> 「意欲に欠ける生徒」においては、せいぜい、「書き写す」という労力を必要とするぐらいのものであって、思考や論述に頭を使うことはないでしょう。
大学時代、やる気の無かったドイツ語を、試験だけはなんとかクリアするために、ひたすらドイツ語の教科書の日本語訳を熟読し暗記して試験場に望んだことがありましたね。試験には合格しましたけれども、こんなもの、何のドイツ語の訓練にもなりませんね。
書き写す時、本当に頭を使わないでしょうか?
そのドイツ語の試験がどのような方式だったのが存じませんが、ここに書かれている内容だけだと、「暗記」で試験をクリアしたがドイツ語の訓練にはならなかった。ということで、従来の試験のやり方のほうがよかったと言うことにはなっていないと思われますが。
> だいたい、冒険風ライダーさんが「カンニングという逃げ道がある」と指摘している通り、大半の生徒が、このような易き流れに流される公算が高いのですよ。
易きに流れる生徒は確かに現れるでしょう、ですが、それはどのような試験方法、授業方法でも現れます。
人のノートを写させてもらう・・・この行為をカンニングに含めてしまうのであれば、従来の試験方法であっても、カンニングをまったくしなかった、と言える生徒はごく少数になってしまいませんか?
半数を見捨てることが前提、あるいは、ついてこれない生徒は見捨てる、そのようなことは申しておりません。
もちろん、全員に「歴史は面白い」と感じてもらうために、教師は努力します。が、最善を尽くしたとしても、全員がしっかりついてくるはずだ、と考えるのは、現実的でないだろう、という見解にすぎません。
従来の方法で、歴史に興味を持つ生徒が増える、と期待できますか?従来の方法は半数どころか、ほとんど全員を突き放してきたのではないですか?
そして、従来の方法、詰め込みや暗記の結果が、北朝鮮やイラクの位置を4割ものの学生が知らない、ということではないでしょうか。
基礎知識というものは、詰め込みや暗記によってのみ身につくのでしょうか?
詰め込み教育であれば、部分的にでも残ったであろう知識すら身につかない、と仰いますが、基礎知識の習得に力点を置いているはずなのに、部分的にしか残らない。現役の学生ですら、受験が終われば、あれほど頻繁に新聞やテレビに登場するアメリカ合衆国の位置が頭に残っていない。
この件は、現状の詰め込み教育は、期待しているはずの基礎知識の習得でさえも、十分に為しえていないのではないか、という事例としてあげました。
詰め込むための授業ではなく、学生の興味を引くように工夫された授業の方が、また、数字や名前を暗記する試験より、論述のために読み、書かされる試験の方が、やったことが頭に残る可能性は高いと、私は思うのです。
始のようなやり方が、何の欠点もない、とは最初から申し上げませんでした。
従来の方法よりもいいと思う、と申し上げたのです。
> 野球が好きな人は多いでしょう。
> ゲームが好きな子供は、さらに多いでしょう。
> しかし、すべての生徒たちが、皆、最初から、何事にでも興味を持っているわけではありませんよ。また、やってみたからと言って、興味を抱く、と限るものではありませんよ。
当然です、全員が全員興味を抱くはずだ、などとは述べてませんよね?
野球をやるときに、まず最初にルールブックを暗記する者はいない、と申し上げたのです
実際にやっている姿を見て、やってみたいと思う、楽しそうだなと感じる、そこから始まるのだと、私は思います。
まぜてもらって、ピッチャーが当てやすいように緩く投げたボールを、我流のスイングで打ち、仲間に「ほら、一塁(指差す)に走って!」とうながされ・・・最低限必要な知識というものは、このように実際にやりながら、その都度知っていくものです。そして、野球に大きな楽しみを見出した子どもは、「より楽しむために」自分で本を読んだりして学んだり、少年野球のチームに加わって習ったりするのです。
公園で、ゴムのボールでハンドベースなんかで遊んでる子ども達、彼らのほとんどは野球のルールブックなど読んではいないのです。
これから野球をやるから、まずルールを覚えろ・・・そんな教え方は誰もやらないと思いますよ?
> ましてや、勉強の類であれば、特定の教科が好きでたまらない、勉強するのが好きだ、などというのは、ごく一部の人間ではないでしょうか。
なぜそうなるのか、それまで知らなかったことを知ること(自己成長)は嬉しいはずなのに、どうして苦痛なのか。それは従来の詰め込み教育の方法がよくないからだと、私は思います。
> 我々が勉強の類をも面白みをもってやれるのは、必ずしも根源的な興味からではなく、一歩一歩積み上げていく、という自己成長を感じることができる点が大きいでしょう。自分に理解できた、という喜びなのです。しっかり勉強したから80点取れた、とか、そういった次元の話です。
ほとんどの学生、子どもはパンツァーさんの仰るような「面白み」を感じていない、それこそ「ごく一部」ではないですか?
私は、詰め込み教育が、自己成長の喜びを削いでいると思います。詰め込み教育の試験は理解できていなくても、その時憶えていればクリアできてしまいますから、始のやり方よりその点で優れているとは言えません。
> > > 「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
> > > という前提条件です。
>
> この前提条件についても、全然、意識されていないようですね。
> 英語を面白いと感じられる段階に到達するには、当然、一定量の英単語は記憶してしまわないと駄目ですね。
これも違うでしょう?人が英語に興味を持つきっかけの中で最も一般的なのは音楽や文学ではないでしょうか?読みたい、歌いたい、だから必要な発音や単語を身に付けるのです。
やみくもに単語を覚えなさいと詰め込もうとするから英語嫌いが増えるんです。
試験が終われば忘れてしまうのです。
最近はやや改善されたようですが、日本の中学・高校の英語教育は実用に耐えないものの代名詞だったではないですか。単語や文法はネイティブをしのぐほどよく知っているが、喋れない、聞けない、、、もちろん、その訓練に耐えて知識を蓄積し、改めて会話やヒアリングを英会話学校などで習えば、使いこなせるようになるでしょう。
しかし、そこまでの過程で、多くの学生を振り落とし、英語嫌いにさせてしまっているではありませんか。
> 「ルールブックを読破する情熱は生まれ」ても、結局読破できなかったら、そこで躓いて終わり、ですよ。
ルールを知悉しなくても楽しむことなら出来るんですよ、実際に遊びながら、最低限の決まりごとを身につけていきます。日曜日に河川敷で行う草野球で「ボーク」を厳密に取ることはしません、塁間の距離だっていい加減でしょう。ピッチャープレートからホームベースまでの距離の決まりを知らなくたって、十分に楽しめるのです。
> プロ野球の選手でも、才能に如何に恵まれてても、基礎的な筋力を欠くために筋力トレーニングからやり直し、などということも多々あるではありませんか。
これも違うと思います。そもそも、プロ野球のチームに入団する時点で、野球に対して並々ならぬ意欲・やりがいを見出し、その楽しさを十分に知っているのが、選手ではないですか?
学生野球のレベルから、プロのレベルにステップアップし、そこでも活躍したいから、トレーニングに励むのです。
「半数に達すればたいしたもの」と述べたことが、半数を見捨てている、と取れてしまうわけですね。
もちろんそのようなことは本意ではありません。
少しでも多くの学生に、興味や意欲をもってもらえるように平素務める、これは大前提です。
それでも、成果として期待できるのは・・・という主旨で述べたのです。
そして、考えていただきたいのは、従来の詰め込み教育だったら、もっといい結果が期待できるのですか?ということです。
従来のやり方は、歴史は嫌いだ、暗記ばかりで面白くない、という子どもを増やしたではありませんか。
私は、始のやり方のほうが、従来のやり方よりも、歴史への関心を刺激し、「おもしろい」と思ってもらえる可能性が高い、と申し上げているのです。
先にも述べましたが、「人のノートを写す」行為をカンニングに含めるのであれば、従来のやり方でもカンニングは既に横行していることになるでしょう?ノートのコピーのやりとりなど、日常の光景ではないですか。
確かに、平素の努力を省略しているわけで、望ましいことではありません。しかし、これは従来のやり方でも、始のやり方でも、同じことなのです。
それを暗記するか、もう一度読んで書くか、という違いでしかないのです。
そして、従来のやり方は、半数どころでなく殆どの学生を、「歴史」から突き放してきたのです。
それに比べれば、半分なら「よりまし」ではないですか。
パンツァーさんは、私がごく一部の生徒だけを見て、他の学生を見捨てていると仰いますが、パンツァーさんの支持なさる従来のやり方は、より多くを見捨てているのですよ?
私は、その「ごく一部」が少しでも多くなるようにしたい、という願いから、申し上げているのです。
<しかし、すべての生徒たちが、皆、最初から、何事にでも興味を持っているわけではありませんよ。また、やってみたからと言って、興味を抱く、と限るものではありませんよ。
パンツァーさんはこのように仰いました、私が「半数もついてきてくれないかもしれない」と申し上げたのは、これと同じ認識からです。
私は欧米の大学生が、日本の学生より、勉強に意欲的なのは、試験の難易度が高い、というだけの理由ではないと思います。
もちろん容赦なく落とされる恐怖は動機に含まれると思いますが、そればっかりではないでしょう?
パンツァーさんは欧米の大学に留学されたりしたのですか?^^私は大分昔に読んだり聞いたりしただけなので、向こうの実情はよく知らないのですが。
試験の難度が低かろうと、好きなことなら自分から頑張るでしょう。試験がなくたって、面白い講義には顔を出し、真面目に聞きます。
資格試験を一生懸命やるのは、就職が難しくなるからで、これはこれで問題があるような気がしますが、ここでは置きます。
日本の大学で、教養科目が機能しないのが、どんな理由であるにしろ、(機能する必要はないのだとさえ聞こえるのですが)大学教育に期待できないのなら、なおさら高校で教養を拡げる必要があるのではないですか?
高校までは基礎を詰め込めばいい、と仰いますが、大学以降で教養科目が機能せず、応用も為されないのでしたら、どこで歴史の面白さを学ぶのですか?大学以降で、面白さを教えることができないと、あなたの言うことも成立しませんね?
将来のために必要、と言う言葉を、希望の企業に就職するため、希望の大学に入学するため、そういう狭い意味に限定してしまっていいんでしょうか?
教養は人間にとって大切なものではないですか?
学者になる人間以外は、歴史のおもしろさなど知る必要はないと?確かに厳密には必要ないでしょう、知らなくたって生きていけます。
しかし本来は大学だって、職業訓練校ではないのです。
就職のための活動や資格試験の勉強よりも、好きな学問分野をより深く学んだり、友人と何かを企画、実行したり、、、そういうことのためにあるのです。専門教育だけでは偏った人間になってしまうから、教養科目が課されているわけです。現状は理念とは離れてしまっているわけで、これは残念なことです。
受験や就職に関係ないことは、学校で扱う必要はないのでしょうか?私はそうは思いません。人間として、もっと大事なことはあるでしょう。暗記の試験で高得点など出せなくてもいいし、歴史はどうしても面白いと思えなくて、手抜きに走っても、数学は大好きだというなら、それでもいいんです。なるべく多くの人に歴史を好きになってもらいたい、でも全員がそうならないからといって咎めるようなことではないです。
技術や資格さえ身に付ければいいのであれば、大学である必要などないので、そのための専門学校にいけばいいということになるではありませんか。
基礎を押さえるという前提を飛ばして、と繰り返し仰いますが、小学校・中学校では何も身についていないという前提なんですか?まぁ、従来の教育ではあまり残ってないかもしれませんが、何も知らないところから、というのとは違うでしょう。
それに、一定量の知識がないと、面白いと思えるはずがない、という意見には同意できません。
中国の歴史や文化に深い造詣がなくても、三国志を面白いと思う人は少なからずいるわけでしょう。吉川三国志を面白いと感じた人の中には、じゃあ演義を読んでみようか、とか、正史を読んでみようとか、隋唐演義を読んでみようとか、発展していくわけで、その過程で、中国の文化や人々の生活、歴史についての知識が蓄えられていくのではありませんか?
まず最初に面白い、面白そうだ、と感じさせなければ、単語を憶えるのは、ただ試験をクリアするための作業にしかならず、試験が終われば忘れていくだけです。最初に苦痛を与えれば、そこから逃げたくなる、極力手を抜きたくなる、嫌いになっていく、そういうものだと思いますよ?
もちろん、途中で何か興味を引くものに出会ったり、気づくことがあったりして、好きになる人もいるでしょう、しかしそれは、詰め込みが、「結果として」利するだけで、詰め込みによって好きになったわけではありません。意図せざる結果にすぎないのです。
いわゆる「本当の」面白さ、や、「深い」面白さ、を味わうには、確かに一定量の知識が求められるでしょう。
しかし、その前に面白い・楽しいと思わせないと、例えば単語の暗記などは苦痛なだけで、「本当の」面白さにたどり着けなくなるでしょう。
歴史が嫌われる最大の要因は「暗記」なんですよ?
数字や名前は教科書に書いてあるわけでしょう?それを憶えることよりも、使うことを教えるほうがいいと思うのです。
使っているうちに、頭に入っていくものです。
始のやり方は基礎を叩き込むことを重視したものではありませんが、使わせれば必要なことはある程度身についていくものです。
英語の本を読む際、それに必要な量の単語知識がなくても、辞書を引きながら意味をたどっていけば、読むことが出来ます。そして何度も辞書を引くうちに、その単語の意味や使い方が頭に入っていくのです。辞書を繰り返し引けば、必要な単語だけでなく、その周りの単語や、その時必要な意味だけでなく、余分な意味、余分な用法にも目を通すことになります。そうやって知識を蓄え、「より深く」楽しめるようになるのです。
そして、最初にその本を読むようにもっていくためには、その子が面白いと思ってる内容(例えば映画など)にからめたり、これすごく面白いんだよ、と紹介したり、と、導き手が工夫するわけです。
面白い、と感じるのに、年号や名前は必要ないのです。
「1600年に関が原の戦いがあった」ことが面白いのではありません、その過程、さまざまな人間の思惑の交錯、そういったものが面白いのです。それが何年にあったか、が大事なことではありません。それでも、この戦いについて興味を持って色んな本を読めば、朝鮮遠征→関が原合戦→江戸幕府開設、という流れはわかるようになるでしょう。
関わる人間の名前や、土地の名前を丸暗記しなくても、読み、考え、書いているうちにある程度頭に入るものです。
そしてそうやって身についた知識は、試験のための丸暗記より、よほどしっかり残ります。
私は、竜堂始のやり方が完璧だ、などと言っているのではありません。従来の方法より望ましい、と言っているのです。
前提を意識していないと仰いますが、彼は初めて歴史に触れる子どもを相手にしているのですか?
日本語の読めない学生が相手なのですか?
小・中学校でそれなりに歴史を勉強し、日本に生活してきて読み書きができる、そういう高校生を相手にしているわけですよね。
その上で、歴史の面白さを伝えることを重視した教育をしたい、と志向しているのです。
その分野や事柄の面白さを教えるのに、まず必要なことは、初期段階の面白さを伝えることです、体験させることです。興味を持たせることです、嫌いにさせないことです。
「この本を読むには3000語の単語知識が必要だ、覚えろ」というのと、「この本は英語で書かれてるけど、君の好きな○○について書かれてるんだ、辞書引きながらでも読んでみないか?どうしても分からないところがあったら聞きにおいで」、詰め込み教育と、始のようなやり方との差は、こういうところにあると思うのです。
スポーツにおけるドーピングと、試験におけるカンニングは全く別物です。
それを同列に扱うことこそ、競技スポーツに取り組んでいる人達に対する侮辱に他ならないと思いますね。
> 共に禁止されているにもかかわらず、スポーツでドーピングという不正行為がしばしば用いられる理由も、試験の際にカンニング行為が絶えない理由も、どちらも同じものでしかありえないのですよ。それはまさに、あなた自身が明言する「結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生む」からでしょう。
> 受験にしたところで、たった1点の格差が受験者の明暗を分けることが往々にしてあるわけなのですから、「他人よりいい点数を取ること」が「目的のひとつ」となることは当然ありえますし、不正行為が行われる土壌はどちらも全く同じです。にもかかわらず、何故ドーピングとカンニングで異なる結論が出なければならないのです?
私は学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、と申し上げてます、ですからこのような指摘は的外れです。
「学内の定期試験において」「人のノートを写す」「それを読みながら論述する」ということと、オリンピックやプロスポーツで薬物不正を行う、ということは同列の問題ではありません。
定期試験はスコアを競うものではありません、その期間に学習した内容を確認するためのものです。
競技スポーツは、公平な条件のもとで、記録を競うものです。
入試において、認められていない行為を行ったというのであれば、不正行為という基準において同じことだというのは理解できますが、私は学内の定期試験を、点数を競うものだとは考えておりませんので、私の中では矛盾してはおりません。
> あなたと議論しなければならない人間が、何故あなた個人の主観的価値観などにいちいち配慮して話をしなければならないのです?
> その自分の主観的価値観に普遍的かつ客観的な説得力を付属したいと考えるのであれば、ただそれだけを根拠にドーピングとカンニングとで全く異なる結論を導こうなどとは考えないことです。世の中には、あなたとは全く異なる価値観を持つ人間がいるということを、どうかくれぐれもお忘れなく。
あなた自身がこの言葉をしっかりおわかりになっているとは思えませんが?
あなたの言い分はあなたの主観的な価値観にすぎませんよ。
朝夕朗読して肝に銘じられたらよろしいでしょうね。
いいえ、別の問題ですよ。
私は始の試験方法、教育方針が、理念として間違ってはいない、いいところもあって、従来の方法よりいい、と言っているのであって、創竜伝を擁護しているのではありませんので。
それに、それを実地するに当たって竜堂始が、ふさわしい公正さを、学生に対して発揮するかどうか、疑問符がつくとは申しましたが、否定するには材料が足りません。彼の考えに反する解答を「真面目に」出してきた「生徒」に対し、どう振舞うかは、まだ推測でしかありませんから。
また、その思想の正当性は、その実行者、あるいは信奉者がその思想に適う資質を持っているかどうかとは、別の問題です。
創竜伝と竜堂始を否定することは可能ですが、その思想を否定するのは尚早です。
入試のような選抜を目的とした試験と、学内の定期試験とは目的が違いますから、これもまた別のものです。
「競技スポーツと教育」が同じものだとしか思えないあなたの価値観に合わせなければならないのですか?あなたのいいようこそ、私から見れば痴者のタワゴトに他なりません。
違う意見や価値観を持つ人に対してヒステリックに噛み付いてるだけにしか見えませんね。
私以上に傲慢なあなたに「傲慢だ」と言われてもね(笑)
> それと、これは上記の問題の前には非常に蛇足かつ余計な質問なのかもしれませんが、「馬鹿な教師が気づかなくても、クラスメイトにはわかっているでしょうに」って、何故クラスメイトには分かっていることが100%保証されているわけなのですか? クラスメイト「も」気づかない可能性は当然ありえますし、たとえ気づいていたとしても、それが行動によって示されなければ、本人にとっては「気づいていない」のと同じことでしょうに。
あぁ、誰からも無視されている可能性ですか?
確かにそういう可能性もありますね。
しかし通常は、クラスメイトがどんな態度で授業に臨んでいるか、何が得意か、分かると思うんですけどね。
また、クラスメイトなら100パーセント知っている、とは申しておりません。親でも兄弟でも、クラスの違う友達でもいいでしょう。自分だけが知っているのでもかまいませんし。
揚げ足取りにしかなっていませんよ。
> そういう「やむを得ない側面」があるからこそ、「学内考査が模試やセンター試験のための事前演習」という考え方が出てくるわけです。「否応なく数字至上の足切が待って」いるからこそ、来るべき「数字至上の足切」を乗り越える試練を課すことは、学校や教師の義務であり、ひいては生徒自身のためでもあるのです。
あなたの意見は、高等学校は大学進学のための訓練機関である、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです。
> 他人の価値観を全否定し、「根本的に間違っているんですよ」だの「それはあくまでも一つの見方でしかないというのに」だのといった理想論を振りかざす前に、人間は「目の前の現実」に対処しなければならないということを、少しは自覚して頂きたいのですがね。
現状に問題があるとき、あなたのように振舞えばその状況は悪化するだけです。
理想を持つものを嘲笑することでしか、自分の価値を認められないのであれば、哀れに思いますがね。
他人の価値観を全否定し、来るべき「数字至上の足切」を乗り越える試練を課すことは、学校や教師の義務であり、ひいては生徒自身のためでもあるのです。などという現実論を振りかざす前に、人間は理想を持ち、その実現に努力することが望ましいということを、少しは自覚していただきたいのですがね。
> 上でも述べましたが、「努力に対する評価」などというものは、主観によって判断される比率が「結果だけで判断する教育手法」などよりもはるかに高いため、教師の資質に関係なく「構造的に」公正さが著しく損なわれかねないからです。
> こんな簡単なことがどうしておわかりにならないんでしょうね?
まじめにやった人間の努力が踏みにじられるから、カンニングはダメだ、と言いながら、努力に対する評価などは主観の割り込む余地が大きいからだめなんだ、と仰るわけですね。
しかし、あなたの憎むカンニングは、「結果だけで判断する教育手法」が、助長するのですがね。
人のノートを写すことを否定なさらないのであれば、ノート持ち込み可であっても何の問題もなくなるではありませんか、人のノートを暗記するのはよくて、読みながら論述をまとめるのはダメなんですか?
従来の試験で、テキストやノートのコピーを暗記して、解答用紙に書き込むことと、予告されたテーマについて、人のノートを書き写し、試験でもう一度書き写すこと、この二つの行為の間に、あなたが主張するほどの不正の度合いの差があるとは思えませんね。あなたの主張を厳密に適用するなら、ノートの貸し借りもまずいということになるんですが。
従来の試験においても、学生は教師から何が出題されるかを聞きだそうとし、「ここは大事だぞ」「これはテストに出すぞ」そういうヒントを伺い、さまざまな工夫を行います、教師はその主観や好悪で、学生に対しヒントを出したり、問題を教えてしまったりします。それを考えれば、全員に問題をあらかじめ知らせるのは、この上なく「公平」とも言えますね。
<別に私は「どんな試験方法だろうと、人のノートを写す」こと自体は否定していないのですがね。
<<「事前の問題の提示とノートの持込可という前提条件」が、いかに「試験前のノート丸写し」のような不正行為を構造的に容易なものにしてしまうかが問題なのではないのですか?
あなたは明らかにノートを写す行為を不正行為として糾弾していますね?
あなたの主張の骨子とも言える部分ですよね?
しかもこの文脈では、事前の問題の提示よりも、ノート丸写しが重視されているように解釈するのが妥当かと思われますが?
年月がたってますから、自分の言ったことを忘れてしまうのはしかたがありませんが、相手に理解力がないと非難する前にするべきことがあるでしょうね。
また、写したノートを持ち込むことを認めることと、無制限なカンニング容認とは、これもまた別物です。隣の席を覗き込むようなカンニングは、ノート持込を認めればなくなるでしょう。
また、日ごろから真面目に勉強していたり、世界史が好きで自分から勉強するような生徒であれば、ノートを認めることで、丸写しの生徒より、より高度な、充実した解答が可能になります、また、解答欄を間違えるというようなミスや、体調不良による不本意な結果も、かなり避けることができるようになるでしょう。ズルをした生徒と差が出ない、というようなことも、そうは起こらないと思いますね。
私は、「カンニングの横行を招く」からダメだ、と言うあなたの意見に対し、手抜きをする生徒が出るであろうことはわかるが、歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高く、その利点が指摘された欠点をしのぐ、と申し上げているのですがね。
そして、現状にはそぐわない面が確かにあるが、少しずつでも本来の教育のあるべき姿のために努力することは望ましい、と思い、そのように述べています。
> 他人の主張に反論したいのであれば、もう少し他人様の主張をきちんと理解できるように努めて下さい。一知半解な理解力しか持たない人間と議論するのも、私にとっては苦痛でしかないのですが。
そっくりお返ししますとも、そして苦痛でしかないならおやめになったらいかがですか?
そもそも、自分の言ったことすら把握していらっしゃらない方が、「理解できるように努めろ」ですって?笑止ですね。
あなたがあなたなりに、私が何をいいたいのか、理解しようと務めてらっしゃるようには到底見受けられません、あなたにとっての正義が、誰に対しても通用しはしないことを、思いだせるといいですね。
みなさんはじめまして
いままで読むばかりだったのですが、ちょっと考えを。
流れを切ってしまうかもしれませんがご容赦を。
私は詰め込み世代です(今からだと20年近く前か…)。その時高校で教わった先生の例です。
まず、授業の内容は(詰め込み学習になると思いますけど)大変おもしろかったです。
試験は「通常の試験形態」で、順位もありました。
ただ、学期末テスト後に自筆ノートを回収し、評価に加算ということをしていました。
もしかしたら、このやり方は真面目だけど成績が上がらない生徒を掬いあげる方法だったのかもしれません。
それに授業ごとにきちんと書き込んだモノとノートを写したモノはあきらかに違うモノと思います。
(私が書き写した時、そう見えました。まあ、私が下手だったかもしれませんが)
私は「通常の試験」にしても「論述試験」であっても、真面目にノートをとった生徒が点数が高かったり、よい解答ができるとはいえないと思います。
理由としては、理解にも差があるとから。ノートを写すだけで理解してしまう人もいれば、まじめな生徒だが、理解が遅い人もいる。
ということです。(私は勉強の才能というのもあると考えていますが…。私はなかったみたいです(苦笑))
あと、「論述試験」の場合、100点の解答は難しくなりますね。さらに教えてる先生の解答を上回ったら120点?(笑
「論述試験」を行う場合、先生と生徒のレベルアップが必要になりそうです。特に先生は…。
「論述試験」で論点をうまくまとめられるかが難しいですね。高校生くらいになればできるかな?(うーん
黒崎さんの言うとおり<勉強に意欲を持たせる>ということは大事だと思います。
でもそれは先生の教え方によるものや、環境などもあるでしょう。
好き<意欲的>になったからといって飛躍的に伸びるかはどうでしょう?嫌いよりは全然ましでしょうが…
「通常の試験」も今の知識(成績)がどれだけ頭あるかという目安にはなるはずで、無駄になるモノではないと考えます。たとえ一夜漬けでも。
さらにノート提出の時にレポートでも書かせ、それも評価、加点すればどうでしょう。
案外最良の方法はないかもしれません。先生自身の問題もありますし。
単純に全体の成績(知識)をあげるなら詰め込みの暗記が一番早いと思います。
ですが、今回の話は努力している人をいかに掬い(さらに評価して)あげるかということだといわれてますし、こういうやり方をしていた先生もいたよ、ということで。
少なくとも私は、教師の資質として考えるなら始より高校の恩師をとります。
> しかし、下がるという推論も確かではないと思います。その理由は、関心を持たせることに成功すれば、自分で調べたり、知ろうとしたりします。そうして知ったことは、試験のための暗記で覚えこんだことよりも、身につき、残るからです。
> アフリカの人々の暮らしや文化に興味をもって学んだ人にとっては、ケニアの地勢や主要な都市名、民族、言語、そういったことは「暗記」ではなくなっているでしょう。
貴方の主張によれば、興味を持つ人間は1~5割とのことですので、確実に下がるでしょうね。
アメリカの位置も知らない人間が5割になったのと引き換えに1割の人間が世界中のすべての国の位置を覚えることを私は評価しません。
興味を持たなかった人間の学力はどうなるとお考えですか?
5~9割と言う大多数の人間がこの興味を持たなかった人間となるのですからお答えください。
> しかしながら、学内の定期考査ということですので、私は努力点に高い評価を与える方針を是とします。
> 模試のように順位付けを目的としたものではなく、その学期、期間で、その生徒がどの程度学んだか、どんなことを身に付けたか、といった確認が主目的です。
まさにその”主目的”のためにテストは厳正かつ客観的な基準で行われるべきなのです。
そうしてはじめて、生徒は自分の実力を知ることができるのですから。
点数に反映されなかった努力や熱意は”評価”のときに反映させればいいのですよ。
> では文句を言ったのは蜃気楼さんのような方だったかもしれませんね。
> 高等学校の役割を、大学へ進学するための準備・訓練としか捉えないのであれば、「有害無益」ということになるのでしょう。
「受験の役にはたたないけど人生には大切なこと」を学校の”授業”で教えてもらおうと考えるほど甘ったれた人間じゃなかったので、「進学校」に行きました。
そんなことは自分で学ぶことです。
高校の授業に求めたのは志望校に合格できるだけの学力を最小限の労力で身につけさせてくれることです。
おかげで、塾や予備校に通っていた人たちより充実した高校時代を過ごせました。
彼らが塾や予備校で受験勉強をしている時間に、部活や、読書ができました。
ホント、進学校に進んでおいてよかったです。
> 受験技術を訓練するだけの授業の方こそ、否定されるものです。
受験技術を訓練するだけの授業ってなんですか?
そんなものだけを訓練しても合格できる学校はないと思いますが。
> それでも、そうした目的しか持てない生徒にも、始のやり方ならば逃げ道があるわけです。歴史が好きな、或は生真面目な人に渡りをつけ、ノートを確保し、最低限の解答を構築しておけば、単位は出ます。通常の試験より「楽に」「余分な科目」をクリアできるわけです。
まず、世界史を「余分な科目」にした時点で大問題です。
次に、”通常の試験より「楽に」クリアできる”と言うのはどういった理由からでしょうか?
貴方は以前
「私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。」
と発言し明らかに多くの労力を必要とする試験方法だと述べています。
どちらが正しいのでしょうか?
さらにいえば、終が敬遠するくらいには「難関科目」です。
とても、”通常の試験より「楽に」クリアできる”とは言えません。
ところで、黒崎さんは日本の基礎学力に問題があるとお考えのようですが、「世界のトップレベル」と言うのが一般的な評価です。
ま、最近はゆとり教育の所為で怪しくなりましたけどね。
話を脱線させてくれるので、なかなか本論の話が展開しませんね。
No.6268の黒崎さんの記載
<私は竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」というのは、従来の試験方式よりは、生徒の力を育てる可能性が大きいと考えます。>
<私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。>
上の記載は、冒頭部分と、結論部分にそれぞれ出てきますので、これがメインテーマですよね。
No.6275の冒険風ライダーさんの記載
> > そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。> >
上の冒険風ライダーさんの定義にしたがって、以下、論じてみましょう。
1:「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」(竜堂始の試験方式)
2:「資料の持込不可」 +「問題の事前予告あり」
3:「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告なし」
4:「資料の持込不可」 +「問題の事前予告なし」
黒崎さんの言う「従来の試験方式」というのが、2,3,4のどれに当てはまるのか不明ですが、すべてについて考察を加えてみます。
1の場合、
既に何度も論じているように、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果になります。ここで、冒険風ライダーさんの指摘する半ば公然たるカンニング、が行われることにもなります。
「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒は、「書き写す際に使う程度の思考を費やすだけ」ですね。
(No.6299> 書き写す時、本当に頭を使わないでしょうか?)
1の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」
大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「半ば公然たるカンニングの実行」
2の場合、
「資料の持込不可」ですが、「問題の事前予告あり」なので、
やはり、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果になります。「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒は、解答の暗記用テキストとして、「すばらしい自筆ノート」を書き写すわけです。
しかし、この場合は1と違って、「資料の持込不可」なので、
「すばらしい自筆ノート」を書き写しただけでは駄目で、「すばらしい自筆ノート」の記載内容を覚えこんでしまう必要があります。
「すばらしい自筆ノート」を作成した極一部の生徒は、別に努力しなくても、自分で一から書いたノートであるからには、容易に内容を記憶することが可能でしょう。
一方、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒は、単に書き写しただけなので、それを試験で生かすには、暗記のための努力が必要でしょう。
2の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験に備える記憶作業」
大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「半ば公然たるカンニングの実行」+「暗記作業」
3の場合も、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果を招くかもしれません。しかし、「すばらしい自筆ノート」は、必ずしも試験の解答に直結するものではないので、効果としてはポイントが要領よくまとめられている程度であって、参考資料の域を越えないでしょう。生徒によっては、人のまとめたノートを資料として、問題など解けない、自分流にノートを作らないと役に立たない、などと言うものもいるでしょう。試験で、「人のノートを丸写し」すればよい場合(1の場合)とは違うのですから。この場合、「すばらしい自筆ノート」を写したからといって、「半ば公然たるカンニングの実行」という観点から見れば、たいした問題は引き起こさないでしょう。
また、この場合は、1と違って、
「問題の事前予告なし」ですから、
どのようなノートを持ち込んだにせよ、
試験では、生徒たちは皆、頭を真剣に使うことになります。
3の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験での思考」
別の一部の生徒:「自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験での思考」
残りの大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「試験での思考」
(「自筆ノート」は「すばらしい自筆ノート」よりも質的に劣るものとします)
4の場合も、「問題の事前予告なし」なので、3と同様に、
「すばらしい自筆ノート」を作成する極一部の生徒と、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの大半の生徒と、に別れる結果を招くかもしれませんが、自分流ノートの作成者が発生することになるでしょう。
しかし、この場合は3と違って、「資料の持込不可」なので、
「すばらしい自筆ノート」を書き写しただけでは駄目で、「すばらしい自筆ノート」の記載内容を覚えこんでしまう必要があります。
「すばらしい自筆ノート」や「自筆ノート」を作成した一部の生徒は、別に努力しなくても、自分で一から書いたノートであるからには、容易に内容を記憶することが可能でしょう。
一方、「すばらしい自筆ノート」を写すだけの残りの生徒は、単に書き写しただけなので、それを試験で生かすには、暗記のための努力が必要でしょう。
また、この場合は、1,2とは違って、
「問題の事前予告なし」ですから、
当然試験では、生徒たちは皆、頭を真剣に使うことになります。
4の結論として、
極一部の生徒:「すばらしい自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験に備える記憶作業」+「試験での思考」
別の一部の生徒:「自筆ノートの作成という有意義な思考」+「試験に備える記憶作業」+「試験での思考」
残りの大半の生徒:「書き写す際に使う程度の思考」+「暗記作業」+「試験での思考」
1の試験方式が、どうして、2、3、4の試験方法より優れているのでしょうか?
(No.6299> 書き写す時、本当に頭を使わないでしょうか?)
十歩譲って、書き写す時に頭を使うとしてもですね、
上で書いたように、
1の「書き写す際に使う程度の思考」単体よりも、
2の「書き写す際に使う程度の思考」+「暗記作業」や、
3の「書き写す際に使う程度の思考」+「試験での思考」、
4の「書き写す際に使う程度の思考」+「暗記作業」+「試験での思考」
などの方が、はるかに有意義だと思いませんか?
具体的に、1が2、3、4の試験方法に比して、
優れている点を列挙していただきたいものですね。
<従来の方法で、歴史に興味を持つ生徒が増える、と期待できますか?従来の方法は半数どころか、ほとんど全員を突き放してきたのではないですか?>
話がどんどん脱線しているのですが、
上のような問題は、試験方法と密接な関係があるのですか?
教師が生徒の学問に対する興味に全責任を追うと仮に仮定しても、
それは試験方法ではなく、教師の授業のやり方に求めるのが筋ではありませんか?
「下手の横好き」という言葉がありますけど、
別に他の生徒との比較ランキングが低かろうが高かろうが、興味のあるものはあるし、ないものはないものですよ。
試験方法とは基本的に関わりがないのではありませんか?
教師が、生徒が興味を抱くように、授業を配慮することの方がはるかに重要ではありませんか?
勝手に、「生徒に歴史に対する興味を持たせる方法」の話をしていますが、
黒崎さんが立ち上げたテーマは、
竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」が、「従来の試験方式」より、「生徒の力を育てる可能性が大きい」という点ですよ。
この観点で、首尾一貫として、論じてください。
勝手に、問題を、試験方法以外に拡張しないでください。
↑
No.6268の黒崎さんの記載
<私は竜堂始の「記述式、自筆ノート持ち込み可」というのは、従来の試験方式よりは、生徒の力を育てる可能性が大きいと考えます。>
< そして、従来の方法、詰め込みや暗記の結果が、北朝鮮やイラクの位置を4割ものの学生が知らない、ということではないでしょうか。>
だから、これは「ゆとり教育」が招いた弊害ですって。
日本社会では、「潰しの利く人間の育成」が欧米などよりも徹底して行われているのです。アメリカなどでは、教師も一般に、生徒の美点を見つけてそれを誉め、美点のみを伸ばすようにして、劣等な点については、別に無理に努力することを薦めたりしないのです。個人的には、こういう考え方の方が、精神衛生上良さそうな気がしますが、実社会では困ることが多いのですよ。潰しが利かないわけです。一つのことは得意ですが、他のことはできない人間になっているのです。この辺は、良し悪しが別れるところですね。
だから我々日本人は、興味の無いことでも、それなりに習熟させられているわけで、だからこそ、国民一般の常識レベルが高いのです。既に、高かった、というべき時代が到来しているのかもしれませんが。
江戸時代において、識字率が、ヨーロッパの平均を超えていた、などという話も、日本の文化的(正確には儒教文化圏)なものです。
「潰しの利く人間の育成」が、「天才」を生み出す弊害となっているのではないか、という議論もあって、その一つの対案が「ゆとり教育」だったわけですよ。その結果が、義務的に勉強する機会すら奪われたために、生徒の一般知的レベルを一層低下させる結果となってしまったわけです。
<基礎知識というものは、詰め込みや暗記によってのみ身につくのでしょうか?
詰め込み教育であれば、部分的にでも残ったであろう知識すら身につかない、と仰いますが、基礎知識の習得に力点を置いているはずなのに、部分的にしか残らない。現役の学生ですら、受験が終われば、あれほど頻繁に新聞やテレビに登場するアメリカ合衆国の位置が頭に残っていない。>
これは、部分的すら残っていない結果ではなく、
一度も覚えたことが無い、結果ですよ。
そもそも暗記すらしたことが無いから、「ゆとり教育」の緩やかさの中で、
暗記させられることすら経験してないから、一度もこれらの知識を覚えることなしに、通過してしまったんですよ。
生徒の学力低下の問題はいろいろありますが、少子化の影響も無視できないほど大きいですね。
倒産を避けるべく学生確保に走る私立大学等は、推薦入試枠を拡大し、大学は10年前などと比べて著しく入り易くなっています。
私も、本論から外れた余計なことを多々書いてしまいましたが、
是非是非、本論に対する回答をしてくださいね。
試験方法自体によって、なぜ、「歴史に興味を持つ生徒が増える」などということが起こりうるのか、是非、説明していただきたいですね。うえにも書いたように「下手の横好き」というのは理解できませんか?試験方法によって、生徒の興味の方向性が規定されてしまうと言う根拠は一体なんですか?
また、それが、どうやって実用レベルになりうるのか、教えていただきたいものです。
三国志が好きで熟読したからと言って、歴史を学んだことにはなりませんよ。個々の出来事の因果関係の把握やその考察、すなわち、未来予測の一つの手法となりうる程度まで学習したのでなければ、歴史を学んだことにはならないでしょうから。最低、高校程度の教科書の一冊くらい、過去に丸暗記したことがあって、聞けば思い出す程度にはなってないと、推論を組み立てるべき、材料が少なすぎると思いますけどね。
> 私は、「カンニングの横行を招く」からダメだ、と言うあなたの意見に対し、手抜きをする生徒が出るであろうことはわかるが、歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高く、その利点が指摘された欠点をしのぐ、と申し上げているのですがね。
ついでに問い掛けますが、
「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」とのセットが、
「歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高い」のであれば、
成績評価などと関わりのない普段の宿題で、やらないのですか?
成績評価と関わりがないとすれば、あえてカンニングまでしようという生徒もいなくなるでしょうよ。なぜ、生徒の利害が大きく絡む、試験という場で、公然たるカンニングを横行させるような方法を、採用する必要があるのですか?
試験自体は、あくまで実力の判定手段とし、上のような公然たるカンニングを横行させるような方法を取らず、普段の授業ででも、
「歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高い」方法、を採用すればよいのではありませんか?
No.6268以降の黒崎さんの意見を読んだ者は、
あくまで試験方法に関する話だと思っているのですよ。
巧妙に、
「歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性」一般の話に
すりかえないで頂きたいものですね。
試験方法の是非は、一体どうしたのですか?
これについて論じるのが先ではありませんか?
<私は学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、と申し上げてます、ですからこのような指摘は的外れです。
「学内の定期試験において」「人のノートを写す」「それを読みながら論述する」ということと、オリンピックやプロスポーツで薬物不正を行う、ということは同列の問題ではありません。
定期試験はスコアを競うものではありません、その期間に学習した内容を確認するためのものです。
競技スポーツは、公平な条件のもとで、記録を競うものです。
入試において、認められていない行為を行ったというのであれば、不正行為という基準において同じことだというのは理解できますが、私は学内の定期試験を、点数を競うものだとは考えておりませんので、私の中では矛盾してはおりません。>
<入試のような選抜を目的とした試験と、学内の定期試験とは目的が違いますから、これもまた別のものです。
「競技スポーツと教育」が同じものだとしか思えないあなたの価値観に合わせなければならないのですか?あなたのいいようこそ、私から見れば痴者のタワゴトに他なりません。
違う意見や価値観を持つ人に対してヒステリックに噛み付いてるだけにしか見えませんね。>
その「試験において、1点を争うようなことはすべきでない」だの「私は学内の定期試験を、点数を競うものだとは考えておりませんので、私の中では矛盾してはおりません」だのといった主張自体が、あなた個人の主観的価値観のみに基づいたものでしかないから「ダブルスタンダード」呼ばわりされるのですよ。現実問題として、学内の定期試験は「点数を競うもの」になっていますし、私立学校や進学校などではセンター試験および全国模試を多かれ少なかれ意識したものになっています。その事実を無視して己の主義主張のみをアジり倒すのはいかがなものでしょうか。
あなたも中学以降の学校現場を一度でも見ていれば分かると思いますけど、学内の定期試験というのは、試験後に学校や教師が生徒の順位を公に公表するイベントが存在しますよね? 公表する手段は学校によって様々でしょうが、アレの存在自体が、学内の定期試験が「点数を競うもの」として「客観的に」定義されている、何よりの証拠なのではありませんか? 最高至上の目的でなくても、すくなくとも学内の定期試験が指向する「目的のひとつ」では確実にあるでしょう。
そしてもちろん、その「点数を競うもの」である学内の定期試験もまた、センター試験や全国模試と同様に、「公平な条件のもとで、記録を競う」ことが最低限必要不可欠な前提条件として存在しているのです。これが存在するからこそ、試験結果を発表される生徒達はその結果を厳粛に受け止めると共に、競争意識と向上心をもって勉学に励むことになるわけですし、またこれが存在しなければならないからこそ、その動機が「楽をしたいから」であるにせよ「何が何でも一位を取りたい」というプレッシャーであるにせよ、学校や教師には、カンニングのような不正行為を厳しく取り締まる義務と責任が課せられるわけです。
また、前の投稿でも言いましたけど、学内の定期試験の基準が厳しく、また公正さが保たれていれば、いざ「本番」たるセンター試験や全国模試の舞台に立っても、カンニング行為に全く走ることなく好成績をマークできる生徒も出てくるでしょうし、学校全体の評価も上がっていきます。逆に学内の定期試験でカンニング行為が横行し、ぬるま湯のような雰囲気が蔓延していれば、「本番」の受験に臨む生徒が取り返しのつかない転落を余儀なくされてしまうこともありますし、自分自身の学歴および学校に対して致命的な汚点がついてしまうことにもなりかねません。だからこそ「学内の定期試験」は「センター試験や全国模試の事前演習」という側面を持つことになるわけで、「学内の定期試験」における目的のひとつ「点数を競う」は、その点でも決しておろそかにして良いものではないのです。
こういう「現実」を無視してカンニング容認論を提唱されたり、「試験において、1点を争うようなことはすべきでない」だの「私は学内の定期試験を、点数を競うものだとは考えておりませんので、私の中では矛盾してはおりません」だのといった「あなた個人の主観的価値観」を披露されたりしたところで、そんなものには何ら普遍的かつ客観的な説得力が付加されることはありえないのですよ。しかもあなたは、学内の定期試験におけるカンニング行為をそんな論法で免罪する一方、条件的には全く同じ「公平な条件のもとで、記録を競うもの」であるはずの「スポーツにおけるドーピング行為」については突然人が変わったかのように断罪に走るときているわけです。あなた個人の主観的価値観では矛盾してなくても、他人の目には大いに矛盾かつ破綻しているように見えるものなのですけどね、これは。
もしあなたがあくまで「学内の定期試験におけるカンニング行為」と「スポーツにおけるドーピング行為」に違いがあると言い張るのであれば、その違いを主観だけでアジり倒すのではなく、具体的かつ客観的な根拠でもって述べてはくれませんかね? あなたにとっては自明の理であることでも、あなたの価値を共有できない他人にとって、この現象は到底理解できないことなのですから。
<いいえ、別の問題ですよ。
私は始の試験方法、教育方針が、理念として間違ってはいない、いいところもあって、従来の方法よりいい、と言っているのであって、創竜伝を擁護しているのではありませんので。
それに、それを実地するに当たって竜堂始が、ふさわしい公正さを、学生に対して発揮するかどうか、疑問符がつくとは申しましたが、否定するには材料が足りません。彼の考えに反する解答を「真面目に」出してきた「生徒」に対し、どう振舞うかは、まだ推測でしかありませんから。
また、その思想の正当性は、その実行者、あるいは信奉者がその思想に適う資質を持っているかどうかとは、別の問題です。
創竜伝と竜堂始を否定することは可能ですが、その思想を否定するのは尚早です。>
<現状に問題があるとき、あなたのように振舞えばその状況は悪化するだけです。
理想を持つものを嘲笑することでしか、自分の価値を認められないのであれば、哀れに思いますがね。
他人の価値観を全否定し、来るべき「数字至上の足切」を乗り越える試練を課すことは、学校や教師の義務であり、ひいては生徒自身のためでもあるのです。などという現実論を振りかざす前に、人間は理想を持ち、その実現に努力することが望ましいということを、少しは自覚していただきたいのですがね。>
<私は、「カンニングの横行を招く」からダメだ、と言うあなたの意見に対し、手抜きをする生徒が出るであろうことはわかるが、歴史を面白いと思ってくれる生徒を増やす可能性が高く、その利点が指摘された欠点をしのぐ、と申し上げているのですがね。
そして、現状にはそぐわない面が確かにあるが、少しずつでも本来の教育のあるべき姿のために努力することは望ましい、と思い、そのように述べています。>
私は「高邁なる理想と理念」を謳い上げている「つもりになっているらしい」竜堂始の教育理論が「カンニング行為の容認&横行、およびそれに伴う教育効果の低下」という致命的欠陥を「現実に」しかも「構造的に」抱えこんでいる、という問題をテーマに論じているのであって、その「現実」によって全てが破壊されている「事実」が存在する「高邁なる理想と理念」などいくら挙げても意味がない、とあなたに対しては手を変え品を変え何度も申し上げているつもりなのですがね。
「現実の問題」を突きつけている人間に対して「理念として間違ってはいない」などという主張が反論になると思っているのですか? 「現実の問題」は「間違ってはいない」理念や理想をも結果的に破壊しているわけなのですから、「現実の問題」を踏まえずして理念「だけ」を語っても意味がないでしょう。「理念として間違ってはいない」という論法でいくならば、「現実に破綻した」共産主義や「あなたが問題であると考えている」詰め込み教育なども「理想や理念として間違ってはいない」ことを主張しているはずですし、「いいところもあって、従来の方法よりいい」などと言い張れないことはないのですけどね。
理念や理想を語るのも結構ですが、その際には必ず「現実の道」を歩むようにして下さい。本来、理念や理想というのは「妄想」と紙一重の存在でしかないのですから。
<あなたの意見は、高等学校は大学進学のための訓練機関である、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです。>
こんなことが言えるのであれば、私だって「あなたの意見は、学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです」とかいえてしまうわけなのですけど、それが反論になるとまさか本気でお考えで?
<まじめにやった人間の努力が踏みにじられるから、カンニングはダメだ、と言いながら、努力に対する評価などは主観の割り込む余地が大きいからだめなんだ、と仰るわけですね。
しかし、あなたの憎むカンニングは、「結果だけで判断する教育手法」が、助長するのですがね。>
これは国語の問題なのでしょうが、「まじめにやった人間の努力が踏みにじられる」の主語は「生徒」であり、「努力に対する評価などは主観の割り込む余地が大きい」と評価される相手は「教師」です。そして「まじめにやった人間の努力」を行った生徒は客観的かつ公正な基準で評価されるべきであり、また「教師」は「生徒」に対して強大な権力を行使できる存在であるからこそ、「主観の割り込む評価」などを「生徒」に行ってもらっては困るわけです。
対象が全く異なるものを同列に並べて何を言っているのですか?
<人のノートを写すことを否定なさらないのであれば、ノート持ち込み可であっても何の問題もなくなるではありませんか、人のノートを暗記するのはよくて、読みながら論述をまとめるのはダメなんですか?
従来の試験で、テキストやノートのコピーを暗記して、解答用紙に書き込むことと、予告されたテーマについて、人のノートを書き写し、試験でもう一度書き写すこと、この二つの行為の間に、あなたが主張するほどの不正の度合いの差があるとは思えませんね。あなたの主張を厳密に適用するなら、ノートの貸し借りもまずいということになるんですが。>
<あなたは明らかにノートを写す行為を不正行為として糾弾していますね?
あなたの主張の骨子とも言える部分ですよね?
しかもこの文脈では、事前の問題の提示よりも、ノート丸写しが重視されているように解釈するのが妥当かと思われますが?
年月がたってますから、自分の言ったことを忘れてしまうのはしかたがありませんが、相手に理解力がないと非難する前にするべきことがあるでしょうね。>
全体の文脈を無視してよくもまあそんなバカげたことが平気で言えたものですね。だからあなたは「一知半解な理解力しか持たない人間」などと評されることになるのですよ。
いいですか? 私がこの議論に際して「ノートを写す行為」を「不正行為」として「糾弾」した最大の理由は、何度も言っているように「自筆ノート持ち込み可」と「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」とがセットになっている教育手法では、それが「【試験現場における】カンニングの温床」になるからなのであって、たとえばパンツァーさんの投稿No.6303が提示する「3」「4」のような試験方法ならば、「ノートを写す行為」が「【試験現場における】カンニングの温床」になる可能性は著しく低下するわけですから、当然「ひとつの学習方法」として認めても問題はないことになるでしょう。だからこそ、私は「ひとつの学習方法」を「【試験現場における】カンニングの温床」にまで堕してしまう竜堂始の教育手法を問題にしているわけですし、一方で「ノートを写す行為」そのものを「ひとつの学習方法」として否定することはないわけなのですけどね。
「試験直前まで」「それが模範解答になるとは限らない」暗記やノート写しに熱中することと、「試験最中に」それも「事前予告と他人によって導き出された模範解答がびっしり記載されている」丸写ししたノートを覗き込むこととでは、当然のことながら天と地ほどの格差が存在します。こんなこと、いちいち言うまでもないほどに自明なことだと思うのですけど。
もちろん意識的にすりかえてやろうと思ったわけではありませんし、すりかわったとも思っておりませんでした。
ですが聞きたいことに答えられていなかったのは申し訳なかったです。
試験方法とその目的、授業方針は極めて関連の深いものです。授業でやってることと試験で問うことが全く別物なわけはないんですから。
その教師が何を学ばせたいか、志向しているか、それが試験の内容を決めるのではないですか。
一流大学への受験対策が目的であれば、パンツァーさんをはじめとする方たちが支持していらっしゃるところの、資料持ち込み不可・予告なし、で厳しく巡回し、本番さながらのやり方がふさわしいでしょう。
ですが、私は、学校教育においては、その分野の面白さを伝えることを第一にすべきだと考えるので、授業内容を学生の意欲を生かし、参加を促すようなものにし、その結果定期試験で問うのはその内容の確認や整理にしたほうが望ましく、よって、ノートの持込を認める論述問題になる、ということです。
> 話がどんどん脱線しているのですが、
> 上のような問題は、試験方法と密接な関係があるのですか?
試験の方法によって、授業の内容・方向性が変わってくる、と思うからです。
従来のような試験や、受験対策を重視した「プレ模試」のような試験にするのであれば、生徒に参加させるようなディベートや、教科書に載っている事項に肉付けするようなエピソードや雑学を盛り込むことのできる余地が大幅に減ります。
もちろんまったくできないわけではないでしょうが、息抜き代わりに少し、という程度になるはずです。
受験対策を意図するのであれば、普段から問題演習に力をいればなければなりません、しかも一クラス50人の志望が同じ大学ということはないので、幅広く傾向と対策をカバーしなければならない、余分なことをやる余裕はなくなりますよね。
つめこみを意図する場合も、教科書の内容をくまなく網羅しようとすれば、世界史には十分な時間が与えられていないので、やはり余計なことをしている余裕はありません。実際、予備校の講師に聞いた話ですが、特に近現代が普通の高校の指導では甘くなることが、指摘されておりました。
それに対し、始のようなやり方であれば、授業内容にアドリブを効かせる余裕が多く取れる、と私は考えたのです。
テーマを与えて学生に調べさせ、発表してもらうようにしたり、討論をさせてみたり、といったように、です。
普通の宿題、が成績に関係ないんですか?
私はてっきり普通の宿題やレポートも含めて、成績を出すのだと思っておりました。
そして「公然たるカンニング」と仰いますが、私には今もって、「人のノートを写し、それを読みながら論述する」、あるいは「人のノートを二度写す」行為と、「人のノートを見て、その要点を暗記する」行為との間に、狡さの格差を感じられません。
学生の地理の知識の欠如を「ゆとり教育」の責任に一元化してらっしゃるように見受けますが、「ゆとり教育」は暗記をさせなくなったわけではありませんよ?
「ゆとり教育」は、教える内容の量を削減しただけです。授業時間数を減らしただけです。そしてそのしわ寄せを一番食ったのが理科・社会科です。大幅な時間減を強いられ、時間が減ったほどには教えるべきとされる内容が減っておらず、かえって詰め込みの度合いは悪化したとさえ言えます。
小学校においては低学年で理科と社会科が「生活科」に統合されるなどし、教師は学習の支援者であるとした方針が比較的実施されたようですが、中学においては高校受験が控えているために徹底しませんでした。
一度も憶えたことがない、暗記させられたことがない、というのは間違った認識であると思われます。
学生の学力低下に少子化も大きく影響しているというのは、同意できます。
また、子どもも昔とは違い、授業を成立させにくくしているという話をよく耳にしますね。それは社会の変化、家庭の変化に強く関わると思いますが、ここでは置きます。
三国志の例えはよくなかったかもしれませんが、意図するところも伝わらなかったでしょうか?
学位論文を書け、などと要求しているのではないのです。
歴史学者を名乗る人でさえ、高校教科書の丸暗記などしていないでしょうに。
もちろん、下手の横好きはありますし、教師が学生の興味の全責任を負うなどとは一度も申しておりません。
ただ、大きな役割を果たす、と考えています。
私が悪いと仰るんですか(笑)
不本意な言われようですが、まぁ、大事なことじゃありませんね
それぞれの試験方法で、望ましくない学生について比較されてるわけですが、
まず、自筆ノートの持込が認められない場合、書き写しではなくコピーになりますので、2と4では書き写す際の思考はなくなりますね。
また、論述に求められる思考と、選択や単語を解答する思考は同じものでしょうか?
4では自分流のーとの作成者が現れていますが、どうして他の学習法では現れないのですか?
高校生というのは、誰も見ていなければ全員がカンニングするんでしょうか?
やや単純化しすぎているように、なおかつ4に有利に設定されているように思われますね。
私の判断で言えば、3>1>4≧2、となります。
竜堂始のやり方は1であり、一般的な試験方法としてイメージされるのは4ですよね。
理由は1における「すばらしいノートを2度写す」が4の「暗記作業+選択問題での思考(弱)」より勉強になると思うからです。
1極一部・・・素晴らしいノート作成と論述の思考
一部・・・ノート作成と論述思考
一部・・・素晴らしいノートの筆写と論述思考(弱)
半ば・・・素晴らしいノートの筆写×2
4極一部・・・素晴らしいノートの作成、試験のための暗記、選択の思考
半ば・・・ノートの作成、試験のための暗記、選択の思考
一部・・・試験のための暗記、選択の思考
極々一部・・・試験のための暗記(弱)、カンニング
そして、悪い事例についての比較ですから、4の場合、暗記といっても成績優秀者のそれと、下位のそれとはまったく質が違いますよね?
下位に行けばいくほど、教師が重要だと述べていることすら十分には暗記できていない状態になります。
意欲も関心もないのですから、赤点さえ免れればいいわけです。バランスのために教師は平均点を60点程度に想定するでしょう、そうすると目標は30点越え、4~50点でいいことになります。
他の教科も平行して試験が行われますから、どうしても比重は低くなりますから、時間をかけてじっくり暗記、なんてことにはなりえません。記号選びの運も多少影響するでしょうね、5~6点は変わりうるんじゃないでしょうか?
結果として、試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記で、なおかつ教師が平均に設定したラインに届かない、という状態の学生が半ばに達することになります。
これに対して、1の方式の場合、教師が抑えたいと思ってることを、優秀な生徒がまとめた文章を、2度筆写するわけです。
「書く」という作業の重要性は、受験戦争(古いか?笑)を乗り越えてきたみなさんならご理解いただけると思うのですが。
1の場合だけ最悪の状態を想定し、4の場合はみんなが熱心に取り組む・・・という想定は不公平ですよね。
そして逆に、望ましい成果を出せる生徒について見ますと、
1の場合、3ほどの高いレベルではないにせよ、教師としてはまずもって満足すべき(主観だと怒られそうですが)勉強になります。知識が増え、その関連付けもできますよね。教科書を読んだだけでは身につかない幅のある知識です。また、調べていて出会った「余分な情報」に興味を抱き、余暇に発展させる・・・というようなことも起こりえます。付け加えさせていただけば、歴史を好きな生徒にとって、面白いと思えることだと思います。
4の場合、後の受験につながる有意義な準備、知識の蓄積になるでしょう。
以上から、私は1が4よりも優れていると考えるわけです。
はじめまして
レスありがとうございます
清涼剤のようにすら思えます(笑)
とてもいい先生と出会うことが出来たんですね^^
教師と生徒、に関わらず、人間の関係は「相性」や「波長」といった理屈で説明できない(しにくい?)ことが大きな役割を持ちますよね。
方法論や理念のよしあしよりも、よほど大きな影響力がある、と言えるかもしれません。
私も、授業ごとに書き込まれた「自作」のノートと、書き写されたノートは違うものだと思いますし、仰られるように、真面目にノートを取ったから、いいノートを作れるから、点数も高くなる、というものではありませんね。
意欲を持たせることに成功しても、点数があがると直接結びつけるのは、確かに無理があります。
私がいいたいのは、歴史や地理などが暗記教科として嫌われている→しかしこれらにも面白さや、教養として大切な部分がある→意欲を持たせるためには面白さを伝えたい→授業で面白さを扱うには、教科書に載っていないことや、受験に必要ないことに多く時間を使う必要がある→竜堂始が用いたような、丸暗記を必要としない、ノートの持込を認めた論述のほうが、その方針に合っている。
と、いうことなんですが、、、上手く説明できてるかどうか?
六月さんの仰ることはもっともです、折衷し、そのバランスを模索することが大切かもしれませんね。
いい先生との出会いは、とても刺激に、そして支えになりますね、うらやましく思います^^
もうあなたの相手はうんざりなんですがね
現実が大好きなのはもう十分伝わってますし
話の通じない人だということもわかりました
自分の文章がおかしいと言われれば、お前の理解力がないからだと開き直ることもね
せめて、「誤解を招いたかもしれないが、それはこういう意図だった。」という説明にならないんですかね。
人を散々あしざまに言っておいて、お前の言い方が悪い、はやめてくださいね(苦笑)
ご自分の主観なり価値観なり正義なりにしがみついていらっしゃって結構ですよ
違う意見を言われれば、それを叩き潰さなければ、ご自分の意義を確かめられないんですか?
あなたの不必要に攻撃的な論調に応じてしまった自分の愚かしさが反省材料ですね、勉強になりましたよ。
私はあなたとけんかしたかったわけじゃないし、論破してやろうとしたわけでもない。
あなたが現実に立脚して、竜堂始の教育方針を批判なさったのを読んで、現実はそうだけども、教育の本来の目的を考えると、歴史嫌いを増やしてばかりだった従来のやり方より、竜堂始のやり方のほうが、歴史を好きになる生徒を増やす可能性が高くて、望ましいあり方なんじゃないかな。と、述べたに過ぎません。
順位の公表など全ての学校でやるわけではありませんよ
最高点と平均点くらいのものです
あなたはどれだけ現場をご存知なんです?
えらそうに言うからには教壇に立ってらっしゃるんでしょうね。
私は事実や現実を無視しているのではありませんよ
それは問題が大きいから、変えた方がいいと思っている。と述べたのです。
試験をクリアするための、直前の暗記、それがいかに残らないかはあなたも知っているはずです。
そしてそれが試験以外にはたいして役に立たないことも。
現実への対応を至上の課題とし、試験に合格しさえすればいいんだから、そのための訓練さえすればいい。
そんなことしか考えられないなら、あなたと話をしても何の意義もありません。
現実は神聖不可侵ででもあるかのようですね、あなたにとっては。
現実に対応するだけで、問題意識も持たず、理想も持たず、、、それでふんぞり返ってるのだからたいしたものですよ。
あなたは現実を崇拝しておられるようですが、私はその現実は歪んでいてよろしくない、できれば変えていく方がいいと思っているわけで、話がかみあうわけがない。
私から見ればあなたの言い分の方がよほどばかげていて、評するなら無知蒙昧というところですよ。
いいですか?試験直前に他人の作ったノートをコピーしたプリントから、試験に出そうなを暗記し、もちろんこんな暗記は試験が終われば殆ど忘れてしまうものですよ、それで赤点を免れてよしとする程度のものよりも、よくまとめられたノートを2度書き写す方がよほど勉強になる、と言っているのです。
自筆ノートの持込を認めているのですから、それはもう不正ではない、記憶力なんか試したいと思ってないんですから、そんなルールは必要ない。ルールを守らない不公正な競争だなどと何度あなたがわめいたところで、そんな言い分はまったくもって筋違いなんですよ。定期試験では認められていたんだから、センター試験でもノートを持ち込んでいいはずだ、なんて誰も言わないんですから。いちいち言うまでもないほどに自明なことなんですがね。
暗記のテストで40点取るよりも、まとめられた文章を筆写するほうがよほどためになるんですよ。
確かに、私立の進学校などは、あなたの言うような営業努力もあって、受験対策、そのための技術を叩き込むことに注力しているでしょう。しかしそんな学校ばかりではない、スポーツに力を入れている学校もあるし、商業や工業のようにスキルを身に付けさせることを重視する学校もある、そして最も多いのは普通の公立校で、進学する生徒もいるだろうし、専門学校に進むもの、就職するもの、さまざま生徒がともに学んでいる場ですね。
進学指導だけが至高の目的で、他のものはくだらない理想論だと一蹴なさりますか?
作中の共和学院はどんな学校でしたっけ?
少なくとも創設者が求めていた姿は、あなたのいうような現実への対応を旨とするものではなかったはずです。
その精神からみれば、始のようなやり方は望ましいもの、完璧ではないにせよ、だったはずです。
<こんなことが言えるのであれば、私だって「あなたの意見は、学校の授業において、また試験において、1点を争うようなことはすべきでない、という立場から言えばもっともですが、それは間違っていると考える視点から見れば、肯えるものではないのです」とかいえてしまうわけなのですけど
そうですよ?私があなたの意見を理解はしても同意はしないのと同様、あなたはあなたの視点から、それは肯えない、でいいではないですか。一つの価値観に合意しなければならない必要はないんで、あなたが穏やかな論調を通してくだされば、もう少しましな話になったと思いますがね。たとえ、あなたにとって、私の意見が顧慮に値しなくても、ですよ。
<「あなた個人の主観的価値観」を披露されたりしたところで、そんなものには何ら普遍的かつ客観的な説得力が付加されることはありえないのですよ。
<あなたにとっては自明の理であることでも、あなたの価値を共有できない他人にとって、この現象は到底理解できないことなのですから。
そっくりお返ししますよ
競争意識を煽ることの害、点数でしか評価しないことの害、さまざまな問題が表れているのに、現実に拘泥し、その枠内で高い「社会的評価」を得ることこそが正しいのだ、、、どうぞそのお城の中で気取ってらしてくださいませ。
私がいつ「人が変わったように」ドーピングを糾弾しましたか?学内の試験において人のノートを写すこととは性質が違う、決まりを破ったという点だけを見れば、入試でのカンニングと同じ枠組みにする理屈は理解できる、そう申し上げたに過ぎませんね。
いまやドーピングは個人の問題ではありませんので、入試でのカンニングと同一視するのも、私としては採らざるところですがね。
かなり性質の違うものを一面だけ見て同列に扱うあなたの神経を疑いますがね。
<客観的かつ公正な基準で評価
あなたの信奉なさる現実は「努力」を客観的かつ公正に評価してなどおりませんよ。「結果」を公正に評価しているだけです。
そして努力はイコール結果ではありませんね。
結果だけで判断することは、ばれさえしなければルールを破ってもいいということになりかねないんですよ。だから不正が根絶できないでしょうが。
あなたの大嫌いなルール違反の摘発は、教師や監督官の手腕や判断力によっているわけですね。冤罪で涙を呑む生徒がでないことを切に願いますよ。
ドーピングの規定は、競技の公平さを保つこと以上に、選手を守ることが目的です。そのために体調が悪くても市販の薬を飲めないなどという問題点も聞きますがね。ま、余談ですが。
私がしてることがアジテーションなら、あなたの役回りは体制擁護の御用文化人ですね(笑)
あなたにとって、現実とそのための対応が何より大事で、理想を語るようなものは馬鹿にしか見えないことはよくわかりました。私から見ればあなたなど「ヒト」でしかありませんがね。
もう苦痛をこらえてお返事なんてなさらなくて結構ですよ?
あなたの傲慢で頑迷な言い分を読むのは私にとっても苦痛なのでね。
実際問題として、教育の現場で竜堂始式の教育法が採用されたことがあったでしょうか。
私立公立、進学校非進学校の区別なく、創竜伝中の学歴社会であった当時はもちろん、学歴社会ではなくなりつつある現在ですら、私の知る限りではありません。この掲示板でも物議を醸しているゆとり教育中にも試みられたという話は聞きません。
日本だけのことではなく、世界の多くの国々が同じような状況にあります。
百万言を費やすよりも、現場の現実が全てを明瞭に示しているのではないでしょうか。
> 実際問題として、教育の現場で竜堂始式の教育法が採用されたことがあったでしょうか。
論述式の問題をそれまでより多めにしたり、教科書の持込を認めたりとかならば聞いたことがありますが、始のやり方を実際にやっているというのは聞いたことがありませんね。
> 日本だけのことではなく、世界の多くの国々が同じような状況にあります。
海外、たとえばアメリカの高校の歴史の試験問題を見たことはないのですが、そうなのですか?日本の例えば進学校と同じやり方ですか?
> 百万言を費やすよりも、現場の現実が全てを明瞭に示しているのではないでしょうか。
実際に、現場で、このやり方を一般的なものにできるか?できないでしょうね。
「現場の現実」にあっていないですし、実用的かと言われればそれも困難です。
しかし、だからといって、彼のやり方や理念が間違っているのか、ということとは違うでしょう。
本来、教育というものが、目指すものは、今のような受験のための訓練ではなく、歴史であれば、その魅力、面白さを伝えることにあると思うんですよね。もちろん理想論であることは承知していますよ。
端的に言って、彼のやり方のほうが、世界史の勉強が面白くなりそうだな、と面白いと思ってもらえるチャンスが増えそうだなと、そういうことなんですが。
アメリカの位置が分からない生徒が5割にいく、というのは極論のような気がいたします。
また、全ての生徒がイランとイラクの区別がつく必要はない、というのも、もっともなことだ、と思いなおしました。
自分が地理好きだったので、評価が偏ったと思います。
知りたいと思ったときに地図を見ればいい、それだけのことでした。
> 高校の授業に求めたのは志望校に合格できるだけの学力を最小限の労力で身につけさせてくれることです。
> おかげで、塾や予備校に通っていた人たちより充実した高校時代を過ごせました。
> 彼らが塾や予備校で受験勉強をしている時間に、部活や、読書ができました。
> ホント、進学校に進んでおいてよかったです。
なるほど、よかったですね^^
他の人と比べる必要はないかとは思いますけど。
あなたのように明確な目標を持って進学校に進んだのに、中で始のような授業をされては、確かに困りますね。
その点は納得いたしました。
進学のための指導を謳う進学校において、そのための授業を行い、そのための考査を行うというのは、まぁ当然ですよね。
> 「受験の役にはたたないけど人生には大切なこと」を学校の”授業”で教えてもらおうと考えるほど甘ったれた人間じゃなかったので
もちろん、そういうことは自分で学ぶもの、というのは正論かと思いますが、教育の場がそれを放棄してしまうのはどうなんでしょうか?そのために果たす役割も、大きいと思うのですが。
多感な時期に、一日の3分の1を過ごす場所でもありますし。
何か常軌を逸した事件がおこったりした時、その責任を学校の教育に求める風潮を感じませんか?
また話がそれると怒られますね(笑)
あなたの仰ることはもっともだと思える部分も多いのですが、定期試験で厳密に点数競争をさせるべきだ、というようなことは、やはり納得できません。
理想論であることは承知しておりますが、その教科、その分野、部活動も含めて、色んなことを経験し、その魅力に触れることが、教育の場で行うのに望ましいことだ、と思うからです。
そのためには、年号や名詞の丸暗記をもとめるのでなく、ノートを写していいから、なるべく自分で調べてノートをつくり、自分なりにまとめて書いてくれ、という方が、いいやり方だ、と思えてなりません。
技術だけというのは確かに言葉が足りませんでしたね
余分な科目、と呼んだのは、その学生が、受験に必要としない、受験しない、などの状況にあり、消極的な理由で世界史を選択した場合、というつもりでした。
「楽に」と述べたのは、確かにふさわしくない表現でした。
私自身が筆写は大きな労力を要する、と述べているのに、これではいけませんね。
ゆとり教育のせい、というよりは、それにともなう教育内容・時間削減のやり方がよくなかったのかな、と思っておりますが、地理学会の調査から、基礎学力の低下が問題であり、その改善のために・・・という主旨ではなく、国名や国の位置がわからないのは、従来の教育が、地理嫌いを徒に増やしてしまったせいではないか、ということがいいたかったのです。
日本の基礎学力の水準は依然として高い水準にあるという点に異論はありません。1位から転落したのは、それまでランクに参加していなかった国が入ってきたからだ、という論文もありましたね。
> また、論述に求められる思考と、選択や単語を解答する思考は同じものでしょうか?
> 理由は1における「すばらしいノートを2度写す」が4の「暗記作業+選択問題での思考(弱)」より勉強になると思うからです。
>
> 1極一部・・・素晴らしいノート作成と論述の思考
> 一部・・・ノート作成と論述思考
> 一部・・・素晴らしいノートの筆写と論述思考(弱)
> 半ば・・・素晴らしいノートの筆写×2
>
> 4極一部・・・素晴らしいノートの作成、試験のための暗記、選択の思考
> 半ば・・・ノートの作成、試験のための暗記、選択の思考
> 一部・・・試験のための暗記、選択の思考
> 極々一部・・・試験のための暗記(弱)、カンニング
どうして、
1が論述式で、4が選択式、に限定されてしまうのですか?
(選択式って、ここでは、多肢択一選択や、年号の解答など短答式を総称した意味ですよね。)
都合の良い状況設定を行っていませんか?
従来の試験方法って、選択式に限られるのですか?
論述式だって、当然ありますよね。
大学の文科系の学部が課す試験問題は、論述式を採用しているところが多く、それに伴って、高校においても、論述試験に対応できるような教育(試験も含む)が行われていますよね。一体全体、何を根拠に、従来の試験方法に論述式がないかのようなことを主張するのですか?
No.6268で黒崎さんが立ち上げたテーマは、
より詳しく言えば、
「論述式」+「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」
の三点セットである竜堂始の試験方式が、
従来の試験方法よりも優れている、っていうことでしたよね。
「論述式」と「選択式」の優劣を、問題提起しているわけでは、ないでしょう?
それとも、実は、
「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」などはさして重要ではなく、
「論述式」と「選択式」の優劣を、問題提起しているのですか?
もしもそうだったら、No.6268の内容は、明らかに誤解を招く内容ですよ。
この場合は、No.6268の投稿自体を、撤回すべきですね。
従来の試験方法にも論述式がある以上、
上の三点セットである竜堂始の試験方式と比較すべきは、
従来における「論述式」の試験方法、になるのですよ。
もし、この比較を行わず、あくまで従来の試験方法を「選択式」に限定するのであれば、「論述式」と「選択式」の優劣を、問題提起しているのに過ぎません。
意図的にやっているのか無意識なのか知りませんけど、
論点をずらそうとするかに思える態度は、非常に不愉快ですね。
No.6303 「記述式、自筆ノート持ち込み可」の有利点は一体なんですか?
で、私が提起した問いに、以上のことを踏まえて、回答してください。
つまり、比較の対象は、以下の四つです。
1:「論述式」+「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」
(竜堂始の試験方式)
2:「論述式」+「資料の持込不可」 +「問題の事前予告あり」
3:「論述式」+「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告なし」
4:「論述式」+「資料の持込不可」 +「問題の事前予告なし」
No.6313の黒崎さんの回答は、ぜんぜん的外れの回答ですよ。
*******
> 4では自分流のーとの作成者が現れていますが、どうして他の学習法では現れないのですか?
> 高校生というのは、誰も見ていなければ全員がカンニングするんでしょうか?
私が、
1・2の場合には、生徒が二つ(極一部の生徒、大半の生徒)に分類され、
3・4の場合には、三つ(極一部の生徒、別の一部の生徒、残りの大半の生徒)に分類されるとしたのは、
「問題の事前予告なし」がないため、
「すばらしい自筆ノート」は、必ずしも試験の解答に直結するものではない
ことを考慮したためです。
「すばらしい自筆ノート」が最善の回答であるという保証がない以上、効率を追求する生徒たちが、「すばらしい自筆ノート」に縛られる割合が減るだろう、と言っているのです。
別に、1・2で、もっと分類を増やしても良いですが、1・2と3・4とで、差のある基準でないのであれば、1・2で分類を増やせば、3・4でも同じように分類を増やす必要があるだけの話ですよ。相対的な格差は全然縮まりませんよ。問題が複雑になって、分かりにくくなるだけですね。
1で、もっと分類を増やしたいのであれば、2・3・4と区別がつくような基準を探し出してください。なにかしら説得力のある根拠に基づいて、分類を増やしてください。
> やや単純化しすぎているように、なおかつ4に有利に設定されているように思われますね。
感覚で物を言うのではなく、
具体的に、どの部分が「4に有利に設定されている」のか、指摘してください。
> 結果として、試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記で、なおかつ教師が平均に設定したラインに届かない、という状態の学生が半ばに達することになります。
しかし、1の場合は、「試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記」すら、しないわけですよ。ただ、書き写すだけなんですから。それとも、2度筆写すれば、「試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記」よりも深く、脳裏に刻み込まれるとでも言うのですか?
「試験が終わった瞬間にほとんど忘れてしまう程度の暗記」であっても、暗記である以上、一旦は覚えこんだわけですよね。2度筆写よりも、覚えるための努力を費やしていると思いますがね。
大体、ここでも、すべての生徒が歴史に興味を十分持っていると言う前提で話をしていませんか?
自分にとって、興味関心のある話題であれば、2度筆写しながらでも、深く考え込み、その内容が頭に刻み込まれることは、大いにあると思いますよ。
しかし、大半の生徒が「すばらしいノートを2度写す」方向に行ってしまうのは、写しさえすれば試験をクリアできるからであって、「すばらしいノート」を興味を持って読むため、だからではないのですよ。
こんなのは、単なる書き写し作業にしか、ならないのですよ。
書き写しを行う際に、突然、生徒たちが興味関心を抱くような前提で、話を進めないで頂きたいですね。
***********
いいかげん、自分が、どういう前提で、問題提起を始めてしまったか、ということにお気づきになったでしょうか、黒崎さん?
「論述式」+「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」
の三点セットである竜堂始の試験方式が、
従来の試験方法よりも優れている、という問題提起をしてしまったんですよ、
黒崎さん、あなたは。
「論述式」と「選択式」の優劣の問題提起ではないのですよ。
No.6268の投稿自体を、撤回する気がないのであれば、
人をして納得せしめるような根拠を、きちんと探し出してくるのですね。
> ですが、私は、学校教育においては、その分野の面白さを伝えることを第一にすべきだと考えるので、授業内容を学生の意欲を生かし、参加を促すようなものにし、その結果定期試験で問うのはその内容の確認や整理にしたほうが望ましく、よって、ノートの持込を認める論述問題になる、ということです。
だから、「人のノートを写す」生徒が、黒崎さん自身の予測でも、半数を超えるのであれば、「その内容の確認や整理」という目的も達成されないではありませんか。
この時点で、破綻していませんか、論理が。
> それに対し、始のようなやり方であれば、授業内容にアドリブを効かせる余裕が多く取れる、と私は考えたのです。
> テーマを与えて学生に調べさせ、発表してもらうようにしたり、討論をさせてみたり、といったように、です。
だから、授業でやるのは大いに結構なことだと思いますよ。
> 普通の宿題、が成績に関係ないんですか?
> 私はてっきり普通の宿題やレポートも含めて、成績を出すのだと思っておりました。
これは、場合によりけりですよね。
私が、「竜堂始の試験方式」的な宿題を与えたらどうか、と述べたのは、
試験ではなく、得点確保と言う生徒の利害が絡まない部分でなら、
「公然たるカンニング」が発生せず、問題が少ないのではないか、と「善意」に基づくものなのですよ。
なにが「善意」かといえば、「竜堂始の試験方式」的なアプローチが、問題なく作用する場合を、指摘してあげたから、です。
> そして「公然たるカンニング」と仰いますが、私には今もって、「人のノートを写し、それを読みながら論述する」、あるいは「人のノートを二度写す」行為と、「人のノートを見て、その要点を暗記する」行為との間に、狡さの格差を感じられません。
あのねえ~!!
道義上の問題以前の話ですよ、これは!
「竜堂始」にしたって、一部の生徒の書いたノートを、他の大半の生徒が丸写しにすることを予期して、「自筆ノート持ち込み可」+「問題の事前予告あり」の試験方法を採用しているわけではないでしょう。
一応、生徒の善意を信じて、程度の差はあれ、自分で時間をかけてじっくり調べて解答を作成してくれる、その努力を評価したい、そういう観点からの発案でしょう。
「人のノートを写す」という行為自体が、「竜堂始」の意図から大きく外れてしまっていることに、気が付かないのですか?
上で、黒崎さん自身が、「竜堂始の試験方式」が、
「定期試験で問うのはその内容の確認や整理」に役立つ手法だ、としているのも、
「自分で時間をかけてじっくり調べて解答を作成してくれる」という観点からでしょう。この過程を経ないで、「人のノートを写す」という行為でスルーしてしまったら、意味がないことを、一応は意識しているからではないのですか?
自分で、自分の言っていることを、理解していますか?
繰り返しますけど、
「竜堂始の試験方式」の最大の欠点は、
「自分で時間をかけてじっくり調べて解答を作成してくれる」という目的が、
最大限裏切られてしまう、という点にあるのですよ。
さんざん、冒険風ライダーさんが指摘しているのに、全然分かってないのですか?
冒険風ライダーさんの口調は確かにきびしいものがありますが、人の主張の根幹をまったく理解していないのであれば、そういう応対を受けても止むを得ない部分があるかもしれませんね。
> 学生の地理の知識の欠如を「ゆとり教育」の責任に一元化してらっしゃるように見受けますが、「ゆとり教育」は暗記をさせなくなったわけではありませんよ?
「猛将の下に弱卒なし」などという諺がありますね。
自らの属する組織(例えば学校の学級や職場)の雰囲気、と言うものは、個々人に無視できない影響を発揮します。養鶏場の鶏は、周囲の鶏の餌をついばむ光景に影響を受けて自らも一生懸命になり、すべての鶏が競って餌を啄ばむという状況になります。人間でも同じことで、学級の雰囲気が学習に真剣であれば、その雰囲気による影響を受けて、一生懸命勉強したりするものです。職場でも同じで、皆がダラケテいる環境ではだらけるようになり、皆が真剣な環境では真剣になっていきます。
「ゆとり教育」は、学習で達成すべき目標を、「ゆとりの確保」という美名の下に、引き下げてしまったのです。「真剣な雰囲気」であればまだ少しは学習(暗記を含む)の努力をした生徒も、「のんびりやればいいや」という雰囲気が蔓延すれば、その流れに容易に流されて行きます。
「無理して覚えなくていいんだよ」みたいな雰囲気の中では、最底辺のレベルの低下は著しいものとなるのですよ。
現実から言っても、「ゆとり教育」を導入したわが国の教育水準は低下し、
逆に、アメリカのように「詰め込み教育」を導入した国の教育水準は向上しているのです。冒険風ライダーさんと同じことを申しますが、現実を前提に議論を進められては如何でしょうか?
> もちろん、下手の横好きはありますし、教師が学生の興味の全責任を負うなどとは一度も申しておりません。
> ただ、大きな役割を果たす、と考えています。
No.6304のパンツァーの記載
<試験方法とは基本的に関わりがないのではありませんか?
教師が、生徒が興味を抱くように、授業を配慮することの方がはるかに重要ではありませんか?>
この点の回答を頂きたいのですが、
教師が生徒の興味を引き出す点において、授業そのものと、試験方法そのものと、どちらが重要だと考えているのですか?
上にも述べたように、「竜堂始の試験方式」は、試験ではなく、点数に関わりのない「宿題」などに採用する分には、「自分で時間をかけてじっくり調べて解答を作成してくれる」という目的に沿って機能する公算が高いと考えられます。とすれば、試験方法に採用するより、授業そのもの(宿題等)に採用する方が、妥当ではありませんか?
生徒の興味を引き出す点において、「授業そのもの」と、「試験方法そのもの」、この択一だったら、どちらが有効である、と考えるですか、黒崎さんは。是非、回答していただきたい。
> そして「公然たるカンニング」と仰いますが、私には今もって、「人のノートを写し、それを読みながら論述する」、あるいは「人のノートを二度写す」行為と、「人のノートを見て、その要点を暗記する」行為との間に、狡さの格差を感じられません。
「人のノートを二度写す」は「竜堂始の試験方式」において、発生する問題ですよね。これについては、6321に書きました。
一方、「人のノートを見て、その要点を暗記する」は、No.6303で私が指摘している従来の試験方法の2・3・4等ですかね。
これらの行為の格差がどこから発生するか、と言えば、
No.6303でも一応は説明していますが、
もっとはっきり言えば、
それは出題者(教師)の意図から、どれだけズレているか、
ということです。
1で、ノート丸写しをすれば、教師は、生徒が、機械的な作業として書き写したことを疑わざるを得ないでしょう。
2で、ノート丸写しをした場合は、1と同様ではあっても、生徒が「暗記する」という積極的作業を行ったことは、認めざるを得ないでしょう。(1の機械的丸写し+暗記)
3で、ノート丸写しをした場合は、1と同様ではあっても、生徒が「回答のために思考する」という積極的作業を行ったことは、認めざるを得ないでしょう。(1の機械的丸写し+思考)
4で、ノート丸写しをした場合は、1と同様ではあっても、生徒が「暗記する」という積極的作業と、「回答のために思考する」という積極的作業を行ったことは、認めざるを得ないでしょう。(1の機械的丸写し+暗記+思考)
1でのノート丸写しが、出題者(教師)の意図からもっともずれているのですよ。
逆に、1でのノート丸写しに意義があるのであれば、2・3・4の行為は、より一層意義がある、ということです。
意義の相対的格差は、決して縮まりません。