私の創竜伝考察1-A

創竜伝1 超能力四兄弟

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board4 - No.6268

「自筆ノート持ち込み可」について

投稿者:黒崎
2005年02月21日(月) 13時35分

 はじめまして、何年も前に終わった議論であり、皆さんには今更でしょうが、思うところを述べさせてください。

 私は竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」というのは、従来の試験方式よりは、生徒の力を育てる可能性が大きいと考えます。

 確かに、この試験方式の場合、世界史に意欲を持てていない生徒は、誰か歴史の得意な人、あるいは生真面目な性分の人のノートを写して試験に臨み、似通った答案が多く出現するでしょう。
 しかしこの「人のノートを書き写す」という行為、少なからぬ時間と労力を要します。出題される4~5問にからむ事項に限ったとしても、その出題の仕方は「古代ギリシアの都市国家について述べよ」などといった、広範な知識・情報を求めるものになりますから、必要な部分を選び、抜書きする行為は、歴史の勉強法の基本的なあり方に他なりません。
 また、母体となるノートが同じだとしても、その整理の仕方、選び方には個性も現れるでしょう。差が出ないとおっしゃいますが、意欲を持って望んでいる生徒であれば、個々の事項の結び付け方も一夜漬け組みとは差が出るでしょうし、関連する「余分な」知識や情報による味付けで、その生徒ならではという解答も生まれる余地があると思われます、また、限られた解答欄に、どの事項をピックアップして論述するかは、個々の興味や志向が反映され、多くの可能性を持っていると思います。

 歴史の勉強に対して意欲を持てず、単位さえ取得できればいいという生徒の場合、通常の試験形態であったならば、どのような勉強をするでしょうか?やはり生真面目にノートをとる友人に頼み込んでノートを借り、コピーをとり、授業で強調されたであろう下線部分や色つき部分を重点的に暗記して(おそらく前日の夜の数時間だけで)試験に臨み、赤点さえ免れればいい、という勉強になるでしょう。これはそれこそ不毛な暗記ですよね。
 これに対して、自筆ノートを作る場合、誰かさんのノートコピーし、それを読み、重要と思われる部分を選び取り、書き写す、そして時間が許せば出題に対してどのように解答欄を埋めるか、彼なりに一生懸命考え、まとめ、(丸写しだとばれないように化粧を施して)当日に望み、用意した解答を読み、書き写す、、、実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです。「他人の努力を土台にしている」という問題は依然としてありますが、一夜漬けの丸暗記より、よほど頭を使わせ、努力させます。授業のその時は睡魔に負けても、人のノートを読んでいるうちになにか関心を引かれることが見つかるかもしれません(多分に希望ですが)。

 もちろん、試験の方式で歴史への興味がわくということはまずないでしょう。この方式は、教師にも大きな負担を求めます。
 平素の授業において、生徒の意欲や関心を刺激し、生かすようにつとめなければなりませんし、生徒をよく観察して、どのようなグループ化、つながりがあるのか把握しなければなりません。
 また、文献から丸写ししてきたら、その出典が何なのかわからなければいけないでしょうし、その生徒が彼なりに内容を消化しているかどうか、洞察できるかどうかも重要です。
 端的に言えば、明らかに丸写しの場合、誰のノートがどのようなルートで回されたのか推察できるくらい、生徒個々を把握していることが望ましいでしょう。
 また、採点基準を明確にし、努力と手抜きを的確に見抜けなければ、十分に機能はしないでしょう。(論述問題の採点はそこが難しい)
 このように、教師にも多くの努力と研鑽が必要とされ、手抜きを許さないのが、自筆ノート可方式だと思います。

 科目間バランスを崩すとの指摘ですが、これはあまり意味がないでしょう。センター試験において、竜堂方式を世界史だけ適用・・・というようなことになれば、確かに不公平でしょうが、共和学院の世界史と日本史の間で平均点の格差があっても、単純な得点加算で足を切るセンター試験ではないのですから、評定は教科内における相対的位置でしょうから、日本史は日本史、世界史は世界史でしょう。日本史で評定8を取ることと、世界史で評定8を取ること、その為に必要なクラスにおける順位などがおよそ同じになるようにすればいい・・・これはまた教師の工夫や力量になると思いますが。

 自分で努力してノートを作った生徒と、それを写して平素の努力を省略した生徒を同列に置くことになることを、カンニングとして嫌悪されてるのだと思います。が、これはこれで、試験後などにノートを回収してチェックするなどすれば、かなり掴めるのではないでしょうか?教師がまめに図書館などに足を運ぶことも、実態把握に役立つでしょう。
 平素の努力と工夫で、少しでも多くの生徒に意欲を持たせ、歴史の面白さを伝えることとあわせ、教師に多くの負担がかかるやり方ではありますが、調べ、考え、まとめ、論述する力を養う上で、とても有効な試験方法だと、考えます。

 そもそも、入学選抜のための試験ではなく、学習内容やその習熟度の確認が学内定期試験の主旨であり、振り落とすためのものでなく、拾い上げるためのものです。試験を機に、学んで欲しい事項やテーマを頭に入れてもらうこと、調べたり、考えたり、書いたりさせることが目的ですから。
 他人のノートを写しただけの生徒には、その目的である単位取得に必要な及第点を、意欲を持ち、自分なりの工夫や努力をした生徒には、その点を加味した高い評価を与えられるように設定すればいいのではないでしょうか。

 竜堂始のやり方に苦情を申し立てた「優等生」、他大学を受験する成績優秀な・・・ろくに年号を覚えさせない・・・というところから、始の授業内容が受験対策に向かないということへの苦情であることを容易に想像させます。不正行為の横行を告げ口したのであれば、高等科長はそれこそ鬼の首を取ったように高圧的に解任したでしょう。しかしそれは同時に、始が平素の授業において、生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫し、丸暗記や受験対策から外れて、「脱線」が多いことを思わせます。

 私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。いかに関心を惹き、意欲を喚起するか、また、まじめに取り組んだ生徒と横着をした生徒をどう見抜くか、教師自身の努力と工夫を大きく要求しますが、その前提において、望ましい試験方法であると考えます。

 乱文失礼いたしました。読んでくださった方に感謝いたします。

収録投稿13件目
board4 - No.6275

Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点

投稿者:冒険風ライダー
2005年02月26日(土) 22時50分

 少し遅くなりましたが、レスです。

<歴史の勉強に対して意欲を持てず、単位さえ取得できればいいという生徒の場合、通常の試験形態であったならば、どのような勉強をするでしょうか?やはり生真面目にノートをとる友人に頼み込んでノートを借り、コピーをとり、授業で強調されたであろう下線部分や色つき部分を重点的に暗記して(おそらく前日の夜の数時間だけで)試験に臨み、赤点さえ免れればいい、という勉強になるでしょう。これはそれこそ不毛な暗記ですよね。
 これに対して、自筆ノートを作る場合、誰かさんのノートコピーし、それを読み、重要と思われる部分を選び取り、書き写す、そして時間が許せば出題に対してどのように解答欄を埋めるか、彼なりに一生懸命考え、まとめ、(丸写しだとばれないように化粧を施して)当日に望み、用意した解答を読み、書き写す、、、実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです。>

 すいませんが、「これはそれこそ不毛な暗記ですよね」と「実に多くのステップを要しています」との間にいかなる格差が存在しているのか、私にはさっぱり理解できないのですけど。
 まず、「生真面目にノートをとる友人に頼み込んでノートを借り、コピーをとり……」というステップまでは両者共に同じなんですよね? で、そこから「授業で強調されたであろう下線部分や色つき部分を重点的に暗記して(おそらく前日の夜の数時間だけで)」と「それを読み、重要と思われる部分を選び取り、書き写す」に分かれるわけですが、そもそも「ノートを書き写す」こと自体、「おそらく前日の夜の数時間だけで」簡単にできる程度のことなのではないのですか? そして一方、一夜漬けの丸暗記でも「そして時間が許せば出題に対してどのように解答欄を埋めるか、彼なりに一生懸命考え、まとめ、当日に望み、用意した解答を読み、書き写す」という行為をやる人はやるのではありませんか? これでは、どちらも「思考し、書き取ることが必要とされる」ことに変わりはない、ということになりますよね。
 第一、このような論法を使えば、カンニングという行為だって「実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです」ということになってしまうのではありませんか? すくなくともカンニングで点数を稼ごうとする人は、「単位さえ取得できればいいという生徒」よりは、盗み見るであろう解答集を作成する手間を惜しまないでしょうし、カンニング行為がばれないような知恵を必死になって「思考」することでしょうからね(竜堂始の「あの」教育理論ではこの対策さえも無用なわけですが)。
 そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。それこそ「古代ギリシアの都市国家について述べよ」というような「広範な知識・情報を求めるもの」であっても、たった一行か二行、下手すれば10~15文字程度で終わらせてしまうような解答集を作って配布すれば、多くの生徒はそれをただひたすら「何も考えず機械的に」丸写しさえすれば良く、あなたの言う「実に多くのステップを要して……」という過程すらすっ飛ばすことができてしまいます。これでは「一夜漬けの丸暗記」などよりもはるかに、生徒の学習意欲を殺がれてしまうことにもなりかねないでしょうね。
 竜堂始の理想主義的な教育理論など、不正行為の抜け穴だらけにして無効化させてしまう方法はいくらでもあります。他ならぬ自分自身の成績に関わることなのに、それに全く気づかないほど中高生は愚鈍ではないと思いますけどね~。

<科目間バランスを崩すとの指摘ですが、これはあまり意味がないでしょう。センター試験において、竜堂方式を世界史だけ適用・・・というようなことになれば、確かに不公平でしょうが、共和学院の世界史と日本史の間で平均点の格差があっても、単純な得点加算で足を切るセンター試験ではないのですから、評定は教科内における相対的位置でしょうから、日本史は日本史、世界史は世界史でしょう。日本史で評定8を取ることと、世界史で評定8を取ること、その為に必要なクラスにおける順位などがおよそ同じになるようにすればいい・・・これはまた教師の工夫や力量になると思いますが。>

 あの~、センター試験もそうですけど、基本的に「選択科目」というのは「社会科(日本史・世界史・地理など)」や「理科(物理・科学・生物など)」といったように「選択科目全てひとくくりで」他の必須科目と並べられ、総合評価が出されるものではないのですか? センター試験だけでなく、全国模試でも、学校内・学年内・クラス内の総合成績でも、そうやって生徒の順位は決定されていくのですから、必然的に「選択科目間の平均格差」は生徒にとっての死活問題とならざるをえないわけで、「評定は教科内における相対的位置」などというシロモノはせいぜい「選択科目内での赤点判定」くらいにしか役には立ちませんよ。
 第一、あなた自身も「日本史で評定8を取ることと、世界史で評定8を取ること、その為に必要なクラスにおける順位などがおよそ同じになるようにすればいい」などという論法でもって、「選択科目間で格差があってはマズイ」ということを暗に認めているではありませんか。「科目間バランスを崩す」ことが「あまり意味がないでしょう」というのであれば、そもそもそんなことをする必要などあるはずがないのでは?

<自分で努力してノートを作った生徒と、それを写して平素の努力を省略した生徒を同列に置くことになることを、カンニングとして嫌悪されてるのだと思います。が、これはこれで、試験後などにノートを回収してチェックするなどすれば、かなり掴めるのではないでしょうか?教師がまめに図書館などに足を運ぶことも、実態把握に役立つでしょう。>

 それで仮にノート丸写しの実態が明るみに出たとして、では教師側は一体どういう理由でもって生徒に処罰を与えるのですか? 「自筆ノート持ち込み可」を認証しているのは他ならぬ教師側ですから「カンニング行為だからダメ」という論法は当然使えませんし、記述式だから同一の解答が複数個出たらダメ、ではあまりにも横暴というものです。
 第一、あなたの言によれば、「自筆ノート持ち込み可」は「実に多くのステップを要」し、「思考し、書き取ることが必要とされる」「調べ、考え、まとめ、論述する力を養う上で、とても有効な試験方法」であるはずなのでしょう? その丸写しした生徒達は、当然その「とても有効な試験方法」に基づき、自分達自身の手でノートを作成していることにもなるわけですが、その「努力」は評価しなくて良いのですかね?

<竜堂始のやり方に苦情を申し立てた「優等生」、他大学を受験する成績優秀な・・・ろくに年号を覚えさせない・・・というところから、始の授業内容が受験対策に向かないということへの苦情であることを容易に想像させます。不正行為の横行を告げ口したのであれば、高等科長はそれこそ鬼の首を取ったように高圧的に解任したでしょう。しかしそれは同時に、始が平素の授業において、生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫し、丸暗記や受験対策から外れて、「脱線」が多いことを思わせます。>

 「生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫」さえすれば「授業内容が受験対策に向かないということへの苦情」を無視し、かつ「不正行為の横行」を許しても良い、ということにはもちろんなりませんよね。それが答えなのではありませんか?

収録投稿14件目
board4 - No.6279

Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点

投稿者:黒崎
2005年02月28日(月) 04時52分

冒険風ライダーさん、レスいただいてありがとうございます。

>いかなる格差が存在しているのか、私にはさっぱり理解できないのですけど。

歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるものですよね?この点は「歴史授業とは関係のない人物の話や、歴史上におけるエピソードを挿入してみる」ことが、教え方の工夫として望ましいと仰っておられたので、共通認識になるかと思うのですが、その点を踏まえれば、同じ一夜漬けにしても、触れる内容がただの暗記であるのと、多少でも教科書に書かれているような事実だけでなく、それに肉付けし幅を持たせた内容を、考えさせたり書かせたりするのとでは、違いがでると、私は考えます。

 以下は余談ですが、冒険風ライダーさんは人のノートを丸写ししたことがおありでしょうか?不正行為を相当に憎まれているご様子ですから、おそらくないのでは?と推察しておりますが、機械のように一心不乱に写すだけならば、数時間かもしれませんが、いくら試験前とはいっても、通常はそうはいきません、おそらく読みにくい他人の字、興味のない分野ですからなおさらです。退屈で苦痛ですから、集中するのは簡単ではないでしょう。思うより手間隙を食う作業ですよ。病気などで休んだ授業の分を写させてもらうだけでも、結構な手間ですから。また、ばれないような工夫というのは、それこそ無駄な方向の努力ですから、省いてしまって問題はない。
 そもそも、個人的には試験で高い点を取ることなど、本質的にはたいして意味がないことだと思います。
 設定されたテーマについて考えたり、調べたり、意見を発表したり、人物やエピソードについて興味を持ったり、「おもしろいな」と感じたりすることにこそ意味があるので、そういう経験こそが後の財産になるわけです。
 ですから、「もし」不正行為に無頓着な教師で、学級にカンニングが横行したとしても、その教師が平素いい授業をしていれば、それまで歴史に興味を持っていなかった生徒にも、歴史の面白さを伝えられる可能性をもっていると言えます。それは受験技術を生徒に叩き込むエキスパートで、カンニングを見抜く天才的なセンスを持ち、絶対に不正を許さない教師より、遥に価値と可能性をもっているといえます。
 そもそも、不正行為が横行すると学習意欲を削ぐと仰いますが、歴史の勉強、ひいては歴史の試験をクリアするための勉強がつまらないからこそ、多くの生徒が歴史を嫌いになるのです。面白いと思わせることさえできれば、きっかけさえ巧く提供できれば、試験などなくても、いろんな本を読み、調べ、出かけていくようになるものでしょう?試験で高い得点を取ったから歴史を得意である・・・という人はいるでしょうが、高い得点を取れたから歴史が好きで面白いと思う・・・というのは違います。極論を申しますが、試験勉強の意欲など削がれてもかまわないのです。
 その分野に対して興味を持ち、面白いと感じ、調べたり考えたりしたことは、直接的でなくてもその人の中に根付き、財産になりますが、試験のためのテクニックは試験が終わればクリアされてしまうだけのものでしかありません。
 先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。

>  第一、このような論法を使えば、カンニングという行為だって「実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです」ということになってしまうのではありませんか? すくなくともカンニングで点数を稼ごうとする人は、「単位さえ取得できればいいという生徒」よりは、盗み見るであろう解答集を作成する手間を惜しまないでしょうし、カンニング行為がばれないような知恵を必死になって「思考」することでしょうからね。

 その通りです、私はカンニングをした生徒と、そうでない生徒では評価の仕方を変えるべきだと思っていますが、カンニングしようとすることは、相応の努力を要し、ある程度の学習効果があると考えます。

>  そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。それこそ「古代ギリシアの都市国家について述べよ」というような「広範な知識・情報を求めるもの」であっても、たった一行か二行、下手すれば10~15文字程度で終わらせてしまうような解答集を作って配布すれば、多くの生徒はそれをただひたすら「何も考えず機械的に」丸写しさえすれば良く、あなたの言う「実に多くのステップを要して……」という過程すらすっ飛ばすことができてしまいます。これでは「一夜漬けの丸暗記」などよりもはるかに、生徒の学習意欲を殺がれてしまうことにもなりかねないでしょうね。

 確かにそういう手段でクリアしようとする生徒も現れるでしょう、しかし、10~15文字(?)最低限で終わらせられたものと、解答欄一杯に多くの言葉と努力、情熱を費やされたものとでは、明らかに得点(評価)に差をつけることができます。マルかバツかではない、論述問題なのですから。 最低限の内容しか書かれていなければ、最低限の評価しかしない、努力が得点に反映されるということは、興味を持ち頑張った生徒をがっかりさせることにはならないでしょう。
 確かに始のやり方は理想主義的であり、高校生は知恵が回ります。が、多感で、きっかけひとつで考え方が変わったり、成長したり、関心を持ってくれたりする時期でもあります。受験をクリアするための技術訓練より、受験には求められないさまざまな「余分な」知識や経験が、より重要であると思います。
 選択科目の評価は「社会科」でなく、科目名が空欄で、そこに選択した分野が書かれる(社会科であれば世界史・日本史・地理・政経)、だと思います。少なくとも私の通った都立高校はそうでした。
 ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。
 また、私が「およそ同じになるようにすればいい」と申し上げたのは、バランスを重視するのであれば、やりようはある、という主旨であって、別の教師がそれぞれの科目について評価をくだす以上、まったくの公平はありえません、また、点数の稼ぎ易さについても、人によっては日本史(従来の試験方法)の方がやりやすいでしょう。私自身は、それぞれの教師が個々の判断基準で評価を決定すればいいと思っております。
 もちろん、合計得点で切り捨てられるセンター試験などでは、極力科目間の格差がなくなるようにバランスに気を使う必要があります。しかしここで取り上げているのは学内の定期考査ですから、まったく重要な問題ではないと考えます。

>  それで仮にノート丸写しの実態が明るみに出たとして、では教師側は一体どういう理由でもって生徒に処罰を与えるのですか? 「自筆ノート持ち込み可」を認証しているのは他ならぬ教師側ですから「カンニング行為だからダメ」という論法は当然使えませんし、記述式だから同一の解答が複数個出たらダメ、ではあまりにも横暴というものです。

 丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
 丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。

>「生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫」さえすれば「授業内容が受験対策に向かないということへの苦情」を無視し、かつ「不正行為の横行」を許しても良い、ということにはもちろんなりませんよね。それが答えなのではありませんか?

 教え方をこそ工夫すべきである、と仰っておられたので、「優等生からの不満」というだけで始の努力を無視してらっしゃるのかと思い、このように申し上げました。また、受験対策に向かないという授業内容ですが、歴史の面白さを教えたいと思い、それを重視して構成すれば、それは絶対に犠牲になるものです。論述に慣れることで2次試験ではプラスになるかもしれませんけども。また、本来、高校というのは大学受験のための訓練機関ではありませんし、「センター試験世界史」という題目ではありません、従って、授業内容は担当する教師が決定してよいと考えます。受験対策に向かないという非難の方が筋違いです。受験のために特化した指導は、その専門職である予備校や塾に任せておけばよろしいと考えます。
 他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。

 従来一般的な教育ならびに受験技術訓練と、理想主義的教育と、どちら寄りに教師が立っても、手を抜こうとする生徒は精一杯手を抜きますし、要領よく(ずるく)切り抜ける生徒は現れるでしょう。仰っておられたように、高校生は愚鈍ではありませんから。「歴史の面白さ」を伝えたいという立場に立てば、どちらがベターであるか、私は後者だと考えています。
「他人のノートを写し、それによって解答を構築する」ことが不正行為であると断罪なさるのであれば、それはどちらの教育・試験方法であっても、発生すること自体は変わりません。単語と数字を一時的に頭につめこんで、忘れないうちに試験に臨むのと、ノートを持ち込んで論述を書き写すことの差でしかありません。 その二つを比較した場合、どちらが「よりまし」であるか、これもやはり後者だと考えます。数字や単語を一時的に覚えることよりも、要点をまとめられた文章を書き写すことの方が、勉強になると思うからです。試験でなくレポートにしたところで、人のを写す生徒は写すでしょうし、文献を丸写しするだけの生徒だっているでしょう。どのような方法で評価を試みても、ずるいことをする生徒はあらわれるものです。
 重要なことは、そうして「ずるく」立ち回った生徒と、意欲・興味を持って取り組んだ生徒とを見分け、「可」と「優」の差をつけることで、私は、これは教師の力量と努力によって可能である、と考えます。
 他人のノートを丸写しし、それを元に解答を作成しても、オリジナルの作者の解答に似ることはあっても、及ぶことは稀、越えることはまずないでしょう。なぜなら、オリジナルの作者には、ノートに文章化されていない「余分な」知識が、教師の話を聞いたり、討論を取り入れた授業であれば実際に聞いた他の生徒の発言、または文献をあたる過程から身についていくからです。
 カンニングを根絶することよりも、教師自身が面白いと思っていること、受験に求められないような行間の群像、さまざまな人間の願い、思い、エピソードを授業に取り入れることの方が、遥かに重要なのです。
 よって、始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持します。

収録投稿15件目
board4 - No.6283

Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点

投稿者:蜃気楼
2005年02月28日(月) 23時51分

黒崎さん始めまして気になった点を3つ。

> 先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。

 この調査は、かなりシビアです。
 正確に国の位置を示さないと不正解扱いですから。
 韓国と北朝鮮の区別が付かないのは、問題だと思いますが(さすがにそんなアホは1割程度)、
 イランとイラクの区別が(地理的に)つかなくても問題ないと個人的には考えます。
 一般人は中東とだけ分かっていれば充分。

> 調査にあたった日本地理学会の地理教育専門委員会委員長の滝沢由美子・帝京大教授(地理学)は「ほとんどの主要国で地理は必修だ。正しい世界認識を育み、国際感覚を身につけるためには最低限の地理的素養が必要で、高校での地理学習を拡充してほしい」と話している。

 何のために行われた調査だったかはこれだけで明白でしょう。
 地理を必修にするためです。学生が必要な知識を持っているかどうかを調査するためではありません。
 (この先生方にとってはケニアの正確な位置も「必要な知識」なんでしょうけど。)

 それはさておき、世間の地理教師が「竜堂式教育法」を導入したら正解率は上がるんでしょうか?
 私は下がると思います。
 何故なら、「国名とその位置」なんて「英単語」や「年表」と同じ「暗記系」ですから、「竜堂式教育法」がもっとも苦手とする部分です。

>  丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
>  丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。

 試験とは「努力」の程度を測る制度ではありません。
 あくまでも「学力」を測る制度です。
 努力に努力を重ねて書いた原稿用紙数十枚に及ぶ答案が適当にでっち上げた1行に及ばないこともあります。
 それでいいのです。
 「努力点」を与えてもかまいませんがあくまでもそれはお情け程度にとどめるべきです。
 さらに言えば試験とは「答案がすべて」であるべきです。
 オリジナルもコピーも同じ点数が与えられるべきです。

> 他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。

 えーと、進学校出身なんでよく分かりませんが、(学校の授業がすべてでした。)学校の授業を当てにしてないといっても、復習の役にくらいは立ってくれないと困ると思いますが?
 さらに、始の場合試験でまともな点数を取ろうとすれば、受験の役に立たない労力を大量に使わされるのは目に見えています。
 こんな、有害無益教師に文句を言うのは当然だと思います。

収録投稿16件目
board4 - No.6284

「竜堂始の教育法」の問題点

投稿者:パンツァー
2005年03月01日(火) 00時55分

> 歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるものですよね?この点は「歴史授業とは関係のない人物の話や、歴史上におけるエピソードを挿入してみる」ことが、教え方の工夫として望ましいと仰っておられたので、共通認識になるかと思うのですが、その点を踏まえれば、同じ一夜漬けにしても、触れる内容がただの暗記であるのと、多少でも教科書に書かれているような事実だけでなく、それに肉付けし幅を持たせた内容を、考えさせたり書かせたりするのとでは、違いがでると、私は考えます。

「歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるもの」
これは、ある前提条件の下では、正しいでしょうね。
どのような前提条件かと言えば、
「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
という前提条件です。

なんでもそうなのですが、面白い、という段階に達するまでには、
それに必要な知識と言うものを習得しておく必要があるのです。
野球を楽しむにしたところで、そのルールを知っているという前提条件があって初めて可能なのであって、
ヒットやホームランを打てばダイヤモンド上を走ってよく、ホームベースに到達すれば1点が入る、といった基礎知識すらなければ、まったく意味不明のイベントに過ぎません。
歴史の勉強であれば、ある程度、個々の出来事を機械的にでも学んだ後(記憶した後)でなければ、個々の出来事を有機的な関連などの面白み、を味わうことなどできないでしょう。

テストが、人のノートの丸写しで対応できるのであれば、生徒たちは、そもそも基礎知識の習得に励むこともなく、その基礎知識を前提とする「歴史の面白み」を味わう段階に、まずもって到達しそうにありませんね。

> >  そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。> >  そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。

欧米の大学等では、試験時に、教材一式の持ち込みが可、とされることが多いらしいですが、これは、あくまで、基礎知識の記憶の確かさを問うことが目的なのではなく、基礎知識を前提とした思考力、想像力を問うことが目的とされるからです。

単純に比較すれば、
竜堂始の教育法:「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」ですが、
欧米の大学等の教育法:「自筆ノート持ち込み可」
といったところです。
ここで、「竜堂始の教育法」のように、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」をセットにすると、どういうことになるでしょうか。
これでは、丸写し用ノートを作成する最初の一人に関しては、思考力、想像力を必要とする努力をすることになるでしょうが、丸写し用ノートを丸写しする他の生徒たちは、なんら、思考力、想像力を必要とする作業を行いません。
これが、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」はなく、「自筆ノート持ち込み可」のみ程度であれば、どのようなノートを生徒が持ち込むにせよ、試験場で、与えられた問題に対して、生徒たちは頭を捻らざるを得ず、教育の目的が達成されることになるでしょう。もちろん、このような試験を受けるにふさわしい生徒たちは、基礎知識の習得が、ある程度は終了していることが前提です。

>  先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。

理数科目に関しても、ひどい結果でしたね。
これは、ひとえに、それまでの「詰め込み教育」に対する対抗案としての、ここ10年くらい前より行われてきた「ゆとり教育」の失敗に過ぎないでしょう。
結局、「ゆとり教育」という名の下で、以前よりも基礎知識の習得をおろそかとされた生徒たちは、より一層、学力を低下させることになったのです。
上にも述べたように、ゲームのルールにしたところで、最低限覚えないといけないことがあるように、勉強の類の場合は特に、ある程度の知識は、詰め込みであろうがなんであろうが、覚えこんでしまわないと、面白いなどという段階に到達できないことが、往々にしてあるのです。
逆にアメリカなどは、パパブッシュ、クリントン大統領の時代に、ハイスクール以下において、「詰め込み教育」を導入する方針を打ち立てましたが、現在のところ、その成果が上がってきている、という現実があります。

>  確かに始のやり方は理想主義的であり、高校生は知恵が回ります。が、多感で、きっかけひとつで考え方が変わったり、成長したり、関心を持ってくれたりする時期でもあります。受験をクリアするための技術訓練より、受験には求められないさまざまな「余分な」知識や経験が、より重要であると思います。

これなんですけど、これだけ生涯教育が叫ばれ、試験、資格の類が、世の中に溢れる時代となった今、「受験をクリアするための技術訓練」、これはかなり重要です。
いかに要領よく本質を押さえるか、これは、学校教育の段階でぜひ、習得しておくべき能力であるに違いありません。
「勉強の仕方」、これを教えてもらえたら、将来、何を勉強するにせよ、大いに役に立つことでしょう。

>  ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。

センター試験のような全国模試だけでなく、学内の試験であっても、総合順位を出すには、各学科の点数を合計して総得点を算出し、その総得点の大小で決定するものではないでしょうか。
そうすれば、総得点を出す上で、各教科の格差が大きくなるほど、総得点に基づく総合順位が怪しくなってくることになるでしょう。総合順位が高いにもかかわらず学力は低いなど言った状況を、生徒が誤解する恐れもあります。さらには、教科選択において、「歴史」が順位上有利、となれば、生徒がその有利点のみを参考にして「歴史」を選択するなど、より生徒の興味や適性に基づく教科選択から外れる結果を招く恐れもあるでしょう。

>  カンニングを根絶することよりも、教師自身が面白いと思っていること、受験に求められないような行間の群像、さまざまな人間の願い、思い、エピソードを授業に取り入れることの方が、遥かに重要なのです。
>  よって、始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持します。

授業を面白くするのは、教師の力の見せ所でしょう。
授業自体に関しては、必ずしも、基礎知識の暗記の場、である必要などありません。
しかし、問題になっているのは、
竜堂始の教育法:「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」
では、なかったでしょうか?

上にも述べたように、
「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」と言うこと自体、
ごく一部の生徒(ノートを作成する生徒)を除いて、生徒の思考力や想像力を全然殺す作用を及ぼすために、望ましくないことです。
また、「自筆ノート持ち込み可」は、
高校以下のような基礎知識の習得段階においては、その習得を妨げる作用の方が大きく、一般的に望ましくないことでしょう。黙っていても、基礎知識を勝手に習得してくれるような優秀な生徒たちの集団において、なら別でしょうが。
したがって、
「始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持」
することは難しいですね。

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board4 - No.6285

Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点

投稿者:黒崎
2005年03月01日(火) 01時51分

 はじめまして^^
 地理学会の方であれば、近年学校教育において地理や歴史は冷遇されてきました(時間削減など)から、そのように(地理の時間増や必修化)主張されるのは理解できます。私の頃はまだ地理も必修だったのです^^;
 それはともかく、私としては、従来の教育方法は歴史や地理への興味を削ぎ、よって知識も身についていない、社会情勢、社会現象としてあれほど騒がれても、その国や地域がどこにあるのかわからない・・・という主旨で申し上げたのですが、確かに始のような指導をし、それがうまくいったとしても、正答率があがるというものではないかもしれませんね。
 しかし、下がるという推論も確かではないと思います。その理由は、関心を持たせることに成功すれば、自分で調べたり、知ろうとしたりします。そうして知ったことは、試験のための暗記で覚えこんだことよりも、身につき、残るからです。
 アフリカの人々の暮らしや文化に興味をもって学んだ人にとっては、ケニアの地勢や主要な都市名、民族、言語、そういったことは「暗記」ではなくなっているでしょう。

>  試験とは「努力」の程度を測る制度ではありません。
>  あくまでも「学力」を測る制度です。
>  努力に努力を重ねて書いた原稿用紙数十枚に及ぶ答案が適当にでっち上げた1行に及ばないこともあります。
>  それでいいのです。
>  「努力点」を与えてもかまいませんがあくまでもそれはお情け程度にとどめるべきです。
>  さらに言えば試験とは「答案がすべて」であるべきです。
>  オリジナルもコピーも同じ点数が与えられるべきです。

 入学選抜試験や資格認定試験ということであれば、私も、答案が全て、ということでよろしいかと思います。
 しかしながら、学内の定期考査ということですので、私は努力点に高い評価を与える方針を是とします。
 模試のように順位付けを目的としたものではなく、その学期、期間で、その生徒がどの程度学んだか、どんなことを身に付けたか、といった確認が主目的です。
 また、先にも述べましたが、基準に達しないものを振り落とすために行う試験ではないのです。救うための試験なのです。
 試験をクリアすることで単位として認定される、そのことを動機づけとして、学んだことを再確認したり、あぴーるしたりする機会です。
 そして、指導方針が「歴史の面白さを伝える・一人でも多くの生徒に意欲・興味を持ってもらう」ということですから、適当にでっち上げた一行が、一生懸命さがひしひしと伝わってくる原稿用紙数十枚の答案に優ることはありません。

 では文句を言ったのは蜃気楼さんのような方だったかもしれませんね。
 高等学校の役割を、大学へ進学するための準備・訓練としか捉えないのであれば、「有害無益」ということになるのでしょう。
 そのことを前面に打ち出した「進学校」、そして「そのために」その学校を選んだ人にとっては、無駄な労力でしかないのかもしれません。
 しかしながら、本来、高等学校は大学進学のための予備校ではありません。大学へ進めば選んだ専門以外はなかなか学べません、教養科目も一応はありますが、講師は多くが「研究者」としては優秀でも、「教育」の訓練を受けていない人が殆どです(大学の講師になるのに教員免許はいりません)し、内容はその講師の専門に偏ります、総合的に学ぶことの出来る最後の場と言うことができると思います。
 また、作中の共和学院の理念?からしても、受験技術を訓練するだけの授業の方こそ、否定されるものです。
 受験の役に立たない→有害無益、としか思われないことは、とても残念なことだと思います。

 それでも、そうした目的しか持てない生徒にも、始のやり方ならば逃げ道があるわけです。歴史が好きな、或は生真面目な人に渡りをつけ、ノートを確保し、最低限の解答を構築しておけば、単位は出ます。通常の試験より「楽に」「余分な科目」をクリアできるわけです。
 もちろんそれを推奨したりはできませんし、教師としてはとても残念なことですが。
 試験とは答案が全てだ、とし、努力ではなく結果だ、ということならば、教師の印象や主観に左右される推薦枠などあてにしないでしょうから、予備校にいくなり、夏期・冬期講習を受けるなり、予備校の人気講師が出している参考書を学ぶなり、いくらでも受験に特化した訓練は出来るでしょう。
 また、一クラス50人いれば、それぞれの志望があるわけで、その皆に効果的な受験勉強を、少ない時間で行おう(選択世界史に与えられる時間などたかがしれていますから)というのは土台無理な話です。
 これが予備校のように「センター試験世界史」「関関同立コース」「国公立A・B」などのように、志望別、学力別に編成したクラスであれば、また事情は異なるわけですけれど。
 受験の役立たないから無駄だ、というのは現代の教育の失敗、悪い側面だと私は思っておりますので、文句をいうのが当然だ、学内の試験でも答案が全てであるべきだ、という意見には同意できません。

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board4 - No.6287

Re6279:不正行為の横行を許す教育の弊害

投稿者:冒険風ライダー
2005年03月01日(火) 03時20分

<そもそも、個人的には試験で高い点を取ることなど、本質的にはたいして意味がないことだと思います。
 設定されたテーマについて考えたり、調べたり、意見を発表したり、人物やエピソードについて興味を持ったり、「おもしろいな」と感じたりすることにこそ意味があるので、そういう経験こそが後の財産になるわけです。
 ですから、「もし」不正行為に無頓着な教師で、学級にカンニングが横行したとしても、その教師が平素いい授業をしていれば、それまで歴史に興味を持っていなかった生徒にも、歴史の面白さを伝えられる可能性をもっていると言えます。それは受験技術を生徒に叩き込むエキスパートで、カンニングを見抜く天才的なセンスを持ち、絶対に不正を許さない教師より、遥に価値と可能性をもっているといえます。>

 「学級にカンニングが横行」するのを許すような「不正行為に無頓着な教師」という時点で、「その教師が平素いい授業を」行うなど到底不可能であるとしか言いようがありませんね。学校内外からの社会的評価が下がるというだけでなく、そんなバカ教師に対して一体誰が真面目に教えを乞うというのです? 不正行為の腕のみ極めて安楽と堕落を貪る生徒と、教師を軽蔑と侮蔑の目で冷淡に無視する生徒の二分極化によって、それこそ学級崩壊に陥る危険性すら、ないとは言い切れないでしょう。
 「最低の歌手が最低の人間であることはないが、最低の教師は最低の人間だ」というのは創竜伝の作中で謳われていることですが、この言に従うのであれば、「不正行為に無頓着な教師」というのは「最低の人間」もいいところなのではないですかね?

<その通りです、私はカンニングをした生徒と、そうでない生徒では評価の仕方を変えるべきだと思っていますが、カンニングしようとすることは、相応の努力を要し、ある程度の学習効果があると考えます。>

 あなたの考えだと、たとえばスポーツでも「そこそこの成績で良い」と適当に妥協するやり方より「ドーピング行為に手を染めてでも一位を取りたい」という考え方の方が「相応の努力を要し、ある程度の学習効果がある」からスバラシイのでしょうね。もちろん、スポーツ界で実際にそんなことをする人間が社会からどのような評価を受けるかについては今更言うまでもないでしょうが。
 そもそも、あなたはカンニングという行為が何故「不正行為」呼ばわりされるのかということが全くと言って良いほど分かっていないのではないですか? 上で挙げたスポーツにおけるドーピングもそうですが、試験の際にカンニングが何故いけないかというと、それが本当に真面目に勉強している他の生徒との間で著しい不公正を招くからです。真面目な人間がバカを見るような不公正を招く「不正行為の横行」を許す教師は、その存在自体が学校にとっても保護者にとっても、そして何より生徒にとっても極めて有害なシロモノでしかありません。
 にもかかわらず、「カンニングしようとすることは、相応の努力を要し、ある程度の学習効果があると考えます」などという主張を本気かつ大真面目に行う人がいたのには驚きましたよ。非常に失礼ですけど、そんな主張はギャグと笑いの世界にしか存在しないと今まで思っていましたのでね、私は。

<ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。>

 何で問題にならないのです? そして何故「歴史教育の目的」から「全国模試の順位を争うこと」「学内での順位を争うこと」が勝手に捨てられてしまうのですか?
 学校の授業というのは、私立や有名進学校であればあるほど、センター試験や全国模試を意識したものにならざるをえません。そこで好成績を獲得すれば、学校としての株も上がりますし、より優秀な生徒を集めやすくなるわけですから、これは当然のことです。そして、学校が全国で争うその手の試験を勝ち抜こうとするのならば、「学校内の試験」をレベルの高いものに設定し、生徒の頭と知識を常日頃から鍛えておく必要があるのは自明の理というものでしょう。学内考査というのはいわば、全国模試やセンター試験に備えるための「事前演習」とでもいうべきものなのであり、決しておろそかにして良いものではないのです。
 確かに竜堂始の教育法は「歴史に興味を持つ生徒を増やす」ことに重点が置かれていることでしょう。しかしそれは所詮「指向しうる目的のひとつ」でしかなく、他の目的を無視してでも通さなくてはならないものではありませんし、ましてや「不正行為の横行」という副作用を受け容れてまで推進すべきものでもないのです。

<丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
 丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。>

 究極的なまでに恐ろしい教育理論ですね。これって要は「教師の主観に基づいて生徒を点数で評価する」ということではありませんか。これでは、教師が生徒の価値観をも支配しかねない構造的な独裁体制を許すことにもなりかねませんよ。
 何しろ、この教育手法の拠りどころは「教師の主観」だけしかないのですからね。事実がどうであろうが、教師側がこうと決めてしまえば、黒が白になってしまう可能性がありますし、その逆もありえます。たとえば、本当は生真面目かつ自力で模範解答を出したはずの生徒が、教師の主観によって「丸写し」と誤って評価されたり、教師の個人的な好悪の感情によって生徒のえこひいきが行われたりする危険性が存在するわけです。
 竜堂始の例で考えれば、たとえば「南京大虐殺と従軍慰安婦の問題について述べよ」という問題に対して「そんなものは第二次世界大戦における戦勝国のプロパガンダと、マゾヒズムに駆られた反日的日本人がでっち上げた虚構の産物である」などという「解答」を「生徒が自力で調べて」出した場合、本来ならばその「努力したことがうかがえる生徒」を「高く評価」しなければならないところを、主張内容が自らの思想と相容れないという理由で0点をつけた挙句、放課後にその生徒を呼びつけて支離滅裂なお説教を垂れて悦に入る、といったことが行われるわけですね(笑)。実際、これと似たようなエピソードは、論述式の試験を受験者や生徒に課している大学でしばしば発生し、大きな問題になっています。
 こんな教育手法のどこが理想的なのですか?

<他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。>

 ひとつの可能性という条件付で彼の心境を述べてあげましょうか? 彼は、真面目に勉強することで好成績を維持しているはずの自分に、カンニングやりたい放題などという不正行為でもって対等に並んでいる劣等生の存在自体と、それを許している教師の姿勢に反発しているのですよ。不正行為によって自らの優越性が保てなくなる不公正と不条理に対する怒り、これは充分に正当なものであると言えるのではないですか?
 まあ上記の文はひとつの仮定でしかないにしても、蜃気楼さんも仰るように、卒業後どこに行くにせよ、学校の授業が全く何の役にも立たないというのは、教師としてだけでなく、学校としても大いに問題があるのではありませんか?

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board4 - No.6288

Re:「竜堂始の教育法」の問題点

投稿者:黒崎
2005年03月01日(火) 04時50分

> 「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
> という前提条件です。

 確かに、化学を学ぶのに元素記号や法則を何も知らないでは始められません、「ある程度の知識を習得している」ことが前提となるということはわかります。
 この舞台は高校でしたから、私は始の方式が成り立つと考えました。小学校・中学校の段階であれば、違うやり方が求められるでしょう。しかしそれでも、大事なことは年号や名前を「覚える」ことではありません。

 野球を例にあげられましたが、確かに、野球をするためにはルールを学び、投げ方や打ち方を練習し、、、というように段階を経る必要があります。
 しかし、野球をやってみようと思うのは何故でしょうか?それは、公園で楽しそうに、あるいはグランドやテレビでかっこよくプレイしてる姿をみて、それに憧れて、ということではないですか?
 また、初めて野球に触れるとき、まずルールを覚えさせられましたか?細かいことはいいから投げてみろ、打ってみろ、だったはずです。
 まず興味や楽しさ(楽しそう)が先にあり、それがあるからこそ必要な知識を身に付ける努力をするのです。もっと上手くなりたい、もっと知りたい、というエネルギーが生まれるのです。
 ゲームにしても然り、そのゲームで遊んでる人が楽しそうだ、友達が熱心に勧める、紹介している文章が面白い、扱っている題材が好きだ、似たゲームを知っているが面白かった、これも面白いかもしれない・・・まず関心ありき、です。それがなければルールブックを読破する情熱は生まれません。

 アメリカで、基礎学力の低下が問題視され、「詰め込み」が導入されて、それがある程度実を結んでいる、というのは聞き及んでおります。が、それをもって従来の日本の詰め込み教育を是とすることはできません。もちろん全否定ではありませんが、個の偏重からやや日本のやり方を取り入れて修正されたからといって、日本のやり方が生んでいる問題を気に留めなくていいことにはなりません。

 生涯教育が叫ばれる昨今の流れから、試験を上手くクリアするノウハウを身に付けることは重要である、とのことですが、資格や技術、そのために必要な知識を身に付けることは、確かに大切ですが、試験を要領よくクリアすれば、「有能な技術者」ではありませんし、優れた実務者とも言えません。
「要領よく本質を掴む」ことで、楽に試験を突破し、資格欄に書き込める肩書きを効率よく増やせるかもしれません、そういう生きがいもあるでしょう、しかし、そうした手法は、「合格する」ことに重きを置くあまり、それ自体が目的になってしまっている観を禁じ得ません。さまざまな余分なことを知らなければ、視野が狭くなり、バランス感覚を欠く結果となるでしょう。
 受験と同一視するということは、その試験のときだけ覚えていればよくて、実際にその技術を使ったり、それでお金をもらうような時には、ほとんど残ってなくていい・・・ということですか?
 また、それらはさせられる勉強ではありません、自分でやりたいと思ってやることですよね、違うことのように思います。
 競馬騎手の安藤勝己という人は、地方競馬で実績を積み、非常に優れた騎乗技術の持ち主です。しかし中央の免許を発行してもらうための試験に合格することは出来ず、特例を認めてもらって免許を受けました。しかし中央でもその技術が一流であることをいかんなく見せつけています。その手腕に疑いを持つ人はいません。
 いかに日本の資格試験が、試験のための試験になっているかの好例のように思われます。受験のノウハウを生かして「試験」をクリアすること・・・これは「生涯教育」の本義ではないと、私は思うのですが、いかがでしょうか。

 学内で順位を出すこと・・・このこと自体に私はさしたる意義を認めておりませんので、そのためにバランスを取るなら、やりようはあると思いますが、それが重要なこととは思いません。
 また、先に申し上げましたように、最低限の努力しかしなければ高得点は出ず、単位認定に必要な標準ラインしか与えない・・・ので、平均点の高騰は抑えうると考えます。
 また、究極的には、出題する教師の側が、平均60くらいと想定してテストを作っても、生徒全員が実力で100点を取る・・・が理想的な状態なわけですよね?目指している境地であるはずです、この場合平均点は100点になってしまいますが、バランスが悪いから100点を60点に修正・・・おかしな話ですよね?これは極論ですが、バランスに何の意味があるのでしょうか。

 順位付けのための試験、それは現実かもしれませんが、理念から語るなら、さして意味がないと言わざるを得ません。
 考えて欲しいこと、学んで欲しいことを問う、というのが本義のはずです。また最終的には「好きな歴史上の人物について語れ」で救済するというようなやり方だったと記憶しておりますが(他の作品と混同していたらすみません)、興味を持ってることについて調べ、まとめ、文章にする、そういう経験は、生涯教育の望ましいあり方のためには非常に有意義であると思います。

 生徒の興味や適性に基づく教科選択、現状がこれを実現しているかと言われれば、私は否だと思いますよ?受験を視野に入れているなら、個々人が点の取りやすさで選んでいるはずです、あるいは受験科目で必須にされているから、でしょう。

「試験前に問題を教える」について
 他人のノートを写して楽をする生徒が出る、従ってその生徒は思考力や想像力を使っていない、望ましくない・・・とのことですが、では従来の方式なら彼らの思考力や想像力が生かされているでしょうか?
 教師が板書した内容を機械的に写し、線を引かせたりした名詞や年号を暗記し、解答欄に写し、忘れる・・・それが望ましい歴史教育ですか?
 解答欄は余計なことを切り捨てた簡潔な文章や数字・記号ばかり、カンニングする生徒ももちろん出るでしょうね、数字や記号の方が伝達は楽ですし。
 どこぞのクイズ番組のように、1人を除いてみんな同じ答え・・・になるはずだというのも、妥当な想定とは思えません。
 もちろん50人全員が積極的に取り組み、50通りの解答用紙を提出する・・・そうなるはずだというほど夢想的にはなれません。そんなことは限りなく不可能に近いことです。
 しかし、歴史を面白いと思う生徒が、最初は5人だったのが10人になった・・・これは大きな成功ではないですか?

 試験前に問題を教えないならば、多少は評価に値する・・・と仰っておられるように読めましたが、それはその試験の難度を上げますよね?逆に平均点を低くさせ、逆のバランス調整が必要になりそうです。
 あくまでそのようにした場合、の想像であって、あなたの言によれば必要ないのでは?と言われても困りますが。
 私も、前もって問題を教えないほうが、勉強になる、思考力を鍛える、という意見には賛成です。
 しかしながら、おそらくここで始が考慮したのは、対象となる生徒達が「生涯教育」にのっとった市民大学や講座に集まった大人たちや、大学生が相手ではなく、高校生、それもおそらく一年生(?)だということです。
 懸念されているように、十分な基礎知識がないかもしれない、しかし前もって問題がわかっていれば、事前に配布されるであろう資料やプリント、教科書、参考文献を当たって、カバーできます。また、それこそが「勉強の方法」ではないですか。
 また、触れておきたい、身に付けておいて欲しい基礎知識を盛り込ませる上でも、あらかじめ問題を予告することは意味があると思います。

 生徒全員が意欲的に取り組み、授業内容を完璧に理解し、思考力や想像力を身につけ、歴史を面白いと思う・・・このようになることは理想ですが、実現が可能だとは考えにくいことです。
 私がいいたいのは、従来の授業や試験方法と比較した場合、始のやり方のほうが、生徒に歴史への関心を持たせる契機を多く生み出す可能性を持っている、思考力や想像力を鍛えられる可能性をより多く持っている、ということです。そして、高等学校の段階であれば、それが望ましいことだと思うのです。

 全員が教師の願いどおりには動くわけがありません。共感し、ついてきてくれるのは半分に達すればたいしたもの、下手をすれば、皆さんの懸念されているように1割程度かもしれません。他人のまとめたものを丸写ししてしのぐだけの生徒が過半かもしれない、しかしそれでもなお、歴史(ひいては社会科)嫌いを増やすばかりだった、一律に数字や名前を暗記させるだけの授業や試験より、比較にならないくらいましである、というのが私の意見です。

 試験が終わってしばらくすれば忘れてしまうようなことを「習得」とは言えません。従って基礎知識の習得にマイナスである、という見解は肯えません。
 一生懸命暗記しても、その事項を引っ張り出す機会がなくなれば、忘れてしまいます。端的には大学に入学してしまえば、世界史を一生懸命勉強した人でも、年号や名前はどんどん忘れていくでしょう。しかし、「面白いな」と感じたことや、討論で感情を高ぶらせたりしたこと、仲間と懸命に調べた思い出・・・そういったものは心の中に残り、財産になります。
 歴史を学ぶということは、年号や名前を覚えることではない、であるのに、従来の歴史教育は、受験のシステムの求めもあって、それに終始しがちであった、それが社会化嫌いを生み出す最大の要因ではないですか。それはとりもなおさず、歴史を通して何かを学ぶ、感じ取ることを、そういう経験をさせず、遠ざけてきてしまったということに他なりません。

 パンツァーさんは、高校生には時期尚早である、というご意見と思いますが、私は高校においてこそ、為すべきことであると考えます。前もって問題を予告するような、「準備的な、あるいは前段階的な」やり方でも、です。
 高校までで興味を持てず、嫌悪ばかり育んでいて、大学にいたって目覚める、それで十分である・・・とは私は思えません。大学における歴史教育こそ、前もって意欲や関心がなければ、のめりこめないものではないでしょうか?
 大学の講師は(予備校で副業しているような人を除いて)多くが「研究者」にすぎず、ついてこないものは「不可」で落第させても苦に感じなかったり、自分の研究をするために仕方なく講義をもっていたり、、、というように、教えることに情熱を持っていたり、テクニックを持っていたりすることは期待できないのです。
 また、学生の方も、卒業要件を満たすために仕方なく、や、講師が甘くて楽だから・・・といった者が、高校のとき以上に増えます。ノートの共有(?)やカンニングまがいの行為も、より組織的に、確信的に行われます。
 レポートを課題にだしても、「美味しいカレーの作り方」で水増しして笑い話になるようなレベルでしかありません。
 大学なら、それでもいいでしょう。自分の意思で判断・選択すればよろしい。
 高校の段階までに、いろんなことに興味を持たせ、嫌悪感をなるべく抱かせないことが重要です。面白い授業や、好感の持てる先生との出会いが、可能性を拡げます。
 大学まで行ってしまうと、選んだ専門分野の勉強や、サークル活動、アルバイトなどに忙しく、また近年の傾向を考慮すれば2年になるともう就職を意識し、そのための活動を始める・・・
 そういうことは大学以上でやればよい・・・というのは、それこそ実効性を伴わないと思われませんか?
 高校において為さなければチャンスは潰える・・・とさえ感じます。大学における教養科目に対する学生のモチベーションは、それこそ絶望的である、と思います。

収録投稿20件目
board4 - No.6289

Re:Re6279:不正行為の横行を許す教育の弊害

投稿者:黒崎
2005年03月01日(火) 07時54分

 まぁ、あなたが同意してくださると思うほど、ギャグと笑いの世界に生きてはおりませんが(笑)

 最低の教師というものに、学生が行う不正や狡さに無頓着であることが含まれるとは私は思いません。

 人のノートを写して持ち込む行為と、ドーピングを同列に論じられる価値観には到底同意いたしかねます。
 1位でなければ意味がない、勝たなければ許さない、認めない、そういう歪んだ価値観や強迫観念が薬物不正を生むのです。
 オリンピックやプロスポーツにおける薬物問題は、楽をして結果を出そうなんていう次元の問題ではありません。
 結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生むわけでしょう?
 私は学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定しておりませんので、このような混同はおかしい、わかってらっしゃらないのはあなたの方です。
 競技スポーツと教育を同じ基準で語ること自体が間違っています。
 教育の目的は他人よりいい点数を取ることではありません、その程度のことも分からないなら、教育についてうんぬんなどなさらないことです。

 学校の営利を第一に考えれば、進学率や一流大学合格者を多く出すことが、重要であるでしょう。
 ですが、それは本来の教育の目的からは外れる行為です。

 誤った判断や、好悪によるえこひいき、これも授業の方針や試験の方法に関わらず、教師の倫理観の問題で起こることです。

 もちろん、採点基準を明らかにすることは必要です。
 そこが難しいから、実際に採用されることはなかなかありません。が、理念としてはより望ましく、目指したいやり方だと申し上げてます。

 教師の主観が全く入らない試験や授業などありえません。
 この試験方式、さらには授業方針が、教師に多くの負担と、判断力、公平さ、そういった多くの資質や努力を求める、ということは既に触れたとおり、その上で、実現は決して容易ではないが、目指すところは間違っていない、理念としては望ましいと申し上げているのですがね。
 竜堂始が実際にそのような問題を設定し、生徒が実際に「それは事実無根だ」と調べてまとめ上げたのであれば、それはしっかり評価すべきことです、そして竜堂始がその解答をどう評価し、どう行動するかという推察は、創竜伝における描写からすれば、ありえることだと私も思います(笑)しかし、公平に裁定する「かも」しれません。
 ですが今回は試験方法が論題。竜堂始がその主張にふさわしい公平さをもっているかは別の問題です。

 まじめにやった人間が馬鹿を見る、それが避けるべき事態であることはもちろんです。
 それを避けることは容易ではないにしろ、不可能だとは思いません。
 そもそも、試験の点数という単純な数字だけで、優劣を決めたり順位付けすること自体が、そこにいたる過程や努力を切り捨てた不完全な評価ではないですか。
 試験当日に風邪を引いて頭が回らず、失敗してしまった生徒と、やまが当たって高得点を上げた生徒、テストの結果だけを見るなら後者が優秀な生徒ですね。どんな試験方法でも、平素の努力を評価することは難しいことです。
 教師が犯す誤断や偏見、自分の思想と相容れないから0点をつけて呼び出し、説教する?そういうことにならないように、自戒、自律することは、当然求められます。
 論述重視の試験にも、当然問題点はありますよ、何の問題もない、完璧な試験方式だなどと、誰一人として述べてはおりません。
 記号選択オンリーなら何の問題もないんですか?どんな試験のやり方を採用しても、例えに上げられたような教師なら台無しです。

<一つの可能性・・・
 真面目で、なおかつ清廉なのでしょうね、おそらくあなたもそうなのでしょう。
 そしてそういう人は、えてして他人の横着や狡さ、甘さに対し、憎悪にも似た弾劾をしがちです。
 あなたが仰るように、ずるいことをしている生徒とひとくくりにされることが我慢ならない。
 しかし私に言わせれば、それこそが歪んだ優越意識であり、価値観です。
 誰のために勉強しているのですか?
 何のために努力しているのですか?
 高い評価を得るためなんてことを第一の目標に置くから、他人が横着をするのが許せなくなるんです。
 ずるいことをした生徒がいるから、そのクラスは腐ったミカンの集まりなんですか?そんなばかな話はない、確かに、レッテルを貼ってひとくくりにし、あれはダメだ、と言うのが好きな人は少なくありませんが、そういう判断をしてしまうことの方が改善を要する問題でしょう。

 学内の定期考査ごときで、満点を取ったからそれがなんです?
 ばかばかしいとしか言いようがありませんね。
 他の人間が、手を抜きながらも要領よく試験を切り抜けて、自分より高い評価を得たら、努力したことは無駄なんですか?
 より確かな知識や学力が身についてるのは自分だという自負はないんですか?自分は出来ることを精一杯やった、それが自信でしょうに。
 教師がそれを評価しなかったら、その生徒の努力は無駄?違うでしょう?

 そんなところで優越しようと思わなくても、誰がずるをしたか、誰が真面目にやったけど失敗してしまったのか、たとえ馬鹿な教師が気づかなくても、クラスメイトにはわかっているでしょうに(笑)
 他人の弱さを許せず、自分は真面目にやったんだからあいつより高い評価を受けなければ我慢ならない、そんな狭量なことをいうようになるから、点数至上の教育はだめなんですよ。
 たとえ試験の点数で一番でなくても、周りの人間には、あいつはすごく真面目で、物事に真剣に取り組む、ことに歴史(他の分野でも一向にかまいませんが)においては、あいつに聞けば確かだ・・・どうしてそれで納得できないんでしょうかね?
 点数とそれにたいする評価でしか、自分の価値を感じられないような観念、そんな風にしてしまった親や教師、社会は、改善すべき問題を抱えていると思います。

 大学入試の本番になれば、否応なく数字至上の足切が待ってます。多数の応募から一定数を選抜しなければならない以上、やむを得ない側面もあるでしょう。常に真剣に取り組んだ生徒がいい目を見るといいですね、どうもそうとはいい切れない事例も多く見受けられると思いますがね。

 勉強にしろ、他の努力にしろ、目的は何かをより深く知るため、何かに上達するためであり、自分自身のためです。
 確かに、誰かに評価してもらえれば嬉しいし、もっと頑張ろうという気持ちになります。そのためのひとつの指針にすぎなかったはずのテストの点に、執着しすぎるから、ずるをしたあいつと俺が同じ評価になるのは我慢できない、ということになるんです。
 テストというのは、これが大事なことだけどちゃんとわかってるか?できなかったら復習しような?というのが基本で、それだけのものでしかなかったのに、いつしかその結果、数字だけを比較して優劣を論じ、順位をつけ、点が低いからお前はだめだ、と一面的に断定してしまう、そのことが間違っているのです。
 目的が変質してしまったから、これは解けないだろう、これは覚えてないだろう・・・と、徒に暗記力を問うようなやり方が横行してしまい、思考力や想像力が育ちにくくなるのです。それは現状の教育の大きな問題点です。

 学内考査が模試やセンター試験のための事前演習?
 いかにも「優等生」が言いそうな台詞ですね?
 根本的に間違っているんですよ、そうやって名ばかりもとめることがね。
 点数や結果ばかりを追求し、一流大学、一流企業に入ること(今は独立起業でもいいのでしょうが)こそがステイタスだ、などという社会の歪みが、そこに色濃く根ざしているんです。
 それはあくまでも一つの見方でしかないというのに。

 全国で何番か、なんていう位置づけが知りたければ、それこそ模試を受ければよろしい。まったく同じ問題、同じ時間で稼いだ得点を競いたいなら、そういう人同士でやってればいいのです。

 数字だけで評価する方が楽なんですよ、結果だけ見てりゃ良いんですから。だから教師も親も、管理する人間も、そこに逃げてしまう。その方がよほど不正の横行を許し、真面目にやってる人間に馬鹿を見させているんです。その得点を挙げるためにどれほど努力したか、真面目に取り組んだか、そんなことはどうでもいいことになってしまうんです。結果さえよければいいんですから。
 逆に言えば、だからこそカンニングに代表される不正行為が横行するんです。過程をすっ飛ばそうが、結果さえあげれば、高い評価を得られる、あなたが支持・信頼してらっしゃるシステムや価値観こそが、そうした不正を助長するのです。
 ま、おわかりにならないでしょうけどね。

 繰り返しますが、本来「試験の結果」などというものは、その人の能力や努力を判断する資料の一つでしかないんです。
 カンニングして90点の生徒と、自力で90点の生徒、点数しか見ないから同列になるんじゃないですか?
 結果だけで判断するのは、一面において公平な判断です、しかしそれこそ、努力に対してそれにふさわしい評価をせず、正直者に馬鹿を見させる結果をうむ大本だということが、どうしておわかりにならないんでしょうね?
 どんな試験方法だろうと、人のノートを写す生徒は出ますよ?
 でも、結局そのつけを払うのは自分でしょうが(笑)
 ばかな教師を欺くことが出来たとしても、馬鹿な上司を欺いて出世できたとしても、そして巨万の富を手に出来たとしても、それがなんだというのです?そうやって要領よく世の中を渡って最後まで本人が自分は幸福だと思っていられたのなら、それはそれで結構じゃないですか。
 そういう人が現れたら、それを許容した社会は最低で許せないものであり、真面目に地道に生きてる人は、搾取されるだけの存在で、不孝で救われず、誰にも評価してもらえてない人生なんですか?
 なんだかどこぞのテロリストが同じようなことを言いそうですね(笑)

 受験で役に立たないということと、卒業後の人生において役に立たないということを、イコールで結んでなんの疑問も感じられない、そのような価値観の形成を助長してしまったことこそが、現代の教育の失敗であり、学校や教師に大いに問題があるということの証左です。

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board4 - No.6297

どのように都合の良い生徒を対象とした議論なのでしょうか?

投稿者:パンツァー
2005年03月02日(水) 00時37分

No.6268の黒崎さんの記載
<私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。>

こういう結論でしたよね、もともと。

まず、上の黒崎さんの記載で、
「意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求める」
などと書いていますが、
「意欲に欠ける生徒」においては、せいぜい、「書き写す」という労力を必要とするぐらいのものであって、思考や論述に頭を使うことはないでしょう。
大学時代、やる気の無かったドイツ語を、試験だけはなんとかクリアするために、ひたすらドイツ語の教科書の日本語訳を熟読し暗記して試験場に望んだことがありましたね。試験には合格しましたけれども、こんなもの、何のドイツ語の訓練にもなりませんね。

だいたい、冒険風ライダーさんが「カンニングという逃げ道がある」と指摘している通り、大半の生徒が、このような易き流れに流される公算が高いのですよ。

No.6288の黒崎さんの記載
<>  全員が教師の願いどおりには動くわけがありません。共感し、ついてきてくれるのは半分に達すればたいしたもの、下手をすれば、皆さんの懸念されているように1割程度かもしれません。他人のまとめたものを丸写ししてしのぐだけの生徒が過半かもしれない、しかしそれでもなお、歴史(ひいては社会科)嫌いを増やすばかりだった、一律に数字や名前を暗記させるだけの授業や試験より、比較にならないくらいましである、というのが私の意見です。>

こんなことを書いていますが、
少なくとも半数以上の生徒を見捨てることが前提なのですか?

No.6279の黒崎さんの記載
< 先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。>

ここでは、日本の生徒の教育水準の低下を嘆いているように見えますが、上の記載と矛盾しませんか?
No.6288では、「半分に達すればたいしたもの」(半数以上を見捨てるのは止む無し)としていながら、No.6279では、「3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑)」などと言う風に、基礎知識の足りない生徒を嘆いていますよね。基礎知識の足りない生徒を引き上げようとする考えと、ついて来れない生徒を見捨てるべき、という考え方は、相反するものではありませんか?

相手を論破するためだけに、こういう矛盾を堂々と主張されるのは、よろしくありませんね。

だいたい、「ついてきてくれるのは半分に達すればたいしたもの、下手をすれば、皆さんの懸念されているように1割程度かもしれません」であって、「他人のまとめたものを丸写ししてしのぐだけの生徒が過半かもしれない」(カンニングを奨励するだけの結果を招いてしまう)ことを認めるのであれば、
「記述式、自筆ノート持ち込み可」という試験方式が、根本的に問題を孕んでいることを黒崎さん自身が、認めてしまっていることになりますよ。

No.6284のパンツァーの記載
<「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」と言うこと自体、
ごく一部の生徒(ノートを作成する生徒)を除いて、生徒の思考力や想像力を全然殺す作用を及ぼすために、望ましくないことです。
また、「自筆ノート持ち込み可」は、
高校以下のような基礎知識の習得段階においては、その習得を妨げる作用の方が大きく、一般的に望ましくないことでしょう。黙っていても、基礎知識を勝手に習得してくれるような優秀な生徒たちの集団において、なら別でしょうが。>

私は、結論として上のように述べました。
要は、大半の生徒は、カンニングに走るだけで、「詰め込み教育」ならば部分的にでも頭に残ったであろう知識すら習得することなく、テストをクリアしてしまう、ということです。

黒崎さんの考え方で、
非常に気になるのがですね、どうも、ごく一部の大変意欲的な生徒、を前提にした主張のようにしか、聞こえない点です。

<>  しかし、野球をやってみようと思うのは何故でしょうか?それは、公園で楽しそうに、あるいはグランドやテレビでかっこよくプレイしてる姿をみて、それに憧れて、ということではないですか?>
<>  ゲームにしても然り、そのゲームで遊んでる人が楽しそうだ、友達が熱心に勧める、紹介している文章が面白い、扱っている題材が好きだ、似たゲームを知っているが面白かった、これも面白いかもしれない・・・まず関心ありき、です。それがなければルールブックを読破する情熱は生まれません。>

野球が好きな人は多いでしょう。
ゲームが好きな子供は、さらに多いでしょう。
しかし、すべての生徒たちが、皆、最初から、何事にでも興味を持っているわけではありませんよ。また、やってみたからと言って、興味を抱く、と限るものではありませんよ。
ましてや、勉強の類であれば、特定の教科が好きでたまらない、勉強するのが好きだ、などというのは、ごく一部の人間ではないでしょうか。
我々が勉強の類をも面白みをもってやれるのは、必ずしも根源的な興味からではなく、一歩一歩積み上げていく、という自己成長を感じることができる点が大きいでしょう。自分に理解できた、という喜びなのです。しっかり勉強したから80点取れた、とか、そういった次元の話です。

将来学者にでもなるような資質の持ち主ならいざ知らず、勉強が根源的に好きだ、なんて生徒がごろごろいるわけ無いでしょう。

私が上でも述べたように、
ごく一部の生徒(ノートを作成する生徒)に関しては、
「自筆ノート持ち込み方式」によって、
思考力や想像力を伸ばす契機になるかもしれません。
しかし、他の大半の生徒らに関しては、そんなことには、なりようがないのですよ。なんらの学習効果がないばかりか、むしろ、冒険風ライダーさんが指摘しているように、カンニングを常習化させるという悪影響を心配する必要があるでしょう。

結局のところ、
一体、どのような生徒のために、
「自筆ノート持ち込み方式」が適当であると、黒崎さんは考えているのですか?
「半分に達すればたいしたもの」などと言っているところからして、少なくとも半数以上の生徒に関しては、眼中にないようですけどね。

>  高校において為さなければチャンスは潰える・・・とさえ感じます。大学における教養科目に対する学生のモチベーションは、それこそ絶望的である、と思います。

これは、誤解しているようですが、
日本の大学においては、単に、試験の難易度が低いから、
皆が低空飛行に走るだけの話ですよ。
欧米の大学では、試験の難易度が高いから、卒業を確実とするために、皆一生懸命勉強するだけの話ですよ。
日本の高校生が、大学受験のために一生懸命勉強するのと、同じことです。
経済事情を反映してか、今日の大学生は、サークル活動などもそこそこに、資格試験の勉強などは一生懸命やっています。将来のために必要でかつ難易度の高い目標(例えば資格試験)に向かっては、人は一生懸命努力し、将来のために必要でもなく難易度の低い目標(例えば上の教養科目)には、努力を割くことはありません。
あたりまえのことですね。

> > 「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
> > という前提条件です。

この前提条件についても、全然、意識されていないようですね。
英語を面白いと感じられる段階に到達するには、当然、一定量の英単語は記憶してしまわないと駄目ですね。
「ルールブックを読破する情熱は生まれ」ても、結局読破できなかったら、そこで躓いて終わり、ですよ。
プロ野球の選手でも、才能に如何に恵まれてても、基礎的な筋力を欠くために筋力トレーニングからやり直し、などということも多々あるではありませんか。

<>  高校において為さなければチャンスは潰える・・・とさえ感じます。>

基礎を押さえる、という前提条件を飛ばして、先を急ごうとしても、
結局、「急がば回れ」という格言の通りにならざるを得ないことになると思いますね。

収録投稿22件目
board4 - No.6298

Re6289:教師の資質とは無関係に発生する「構造的な問題」

投稿者:冒険風ライダー
2005年03月02日(水) 04時12分

<人のノートを写して持ち込む行為と、ドーピングを同列に論じられる価値観には到底同意いたしかねます。
 1位でなければ意味がない、勝たなければ許さない、認めない、そういう歪んだ価値観や強迫観念が薬物不正を生むのです。
 オリンピックやプロスポーツにおける薬物問題は、楽をして結果を出そうなんていう次元の問題ではありません。
 結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生むわけでしょう?
 私は学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定しておりませんので、このような混同はおかしい、わかってらっしゃらないのはあなたの方です。
 競技スポーツと教育を同じ基準で語ること自体が間違っています。
 教育の目的は他人よりいい点数を取ることではありません、その程度のことも分からないなら、教育についてうんぬんなどなさらないことです。>

 その言葉、そっくりそのままあなたにお返ししますよ。何しろ、ドーピングに関する自分の意見が「学内の定期試験」をも含めた受験全般に当てはまることに全く気づいていないときているのですから。
 共に禁止されているにもかかわらず、スポーツでドーピングという不正行為がしばしば用いられる理由も、試験の際にカンニング行為が絶えない理由も、どちらも同じものでしかありえないのですよ。それはまさに、あなた自身が明言する「結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生む」からでしょう。受験にしたところで、たった1点の格差が受験者の明暗を分けることが往々にしてあるわけなのですから、「他人よりいい点数を取ること」が「目的のひとつ」となることは当然ありえますし、不正行為が行われる土壌はどちらも全く同じです。にもかかわらず、何故ドーピングとカンニングで異なる結論が出なければならないのです?
 そして、あなたの投稿を見る限り、それはあなた自身も十二分に承知していることであるはずなのですよ。何しろ、こんな発言を行っているわけですからね↓

<数字だけで評価する方が楽なんですよ、結果だけ見てりゃ良いんですから。だから教師も親も、管理する人間も、そこに逃げてしまう。その方がよほど不正の横行を許し、真面目にやってる人間に馬鹿を見させているんです。その得点を挙げるためにどれほど努力したか、真面目に取り組んだか、そんなことはどうでもいいことになってしまうんです。結果さえよければいいんですから。
 逆に言えば、だからこそカンニングに代表される不正行為が横行するんです。過程をすっ飛ばそうが、結果さえあげれば、高い評価を得られる、あなたが支持・信頼してらっしゃるシステムや価値観こそが、そうした不正を助長するのです。
 ま、おわかりにならないでしょうけどね。>

 これはあなたがドーピングについて述べていたものと全く同じ主旨の文章です。「過程をすっ飛ばそうが、結果さえあげれば、高い評価を得られる」からこそ「結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生む」、あなた自身の明言はドーピングにもカンニングにも言えることです。まさに「語るに落ちた」というやつですね。
 そして、こんなダブルスタンダードがいともあっさりと生まれてしまう理由はというと、それは「私は学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定しておりません」などという、たかだかあなた個人の主観的価値観のみに立脚しただけのシロモノでしかないのです。そんなものは、「学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定」する価値観を持つ「たったひとりの人間の意見」によって、いともあっさりと覆される程度の説得力しか持ちえないのですよ。そして、あなたと議論しなければならない人間が、何故あなた個人の主観的価値観などにいちいち配慮して話をしなければならないのです?
 その自分の主観的価値観に普遍的かつ客観的な説得力を付属したいと考えるのであれば、ただそれだけを根拠にドーピングとカンニングとで全く異なる結論を導こうなどとは考えないことです。世の中には、あなたとは全く異なる価値観を持つ人間がいるということを、どうかくれぐれもお忘れなく。

<この試験方式、さらには授業方針が、教師に多くの負担と、判断力、公平さ、そういった多くの資質や努力を求める、ということは既に触れたとおり、その上で、実現は決して容易ではないが、目指すところは間違っていない、理念としては望ましいと申し上げているのですがね。
 竜堂始が実際にそのような問題を設定し、生徒が実際に「それは事実無根だ」と調べてまとめ上げたのであれば、それはしっかり評価すべきことです、そして竜堂始がその解答をどう評価し、どう行動するかという推察は、創竜伝における描写からすれば、ありえることだと私も思います(笑)しかし、公平に裁定する「かも」しれません。
 ですが今回は試験方法が論題。竜堂始がその主張にふさわしい公平さをもっているかは別の問題です。>

 実は「別の問題」でも何でもないのですけどね。私が展開しているのは本来「創竜伝という小説に対する作品批判論」なのですし、今回問題になっている試験方法を提示したのは他ならぬ竜堂始であり、それを実践するのも竜堂始自身なのですから、「竜堂始がその主張にふさわしい公平さをもっているか」に疑問符がつき、そこから竜堂始が提示する教育手法に問題があることを示すことができた段階で、すでに創竜伝および竜堂始の思想的正当性はズタズタにされてしまうでしてね。この時点で、私の目的は100%達成されたも同然になってしまうのですよ。
 それに、竜堂始の教育手法の問題点は竜堂始のみならず、その教育手法を実施する全ての教師に対して「構造的に」当てはまってしまうのです。前の投稿でも言いましたけど、論述式の問題を受験生や生徒に課している大学では、教師が解答の内容ではなく、自らの主観や趣味に基づいて生徒を評価するようなことがしばしば横行し、大きな問題になっています。これは「教師の主観のみが判定材料となる教育手法」自体が、そのような不正行為を「教師の資質など全く関係なく」しかも「構造的に」発生させる原因となっているわけで、それこそが「竜堂始の教育手法」が抱える最大かつ致命的な問題点なのです。
 従来の教育方法に欠陥があるにせよ、すくなくともこのような著しい不公正を招きかねない「教師の資質など全く関係なく発生する構造的な問題」は存在しません。だからこそ私は、竜堂始の愚劣な教育手法よりは、従来の教育方法の方をこそ「ベター」な選択として評価するのですがね。

<真面目で、なおかつ清廉なのでしょうね、おそらくあなたもそうなのでしょう。
 そしてそういう人は、えてして他人の横着や狡さ、甘さに対し、憎悪にも似た弾劾をしがちです。
 あなたが仰るように、ずるいことをしている生徒とひとくくりにされることが我慢ならない。
 しかし私に言わせれば、それこそが歪んだ優越意識であり、価値観です。
 誰のために勉強しているのですか?
 何のために努力しているのですか?
 高い評価を得るためなんてことを第一の目標に置くから、他人が横着をするのが許せなくなるんです。
 ずるいことをした生徒がいるから、そのクラスは腐ったミカンの集まりなんですか?そんなばかな話はない、確かに、レッテルを貼ってひとくくりにし、あれはダメだ、と言うのが好きな人は少なくありませんが、そういう判断をしてしまうことの方が改善を要する問題でしょう。
 学内の定期考査ごときで、満点を取ったからそれがなんです?
 ばかばかしいとしか言いようがありませんね。
 他の人間が、手を抜きながらも要領よく試験を切り抜けて、自分より高い評価を得たら、努力したことは無駄なんですか?
 より確かな知識や学力が身についてるのは自分だという自負はないんですか?自分は出来ることを精一杯やった、それが自信でしょうに。
 教師がそれを評価しなかったら、その生徒の努力は無駄?違うでしょう?
 そんなところで優越しようと思わなくても、誰がずるをしたか、誰が真面目にやったけど失敗してしまったのか、たとえ馬鹿な教師が気づかなくても、クラスメイトにはわかっているでしょうに(笑)
 他人の弱さを許せず、自分は真面目にやったんだからあいつより高い評価を受けなければ我慢ならない、そんな狭量なことをいうようになるから、点数至上の教育はだめなんですよ。
 たとえ試験の点数で一番でなくても、周りの人間には、あいつはすごく真面目で、物事に真剣に取り組む、ことに歴史(他の分野でも一向にかまいませんが)においては、あいつに聞けば確かだ・・・どうしてそれで納得できないんでしょうかね?
 点数とそれにたいする評価でしか、自分の価値を感じられないような観念、そんな風にしてしまった親や教師、社会は、改善すべき問題を抱えていると思います。>

 何故同じ問いかけを、好成績獲得を第一目標に日夜スポーツ練習に励む人達に対しても言ってやらないんですかね? 「競技スポーツと教育を同じ基準で語ること自体が間違っています」などと逃げずに以下のようなことが言えれば、あなたの主張にも少しは一貫性というものが出てくるのですが↓

<真面目で、なおかつ清廉なのでしょうね、おそらくあなたもそうなのでしょう。
 そしてそういう人は、えてして他人の横着や狡さ、甘さに対し、憎悪にも似た弾劾をしがちです。
 あなたが仰るように、ずるいことをしている生徒とひとくくりにされることが我慢ならない。
 しかし私に言わせれば、それこそが歪んだ優越意識であり、価値観です。
 誰のために運動しているのですか?
 何のために努力しているのですか?
 高い評価を得るためなんてことを第一の目標に置くから、他人が横着をするのが許せなくなるんです。
 ずるいことをした生徒がいるから、その運動部は腐ったミカンの集まりなんですか?そんなばかな話はない、確かに、レッテルを貼ってひとくくりにし、あれはダメだ、と言うのが好きな人は少なくありませんが、そういう判断をしてしまうことの方が改善を要する問題でしょう。
 学内の部活活動や国体ごときで、一番を取ったからそれがなんです?
 ばかばかしいとしか言いようがありませんね。
 他の人間が、手を抜いたりドーピング行為に走ったりしながらも要領よく競技種目を切り抜けて、自分より高い評価を得たら、努力したことは無駄なんですか?
 より確かな運動能力や技術が身についてるのは自分だという自負はないんですか?自分は出来ることを精一杯やった、それが自信でしょうに。
 教師や先輩がそれを評価しなかったら、その生徒の努力は無駄?違うでしょう?
 そんなところで優越しようと思わなくても、誰がずるをしたか、誰が真面目にやったけど失敗してしまったのか、たとえ馬鹿な教師や先輩が気づかなくても、部活仲間にはわかっているでしょうに(笑)
 他人の弱さを許せず、自分は真面目にやったんだからあいつより高い評価を受けなければ我慢ならない、そんな狭量なことをいうようになるから、成績至上のスポーツ界はだめなんですよ。
 たとえスポーツの成績で一番でなくても、周りの人間には、あいつはすごく真面目で、物事に真剣に取り組む、ことに野球(他の分野でも一向にかまいませんが)においては、あいつに聞けば確かだ・・・どうしてそれで納得できないんでしょうかね?
 成績とそれにたいする評価でしか、自分の価値を感じられないような観念、そんな風にしてしまった親や教師、社会は、改善すべき問題を抱えていると思います。>

 ちなみに私自身は、言うまでもなくどちらの意見にも反対ですね。スポーツにせよ教育にせよ、成績や点数には一定の社会的(であるが故に客観的にも高い)価値があるのですし、それを目標に努力を積み重ねて成長した人もいるでしょう。その結果をカンニングやドーピングのような不正行為によって理不尽に蹂躙され、怒りを抱く人達の価値観を「歪んだ優越意識」だの「ばかばかしいとしか言いようがありませんね」などと否定するような「傲慢な人間」こそ、教育を語る資格などないと私は思うのですけどね。
 それと、これは上記の問題の前には非常に蛇足かつ余計な質問なのかもしれませんが、「馬鹿な教師が気づかなくても、クラスメイトにはわかっているでしょうに」って、何故クラスメイトには分かっていることが100%保証されているわけなのですか? クラスメイト「も」気づかない可能性は当然ありえますし、たとえ気づいていたとしても、それが行動によって示されなければ、本人にとっては「気づいていない」のと同じことでしょうに。

<学内考査が模試やセンター試験のための事前演習?
 いかにも「優等生」が言いそうな台詞ですね?
 根本的に間違っているんですよ、そうやって名ばかりもとめることがね。
 点数や結果ばかりを追求し、一流大学、一流企業に入ること(今は独立起業でもいいのでしょうが)こそがステイタスだ、などという社会の歪みが、そこに色濃く根ざしているんです。
 それはあくまでも一つの見方でしかないというのに。>

 だから、あなた個人の主観的価値観をいくらアジったところで、それとは全く異なる価値観を持つ人間にとっては痴者のタワゴトでしかありませんし、私に対する反論にも何にもなりはしないのですよ。
 第一、そういうあなた自身、以下の発言で「現実」を肯定してしまっているではありませんか↓

<大学入試の本番になれば、否応なく数字至上の足切が待ってます。多数の応募から一定数を選抜しなければならない以上、やむを得ない側面もあるでしょう。>

 そういう「やむを得ない側面」があるからこそ、「学内考査が模試やセンター試験のための事前演習」という考え方が出てくるわけです。「否応なく数字至上の足切が待って」いるからこそ、来るべき「数字至上の足切」を乗り越える試練を課すことは、学校や教師の義務であり、ひいては生徒自身のためでもあるのです。
 他人の価値観を全否定し、「根本的に間違っているんですよ」だの「それはあくまでも一つの見方でしかないというのに」だのといった理想論を振りかざす前に、人間は「目の前の現実」に対処しなければならないということを、少しは自覚して頂きたいのですがね。

<カンニングして90点の生徒と、自力で90点の生徒、点数しか見ないから同列になるんじゃないですか?
 結果だけで判断するのは、一面において公平な判断です、しかしそれこそ、努力に対してそれにふさわしい評価をせず、正直者に馬鹿を見させる結果をうむ大本だということが、どうしておわかりにならないんでしょうね?>

 上でも述べましたが、「努力に対する評価」などというものは、主観によって判断される比率が「結果だけで判断する教育手法」などよりもはるかに高いため、教師の資質に関係なく「構造的に」公正さが著しく損なわれかねないからです。
 こんな簡単なことがどうしておわかりにならないんでしょうね?

<どんな試験方法だろうと、人のノートを写す生徒は出ますよ?
 でも、結局そのつけを払うのは自分でしょうが(笑)>

 別に私は「どんな試験方法だろうと、人のノートを写す」こと自体は否定していないのですがね。「自筆ノート持ち込み可」と「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」をセットにした教育手法が、「従来の教育手法をはるかに上回る」カンニングの横行を「構造的に」招く、ということを問題視しているだけで。
 他人の主張に反論したいのであれば、もう少し他人様の主張をきちんと理解できるように努めて下さい。一知半解な理解力しか持たない人間と議論するのも、私にとっては苦痛でしかないのですが。

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