> 上のようなことは分かっています。私が聞きたかったのは、それが今回の議論にどう関わってくるかです。
> アルタイル星系の近辺にブラックホールや中性子星や重い恒星があるというような記述には心当たりがありません。また、それらがあったとしても、亜光速船にとってどのような問題があるとS.Kさんは仰りたいのですか。
Nightさんの名誉のために冗談だと思っておきましょう、あまり面白くないとしかいいようがないので申し訳ありませんが。
「5巻のシュタインメッツ艦隊よろしくブラックホールで圧壊したくない、ドライアイスの船体に負担をかけたくない、異常重力で計器類の異常を起こしたくないなら迂回は必然であり、そうなれば益々脱走者は五十年で同盟領に到達する事も、当然そうした危険のない航路に重点的に網を張っている帝国艦隊をやり過ごす事も困難になる。『ワープ船』ならワープアウト地点の安全さえ確保できていればこれらの困難の大半は回避しうる物である」と言っているに決まっているでしょう。
> S.Kさんは亜光速船を使う事を、危険で、自殺行為と断言しています。では、その結論はどこから導かれたのでしょうか。
> 上に挙げたような帰納・演繹的なアプローチを用いて結論を導き出したのでしょうか。であれば、その論理の筋道を明らかにした上で、議論を進めるべきです。
> そうではなく、思いつきとフィーリングで結論を導き出したのでしょうか。であれば、S.Kさんは自分の主張していることの意味について、自分自身でも良く理解していないのです。それは、上に挙げたような『飛行機は墜落する可能性がある。だから、飛行機に乗るのは危険で、自殺行為だ』と言う主張と大差ありません。
上記参照。
Nightさんが自己浮遊で飛行できるならお知らせ下さい。
一つ「重力」「引力」というものについて考察いたしましょう。
ついでにNightさんの冗談より面白そうなので自腹で参上しますから是非宇宙空間で10分間無装備で漂って見せてください。
宇宙航行の危険性についてはそれから考え直したいと思います。
いい加減Nightさんの保育士じゃないんですからあんまり何才児なのかを疑うような反論は遠慮していただきたいのですが。
横レスで申し訳ないですが、一外野からの率直な感想です。
結論としては、議論を途中放棄してしまった移動要塞肯定派の完全敗北といった所でしょうか?
kenさん他、否定派への反論も無いようですし。
まぁ、議論ですから別に勝ち負けの問題でもありませんが。
結局の所、議論の土台となるべき前提条件をあまりにも薄弱で頼りないもので構築してしまったが為に、非常に説得力に欠ける内容に成ってしまったと思われます。
でも「if」の物語としはまぁ面白かったですよ。ただ、それ以上のあえて掲示板で議論すべき内容でもなさそうですが。
というか、いつまでこの議論が続くのかが謎です。
肯定派も否定派も、おそらくそれぞれの論拠が正当なものであり一方を論破している、と確信されているように見えます。
決して妥協点が成立することのない議論でしかないような。
結局のところ、肯定派は自説をこの掲示板における定説にしたいのでしょうか?
否定派は肯定派を完全にやり込めたいのでしょうか?
よくこの掲示板ではシャーロッキアンの話題が取り沙汰されますね。
私は田中芳樹小説の読者である以上に、
シャーロッキアンであることを自認していますが、
シャーロッキアンでこのような見苦しい(失礼)議論が続くことはありません。
それは、結局のところ自分たちがやってることが遊びであることを知っているからです。
遊びだからこそ真面目に仮説を構築し、
ああでもないこうでもないと色々なことを考えますが、
決してその仮説が定説となることはありませんし、
どんな仮説も完全に否定されることだってありません。
そうではない、この議論が遊びだというのはとんでもない、
と言われる方がいらっしゃれば、失礼をお詫びいたします。
しかし、ならばそうした試みをシャーロッキアンになぞらえるのはやめて頂きたい、と私は思います。
途中参加、途中フェードアウトしたRAMです。
ROMさんの書いている通りみっとも無い議論であったと思います。
反論される方もいるかもしれませんが、議論の一翼を担った私
としては「みっともない事この上ない」が感想です。
ただ、議論が続くこと自体はみっともないとは思っていません。
議論に見せかけた感情的なレス、個人攻撃、人格攻撃をみっと
もなく思います。
まあ、シャーロッキアンはホームズファンの総称ですが、ここは
「田中芳樹を撃つ!」の掲示板です。田中芳樹作品を批判する
サイトです。シャーロッキアンと同様な活動は難しいのかも?
シャーロッキアンを見習って欲しいの意を込めてレスをした事
もありましたが、不快に思う人がいるので私も今後は控えたいと
思います。
> 横レスで申し訳ないですが、一外野からの率直な感想です。
> 結論としては、議論を途中放棄してしまった移動要塞肯定派の完全敗北といった所でしょうか?
> kenさん他、否定派への反論も無いようですし。
> まぁ、議論ですから別に勝ち負けの問題でもありませんが。
作中設定から導き出された結論に対して、科学的見地から反論したり(無限の供給力を持つ要塞がトンデモだってことは肯定される方々も先刻承知でしょうに)、論の流れでヤンやラインハルトが愚か者呼ばわりされたことに耐えられぬあまり、むきになって反論のための反論を繰り返されることに疲れ果てて、冒険風ライダーさんをはじめ肯定される方々は議論を打ち切った、と見ております。
劇中でもたびたび登場する、ヤンやラインハルトに批判的な後世の歴史家が提示した論と捉える程度の、不沈戦艦さんのことばを借りれば「心の余裕」があれば、もっと建設的な進行となったことでしょう。「ひとつの出来事は、見る者の立場や人となりによって見方も様々に変わる」とは銀英伝で教わりましたが、銀英伝の物語、作品構成、設定、登場人物も、その例外ではありえないという話。
蛇足、。科学的に云々って、キャプテンフューチャーが駆るコメット号、粉末にした銅が燃料なんですが…(℃_゜)
> Nightさんは、イオン・ファゼカス号が大質量ワープなら、ガイエスブルグのワープが新技術ととられるはずがない、という問題を指摘されていますが、これまでのところ、恒久移動要塞を肯定する人たちの誰れ一人として、まともに答えてはおられません。パンツァーさんは、この指摘にどのように回答されますか?
>
> 「肯定派」の人たちは、シェーンコップの発言やヤンの発言を引用して、大質量ワープが新技術ではない、という発言はしています。しかし、Nightさんの指摘は、実際に新技術かどうかではなく、新技術と「みなされるか」どうか、です。銀英伝世界の人がイオン・ファゼカスのワープを覚えていれば、ムライの発言はもちろん、シェーンコップの発言すらそもそもなされていないでしょう。皆が常識的にしっていることを解説する必要はありません。
>
> 冒険風ライダー氏が引用したヤンの言葉も同様です。
何を甚だしく勘違いしているのか、と思っていたんですが、ようやく分かってきましたね。
つまりこういう勘違いをしている訳ですな。「長征一万光年は、銀英伝世界では人口に膾炙した話だから、イオン・ファゼカス号の巨大さについて、同盟でも帝国でも銀英伝世界の人間によく認識されているはずだ」と思い込んでいるという訳ですか。
ところで、その根拠は何です?はっきり言いますけど、「イオン・ファゼカス号の巨大さ」というのは、銀英伝を書いた本人である、田中芳樹すら認識していない「作中事実」です。作者すら「分かっていない」ことを、登場人物たちが「分かっている」と言い張るのは、あまりに矛盾していませんかね。いくら、「長征一万光年」が有名な「史実」だとしても、それに使われた「ドライアイスの巨大な宇宙船」の質量がいくらあって、それがイゼルローン要塞より大きいか小さいかなんて、そんなこと真面目に考えようとする人間など、普通いる訳もないでしょ。柳田理科雄みたいな、「物好き、へそ曲がり」の類でもない限り。知らないんですよ、銀英伝の登場人物たちは。イオン・ファゼカス号の質量など。冒険風ライダー氏が「言い出しっぺ」ですからね、この件については。
「いいや、それくらいは知っていたはずだ!」とどうしても言い張りたいのなら、「作中」からその記述を指摘して下さい。私の覚えている限りでは、「要塞対要塞」の戦いの前後で、移動要塞とイオン・ファゼカス号を対比したような記述は、一切なかったと思いましたがね。これはすなわち、銀英伝3巻前後の時点で、イオン・ファゼカス号のことなどを思い出した人間は、帝国側にも同盟側にも、ただの一人もいなかった、ということでしょ。そりゃ、作者すらそんなことは認識していないのだから、当然といえば当然です。「長征一万光年がよく知られていた」ということは「イオン・ファゼカス号のサイズや質量が知られていた」ということに対する証明にはなっていませんよ。実際、「長征一万光年における技術的側面」についての記述やツッコミは、銀英伝の中には一切ないんですし。
冒険風ライダー氏が言っていることは、「イオン・ファゼカス号が実現できたのだから、巨大な要塞にエンジンを取り付けて移動させることは、銀英伝世界ではさほど技術的には困難を伴わない」「イオン・ファゼカス号がワープを伴う長距離移動を行ったと考える方が自然な以上、巨大な質量を持った物体にエンジンを取り付けたシロモノは、無補給でも長距離移動できるはずだ」というだけの話で、「イオン・ファゼカス号の巨大さ」を、「銀英伝世界の人間たち」がよく認識している必要は全くありません。しかし、「新技術だと言ったのだから、イオン・ファゼカス号がワープできたとすると矛盾する」と言い張っている人たちは、「銀英伝世界の人間は、イオン・ファゼカス号の巨大さをよく知っていた」という前提が否定されれば、その主張はあっという間に崩れてしまいますよね。
ところで、そう言っている人たちって、戦艦大和が沈んだのは知っているでしょうけど、じゃあ大和の基準排水量はご存じですか?巡航速度で航行した時の航続距離は?はっきり言いますけど、こんな話は、私だって調べないと、正確なことは言えません。「大和が沈んだ」ということがよく知られているからと言って、「大和の技術的な性能」について知られている、ということにはなりませんよね。そんなもの、よっぽどのマニアでもない限り、関心なんざ持ちっこないんですから。
ですから、シャフトもムライも、イオン・ファゼカス号のことなんぞ、気にもしていないし、考えてもいないんですよ。一切引き合いに出していないということは、すなわち忘れ去っているんです。よって、彼らが「新技術」と言ったとしても、特に不都合はありません。「作者ですら分かっていない作中事実」を「登場人物たち」が知っている訳がないんですから、「新技術」と思い違いをしたとしても不思議はないということですね。「忘れられてはいないんだ!」と言い張るんなら、「移動要塞とイオン・ファゼカス号の比較」をした部分を、「銀英伝の作中」から拾ってきたらどうですか。むしろ、触れていなければ、不自然でしょう。「図体が途方もなくでかい宇宙船が過去にあった、と銀英伝の登場人物たちが詳しく知っている」のであるならば。「ワープできたかどうか」なんて、この場合は関係ありませんよ。「巨大質量の宇宙船」という範疇では、同じものなんですから。「イオン・ファゼカス号はワープできなかったが、ガイエスブルグ移動要塞はワープできるのだから、これは新技術だ」と登場人物たちが正確に認識しているのなら、イオン・ファゼカス号を一切引き合いに出していない、ということと矛盾します。引き合いに出していない以上、「イオン・ファゼカス号のことなど忘れ去っている」という以外は、合理的な解釈とは言えませんね。だから、「新技術と言っている以上、イオン・ファゼカス号はワープできなかったんだ」という主張には、何ら正当性は見出せません。残念ながら。
ROMさま、はじめまして。
もちろん、ROMさんが見苦しいと思うものを、見苦しいとおっしゃることに問題はないのですが、よろしければ、どの部分が見苦しいのか、もうすこしはっきりと言っていただけますでしょうか?その内容によっては、該当する人も、しない人もいると思いますので。
たとえば、RAMさんが言われるように、論争相手の知性や人格を攻撃することを「見苦しい」といわれるのでしょうか?もしそうなら、その点には同意しますが、すべての論争参加者をひとくくりにするべきではないと思います。この種の表現はけっして全員が使用しているわけではありません。
あるいは、「結論の出ない問題に結論を出そうとして無理をしている」ことを見苦しいと言われるのでしょうか?そのことが、なにがなんでも「相手をやりこめよう」としているようにみえると?発言の全体からは、そう言っておられるようにも思えます。
これについては、私は以下のように考えます。
例え論争の当事者同志は合意にいたらなくても、双方の意見を掲示板で見ている人が、それぞれに自分の中で判断し結論を出せば、私たちがやっていることは無駄ではないでしょう。そもそも今回の論争は、銀英伝の中で恒久移動要塞が可能であったかなどという遊びよりも、はるかに重要な問題を含んでいるからです。
それは議論の進め方そのものというべきでしょう。議論をする上でなにをもって根拠とし、なにをもって立証とするかです。今回の論争はこの点で論者間の乖離が非常に大きく、私自身も、とくに前半は、空転する議論に振り回されました。しかし、乖離の内容が見えてくるにしたがって、むしろ論争を通じて、その乖離内容を白日の下にさらすことに意義があるのではないか、と思い直した次第です。
例えば、重要な乖離のひとつとして、議論を立てる上で、
1.作品記述から間接的に推測するか
2.直接記述と数値計算を重視するか
というものがあるかと思います。難しい言い方ですが、例を挙げれば、
*宇宙を航行する艦船の発見が困難であれば、哨戒をすり抜けての後背地攻撃が起こるはずであり、そのような攻撃の記述がないのだから、艦船の発見は容易である。
というのが、間接的な推測です。これに対して、
*索敵していた偵察隊が、40光秒の距離でついに敵を発見したのだから、索敵可能距離は40光秒しかなく、逃げる艦船を捕捉するには、これ以上に近づかなければならない。
というのが、直接記述にもとづく推論の例です。前者には「長距離索敵は容易である」という直接記述はないが、後者には「40光秒以上の距離では索敵できなかった」という直接記述があります。
このような2種類の「根拠」のどちらをどれだけ重視するかで、非常な相違が彼我にあることが明らかになりました。間接推測を多用する人たちは、それをもって充分な論証であるとし、直接記述プラス数値計算による論証を「空想科学読本的突っ込み」と呼びつづけました。
私にとっては、これはおかしな話です。「空想科学読本的突っ込み」は、本来、作品世界の外から既知の物理法則を持ち込んで作品を批判する、という意味で使われていたはずです。しかし、上にあげた「40光秒」の例は、銀英伝の記述以外、いかなる材料も使用しておりません。むしろ、作品記述を前提とした定量的考察と呼ぶべきでしょう。これを否定する人たちは、数字にもとづく厳密な考察そのものを否定しているのです。
間接的な推測と直接記述に基づく考察の差が明らかになるのは、それらと一見相反する記述が発見されたときです。例えば、間接的な推測で「数光年単位の長距離索敵が可能である」と論するだけでは、アンデューティネスや亡命船のように現実に哨戒をすり抜けた例があると、そのようなすりぬけがなぜ起こったのかを説明せねば、仮説そのものが崩れます。一方、直接記述にもとづく考察は「反例」だけでは崩れません。とくにその反例自体が間接的推測である場合は、です。考察を崩すには、考察内容自体に穴を見つける必要があるのです。例えばパンツァーさんがやったように「40光秒」という数値が特殊例で一般的に通用するものではないという反論は、内容の是非はともかく、反論の方法としては間違ってはおりません。
冒険風ライダー氏は、#3817投稿の末尾で、私がダブルスタンダードを用いていると書いています。氏のいうダブルスタンダードとは、氏が行う間接的推測と私が行う直接的推論とに、異なる扱いを適用しているというものですが、私に言わせれば、両者を同列に扱えと言うほうがおかしいのです。
私は、私の論争相手が、より直接的な記述と数値にもとづく考察をやってくれることを期待しています。しかし、それが実現しなくても、この論争は無意味ではありません。なぜなら、私と私の論争相手の間には、このようなスタンスの違いがあるのだ、という事実を白日のもとにさらすことができるからです。こういうことを明らかにしておけば、今後私たちのどちらかと議論をする人が、相手の基本スタンスを把握するのに、余計な時間と労力をついやす必要がなくなるでしょう。
今回の論争を見ている人たちに私が訴えたいことが、スタンスの違いのほかに、もう一つあります。
それは、罵倒・嘲笑表現を恐れる必要はない、ということです。「愚劣」「ぶざま」「間抜け」「狂気の沙汰」「反対のための反対」「精神的余裕がない」等の言葉を論争相手に投げつけ、相手を論破するよりは沈黙させようとする戦術のことです。これはある意味有効な戦術です。とくに言われた方が同様の表現を投げ返すことができない品性の持ち主の場合、一方的に言われるだけだし、罵倒する側は反撃される心配をすることなく相手を攻撃できます。
しかし、このような表現は、しょせん論理を表すものではありません。まともに取り合う必要はなく、黙殺してかかればよいのです。相手の発言からこのような情緒的部分を削除し、残った部分のみを読めば、論争相手を愚劣と決め付けるほどに、自身が堅牢な論理を構築しているわけではないことが見えてくるでしょう。この点も、これから掲示板で議論をする人たちに、ぜひとも分かっていただきたいことです。相手が私に向かって罵詈を投げつけ、こちらがそれを黙殺するパターンを続けてゆけば、罵詈を恐れず発言する人が、やがて増えてゆくでしょう。そのことで、タナウツは、さらにすばらしい掲示板になるはずです。
以上に述べたようなことに意義を見出していますので、今の時点でこの論争を打ち切る理由はない、と私は思います。
私もこの問題についてはちょこっと発言して、そのままフェイドアウトした口ですが、移動要塞論がここまで過熱するそもそもの発端となった「ラインハルト凡才論」について言えば、評価的な問題であるから人それぞれである、という考えに変わりはありません。そもそも結論が出るような問題でも、出すべき問題でもないということについては ROM さんと同じ意見のようですね。
これについて言えば、「議論で決着がつくのは議論で決着がつくことだけ」という前提を双方が踏まえていれば、何も相手の考えを変えようなどと言う試みはなくなると思いますが、議論というものに過剰な期待を寄せている面がどちらの方々にもあるのではないでしょうか。
決着は決してつかないでしょう。
技術論的なことについてはこれを論じる能力に欠けておりますが、議論の進め方を見ていると、Ken さんがご指摘のような(もちろんそれに対する「評価」は Ken さんとは違いますが)方法論の乖離があるようですね。
個人的には理系的、文系的と評しますが、これはどちらがどちらに優越しているものではない、と曖昧なことを言うのもそもそも文系的かも知れませんが、文系としては真実、そう考えます。
そもそもの前提として、「銀河英雄伝説」は文学作品であり、細部においては相当矛盾を孕んだものであるという前提に私は立っています。ミクロの部分で整合性が成立しても、全体的な意味論においては破綻が生じます。その上で、ミクロの部分の「事実」を重要視するか、「間接的」であろうとも作品全体の意味論の方を重視するか、つまりはそういう違いであろうと私は認識しています。
「ラインハルト凡才論」では方法論のスタンスが双方ちょうど逆になっていたように記憶していますが、移動要塞論そのものではそれが捩れているようですね。そこがこの議論の複雑、かつ泥沼的な一要因のようです。
「空想科学読本的」という比喩が状況的に妥当がどうかは別として、Ken さんの議論を評してそう発言された方は真実そう思ってらっしゃることに疑いの余地はありません。
アインシュタインやランダウをミクロの問題のみならず作品全体に敷衍することに、どれほどの妥当性があろうかということですね。それでは物理学になってしまいます。
このスレッドは複雑に枝分かれし過ぎてミクロの問題とマクロの問題が渾然としすぎています。もちろん、移動要塞論そのものが、ミクロに端を発していながらマクロ的な意味につながるものであったということも原因になっています。
ミクロとマクロの区別が難しいのであれば、ここは一度お開きにするというのも手でしょう。このまま続けていても、どのみち決着がつくはずがないですし、各種別個の問題が渾然とされ、なかなか「それもひとつの意見だね」では済まない展開になりつつあるようですから。
Ken さんのおっしゃる方法論の違いを見ている人に提示するということであれば、充分にその目的は果たしたのではないでしょうか。
要は議論としては出尽くしたので、これ以上すすめると相手の世界観そのものを攻撃しあうことになるということです。こういうのは多数決で決着をつけるしか、つけようがありません。諦める、というのも大事なことです。
「きつい」言葉にしても人間は不完全なものだという認識から究極的には否定しませんが、それが建設的な議論には余り寄与しないことは明白です。ただし、それが誘発される原因があるのだとしたら、結果だけを取り出して非難しても片手落ちですね。
Ken さんの態度は尊敬に値すると思いますし、精力的な敢闘には頭が下がりますが、これ以上の議論によって得られるものがあるとしても、それ以上のものが失われることにもなるでしょう。
私個人は Ken さんの議論スタンスを見習いたいと思いますが、タナウツ全体のスタンスとしてはそれよりはやや広くとるべきではないかとも思っています。
以上、感想になりました。
途中から議論についていかなくなった八木です。
引越作業のため2~3日掲示板から目を離した隙に80以上(!)のレスがあったときは、さすがに全レスを直ぐさまチェックしようとは思えませんでした。何か呆気にとられてしまって(笑)。
そのため微妙に主戦場から消えていったわけでした。ごめんなさい。
ところで私と冒険風ライダーさんとでは、移動要塞論戦の中で何回か戦いましたが、意見がかなり食い違いましたね。
銀英伝本編にガイエスブルク以後移動要塞が登場しなかったことでは、ライダーさんは作中人物が無能で気付かなかったためだと主張し、私は政治的・経済的要因など状況が改造を許さなかったと主張しました。
移動要塞の通常航行速度では、ライダーさんは通常艦船以上の速度が出ると主張し、私はせいぜい通常艦船と同速度だと主張しました。
移動要塞への小惑星攻撃が防御できるかどうかについても意見が分かれましたし、移動要塞によるヤンの反撃作戦のIFについても分かれました。
そしてヤン・ウェンリーの為人の把握とヤンの評価が決定的に違っていました。ここが両者の一番深刻な乖離部分でしたね。
私は移動要塞については改造や運用は、時間さえあれば可能だと考えていましたが、この為に意見をぶつけあったとも言えます。私とライダーさんがぶつかったのは、移動要塞論だったからではなく、たまたま移動要塞論だったと言うべきかもしれません。
まぁ一部の人からは不毛な論戦だとみられたかもしれませんが、それは当人が決めることです。
ライダーさんと論戦を再開してもいいのですが、ライダーさんは厭戦気分だと(勝手に)推測しているので再戦は現在見送っております。私も少々厭戦気分なので・・・。
私としては、管理人閣下による移動要塞論全体での大岡裁きを期待しています。管理人閣下が一つの結論なりを出してくれれば、タナウツ住人も移動要塞論への矛を下ろしやすくなると思います。
ここまで場が荒れたときこそ、管理人閣下が動くときではないかな~と愚考しました。(人任せですねぇ・・・)
☆1
「立証責任」云々、の話を理解してないKenさんの1
> パンツァーさんのこの発言自体は理解できます。
> ただ、適用のしかたには、納得ができません。
未だ、作品外から設定を持ち込んだ場合には立証責任が発生する、の話を、理解できてないようですね、Kenさんは。
> 作品中の人物たちが、遠征途上の艦船の燃料補給について論じている記述がない。それに対するひとつの解釈として、銀英伝の艦船が燃料を必要としない、というものもあるでしょう。しかし、燃料を必要とするが、銀英伝に描かれる作戦中の航行距離(1~2万光年)なら積載燃料に余裕がある、という別の解釈だって可能なはずです。なぜ、一方は作中記述からの考察で、他方は外部からの設定持ち込みになるのでしょうか?
1「外部からの設定持込み」?
燃費が無視できるとか、非常に効率的である、といった結論を導くことはやっています。
しかし、
誰も、「銀英伝に描かれる作戦中の航行距離(1~2万光年)なら積載燃料に余裕がある」というような解釈を、「外部からの設定持ち込み」などと言ってないでしょう。
私が立ち上げたスレッド以下において、航続距離に関する議論が行われた記憶がありませんが、もし航行距離を1~2万光年とした仮定が否定されたとしたら、それは、作中事実を元に反論を受けたのでしょう。
すくなくとも、「外部からの設定持ち込み」が理由ではないはずです。
もともと、「外部からの設定持ち込み」という話が出たのは、「現代の物理法則」とやらに対してだったと記憶しますが。
なにか、被害妄想にでも掛かっているかのように見えますね、Kenさんは。
自分の主張が否定されたことがあるからといって、なにもかもが同じ論理で否定されているわけではありませんよ。
少なくとも、冒険風ライダーさんや不沈戦艦さんをはじめ、私(パンツァー)にしても、(場合によっては論拠が薄弱なことがあるかもしれないとしても)客観的に評価に値する前提からはじめているのであって、ダブルスタンダードを用いるような真似は、していないのです。
相手を、意図的かどうか不明ですが、(少なくとも結果として)騙したり罠にはめるような論陣を敷いているのは、むしろKenさんの方なのですよ。「演繹」うんぬんの話はさすがに記憶しているでしょう。
再度申し上げるが、文章の流れを把握すると共に読解を確実としてください。
「立証責任」うんぬんの話に関しては、Kenさんが「万事につけ立証責任が必要だ」とした根拠として、冒険風ライダーさんの引用文を記載してくれたので、Kenさんの勘違いを指摘することができました。
面倒でしょうが、なにか「言いがかり」を感じた際は、早急に結論を出さず、根拠となる「引用文」を記載してください。そうすれば、Kenさんの勘違いである場合は、それを私が指摘することができるでしょう。
2航続距離が1~2万光年?
補給船団が破壊されても、後方が遮断されるような事態に陥っても、作中人物の誰も燃料の心配をしていないところから、航続距離は1~2万光年よりも長いと推定されます。
ラグナロック作戦では、ハイネセンへの進撃をも視野に入れられています。
フェザーンからハイネセンまで真っ直ぐ進んでも1万光年です。
そして、不沈戦艦さんが言われたように、往復(進撃および帰還)および目的地での移動(戦闘行動)を考えると、目的地までの距離の3倍以上の航続距離は必要です。
これだけで、少なくとも3万光年くらいの航続距離はないと、一度は燃料補給をしなければなりません。
そして、ラグナロック作戦において、補給船団が破壊される前には、ヤンがイゼルローンを放棄している情報も、帝国軍にもたらされています。
ヤンとの戦闘が容易に終了するとは、帝国軍の誰もが考えてないでしょう。事実、補給船団がヤンによって破壊されたわけでした。
そして、84箇所の同盟の全補給基地を占領すべき、などという案も検討されていることからしても、戦闘期間および航続距離がどれほどに上るか、まったく予断できないのです。
補給基地では、敵に物資を渡すくらいなら自爆する可能性も当然あるわけです。
このような状況下でありながら、つまり、
ヤンに補給船団が破壊された時点において、
帝国軍の将軍たちの誰も、燃料補給の心配をしていないのです。
人は、食料は無くても水だけで一月くらい生きられるそうですが、
宇宙船の航行用燃料が無くなったら、これは致命的です。一光秒先に補給基地があったとしても、たどり着くことはできません(慣性で進んでも止まることはできないし、方向は制御できない)。
心配すべき優先度の高さとしては、食料の不足よりも燃料の不足なのです。
航続距離の半分近くを消費したなら、兵員のモラルの低下は、食糧不足の場合よりもはるかに大きいでしょう。
艦船が3万光年の航続距離を有していても、機会があれば燃料補給をしておくのは当然のことです。
ところが、この機会の一つを逃しても、帝国軍の将軍たちの誰も、燃料補給の心配をしていないのです。次の補給船団も確実に届くという保証もないにも関わらず。
以下において、「航続距離は1~2万光年」どころではなく、もっと果てしなく長く、ほとんど燃費が無視できる、ことに関する論を展開します。
☆2
「立証責任」云々、の話を理解してないKenさんの2
> <結論としての「恒久的移動要塞」「無限の自給自足能力」を問うているわけではありません。立証責任の対象としているのは、あくまで「根拠」の方です。無論、立証責任を解決していない「根拠」を前提に結論を導けば、その「結論」も立証責任を要するものとなります。>
>
> つまり冒険風ライダー氏は、無限の自給自足能力自体を証明したといっているわけではない、ということですか?でも、私が以前に引用した氏の発言はどうなりますか?
何を言っているのか、私には意味不明です。
「理解した」のではなかったのですか?
作品外から設定を持ち込んだら「立証責任」が発生する。
「根拠」に「作品外の設定」を持ち込んだら、「根拠」の正当性を問う立証責任が発生する。
当然ながら、「作品外の設定」を用いながら「立証」されていない「根拠」を元に、「結論」を導けば、その「結論」も「立証責任」を有する。言い換えると、「根拠」の「立証」が終了するまで、その「結論」は客観的に信頼に値する根拠がない、ということです。
冒険風ライダーさんが、作品外の設定を導入していますか?
作品内の設定を「根拠」として、「結論」を導いているだけの話です。
したがって、「作品外の設定」を持ち込むことによる「立証責任」の発生も、当然ありません。
一体、何が言いたいのでしょうか、Kenさんは?
> どう読んでも、「根拠」ではなく、「結論」の方を立証した、といっているように思えますが。
これは、何が言いたいのですか?
「根拠」に基づいて、「結論」を立証する、これは当然のことです。これがおかしい、とでも言うのですか?
繰り返しますが、「根拠」が作品中にあるなら、問題はないのです。
それとも、「作品外の設定」を問題にしているのですか?
冒険風ライダーさんの主張に関して、「作品外の設定」を持ち込むことによる「立証責任」の発生がありますか?
☆3
アムリッツア時の補給計画について
> 帝国領侵攻時のキャゼルヌの補給計画に関する考察は、八木あつしさんが言われたとおりだと思います。3000万人のための補給物資がイゼルローンで生産されたという記述はありません。
八木あつしさんが指摘したように、各艦隊も出航時には、当然イゼルローンより遠方まで進撃できるだけの物資を搭載して出撃したものでしょう。
しかし、イゼルローン要塞より帝国領内に進撃してから後の補給計画は、イゼルローン要塞が負担したものではないでしょうか。
銀英伝1巻<黎明篇>8章-1
<部下の報告をキャゼルヌはさえぎった。三〇〇〇万人の同盟軍将兵を対象とする補給計画は、キャゼルヌによって立てられており、その運営に関しては彼は自信を持っていた。しかし、全軍の二倍近くにもなる非戦闘員を抱えるとなれば話は別である。>
<「総司令部(イゼルローン)にそれだけの物資はありません」「本国に要求を伝えればよかろう。経済官僚どもがヒステリーをおこすかもしれんが、奴らも送ってこないわけにはいくまい」>
ラインハルトの焦土作戦があって、「全軍の二倍近くにもなる非戦闘員を抱える」ために、当初の補給計画が頓挫したものでしょう。
銀英伝1巻<黎明篇>8章-1
<「イゼルローンの食料全部を空にしても、穀物は七億トンしかありません。人造蛋白と水耕のプラントをフル回転しても・・・」>
「三〇〇〇万人の同盟軍将兵を対象とする補給計画」が、単に、イゼルローンを通過点とする物資の集配および分配業務に過ぎないのであれば、「プラントをフル回転」などという記述がおかしなものになるでしょう。
そもそも「三〇〇〇万人の同盟軍将兵を養えないプラント」で、なにをいまさらフル回転するのでしょうか。
☆4
イゼルローン要塞の建艦能力について
(お手伝いに感謝)
イゼルローン要塞の建艦能力に関しては、Kenさんが上げてくれた根拠により、明白に実証されましたね。私の作業を軽減してくれて、まったく感謝する次第です。
以下、説明を加えます。
1戦闘による「人余り船不足」状況の発生
アスターテ会戦では、戦闘終了後は、次のような状況となっています。
銀英伝1巻<黎明篇>2章-7より
戦闘に参加した人員、帝国軍244万8600名、同盟軍406万5900名
艦艇、帝国軍二万余隻、同盟軍四万余隻
戦死者、帝国軍15万3400名余、同盟軍150万8900名余
喪失あるいは大破した艦艇、帝国軍2200隻余、同盟軍2万2600隻余
帝国軍では、戦闘員の損失が6%程度に対し、艦船の損失が11%
同盟軍では、戦闘員の損失が37%程度に対し、艦船の損失が57%
となっています。
つまり、戦闘の結果として、「人余り船不足」状況が発生するのです。
バーミリオン会戦時のミュラーが三回も乗艦を替えた、などの作中事実も、船が破損しても人が生き残る好例でしょう。
2イゼルローン軍における「人不足船余り」状況
銀英伝<落日篇>、第七章-2
<イゼルローン軍が艦艇9800隻、将兵56万7200。>
銀英伝<落日篇>、第七章-3
<この会戦において、本来ならイゼルローン軍は最低でも100万の兵を必要としていたのだ。それだけの兵数がなければ、それぞれの艦艇を運用することが不可能なのである。>
ここで、本当は100万の戦闘員を要する9800隻の艦隊を、56万人で運用するという記載があります。つまり、人は不足しているが、船は余っているのです。
1で、戦闘を行うと、「人余り船不足」状況が発生することを指摘しました。
それに関わらず、イゼルローン軍では、保有艦艇数に対して人不足が発生しています。
つまり、これが何を意味するかといえば、イゼルローン軍は、艦艇の補充を受けている、ということです。もし限られた数の艦艇で戦闘を継続していたならば、人は余るが、艦艇は0、というところまで行き着いてしまうはずなのです。
もう、これで、イゼルローン要塞における建艦能力に関しては、明白に証明されましたね。
そして、イゼルローン要塞において、無人艦を含め、続々と新造艦が出現していることも。
☆5
無人艦隊について
<ところで、銀英伝には無人艦隊は二度登場します。第五次イゼルローン攻防戦のときと、シヴァ星域会戦のときです。とくにシヴァ星域会戦の部分では、これが同盟軍の伝統的先方であるとの記述があります。
>
> ~ラインハルトの体調が万全であれば、ユリアンの詭計を看破しえたかもしれない。いや、おそらく看破したであろう。冷厳に判定すれば、ユリアンの詭計はヤン・ウェンリーの亜流であるにすぎない。ヤンは無人艦をしばしば魔術の素材に使ったし(以下略)>
作者は、無人艦隊は存在するが、戦闘力としてはまったく期待できない、という注釈をわざわざ付けていますね。(作中の記載は、銀英伝<落日篇>、第七章-3)
第一には、無人艦隊が有人艦隊の半分の戦闘力でも持っていれば、わざわざ人命を浪費する有人艦隊を戦闘に繰り出す必要が無く、銀英伝の設定自体が破綻するからでしょうね。
第二に、イゼルローン軍において開発された新技術としても、無限の生産能力を有する要塞を前提とすれば、時間をかければ限りなく船が生産されて、たった一つのイゼルローン要塞軍により、帝国の支配が覆される、などという逆転シナリオが発生するわけです。これを作者は恐れたのでしょう。だから、「詭計」の材料にしか使えない、などとわざわざ記載しているんのでしょうね。
作者の心理を検討して見ても、「イゼルローン要塞における無限の生産能力」を前提にしているとしか、考えられないですね。
☆6
例のごとく、話のすり替え、ですか?
> <なぜですか?
> 「無補給航行」の原理が不明、というだけの話です。
> ワープエンジンの原理も不明ですが、原理が不明なので、アウトにしますか?
> 論じるに際して、同一の基準を適用してください。>
>
> ワープエンジンと同一の基準を適用したら、それこそ、その瞬間に無補給航行はアウトでしょう。
> 銀英伝世界でワープが実現していることは、いくらでも直接記述があります。ところが、「某艦船が無補給航行した」などという記述はどこにもありません。この点では、無補給航行は、ガイエスブルグの一例がある移動要塞よりも、さらに根拠が薄弱です。演繹を行おうにも、本発言の冒頭に述べたように、別の解釈が可能ですし、帰納を行おうにも、直接記述された例が一つもありません。せめて、無補給航行の原理を説明しそうな作中記述を見つけてきてはいかがでしょうか?
私は、「原理が不明」という点に関して、ワープエンジンも「無補給航行」も同列だ、といいました。
それに対して、今度は「直接記述」で論じるべし、ですか?
これも、何度も何度も言ったと思います。
前にも言いましたよね、「ヤン艦隊がフェザーンを攻略した」という作中記述が無かったら、ヤン艦隊がフェザーンを攻略する可能性はゼロになるんですか、とね。
「直接記述」があるか無いかで論じたら、それは「銀英伝」世界に関するifの全否定である、と。
<無補給航行の原理を説明しそうな作中記述を見つけてきてはいかがでしょうか?>
まず、<ワープエンジン>の原理を説明しそうな作中記述を、見つけていただきたいものです。
これが、同一の基準で論じるということです。
私の言っていることが、全然理解できていないでしょう。
☆7
定量的考察?
> 作品記述にのみもとづいて考察する、というスタンスは結構ですが、もうすこし直接記述と、そこから出発した定量的考察に重きをおいてはいかがでしょうか?間接的な推測は、しょせん解釈のひとつにすぎず、根拠として弱すぎます。
これは、前提とすべき作品の質によるものです。
作品の中に、定量的考察を与えるべき根拠が無い場合は、そもそも論じようがないのです。
また、定量的に対する定性的考察を否定する根拠はなんですか?
論理的に穴がない結論が導ければ、問題が無いはずですが。
☆8
再び、「立証責任」云々、の話を理解してないKenさんの3
> 外部からの設定持ち込みを禁じ手にしている人が、スタートレックを持ち込んでどうするのです。
あきれて物が言えない、ですね。
私が、スタートレックを「前提」に、なにか結論を導きましたか?
その結論が証明された、などといいましたか?
もともとの話を思い出してください。
Kenさんの記載<No3786>
<問題になっているのは、駆動の手段そのものではなく、駆動に必要なエネルギーをどのように確保するか、という点です。(以下略)>
<この方法については、最初に観察中さんが問題を指摘し、私自身が補足説明を加えていますが、艦船が大質量になるほど、エネルギーを確保するため大量の星間物質を引っ張ってくる必要があり、引っ張ってくるのに必要なエネルギーと、引っ張ってきた物質から得られるエネルギーが、どこかで必ずクロスします。>
<このことから、質量が大きい物体ほど、無補給航行ができない可能性が高くなる、ことが分かります。>
「質量が大きいほど、駆動に必要なエネルギーが大きくなる」という結論を、「観察中さんが問題を指摘し、私自身が補足説明を加え」た「作品外の物理法則」を前提に、導いたのは、一体誰ですか?
私は、これは単に、一つの可能性の検討だと思ったので、別に「立証責任」うんぬんの話は持ち出しませんでした。
そして、私はこのKenさんの出した、「作品外の物理法則」を前提とした結論「質量が大きいほど、駆動に必要なエネルギーが大きくなる」に対して、スタートレックを用いて反論しただけなのです。
文章の流れを理解していますか?
いいかげん、「立証責任」うんぬんの話は、理解してくれましたかね。
この話すら理解できない、というのであれば、そのことを返答してください。
もう、私もKenさんに、納得できるように説明できる自信がまったくありません。
その時点で、議論を打ち切らせていただきます。
少なくとも、Kenさん自身が、議論の内容を問わず、討論者として不適格であり、相手に対して多大な負担を掛けている、という事実を認めてください。
そして、Kenさん自身が、「言いがかり」だと思った場合でも、断定的な表現は避けることです。その種の「言いがかり」は、単に、Kenさん自身の誤解に過ぎないのですから。少なくともこれまでの投稿においては。
☆9
これは、何?
> アインシュタインの公式が、無補給航行可・不可議論と、どう関連するのか分かりませんが、冒頭に書いたように、作中記述に対する別の解釈が成立する以上、無補給航行が作中で証明されているとはいえないでしょう。
1一点目
まず、アインシュタインの公式は、Kenさんの以前の投稿で、考察の材料として使われている、ということを指摘するために、記載したものです。
アメリカの電力消費量や、核融合の質量欠損エネルギーを運動エネルギーに転化した考察を述べていた、Kenさんの以前の投稿を、解説しただけのことです。具体的なナンバーは、面倒なので調べておりません。
これだけエネルギーがいるのだから、星間物質を取り込んでも無理、式の意見ではありませんでしたか?
2二点目
「作中記述に対する別の解釈」ってなんですか?
「艦船の燃料補給の記載が無い」という「前提」から、
「艦船が無補給航行できる」という「結論」は必ずしも導けず、
「銀英伝に描かれる作戦中の航行距離(1~2万光年)なら積載燃料に余裕がある」
という「結論」も可能、という話ですか?
これに関しては、次にも根拠を述べます。
☆10
無補給航行が存在すると主張する「根拠」
> 銀英伝世界に無補給航行が存在すると主張する「根拠」は、登場人物が燃料補給に言及しない、という点にあるのでしょう?しかし、補給が必要でも、それを切断される心配が皆無なら、ラインハルトや提督たちが、それを問題に取り上げなくても不思議ではないでしょう。補給は、帝国内に完成しているインフラを信頼できるのですから。せいぜい中級士官の事務的な懸案事項にすぎないはずです。
これも、もともとの話は、要塞を移動化しても、移動要塞と艦船とでは、エネルギーの消費量が2億倍も違うはずだ、とするKenさんの推論に対応したものです。
ここで、Kenさんの推論にしたがって、
移動要塞は2億倍の燃料を消費するとしましょう。
そうすると、10個艦隊(帝国軍一個艦隊20000隻として計算)の消費量と比較しても、1万倍の消費量となります。
銀英伝1巻<黎明篇>7章-3
<歴戦の提督たちも、前例のない巨大な作戦計画の前にして無関心ではいられず、>
アムリッツア時の同盟が、史上例に見ない大動員をおこなったと記載されているように、8個艦隊や10個艦隊の艦隊動員が、いかに巨大なものであるかが作中事実となっています。
もしも帝国軍において、10個艦隊の動員における燃料消費の1万倍の燃料が、ガイエスブルグ要塞の移動に必要であるなら、それは容易ならざる事態です。
一体どこに、帝国においても「前例のない巨大な作戦計画」相当の、10個艦隊動員における燃料消費の1万倍の燃料が、備蓄されているというのでしょうか?
10個艦隊の出撃ですら、容易ならざる事態であるのに。その一万倍の燃料消費なのです。
また、仮に備蓄されているとして、それをガイエスブルグ要塞にまで運ぶのに、一体どれだけの輸送船や補給の手間が発生するのでしょうか?
要塞の建造に関しては、帝国経済の大きな負担となって、計画の断念すら検討された経緯が記されています。
では、10個艦隊動員における燃料消費の1万倍の燃料は、易々と手に入るものでしょうか?
「補給」を重視する作品のスタンスから言えば、当然記載されてしかるべきものでしょう。
補給線の切断の問題ではなく、補給自体が可能かどうかの検討の問題です。
私はこれを、燃費が事実上無視できる航行の「根拠」として、追加します。
10個艦隊の動員における燃料消費の1万倍の燃料すら、作中において問題とならないのであれば、各艦隊や各艦艇の燃料消費など、まったく問題にならないでしょう。
繰り返しますが、補給線の問題ではなく、燃料消費や燃料消費量が問題とならない、ことに関する実例なのです。
☆11
イオン・ファゼカス号について1
> ところで、パンツァーさんにぜひ尋ねてみたいことがあります。
>
> Nightさんは、イオン・ファゼカス号が大質量ワープなら、ガイエスブルグのワープが新技術ととられるはずがない、という問題を指摘されていますが、これまでのところ、恒久移動要塞を肯定する人たちの誰れ一人として、まともに答えてはおられません。パンツァーさんは、この指摘にどのように回答されますか?
>
> 「肯定派」の人たちは、シェーンコップの発言やヤンの発言を引用して、大質量ワープが新技術ではない、という発言はしています。しかし、Nightさんの指摘は、実際に新技術かどうかではなく、新技術と「みなされるか」どうか、です。銀英伝世界の人がイオン・ファゼカスのワープを覚えていれば、ムライの発言はもちろん、シェーンコップの発言すらそもそもなされていないでしょう。皆が常識的にしっていることを解説する必要はありません。
まず、イゼルローン要塞の面々が驚いたのは、「大質量」の点であって、航行手段がワープであったかどうか、では無いはずです。
艦艇と同様の航行速度(例えば光速の10%程度)で、234兆トンの氷塊が接近する状況であったとしても、同様の驚きを発したでしょう。
そんな大質量体を移動させる技術があったのか、と。
☆12
イオン・ファゼカス号について2
私も、イオン・ファゼカス号にワープエンジンが搭載されていた、と考えています。
以下、その根拠を述べてみましょう。
1無人の一惑星への到達の可能性
ワープのような高速移動手段がないとすると、イオン・ファゼカス号を追跡する帝国軍は、簡単に網を張ることができます。
イオン・ファゼカス号に乗った脱出民たちが、どのみち、どこかの惑星で物資を確保することは、帝国軍にも予測できるはずです。アルタイル星系を中心に、立ち寄りそうな星に監視衛星を一つずつでも配置すれば、容易に探索されてしまうでしょう。
このような追跡を避けるためには、やはり帝国の未探索領域の無人の一惑星を、第一目標とせざるを得ず、そうなると、移動距離は古典SFファンさん等が議論のたたき台としていた数光年程度ではなく、もっと遠距離と考えられます。そんな容易にたどり着ける地点には、簡単に監視手段が配置されるでしょう。
また、亜光速船の実例がないことを考慮すると、仮に数光年程度の移動先であったとしても、そこに行き着くのに、数十年あるいはそれ以上の年月を要することになります。
特に、作中で検案されていた問題、ドライアイス船が溶けてしまう、という問題は、数十年もの時間が掛かるとなると、まったく無視できないことになるでしょう。
さらに、亜光速でもなく、ワープもできないとしたら、帝国の追跡・探索がなくても、50年程度では、ハイネセンまでたどり着くことができないことになるでしょう。
2無人の一惑星からハイネセンまでの航行
航行に最も時間を要し、40万の脱出民が16万にまで減少せざるを得なかったのは、帝国領と未来の同盟領とを分かつ防壁、を通過する際だったでしょう。
この防壁とは、イゼルローン回廊とフェザーン回廊のみが安全航路として確定している領域のことを指します。
この領域を通過する際には、ワープも満足には行い得なかったものと考えられます。
ワープアウトした場所が、異常な重力場等の異常空間であれば、そのまま脱出することもかなわず死に至るものでしょうから。移動は極めて慎重に行われたものでしょう。それでも多くの同胞達が死に至ったのでしょう。
1で数十年も要していては、とてもハイネセンにたどり着けないと考える理由のひとつです。
3シャフトの言の解釈
銀英伝3巻<雌伏篇>2章-3
<シャフトは話を再開した。(中略)放棄されたままのそれ(ガイエスブルグ要塞)を修復し、跳躍(ワープ)と通常航行用のエンジンをとりつけ、一万光年を航行してイゼルローンに要塞どうしの決戦を強いるのだ。現在のワープエンジンの出力では、巨大な要塞を航行させることはできないので、一ダースほどのエンジンを輪状にとりつけ、それを同時作動させることになる。技術上の問題はなく、あとは指揮官の統率力と作戦実施能力の如何による・・・>
シャフトは、ガイエスブルグ要塞を一万光年の距離を移動させるという前提において、ワープ出力の問題を論じています。
ここで、例えば数十年かけても一万光年の距離を移動できればよい、とするなら、話が変わってくるものでしょう。
もちろん、シャフトの提案は、艦船の移動と同程度の移動時間を考慮したものであって(1から2ヶ月程度か)、数十年もかけたのでは、提案できる内容ではなかったはずです。
例えば、ガイエスブルグ要塞に搭載しているのと同様のワープエンジンを一基だけ搭載した場合に、一光年程度の距離しかワープできないが、しかしワープはできる、とも考えられます。
しかし、12基を下回るワープエンジンでは、イゼルローン攻略におけるガイエスブルグ要塞を用いた運用としては、まったく不適切、ということです。
イオン・ファゼカスには短距離ワープのみ可能な、1基もしくは数基のワープエンジンが搭載されていたのではないか。
(数基の同期は、12基の同期よりははるかに容易でしょう)
作中の記載内容に整合性を持たせようとすると、このような解釈が妥当ではないか、と考える次第です。
☆13
大質量のワープが不可?
> 皆さんご存知のとおり、銀英伝世界では補給が常に問題になっています。大質量のワープができるなら一挙に問題が解決するではありませんか。作者による数値の変更が明らかになった、輸送船のトン数の記述を思い出してください。
(中略)
要塞でなくても40兆トンをワープさせられるなら、5000万人の72万日すなわち1900年分の食料を運べるではありませんか。>
意味が良くわかりませんが、銀英伝中の艦船は皆、ワープを繰り返しながら、数千から一万光年におよぶ長距離を、航行するのではありませんか?
Kenさんは、例えば、補給船は、通常航行速度(亜光速を仮に含めるとしても)のみで移動している、と主張しているのですか?
ワープしないとすると、亜光速で移動したとしても、1光年の距離を補給するにも一年以上、10光年の距離なら10年以上が掛かってしまう計算になるのですよ。敵地どころか、自軍支配地域内での物資輸送すら、満足に行いえなくなりますよ。
ラインハルト(アムリッツア時)およびヤン(ラグナロック時)による補給船団への攻撃の成功は、ワープとワープとの間隙を突いて行われたものであると解釈していますが、そのようには考えないのですか?
というより、まず、作中で、攻撃されるような位置まで、そもそも輸送艦が移動できないと思いますが。
Kenさん、はじめまして。
>もちろん、ROMさんが見苦しいと思うものを、見苦しいとおっしゃることに問題はないのですが、よろしければ、どの部分が見苦しいのか、もうすこしはっきりと言っていただけますでしょうか?その内容によっては、該当する人も、しない人もいると思いますので。
何をもって見苦しいと断じたのか、その点をはっきり書かなかったことはお詫びいたします。私が意図するところはRAMさんの仰る
>議論に見せかけた感情的なレス、個人攻撃、人格攻撃をみっともなく思います。
に、ほぼ端的に示されています。私としては、この場で行われている議論がシャーロッキアン的興味に基づくものであったと理解しておりましたので、議論が白熱するあまりこういった態度が見られることを、見苦しい、あるいは悲しいと感じたのです。
そして、上記したような私の認識の上では、シャーロッキアン的考察を対象に向けて行う場合、いつまでも出るはずのないことと思われる議論を執拗に続けようとされる方々全員も、少々みっともないのではないか、と感じたのです。(横から突然入ってきた人間が何を無礼なことを言っているのか、ということは私も重々承知しておりますが、これを明らかにしないと私の立場も明確にならないでしょうから、あえて書かせてもらいます) これをもって、
>あるいは、「結論の出ない問題に結論を出そうとして無理をしている」ことを見苦しいと言われるのでしょうか?そのことが、なにがなんでも「相手をやりこめよう」としているようにみえると?
に対するご返答とさせていただきたく存じます。
私としては、銀英伝というテキストを読んで感じ取ったその世界観からは、無限の補給システムというものは存在しないだろうと考えるのですが、賛成派の方々が主張される論拠を拝見すると「なるほど、そのような考え方もできるのか、おもしろいものだ」と感じます。もっとも、だからといって私の読みがそれによって影響されることはありませんが。
なんですから、話をシャーロッキアンの範囲に適用いたします。
シャーロッキアンの間では、ホームズ(あるいはワトスン)は実は女だった、という驚くべき説が存在します。原典の様々な記述をもとにして、このような説が唱えられるわけですが、多くのシャーロッキアンは、ホームズ(またはワトスン)が男であることを知っています。しかし、だからといって、先の仮説を否定はいたしません。そういう考えも、読みようによっては成り立つ、と考えます。我々は、自分たちが愛するホームズ譚に関する様々な仮説が出てくることを、純粋に楽しんでいるのです。出てくる説はあくまで仮説であり、それによってホームズ譚の栄光が壊されることはありません。我々は、そのようにしてシャーロック学という遊びを、心から楽しんでいるのです。
私は、この考えがこの掲示板(あるいはもっと限定して、この議論でもいいです)に適用されて欲しいと思うのです。私たちが愛読した銀英伝というテキストに対しある仮説が浮上する。その仮説は、我々の慣れ親しんだ世界を崩壊させるかもしれないが、別にそれに従う必要は無い。あくまで、一つの説として楽しめばよいのです。
言ってしまえば、否定派は賛成派に対して、批判を加える必要すらないとさえ思います。いかに賛成派が論を重ねたところで、それはあくまで仮説に過ぎないのですから。賛成派の皆さんも、銀英伝というテキストから自分たちが巧緻な説を展開できたことを誇りに思っても、それを他人に押し付けようとはしないで欲しいのです(賛成派の皆さん、非礼と言える表現をお許しください。一方的にあなた方を批判しているわけではないのです。様々な論拠をもって自説を補強なさる皆さんの熱心さには敬服いたしております)
ここまでの私の認識が、
>例え論争の当事者同志は合意にいたらなくても、双方の意見を掲示板で見ている人が、それぞれに自分の中で判断し結論を出せば、私たちがやっていることは無駄ではないでしょう。そもそも今回の論争は、銀英伝の中で恒久移動要塞が可能であったかなどという遊びよりも、はるかに重要な問題を含んでいるからです。
に対する私なりの答えであります。
もっとも、私の認識は結局のところ、この掲示板で行われる議論がシャーロッキアン的であってほしいという願いから生じています。それが私の誤認であれば、単に私がこの掲示板の議論のあり方を誤解していただけであり、私は余計な口を挟んだ愚か者である、と言えます。
しかし、それでも私としては、シャーロッキアン的な態度をもった議論がこの場で行われて欲しいと思います。それこそが、この掲示板を今以上にすばらしい掲示板とするはずだ、と考えておりますので。
私としては、この議論はもはや、IKさんが仰るように「ここは一度お開き」とするか、あるいは八木あつしさんが仰るように、管理人さんの裁定待ちとする以外に決着のつけようがないのではないか、と考えます。
以上、長々と失礼いたしました。
> ☆4
> イゼルローン要塞の建艦能力について
> (お手伝いに感謝)
>
> イゼルローン要塞の建艦能力に関しては、Kenさんが上げてくれた根拠により、明白に実証されましたね。私の作業を軽減してくれて、まったく感謝する次第です。
> 以下、説明を加えます。
>
> 1戦闘による「人余り船不足」状況の発生
>
> アスターテ会戦では、戦闘終了後は、次のような状況となっています。
> 銀英伝1巻<黎明篇>2章-7より
>
> 戦闘に参加した人員、帝国軍244万8600名、同盟軍406万5900名
> 艦艇、帝国軍二万余隻、同盟軍四万余隻
>
> 戦死者、帝国軍15万3400名余、同盟軍150万8900名余
> 喪失あるいは大破した艦艇、帝国軍2200隻余、同盟軍2万2600隻余
>
> 帝国軍では、戦闘員の損失が6%程度に対し、艦船の損失が11%
> 同盟軍では、戦闘員の損失が37%程度に対し、艦船の損失が57%
> となっています。
>
> つまり、戦闘の結果として、「人余り船不足」状況が発生するのです。
>
> バーミリオン会戦時のミュラーが三回も乗艦を替えた、などの作中事実も、船が破損しても人が生き残る好例でしょう。
>
> 2イゼルローン軍における「人不足船余り」状況
>
> 銀英伝<落日篇>、第七章-2
> <イゼルローン軍が艦艇9800隻、将兵56万7200。>
>
> 銀英伝<落日篇>、第七章-3
> <この会戦において、本来ならイゼルローン軍は最低でも100万の兵を必要としていたのだ。それだけの兵数がなければ、それぞれの艦艇を運用することが不可能なのである。>
>
> ここで、本当は100万の戦闘員を要する9800隻の艦隊を、56万人で運用するという記載があります。つまり、人は不足しているが、船は余っているのです。
>
> 1で、戦闘を行うと、「人余り船不足」状況が発生することを指摘しました。
> それに関わらず、イゼルローン軍では、保有艦艇数に対して人不足が発生しています。
> つまり、これが何を意味するかといえば、イゼルローン軍は、艦艇の補充を受けている、ということです。もし限られた数の艦艇で戦闘を継続していたならば、人は余るが、艦艇は0、というところまで行き着いてしまうはずなのです。
>
> もう、これで、イゼルローン要塞における建艦能力に関しては、明白に証明されましたね。
> そして、イゼルローン要塞において、無人艦を含め、続々と新造艦が出現していることも。
パンツァーさん。どうしても一点だけ言わせてもらいます。
イゼルローン要塞には、艦艇補修能力はあっても建艦能力はありませんよ。パンツァーさんの「人不足船余り」「人余り船不足」の考えはよく分かりますが、イゼルローン革命軍の艦艇は、あくまでも旧同盟軍艦艇であり要塞のよる新規建造艦艇ではないです。
回廊決戦前のヤン艦隊の戦力は、艦艇2万8840隻、将兵254万7400名でした。
そして問題のシヴァ星域会戦時のイゼルローン革命軍の戦力は、艦艇9800隻、将兵56万7200名です。
ここの「人不足船余り」状態からパンツァーさんは、イゼルローン要塞が新規艦艇を建造したことによって、人員以上の艦艇を有するようになったと考えました。しかし一つ忘れてはいませんか? 地球教団によるヤン暗殺後、イゼルローン要塞から大量の離脱者が出たことを。
新書版8巻209頁
<「いかがいたします? 離脱したとはいえ、イゼルローン要塞を不当に占拠して皇帝に反抗した輩、無条件で免罪してよいものでしょうか」
むりからぬ意見ではあるが、ロイエンタールとしては単純に武断に徹するわけにはいかない。
「100万以上の男女を拘引することなど、現実に不可能だろう。(攻略)」>
この記述から、「人不足船余り」の疑問は解けたはずです。回廊決戦前は、少々兵員が不足気味とはいえ艦艇と兵員は何とか釣り合っていたのです。ヤン暗殺後、離脱者は新書版8巻203頁の記述から輸送船で離脱していると分かります。また今後の戦いを考えれば、いくらユリアンでも軍用艦での離脱を許すはずはありません。
パンツァーさんの残存艦艇数に対して兵員がより多く生き残っている、という考えは当たっていると思います。すると回廊決戦終結時、ヤン艦隊は約1万隻余の艦艇と約100~120万余の兵員が残ったのではないかと推測されまます。
そしてヤン暗殺後、イゼルローン要塞に残った人員が約94万。その中で艦艇乗組員は約57万。94万の男女比はだいたい2:1で、女性の大半が男性の家族であることから、軍人のほとんどが男性となります。
そこで離脱者約100万人の男女比もだいたい2:1とすると、男性が約66万人となります。これならば調度よく、イゼルローン共和政府の男性数ないし兵員数と(仮定とはいえ)辻褄が合います。
つまりイゼルローン革命軍艦艇(回廊決戦の残存艦艇)を動かすはずだった人間(回廊決戦の生き残りの兵員)が、大量に要塞から離脱してしまったが為に、革命軍の艦艇数に対してそれを動かす兵員数が極端に釣り合わなくなってしまった訳です。
これでパンツァーさんの主張された要塞に建艦能力があるという主張は、明確に否定できるのではないでしょうか。
またイゼルローン要塞の設備は、銀英伝本編であれだけ詳しく記載されているのです。もし仮に要塞に建艦能力があるとすれば、さすがに一緒に記載したと思います。
まあ、建艦能力に関しては不明というところでしょう。
「建艦能力が明白に証明された」と、言いえる根拠がないことは、認めます。
ただ、「建艦能力があるという主張は、明確に否定できる」という八木あつしさんの主張も、根拠のないことです。
以下、その説明。
パンツァーの記載(No3819)
これは、人的資源に限りがある、ということを示しているだけでしょう。
無人艦隊なるものは、銀英伝中に登場しなかったと思いますが。
私は、No3819で、戦闘に参加している艦艇数は、人的資源の減少により減少しているものであるから、この記載事実から建艦能力を判定することは無理である、といった趣旨の内容の投稿を行いました。
ここで、人的資源の枯渇があっても、戦闘力を維持する可能性、つまり、無人艦を検討しておく必要を感じたのです。したがって、銀英伝には無人艦隊は登場しないのではないか、と書いたのです。
作中事実において、無人艦は存在しましたが、詭計の道具くらいにしか使えず、戦闘力は存在しないに等しい存在ということでした。したがって、これを増産しても意味がない、ということになっています(詭計に使う一定数の艦艇以上は)。
Kenさんの記載(No3832)
800年4月、回廊の戦いの前:28,840隻(乱離篇、第二章-1)
ビッテンフェルト/ファーレンハイト艦隊との戦闘後:二万隻を割りこみ(同、第四章-2)
801年5月:1万隻強(落日篇、第五章-4、帝国側による推定)
シヴァ星域の会戦:9800隻(同、第七章-2)
私も探してみましたが、真ん中二つの戦力比較において、戦闘員数の記載が見当たらないですね。
ここに戦闘員数の記載があれば、まだ少しは、検証に役に立たせることができるのですが。
少なくとも、艦艇を作っても戦闘力に寄与するわけでもなく、無意味である以上、イゼルローン要塞において建艦を行ってないとしても、なんの不自然もないのです。
「建艦能力があるという主張は、明確に否定できる」
とはならない、と考える次第です。
もっとも、イゼルローン要塞の建艦能力の有無は、移動要塞論とは直接関わる部分がないので、否決されたとしても一向に問題はありません。
> またイゼルローン要塞の設備は、銀英伝本編であれだけ詳しく記載されているのです。
イゼルローン要塞の設備に関して、もしよければ、
八木あつしさんの知っている範囲で、記載個所を列挙してみてもらえないでしょうか。
参考までに。
それから、引用のタグは、
<乱離篇>3章-2
のように、何篇の何章の何節かを示す形式の方が、銀英伝の出版形態上、この掲示板の閲覧者に親切ですね。
ノベルズ版と文庫版では、冊数も違いようですし、当然ページ数も異なります。
Kenさんのやっている方式を、私も真似ています。
私はこのまま議論を続けていても労多くして実り少ないのではないかと思って
います。パンツァーさんとは今まで比較的醜い衝突はありませんでしたが、
基本的に私の議論の前提はKenさんや古典SFファンさん寄りにあります。
直接記述>計算より求まる数値>間接記述
以上のように記述の重みを置いています。
また、しきりにKenさんへ「外部からの設定持ち込み」に対する立証責任を議論
されておりますが、これについても私は基本的には銀英伝は現在の地球の遠い未来
という位置付け的に見ていますので、特別な記述がない限り全て現在の物理法則
が通用すると考えていました。これについても意識が合わないと思います。
記述がない部分の扱いについても書いていない物は無い物にするのか、裏設定を
入れて良いのか、どう扱ったものか良くわかりません。
更に作者の意識問題についてはNo.3840の不沈戦艦さんの下記のような記述など
私にとってはナンセンスでしかありません。
> ところで、その根拠は何です?はっきり言いますけど、「イオン・ファゼカス号の
> 巨大さ」というのは、銀英伝を書いた本人である、田中芳樹すら認識していない「作
> 中事実」です。作者すら「分かっていない」ことを、登場人物たちが「分かってい
> る」と言い張るのは、あまりに矛盾していませんかね。
このような事を言うのでしたら私としたら作者は無限補給なんて認識していない
のだから登場人物が分かるはずがない。移動要塞の議論をする事自体が無粋な事
として終わってしまう気がします。しかし実際はそうではありません。
もっと限定的な事項での議論でしたら議論を行いながら前提部分の摺り合わせも
出来るかもしれませんが、移動要塞の議論においては関連する事項が多岐に渡り
まとまりが付きません。今までの議論から何一つまともな結論に至っていない事
が一つの証明ではないでしょうか?
ですので、移動要塞の議論について私は撤退、または議論の前提の整理が出来たら
参加と言う事にさせて頂きます。
> イゼルローン要塞の設備に関して、もしよければ、
> 八木あつしさんの知っている範囲で、記載個所を列挙してみてもらえないでしょうか。
> 参考までに。
新書版2巻11頁から12頁にかけての記載だけで十分だと思います。
<宇宙港は2万隻の艦艇を収容でき、整備工場は同時に400隻を修復できる。>
とあります。整備工場を改造して建造工場にしたのだ、という仮説なら出来るかもしれませんが、時間的に改造自体が無理かと。
新書版1巻130頁も少しありますね。しかもここには
<巨大な食料工場など、駐留艦隊も100万以上の人口を支える環境と設備が整っており、(後略)> とあります。
一体100万以上の人口の最上限がどこまでなるのでしょう。しかし同盟軍のヤンが赴任中の要塞では、軍民で500万人が生活していました。1巻の記載と同盟時代の人口を考えると100万~500万が限界という可能性もありますね。もしかして1000万? でもさすがに多すぎるでしょう。
それにしても1巻のイゼルローン要塞の帝国軍は、要塞守備兵50万と駐留艦隊将兵150万(記載はないですがこれぐらいでしょう)はいましたが、その家族はいませんでした。つまり軍人(しかも男のみ)だけしかいない要塞だったのです。そしてイゼルローンを建造した30年ぐらい前も帝国軍の運営システムは変わらないと思います。
それなのに何でまた、イゼルローンには帝国軍にとって必要もない「学校」や「産院」や「保育所」まで作ったのでしょうね(笑)。
IKさん、
まずは、過分なお言葉をいただき、ありがとうございます。また、回答が遅れたことをお詫びします。実は、IKさんが土曜日に投稿されてから、どう回答しようかずっと迷っておりました。
正直に申しますと、「文系と理系」、「マクロとミクロ」いうご指摘には、虚をつかれました。そういう切り口で、この問題を捉えてはおりませんでしたので。IKさんの投稿を読んで、私なりに考えをまとめようとしたのですが、正直うまくまとまりません。しかし、いつまでも回答を遅らせるのも失礼ですので、今の時点で抱いている疑問と感想を書かせていただきます。
「文系と理系」
たしかにこの対比はよく耳にしますが、私には必ずしも実体がはっきり分かってはいないのです。これは単に、思考活動の対象の違いであると思うのですが、IKさんは、思考活動の形態自体が異なる、と言われているのでしょうか?理系がミクロの部分の整合性を重視するのに、文系は全体的な意味論を重視するのだと。あるいは、直接言及されてはいませんが、「理系」が数字を重視するのに、「文系」は定性的考察を重視するのだと。
そして、IKさんは、銀英伝の解釈は「文系」的に行うべきと言われているのでしょうか?
「文系」というと、大学の学部でいえば、法学部や経済学部や文学部に相当するのでしょうか?そういう分野では私は門外漢ですが、少なくとも法律や経済に関しては、IKさんが言われることとは少し異なるイメージを持っているのですが。
例えば、法律とは、立法にせよ司法にせよ、徹底して「ミクロ」な部分を追及するのではないでしょうか?Aという法律に従うことがBという法律を破ることに繋がらないよう、末端にいたるまで整合性が要求され、原則としてただ一つの「例外」も許されないのではないでしょうか?また仮にAとBが相反する状況を生じる場合には、どちらが優先するかまで厳密に規定するのが「法律」であるように思います。
経済はおそらく「マクロ」なものでしょう。しかし、私が経済学に抱いているイメージは、卑俗な言い方をすれば「数学の化け物」というものです。経済学者や証券アナリストが利用する数式に比べたら、私がやった計算など小学生の宿題以上のものではないでしょう。経済はマクロ現象であり、だからこそ解釈にも予測にも、厳密な数学的解析を必要とするのだ、という認識を私はもっています。これは、もっと広い意味での「社会学」も同じですね。(余談ですが、ハリ・セルドンの「サイコ・ヒストリー」はその極限の形というべきでしょうか)
いわゆる「文学」はどうか。
文学は「創作」であるという点で経済とは異なるし、通常一人の作者が創作するという点で法律とも異なるのでしょう。特に後者はIKさんのご指摘と関連しているように思います。長い年月と多大な労力を費やして整備されてきた法律とは異なり、文学という創作物は矛盾を除ききるのが難しいのだから、その点を追求してもしかたがないのだと。
そうだとすれば「作中記述」から何かの「作中事実」を帰結しようという試み自体が意味のないことになるのでしょうか?移動要塞についていうなら、ガイエスブルグが移動した時点の記述では「可能」と、それ以外の箇所の記述では「不可能」と結論するのが自然であり、作者である田中氏はその不整合を解決しようとしていないし、そもそも不整合があることに気付いてもいなかったのでしょう。
そのような不整合を「きれいに」説明しようとしたのが、この一連のスレッドであり、複数の説明方法が提示され、それぞれの正当性をめぐって紛糾した、ということになるわけですね。
適切な例かどうかは分かりませんが、私は「邪馬台国論争」を連想しました。「畿内だ」「九州だ」という論争が、徳川時代から200年くらい続いているのでしょう。論争が起こるそもそもの原因は、恒久移動要塞に関する銀英伝の記述と同様、魏志倭人伝が邪馬台国の所在地について明確な記述をしていないことにあります。畿内説と九州説の対立は不明確な記述の異なる解釈間のものですね。またそれぞれの説を支持する傍証として、九州説は例えば吉野ヶ里遺跡を、畿内説は三角縁神獣鏡などを持ち出しているのですね。
このような論争の話を聞いて、私のような人間が真っ先に考えるのは、「それぞれの説を主張する人は、自説の正しさが証明されたと信じているのだろうか」という点なのです。私からみれば、現時点のデータから邪馬台国論争に下せる結論は一つしかなく、それは「卑弥呼が九州にいたと断じることも、畿内にいたと断じることも不可能」というものです。
私が、今回の論争でとってきたスタンスも同じです。これまでの成り行きから、私は「否定派」になってしまっていますが、正確には「分からない派」です。ただ、「肯定派」の人たちが、そのような第三の立場を認めず、「恒久移動要塞は可能だと証明された」と主張されるので、結果的に否定派のスタンスから論駁することになっていますが。
もしもIKさんにお答えいただけるなら尋ねてみたいのですが、「文系」というのは、このような第三の立場を認めないのでしょうか?だから「畿内説」や「九州説」はあっても、「分からない説」は存在しないのでしょうか?そして同じことが銀英伝の移動要塞論争にも起こっているのでしょうか?
>これ以上の議論によって得られるものがあるとしても、それ以上のものが失われることにもなるでしょう。
「失われる」という言葉を読んで、私はあることを思い出しました。私がこの掲示板で知り合った最大の「親友」であり、今回の論争の「戦友」でもあった古典SFファンさんが退場宣言をして出てゆかれたことです。タナウツにとっては惜しんでもあまりある損失であり、私としては声の限りに復帰を呼びかけたいのですが、同様のことがこれからも起こりうるというのであれば、慎重を期さねばなりません。
最後に一つだけ誤解を指摘しておきます。
>アインシュタインやランダウをミクロの問題のみならず作品全体に敷衍することに、どれほどの妥当性があろうかということですね。それでは物理学になってしまいます。
アインシュタインやランダウに言及したのは古典SFファンさんで、私ではありません。私は、銀英伝の記述だけでは結論を出せない問題に結論を出すため、我々が知る物理法則を採用しようと提案したことはあります。しかし、論争相手に受け入れられなかったので、私自身の論旨には持ち込んではいません。
> まずは、過分なお言葉をいただき、ありがとうございます。また、回答が遅れたことをお詫びします。実は、IKさんが土曜日に投稿されてから、どう回答しようかずっと迷っておりました。
いいえ、そもそもお答えをいただけるとは思っておりませんでした。
管理人さんでもない私が、レフリーめいたことを発言すること自体、ご両者に失礼、明らかに出すぎているのですが、そう思えばこそ「観察」を続けていたのですが、いつ果てるとも知れないので、個人的な意見をいいたくなった、ということです。
今回の Ken さんのお話に答えるのは、移動要塞論そのものとはずれますが、別スレッドということでよいですか?
> 正直に申しますと、「文系と理系」、「マクロとミクロ」いうご指摘には、虚をつかれました。そういう切り口で、この問題を捉えてはおりませんでしたので。IKさんの投稿を読んで、私なりに考えをまとめようとしたのですが、正直うまくまとまりません。しかし、いつまでも回答を遅らせるのも失礼ですので、今の時点で抱いている疑問と感想を書かせていただきます。
>
> 「文系と理系」
>
> たしかにこの対比はよく耳にしますが、私には必ずしも実体がはっきり分かってはいないのです。これは単に、思考活動の対象の違いであると思うのですが、IKさんは、思考活動の形態自体が異なる、と言われているのでしょうか?理系がミクロの部分の整合性を重視するのに、文系は全体的な意味論を重視するのだと。あるいは、直接言及されてはいませんが、「理系」が数字を重視するのに、「文系」は定性的考察を重視するのだと。
>
> そして、IKさんは、銀英伝の解釈は「文系」的に行うべきと言われているのでしょうか?
「行うべき」などとは言えるものではありません。文学は結局は科学ではないのだから、科学的整合性のみで捉えるのは難しいだろうな、ということです。
もしある部分が「科学的」に説明がつくとしても、それを全体に広げることができますか。再現性がないと「科学」とは言えないと思いますが。
この再現性がないにも拘らず、一部分を「科学」で切り取ろうとする姿勢をとある方は「空想科学読本」的だと評していたのだと私は理解しております。
科学で言えば、私は今もって銀河系規模での統一的コミュニティが成立することをどうしても自分に納得させられません。しかしそれは棚上げできるのですね。文学ですから。そういうものとして読めばいいのです。
田中芳樹さんは確かに優れた物書きです。しかし彼は文学博士課程を修了したのであって、科学者ではない。科学にはるかに造詣の深い他のSF作家でさえ、物語であろうとすれば科学的に矛盾する記述を行っています。
もちろんそんなことは Ken さんは百も承知であるでしょうし、この点、おそらく意見の相違はないと思います。科学的整合性の不備が文学的価値を損なうものではないことを。
しかしこの点を認識するならば、「評価」に関わる自説を科学的な論拠によって補強することそれ自体が無理があるのです。そういう性質で補強されるべき対象ではないからです。
もちろん「お遊び」としては充分ありましょうが、「評価」を補強するには政治的、思想的要素がなければなかなか対話が成立しにくいと思いますがいかがでしょうか。
> 「文系」というと、大学の学部でいえば、法学部や経済学部や文学部に相当するのでしょうか?そういう分野では私は門外漢ですが、少なくとも法律や経済に関しては、IKさんが言われることとは少し異なるイメージを持っているのですが。
>
> 例えば、法律とは、立法にせよ司法にせよ、徹底して「ミクロ」な部分を追及するのではないでしょうか?Aという法律に従うことがBという法律を破ることに繋がらないよう、末端にいたるまで整合性が要求され、原則としてただ一つの「例外」も許されないのではないでしょうか?また仮にAとBが相反する状況を生じる場合には、どちらが優先するかまで厳密に規定するのが「法律」であるように思います。
これは本論からずれるかも知れませんが、興味深いご意見です。
何と言いましょうか、細部に拘ることそれ自体を否定しているのではなく、そこに大局観があるかどうか、ということですね。
「法治主義」と「法の支配」という概念が違っていることはご存知でしょうか。ソクラテスは「悪法も法である」と言いつつ毒杯を仰ぎましたが、悪法は法ではないという考えもあり、こちらの方が主流になりつつあると思います。
以前、私が「テキストだけではなくコンテキストにも着目すべきだ」と言ったことを覚えていらっしゃいますか。
理科系の学問というものは本質的にそこに「自我」があってはならないのであり、テキストを追う性質があるように思います。それはそれでその枠組みの中では絶対に必要なことであり、文系でも対話を目指すならばある程度、科学的であることは必要です。しかし科学と科学的は全然違うのです。
> 経済はおそらく「マクロ」なものでしょう。しかし、私が経済学に抱いているイメージは、卑俗な言い方をすれば「数学の化け物」というものです。経済学者や証券アナリストが利用する数式に比べたら、私がやった計算など小学生の宿題以上のものではないでしょう。経済はマクロ現象であり、だからこそ解釈にも予測にも、厳密な数学的解析を必要とするのだ、という認識を私はもっています。これは、もっと広い意味での「社会学」も同じですね。(余談ですが、ハリ・セルドンの「サイコ・ヒストリー」はその極限の形というべきでしょうか)
心理歴史学は私の考えではおそらく成立不可能です。
滞米経験のおありになる Ken さんならばご存知でしょうが、経済学は欧米では理系に分類されています。サミュエルソンが MIT の教授であるように。
しかし経済学は科学的ではあるが科学ではない。その意味では文系でしょう。数字をいくらひねりまわしたところで、絶対普遍の原理など経済学にはないからです。そんなものがあれば、昨今の経済不況は橋本内閣の時にとっくにけりがついていたでしょうね。
> いわゆる「文学」はどうか。
>
> 文学は「創作」であるという点で経済とは異なるし、通常一人の作者が創作するという点で法律とも異なるのでしょう。特に後者はIKさんのご指摘と関連しているように思います。長い年月と多大な労力を費やして整備されてきた法律とは異なり、文学という創作物は矛盾を除ききるのが難しいのだから、その点を追求してもしかたがないのだと。
>
> そうだとすれば「作中記述」から何かの「作中事実」を帰結しようという試み自体が意味のないことになるのでしょうか?移動要塞についていうなら、ガイエスブルグが移動した時点の記述では「可能」と、それ以外の箇所の記述では「不可能」と結論するのが自然であり、作者である田中氏はその不整合を解決しようとしていないし、そもそも不整合があることに気付いてもいなかったのでしょう。
>
> そのような不整合を「きれいに」説明しようとしたのが、この一連のスレッドであり、複数の説明方法が提示され、それぞれの正当性をめぐって紛糾した、ということになるわけですね。
まったくその通りです。しかし「きれいに」説明できるはずがありません。科学じゃないんですから。どのような立場に立とうとも、100%というのはあり得ないんです。
だから20%あるいはそれ以上は「評価の相違」として突き放すしかないでしょう、と私は言っているのです。
一介の素人が地図を見ながら大陸移動説を考えようが、特許局の役人が「特殊相対性理論」を発表しようが、それが正しいならば科学においては正しいんです。ケンブリッジ大学の本職の先生があとで恥をかくこともあり得るんです。科学というものはそういうものです。「誰が」というのは本質的な問題ではありません。
> 適切な例かどうかは分かりませんが、私は「邪馬台国論争」を連想しました。「畿内だ」「九州だ」という論争が、徳川時代から200年くらい続いているのでしょう。論争が起こるそもそもの原因は、恒久移動要塞に関する銀英伝の記述と同様、魏志倭人伝が邪馬台国の所在地について明確な記述をしていないことにあります。畿内説と九州説の対立は不明確な記述の異なる解釈間のものですね。またそれぞれの説を支持する傍証として、九州説は例えば吉野ヶ里遺跡を、畿内説は三角縁神獣鏡などを持ち出しているのですね。
>
> このような論争の話を聞いて、私のような人間が真っ先に考えるのは、「それぞれの説を主張する人は、自説の正しさが証明されたと信じているのだろうか」という点なのです。私からみれば、現時点のデータから邪馬台国論争に下せる結論は一つしかなく、それは「卑弥呼が九州にいたと断じることも、畿内にいたと断じることも不可能」というものです。
>
> 私が、今回の論争でとってきたスタンスも同じです。これまでの成り行きから、私は「否定派」になってしまっていますが、正確には「分からない派」です。ただ、「肯定派」の人たちが、そのような第三の立場を認めず、「恒久移動要塞は可能だと証明された」と主張されるので、結果的に否定派のスタンスから論駁することになっていますが。
成り行きでこのようなことになったのは私は理解しております。その意味では、この点で Ken さんを擁護するのは他者を非難することにつながるので控えていましたが、一部の方の表現に必ずしも愉快な思いをしているのではないことを思い切って表明しておきます。ただしそれを言えば私自身の過去もありますので、ひとり善人づらするつもりはございません。出来ればそれぞれに可能な範囲で控えるよう努力していただきたいと希望するだけです。
成り行きとは言え、今回の Ken さんのスタンスは「否定派」になっていたように思います。本当のことを言えば、双方に言うべきかも知れませんが、話しやすい Ken さんに言ってしまったという事情があります。その点、割り引いて下さると有難いです。
個人的なことを言いますと、先日、私がたてた某ローマ関係トピックスで、学者の意見の正当性について議論がありました。ある方が学者の定説なんて数年で代わるのだから本を論拠にするのではなく自分の意見をもてとおっしゃいまして、まあ、それにも一理ないこともないと思ったのですが、100%はありえぬとしてもでは0でいいかというとそういうことでもないのです。それではただの「妄想」になりますから。具体的にはカエサルの正しい発音(当時の発音)は何かという話題でしたが。
突きあわせて矛盾を切り落としてまあ80%くらいにする。それが大事なのだと思います。人文学は科学ではないですから(人文科学という言い方はおかしいと思います)それでも100%にはなりません。全人類において100%の合意が成立した時は、人類がたったひとりになった時です。
オンかオフかのデジタル思考を理系的と評したのであり、程度問題を重視するのを文系的と評したのです。
残りの20%まで詰め合わせようとすれば、それこそ相手の世界観まで打ち砕くことになりますね。議論では判決は出ないのですよ。ここは法廷ではないのです。
> もしもIKさんにお答えいただけるなら尋ねてみたいのですが、「文系」というのは、このような第三の立場を認めないのでしょうか?だから「畿内説」や「九州説」はあっても、「分からない説」は存在しないのでしょうか?そして同じことが銀英伝の移動要塞論争にも起こっているのでしょうか?
「分からない」説を私は認めるべきだと思っていますよ。ただし「分からない」と言い切ってしまう前に、合意できる分はしておくという作業も重要ですね。ただし究極的には「分からない」派ですよ、私は。80%の部分では肯定派ですけど、いつも20%の猶予は保持しておりますから。
ですから私の意見は決して Ken さんのみに言っているのではないのです。古典SFファンさんのお言葉を引用したのは(もちろんそれが古典SFファンさんのものだと知っておりましたよ)古典SFファンさんにも言いたかったからです。
> >これ以上の議論によって得られるものがあるとしても、それ以上のものが失われることにもなるでしょう。
>
> 「失われる」という言葉を読んで、私はあることを思い出しました。私がこの掲示板で知り合った最大の「親友」であり、今回の論争の「戦友」でもあった古典SFファンさんが退場宣言をして出てゆかれたことです。タナウツにとっては惜しんでもあまりある損失であり、私としては声の限りに復帰を呼びかけたいのですが、同様のことがこれからも起こりうるというのであれば、慎重を期さねばなりません。
それは古典SFファンさんご自身が判断されることです。私個人の見解を言えば、あのような形で退出宣言をなされたことは氏らしからぬ軽挙であり、出来得れば復帰して欲しいと私も思いますが、やはり氏ご自身の判断を尊重したいと思います。
Ken さんのみに過分な責を負わせているのは重々承知しています。ただ「譲れる人が譲る」というのも大事ではないかと思いまして、敢えて申しました。