久しぶりに「私の創竜伝考察」を再開します。今回の批評対象である創竜伝5は外伝という設定になっていますが、だからといって社会評論がなくなるわけではないんですよね~(^^;)。結局、いつもとやっている事は同じだったりします。しかも最後の方はストーリーも訳わからなくなっているし。
それでは久々に批評を開始しますか。
創竜伝5 「蜃気楼都市」
1990年1月5日 初版発行
P50下段
<「しかしまあ平和といえば平和なもんだよなあ、この国は。何がおこっても体制がひっくりかえるでもなし、中央でも地方でも悪が栄えるばかりだもんな」
食べ放題のバイキング・レストランにつれていってもらう約束をして、機嫌をなおした三男坊が、いやに社会派的な意見をのべた。>
「何がおこっても体制がひっくりかえるでもなし、中央でも地方でも悪が栄えるばかりだもんな」などと一方的な決め付けを放言している竜堂終君の発言を、「いやに社会派的な意見」と断定している田中芳樹の感性は大したものです。私には「どこかの過激派のアジテーション」にしか聞こえないのですが。体制がひっくりかえることのどこが「社会派的」であるのか、ぜひともその考えをうかがいたいものです。
そしてこれが、次の「社会評論のようなもの」へとつながるわけです。
P50下段~P51下段
<もう何年も過去のことになるが、一九八九年の世界の変化は劇的だった。六月四日未明には中国の首都北京で自由化を求める学生や市民に軍が発砲し、一〇〇〇人単位の死者を出した。このとき、学生の最高指導者たちが、いちはやく国外への脱出を果たしたため、事件の背後に外国勢力が存在しているのではないかと疑う声もあったが、いずれにせよ非武装の市民を軍隊を使って虐殺するような権力体制が実在することを、世界の人々は思い知らされたのだ。そして一一月九日にはドイツの旧首都ベルリンの首都を東西に分離していた長大な壁の撤去が開始され、中央ヨーロッパ諸国が一発の銃弾もなしに解放された。このふたつの大事件を縫うように、いくつもの小事件が連続し、一党独裁の左翼全体主義は世界史の流れのなかでついに敗退した。第二次大戦以来の世界構造が崩壊し、人類はあらたな未知の時代に突入したようであった。これを「スパイ作家失業時代」と呼ぶ人もいる。
日本でも年号が変わり、二度も首相が交替し、第2次対戦後の文化をになった代表的な人たちが多く亡くなった。あたらしい時代が来る、と思われたのだが、利権をあさるだけの政治と排他的な社会はいっこうに変化しなかった。世界中の富を一手にかき集め、資本も労働力も貿易市場も開放せず、自分たちだけの「黄金の国」にたてこもり、混乱と変革をつづける世界のなかでこの国だけが別天地でいられるつもりのようだった。政権交替の可能性も遠のき、政界・官界・財界の三者が利権という汚れた接着剤で結ばれあった権力体制は、自浄能力をとうに失ったまま、際限のない泥沼のなかを不確定の未来へと転げつづけている。>
まず、これは書いた時期に問題があります。この文章は「もう何年も過去のことになるが、一九八九年の世界の変化は劇的だった」と、あたかも何年も経った後に論評しているかのようですが、この本の初版発行は上にも書いたとおり1990年1月5日です。つまりこの評論は1989年中に書かれたものなのです。
それなのに「あたらしい時代が来る、と思われたのだが、利権をあさるだけの政治と排他的な社会はいっこうに変化しなかった」とまるで未来でも見てきたかのような書きぶりです。この時点で、これは「偏向した社会評論」とさえ呼べるものではなく「予言」の類にでも属するものになりさがってしまいます。
ではこの「予言」、果たして当たったのか? 答えは完全に「否」です。特に「政権交替の可能性も遠のき」は完全に間違っています。1993年の「政権交替」は一体何だったのか、と問われたら、田中芳樹はどう答えるつもりなのでしょうか。まさか「あれは政権交替ではない」と言い張るつもりじゃないでしょうね。
「政界・官界・財界の三者が利権という汚れた接着剤で結ばれあった権力体制」って、一体どう見たら日本の「権力体制」がそのように見えるというのでしょうか。この三者、結構意見の対立もありますし、「利権という汚れた接着剤で結ばれ」ているほど、結束は強くないと思いますが。
そして「自浄能力をとうに失ったまま、際限のない泥沼のなかを不確定の未来へと転げつづけている」というのもふざけた結論ですね。「予言」にしても、ここまでいいかげんなシロモノを私は見たことがありません。この「予言」が当たらなかったのは、田中芳樹を除く全ての日本人にとって幸福な事でしたね。
最後に田中さん、申し訳ありませんがいつ日本の「権力体制」が「自浄能力」を失ったのか、その時期を説明していただけないでしょうか? 私の小説の読み方が悪いためか、どうしてもそれが書いてある所を見つける事ができませんので(^_^;)。
P56上段~P57上段
<「企業の労働分配率という言葉があるんだ」
始がそう語り始めた。それは国家レベルでいえば、国民総所得における総賃金の比率なのだが、特定の業種や企業で見る場合、人件費と福利厚生費が付加価値額のなかで占める比率をいう。
「つまり労働分配率が高いほど社員の給料が高く、待遇がよいと、そう解釈していいわけですね」
「ま、そういうことだ」
「日本は諸外国に比べて低いんでしょう」
「あきれるほど低いね」
株式を公開している大手の製造業会社の労働分配率は日本が49パーセント台、アメリカは60パーセント前後、西ドイツは65パーセント、フランス70パーセント弱ということになっている。つまり日本の大企業は、欧米よりずっと社員の苦労に報いること薄いわけだ。豪華な社宅をつくったり、温泉に社内旅行したりしているが所詮はごまかしである。給料が安いうえに労働時間が長い。おまけに物価の高さが加わる。日本のサラリーマンは楽ではなく、彼らの忍耐の上に企業だけが脂ぎり、肥えふくれていく。>
これまた一般人にとって非常に分かりにくい例を持ち出してきましたね。労働分配率については、もっと経済に詳しい方に後日詳細に説明していただく事にして、とりあえず私の考えられる範囲で、この論法のおかしさを指摘しておきましょう。(もっと詳しく知っている方の投稿をお待ちしております)
まず、この説明にもあるように、労働分配率というのは「特定の業種や企業で見る場合、人件費と福利厚生費が付加価値額のなかで占める比率」の事ですよね。つまり労働分配率のなかには、人件費だけでなく福利厚生費というのも入っているわけです。だから竜堂続氏の
「つまり労働分配率が高いほど社員の給料が高く、待遇がよいと、そう解釈していいわけですね」
といきなりそこに繋がるのは少しおかしいのではないか、と素人なりに考えた次第です。もしアメリカなどでこれが大きいのであれば、日本の労働分配率が少ないというのも理解できると思うのですが。
それとこの比率は、給料の額が金持ちに偏っているという事実を無視して論じてはいないでしょうか? 日本の給料は平社員から社長までの給料格差があまりないと聞いています(日本は10~15倍、それに対してアメリカは最低300倍以上)。アメリカでは、年収50~100億クラスの人間が、少なくとも日本よりはたくさんいますからね。だからその分、一般労働者の給料は少なくなるわけで、欧米諸国の大多数の労働者達が日本に比べてそれほど楽をしているとも思えないのですが……。
後もうひとつ言えば、日本の企業は労働者の給料の源泉徴収をして税金(所得税)を支払っています。源泉徴収で差し引かれた給料の金額が、このパーセンテージに表されているのかもしれません。欧米諸国で給料の源泉徴収はやっていないでしょうから、日本の労働分配率が低いのもこれが原因かもしれません。
田中芳樹よ、社会評論を展開する時の最低必要条件として、「なぜそうなったのか」という検証がいると私は何回も主張しています。自分に都合の良い部分だけを引用して読者に反日を植え付ける行為は止めていただきたい、と言っておきます。
P57下段~P58上段
<「ディーン・R・クーンツというアメリカの有名な作家がいるでしょう」
「知ってる」
「その人が作品のなかで、こんなことをいってますよ。政治家とは、他人を支配する権力を求めて悪党がよく選ぶ職業だ、とね」
「やれやれ、日本もアメリカも似たりよったりか」
「アメリカのほうがまだましでしょう」
アメリカの場合、大統領や閣僚はその在職中に株や商品の投機をおこなうことが法律で禁じられている。日本のほうは、首相自らが公然と投機をおこない、株価を操作して大金を稼ぎまくるような国だ。政治家が地位と権力を利用して私腹を肥やすことが産業化しているという、たいへんな国である。一年間に20兆円以上の巨額の資金が公共事業に投資されるのはよいとして、その三パーセントがリベートや政治献金として、国家レベル、都道府県レベル、市町村レベルの政治家にばらまかれるのはジャーナリズムで報じられるとおりである。政治家が権力をにぎり、あるいはそれに寄生することで富をえることができるのは、日本の他には、ひと時代前の共産主義国ぐらいのものだろう。いわゆる西側先進国でこんな国は他にはない。「日本は世界でただひとつ成功した共産主義国だ」と皮肉られるのも当然だ。>
それではこの方法によって得られる、政治家一人当たりの「リベートや政治献金」の額を計算してみましょう(^_^)。市町村レベルまでの政治家の人数を20000人とし(市町村レベルまでとなるとこれぐらいはいるでしょうから)、全ての政治家に平等に分配されると仮定します。
まず、20兆円の公共事業の額の三パーセントですから約6000億円です。
次にこれを、全ての政治家に公平に分配すると
600,000,000,000÷20,000=30,000,000
約3000万円になります。もちろん実際には政治家によってばらつきがあるのでしょうが、それでも1人当たり1億以上はさすがに無理があります。
たったこれだけの金額でどうやって「政治家が権力をにぎり、あるいはそれに寄生することで富をえることができる」と考えているのか理解に苦しみますね。こんなわずかな金額では、1回選挙運動をすればきれいに消し飛びます。田中芳樹は、政治家が選挙にどれだけ金を使うのか知っているのでしょうか。私はよく知りませんが、なんやかやで最低1000~4000万ぐらい使うでしょうね。はましてや当時は中選挙区制だったのですから、選挙に当選するにはかなりの金が必要だったはずです。そして、どれほど金を投資しても、選挙で当選しなければ、それまでに投資した全ての金額が無に帰します。それではたまらないので、さらに金をつぎ込む。これで何人の候補者が「落選」の悪夢を味わったことか(T_T)。少なくとも共産主義国よりも公正な選挙をやっている日本を指して「政治家が地位と権力を利用して私腹を肥やすことが産業化しているという、たいへんな国」などと、よく言えたものです。
さらに「日本は世界でただひとつ成功した共産主義国だ」と皮肉られているのは事実ですが(だれから、という記述がここでは抜けていますが、多分外国でしょう)、それは日本の貧富の差が少なく、累進課税による苛烈な税制があるにもかかわらず、ここまで経済発展してきた事実を皮肉ったものであって、間違っても「政治家が権力をにぎり、あるいはそれに寄生することで富をえることができる」からではありません。こんなめちゃくちゃな解釈をするのは田中芳樹の勝手ですが、それを何百万部も売れている小説で披露するのはやめてください。
P77下段~P78上段
<日本で冤罪事件がおこるたびに指摘されるのが、警察の証拠品保管のいいかげんさである。ひとひとりを死刑にする証拠品が、警察で「紛失」した例はいくつもあり、しかも誰ひとり責任をとったことがない。警察の信頼を落とすのは警察自身であって他の何者でもないのだ。>
いつもの事ですが、「ひとひとりを死刑にする証拠品が、警察で「紛失」した例はいくつもあり」と言いながら、ひとつも例を挙げていませんね(^_^)。田中さん、頼みますから例を2,3ほど挙げてください。そうしないと、これが本当かどうかさえ全く分かりませんから。
P83下段~P84下段
<権力者の権力乱用と公私混同は、かつての社会主義国では珍しくもない。だが、現在の日本と比較するなら、社会体制からいっても一九二〇年代のアメリカ合衆国の方がよいだろう。ハーディング、クーリッジというふたりの大統領のもとで政治は腐敗し、汚職や公金横領など、深刻な政治的スキャンダルが続出した。
ハーディング大統領が無為のはてに急死したときは毒殺説まで流れた。それでも経済は発展し、アメリカは世界一の金持ち国となり、国民は政権を支持しつづけた。たまに政治の腐敗を批判するジャーナリズムが出現しても、
「政治の不正や腐敗を追及するのは、政府の信用を失墜させることであり、反国家的な行為である。そんなことを許してはならん」
そう主張して、ジャーナリズムを攻撃するもののほうが多かった。
こうして一九二〇年代のアメリカ合衆国は、政治の腐敗と社会の矛盾とをかかえこんだまま空前の繁栄の道をフルスピードで驀進し、世界の富を一手にかかえこみ、黄金と栄光に酔いしれた。そして一九二九年、繁栄は急停止した。「大恐慌」が始まり、株価は暴落し、企業はつぶれ、失業者が街にあふれ、市民は貧困と窮乏の底にたたきこまれた。つい先日までの黄金と栄光が、暴風と共に過去へと運び去られてしまったのだ。
歴史はくりかえすだろうか。アメリカではなくべつの国で。
日本は民主主義国家である。国民の意思が戦車や機銃によって圧殺されることはない。無能で腐敗した不公正な政府は、武器によって国民に押しつけられるのではなく、国民の多数派が自分の意思によって選ぶのである。改革前の社会主義国では、国民が選ばなかった権力者が不正を働いたのだが、日本で権力者が不正を働くのは、国民多数派の支持を受けてのことである。>
私は1920年代当時のアメリカについてはあまり詳しくないのですが、いくら当時のアメリカ人が政府に好意的だからといっても、不正を追及するジャーナリズムを「攻撃」するほど愚かではないと思いますが。さらにいえば、好況をもたらしてくれる政治が国民に支持されるのは当然でしょう? それのどこがいけないのですか?
それと一昔前の進歩的文化人のお歴々が主張していた「世界恐慌必然論」を平気で主張しているあたりは「おいおい」とツッコミたくなりますね。1929年の世界恐慌の直接的なきっかけは、「ホーリー・スムート法」という法律案が、アメリカ上院議会に提出された事にあります。この法律は、アメリカが輸入している何十品目かに40~800パーセントの超高率関税をかけることによって自国の産業を守り、アメリカを自由貿易体制から脱退させるもので、これが提出されただけでウォール街の株価が一気に急落したのが恐慌の始まりなのです。したがって世界恐慌はアメリカの「政治の腐敗と社会の矛盾」が引き起こした必然的なものではなく、アメリカの経済政策の失敗だというのは定説になっています。
そのうえ、この法律案は翌1930年には何とアメリカ議会で可決され、成立してしまいました。そのために他の国も報復関税をかけ、それが本当の世界恐慌へと発展していったわけです。そしてこの世界恐慌によって、アメリカだけでなく世界全ての国が深刻なダメージを受け、第二次大戦の遠因となったのです。しかしこの社会評論を読んでいると、まるでアメリカだけが大ダメージを受けたと解釈できるのは気のせいでしょうか?
皮肉な事に、日本のバブル崩壊もまた、1990年に当時の大蔵省銀行局長が独断で発した「総量規制」という、ただ一片の「通達」によって地価が大幅に下落したことによって始まったのです。これもまた、統制経済を無理に銀行に押しつけたことが日本を谷底に突き落とすような不況にしたわけで、やはり日本の「政治の腐敗と社会の矛盾」が引き起こした必然的なものではありません。田中芳樹とは全く違う意味でまさしく「歴史はくりかえす」ということになるでしょうね。
それと最後の「日本で権力者が不正を働くのは、国民多数派の支持を受けてのことである」という「名言」は、よほど自分の「国民少数派」的な考えが正しいと確信してなければ言う事はできないでしょうね。どうせ「自分の主張と同じ考えでない大多数の連中が不正な権力者をのさばらせているのだ」とでも考えているのでしょう。田中芳樹のような考えが、国民の大多数の意見だったら、とっくに日本は崩壊していますよ。「国民多数派」の有権者は、少なくとも田中芳樹よりはずっと賢明だと思います。
P85上段~下段
<建設省と郵政省といえば利権の巣窟であり、いくらでも汚れた金や表面だけは綺麗な資金を手にいれることができる。ダミーとなる会社に、原野や山林や沼地を安く買わせ、そこに新幹線や高速道路を通させて高く売りつけるのだ。土地を売買するだけでなく、道路の建設工事も、息のかかった建設会社にさせて、巨額のリベートを受けとる。工事に使うセメントも、関連企業のものを使う。海岸の埋立工事などのときに、ある特定の型をした消波ブロックだけを使うよう法律で定めれば、その型の消波ブロックを独占製造している会社が大もうけする。そしてその会社は、法律を定めてくれた政治家に、政治献金という名の賄賂を贈る。この国では、政治は金もうけの商売であり、その証拠に、引退する政治家は息子を後継者にして利権を相続させるのだ。>
よくここまで悪意に満ちた記述ができるものです。まるで銀英伝のルドルフや救国軍事会議のお歴々が主張しそうなセリフですね。ここは最後の方だけ少し指摘を。
「この国では、政治は金もうけの商売であり、その証拠に、引退する政治家は息子を後継者にして利権を相続させるのだ」
確かに政治家が息子に世襲させるのは私も少しおかしいのではないかと思いますが、「政治は金もうけの商売」とそこまで日本の政治を貶める事もないでしょうに。4巻で『「政治家は清廉でありさえすればいい」という考えも、いささか危険である』と言った人の発言とは到底思えません。結局田中芳樹は、日本の政治に対してはいくらでも「清廉でありさえすればいい」と主張しているのですものね(T_T)。
P85下段~P86上段
<国民を喰いものにして血と脂で肥え太っているのは政治業者ばかりではない。日本の大企業がいかに国内の消費者をばかにし、反社会的な手段で暴利をむさぼっているか。アメリカ合衆国政府の調査によると、日本製のカメラレンズがニューヨークでは東京の半額以下で買えるという。その一事だけでも明らかである。
一九八六年からの三年間に、日本の法人所得、つまり企業利益は五九・三パーセントも伸びた。一方、サラリーマンの給与上昇率は一三・七パーセントにすぎない。差額はことごとく企業の懐にはいり、企業はありあまる資金で土地と株を買いしめ、その値段を吊りあげた。こうして日本の地価総額はアメリカの100倍を越し、株価総額はヨーロッパ共同体諸国全体のそれを凌駕することになった。それでもなお資金はありあまり、日本企業は外国で土地を、ビルを、そして会社を買いあさる。そして、あたかも金もうけの巧みさがすぐれた人格の証であるかのごとく、「欧米人はもっと働け、日本人を見習え」などとお説教する。これで好かれたら不思議である。古今東西、社会性や協調性を欠くうえにお説教好きの成金が、他人に好かれた例しはない。>
「社会性や協調性を欠くうえにお説教好きの成金」って、田中芳樹よ、あなたのことではないのですか? まず、「社会性や協調性を欠く」遅筆と「お説教好き」なうえに偏向している社会評論を何とかしてほしいものなのですが。
「日本製のカメラレンズがニューヨークでは東京の半額以下で買える」というのは、日本の大企業が「国内の消費者をばかにし、反社会的な手段で暴利をむさぼっている」からではなく、そうしないとアメリカで自国の商品が売れないからなのでは? それに「日本製」の商品をアメリカで製造しているならば、日本に比べて物価が安い分コストも安くつくので値段も安くなるということもあるでしょう。「日本製」の物が日本で造られているとは限らないのですよ。
それに「企業利益は五九・三パーセントも伸びた」からといって、何でサラリーマンの給料まで五九・三パーセントも伸ばさなくてはならないのでしょうか。そんなことをしたら企業の利益が赤字決算になってしまうではありませんか。「差額はことごとく企業の懐にはいり」ってそれは当たり前ではないですか。どぶに捨てるわけではあるまいし。企業は成長しなくてはならないし、そのためには資金の備蓄が必要ですし、投資も不可欠です。さらに日本の法人税率は世界最高水準(約46パーセント)です。いくら企業利益をあげても、その分支払わなくてはならない法人税も重くなりますから、全ての企業利益を「サラリーマン」に還元するなどできるわけがありません。日本の企業にもそれなりの事情があるという事を、少しは理解してくださいよ、田中さん。
P86上段~下段
<そのように歪んだ醜怪な経済界をささえる日本のサラリーマンは、賃金が世界一高いといわれている。嘘である。それは残業や休日出勤などで労働時間が欧米よりはるかに多いからであり、一時間ごとの給与を比べれば、たちまち世界一から転落する。さらに、購買力平価、つまり同じ金額でどのような商品が買えるかを比較すると、世界で二〇位以下になってしまう。物価が異常に高いからである。日本とアメリカ、両国政府の共同調査によれば、東京の物価はニューヨークの物価より40パーセントも高い。それは土地や住宅の価格を除いてのことである。普通のサラリーマンが一生勤勉に働いて、自分の住む家を買うこともできないような社会がまともな社会といえるかどうか、考えてみるのもたまにはよいかもしれない。>
少なくとも、これほど反日的な社会評論を書いている田中芳樹が日本から逃げ出さないのだから、日本もかなり住みやすい社会なのでしょうね(^_^)。
それにしてもここの社会評論の論理のめちゃくちゃな事。「日本のサラリーマンは、賃金が世界一高いといわれている」のを否定するために、「一時間ごとの給与を比べ」てどうするのでしょうか。この「賃金が世界一高い」というのにつられて、一年間に一体どれだけの密入国者が日本に入ってきているのか、田中芳樹は知らないのではないでしょうか。
あと、購買力平価というものもずいぶんと分かりにくいものです。以前、中国の購買力平価が日本よりも上と聞いた事があるのですが、それだと中国が日本以上の経済大国になっていても不思議ではないのに、全然そうなっていないんですよね~(^_^)。この購買力平価について詳しく知っている人はいませんか?
う~ん、以外に5巻も社会評論が多いですね(というか長すぎ)。今回はこの辺でお開きとしておきましょうか。次で5巻の批評終わるのかな~?
>それに「企業利益は五九・三パーセントも伸びた」からといって、何でサラリーマンの給料まで五九・三パーセントも伸ばさなくてはならないのでしょうか。そんなことをしたら企業の利益が赤字決算になってしまうではありませんか。「差額はことごとく企業の懐にはいり」ってそれは当たり前ではないですか。どぶに捨てるわけではあるまいし。企業は成長しなくてはならないし、そのためには資金の備蓄が必要ですし、投資も不可欠です。さらに日本の法人税率は世界最高水準(約46パーセント)です。いくら企業利益をあげても、その分支払わなくてはならない法人税も重くなりますから、全ての企業利益を「サラリーマン」に還元するなどできるわけがありません。日本の企業にもそれなりの事情があるという事を、少しは理解してくださいよ、田中さん。
冒険風ライダーさんのこの投稿(↑)読んで思ったんですけどね、田中芳樹は「減価償却」って考え方が、全く理解できていないんじゃないですかね。企業の設備はいつまでも使えるものじゃなくて、年々価値を失っていき、新しい設備投資の為に原資の蓄積をしなければならず、その分は利益ではない、ってことが。売上から経費を引いたら全部儲けだと思っているんじゃないかな。実社会に出たことの無い人がなりやすい陥穽ですけど。日本の社長の給料はアメリカなんぞと比べれば安いし、何かと付き合い(冠婚葬祭など)があるから、社会的地位に伴う出費もばかにならないし。また、それだとしても社長や役員などの給料が多いだなんて当たり前じゃないですか。資本主義社会なんだから。結局資本主義社会が気に入らないようにしか見えませんわ。それが気に入らないんだったら、自分の収入を少しは売れない作家に分けて差し上げればよろしいのに。出版社においても作家に払う原稿料や印税を平等にすべく、運動したらよろしいでしょう。自分の懐に響くから、絶対にやりそうにないですけどね。
非常にお手数ですが、巻末の竜堂兄弟の座談会も、批評の対象に
してはいただけませんでしょうか。
座談会で、田中先生の反論に対する態度が伺えます。
> 日本でも年号が変わり、二度も首相が交替し、第2次対戦後の文化をになった代表的な人たちが多く亡くなった。あたらしい時代が来る、と思われたのだが、利権をあさるだけの政治と排他的な社会はいっこうに変化しなかった。世界中の富を一手にかき集め、資本も労働力も貿易市場も開放せず、自分たちだけの「黄金の国」にたてこもり、混乱と変革をつづける世界のなかでこの国だけが別天地でいられるつもりのようだった。政権交替の可能性も遠のき、政界・官界・財界の三者が利権という汚れた接着剤で結ばれあった権力体制は、自浄能力をとうに失ったまま、際限のない泥沼のなかを不確定の未来へと転げつづけている。>
やれやれ。一瞬、「もず」が書いた文章じゃないかと思ってしまいましたよ。
以前、日刊ゲ○ダイのようだと書きましたが、どちらかというと「もず」です。
すみませんが、夜も遅いのでこれだけです。
私はサラリーマン。田中先生に
「誰かに束縛されていないと安心できない哀れな者達」
などと書かれている、サラリーマンなんです。
しばらくメールアドレスを使用しているパソコンが、再調整のために使用できません。いちおうメールアドレスは書いておきますが、メールを送ることはできません。今週中には元に戻ると思いますので、連絡事項は掲示板でお願い致します。元に戻り次第、連絡致します。
(といっても、ほとんど誰もメール送ってきませんけどね(^^;))
不沈戦艦さん、そういえば減価償却って考えがありましたね。私も一学生にすぎないので、どうもピンときませんでした(^^;)。いちおう簿記会計の授業で減価償却については習っていたのですが、やはりこのあたりは実際に働いている人のほうが詳しいようですね。勉強になります。
会社での地位の格差については、やはり全共闘らしく「全ての労働者はみな平等であるべきだ!」とでも考えているのではないでしょうかね(^_^)。
M野さん、今回の座談会は私も取り上げようと思っていました。今までも創竜伝の座談会は一応目を通してはいたのですが、「特に問題のある個所はないな」と思っていたので批判を展開しませんでした。しかし今回の座談会の発言で少し前の巻を読みなおしたら、かなりおかしな所がありましたので、今回まとめて指摘しようと考えています。楽しみにしていてください。
創竜伝の座談会も、文庫版などでかなりめちゃくちゃな主張をしている所があるようです。私は文庫本を持っていませんし、少し最後の座談会の所を立ち読みしただけなので詳しくは知らないのですが、誰か創竜伝の文庫本を持っている人がいたら、その部分を引用していただけないでしょうか?
ところで1つ質問なのですが、「もず」って何でしょうか? 教えていただけたら幸いです。
私信に近いですけどごめんなさい。
冒険風ライダーさん、「日本ちゃちゃちゃクラブ」は知っているでしょう?そこの歴史ボードや未来思考ボードに出没する、「もず」と名乗っている人のことですよ。彼によれば、天皇ヒロヒトは麻原彰晃と同じ類の人間だし、北朝鮮の人民は日本とアメリカの軍事的圧力によって脅迫されているのに、素朴な社会主義の実現の為に日々頑張っている健気な人たちだし、「噂の真相」や「東スポ」は第1級のマスコミだし、国の為に命を掛けることは恥ずべき事だし、軍人は人間として最低最悪の職業、なのだそうです。この方、懲りるって事を知らないし、かなり独り善がりで他人に答えるってことあまりせずに一方的に自説を主張して終わりにすることが多いですし、独特の「味」のある文体で書きこむので、ある意味での(揶揄して)の「もずファン」が結構いる、ってなことになってしまっています。私もその一員ですけどね。「もず」なので「鳥」とか「酉」、「鳥さん」などとも呼ばれています。「もずファンクラブ」の「酉といつまでも」なんて掲示板もありますよ。まあ、最近は取り上げられるのも「もず」ばかりじゃなくなっていますけどね。
>実社会に出たことの無い人がなりやすい陥穽ですけど。
>私はサラリーマン。田中先生に
>「誰かに束縛されていないと安心できない哀れな者達」
>などと書かれている、サラリーマンなんです。
>
昔、吉本隆明と埴谷雄高が行っていた論争を思い出しました。
吉本がコム・デ・ギャルソンのン十万の服を着てシャンデリアの下がっているような書斎で執筆している様子が、「現代思想をリードする吉本隆明のファッション」というアンアンのグラビアで紹介されたことに対して、埴谷がかみついたんですね。
「このような「ぶったくり商品」を、現代思想をリードする吉本隆明がCMしてくれたことに我が国の資本主義は後光が差す思いだろう。我が国の資本主義は朝鮮戦争とベトナム戦争の血の上に火事場泥棒のボロ儲けを重ねたあげく、その金で技術と設備を整えて、つぎにはこのような「ぶったくり商品」の「進出」によって「収奪」を積み上げる高度成長なるものを遂げたのだ」(大意)
以上の論理で、タイの貧しい青年が日本を悪魔と呼んだことに思いを致すのですが、このプロレタリア文学の大家で日本共産主義思想の重鎮の論理はどこかのベストセラー作家の論理によく似てますね(笑)
これに対する吉本の反論は明快なものでした。
「埴谷雄高さん。貴方はご自分が、他人の私的住宅や着ている衣服に注いでいる「卑しい」その視線が、未来の理想社会を作ったり、民衆を解放したり、抑圧や強制収容所のない自由な社会を実現することと、少しでも関係あるとお考えですか?」
と述べ、この「卑しさ」を最大限に利用する政策こそがファシズム・スターリニズムであると指摘し、大体貧しいタイの青年云々言っているあんたはハードカバーの豪華本で小説売ってぶったくってるじゃないかと喝破します。
この吉本理論は田中理論に対してもいまだ有効ですね。プロレタリア文学は、いまだ死に絶えていないようです。
吉本隆明は谷沢永一に論争で負けてますけど、左翼に対してはかなり強いです。