今号の格闘技通信で、作家の夢枕獏氏が1/2ページの詫び広告を出していました。
文面には、私は格闘技がまったく理解できていないとかいてあり、特に元大道塾の市原氏に対し自分の文章で勝手な使い方をしてしまい申し訳なかった、と言うようなことが書いてありました。
夢枕氏といえば、この掲示板で昔、新Q太郎さんが餓英伝という銀英伝パロディの元ネタ「餓狼伝」を書いた有名作家です。
小説家(作家)として「現実の」格闘家に詫び文を書いているあたりが興味深いですね。
この餓狼伝については、昔某所でハンドル名義にて批判したことがあります。
夢枕氏本人は格闘技の経験ナシ、上っ面だけの知識しかないので、クローズアップされる格闘技によって描写がコロコロ変わる(たとえば、最初馬乗り体勢は路上でやると下から刺される素人じみた方法論のように書かれていたのに、現実世界でグレイシーが注目されはじめると何時の間にか同じ馬乗りの体勢が、格闘技究極の体勢マウントポジションみたいな扱いに変わっている)ことなどを批判した覚えがあります(本当はいろいろあるのですが、マニアックな話になって脱線してしまうのでやめ)。
それからさらに巻数が進み、作品世界が80年代なのにも関わらず、無理矢理現実のアルティメットぽさの表現のために(現在あるような形での)インターネットが登場するなどという、創竜伝的ウルトラC描写が見られるようになっているあたり、病状が一層悪化しているのが目に付くようになっていました。
そこに、今回の謝罪騒動です。
ちゃんと謝罪をする、というのは人間としては立派な態度でしょう。しかし、「評論家」ではなく「作家」として「現実の」人間に対して謝罪をしたということは、作家としての敗北宣言ではないでしょうか。
ちなみに、私は作家としての評価はともかく、格闘技関係者としての氏はかなり低い評価をしています。
自分では汗もかいたこともない、何もできない、そういう人間が「俺ならよけちゃうよ~」とほざくBOSSのCM的状況を作った元凶の一人だと思うからです。
かつて、夢枕氏は「キマイラ」シリーズで「発勁」を格闘ゲームの飛び道具的技として描いていたことがありましたが、ある時、「事情通」の人間から「発勁はそんなものではない、良ければ俺が教えてやる」と言われ、実際にその人間とあってみて、氏の発勁や中国拳法に対する考え方は一大転換を迎えます。その際に
「信ずるに足りる情報を得て、私は発勁に対しての考え方を改めました。これからの私の作品では、発勁に対して、より現実にそった描写をしていこうと思っています。しかし、キマイラでは既に発勁はこういうものであるとの描写をしてしまっており、それを今から変えることは作品世界に大きな歪みを生じさせることになります。なので、キマイラにおける発勁はこれまで書いてきた事の延長線上に描写させていただくことをご理解下さい」
というような事を言っていました。
田中氏に読ませてやりたい…といいたいところですが、肝心の本人がこの状態ではしょうもないですね。
田中氏といい、夢枕氏といい、なぜ自分ではいた正論を自分で踏みにじるような行動を取るのでしょうねぇ…
本ページ管理人さんは書きました
> 今号の格闘技通信で、作家の夢枕獏氏が1/2ページの詫び広告を出していました。
> 文面には、私は格闘技がまったく理解できていないとかいてあり、特に元大道塾の市原氏に対し自分の文章で勝手な使い方をしてしまい申し訳なかった、と言うようなことが書いてありました。
> 小説家(作家)として「現実の」格闘家に詫び文を書いているあたりが興味深いですね。
>
> そこに、今回の謝罪騒動です。
> ちゃんと謝罪をする、というのは人間としては立派な態度でしょう。しかし、「評論家」ではなく「作家」として「現実の」人間に対して謝罪をしたということは、作家としての敗北宣言ではないでしょうか。
>
真相は小説が問題ではなく、エッセイや雑誌インタビューらしいですよ。それを市原氏が読んで、心証を悪くしたとか。
『餓狼伝』はですねー、一巻で終わってりゃ名作だったのに。むしろ、惜しい気がしますけど。
さて以前、某柔術家(おそらく管理人氏も知っている人物)に「マウント・ポジション」をしてもらったことがあります。ライトコンタクトで顔面に入れてもらって、そのあとこちらが「エビ」や「カメ」になって……数行割愛……腕十字やスリーパーを散々決められました(笑)。
でも「マウント」を取られてはじめてわかったのは、恐怖以上に屈辱感のほうが強いですね。あれを返せるのは、技術よりも精神の強さだと思いましたよ。
ちなみに獏氏は個人的にも存じ上げておりますが、裏も表もないいい人です。
本ページ管理人さんは書きました
> 元大道塾の市原氏
>
まだ、正式には辞めていない(実家に帰って、練習には参加していないだけ)という話もあります。
> 真相は小説が問題ではなく、エッセイや雑誌インタビューらしいですよ。それを市原氏が読んで、心証を悪くしたとか。
だったら、「格闘技評論家」とでもいうべき肩書きで謝るべきであって、「作家」として謝ったのはなおのこと問題だと思います。
作家としての職分ってのはそんなに勘違いしやすいモノなんでしょうかねぇ……
> さて以前、某柔術家(おそらく管理人氏も知っている人物)に「マウント・ポジション」をしてもらったことがあります。ライトコンタクトで顔面に入れてもらって、そのあとこちらが「エビ」や「カメ」になって……数行割愛……腕十字やスリーパーを散々決められました(笑)。
ちょっとうらやましいかも(^^;)
> ちなみに獏氏は個人的にも存じ上げておりますが、裏も表もないいい人です。
みたいですね。そういう話は良く聞きます。
氏も既存作品が未完結なのにシリーズの頭数を増やしていく悪弊の持ち主ですが、「いい人」で断れないから増えていくのだとか。
田中氏も「いい人」なのかもしれませんね。
ただ、プロとしてこの種の「いい人」であることが褒められるべきか、というのは別のことかも知れません。
本ページ管理人さんは書きました
> > 真相は小説が問題ではなく、エッセイや雑誌インタビューらしいですよ。それを市原氏が読んで、心証を悪くしたとか。
>
> だったら、「格闘技評論家」とでもいうべき肩書きで謝るべきであって、「作家」として謝ったのはなおのこと問題だと思います。
> 作家としての職分ってのはそんなに勘違いしやすいモノなんでしょうかねぇ……
>
「作家」という肩書きでインタビューに答えたなら、やはり「作家」として謝罪すべきではないでしょうか。
それこそ石原・“ジェット”・慎太郎氏が、「政治家」として暴言を吐いたとしたら、「政治家」として謝罪すべきであって、「作家」として謝罪すべき問題ではないのですから。また氏の「小説」について、問題があるわけでもないのですし……。
このあたりは、素直に解釈してもいいのではありませんか?
>
> > ちなみに獏氏は個人的にも存じ上げておりますが、裏も表もないいい人です。
>
> みたいですね。そういう話は良く聞きます。
> 氏も既存作品が未完結なのにシリーズの頭数を増やしていく悪弊の持ち主ですが、「いい人」で断れないから増えていくのだとか。
> 田中氏も「いい人」なのかもしれませんね。
> ただ、プロとしてこの種の「いい人」であることが褒められるべきか、というのは別のことかも知れません。
そうですね。最初は「テキサスの暴れ馬」(自信がない)と呼ばれていたジョー・ディートンが、いつの間にかラッシャー木村と“抗争”を開始して、愛称が「いい奴」に変更されていましたから。「いい奴」のプロレスラーなんて、全然強そうじゃない!
同様に、この種の作家は編集者やファンにとっては「いい人」でも、それが全読者にとっていいかというのは、また別問題ですからね。
しかしこの件に関しては、また別項で。
追伸 獏氏より「いい作家」は、●池●行氏だと聞きますが。
> > だったら、「格闘技評論家」とでもいうべき肩書きで謝るべきであって、「作家」として謝ったのはなおのこと問題だと思います。
> > 作家としての職分ってのはそんなに勘違いしやすいモノなんでしょうかねぇ……
> >
> 「作家」という肩書きでインタビューに答えたなら、やはり「作家」として謝罪すべきではないでしょうか。
> それこそ石原・“ジェット”・慎太郎氏が、「政治家」として暴言を吐いたとしたら、「政治家」として謝罪すべきであって、「作家」として謝罪すべき問題ではないのですから。また氏の「小説」について、問題があるわけでもないのですし……。
> このあたりは、素直に解釈してもいいのではありませんか?
いや、その前段階の問題で、作家がいつから「現実の」格闘技シーンや格闘家について語れる職業になったのか、と言うことを言いたいのです。
語弊を恐れずに言えば、「作家」というのはフィクションを売ってナンボの商売ではないですか。
インタビューは作家の仕事の本分では無いのですから(アルバイトみたいなモノでしょ)、そんなものにまで「作家」としてしゃしゃりでることはなく、また、しゃしゃり出てはいけないと思います。
石原氏は実際に政治家ですし、政治家としての覚悟もあるでしょう。もし、石原氏が都知事としての失策をやらかした場合、「作家」名目で謝っているようなものだと思います。
本ページ管理人さんは書きました
>
> 作家がいつから「現実の」格闘技シーンや格闘家について語れる職業になったのか、と言うことを言いたいのです。
> 語弊を恐れずに言えば、「作家」というのはフィクションを売ってナンボの商売ではないですか。
> インタビューは作家の仕事の本分では無いのですから(アルバイトみたいなモノでしょ)、そんなものにまで「作家」としてしゃしゃりでることはなく、また、しゃしゃり出てはいけないと思います。
> 石原氏は実際に政治家ですし、政治家としての覚悟もあるでしょう。もし、石原氏が都知事としての失策をやらかした場合、「作家」名目で謝っているようなものだと思います。
>
うーん。しかし作家って、ある程度お調子者じゃなけりャできない商売(とくに流行作家なんて)ですしね。
獏氏よりも、なにか事件が起こったらすぐコメントを出す(しかも、芸術的なまでに的中率が低い!)推理小説家の●林久●氏なんか、どうなるんでしょう?
それこそコメント以前に、そういう作家に注文する編集者の感性がわかりませんよ、私にゃ。
まぁインタビューに答えるのは本人の自覚が問題ですが、なにかあると軽々しくコメントを取りに行ったり、そのくせ(売れっ子になればなるほど)チェックの甘いマスコミ側にも責任があるんでしょうけど。
この辺の問題は、筒井康隆氏の書籍にも触れられていたはずです。
ともかく獏氏の場合、「作家」という自分だけではなく、関係した編集者などの罪まで被って謝罪した部分もあるので、よしとすべきではありませんか?
> まぁインタビューに答えるのは本人の自覚が問題ですが、なにかあると軽々しくコメントを取りに行ったり、そのくせ(売れっ子になればなるほど)チェックの甘いマスコミ側にも責任があるんでしょうけど。
> この辺の問題は、筒井康隆氏の書籍にも触れられていたはずです。
> ともかく獏氏の場合、「作家」という自分だけではなく、関係した編集者などの罪まで被って謝罪した部分もあるので、よしとすべきではありませんか?
ええ、私もひとつの身近な例として取り上げたのであって、執拗に責めるつもりはありません。この人の場合は、作家としての敗北宣言であっても、謝罪をしたことに関しては潔かったですしね。
これはこれとして、心機一転いままで以上に小説家として邁進してもらいたいものです。
これで筆を折るようなことがあってはいけないと思います。
謝罪広告の続報です……。業界内でも、かなり錯綜しているようですね。『格通』編集部にも数人知り合いがいるのですが、聞くとなると私の立場まで今後危なくなるので(笑)、ライバル誌のライターに聞いてみました。
しかし以下の書き込みにはかなりの推測も含まれており、あくまで「話半分」としてお考え下さい。
1 文の内容が、あまりにも稚拙。いくら謝罪とは言えど、「作家」の書いたものとは思えない。
2 どうやら、同誌の前編集長氏(元になるかもしれない)にも責任があるらしい。
3 市原氏の立腹した原稿は、アルティメット戦以降の記事。
4 謝罪広告が二月に載るということは、逆算すると一二月ぐらいに何かあったのではないか?
ということです。
アルティメット戦の敗戦についての獏氏の原稿を読んで市原氏が激怒し、その後マスコミ=主として同誌の取材には、一切応じなかったそうです。そのことについて前編集長氏が、「メディア人としては書いてはならないこと」を書いてしまい(これは市原氏ではなくとも怒りますよ)、完全にキレたとか。
ライター氏が教えてくれたのはここまでです。あとは私の憶測ですが、同誌=姉妹誌の週刊プロレスの編集部に、数年前お家騒動があった(名物編集長が、編集方針を巡ってメジャー団体から取材拒否。その後退社)のは御存知でしょうか? 言葉は悪いのですが、現在その“膿”を出していても、不思議ではありません。
ですから、遅くとも一二月ぐらいまでに市原氏の取材を同誌が行った際に、「以前の記事について謝罪したら応じる」かなにかのやりとりがあったのではないでしょうか?
個人的にはまだ知っている情報もあるのですが、憶測ということもあってかなりの割愛と、モザイクをかけました。そのあたりは、御了承下さい。
まぁ獏氏も謝罪した以上、シューティングの興行にも足を運びづらいでしょうね。私が最後に挨拶したのは、昨年の大阪(佐藤ルミナの復帰戦)でしたが……。
ともかく、獏氏は自腹を切って足を運んでいる(試合が終わったら、たしかすぐ帰京と言ってました)分だけに偉いですよ。満足な取材すらせず好き勝手なことを書く連中が、どれだけ多いことか。
小説に限らず、クリエィティブな仕事って(特にプロの場合)は、手で書く以上に、足で書く部分が多いのですけどね。
>アルティメット戦の敗戦についての獏氏の原稿を読んで市原氏が激怒し、その後マスコミ=主として同誌の取材には、一切応じなかったそうです。そのことについて前編集長氏が、「メディア人としては書いてはならないこと」を書いてしまい(これは市原氏ではなくとも怒りますよ)、完全にキレたとか。
> ライター氏が教えてくれたのはここまでです
> ともかく、獏氏は自腹を切って足を運んでいる(試合が終わったら、たしかすぐ帰京と言ってました)分だけに偉いですよ。満足な取材すらせず好き勝手なことを書く連中が、どれだけ多いことか。
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HANボードだろうと日本茶だろうと格闘技ネタを書く私ですから(笑)、今回の件は興味もいいたいことも山ほどあるのですが最初はごく簡単に。
たぶん今回の謝罪は(具体的証拠はないが)ノンフィクションとして分類されるべき「群狼の旗」(講談社アウトロー文庫、謝罪文で触れられている空手家の、ある大会への挑戦を描いているか)やその他が、直接の原因になっていると思うのです。
だから、「小説か?評論か?」でいえば評論だったわけで、その点は普通のノンフィクション作家や新聞記事に問題があったときに訂正するのと同じ文脈で捉えていいと思います。いわゆる「餓狼伝」内で格闘家が勝ったり負けたりするのを謝罪したのではないでしょう。
で、問題なのは私から見て、「群狼の旗」は彼の作品(あまり読んでいないが)中5本の指に入る傑作、沢木耕太郎「一瞬の夏」に匹敵するドキュメンタリーだということです。
獏氏は何しろ人が良いので、文も充分空手家、またその敵に対して尊敬と愛情を持っているものでした(沢木のほうが辛辣だってりする)。
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さらに多少整理してみます。
【夢枕獏の格闘技観は間違いだらけ】
これはそうでしょうね。今「KOK」という大会でサンボ(ロシアの格闘技)が強いのですが、某所では「これで餓狼伝の設定、また変わるんだろうな」などとからかわれていましたし(笑)。
これは、田中氏が中国史や軍事で間違いを書いた場合、ここでツッコミ倒されるのと同様の意味があるでしょう。
しかし、『俺ならよけちゃうよ~』といった、「実際に格闘技をやってないのに」という点はどうか。
私自身も柔道「ラッキー初段」(偶然昇段試験の相手が自分以下なので取れた、実力以上の段のこと。ペーパー黒帯ともいう)だけだから、ほんとは言う資格あるわけないんだけど、「高田はPRIDEに出る価値なし!」とか「佐竹は準備不足」とか「優勝はヘンゾに違いない」とかワイワイ言って楽しんでいるのですね。
これは実際に血のにじむ稽古をしている人に不愉快であることは想像できます。
しかし格闘技がある意味、野球やサッカーと同じエンターテインメントとして成熟しつつある以上、やむを得ないというか認めてほしいというところもあります。
新橋の焼き鳥屋で、長島采配や清原の守備を侃侃諤諤やっているサラリーマンや、カズや城にブーイングを飛ばすファンに「お前ら145km打てるか?」『リフフティング20回やってみろ』といっても仕方ないのと同様に。
獏氏のようなファンが、現実の選手に対し現実以上の期待をするのは、滑稽であると同時にファンとしての「特権」でもある。やる側見る側のパラドクスともいうべきもの。
彼自身も、このようなことを言っています。
「男である以上、世界最強に皆なりたかった。しかし、誰もが、兄弟ゲンカや親父や番長、県大会で敗れ、挫折した。
どんな芸術家も、大企業の社長も、政治家も、その点では誰も夢かなわなかった人々なのである。そして、彼らはこう考える。
確かに、俺は最強になれなかった。
では、誰が、一番強いのか。」
獏氏は自分のような格闘技経験なき作家が、どうして格闘技に惹かれるのかをこう表現し、”だからこそ”格闘技を論じるのだ、自分の小説世界で闘う男たちを描くのだ,と言っています。
これは、過不足ないというか充分真摯な態度だと思います。
(BOSSのCMは、ある程度戯画化というか、本当なら別に背負わされるべき義務がない、無責任な放言や批評が”構造的に許される”筈の『観客』が、いきなり『当事者』になるという「理不尽な災難」であるからこそ笑える訳ですから。)
> まぁ獏氏も謝罪した以上、シューティングの興行にも足を運びづらいでしょうね。私が最後に挨拶したのは、昨年の大阪(佐藤ルミナの復帰戦)でしたが……。
PS
獏氏は格闘技について絶筆、沈黙するのではないか?という憶測も一部でとんだようですが、某トークショーに出演。「世間をお騒がせした獏です」といいつつも「船木が足関節で勝ったら俺、賞を出すよ!」と盛り上がっていたようです。
一安心というかなんだか(笑)
そろそろ管理人名義で話題にするのが気になりだしたので(笑)、個人として書き込むことにします。
> HANボードだろうと日本茶だろうと格闘技ネタを書く私ですから(笑)、今回の件は興味もいいたいことも山ほどあるのですが最初はごく簡単に。
どうもどうも。私としては意外な感じがするのですが、おそろく新Q太郎さんと格闘技の議論を交わすのはこれが初めてではないかと思います。
> たぶん今回の謝罪は(具体的証拠はないが)ノンフィクションとして分類されるべき「群狼の旗」(講談社アウトロー文庫、謝罪文で触れられている空手家の、ある大会への挑戦を描いているか)やその他が、直接の原因になっていると思うのです。
> だから、「小説か?評論か?」でいえば評論だったわけで、その点は普通のノンフィクション作家や新聞記事に問題があったときに訂正するのと同じ文脈で捉えていいと思います。いわゆる「餓狼伝」内で格闘家が勝ったり負けたりするのを謝罪したのではないでしょう。
「群狼の旗」っていうのは、格通に連載されていたあれでしょうか。私もそんなに読んではいないので、何とも言うことは出来ませんが…
> しかし、『俺ならよけちゃうよ~』といった、「実際に格闘技をやってないのに」という点はどうか。
(中略)
> これは実際に血のにじむ稽古をしている人に不愉快であることは想像できます。
> しかし格闘技がある意味、野球やサッカーと同じエンターテインメントとして成熟しつつある以上、やむを得ないというか認めてほしいというところもあります。
> 新橋の焼き鳥屋で、長島采配や清原の守備を侃侃諤諤やっているサラリーマンや、カズや城にブーイングを飛ばすファンに「お前ら145km打てるか?」『リフフティング20回やってみろ』といっても仕方ないのと同様に。
> 獏氏のようなファンが、現実の選手に対し現実以上の期待をするのは、滑稽であると同時にファンとしての「特権」でもある。やる側見る側のパラドクスともいうべきもの。
実はこういう反論が来るであろう事は予想していました。
私が『俺ならよけちゃうよ~』が好きなんで例えによく使っているのですが、正直に言うと、例えとしてはいささか不適当な部分があります。
なぜならば、佐竹もホーストもK-1というプロスポーツ(ぶっちゃけて言えば「見せ物」)の選手だからですね。プロスポーツである以上は、素人のファンにいろいろ言う権利があります。私も球技がからきしのクセにサッカー日本代表の試合を見て文句をたれたりしてますしね。
しかし、ですね…
> 彼自身も、このようなことを言っています。
> 「男である以上、世界最強に皆なりたかった。しかし、誰もが、兄弟ゲンカや親父や番長、県大会で敗れ、挫折した。
> どんな芸術家も、大企業の社長も、政治家も、その点では誰も夢かなわなかった人々なのである。そして、彼らはこう考える。
> 確かに、俺は最強になれなかった。
> では、誰が、一番強いのか。」
> 獏氏は自分のような格闘技経験なき作家が、どうして格闘技に惹かれるのかをこう表現し、”だからこそ”格闘技を論じるのだ、自分の小説世界で闘う男たちを描くのだ,と言っています。
私は問題がここだと思うのですよ。球技の場合は「野球は優れた技術体系だがソフトボールの技術体系はカス」とは言ったりしないですし、そもそも優劣の比較対象にしようなどと、常人であれば考えません。
しかし、格闘技(武道)の場合は言ったりするんですよ。たとえば、曰く「フルコンタクト空手は実戦的で選手は求道者だが、寸止め空手は役にたたなくて、こんなのに努力している奴は喧嘩に勝てない」
ちょっと極端に書きましたが、おおむねこんな趣旨のテーマを小説で語っていたりするじゃないですか。自分でやったこともないタダの素人が!
獏氏に限らず、格闘技オタクの嫌な点はここにあります。
自分のコンプレックスを自覚し、観察者に徹するのは結構。ただし、観察者であることの「分際」は弁えておくべきだと思います。
素人に技術体系を批判することは不可能ですし、批判する覚悟を持つことも無理です。
たとえば、「空手バカ一代」などで、同じ趣旨のテーマが語られていますが、この場合は当の大山倍達氏が実力を担保とすることで、ある程度の責任をとってしまえます。しかし、素人が
「だったらテメーが寸止め空手とバカにする技術が、そんなに役に立たないか試してみるか?」
と凄まれたら、素人は持論を取り下げざるを得ない。その程度の重みと責任しか言葉にないんですよ。
本質的に、その程度の重みの言葉しか吐けない人間が、現実の格闘技や武道に突っ込んでいこうとするのですから、今回のような事件が起こるのは必然だったのではないでしょうか。
私はよく「武門の誇り」というような言い方をするんですが、そのあたりを理解しない限り、私には起こるべくして起こる事件に思えます。
ちなみに余談ですが、格闘技オタクがよく使いたがる「実戦」やら「最強」と言う言葉は、ちょうどゾッキ本の「知的なんたら」みたいなもので、やたら即物的で、その実、中身が浅いものだと思いますね。それぞれコンプレックスを煽るのも一緒。
それと、「どの格闘技が最強か?」という命題は、「どの学問が最も知的か?」というのと同じで、全く意味がないと私は思ってます。
「誰が最強か?」というのは上記の命題より比較的マシそうに見えますが、実は「誰が最もアタマが良いか?」と言っているのと同じで、無意味なことには変わりがないですね。
「~こそが最強」と言っているヒトは実は啓蒙思想家と一緒で(笑)、啓蒙思想に対する批判を当てはめると腑に落ちるんじゃないでしょうか。
ちなみに、こんなことを書いてみましたが、私はフルコン空手とも伝統(寸止め)空手とも実は全く無関係です。あしからず。