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- board4 - No.6276
正統性は血を欲す
- 投稿者:新Q太郎
- 2005年02月27日(日) 11時39分
私はちょっと間をおいてまとめ読みをしているので、古い話題で恐縮。久々に老兵登場です。
「Re:神楽さんの・・・」シリーズに関し、片方の側の主張を勝手にまとめるとこうだよね?
「トリューニヒトは(自分のエゴながら)『帝国に臣従しつつ、内部から立憲体制を漸進的に薦める』という作戦を、相当順調に進めていた。」
「それが可能なら、(脱出以降の)ヤンの徹底抗戦路線は、死者が多数出るという一点だけでも愚策、下策である」
ということですが、これは非常に合理的な議論だ、
ただ、ここで小生、今は亡き高阪正尭氏の言葉を思い出したのですね。
かつて高阪氏は田原総一朗氏の「サンデープロジェクト」でコメンテーターをやっていたのですが、この番組に「現役自衛官が生出演!!」という回がありました。
さて賛否両論ある、田原氏の突っ込みですが、この日は自衛官らに「結局、あなたは日本の『何』を守りたいの?」と尋ねた。
出演自衛官は、この番組に出るぐらいだから相当優秀な人たちなのだろうが、このある種素朴かつ乱暴な「田原流」の質問にやや同様、自由な体制、とか国土、とか、やや暴走?して「皇室」という人まで(笑)。
そのとき、故高阪氏は「きみたち、『主権』を守るんだと言えばいいやん。なんでそう言わないの?」と穏やかに、しかしキッパリと助け舟を出したのでした。
しかし、じゃあ「主権」って何なの?と。
(続く・・・かなあ。みな慧眼だし、これで言いたいこと判るだろうし)
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- board4 - No.6277
我が命、フィクションの為に
- 投稿者:新Q太郎
- 2005年02月27日(日) 12時16分
呉智英氏の処女作「封建主義者かく語りき」でも触れられているんだけど、「基本的人権」とか「平和主義」以上に、「国民主権」ちゅーのは判りにくい。要は「持ち主」が誰かということを決めるものだけど、呉智英氏は「貸し家と持ち家」に例えた。
住み心地のいい借家もあれば、すみにくい持ち家もあるように、主権というのは一種気の持ちようでしかない面もある。
しかし、その「主権」のために、命を賭けて闘う場合もある。
一応、ヤン一派はかろうじて同盟が存続していたころに不正規隊を結成し、その後は帝国と戦ったのだから「皇帝陛下の臣民」であった時代はないんだよね。(和平後はどうかな?)
つまり、いかに血を流そうが戦火に人々を叩き込もうが、結局彼らは「主権」というか「自分は皇帝陛下の臣民ではない、一共和国国民である」という。目に見えない、そして実益も実害も無いことのために命を賭けたのではないか? とアタシは考えているんですね。
そして、それは必ずしも無駄ではない。「実害」に関係なく、「我らの国土は独立国である」「我らは自由な●●国の市民、国民である」「XX国の国民にはあらず」という部分で妥協することが大いなる災いをもたらすというのは、例えば台湾の現状を想起してもらえばわかるのではないか。
高阪氏が、自衛官が自他の命を犠牲にしても守るべきものは「主権」だといった意味も、ここにあると思う。
ただ、こう異論を述べる人もいるかもしれない。
「ヤンはバーラト和約で年金生活中、プランの中で『独立は気にしない、結果的に民主体制が残ればいい』と言って『国の独立』を主張する人を否定してなかった?」
うん、実は、ヤンは結局その後の行動によって、あのプランが新婚生活でホヤヤけて書きなぐった(笑)空論プランであったことを認めた、とアタシは考えているのです。
結局、命をかけて、部下に犠牲を強いても、彼は「対等の存在として」帝国に対峙しなければならなかった。干戈を交えるとき、勢力が1対1000でも、ボロ負けしたとしても彼らは”対等”であり”独立”している。そんなフィクションを、彼らは部下の命と引き換える価値があると実は見做している。
そして、それは間違いではない。ヤンが軽蔑していた「国の永遠」をうたい上げる”愛国者”と、フィクションに依拠する点では同類項であるけれども。
これはヤンを貶めるのではなく、この作品で悪役を熱演した”いわゆる愛国者”が、実際のところはもう少し存在価値のあるものだということです。
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- board4 - No.6279
Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点
- 投稿者:黒崎
- 2005年02月27日(日) 19時52分
冒険風ライダーさん、レスいただいてありがとうございます。
>いかなる格差が存在しているのか、私にはさっぱり理解できないのですけど。
歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるものですよね?この点は「歴史授業とは関係のない人物の話や、歴史上におけるエピソードを挿入してみる」ことが、教え方の工夫として望ましいと仰っておられたので、共通認識になるかと思うのですが、その点を踏まえれば、同じ一夜漬けにしても、触れる内容がただの暗記であるのと、多少でも教科書に書かれているような事実だけでなく、それに肉付けし幅を持たせた内容を、考えさせたり書かせたりするのとでは、違いがでると、私は考えます。
以下は余談ですが、冒険風ライダーさんは人のノートを丸写ししたことがおありでしょうか?不正行為を相当に憎まれているご様子ですから、おそらくないのでは?と推察しておりますが、機械のように一心不乱に写すだけならば、数時間かもしれませんが、いくら試験前とはいっても、通常はそうはいきません、おそらく読みにくい他人の字、興味のない分野ですからなおさらです。退屈で苦痛ですから、集中するのは簡単ではないでしょう。思うより手間隙を食う作業ですよ。病気などで休んだ授業の分を写させてもらうだけでも、結構な手間ですから。また、ばれないような工夫というのは、それこそ無駄な方向の努力ですから、省いてしまって問題はない。
そもそも、個人的には試験で高い点を取ることなど、本質的にはたいして意味がないことだと思います。
設定されたテーマについて考えたり、調べたり、意見を発表したり、人物やエピソードについて興味を持ったり、「おもしろいな」と感じたりすることにこそ意味があるので、そういう経験こそが後の財産になるわけです。
ですから、「もし」不正行為に無頓着な教師で、学級にカンニングが横行したとしても、その教師が平素いい授業をしていれば、それまで歴史に興味を持っていなかった生徒にも、歴史の面白さを伝えられる可能性をもっていると言えます。それは受験技術を生徒に叩き込むエキスパートで、カンニングを見抜く天才的なセンスを持ち、絶対に不正を許さない教師より、遥に価値と可能性をもっているといえます。
そもそも、不正行為が横行すると学習意欲を削ぐと仰いますが、歴史の勉強、ひいては歴史の試験をクリアするための勉強がつまらないからこそ、多くの生徒が歴史を嫌いになるのです。面白いと思わせることさえできれば、きっかけさえ巧く提供できれば、試験などなくても、いろんな本を読み、調べ、出かけていくようになるものでしょう?試験で高い得点を取ったから歴史を得意である・・・という人はいるでしょうが、高い得点を取れたから歴史が好きで面白いと思う・・・というのは違います。極論を申しますが、試験勉強の意欲など削がれてもかまわないのです。
その分野に対して興味を持ち、面白いと感じ、調べたり考えたりしたことは、直接的でなくてもその人の中に根付き、財産になりますが、試験のためのテクニックは試験が終わればクリアされてしまうだけのものでしかありません。
先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。
> 第一、このような論法を使えば、カンニングという行為だって「実に多くのステップを要しています。思考し、書き取ることが必要とされるからです」ということになってしまうのではありませんか? すくなくともカンニングで点数を稼ごうとする人は、「単位さえ取得できればいいという生徒」よりは、盗み見るであろう解答集を作成する手間を惜しまないでしょうし、カンニング行為がばれないような知恵を必死になって「思考」することでしょうからね。
その通りです、私はカンニングをした生徒と、そうでない生徒では評価の仕方を変えるべきだと思っていますが、カンニングしようとすることは、相応の努力を要し、ある程度の学習効果があると考えます。
> そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。それこそ「古代ギリシアの都市国家について述べよ」というような「広範な知識・情報を求めるもの」であっても、たった一行か二行、下手すれば10~15文字程度で終わらせてしまうような解答集を作って配布すれば、多くの生徒はそれをただひたすら「何も考えず機械的に」丸写しさえすれば良く、あなたの言う「実に多くのステップを要して……」という過程すらすっ飛ばすことができてしまいます。これでは「一夜漬けの丸暗記」などよりもはるかに、生徒の学習意欲を殺がれてしまうことにもなりかねないでしょうね。
確かにそういう手段でクリアしようとする生徒も現れるでしょう、しかし、10~15文字(?)最低限で終わらせられたものと、解答欄一杯に多くの言葉と努力、情熱を費やされたものとでは、明らかに得点(評価)に差をつけることができます。マルかバツかではない、論述問題なのですから。 最低限の内容しか書かれていなければ、最低限の評価しかしない、努力が得点に反映されるということは、興味を持ち頑張った生徒をがっかりさせることにはならないでしょう。
確かに始のやり方は理想主義的であり、高校生は知恵が回ります。が、多感で、きっかけひとつで考え方が変わったり、成長したり、関心を持ってくれたりする時期でもあります。受験をクリアするための技術訓練より、受験には求められないさまざまな「余分な」知識や経験が、より重要であると思います。
選択科目の評価は「社会科」でなく、科目名が空欄で、そこに選択した分野が書かれる(社会科であれば世界史・日本史・地理・政経)、だと思います。少なくとも私の通った都立高校はそうでした。
ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。
また、私が「およそ同じになるようにすればいい」と申し上げたのは、バランスを重視するのであれば、やりようはある、という主旨であって、別の教師がそれぞれの科目について評価をくだす以上、まったくの公平はありえません、また、点数の稼ぎ易さについても、人によっては日本史(従来の試験方法)の方がやりやすいでしょう。私自身は、それぞれの教師が個々の判断基準で評価を決定すればいいと思っております。
もちろん、合計得点で切り捨てられるセンター試験などでは、極力科目間の格差がなくなるようにバランスに気を使う必要があります。しかしここで取り上げているのは学内の定期考査ですから、まったく重要な問題ではないと考えます。
> それで仮にノート丸写しの実態が明るみに出たとして、では教師側は一体どういう理由でもって生徒に処罰を与えるのですか? 「自筆ノート持ち込み可」を認証しているのは他ならぬ教師側ですから「カンニング行為だからダメ」という論法は当然使えませんし、記述式だから同一の解答が複数個出たらダメ、ではあまりにも横暴というものです。
丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。
>「生徒に歴史の面白さを感じてもらえるように工夫」さえすれば「授業内容が受験対策に向かないということへの苦情」を無視し、かつ「不正行為の横行」を許しても良い、ということにはもちろんなりませんよね。それが答えなのではありませんか?
教え方をこそ工夫すべきである、と仰っておられたので、「優等生からの不満」というだけで始の努力を無視してらっしゃるのかと思い、このように申し上げました。また、受験対策に向かないという授業内容ですが、歴史の面白さを教えたいと思い、それを重視して構成すれば、それは絶対に犠牲になるものです。論述に慣れることで2次試験ではプラスになるかもしれませんけども。また、本来、高校というのは大学受験のための訓練機関ではありませんし、「センター試験世界史」という題目ではありません、従って、授業内容は担当する教師が決定してよいと考えます。受験対策に向かないという非難の方が筋違いです。受験のために特化した指導は、その専門職である予備校や塾に任せておけばよろしいと考えます。
他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。
従来一般的な教育ならびに受験技術訓練と、理想主義的教育と、どちら寄りに教師が立っても、手を抜こうとする生徒は精一杯手を抜きますし、要領よく(ずるく)切り抜ける生徒は現れるでしょう。仰っておられたように、高校生は愚鈍ではありませんから。「歴史の面白さ」を伝えたいという立場に立てば、どちらがベターであるか、私は後者だと考えています。
「他人のノートを写し、それによって解答を構築する」ことが不正行為であると断罪なさるのであれば、それはどちらの教育・試験方法であっても、発生すること自体は変わりません。単語と数字を一時的に頭につめこんで、忘れないうちに試験に臨むのと、ノートを持ち込んで論述を書き写すことの差でしかありません。 その二つを比較した場合、どちらが「よりまし」であるか、これもやはり後者だと考えます。数字や単語を一時的に覚えることよりも、要点をまとめられた文章を書き写すことの方が、勉強になると思うからです。試験でなくレポートにしたところで、人のを写す生徒は写すでしょうし、文献を丸写しするだけの生徒だっているでしょう。どのような方法で評価を試みても、ずるいことをする生徒はあらわれるものです。
重要なことは、そうして「ずるく」立ち回った生徒と、意欲・興味を持って取り組んだ生徒とを見分け、「可」と「優」の差をつけることで、私は、これは教師の力量と努力によって可能である、と考えます。
他人のノートを丸写しし、それを元に解答を作成しても、オリジナルの作者の解答に似ることはあっても、及ぶことは稀、越えることはまずないでしょう。なぜなら、オリジナルの作者には、ノートに文章化されていない「余分な」知識が、教師の話を聞いたり、討論を取り入れた授業であれば実際に聞いた他の生徒の発言、または文献をあたる過程から身についていくからです。
カンニングを根絶することよりも、教師自身が面白いと思っていること、受験に求められないような行間の群像、さまざまな人間の願い、思い、エピソードを授業に取り入れることの方が、遥かに重要なのです。
よって、始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持します。
- 親記事No.6268スレッドの返信投稿
- board4 - No.6283
Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点
- 投稿者:蜃気楼
- 2005年02月28日(月) 14時51分
黒崎さん始めまして気になった点を3つ。
>先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。
この調査は、かなりシビアです。
正確に国の位置を示さないと不正解扱いですから。
韓国と北朝鮮の区別が付かないのは、問題だと思いますが(さすがにそんなアホは1割程度)、
イランとイラクの区別が(地理的に)つかなくても問題ないと個人的には考えます。
一般人は中東とだけ分かっていれば充分。
>調査にあたった日本地理学会の地理教育専門委員会委員長の滝沢由美子・帝京大教授(地理学)は「ほとんどの主要国で地理は必修だ。正しい世界認識を育み、国際感覚を身につけるためには最低限の地理的素養が必要で、高校での地理学習を拡充してほしい」と話している。
何のために行われた調査だったかはこれだけで明白でしょう。
地理を必修にするためです。学生が必要な知識を持っているかどうかを調査するためではありません。
(この先生方にとってはケニアの正確な位置も「必要な知識」なんでしょうけど。)
それはさておき、世間の地理教師が「竜堂式教育法」を導入したら正解率は上がるんでしょうか?
私は下がると思います。
何故なら、「国名とその位置」なんて「英単語」や「年表」と同じ「暗記系」ですから、「竜堂式教育法」がもっとも苦手とする部分です。
>丸写しだからといって、処罰を与えようなどとは申しておりません。純粋に自力の生徒と差をつければよいと申し上げてます。
丸写しの生徒には、単位をとるための最低限の努力は認め、及第点を与える。意欲・興味を持ち、努力したことがうかがえる生徒には、そのことを高く評価する。それぞれの「努力」に対してふさわしい評価をする、端的にはそういうことです。
試験とは「努力」の程度を測る制度ではありません。
あくまでも「学力」を測る制度です。
努力に努力を重ねて書いた原稿用紙数十枚に及ぶ答案が適当にでっち上げた1行に及ばないこともあります。
それでいいのです。
「努力点」を与えてもかまいませんがあくまでもそれはお情け程度にとどめるべきです。
さらに言えば試験とは「答案がすべて」であるべきです。
オリジナルもコピーも同じ点数が与えられるべきです。
>他大学を受験しようとしている優秀な生徒さん、おそらく世間的に一流と評価されている学校を目指されているのでしょう、そのような生徒が、学校の授業をあてにしているとは、現実的に考えにくく、文句のための文句という印象を禁じえないのですけどね。
えーと、進学校出身なんでよく分かりませんが、(学校の授業がすべてでした。)学校の授業を当てにしてないといっても、復習の役にくらいは立ってくれないと困ると思いますが?
さらに、始の場合試験でまともな点数を取ろうとすれば、受験の役に立たない労力を大量に使わされるのは目に見えています。
こんな、有害無益教師に文句を言うのは当然だと思います。
- 親記事No.6268スレッドの返信投稿
- board4 - No.6284
「竜堂始の教育法」の問題点
- 投稿者:パンツァー
- 2005年02月28日(月) 15時55分
> 歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるものですよね?この点は「歴史授業とは関係のない人物の話や、歴史上におけるエピソードを挿入してみる」ことが、教え方の工夫として望ましいと仰っておられたので、共通認識になるかと思うのですが、その点を踏まえれば、同じ一夜漬けにしても、触れる内容がただの暗記であるのと、多少でも教科書に書かれているような事実だけでなく、それに肉付けし幅を持たせた内容を、考えさせたり書かせたりするのとでは、違いがでると、私は考えます。
「歴史の面白さは、抽象的な言い方になりますが、年号や事実の暗記ではなく、その行間にあるもの、背後にあるもの」
これは、ある前提条件の下では、正しいでしょうね。
どのような前提条件かと言えば、
「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
という前提条件です。
なんでもそうなのですが、面白い、という段階に達するまでには、
それに必要な知識と言うものを習得しておく必要があるのです。
野球を楽しむにしたところで、そのルールを知っているという前提条件があって初めて可能なのであって、
ヒットやホームランを打てばダイヤモンド上を走ってよく、ホームベースに到達すれば1点が入る、といった基礎知識すらなければ、まったく意味不明のイベントに過ぎません。
歴史の勉強であれば、ある程度、個々の出来事を機械的にでも学んだ後(記憶した後)でなければ、個々の出来事を有機的な関連などの面白み、を味わうことなどできないでしょう。
テストが、人のノートの丸写しで対応できるのであれば、生徒たちは、そもそも基礎知識の習得に励むこともなく、その基礎知識を前提とする「歴史の面白み」を味わう段階に、まずもって到達しそうにありませんね。
> > そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。> > そもそも、「自筆ノート持ち込み可」という竜堂始の教育法は、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」という方針とセットになっているわけですから、事前にどんな対策を打つことも可能です。
欧米の大学等では、試験時に、教材一式の持ち込みが可、とされることが多いらしいですが、これは、あくまで、基礎知識の記憶の確かさを問うことが目的なのではなく、基礎知識を前提とした思考力、想像力を問うことが目的とされるからです。
単純に比較すれば、
竜堂始の教育法:「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」ですが、
欧米の大学等の教育法:「自筆ノート持ち込み可」
といったところです。
ここで、「竜堂始の教育法」のように、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」をセットにすると、どういうことになるでしょうか。
これでは、丸写し用ノートを作成する最初の一人に関しては、思考力、想像力を必要とする努力をすることになるでしょうが、丸写し用ノートを丸写しする他の生徒たちは、なんら、思考力、想像力を必要とする作業を行いません。
これが、「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」はなく、「自筆ノート持ち込み可」のみ程度であれば、どのようなノートを生徒が持ち込むにせよ、試験場で、与えられた問題に対して、生徒たちは頭を捻らざるを得ず、教育の目的が達成されることになるでしょう。もちろん、このような試験を受けるにふさわしい生徒たちは、基礎知識の習得が、ある程度は終了していることが前提です。
> 先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。
理数科目に関しても、ひどい結果でしたね。
これは、ひとえに、それまでの「詰め込み教育」に対する対抗案としての、ここ10年くらい前より行われてきた「ゆとり教育」の失敗に過ぎないでしょう。
結局、「ゆとり教育」という名の下で、以前よりも基礎知識の習得をおろそかとされた生徒たちは、より一層、学力を低下させることになったのです。
上にも述べたように、ゲームのルールにしたところで、最低限覚えないといけないことがあるように、勉強の類の場合は特に、ある程度の知識は、詰め込みであろうがなんであろうが、覚えこんでしまわないと、面白いなどという段階に到達できないことが、往々にしてあるのです。
逆にアメリカなどは、パパブッシュ、クリントン大統領の時代に、ハイスクール以下において、「詰め込み教育」を導入する方針を打ち立てましたが、現在のところ、その成果が上がってきている、という現実があります。
> 確かに始のやり方は理想主義的であり、高校生は知恵が回ります。が、多感で、きっかけひとつで考え方が変わったり、成長したり、関心を持ってくれたりする時期でもあります。受験をクリアするための技術訓練より、受験には求められないさまざまな「余分な」知識や経験が、より重要であると思います。
これなんですけど、これだけ生涯教育が叫ばれ、試験、資格の類が、世の中に溢れる時代となった今、「受験をクリアするための技術訓練」、これはかなり重要です。
いかに要領よく本質を押さえるか、これは、学校教育の段階でぜひ、習得しておくべき能力であるに違いありません。
「勉強の仕方」、これを教えてもらえたら、将来、何を勉強するにせよ、大いに役に立つことでしょう。
> ここで全国模試を引き合いに出す意味がわかりません。ここでの歴史教育の目的は全国模試の順位を争うことではないですよね。学内での順位を争うことでもない。そして、推薦を狙うというのでなければ、落第でもしないかぎり学内考査の得点や学期末ごとの評価は殆ど問題になりません。
センター試験のような全国模試だけでなく、学内の試験であっても、総合順位を出すには、各学科の点数を合計して総得点を算出し、その総得点の大小で決定するものではないでしょうか。
そうすれば、総得点を出す上で、各教科の格差が大きくなるほど、総得点に基づく総合順位が怪しくなってくることになるでしょう。総合順位が高いにもかかわらず学力は低いなど言った状況を、生徒が誤解する恐れもあります。さらには、教科選択において、「歴史」が順位上有利、となれば、生徒がその有利点のみを参考にして「歴史」を選択するなど、より生徒の興味や適性に基づく教科選択から外れる結果を招く恐れもあるでしょう。
> カンニングを根絶することよりも、教師自身が面白いと思っていること、受験に求められないような行間の群像、さまざまな人間の願い、思い、エピソードを授業に取り入れることの方が、遥かに重要なのです。
> よって、始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持します。
授業を面白くするのは、教師の力の見せ所でしょう。
授業自体に関しては、必ずしも、基礎知識の暗記の場、である必要などありません。
しかし、問題になっているのは、
竜堂始の教育法:「自筆ノート持ち込み可」+「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」
では、なかったでしょうか?
上にも述べたように、
「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」と言うこと自体、
ごく一部の生徒(ノートを作成する生徒)を除いて、生徒の思考力や想像力を全然殺す作用を及ぼすために、望ましくないことです。
また、「自筆ノート持ち込み可」は、
高校以下のような基礎知識の習得段階においては、その習得を妨げる作用の方が大きく、一般的に望ましくないことでしょう。黙っていても、基礎知識を勝手に習得してくれるような優秀な生徒たちの集団において、なら別でしょうが。
したがって、
「始の理想主義的な試験方法を、従来一般的なやり方よりも、支持」
することは難しいですね。
- 親記事No.6268スレッドの返信投稿
- board4 - No.6285
Re:Re6268:「自筆ノート持ち込み可」の問題点
- 投稿者:黒崎
- 2005年02月28日(月) 16時51分
はじめまして^^
地理学会の方であれば、近年学校教育において地理や歴史は冷遇されてきました(時間削減など)から、そのように(地理の時間増や必修化)主張されるのは理解できます。私の頃はまだ地理も必修だったのです^^;
それはともかく、私としては、従来の教育方法は歴史や地理への興味を削ぎ、よって知識も身についていない、社会情勢、社会現象としてあれほど騒がれても、その国や地域がどこにあるのかわからない・・・という主旨で申し上げたのですが、確かに始のような指導をし、それがうまくいったとしても、正答率があがるというものではないかもしれませんね。
しかし、下がるという推論も確かではないと思います。その理由は、関心を持たせることに成功すれば、自分で調べたり、知ろうとしたりします。そうして知ったことは、試験のための暗記で覚えこんだことよりも、身につき、残るからです。
アフリカの人々の暮らしや文化に興味をもって学んだ人にとっては、ケニアの地勢や主要な都市名、民族、言語、そういったことは「暗記」ではなくなっているでしょう。
> 試験とは「努力」の程度を測る制度ではありません。
> あくまでも「学力」を測る制度です。
> 努力に努力を重ねて書いた原稿用紙数十枚に及ぶ答案が適当にでっち上げた1行に及ばないこともあります。
> それでいいのです。
> 「努力点」を与えてもかまいませんがあくまでもそれはお情け程度にとどめるべきです。
> さらに言えば試験とは「答案がすべて」であるべきです。
> オリジナルもコピーも同じ点数が与えられるべきです。
入学選抜試験や資格認定試験ということであれば、私も、答案が全て、ということでよろしいかと思います。
しかしながら、学内の定期考査ということですので、私は努力点に高い評価を与える方針を是とします。
模試のように順位付けを目的としたものではなく、その学期、期間で、その生徒がどの程度学んだか、どんなことを身に付けたか、といった確認が主目的です。
また、先にも述べましたが、基準に達しないものを振り落とすために行う試験ではないのです。救うための試験なのです。
試験をクリアすることで単位として認定される、そのことを動機づけとして、学んだことを再確認したり、あぴーるしたりする機会です。
そして、指導方針が「歴史の面白さを伝える・一人でも多くの生徒に意欲・興味を持ってもらう」ということですから、適当にでっち上げた一行が、一生懸命さがひしひしと伝わってくる原稿用紙数十枚の答案に優ることはありません。
では文句を言ったのは蜃気楼さんのような方だったかもしれませんね。
高等学校の役割を、大学へ進学するための準備・訓練としか捉えないのであれば、「有害無益」ということになるのでしょう。
そのことを前面に打ち出した「進学校」、そして「そのために」その学校を選んだ人にとっては、無駄な労力でしかないのかもしれません。
しかしながら、本来、高等学校は大学進学のための予備校ではありません。大学へ進めば選んだ専門以外はなかなか学べません、教養科目も一応はありますが、講師は多くが「研究者」としては優秀でも、「教育」の訓練を受けていない人が殆どです(大学の講師になるのに教員免許はいりません)し、内容はその講師の専門に偏ります、総合的に学ぶことの出来る最後の場と言うことができると思います。
また、作中の共和学院の理念?からしても、受験技術を訓練するだけの授業の方こそ、否定されるものです。
受験の役に立たない→有害無益、としか思われないことは、とても残念なことだと思います。
それでも、そうした目的しか持てない生徒にも、始のやり方ならば逃げ道があるわけです。歴史が好きな、或は生真面目な人に渡りをつけ、ノートを確保し、最低限の解答を構築しておけば、単位は出ます。通常の試験より「楽に」「余分な科目」をクリアできるわけです。
もちろんそれを推奨したりはできませんし、教師としてはとても残念なことですが。
試験とは答案が全てだ、とし、努力ではなく結果だ、ということならば、教師の印象や主観に左右される推薦枠などあてにしないでしょうから、予備校にいくなり、夏期・冬期講習を受けるなり、予備校の人気講師が出している参考書を学ぶなり、いくらでも受験に特化した訓練は出来るでしょう。
また、一クラス50人いれば、それぞれの志望があるわけで、その皆に効果的な受験勉強を、少ない時間で行おう(選択世界史に与えられる時間などたかがしれていますから)というのは土台無理な話です。
これが予備校のように「センター試験世界史」「関関同立コース」「国公立A・B」などのように、志望別、学力別に編成したクラスであれば、また事情は異なるわけですけれど。
受験の役立たないから無駄だ、というのは現代の教育の失敗、悪い側面だと私は思っておりますので、文句をいうのが当然だ、学内の試験でも答案が全てであるべきだ、という意見には同意できません。
- 親記事No.6223スレッドの返信投稿
- board4 - No.6286
Re6277:ヤンの本音とは
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2005年02月28日(月) 18時17分
<つまり、いかに血を流そうが戦火に人々を叩き込もうが、結局彼らは「主権」というか「自分は皇帝陛下の臣民ではない、一共和国国民である」という。目に見えない、そして実益も実害も無いことのために命を賭けたのではないか? とアタシは考えているんですね。>
<ただ、こう異論を述べる人もいるかもしれない。
「ヤンはバーラト和約で年金生活中、プランの中で『独立は気にしない、結果的に民主体制が残ればいい』と言って『国の独立』を主張する人を否定してなかった?」
うん、実は、ヤンは結局その後の行動によって、あのプランが新婚生活でホヤヤけて書きなぐった(笑)空論プランであったことを認めた、とアタシは考えているのです。>
新Q太郎さんはおそらく全て承知の上で、意図的かつ確信犯的に自説をヤンの行動に当てはめて述べていらっしゃるのだと思いますけど、残念ながら、その推論が銀英伝に適用されることは、作中事実から鑑みて絶望的なまでにありえない話でしょうね。
何しろヤンは、銀英伝8巻のあの愚かしい「回廊の戦い」時においてさえ、以下のような理由で自らの戦争行為の正当化を行っていたわけですから↓
銀英伝8巻 P33下段~P35上段
<近づく決戦を前に、ヤンは自分の立場を再確認していた。自分はなぜ戦うのか。どうして皇帝ラインハルトから、自治領の成立という約束をもぎとらねばならないのか。
それは、民主主義の基本理念と、制度と、それを運用する方法とに関して、知識を後世に伝えなくてはならないからだ。たとえどれほどささやかであっても、そのための拠点が必要なのだ。
専制政治が一時の勝利を占めたとしても、時が経過し世代が交代すれば、まず支配者層の自律性がくずれる。誰からも批判されず、誰からも処罰されず、自省の知的根拠を与えられない者は、自我を加速させ、暴走させるようになる。専制支配者を処罰する者はいない――誰からも処罰されることのない人物こそが、専制支配者なのだから。そして、ルドルフ大帝のような、ジギスムント痴愚帝のような、アウグスト流血帝のような人物が、絶対権力というローラーで人民をひきつぶし、歴史の舗道を赤黒く染色する。
そのような社会に疑問をいだく人間が、いずれ出現する。そのとき、専制政治と異なる社会体制のモデルが現存していれば、彼らの苦悩や試行錯誤の期間をみじかくしてやれるのではないか。
それはささやかな希望の種子でしかない。かつて自由惑星同盟が呼号したような「専制主義に死を、民主主義よ、永遠なれ」というような壮大な叫びではない。ヤンは政治体制の永遠を信じてはいなかった。
人間の心に二面性が存在する以上、民主政治と専制・独裁政治も時空軸上に並立する。どれほど民主主義が隆盛を誇っているかのような時代でも、専制政治を望む人々はいた。他者を支配する欲望によるだけではなく、他者から支配され服従することを望む人がいたのだ。そのほうが楽なのだ。してもよいことと、やってはいけないことを教えてもらい、指導と命令に服従していれば、手のとどく範囲で安定と幸福を与えてもらえる。それで満足する生きかたもあるだろう。だが、柵の内部だけで自由と生存を認められた家畜は、いつの日か、殺されて飼育者の食卓に上らされるのである。
専制政治による権力悪が、民主政治におけるそれより兇暴である理由は、それを批判する権利と矯正する資格とが、法と制度によって確立されていないからである。ヤン・ウェンリーは国家元首であるヨブ・トリューニヒトとその一党をしばしば辛辣に批判したが、それを理由として法的に処罰されたことはない。いやがらせを受けたことは一再ではないが、そのたびに何か別の理由を見つける必要が、権力者にはあった。それはひとえに、民主共和政治の建前――言論の自由のおかげである。制度上の建前というものは尊重されるべきであろう。それは権力者の暴走を阻止する最大の武器であり、弱者の甲冑であるのだから。その建前の存在を後世に伝えるために、ヤンはあえて個人的な敬愛の念をすてて専制主義と戦わねばならないのだ。>
これのどこに、新Q太郎さんの仰る「目に見えない、そして実益も実害も無いことのために命を賭けた」という要素が存在するのでしょうか? 「回廊の戦い」でヤンが自らに課した使命とは、上で述べられているように「民主主義の基本理念と、制度と、それを運用する方法とに関して、知識を後世に伝えなくてはならない」というものであり、そのためにヤンは「全宇宙に皇帝ラインハルトとローエングラム王朝の宗主権を認め」た上で「内政自治権を有する民主共和政の一惑星の存在を認めさせよう」という戦略構想(と呼べるかどうかも怪しいシロモノ)を作り上げたわけです。
そして、もしヤンが本当に「【主権】を守るために戦う」などと本気で考えていたのであれば、こんな述懐を「回廊の戦い」時に紡ぎ出すものですかね↓
銀英伝8巻 P36下段~P37上段
<ヤンの構想は、およそ大それたものである。戦術レベルの勝利によってラインハルトを講和に引きずりこみ、内政自治権を有する民主共和政の一惑星の存在を認めさせようというのだ。それはエル・ファシルでもよい、もっと辺境の未開の惑星でもよい。その惑星を除いた全宇宙を専制の冬が支配するとき、ひ弱な民主政の芽を育てる小さな温室が必要なのだ。芽が成長し、試練にたえる力がたくわえられるまで。
それにはラインハルトに勝たなければならないとヤンは思うのだが、あるいは負けたほうがむしろよいのだろうか。ヤンが敗北した後には、ラインハルトはヤンにしたがった将兵たちを厚く遇するだろう。最高の礼をもって彼らを送りだし、彼ら個々人の将来に関するかぎり放任してくれるだろう。
あるいは、ほんとうにそのほうがよいのかもしれない。ヤンにできることには限界があり、ヤンの存在がないほうが、彼の部下たちにとって未来は豊かさをますのではないか。>
自分が敗北し、歴史上から姿を消すことでラインハルトに部下達の命運を委ね、その庇護の下で「未来の豊かさ」を保障する――こんな考え方は、新Q太郎さんが主張する、
<結局、命をかけて、部下に犠牲を強いても、彼は「対等の存在として」帝国に対峙しなければならなかった。干戈を交えるとき、勢力が1対1000でも、ボロ負けしたとしても彼らは"対等"であり"独立"している。そんなフィクションを、彼らは部下の命と引き換える価値があると実は見做している。>
という概念とは当然全く相容れないものです。ヤンが「回廊の戦い」に関して「部下の命と引き換える価値があると実は見做している」などという推論は、これらの「ヤンが作中で開陳している思想信条」から見ても到底考えられるものではないでしょう。
また、新Q太郎さん自身も認めていらっしゃるようですけど、この「【彼らは"対等"であり"独立"している】というフィクション」などという発想は、ヤンが全否定的な評価を下している「愛国主義者」が抱くものと全く同一線上に存在するものですし、そもそもヤンはそういう考え方を「(願望の強力なものにすぎず、なんら客観的な根拠を持つものではない)信念」として徹底的に毛嫌いするような性格および思想信条を有しているはずなのですがね。そのヤンが突然、何の説明もなしに「転向」したというのであれば、言っては悪いですけどそれは「創竜伝における竜堂兄弟のバカさ加減およびダブルスタンダード」と同レベル以下のシロモノでしかありえないでしょう。
それに「目に見えない、そして実益も実害も無いことのために命を賭け」ることの意義は認めるにせよ、それもある程度は「勝算」というものが成り立って初めて生きてくるものでしょう。何度も言われているように「回廊の戦い」でヤンがラインハルトに対して「自力で」戦略目標を達成できる可能性は、彼我の絶望的戦力・戦略的格差から言っても、ヤンの誇大妄想的な見通しの甘さから考えてもゼロとしか評価のしようがありません。はっきり言いますが、あの状況でヤン側が「目に見えない、そして実益も実害も無いことのために命を賭け」て「回廊の戦い」に身を投じるなど「自殺行為」かつ「無駄死に」以外の何物でもないのです。