐敗したロシア帝国そのものだし、フォークという無能な軍人も出てくるし(笑)
田中氏は司馬氏のことがあまり好きではないと聞きましたが、書いてることは結構似ているように思います。