「私の創竜伝考察シリーズ」も、いよいよ創竜伝10巻と11巻に突入いたしました。
創竜伝10巻は、本のタイトルである「大英帝国最後の日」が示しているようにイギリスが舞台で、社会評論もイギリス関連のものが多いのですが、このイギリス関連の社会評論は単に評論として破綻しているというだけでなく、ストーリーの観点から見ても創竜伝のストーリーにおける矛盾と破綻を象徴しているように思えるので後日まとめて論評することとし、ここではそれ以外の社会評論をまとめることにしました。
また創竜伝11巻の方は、はっきり言ってストーリーがほとんど3流同人誌レベルの出来でまともに論評する価値もない上、社会評論の数も驚くほど少ないため、ここでまとめて論評することにした次第です。
なお、今後の「私の創竜伝考察シリーズ」は、創竜伝全編にわたるストーリー設定の矛盾をテーマとする3回の特集を展開し、それでとりあえず暫定的に完結ということにしております。今現在、創竜伝12巻以降が全然出ていないので「暫定的に」とならざるをえないのですが(笑)。
それでは、今回も創竜伝の批評を始めることにしますか。
創竜伝10巻「大英帝国最後の日」
1996年5月16日 初版発行
P65上段~下段
<「日本は小さな悪に対しては厳しい社会なのだな」
そう始は思わざるをえない。民間人の一〇円、一〇〇円の単位での不正には目の色を変えるが、何千億、何兆という公金の不正にはじつにおおらかだ。「お役人さま」ともなれば、かってに海を埋めたてて荒涼とした無人の土地をつくるのに自分たちで予算を組み、資料の公表に応じないことも自分たちで決める。金融機関の不良債権を税金で救済することもかってに決め、強引に実行するのだ。
電話をかけるため立ちあがったマクシェーン老人の姿を見ながら、余が尋ねた。
「不良債権って、結局どういうことなの?」
「つまり、お金銭を貸したけど返してもらえないということだ、簡単にいえば」
「じゃ、不良債権を公的資金で肩がわりするというのは……」
「何千億円借りても返さなくていい、他の人たちが払った税金で助けてやるから、ということさ」
「そんなことしていいのかあ!?」
叫んだのは、むろん終である。>
相変わらず知ったかぶりで政治批判を行うのは得意なようですね。竜堂始クン。金融機関の不良債権問題や住専問題の本質がまるで理解できていないというのが、これを読んだだけで一目瞭然ですな。不良債権の意味についてこうも間違った認識を展開しているのでは話になりません。そんなわけで、阿呆な竜堂兄弟に代わって私が不良債権について説明する事に致しましょう。
まず、土地の価格には、
・地価公示法に基づく「公示価格」
・国土利用計画法による「基準価格」
・相続税法による「相続税評価額」
・地方税法による「固定資産税評価額」
・実際の土地取引で用いられる「実勢価格」
・ 銀行の融資金額の基準となる「担保価格」
の6種類の価格がありますが、この中で不良債権問題で直接関わってくるのは「実勢価格」と「担保価格」です。不良債権とは、土地取引で用いられる「実勢価格」が、「担保価格」に基づいて企業や不動産業者に対して金融機関が融資した(=貸し出した)金額を下回ってしまうことによって、銀行が貸し出したカネを回収できなくなってしまう債権の事を指すのです。
これはどういう事なのか、たとえ話を使って説明しましょう。
A企業が「実勢価格」100億円の土地を所有しているとします。A企業はこの「実勢価格」100億円の土地を担保にしてB銀行から融資を受ける事にしました。
そうすると、A企業から「実勢価格」100億円の土地を持ちこまれたB銀行は、この土地の値段を「実勢価格」の100億円とはみなさず、別に「担保価格」を設定して80億円とみなします。そしてB銀行は、この「担保価格」80億円に対してA企業に60億円の融資を行うのです。
この場合、B銀行の融資を受けたA企業にしてみれば、いつかB銀行に60億円を返済して「実勢価格」100億円の土地を取り返さなければ大損をする事になってしまいます。「実勢価格」100億円の土地を受け取ったB銀行にしてみれば、いっそのことA企業が60億円の返済を放棄して担保にしている土地を差し出してくれたら、却って40億円の儲けになるわけです。したがって普通であれば、A企業がB銀行への融資の返済を完全にストップしたとしても、B銀行に不良債権が発生する事はありません。
ところがもし何らかの理由で、担保としている土地の「実勢価格」が一気に40億円にまで下がってしまったらどうなるか? そうなるとA企業はB銀行に対して融資の返済を行う必要はなくなってしまうわけです。A企業にしてみれば、返済を放棄して40億円の担保物権をB銀行に差し出してしまえば、それによって60億円の資金を手にする事ができることになるのです。一方、B銀行にしてみれば、いくら頑張っても60億円の融資に対して40億円しか回収できないのですからたまったものではありません。金融システム上、A企業のやっていることは違法でもなんでもありませんから、B銀行はA企業に対して手も足も出す事ができません。
この話のケースでは、融資した金額の60億円と「実勢価格」40億円の差である20億円が不良債権となります。このように、土地の「実勢価格」が銀行の融資額を下回ってしまうほど急激に下がってしまった時、回収不能な不良債権というものが発生するのです。
このたとえ話で明らかのように、不良債権問題で一番重要なのは「土地の値段の急激な大暴落」であり、すくなくとも金融機関からカネを借りた企業側には全く責任はありません。だからこの問題で企業側の責任について云々しているような主張をしている上記社会評論↑の竜堂始や下記社会評論↓の竜堂続などは、不良債権問題についての理解が全く欠けていると言わざるをえませんね。
さて、このような不良債権問題の大元にある「土地の値段の急激な大暴落」をもたらしたのは一体何なのか? それは下の方で説明する事にしましょう。
P66上段~P67上段
<続は兄弟たちに視線をもどして口を開いた。
「普通なら、借りたお金銭を返さないほうが悪いに決まっています。ですが、金融機関がお金銭を貸すのはビジネスですから、当然、相手にはきちんと利子をつけて返してもらわなくてはなりません。それができないのは、経営者が無能でおまけに不まじめだからです」
「それにしても大蔵省は気づかなかったの?」
「もう何年も前から、住専と呼ばれる金融機関は乱脈経営のつけで、危険な状態だったんですよ。それを知りながら、大蔵省は何もせず、むしろ実態を隠していたんです」
「どうして?」
「その当時、住専の社長や会長はのきなみ大蔵省から天下りした官僚OBだったからです。乱脈経営の実態が明らかになれば、彼らが責任をとらなくてはならないでしょう? そこで大蔵省は、彼らが何億円もの退職金をもらってやめるまで待ちました」
続の口調はマスタードにタバスコをまぜたかのようだった。
「その後も何年か待ちました。すぐに公表すると、天下り官僚たちが背任罪で逮捕されてしまいますから。背任罪の時効が成立し、彼らを逮捕する事ができなくなってから、はじめて事態を公開し、阪神大震災の被災者からまでふんたくった税金を、気前よく住専にくれてやろうというわけです。まず法的な責任を問わず、損害賠償もしないですむよう細工した上でね。住専救済で前例をつくっておいて、これ以降、金融機関を救うため湯水のように税金をつぎこみ、その財源を確保するためにどんどん消費税の税率をあげる。それが大蔵省のエリートさんたちの巧妙なプロジェクトです。名づけて『他人のカネはおれのカネ』計画」>
なるほど、実に最低のネーミングセンスと不良債権・住専問題についての無知をまるだしにした「巧妙なプロジェクト」ですね(笑)。こんな低レベルな陰謀論、今時小学生ですら考えつきませんよ。だいたい住専問題や不良債権問題というのは、別に銀行の経営者の無能によって発生したわけではないのですけどね。
そもそも何故に銀行の不良債権問題や住専問題が発生したのか? それはバブル期の1990年3月27日、当時の大蔵省銀行局長・土田正顕の名によって全金融機関に対して出された「不動産業融資総量規制(以下「総量規制」)」という名の一片の通達こそが全ての元凶なのです。
この「総量規制」とは、当時の全金融機関に対して、不動産業・建設業・ノンバンクに対する融資を一切禁止しろと命令したもので、この通達によって銀行からの融資に頼っていた不動産業者などは銀行からの融資のチャンネルを断絶されてしまい、土地取引が事実上不可能になってしまったのです。その結果、土地に買い手がつかなくなってしまったので土地の値段が一気に下がってしまい、日本経済はバブルが崩壊して平成不況に突入し、多くの金融機関で大量の不良債権処理問題が発生することになったのです。この「総量規制」によって日本が失った資産価値(大半が土地価格の下落ですが)は何と1000兆円にも達していると言われています。住専の6850億円どころの話ではありません。
これだけでも「総量規制」というのは言語道断なシロモノであるというのに、さらにこの「総量規制」のいいかげんなところは、それがあくまでも「大蔵省から銀行への通達」であって、別に公的の政治決定機関で決められた法律でも何でもないにもかかわらず、銀行にとっては「絶対的な命令」として機能するところです。このため、「総量規制」というものは、大蔵省銀行局長の意向によっていくらでも例外を作ることができたのです。多くの銀行が不動産業種に対する融資が禁止された中で唯一例外を認められたもの、それがここで特に名前が挙がっている住専なのです。
さて、ここで住専とは何かについて説明する事にしましょう。
住専、正確には住宅金融専門会社というのは、個人による住宅取得のためのローン支払いを専門に取り扱うため、銀行・信託銀行・生保・損保・証券といった大蔵省の監督下にある金融機関が母体行となって人を送り、資金を共同出資して設立された一種のノンバンク会社のことを指します(日本最初の住専は1971年に設立された日本住宅金融)。当時の都市銀行をはじめとする日本の一般金融機関は個人の住宅ローンに対して冷淡かつ無関心であり、住宅取得のための銀行からの融資を受けることが困難であったため、それ専門の金融会社を作ろうではないかというのがそもそもの発端で、設立当初は堅実な業務を行って業績を伸ばしていました。
ところがバブル景気が始まると、株価高騰による企業の銀行離れが進み、そのために新たな金融市場を求めた銀行が住宅ローンを取扱い始め、住専はその存在意義自体がなくなってしまったのです。実はこの時にこそ住専は解体されるべきだったのですが、やはり大蔵官僚の天下り先の確保という理由で、そのまま残されることになったのです。この点について「だけ」は、まさに竜堂続の言っていることは正しいのですけどね(笑)。
住専問題に話を戻しますと、かの「総量規制」によって唯一不動産業者に対する融資を認められた住専は、当然の事ながら一人舞台となって不動産業者にカネを貸しまくりましたが、皮肉にも同じ「総量規制」の悪影響によって土地の価格が大暴落してしまったため、住専は記録的な不良債権を抱え込む事になってしまい、住専に出資していた金融機関も経営危機に陥りました。
そこで住専救済のために6850億円の公的資金を投入しようという事になったわけですが、実はこの公的資金は銀行のような一般金融機関を救うために投入されたものではありません。本来住専のような破産の処理方法としては「プロラタ式」という方法があり、これに従うと、まず銀行は住専への出資金を一旦全てあきらめ、その後回収できた金額を出資した銀行が出資額に応じて公平に分けるという処理策で本来ならば充分なはずなのです。そしてこれが重要なのですが、銀行の方もそうした処理策を望んでいたのです。しかも住専処理案が出された当時、政府は住専に出資した母体行に対して「出資金をあきらめるだけでなく、さらに住専に対して救済資金を提供しろ」などととんでもない事を言っているのです。ですから住専救済のための公的資金が銀行を救済するために拠出されたわけがありません。では一体何を救済するために公的資金を投入したのか?
実は住専に出資していたのは銀行などの一般金融機関以外に、信連(信用農業協同組合連合会)・共済連(共済農業組合連合会)・農林中金(農林中央金庫)・全共連(全国共済農業組合連合会)などのいわゆる農協系金融機関があり、住専救済の最大の理由はこの農協系金融機関を救済することにあるのです。当時カネをもてあましていた農協系金融機関は異常なほどに住専に出資してしまったため、住専が潰れるとそのあおりを食らって潰れてしまう農協が出てくるのです。しかも1993年2月に、当時の寺村信行大蔵省銀行局長と真鍋武紀農水省経済局長との間で、
「住専再建において、農協系金融機関に迷惑がかからないように最大限の配慮をする」
などという意味の「覚え書」が交わされていたのです。つまり、農協系金融機関を救うためならば、公的資金を投入しても良いし、銀行にその分の余分な負担をかけてもかまわないというわけです。この主旨から言っても、住専救済における公的資金投入は農協系金融機関を救うことに重点が置かれているのであって、銀行などの一般金融機関を救済するためであるという主張は大間違いであると言わなければなりません。
さて、長々と不良債権問題と住専問題について語ってみましたが、一体私の主張する問題点のどこに、竜堂続の3流陰謀論が当てはまるところがあるというのでしょうか? かろうじて正しいと言えるのはせいぜい「住専が大蔵省の天下りの巣窟である」という個所だけで、あとは全部間違いだらけではありませんか(笑)。不良債権問題を論じるのであれば「総量規制」を無視してはいけませんし、住専問題を論じるのであればせめて銀行などの一般金融機関と農協系金融機関の区別ぐらいつけなさいよ。いつものことですけど、社会問題に対する無知まるだしで社会評論を語ってどうする(笑)。
本当に住専問題における官僚の行動について批判したいのであれば、問題の本質がどこにあるのかを調べるのは当然のことだと思うのですけどね~。
P94上段~P95上段
<日本の新聞がスタンドで売られていた。国際衛星通信版というやつで、東京のTV番組まで載っている。新聞にしてはばかばかしいほど効果だが、日本のことが気になって、買ってしまった。富士山大噴火の関連記事がほとんどだが、実施された夫婦別姓制度についての記事もある。
「こうやってすこしずつ日本の社会も変わっていくんでしょうかね」
「さあ、それはどうかな」
始は首をかしげた。
「もともと日本でも中国でも、文化的な伝統は夫婦別姓だったんだ。源頼朝の妻は北条政子だし、足利義政の妻は日野富子だった。夫婦同姓になったのは明治時代からだ」
「近代国家になりたい、というわけで、ヨーロッパ式を持ちこんだんですね」
「だから夫婦別姓はむしろ旧くからのアジア的伝統への回帰なのかもしれない。夫の姓を名乗るのはイヤ、父親の姓を名乗りたい、というのは、進歩的と持ちあげたり、家庭制度を破壊するとさわいだりすることなのかなあ、はたして」
「夫婦であたらしい姓をつくるとか、姓そのものをなくす、というのなら画期的だと思いますけどね」
「むろん選択の余地は多いほうがいいに決まってる。夫婦が対等に話しあって、たがいに納得すればいいことさ」
「日本では流行が正義ですからね。そのうち同姓の夫婦が、遅れているとか保守的だとかいわれて、非難や嘲笑をあびるかもしれませんよ」
「まさか……と思いたいなあ」>
ほう、夫婦別姓というのは単に「夫婦が対等に話しあって、たがいに納得」しさえすればそれでいいんですか? だとすると夫婦の子供とお互いの両親の意思というものは完全に無視してかまわないのですね? なんとスバラシイ民主主義的な話でしょうか(笑)。だいたい竜堂兄弟って、幼い頃に両親をなくし、家庭の大事さや暖かさというものを知っているという設定であるはずなのに、どうして家庭というものに対する考え方がもののみごとに欠落した事しか主張できないのですかね~。
単純に考えてみてください。自分の姓と親の姓が違う事が子供に与える心理的影響というものを。夫婦が別姓になった場合に特に問題になるのは、生まれてくる子供の姓をどうするかという問題で、夫婦別姓では確実にどちらかの親の姓が子供の姓と異なってしまうのです。しかも兄弟・姉妹になればもっと深刻で、場合によっては兄弟・姉妹の間で姓が全く異なるという事だって起こりえるのです。これが子供に与える心理的影響は甚大なものがあります。自分と異なる姓を持つ親兄弟を「よそ者」と認識してしまうかもしれず、家族という連帯意識が希薄になってしまうのです。いくら理論的に同じ家族である事を説明されても「ではなぜ姓が別々なの?」と質問されれば返答に窮するしかないでしょう。
日本や中国でかつて夫婦別姓が実施されていた理由は、この「子供の姓の問題」を徹底的な家族制度を貫く事によって解決していたからです。つまり、よそから嫁いできた女の姓など一切考慮せず、常に父方の姓を子供に与えていたという図式です。時には「婿養子」という例外もありましたが、これも男女が逆になっただけで、やっている事は全く同じことです。上記社会評論で例として挙げられている源頼朝と足利義政の事例にしたところで、生まれてきた子供に対してはやはり源氏姓と足利姓だけが与えられているのであって、北条や日野の方の姓は全く子供に与えられておりません。だから昔の夫婦別姓制度は、現代の男女平等の理念とは異なり、むしろ強固な差別意識があったからこそ成立していたものであるといえるわけです。
まあ昔の姓の場合、貴族階級や地方の有力者ぐらいにしか姓が与えられてはいなかったわけですし、権力者ともなると外戚が家を乗っ取ったという例も多いので、当時としてはこのシステムは妥当であったと思いますけど、このような昔の夫婦別姓と現代で唱えられている夫婦別姓とでは理念もシステムも全く違うのですから、それらを同列に並べて「アジア的伝統への回帰」などと無邪気にはしゃいでいるサマは理解に苦しみますね。それともまさか「昔のアジアでは男女平等思想が存在していた」などという、いつぞやのタワゴトをまた主張したいのですか?
P144上段~下段
<ノーベル文学賞を受賞した作家が文化勲章のほうは辞退したので、逆上した人たちにヒステリックな中傷攻撃をあびたことがある。ノーベル賞をもらって文化勲章をことわろうが、その逆にノーベル賞をことわって文化勲章をもらおうが、両方もらおうが、両方ことわろうが、そんなことは当人の勝手である。どの道を選択しようと、他人からとやかくいわれる筋合はまったくない。それを「けしからん、非国民だ」とさわぎたてる人たちの顔を見ていると、まことに卑しい表情をしており、自分がノーベル賞も文化勲章ももらえないから嫉妬に狂っているのだな、ということがよくわかる。これと、当の作家の人格とは、また別の問題だ。そもそもノーベル文学賞とは文学上の業績に対して与えられるもので、たとえ嘘つきで女たらしで大酒飲みで友人のいないやつだろうと、業績が認められればいいのだ。それを何だかんだとさわぐのは、勲章をもらう人間は人格的にりっぱだ、とでも思いこんでいるからだろう。だとすれば当然、勲一等をもらう政治家や財界人は、勲三等をもらう学者や芸術家よりりっぱな人間だ、と信じているわけだ。>
「ノーベル文学賞を受賞して文化勲章を辞退した作家」の名前も「逆上した人たち」の名前も全く公開せず、そして「ヒステリックな中傷攻撃」の内容も一切引用せずに、田中芳樹は一体何を批判しているのでしょうか(笑)。塩野七生氏の時もそうでしたが、どうして田中芳樹はフィクションの影に隠れたあげく、名指しを一切しないで人サマを非難しようとするのですかね? 第一「逆上した人たち」にしたところで、きちんと「ノーベル文学賞を受賞して文化勲章を辞退した作家」を名指しで批判しているのであって、田中芳樹のような卑怯な手法を用いて批判しているわけではないのです。その一点においてすでに彼らに負けてしまっているという視点を、田中芳樹は持つことができなかったのでしょうか。
しかもここの「逆上した人たち」に対する批判は一体何なのですかね? 相手の主張の内容に反論するのではなく、その相手の「顔」や「表情」などをあげつらったところで、そんなものが有効な批判になどなるわけがないでしょう。それこそ田中芳樹が否定しているはずの「ヒステリックな中傷攻撃」ではありませんか。こんなことがOKであるのならば、田中芳樹の顔をあげつらって、
「あの3流作家のバーコードなハゲヅラを見ていると、嫉妬に狂った非常に卑しい顔をしており、自分がノーベル賞も直木賞も受賞できないから他の作家にやつあたりしているのだな、ということがよく分かる」
などといっても良いということになりますが、こんなものがまともな批判になどなりえないということぐらい、自分の身に当てはめることで簡単に考えることができるでしょうに。田中芳樹の「人を思いやる想像力」の欠如は救いようがありませんね(笑)。
ところで今回あえて田中芳樹が非難している元ネタを推理してみると、「ノーベル文学賞を受賞して文化勲章を辞退した作家」というのは大江健三郎で、「逆上した人たち」というのは谷沢永一氏(関西大学名誉教授)と石井秀夫氏(産経新聞『産経抄』論説委員)、そして「ヒステリックな中傷攻撃」というのは「こんな日本に誰がした」(クレスト社)と、産経新聞に掲載されていた「産経抄」の大江健三郎批判のことでしょうね。すくなくともこれら以外に大々的に大江健三郎批判を行っていた人は私の知る限りありません。
彼らの批判内容をまとめてみると、彼らが問題にしているのは大江健三郎の「ノーベル賞と文化勲章に対する態度の差が一体何に由来するのか」ということであって、別に彼らも賞をもらったり拒否したりする事自体には反対していないのです。しかし一方の賞をもらいながら他方の賞を拒否するという行為には、当然の事ながら賞をもらう事に対して何らかのダブルスタンダードが働いているという事情があることが容易に推測できるわけです。そして彼らが過去の大江健三郎の言動や評論などを検証してみた結果、その根底に日本蔑視・対外拝跪思想があると彼らは考え、それに基づくダブルスタンダードを彼らは批判したわけです。
ノーベル賞受賞を祝福する事と価値観のダブルスタンダードを批判する事は立派に両立するのであって、彼らはそれに基づいて大江健三郎批判を行ったようにしか私には読めなかったのですけどね~。
ちなみにこの大江健三郎という人物は典型的な進歩的文化人で、かつて毎日新聞のコラムで「防衛大学生は僕ら同世代の恥辱」などと主張したり、北朝鮮や中国を異常礼賛したりしていますし、最近では自衛隊全廃論だの謝罪外交の推進だのを唱えたりしている人物です。いくらノーベル賞受賞者であると言っても、その主張に問題があるのであれば批判されて然るべきでしょう。そしてそれに対してさらに反論したいのであれば、どこがどのように間違っているのかを正確に指摘するのは当然の事ではありませんか。それを行わずして、どうして「的確な批判」というものができるというのでしょうか。
それにあくまでも「賞をもらうのは当人の勝手である」というのであれば、同時期に新聞に掲載されたこれはどう評価すれば良いのですかね↓
朝日新聞「天声人語」(平成6年10月17日付)
<▼少し前に、かなり名を知られた俳優が政府から表彰され、ありがたいと感激していたのには、驚いた。「冗談じゃない。えらそうに表彰なんかするない。おれには客の拍手があらあ」くらいのことは、言ってもらいたかった。役者が国に格付けしてもらって喜ぶ「文化国家」は願い下げだ。▼戦後、金鵄勲章も爵もなくなり、勲章の運用が停止されたが、後に復活した。勲章の好きな人がいるからだろう。文化勲章とは別の普通の勲章には等級がある。政府が人に等級をつけるとは妙なものだ。▼自分は戦後民主主義者であり、国家と結びついた文化勲章は似合わない、と言う大江さんの言葉はごく自然で筋が通っている。>
これ、実は当時展開された大江健三郎擁護論のひとつなのですけど、ここで槍玉にあげられている「かなり名を知られた俳優」というのは、まさに「賞をもらうのは当人の勝手である」にもかかわらずケチをつけられているわけです。こっちの方は問題にしなくても良いというのでしょうか(笑)。
ついでにもうひとつ申しあげておくと、谷沢永一氏は住専問題の際、愚劣な「総量規制通達」を出した大蔵省銀行局長・土田正顕を産経新聞紙上で名指しで批判し、住専問題の責任の所在を明らかにした人物でもあるのですが、同じ住専問題で「みんなに責任がある、は無責任」という程度の能天気な主張しかできなかった田中芳樹は、谷沢永一氏に嫉妬でもしていたのでしょうかね(笑)。
創竜伝11「銀月王伝奇」
1997年12月5日 初版発行
P121下段~P122上段
<「陰謀史観」というものがある。世界の歴史は、裏から人類を支配する秘密のグループによって動かされている、という考えである。とくに「すぐれた頭脳を持つユダヤ人は二〇〇〇年にわたって全人類を支配しようと陰謀をめぐらしている」と主張する本は、日本でも数多く出版されている。すぐれた頭脳を持つ人たちが、二〇〇〇年も陰謀をめぐらしつづけてまだ全人類を支配できないでいるのは不思議なことだ、と、始は思っている。>
↑何ですかこれは? 何やら「陰謀史観」について批判的な言動を行っているようですけど、そもそも創竜伝のストーリー自体が「裏から人類を支配する秘密のグループによって動かされている」という考えの元に展開されているシロモノではありませんか。ストーリーのあちこちでやたらと「四人姉妹の陰謀」だの「牛種の陰謀」だのを使いまわしているアレは一体何だというのでしょうか(笑)。
しかも「牛種の陰謀」に至っては、何と「殷周革命の敗北の復讐を実行するために、3000年もの時間をかけて準備された」ものである上、彼らは月に超テクノロジーを持っているというのですから、ある意味「ユダヤ人の陰謀」などよりもはるかに誇大妄想的かつスケールの大きな話であると言えますね(笑)。いくら創竜伝11巻が3流同人誌レベルの外伝であるとはいえ、これはあんまりでしょう。書いてて矛盾を感じなかったのですかね、田中芳樹は。
さらにこれが次のような訳の分からない陰謀論へと続くというのですから、もう開いた口がふさがりませんね↓
P122上段~下段
<だが、どう見ても陰謀としか思えない歴史上の事例も存在する。「ローマ・クラブ」という例だ。
一九六〇年代のこと、欧米の学者や識者が集まってつくったと言われるローマ・クラブというグループが、重大な発表を世界に向けて発表した。「あと三〇年で全世界の石油は掘りつくされてしまい、人類はエネルギー源を失って危機を迎える」という内容だ。全世界が驚き、騒ぎたてた。その結果、石油の価格は暴騰し、石油に代わるエネルギーは原子力しかない、というわけで、反対を押しきって原子力発電所がいくつも建てられた。
三〇年が経過した。石油はなくなるどころか、世界の各地で新しい油田が発見され、すくなくとも今後一〇〇年は供給可能といわれている。ローマ・クラブの予測は完全にはずれたのだ。
もしローマ・クラブがまともな学者や識者のグループであったら、「私たちの予測は大はずれでした。皆さん、お騒がせしてすみません」と宣言するはずである。だがローマ・クラブはそんなことはしなかった。というよりローマ・クラブは、石油危機を煽りたてた後、何の活動もせず、そのまま消えてしまったのである。あとには、巨額の利益をむさぼった石油会社と原子力会社の高笑いだけが残った。
これは経済的利益のための薄汚れた陰謀であったとしか思えない。「石油をはじめとしてエネルギーを浪費するのはやめたほうがいい。資源をたいせつに」というのは、また別の問題である。>
田中センセイ、すぐにウソだと見破られるようなタワゴトを主張する前に、すこしは近現代の政治・経済について勉強した方が良いんじゃないのですかね(笑)。オイルショックは中東の政治情勢と密接な関係があるのであって、「ローマ・クラブ」の主張とは何の関係もありません。まあ田中芳樹が中東情勢に全く無知であるという事は、前回のゴールドシュタインの件ですでに明白ですけど(笑)。
こんな中学校の歴史教科書にすら書いてありそうな簡単な歴史事実について長々と説明するのはいささか気が引けるのですけど、それでも一応事情を知らない田中センセイのために説明してさし上げると、戦後、石油価格が最初に急騰したのは1973年、第四次中東戦争勃発にともなってOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が石油の減産・禁輸政策を行い、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を一気に4倍に引き上げたのが直接のきっかけです。これが世に言う「第一次オイルショック」です。
そして「第二次オイルショック」は、1979年のイラン革命と、1980年のイラン・イラク戦争勃発にともない、両国の石油輸出がストップしたことによって発生したのです。この2回にわたるオイルショックに危機感を覚えた西側諸国は、省エネルギー政策やエネルギー源の多様化を図り、また中東からの輸入に頼らない石油ルートの開発につとめたため、1985年以降になってようやく原油価格が下落していったのです。
で、これらのオイルショックの事情と「ローマ・クラブ」の主張とに相関関係があるというのですから、まさか田中芳樹は「ローマ・クラブ」が第四次中東戦争やイラン・イラク戦争を引き起こしたとでも考えているのでしょうか(笑)。だとすると、とんでもない超誇大妄想であると言うしかないのですけどね~。
ちなみに「ローマ・クラブ」の予測が外れた理由は簡単で、それは「ローマ・クラブ」があくまでも「当時の」石油産出量と石油消費量から計算して「残量30年」という結論を出したため、その後の新たな油田の採掘や省エネルギー技術の開発などといった要素が全く計算に含まれていなかったからです。まあ予知能力者でもない限り、普通は残量計算の際にそのような未来における不確定な計算要素を入れはしませんわな。これは「ローマ・クラブの陰謀」というよりは「予知能力なき人間の限界」の問題でしょう。
第一、こんなのが問題になるのであれば、以前に田中芳樹が主張していた下の社会評論はどうなるのでしょうか↓
創竜伝7巻 P88下段~P89上段
<近畿地方から瀬戸内海にかけては火山が存在せず、地震もすくない。関東大震災の直後、兵庫県加古川一帯への遷都が真剣に検討されたことがある。この地域が、日本でもっとも地質が安定し、大地震の恐怖がなかったからである。この事実は歴史学的にも興味を持たれるところで、
「中国大陸にも朝鮮半島にも、有史以来、火山活動はない。そこから古代日本に渡来した人々は、見慣れぬ火山を恐れた。だから火山のない大和・難波の一帯に王朝の中心を置いたのだ」
という説がある。>
周知のようにこの主張はその後の阪神大震災によって見事に否定されてしまいましたが、あの社会評論の論理に従うのであれば、当然の事ながら田中芳樹はこの事を反省して「私の創竜伝における地震に関する主張は大はずれでした。皆さん、お騒がせしてすみません」とでも言って謝罪しなければならないはずなのですけど、当然の事ながらそんな事は全く行っておりません(笑)。「ローマ・クラブ」に予知能力がなかった事がそこまで非難に値するのであれば、自分の主張を一貫させるためにも、田中芳樹はこの件について自ら率先して謝罪しなければならないはずなのですけどね~。
自分の主張がいかに愚劣極まりないシロモノであるのか、田中芳樹は自分の身に当てはめて考える事ができなかったのでしょうか。
P65上段~下段
<「日本は小さな悪に対しては厳しい社会なのだな」
P66上段~P67上段
<続は兄弟たちに視線をもどして口を開いた。
創竜伝で1、2を争う醜悪な部分登場ですね。
残念ながら私は経済に関しては門外漢で、大学の教養でやった程度の知識しかありませんが、それでもこの評論からは「こいつは怪しいわい」という雰囲気がぷんぷんしているのを感じていました。
そもそも、評論の内容以前に、あの竜堂続に「名づけて『他人のカネはおれのカネ』計画」なんて恥ずかしいことを言わせている(もしかしてギャグ?)時点で終わっている気もしますが(笑)
P94上段~P95上段
<日本の新聞がスタンドで売られていた。国際衛星通信版というやつで、東京のTV番組まで載っている。新聞にしてはばかばかしいほど効果だが、日本のことが気になって、買ってしまった。富士山大噴火の関連記事がほとんどだが、実施された夫婦別姓制度についての記事もある。
うーん、「夫婦が対等に話しあって、たがいに納得すればいいことさ」という結論のしょうもなさはともかく、そこに行くまでの経過自体はそんなに悪くないと思います。「夫婦別姓=進歩的」が虚妄なのは事実ですし(「旧くからのアジア的伝統への回帰なのかもしれない」も同様に虚妄なのですがね)。
>それらを同列に並べて「アジア的伝統への回帰」などと無邪気にはしゃいでいるサマは理解に苦しみますね。それともまさか「昔のアジアでは男女平等思想が存在していた」などという、いつぞやのタワゴトをまた主張したいのですか?
というのは、別にそれを喜んではしゃいでるわけではないので、少々的外れな批判だと思えますし、
>単純に考えてみてください。自分の姓と親の姓が違う事が子供に与える心理的影響というものを
>いくら理論的に同じ家族である事を説明されても「ではなぜ姓が別々なの?」と質問されれば返答に窮するしかないでしょう。
というのも、あまりにも感情的で説得力が弱いのではないでしょうか。
もっとも、どうして小説の中にこんなものが入っているのかという大前提がありますけれど。
P144上段~下段
<ノーベル文学賞を受賞した作家が文化勲章のほうは辞退したので
これもめちゃくちゃひどい部分ですよね。今回は特にひどい部分が多いな(笑)
これなどは作品世界ではなくモロに現実世界を語った部分であり、冒険風ライダーさんが語られているように、事実を意図的に曲解させた「フィクション」で無責任性を留保しつつ中傷するという、言論に携わる人間としては最悪の行動といえます。
私は谷沢氏にも異論はある立場ですが、谷沢氏の主張の要旨が「けしからん、非国民だ」で表せるとは間違っても思えません。というか、田中芳樹の評論に文責をちゃんと問えるなら、この手の攻撃は、元々左翼だった谷沢氏が最も得意に反撃してくるような標的でしょうね。
だいたい、「けしからん、非国民だ」と憎たらしい論敵が「言ったこと」にすれば、何か有利になったり論破できると思っているのでしょうか。谷沢氏や産経新聞の石井氏はもとより、東京の電信柱に大江氏を糾弾するビラを貼りまくっている右翼団体の相手にもならないような気がするんですけどね。
「さわぎたてる人たちの顔を見ていると、まことに卑しい表情をしており、自分がノーベル賞も文化勲章ももらえないから嫉妬に狂っているのだな、ということがよくわかる」
というあたりは本当にどうしようもなく、誰かの言葉を借りれば「否定と批判の区別が付いて」いないですね。
佐高信あたりの評論のつもりの悪口(内容が皆無の子供の中傷)を、更に劣化コピーしたようなこの部分は、日本の活字文化でも最悪のものではないでしょうか。それこそ、「日本語が気の毒」ですね。
<>それらを同列に並べて「アジア的伝統への回帰」などと無邪気にはしゃいでいるサマは理解に苦しみますね。それともまさか「昔のアジアでは男女平等思想が存在していた」などという、いつぞやのタワゴトをまた主張したいのですか?
というのは、別にそれを喜んではしゃいでるわけではないので、少々的外れな批判だと思えますし、>
これはあの社会評論の結論が曖昧で、夫婦別姓の何にそんなに喜んでいたのかがよく分からなかったのと(彼らが夫婦別姓を肯定的に考える理由が明記されていない)、以前に主張していた「昔の中国は男女平等思想があったんだぞー」とか何とか言っていた社会評論の蒸し返しではないかと考えて(「私の創竜伝考察27」参照)、こういう文章にしたのですよ。
現代の夫婦別姓も「男女平等思想」と「個人主義」から出発していますし、アレと絡めればこういう主張をしているのではないかと考えたのですが。まさか民主主義と個人主義を尊重しているはずの竜堂兄弟が、それらと対立している前近代的な差別型夫婦別姓制度に支えられている家族制度を崇拝するとも思えなかったので。
<>単純に考えてみてください。自分の姓と親の姓が違う事が子供に与える心理的影響というものを
>いくら理論的に同じ家族である事を説明されても「ではなぜ姓が別々なの?」と質問されれば返答に窮するしかないでしょう。
というのも、あまりにも感情的で説得力が弱いのではないでしょうか。
もっとも、どうして小説の中にこんなものが入っているのかという大前提がありますけれど。>
これは親から生まれた子供の視点から考えてみたものです。
子供が親と姓が違う事を初めて知るであろう年齢は、いくら遅くても小学校低学年あたりです。そのあたりの年齢だと、子供はまだ難しい理屈でものを考える事ができません。その結果、夫婦別姓や子供と親との姓の違いが子供に心理的な疎外感や孤立感を与えるのではないか、そしてそれを「個人主義」だの「男女平等」だのといった「理屈」で説明して納得させていくことができるのか、という問題を表現したつもりだったのです(兄弟の姓まで別々の場合はさらに深刻です)。まあ少し表現力が不足していたのかもしれませんが。
もちろん大人になっていけばそういったことも「理屈では」理解できるようになるでしょうけど、子供の時に受けた心理的影響というものは後々まで残るものです。それがただでさえ異常進行している昨今の家族破壊にさらに拍車をかけていくのではないかという危機感が、どうも竜堂兄弟(=田中芳樹)には欠けているようにしか思えないのですけど。
もっとも、前近代的な夫婦別姓制度で家族制度を復活させていく、とでも田中芳樹が考えているのであれば話は別ですけど(これも賛成はしませんが)。
>谷沢永一氏
あの評論に加えてさらに笑ってしまう事に、何と創竜伝10巻の中に谷沢永一氏をモデルにしたとしか思えないような描写があるんですよね。私はアノ描写を見た瞬間に「ああ、あの評論で非難されているのはあの人の事か」と確信しましたもの(笑)。
それはこれの事です↓
P61下段~P62上段
<「大阪共同銀行は、暴力団谷沢組のダミー会社に五〇〇億円を貸したけど、バブル崩壊で返してもらえない、ということになっておりやす。それを全額、国民の税金でもって補填することになったわけでやすが、事実はちょっと違いますんで」
「どうちがうんだ?」
「じつは谷沢組に貸して返してもらえない金額は三〇〇億円だけなんで。それを五〇〇億円ということにして、差額の二〇〇億円は関係者で裏金として分配することに……」
「関係者というのはどんな奴らだ」
「大阪共同銀行の幹部たちが五〇億円、谷沢組に口止め料五〇億円、大蔵大臣の政治資金団体が五〇億円、それに大蔵省の高級官僚が天下る財団に五〇億円。まあ公平に分配したというわけで」>
谷沢永一氏の職業は「関西大学名誉教授」ですからね。共通項がありすぎる(笑)。
それにしても、あそこまで当てこすりを言われて、よくもまあ谷沢永一氏が怒らなかったものですね(笑)。反撃されていたら田中芳樹は一瞬で終わっていただろうと思いますけど。
冒険風ライダーさんの創竜伝考察シリーズに補足したいと思います。大したものではありません。恐らくは皆さん御存知の話だと思います。
十巻の批評で、冒険風ライダーさんは
> ところで今回あえて田中芳樹が非難している元ネタを推理してみると、「ノーベル文学賞を受賞して文化勲章を辞退した作家」というのは大江健三郎で、「逆上した人たち」というのは谷沢永一氏(関西大学名誉教授)と石井秀夫氏(産経新聞『産経抄』論説委員)、そして「ヒステリックな中傷攻撃」というのは「こんな日本に誰がした」(クレスト社)と、産経新聞に掲載されていた「産経抄」の大江健三郎批判のことでしょうね。すくなくともこれら以外に大々的に大江健三郎批判を行っていた人は私の知る限りありません。
と、書いておられますが、私はもう一人知っております。なんと本多勝一氏です。日本人がスウェーデンの王から賞を貰い、日本の王の賞を拒否するぐらいなら、その逆の方がまだましだ、と氏は言うのです。左翼に属する人の視点で見ても大江氏の行動はそもそもおかしいわけです。
因みに同じように左右どちらから見てもおかしいものにはNHK料金の取り立てがあります。同じく本多勝一氏が著書で、中村あきら(漢字が出ない)氏が雑誌「正論」の連載で糾弾しております。
子供に与える影響・・・とおっしゃっていましたが、
私は夫婦別姓を切望している子供です。
私はほんとの父親の顔を覚えていません、捨てたも同然だからです。
そんなやつの血を引いているということ自体がいやでなりません。
家族の絆云々といっても、苗字は家族の絆には関係ありません。
私は昔の苗字をどぶに捨てたいと思っていました。
今は母が再婚した人を父と呼んでいますが、ほんとうに素晴らしい人です。実の子以上にかわいがってくれます。心から感謝しています。
でも、3回も苗字が変わるといろいろと不都合が出てくるんですよね。
いろいろ聞かれたりとか・・・
それに、私の母はひとり娘なので、旧姓を継ぐ人がいません。
だから、私はできれば、母の苗字に戻りたいんですけれども、
そうするには祖母の養子にならないといけないという・・・
そんなとき夫婦別姓だったら楽なのにな、と思うんです。
拙文ではありますが、こういう風に考えている子供もいるんだよ、ということで・・・・
すいませんが、私が知りようもないあなた個人の家庭事情を延々と語られても、全く関係のない私としては、まことに失礼ながら「それで?」としかコメントのしようがありませんし、あなたを見捨てた実の父親とやらに対する個人的な怨みの感情を元にして私の夫婦別姓反対論に反論されても困るのですけど。
反論するのであれば、個人事情に基づいた感情論ではなく、もう少し客観的かつ理論的に私の意見のおかしな部分を指摘してくれないと、私としても議論に応じようがありません。
<それに、私の母はひとり娘なので、旧姓を継ぐ人がいません。
だから、私はできれば、母の苗字に戻りたいんですけれども、
そうするには祖母の養子にならないといけないという・・・
そんなとき夫婦別姓だったら楽なのにな、と思うんです。>
暴論であることを承知の上であえて言いますけど、それほどまでに旧姓にこだわるのであれば、あなたの母親が形式的に夫と離婚してしまえばそれで済むことなのではないのですか? そして自らの姓を旧姓に戻した上で、引き続き事実上の夫婦生活を営んでいけばよろしいのではないかと。
現在だって、あくまでも徹底して夫婦別姓を貫きたいというのであれば「事実婚」(婚姻届を役所に届けない結婚)という手段が立派に存在するのですよ。ただし法律的な夫婦関係ではないので、法律上の夫婦が受けられる恩恵や法律上の庇護を受けることはできなくなりますけど。
そのリスクを犯してでもあくまで夫婦別姓を貫きたいというのであれば、私は何も言うことはありません。
> <それに、私の母はひとり娘なので、旧姓を継ぐ人がいません。
> だから、私はできれば、母の苗字に戻りたいんですけれども、
> そうするには祖母の養子にならないといけないという・・・
> そんなとき夫婦別姓だったら楽なのにな、と思うんです。>
>
> 暴論であることを承知の上であえて言いますけど、それほどまでに旧姓にこだわるのであれば、あなたの母親が形式的に夫と離婚してしまえばそれで済むことなのではないのですか? そして自らの姓を旧姓に戻した上で、引き続き事実上の夫婦生活を営んでいけばよろしいのではないかと。
> 現在だって、あくまでも徹底して夫婦別姓を貫きたいというのであれば「事実婚」(婚姻届を役所に届けない結婚)という手段が立派に存在するのですよ。ただし法律的な夫婦関係ではないので、法律上の夫婦が受けられる恩恵や法律上の庇護を受けることはできなくなりますけど。
> そのリスクを犯してでもあくまで夫婦別姓を貫きたいというのであれば、私は何も言うことはありません。
無理に離婚せずとも、てつしさんの義父氏に、お母様の方の姓を
名乗っていただく、という方法もありましたよね。必ず男性の方の
姓を名乗らなければならない、という決まりはなかった筈ですが。
民法上は。ま、あまり一般的でないのは事実ですけどね。
>祖母の養子にならないといけないという
では、それに何か問題でもあるのでしょうか。「旧姓を残したい」
ということを最優先するのであれば、そうすれば良いのでは、と思
いますが。
個人的事情が色々あるのはもちろんですが、それを一般例として
議論するのは無理があると思いますよ。「自分たちを捨てていった
本当の父親の姓など名乗りたくもない」という例は、そう滅多にあ
ることではないと思いますし。
(引用開始)
だいたい竜堂兄弟って、幼い頃に両親をなくし、家庭の大事さや暖かさというものを知っているという設定であるはずなのに、どうして家庭というものに対する考え方がもののみごとに欠落した事しか主張できないのですかね~。
単純に考えてみてください。自分の姓と親の姓が違う事が子供に与える心理的影響というものを。夫婦が別姓になった場合に特に問題になるのは、生まれてくる子供の姓をどうするかという問題で、夫婦別姓では確実にどちらかの親の姓が子供の姓と異なってしまうのです。しかも兄弟・姉妹になればもっと深刻で、場合によっては兄弟・姉妹の間で姓が全く異なるという事だって起こりえるのです。これが子供に与える心理的影響は甚大なものがあります。自分と異なる姓を持つ親兄弟を「よそ者」と認識してしまうかもしれず、家族という連帯意識が希薄になってしまうのです。いくら理論的に同じ家族である事を説明されても「ではなぜ姓が別々なの?」と質問されれば返答に窮するしかないでしょう。
これは親から生まれた子供の視点から考えてみたものです。
子供が親と姓が違う事を初めて知るであろう年齢は、いくら遅くても小学校低学年あたりです。そのあたりの年齢だと、子供はまだ難しい理屈でものを考える事ができません。その結果、夫婦別姓や子供と親との姓の違いが子供に心理的な疎外感や孤立感を与えるのではないか、そしてそれを「個人主義」だの「男女平等」だのといった「理屈」で説明して納得させていくことができるのか、という問題を表現したつもりだったのです(兄弟の姓まで別々の場合はさらに深刻です)。まあ少し表現力が不足していたのかもしれませんが。
もちろん大人になっていけばそういったことも「理屈では」理解できるようになるでしょうけど、子供の時に受けた心理的影響というものは後々まで残るものです。それがただでさえ異常進行している昨今の家族破壊にさらに拍車をかけていくのではないかという危機感が、どうも竜堂兄弟(=田中芳樹)には欠けているようにしか思えないのですけど。
(引用終了)
私の冒険風ライダーさんに対する批判が感情的だったことは認めますし(しかし、そもそも、「家族の絆」というものこそ感情的なものだと思いますが。)、私のような事例がそうそうあるとは思いません。
しかし、「親から生まれた子供の視点」と十把一絡げにまとめられたくないな、と思いましたので。
苗字が一緒であろうとなかろうと、崩壊する家族は崩壊しますししない家族はしません。
苗字は家族の絆には関係ありません。
それなら、別姓でも構わないじゃないか、と。
(私は「構わない」というより「別姓の方がいい」と考えていますが。)
そのことを、主張させていただきたかったのですが・・・
(この場合、自分のケースは極端ではありますがそのよい例になると考えたので・・・ある意味、冒険風ライダーさんの主張される「心理的影響」の逆の場合の「心理的影響」かと存じます。この「心理的影響」は理屈では説明不可能です。それは冒険風ライダーさんの御主張ですよね。だから私もつい感情的になってしまった、というかならざるをえなかったんです。)
べつに個人的怨恨をここで発散しようとかそんなことはひとつも思っていません。
感情的になりすぎた点はお詫びいたします。
しかし、別姓にすれば、「家庭の大事さや暖かさ」が損なわれる、というのは根拠薄弱ではないでしょうか?
急速に進行する家庭崩壊が別姓によってもっと進行するとは思えません。別姓にするしないということで家庭崩壊の進行状況が左右されるくらいのことであれば、家庭崩壊は止められます。
家庭崩壊の元凶は戦後日本の教育(戦前の家父長制度を忌避しすぎるあまり家族というものまでないがしろにしすぎた)です。
総論を述べられている冒険風ライダーさんに対して、
こういう事例もある、ということを頭の隅にでも置いといていただけたらと思いまして。
各論をしだせばきりがないんですけれども、この問題を議論する場合には各論をほっとくことはできないと思うんで。
できるなら、やっていますよ。>母の旧姓を継ぐ方法に関しての冒険風ライダーさんと不沈戦艦さんの御助言
世の中には思い通りにならないことがたくさんあります。
私の申し上げたいことは、家族の絆が崩壊する(弱くなる)からダメ!ということは、夫婦別姓に反対する論拠にはならない、ということです。
(いきなり初カキコで個人的感情論に走ってしまったのはあ~しまったと後悔してます)
その理由です↓
家族の絆には血の濃さすら関係ありません(血がつながっていようといまいと大切な家族と思えればそれで家族です)。
それなのに、どうして姓が違うとかそういう表面的なことで家族が崩壊しますか?
家庭が暖かければ、子供・兄弟同士の姓が違ったからといって深刻な心理的影響はないはずです。
家族の愛情を肌で感じていれば、アタマで理解できなくても別にいいんではないでしょうか。
逆に、姓が同じで血がつながっていても、自分の子供を虐待して折檻して残酷に殺す親はたくさんいます(特に最近顕著ですね、悲しいことに)。
私の最初のあの感情的カキコは、私の主張の具体的例と考えていただければ幸いです。
姓が違う違わないということは家族の絆に全く関係ありません。
(ちょっと脱線しますが・・・しかし、「表面的」と書きましたが、姓をどうでもいいと考える一方でなおも姓にこだわっている自分がいますね。「心理的影響」のせいかもしれません。自分を客観的にみれば滑稽に思えます。)
夫婦別姓についてはあまり具体例を見聞きしたことが無いので、対したことは言えませんが、以前朝日新聞の投書欄に、事実婚で夫婦別姓をしており、今小学生である子供達も名字がそれぞれ違うと誇らしく書いたのがありまして、私は同じ学校で兄弟が名字が違うのは感覚的に気持ち悪いと思った経験があります。
てつしさんに賛成でーす。
家族の絆を他者(他人や法律)に云々される謂れはないですよね。
大きなお世話って感じです。
> 家族の絆を他者(他人や法律)に云々される謂れはないですよね。
> 大きなお世話って感じです。
虐待でつながっている家族の絆は、他人や法律で云々しないと被害者が気の毒です。
>NEROさん
>私は同じ学校で兄弟が名字が違うのは感覚的に気持ち悪いと思った経
>験があります。
別姓が一般化すればおのずとそういう違和感はなくなってくると思うんですが・・・。
>茶々さん
>虐待でつながっている家族の絆は、他人や法律で云々しないと被害者
>が気の毒です。
虐待している家庭に絆と呼べるものがあるんでしょうか。
絆とは、お互いを思いやる心から生まれるものだと私は思います。
>以前朝日新聞の投書欄に、事実婚で夫婦別姓をしており、今小学生である子供達も名字がそれぞれ違うと誇らしく書いたのがありまして、私は同じ学校で兄弟が名字が違うのは感覚的に気持ち悪いと思った経験があります。
→実態を見聞した経験はないのですが、もし目の当たりにすれば、私も違和感に絶えがたい思いをするでしょうから、考えないようにします。
朝日の寄稿者に対しては「あ~あ、今風の『りべらりずむ』に毒されておるな」という類の感想しか持ち得ません。
人それぞれですから嘴突っ込む気はありませんが、私は夫婦別姓は断固拒否します。
家族の絆云々以前に、自分の子供と苗字が違うなんて、理屈抜きでゾッとします。この点「自分はオールドタイプなのだなあ」との自覚があり、別段卑下する気などありません。
熟慮の上で夫婦別姓を決断したのなら構いませんが、「カッコよさそうだから」などというしょ~もない理由での選択ならば、私は胸中での蔑視を禁じえません。
<苗字が一緒であろうとなかろうと、崩壊する家族は崩壊しますししない家族はしません。
苗字は家族の絆には関係ありません。
それなら、別姓でも構わないじゃないか、と。
(私は「構わない」というより「別姓の方がいい」と考えていますが。)>
「苗字は家族の絆には関係ない」という主張は、そのように割り切って考えることができる人間のみに通用する論理ではありませんか? 実際には家族の絆と姓名をそこまではっきりと割り切ることができる人がそんなに多いわけではないことは統計調査によっても立証されています。
たとえば平成8年(1996年)に総理府が行った『家族法に関する世論調査』では、夫婦別姓について反対39.8%、「(旧姓を)通称として使えるように法律を改める」22.5%、賛成32.5%という結果が出ています。しかし「(旧姓を)通称として使えるように法律を改める」と答えた人達は夫婦同姓を前提にしているため、同姓支持・別姓支持に分けてみると、実質的に同姓支持62.3%、別姓支持32.5%ということになり、圧倒的に同姓支持が多いという結果が出てくるのです。
しかも別姓支持32.5%の人達の内、実際に別姓を希望すると答えたのはさらにその中の16.3%、世論調査回答者全体のわずか5.3%にすぎないのです。いかに夫婦別姓導入が国民から支持されていないかが一目瞭然ではありませんか。
さらに同年3月に、読売新聞が同じような夫婦別姓に関する世論調査を行った際にも、反対57%・賛成37%という調査結果が出ており、さらに反対者の約6割が「(別姓にすると)家族・夫婦の一体感が薄れる」を理由に挙げています。
この世論調査の結果を見ても、たとえ理屈で説明できなくても、同姓と家族の絆に何らかの相関関係を見出している人達が意外に多いことがお分かりいただけるでしょう。それを無視することはできないと思うのですが、いかがでしょうか。
そしてさらに言わせてもらうと、夫婦別姓は実施面においてもかなりの問題を引き起こすであろうことが予測されます。特に問題となってくるのが、創竜伝考察本編でも論じた「子供関連の問題」ですね。
まずは夫婦が結婚後、子供を出産する時。生まれてくるであろう子供に対して、妻・夫のどちらの姓をつけるかで、夫婦間で諍いが多発することが容易に想像できますし、さらにそれぞれの家族が「自分達の姓を継がせたい」と考えた場合、夫婦それぞれの家族の間でも深刻な対立が起こることが予想されます。
次に愛情の注ぎ方の問題。子供には必ず妻・夫どちらかの姓「だけ」が与えられることになるわけですが、子供に自分の姓を与えることができなかった親が心理的な疎外感を覚え(これが「別姓にすると家庭の一体感が失われる」という主張の根拠のひとつでもあるでしょう)、その反動で子供に対して愛情のこもらない応対を行う可能性があります。そしてそれがもう片方の親の感情を刺激し、子供の育成・教育に関して感情的なトラブルが発生することも考えられます。
さらに夫婦別姓が周囲の人間からどのように見られるかという問題もあります。特に子供の場合、夫婦別姓がイジメの口実にされるということは、すでに現段階において発生していることが確認されています。夫婦別姓制度が大々的に導入されれば、この傾向にさらなる拍車がかかることに疑いの余地はありません。教育によってそれらを是正するにしても、それが確実に成果を挙げるとは限りませんし、下手をすれば逆に夫婦同姓を口実としたイジメが発生するということだってありうるかもしれません。
そして子供が成長し、自立した考え方を持つようになった時、子供が例えば「今まで名乗っていた父親の姓から母親の姓に変えたい」と言い出した時はどうするのでしょうか? 自分の姓を変えたい子供と、今までの姓を維持してほしい親との利害が対立することは避けられません。
これらのシミュレーションから考えてみると、夫婦別姓制度は、ただでさえ異常進行している現在の家庭崩壊に更なる拍車をかける可能性を濃厚に秘めており、導入するべきではないと判断せざるをえないのです。
これはどういう事なのか、たとえ話を使って説明しましょう。
A企業が「実勢価格」100億円の土地を所有しているとします。A企業はこの「実勢価格」100億円の土地を担保にしてB銀行から融資を受ける事にしました。
そうすると、A企業から「実勢価格」100億円の土地を持ちこまれたB銀行は、この土地の値段を「実勢価格」の100億円とはみなさず、別に「担保価格」を設定して80億円とみなします。そしてB銀行は、この「担保価格」80億円に対してA企業に60億円の融資を行うのです。
この場合、B銀行の融資を受けたA企業にしてみれば、いつかB銀行に60億円を返済して「実勢価格」100億円の土地を取り返さなければ大損をする事になってしまいます。「実勢価格」100億円の土地を受け取ったB銀行にしてみれば、いっそのことA企業が60億円の返済を放棄して担保にしている土地を差し出してくれたら、却って40億円の儲けになるわけです。したがって普通であれば、A企業がB銀行への融資の返済を完全にストップしたとしても、B銀行に不良債権が発生する事はありません。
ところがもし何らかの理由で、担保としている土地の「実勢価格」が一気に40億円にまで下がってしまったらどうなるか? そうなるとA企業はB銀行に対して融資の返済を行う必要はなくなってしまうわけです。A企業にしてみれば、返済を放棄して40億円の担保物権をB銀行に差し出してしまえば、それによって60億円の資金を手にする事ができることになるのです。一方、B銀行にしてみれば、いくら頑張っても60億円の融資に対して40億円しか回収できないのですからたまったものではありません。金融システム上、A企業のやっていることは違法でもなんでもありませんから、B銀行はA企業に対して手も足も出す事ができません。
この話のケースでは、融資した金額の60億円と「実勢価格」40億円の差である20億円が不良債権となります。このように、土地の「実勢価格」が銀行の融資額を下回ってしまうほど急激に下がってしまった時、回収不能な不良債権というものが発生するのです。
以上、引用ですが、
この場合の担保というのは何の事なのでしょうか?
抵当権、それとも代物弁済?
もし抵当権なら返済が滞った場合は競売にかけなければいけませんし、
その結果40億円でしか売れなかった場合は差額の20億円は債権として残存します。
だから60億円手に入るというのは合法ではなく、いずれは返さなければならない物です。
>「実勢価格」100億円の土地を受け取ったB銀行にしてみれば、いっそのことA企業が60億円の返済を放棄して担保にしている土地を差し出してくれたら、却って40億円の儲けになるわけです。
これは代物弁済ならともかく、競売がある以上はそういう不正はできないはずです。
差額は債務者に返さなければいけません。
以上、かなり古い文章に対しての疑問ですが、いかがでしょうか。
<この場合の担保というのは何の事なのでしょうか?
抵当権、それとも代物弁済?
もし抵当権なら返済が滞った場合は競売にかけなければいけませんし、
その結果40億円でしか売れなかった場合は差額の20億円は債権として残存します。
だから60億円手に入るというのは合法ではなく、いずれは返さなければならない物です。>
気になったので少し抵当権関連について調べてみたところ、確かに日本の融資制度は、担保物権を譲り渡しても借金の返済義務が消えない「ウィズ・リコール・ローン(遡及型融資)」の形態を採用していますね。欧米の場合だと、いくら担保価値が下落していようと、担保の提供と同時に借金も帳消しになる「ノン・リコール・ローン(非遡及型融資)」の形態が常識ですし(その場合に発生する不良債権の処理は全て金融機関側の負担となる)、それが当然だろうと私も考えてしまっていたので、日本もてっきりそうだと思っていたのですが。
この件に関しては私の評論の方が間違っていたようですので、ここに訂正しておきます。