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- board3 - No.761
Re^2: 私なりの創竜伝(12巻)の魅力推論(私見)
- 投稿者:恵
- 2001年03月02日(金) 10時14分
レスありがとうございます、Merkatzさん♪♪
> 皆さんの意見を総合して(美味しいとこ取りともいう)、まず読者層として
>
> 1.中・高校生
> 2.女性ファン
> 3.田中芳樹ファン
>
> に分類されると思います。もちろん、重なる部分もあるでしょうが。
> そしてそれぞれの読者層に対して、購読理由が違うのでしょう。
>
> 1.中・高校生・・・青臭い理想主義的主張が、若いときの大人への反抗心にピッタリくる。
> 2.女性ファン・・・イラスト・キャラ萌え
> 3.田中芳樹ファン・・・とりあえず集める
>
> そして3者共通として、
>
> ・ストーリー矛盾・社会批評なんてどうでもよい。好きなキャラが活躍すれば面白く感じる。
> ・自分が面白く感じた部分しか印象に残っていない。
>
> があると思います。
>
> つまり、幅広い読者層のニーズにそれぞれ対応する商品訴求力が備わっていることが創竜伝の強みではないかなと。
> どれか特定読者層しか受け入れないようなものであるなら、とっくに部数を落としていただろうと思います。
かなり核心を突かれたご意見だと思います。そもそも、ベストセラーというものは特殊なケースを除けば、幅広いニーズに対応してこそ(それが結果的にだとしても)生まれるものですからね。そして、Merkatzさんがまとめられたそれぞれの購買層の共通傾向も、かなり正解に近いのではないでしょうか。
> とすると、最近女性ファン向けに文体が変わったというのは、田中芳樹がそういう嗅覚に鋭い作家であることの証明なのでしょうか?
あ、ここだけ素朴な疑問なのですけど、田中氏の文体が女性ファン向けに変わったのってどの作品から感じられたのでしょうか?『薬師寺涼子シリーズ』とか、『創竜伝』・『アルスラーン』の最新刊からそう思われたんですか?
なんだか、わたしは田中作品の文章のテンポや言い回しは、あまり変わったように感じないんですけど…f(^-^;)
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- board3 - No.762
Re761: 田中作品の文体の変化について
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2001年03月02日(金) 12時30分
> あ、ここだけ素朴な疑問なのですけど、田中氏の文体が女性ファン向けに変わったのってどの作品から感じられたのでしょうか?『薬師寺涼子シリーズ』とか、『創竜伝』・『アルスラーン』の最新刊からそう思われたんですか?
> なんだか、わたしは田中作品の文章のテンポや言い回しは、あまり変わったように感じないんですけど…f(^-^;)
これを言ったのは私ですよ。Merkatzさんは私の主張を引用していただけです。
この「文体の変化」というのは、私が田中作品を読んでいく過程で、だんだん女性キャラクターの重要性や活躍の描写が増えていったことに漠然と感じていたものです。田中作品を時代順に追ってみれば、年を追うに従って女性描写が増えてきているのが分かります。
実は女性キャラクターや女性描写が増えることで喜ぶのは男性読者ではなく女性読者なんですよね。女性読者にしてみれば、自分達が感情移入できるキャラクターが増えるわけですし、極楽大作戦のパクリである「薬師寺シリーズ」を読んだ時には特に感じざるをえませんでしたね。「明らかに女性読者に迎合している」と。元ネタを知っていただけになおさらそう思いましたよ。
アルスラーン戦記読本で評論をしていた和田慎二などは、この女性描写の増加を喜ばしいものであると言わんばかりを評価を下していましたが、あの腐りきった女性描写が増えていったことのどこが喜ばしいことであるのか、私にはさっぱり理解できませんでしたね(笑)。
「文体の変化」としては、他にも昔の作品と比べて「文章中に妙なカタカナ言葉を使った個所が多い」(「薬師寺シリーズ」全般)や「キャラクターのしゃべる口調が『だなあ』とか『だよなあ』とか『だったんだあ』などと言った『語尾を伸ばす表現』になっている描写が多い」(創竜伝12巻・アルスラーン戦記10巻)などといった細かい点も挙げられます。
こんな細かいことが女性や中・高校生に受ける表現であるのかどうかは私は知りませんけど。
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- board3 - No.763
Re753/754: 中国の印刷術と軍事関連について
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2001年03月02日(金) 12時35分
>日傘さん
> 中国で木版印刷が実用化されたのは、唐代初期じゃありませんでしたっけ? 私の資料が古すぎるのかも知れません。
宋王朝以前に存在した印刷術というのは木版画を使った方法で、1ページにつき1枚の版木をいちいち作成して印刷するという、極めて効率の悪い原始的な印刷術です。これを木版印刷の起源とするならば確かに日傘さんの仰る通りです。
しかしここで言われている木版印刷というのは「活字」を使った印刷方法でしょう。中国における活字の起源は11世紀の宋王朝時代、畢昇という人物によって作られた、粘土と松ヤニを使った陶製の活字がその始まりであると言われています。田中芳樹が言っている木版印刷というのは多分これのことでしょう。もっとも、これが本格的な木活字にまで発展するには、さらに時代が下って13世紀・元王朝時代まで待たなければならないようですから、正確には「木版印刷の元ができた」と言った方が正しいのですけど。
> 少し思ったのですが、田中氏の中国の持ち上げ方は、以前流行ったほめ殺しそのものです。実は田中氏は中国が嫌いなんじゃないでしょうか?(笑)
実は私自身もそういう疑問を抱いたことが何度かあります(笑)。で、ホントは日本が大好きなのに、あえて自分に反発を集中させるためにムチャクチャな日本弾劾論を唱えているのではないかと(爆)。
しかしそれにしてはちょっと「ほめ殺し」の回数がやたらと多すぎるように思いますし、中国評論本での純粋な評論の時でさえ同じような論法を展開しているので、やはりアレは本心からの礼賛なのでしょう。あんな方法では却って逆効果でしかないということを、いいかげんに「歴史から学んで」欲しいものなのですけど。
>とっしーさん
>と言ってもこの論考は田中芳樹の眼に触れていないと思いますので、それは言い過ぎかと。
う~む、アレはあの問題の評論と「銀英伝考察2」の批判内容とが妙にリンクしすぎていたように感じたので、「アレを見ていればこんな評論をすることもなかったろうに」と「見ていて反論のつもりで書いていたのならばどうしようもない話だな」の2つの意味を込めた皮肉として書いたものでして。
一応どちらに転んでもそれなりの皮肉として通用するように書いたつもりだったのですけど。
>「陸軍」ではなく「海軍」ですね。そもそもロンドン条約は海軍軍縮条約であって陸軍は埒外です。むしろ膨大な予算を分捕りつづける海軍の勢力が弱体化すること自体は陸軍の省益に叶っていますし(笑)
> 陸軍がこの問題で絡んでくるのは宇垣軍縮や山梨軍縮以後ですね。
> 最終的には陸軍省、海軍省すらも「統帥権独立」の旗印の下、それぞれの参謀本部、軍令部がどういう作戦をやっているのか、どれだけの損害を出しているのかを把握できないという戦争指導上最悪の状態になります。
改めて調べてみたら確かにその通りでした。1925年の宇垣軍縮以後、自分達の軍縮に危機感を覚えていた陸軍が統帥権干犯の憲法解釈を作成し、1930年のロンドン軍縮会議の際にその解釈を知った政友会が政治闘争のために利用し、それに海軍が同調して統帥権干犯問題が表面化したというのが真相です。
これに関しては私の評論の方に間違いがあったようでしたので、ここに訂正させていただきますm(__)m。
> これは両者に求められる性格の違いに起因すると思います。
> 日本軍は明治初期の鎮台時代を除けば、基本的に外征軍としての性格を強調して整備されています。対外戦争での勝利を第一義として建設されているわけです。
> これに対し、宋軍は基本的に内乱鎮圧用軍隊です。中国史上、宋代に至るまで統一王朝が対外勢力の侵攻により滅びたことは無く、王朝滅亡は農民反乱や重臣や地方軍の反乱という形をとっていましたから、これを未然に防ぐ宋のシステムは非常に優れたものだったと思えます。
> 実際に宋代は対外戦争は不振だったものの、その政治的安定性は歴代最高といえ、その安定性を背景に経済超大国として発展したわけですから、いちがいに悪いシステムではありません。
> 問題はやはり、中央官僚が実情を無視した無茶苦茶な外交政策や軍事作戦を実行したことにあり、どんなシステムでも運用する側に問題があればどうしようもないでしょう。
しかし宋王朝的な軍隊統制政策だと、実状に合わない軍隊運営や軍隊に対する過剰干渉を中央政府が行うのは、ほとんど「必然」と言っても良い現象なのではないでしょうか? 一方通行的な中央統制では、むしろ逆に、よほど有能で統率力のある人物が上に立たない限り、マトモな軍隊運営などできなくなってしまうのです。とっしーさんが挙げていた実状無視の中央統制の問題などは、それこそ私が「銀英伝考察2」で指摘した政治システム的な弊害そのものなのですけど。
もちろん、唐王朝末期~五代十国時代における藩鎮を中心とした軍閥割拠の反省から宋王朝の軍隊統制政策が出てきたのは私も承知していますし、戦乱の時代を終わらせ、国内治安の安定をもたらしたという点では評価すべき点もあるのでしょうが、やはりそれがもたらした「軍事力の弱体化」という問題は無視できるものはないですし、ましてや、歴史的背景がまるで異なる宋王朝の政策と旧日本軍の暴走とを比較するのは筋違いもいいところでしょう。
現代の日本政府も、自衛隊の統率・運営に関しては宋王朝と似たような中央統制を行っていますからね~。あの愚劣な惨状を見るたびに「こんな自縄自縛政策のどこがスバラシイのだ」と私は思わずにはいられないのですけど。
> 宋滅亡の原因も軍隊の弱さというよりは金国との幾度にもわたる違約など拙劣な外交政策にあるわけですから。
> 軍隊が強ければ滅びなかったというのはこの場合、木造住宅だから全焼したというもので、むしろ寝煙草など火事の原因となったものを指摘すべきではないでしょうか?
これに関しては、私はアレの次の評論(モンゴル帝国と宋王朝との比較について)で「宋王朝・約320年の歴史の実態」という逆の観点から論じていますけど。何しろあのバカ連中ときたら「軍事力が強いモンゴル帝国は滅ぶのが速かった」と言わんばかりの論を展開していたものですから。
それから私は「軍隊が強ければ滅びなかった」とは一言半句も言っていません。私の主張は「軍隊は強くなければならない」「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」です。第一、私は「偉大なる英雄」岳飛などよりも「屈辱外交の担い手」秦檜の方をこそ高く評価しているのですしね。外交の重要性は充分に承知していますよ。
- 親記事No.748スレッドの返信投稿
- board3 - No.764
Re: Re753/754: 中国の印刷術と軍事関連について
- 投稿者:とっしー
- 2001年03月03日(土) 03時06分
> しかし宋王朝的な軍隊統制政策だと、実状に合わない軍隊運営や軍隊に対する過剰干渉を中央政府が行うのは、ほとんど「必然」と言っても良い現象なのではないでしょうか? 一方通行的な中央統制では、むしろ逆に、よほど有能で統率力のある人物が上に立たない限り、マトモな軍隊運営などできなくなってしまうのです。とっしーさんが挙げていた実状無視の中央統制の問題などは、それこそ私が「銀英伝考察2」で指摘した政治システム的な弊害そのものなのですけど。
> もちろん、唐王朝末期~五代十国時代における藩鎮を中心とした軍閥割拠の反省から宋王朝の軍隊統制政策が出てきたのは私も承知していますし、戦乱の時代を終わらせ、国内治安の安定をもたらしたという点では評価すべき点もあるのでしょうが、やはりそれがもたらした「軍事力の弱体化」という問題は無視できるものはないですし、ましてや、歴史的背景がまるで異なる宋王朝の政策と旧日本軍の暴走とを比較するのは筋違いもいいところでしょう。
まず最初に。日本軍と宋軍のこのような比較が無茶苦茶であるというご指摘には完全に賛同します。これは田中芳樹の悪癖でしょう。
さて、宋軍のシステム的な問題ですが、軍事力の弱体化については他のリスクを計算した上で導入したのではないかと思っています。
現在のような通信技術が存在しない時代に広大な領土を持つ国家は、大反乱のリスクを背負いながら地方領主、軍司令官に多大な権限を委任するモンゴル帝国タイプか、即応性の低下を忍ぶことにより徹底的な中央統制を導入する宋タイプのどちらかしか手が無いわけです。
軍事力の弱体化を不問に付すわけにはいきませんが、言われているほどダメなシステムだとは思いません。
現在の自衛隊に対する見方に関してはほぼ同意見ですね。
尤も日本人の職業軍人嫌いは(井沢元彦が言うまでもなく)大正時代も軍人は制服通勤すらはばかられ、軍人俸給も据え置かれ続けるという虐待を受けていましたから、伝統的なものなのかもしれません。
阪神大震災は私自身、被災者という点で無関係ではありませんので、当時の最高責任者村山氏と会うことでもあれば、平静ではいられないでしょう。
> それから私は「軍隊が強ければ滅びなかった」とは一言半句も言っていません。私の主張は「軍隊は強くなければならない」「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」です。第一、私は「偉大なる英雄」岳飛などよりも「屈辱外交の担い手」秦檜の方をこそ高く評価しているのですしね。外交の重要性は充分に承知していますよ。
岳家軍を筆頭とする軍閥の強硬派に対し、軍事的背景をほとんど持たない秦檜の意見が通ったというだけでも宋のシステムの利点が明らかだと思います。
それ以前の王朝であれば、おそらく軍事力を背景とした主戦派の主張が通り、対金戦争の継続が図られていたのではないか? と。
もしくは独立した軍事力を背景とし、国政への介入を始めるとか。群雄割拠時代の再来ですが。むろん皇帝のパーソナリティにも左右されるとは思います。
「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」については、当時の通信技術の限界に制約されますから、致し方ない面があります。
もちろん、改善すべき点はいくらでもあり、宋のシステムが最良だとは申しませんが。
現行の自衛隊関連の扱いは私も極めて憂慮すべきだとは思いますが、あまりに独立性が高かった旧軍のそれに比較すれば全然マシです。
欲を言えばもう少し中庸の防衛政策をとってくれればいいんですが、わが国やその国民性はちょっと極端なところがあるようで・・・
ただ海自のDDH代艦導入の手法を見ていると国民不在の文民統制といった観がありますね。手段と目的が倒置しているような気がします。
ま、わが国にはドイツのようなふてぶてしい態度が欲しいところです(笑)
最後に田中芳樹評論とはやや外れた投稿になったことをお詫びします。
-
- board3 - No.765
こういうのご存知ですか?
- 投稿者:既出でしたらすいません。
- 2001年03月03日(土) 05時10分
ttp://www.vector.co.jp/soft/dos/amuse/se011534.html?site=n
- 親記事No.748スレッドの返信投稿
- board3 - No.766
Re764: 軍隊統制いろいろ(ちょっと脱線かも)
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2001年03月03日(土) 11時55分
> まず最初に。日本軍と宋軍のこのような比較が無茶苦茶であるというご指摘には完全に賛同します。これは田中芳樹の悪癖でしょう。
> さて、宋軍のシステム的な問題ですが、軍事力の弱体化については他のリスクを計算した上で導入したのではないかと思っています。
> 現在のような通信技術が存在しない時代に広大な領土を持つ国家は、大反乱のリスクを背負いながら地方領主、軍司令官に多大な権限を委任するモンゴル帝国タイプか、即応性の低下を忍ぶことにより徹底的な中央統制を導入する宋タイプのどちらかしか手が無いわけです。
> 軍事力の弱体化を不問に付すわけにはいきませんが、言われているほどダメなシステムだとは思いません。
> 岳家軍を筆頭とする軍閥の強硬派に対し、軍事的背景をほとんど持たない秦檜の意見が通ったというだけでも宋のシステムの利点が明らかだと思います。
> それ以前の王朝であれば、おそらく軍事力を背景とした主戦派の主張が通り、対金戦争の継続が図られていたのではないか? と。
> もしくは独立した軍事力を背景とし、国政への介入を始めるとか。群雄割拠時代の再来ですが。むろん皇帝のパーソナリティにも左右されるとは思います。
> 「過剰な中央統制は却って弊害をもたらす」については、当時の通信技術の限界に制約されますから、致し方ない面があります。
> もちろん、改善すべき点はいくらでもあり、宋のシステムが最良だとは申しませんが。
なるほど、時代的な限界や技術的な問題なども考慮してみれば、確かに宋王朝のあの自縄自縛的な軍隊統制政策にもそれなりの理はあったと言えますね。私も唐王朝末期~五代十国時代から続いた戦乱の反省から、あのような軍隊統制政策が出てきた必然性などは一応考慮していたのですが、やや「軍隊の弱体化」というテーマばかりを追ってしまっていたようです。
とっしーさんの仰る通り、宋王朝の軍隊統制政策がもたらした政治的安定の功績は評価されて然るべきでしょう。もちろん「軍隊の弱体化」の問題はそれとはまた別に評価・考察する必要がありますが。
> 現在の自衛隊に対する見方に関してはほぼ同意見ですね。
> 尤も日本人の職業軍人嫌いは(井沢元彦が言うまでもなく)大正時代も軍人は制服通勤すらはばかられ、軍人俸給も据え置かれ続けるという虐待を受けていましたから、伝統的なものなのかもしれません。
全くイヤな伝統としか言いようがありませんね。職業軍人に対する蔑視や差別こそが、国防運営上最大の弊害になりかねないものだというのに(>_<)。
大正時代に軍人が蔑視されるようになった理由には、日清・日露戦争の勝利で多大の犠牲を出したにもかかわらず、軍人が自分の功績を誇って威張りすぎたという事情もあるのですが、実は大正期の軍人蔑視こそが昭和に入って軍隊が暴走した理由のひとつになっていると言われているのですからね。軍隊を蔑視した国民は軍隊に復讐されてしまったわけです。
そしてさらにその報復として、戦後の日本では国民による徹底した軍隊蔑視が続いているわけですが、竜堂兄弟の10倍報復家訓ではあるまいし、この軍隊蔑視の無限円環はいいかげんにやめてほしいものです。こんな関係は国民にとっても自衛隊にとっても不幸なものでしかないのですから。
> 現行の自衛隊関連の扱いは私も極めて憂慮すべきだとは思いますが、あまりに独立性が高かった旧軍のそれに比較すれば全然マシです。
> 欲を言えばもう少し中庸の防衛政策をとってくれればいいんですが、わが国やその国民性はちょっと極端なところがあるようで・・・
> ただ海自のDDH代艦導入の手法を見ていると国民不在の文民統制といった観がありますね。手段と目的が倒置しているような気がします。
> ま、わが国にはドイツのようなふてぶてしい態度が欲しいところです(笑)
戦前の軍隊暴走も、戦後の過度な中央統制も、どちらも著しくバランスを欠いた国防運営であるという点では全く同じでしかないですからね。外部からのチェックシステムが正常に働き、かつ軍隊と政府のバランスの取れた国防体制の整備は、日本にとって焦眉の急です。
世界的に見ても、日本の自衛隊ほどハードウェア・ソフトウェア双方がガタガタで、かつ国民から不信と偏見の目で見られている軍隊も珍しいでしょう。こんな軍隊しか持てない国を指して「日本は軍事大国化しつつある」だの「日本の軍事予算は世界トップクラス」だのと言っている連中が、私には笑止でしかありませんね。
ましてや、その自分達のかつての主張を棚に上げて、阪神大震災の際の政府の対応を非難するような連中に至っては………ねぇ、田中センセイ(笑)。
- 親記事No.748スレッドの返信投稿
- board3 - No.767
Re: 私の創竜伝考察36-1
- 投稿者:宣和堂
- 2001年03月03日(土) 15時06分
ども宣和堂です。ちょっといつも疑問に思ってたことを書きます。
※以下中国史の専門的なことが続きます。興味のない方は他のスレッドに※
冒険風ライター様曰く…
> 岳飛? 韓世忠?? 梁紅玉??? 誰かと思えば、たかだか「一局地戦の指揮官」の分際で自分達の武功をやたらと誇示した挙句、南宋と金との絶望的な軍事的格差と、それに伴う宋の莫大な経済的負担を全く無視して「国粋主義」と「中華思想」に基づいた対金侵攻を強硬に主張し、平和を希求していた秦檜と対立していた「右翼の軍国主義者」ヌもではありませんか(笑)。こんな連中を「スーパーヒーロー・ヒロイン」として賞賛するなど、青竜王の歴史認識は時代錯誤もはなはだしいと断定せざるをえないではありませんか。ねえ田中センセイ(爆)。
秦檜と岳飛の論争という云うか、南宋の和平派と主戦派の評価というのは難しいと思います。以前は自分も大陸や台湾での岳飛への手放しの絶賛を訝って秦檜の肩を持とうとしたことがあるのですが、秦檜は非常に難解です。それと、南宋と金との和約も、調べていくとかなりイメージの違うモノで、冒険風ライダーさま云われるイメージのような“強い強い金と弱い弱い宋”との間に交わされた盟約ではありません。ではちょっと時系列で見ていきましょう。
そもそもの和平交渉自体は、宋にとっては紹興5(1135)年に五国城に捉えられていた、徽宗の死であり、金にとっては有力な皇族である完顔宗翰の死でありました。徽宗の死によってその亡骸の返還を求めるためにも、宋の世論は和平に傾きました。金においては専権的に国政を牛耳っていた宗翰の死は、反対派であったダラン派の浮上を招き、叛乱も多く、宋との戦乱も続く河南の地を宋に引き渡すと言う検案が主流を占めるようになりました。この時に秦檜のラインを伝って宋に提示された金からの和平条件は…徽宗の亡骸と高宗の生母である韋后を帰国させた上で、黄河以南を返還するのですから、宋にとっては良いこと尽くめです。これに対して、厭戦ムードがようやく漂い始めた宋の世論もこの和平条件なら否やもないでしょう。が、最大のネックは宋が金に対して臣礼を取ること、と言う条例が士大夫の激昂を誘い、岳飛や韓世忠等の主戦派の反発を招きました。が、最終決定権のある高宗は秦檜に反対する上奏を受けてもコレを退けることはせずに、和平に傾いておりましたから9割方この和平は成功するように見えました。
と言うよりも、実際に和義は紹興9(1139)年には一時的に成立しているのです。宋金両国承認の上で、金は黄河以南に軍を移動し、宋の東京留守が開封入りしており、宋の歴代皇帝陵への参詣も済ませているくらいです。この時点で本当に和平が成立していれば、秦檜に対する自分のイメージも今ほど悪いモノではなかったと思います。
が、しかし、肝心の金の方で政変が起きます。ダランが反対派である宗幹と宗弼(ウジュ)の一派によって殺害されたのです。田中芳樹の『紅塵』では頭の固い無骨者の様に書かれるウジュですが、この人物は政略の汚いところにも手を染められる武将であり、政治家です。謀略によって岳飛を殺したのは彼という見方も出来るほどです。ともかく、翌紹興10(1140)年、ウジュは軍を動かし黄河以南の宋に返還された土地に殺到します。コレは攻撃と云うよりも違約であり、騙し討ちに近いですから、勿論、宋の世論は断固抗戦…と言うよりも、やっと金の臣と言う屈辱的な呼称を受け入れてまで、交渉でもぎり取った河南の地を非道な裏切りによって奪われようとしたのですから、自衛するのが当然でしょう。宋のこの憤りが軍を強くしたのか?金の軍にクーデターによる動揺があったのか?それは良く分かりませんが、ともかく、この時宋は各地で金軍を破ります(この時、田中芳樹が評価する劉錡が毒を川に投げ込んでウジュに勝っている)。しかし、この戦勝に何故か異を唱えたのが秦檜です。彼自身の交渉によって黄河以南を得たはずなのに、彼は自分で勝手に宋金間の国境線を何故か?淮水に起きます。意気を上げて開封に進行しようとする岳飛を留めたのが、秦檜の命令です。
金がクーデターによって動揺していたのは目にもあきらかですし、宋軍の意気も靖康の変以降これ以上に上がったことはないくらいですし、黄河以南を宋の土地だと認めたのは他ならぬ金なのですから、淮水まで引こうという考え自体が理解に苦しみますが、とにかく兵を淮水に引きます。
そして、やめとけばいいのにウジュは更に南進を始め、フラストレーションの溜まった宋軍に、合肥で派手に敗戦します。ココで秦檜によって行われたのが論功行賞で、南宋の各軍閥から軍事指揮権を奪うのが目的です。南宋の一時期、田中芳樹の云うような“強い軍隊”が生まれるのはそれが私家武力集団であり、軍閥的であったからです。岳飛や韓世忠のような“親分”に絶対的な忠誠を誓う軍隊でありこそすれ、高宗に絶対忠誠を誓う軍隊ではないのです。コレを放置しておけば、子のない高宗(高宗の子は金軍から逃げている最中に宋軍の中で兵変があり、一時帝位につけられたが間もなく死んだ)の身に何かがあったときには、必ずや岳飛なり韓世忠に龍袍を着せて万歳を叫ぶに間違いないのです。であるから、宋朝…と言うより、皇帝である高宗は彼らには節度使、范鎭のような権力を振るわれる前に軍事指揮権を解く必要がありました。
コレは中華主義云々と云うよりは、宋の、高宗の皇帝権の安定の為に彼らの権力を削ぐ必要があったのであり、始めの和義が成立さえしていれば、岳飛等の兵権も、もっと緩やかに解けたはずでしょう。岳飛が死んだのも、この兵権を手放さなかったからです。中華主義や政治的安定と云うよりも、高宗と秦檜のエゴが彼らを潰したような印象が非常に強いのです。
(中略)
> そもそも宋王朝時代にアレほどまでの「中央統制型文民支配体制」が確立した最大の理由は、唐王朝時代後期~五代十国時代にかけて、中国国内に多数配置された節度使から発生した「藩鎮」と呼ばれる軍閥が乱立し、中央の命令を全く聞かなくなった挙句、互いに武力抗争を展開し、唐王朝の崩壊とそれに続く戦国乱世を招来させてしまったことにあります。そして二度とこのような事態が起きることを事前に防止するために、宋王朝は徹底した文治主義と君主独裁型の官僚育成に力を注ぐようになったわけです。これに伴い、皇帝自らが試験官となり、官僚に忠誠心を植えつけるための官僚試験「殿試」が導入され、科挙制度がこの時代に完全に整備されます。
と、ここら辺も范鎭と皇帝権は五代では非常に近いモノとなり、本人の望む望まないによらず、部下が無理矢理自分たちの親分を皇帝に仕立てて、クーデターを起こさせると言うのも五代の風潮であり、宋の太祖が最も恐れたことでした。太祖が酒の場でかつての同僚達の兵権を解いたのに対して、高宗が岳飛に対して行った拷問は、同じく軍閥の兵権を解くのに用いた手段とは云え、あまりスマートとは言えないですよね。おまけに秦檜の手だけを汚させて、自分は気弱な皇帝のようなイメージを後世にまで伝えているのですからやるせないです。
また、殿試の補足ですが、科挙が唐代に行われていたときには、及第したときの科挙の監督官を師として一生涯仰ぐ風習が唐代にはあり、皇帝よりも科挙監督の方に忠誠心を感じて、それが政治的な徒党を組んだのが政争の原因となったので、こういう措置が為されたようです。皇帝が最終的な監督官ですから、科挙を通過した官僚は全て皇帝の弟子…と言うような意味合いになるのだそうです。ですから、徒党を組ませず、権力を皇帝に集中させる権力機構を構築したのが宋代なのです。
と、自分には分からないのが、田中芳樹が岳飛は好きなのに、民国あたりの軍閥に対しては冷淡なこと。正式にコメントしたことはないモノの、どうも、曾國藩→李鴻章→袁世凱に連なる北洋海軍ラインやそれに連なる軍閥も完全無視を決め込む有様ですからねぇ…。
そう言えば、冒険風ライダーさまは、どのような戦争が局地的、大局的十考えでしょうか?宋金戦が局地的となると大局的な戦争とはどういうモノなんでしょうか?
しかしまあ、いい加減、中国の歴史上の人物上げて“スーパーヒーロー”とか称す、センスのない記述はヤメにして欲しいですね。
- 親記事No.748スレッドの返信投稿
- board3 - No.768
Re: 私の創竜伝考察36-2
- 投稿者:宣和堂
- 2001年03月03日(土) 16時05分
続けて宣和堂です。
冒険風ライダーさま曰く…
> まあ青竜王が熱心に語りたがっている英雄話など実はどうでもいいことでありまして、ここで語るべきなのはモンゴルと宋王朝についてですね。いつものことなのですけど、モンゴルと宋における軍隊の強弱関係と王朝の寿命って、一体どういう相関関係を持っているのでしょうかね? 第一、「軍隊が強い国は滅ぶのが早い」という法則など私は全く聞いた事がないのですけど。
自分の持論は「飯のまずいところほど兵隊が強い。うまい飯に恵まれた瞬間から兵隊は弱体化が始まる」なんですが…。飯のうまい江南を抑えた南宋が強いワケないですからねぇ…あの現在でも飯のくそ不味いモンゴルの兵隊と比べれば…。
まあ、冗談はさておき…
> そもそも「宋王朝の歴史320年」などと豪語したところで、その実態たるや、非常にお寒いものでしてね。「宋朝弱兵」のおかげで常に周辺諸国と屈辱的な和平条約を結ばざるをえませんでしたし、1126年には新興国家「金」の軍事侵攻によって開封が陥落し、一時的に宋は滅亡してしまっていますな(笑)。で、その時機転を利かせた当時の康王(後の南宋の高宗皇帝)が何とか江南に逃れて宋を再建し、かろうじて金の侵攻を撃退したというのが真相でしょう。しかもその時でさえ、かつて「とうちゃん」が悪し様に罵っていた秦檜が、主戦論をがなりたてていた「右翼の軍国主義者」岳飛を殺害して和平に奔走しなかったら、南宋はもっと早く滅亡していた可能性が非常に高いのですけど(笑)。
どうでしょうねぇ?確かに宋自体は秦檜がいなければ滅んでいたかも知れませんねぇ…。放っておけば岳飛王朝が築かれたかも知れませんし…。まあ、金軍が江南を抑えるのはやはり無理でしょうが…(やはり、金には淮水の線がギリギリだったのだと思います)。
> つまり宋王朝は自らの弱みであるところの「宋朝弱兵」をよくわきまえ、周辺諸国に対して必死の外交努力(ほとんど屈辱外交でしたが)を怠らなかったからこそ、かろうじて何とか存続することができていたわけです。世界の半分を征したと言われるモンゴル帝国と比べ、王朝・国家の生涯としては何とも惨めな話ではありませんか(笑)。
自分は宋は唯一中華思想から抜け出し、対等外交を出来た国なのだと思います。例え屈辱外交だとしても、交渉によって得た平和は尊いですからね。結局、契丹も金も歳幣として貰っていた中国の物品に素朴さと兵の強さを奪われて国を滅ぼしてしまいましたからね…。
コレがストイックな中華主義国家であった明であれば、また話は違うんでしょうけど…。
> そもそも宋王朝とモンゴル帝国との寿命を比較する時に、何で宋王朝の方はその誕生から滅亡までを計算していながら、モンゴル帝国の方は「宋王朝の滅亡」から年数算出を始めているのでしょうか? どう考えても年数算出方法が最初からモンゴル側に不利になるように仕組まれているではありませんか。本当に両国の寿命の比較を行いたいのであれば、モンゴル帝国の方も「その誕生から滅亡まで」の年数を算出すべきでしょう。
細かいことですが、元とモンゴル帝国は似て異なるモノです。モンゴル帝国はご存じの通りチンギス・ハンがクリルタイでハンに推挙された1206年から成立しています。コレがモンゴル帝国。至元8(1271)年にクビライ・ハーンが大元ウルスの国号を定めましたが、ここからが元朝の成立です。元の北帰は至正28(1368)年ですから、97年ですね(大元ウルスは滅亡はしていないので…)。何故、モンゴル帝国と区別するかと云えば、官制などが全く異なり、モンゴル帝国の政治と大元ウルスの政治が全く異なっていたからに他なりません。中国王朝の一つとして考えられる大元ウルスとモンゴル帝国は似て異なるモノです。だから、コレは詭弁です。
でも、国の優劣を存続年数で測るのは、やっぱり愚かですよね…。ガイ山で宋の滅亡とするのは、亡宋の民のささやかな反抗でしょうから、実質は杭州が落ちた景炎元(1276)年でしょうにねぇ…。明の滅亡と比べても変ですね。
> それと思いっきり揚げ足取りになるのですけど、南宋最後の幼帝が殺され、南宋が滅ぶきっかけとなったガイ山の戦いは1279年で、元王朝が滅亡したのは1368年ですから、この間の年月は91年ではなく89年です。中国礼賛に熱中するあまり、連中は小学生レベルの簡単な算数問題をすらミスってしまっているわけです(笑)。偉大なる中国サマに接する事ができてかなりの興奮状態にあることは容易に推測できますが、いくら何でももう少し落ちついてみたらどうなのでしょうか(笑)。
田中芳樹は数字が苦手と見えて、よくよく見ると、この手の間違いを良く犯してます。
> しかも元の時代に発達した文化は何も「元曲」だけではありません。「元曲」に対抗して江南に起こった「南曲」というものもありますし、「水滸伝」「三国志演義」といった口語小説も元王朝時代に原型ができています(現在の形に完成したのは明王朝時代)。また絵画の分野でも「元末四大家」(黄公望・呉鎮・王蒙・ゲイサン)と呼ばれる巨匠が腕を競っています。
元代の魅力はやはり、中国的な観念が排除され、今まで否定されてきたモノに脚光が浴びせられたことだと思うので、この辺は冒険風ライダーさまの主張に否やはありませんね。南宋画院の接収もやりながら、それにとらわれてはいないと思います。とは言え、アラビア風の絵画が故宮に残っているわけではないので、実証は出来ないんですけど…。陶磁器にコバルトによって絵画が描かれたり、バカみたいに大きな皿が作られるのも元代からですから、或いは絵画よりも陶磁器の方に元朝は後世に影響を残したのかも知れませんねぇ…。景徳鎮窯の陶磁器が現在のような陶磁器を焼くのもこのころですからねぇ…。
元末四大家は…好みじゃないのでなんとも言えないですね…。南宋画院の方が自分は好みなので…。
> 「いや、元王朝時代の文化というのはあくまでもモンゴル人自身の文化でなければならない。旧宋人が作った文化など元の文化とは認めない」と強弁するのであれば「パスパ文字」と「元朝秘史」というのはどうですかね? 特に後者の「元朝秘史」などは、モンゴル人の公用語であった「モンゴル語」を使って、蒙古の各氏族の起源とチンギスからオゴタイまでの伝説・史実を記された歴史書なのですけど。
モンゴル人自身は何か作ることによって評価される民族ではなく、受容性があり、なんでも有益なモノは貪欲に取り入れた点が評価されるべきでしょう。パスパ文字や《元朝秘史》を出されるのも、詭弁のような…。何せ、《元朝秘史》に関しては、モンゴル語で書かれたであろう原書が散逸して、漢字で書かれたモノしか残っていないわけですから…。
> 残念でしたね、東海青竜王陛下。元王朝時代には、充実した経済力に基づいて発生した大量の固有文化が存在するのです。まあ中華思想の熱狂的な狂信者であるところの青竜王が、元王朝時代の文化と歴史を認めたくないと考える気持ちも分からないわけではないのですが(笑)。宋王朝の軍事的弱体化を無理矢理に正当化するような愚かな行為などさっさとやめて、素直に「宋王朝はモンゴル帝国より軍事的には弱かった」と認めてしまった方が精神衛生的にも良いのではないですかね(笑)。
何だか、田中芳樹の文章を読んでいると、戦前の歴史家の云っているような文章ですね。今はモンゴル史の杉山御大のおかげで、やや大げさとも思える元朝…と言うかモンゴルの再評価が盛んですから、田中芳樹はこういう潮流も無視したいんでしょうね。最近では大元ウルス(元)とかクビライ・ハーン(フビライ・カン)と言う言い方も定着してきましたからね…。
> そもそも宦官という職業の本分はあくまでも「後宮の管理」であり、その職分を逸脱して権力を掌握したり英雄として活躍したりすることは、実はそれ自体が本来あってはならないことなのです。元々宦官という職種は宮廷の皇后や女官に侍ることができるために皇帝権力に取り入ることが比較的容易な職業であり、それを目的としてわざわざ自らに去勢を施すような人間まで出てくる始末だったのです。そんな職種である宦官がさらに実務面でも活躍するようになったらどうなるのでしょうか?
宦官が皇帝に取り入るだけだったか?と言うとそう言うわけでもなく、皇帝の方が貴族勢力や官僚勢力の掣肘を受けずに政治を行おうとするときに、第三の勢力として宦官は良く利用されました。また、宦官は一族郎党の利益のために政治を行う貴族や官僚とは違い、血の繋がった子孫がいませんから、皇帝一人のために忠誠を尽くすと考えられたのです。歴史書は士大夫によって書かれますから、彼らと対立関係に置かれるコトの多かった宦官が歴史書に書かれる場合は、ある程度は差し引いて考えた方が実像に近づけるはずです。歴史上、宦官を皆殺しにしようとしたのは『三国志』でおなじみの袁紹と後梁の朱全忠ぐらいなモノでしたが、結局は中国から王朝が亡くなるまで宦官も姿を消すことはありませんでした。あれだけ害悪を叫ばれた宦官ですが、なくならなかったからには何か存在理由があったように思います。
> 鄭和や蔡倫の歴史的・文化的功績と、「後宮の管理」という職分しか持たない宦官という職種とは本来分けて考えるべきものでしょう。それを無理矢理に繋ぎ合せて礼賛したところで、却って鄭和や蔡倫に対して失礼になるだけでしかないではありませんか。いくら偉大なる中国サマが大好きだからって、こんな「犯罪正当化論」的な中国礼賛で読者の賛同を得ることができると本気で考えているのですかね、この宦官顔負けの職分逸脱作家業者は。
まあ、唐代の宦官の専横と明代の宦官の専横は分けて考えるべきですけどね…。
> それともうひとつ言及しますけど、上の社会評論で取り上げられている鄭和と蔡倫のうち、こと蔡倫に関する限りは礼賛論法自体もおかしなものですね。上の社会評論で触れられているように、現在では蔡倫以前の時代にも紙の存在が確認されており、その流れに乗って蔡倫は「紙の改良者」として位置付けられているのですから、素直にそのように評価すれば良いものを、何でその事実を無視してまで、わざわざ蔡倫を「紙の発明者」などと持ち上げたがるのでしょうか?
この辺は活版印刷を含めて中国で教育されているお国自慢をそのまま踏襲してますね。北京の歴史博物館に行けばここら辺は模型と銅像で楽しく学べる運びになってます。多分、その孫引き曾孫引きで田中芳樹はこういうコトを書いているわけでしょうが、正直ウザイですね。でも、蒸気機関だって発明者よりも改良者の方が名前が知れているわけですから、この辺は別に叩かなくても…とは思いますが…。
- 親記事No.748スレッドの返信投稿
- board3 - No.769
Re^2: メシと兵隊
- 投稿者:とっしー
- 2001年03月03日(土) 17時11分
> 自分の持論は「飯のまずいところほど兵隊が強い。うまい飯に恵まれた瞬間から兵隊は弱体化が始まる」なんですが…。飯のうまい江南を抑えた南宋が強いワケないですからねぇ…あの現在でも飯のくそ不味いモンゴルの兵隊と比べれば…。
> まあ、冗談はさておき…
歴史上強兵を誇った国は共通して食生活が貧しいですからね。
みんな冗談めかして言ってますが、やはり真理かもしれません。
欧州でいえば強兵をもって知られる英独は食事の不味さでも欧州屈指ですし、弱兵といわれる仏伊のメシの美味さも有名です。
世界最強を自認する某おコメの国の味覚音痴は海原雄山お墨付きですし、ある意味世界最強の兵質を誇った日本も戦前は非常に貧しい食生活の国でした。
> どうでしょうねぇ?確かに宋自体は秦檜がいなければ滅んでいたかも知れませんねぇ…。放っておけば岳飛王朝が築かれたかも知れませんし…。まあ、金軍が江南を抑えるのはやはり無理でしょうが…(やはり、金には淮水の線がギリギリだったのだと思います)。
金軍ですが、明末清初を鑑みれば、長江以南の政治的統一が維持されていない場合、勢力を盛り返して渡河できていた可能性もありますね。この意味では軍閥の強大化を防いだ秦檜の功績はありそうです。
なにしろ岳飛王朝が成立した場合、良くてたがの緩んだ軍閥連合政権と化し、下手すれば金国を前にして内戦発生。とても統制の取れた戦争指導が行われたとは思えませんので。
>
> 自分は宋は唯一中華思想から抜け出し、対等外交を出来た国なのだと思います。例え屈辱外交だとしても、交渉によって得た平和は尊いですからね。結局、契丹も金も歳幣として貰っていた中国の物品に素朴さと兵の強さを奪われて国を滅ぼしてしまいましたからね…。
> コレがストイックな中華主義国家であった明であれば、また話は違うんでしょうけど…。
宋が中華思想を抜け出したというのはちょっと納得できません。ああ、宣和堂さんに中国史関連で反論するという無謀な私(笑)
なにしろ中華思想の権化とも言うべき朱子学はこの時代に成立したわけですから。中華思想を堅持しつつ、現実に敗北を重ね続けたコンプレックスの時代だったと私は思っています。
> 細かいことですが、元とモンゴル帝国は似て異なるモノです。
これは同意です。ただ広義のモンゴル帝国の範疇には入るかもしれません。 元朝は一応モンゴル諸汗国の宗家という立場だったように思います。