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投稿ログ366 (No.6294 - No.6299)

親記事No.6291スレッドの返信投稿
board4 - No.6294

銀河帝国のフェザーン自治領奪還作戦における戦闘序列 その一

投稿者:一学徒(管理人転載)
2005年03月01日(火) 15時18分

今回は、前回の予告どおり、銀河帝国フェザーン自治領奪還軍についての論述を行う。

ここで為された、興味深い思考実験がある。
自由惑星同盟が軍を持ってフェザーンに侵攻し、これを攻略した場合、銀河帝国宇宙艦隊副司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム伯爵元帥に奪還の勅命が下る。イゼルローン回廊失陥よりも重大な事態であり、自国が承認した自治領への侵攻であるから、これは優先される。
後方に控えた国務尚書リヒテンラーデ侯や、帝国軍三長官は、出兵したラインハルト軍に対して、軍事的支援を行わず、兵力で劣るラインハルト軍は、豊富な物資を有する根拠地を得た自由惑星同盟軍との戦いに奔命させられ、疲労困憊の末、皇帝崩御の事態に遭遇し、奪還の実無く帰還を命じられ、処罰されて終わる――。
自由惑星同盟軍の征服や侵略の実態を考慮すると、このような想定の前提が成り立つ事すら考えがたい事は既に論述したが、それ以上に、殊更常識的に考えがたいのは、過小な兵力で、ラインハルト軍が敵前孤立する事だろう。
ここに至る前の時空間に戻ってみよう。
ヤン・ウェンリーによるイゼルローン要塞無血占領という、劇的な事態が発生し、イゼルローン回廊は自由惑星同盟軍によって陥落した。これに接して、帝国軍三長官は全員が同時に、引責辞任を表明している。
だが、これはラインハルトの提案により、撤回された。
奇矯なる「銀河帝国」では、この事実が等閑視される。まるでその後起きたフェザーン回廊失陥の全責任が、宇宙艦隊副司令長官ラインハルト・フォン・ローエングラム伯爵元帥に課せられたかのように、勅命が下る。直隷の軍のみを以って、フェザーン逆侵攻を実施せよ。遅滞は許されない。
当然、かような事が、まともな国家で起こりえるはずも無い。
一方の回廊が失陥した際に下位者からの助言で引責を免れた重臣が、もう一方の回廊を失陥した際にはその下位者自身を頤使して奔命せしめ、自滅させる――。
これが栄光ある「銀河帝国」諸侯の為し様なのだ。かような重臣が帝権を輔弼してよくぞ五世紀も命脈を保ちえた、と、いっそ賞賛したくなる。
夜郎自大の為した厚顔無恥の生きた実例として、百科事典にさえ掲載されるだろう。
無論現実の銀河帝国では、かような厚顔無恥は通用しない。
アムリッツァ会戦後、宇宙艦隊司令長官グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー元帥は辞任する。
政治的理由での辞任であり、また彼自身、内戦に巻き込まれる事を恐れてした、文字通りの現役引退であるが、無論、国権と軍権の中では当然の辞任でもある。
上位者がした失態の結果生じた国家領域の侵害を、下位者が克服したのだ。
下位者の功を報いる以上に、上位者の罪を罰する為の人事である。
結果、空位となった宇宙艦隊司令長官は、功労者に与えられる。
銀河帝国軍宇宙艦隊司令長官、ラインハルト・フォン・ローエングラム侯爵元帥の誕生である。
さて、本論に戻ろう。
現実の銀河帝国で、国権と軍権の中で、同盟軍のフェザーン回廊占拠という事態を、帝国軍三長官が責任を負わぬはずも無い。なればこその権力であり、地位なのだ。
当然、皇帝フリードリヒ4世は、これを踏まえて勅令を発する。
帝国軍三長官は軍を直率してフェザーン自治領を奪還せよ。他に優先して、可及的速やかに。
また、皇帝の代理人として、国務尚書はこれに同行し、その職権を以って政軍の統一を果たして、フェザーン自治領奪還を効率たらしめよ。
さらに、宇宙艦隊副司令長官は、直率する軍を以って帝都オーディンに残留して叛乱軍のイゼルローン回廊方面からの侵攻に備えよ。
なお、委細は軍三長官と国務尚書に一任する。
……この結果、軍三長官と門閥貴族軍はフェザーン回廊周辺に結集する。なぜ門閥貴族軍なのか。それこそが、政軍統一の実を為す為にリヒテンラーデ侯が派遣された所以なのだ。
国家の総力を挙げ、フェザーン自治領を回復しなくてはならない勅命の下令により、文字通り、可能な限りの兵力を、フェザーンに結集せざるを得ない。数のみ充たして編成上混乱した門閥貴族軍を巧みに調整・統制するには、軍権を掌握する三長官のみでは不足である。国務尚書の手腕が必要になる。
一方のラインハルト軍は、勅命ある限り忠実に帝都警護を行う為、前線には出兵出来ない。無論、過小な兵力しかないラインハルト軍は援軍など送らない。否、送れない。勅命では、副司令長官は直率の軍を以って帝都守護を為す事を求めているのだ! いわば高みの見物である。
これが想定され得る、現実の銀河帝国軍の戦闘序列なのだ。
(もはやこう評してよかろう)エセ思考実験とは逆に、現実は、ラインハルト軍が戦力を温存し、門閥貴族軍が大損害を被る!
無論、奪還の如何を問わず、三長官は辞任する。一方の回廊が失陥した際に、もう一方の回廊が失陥する事に対策しなかったのは明らかな三長官の失策である。この罪を問うに、辞任以外の何かがあるだろうか。
あげく、帝国軍で最初に皇帝死没の事実に接するのは、ラインハルト・フォン・ローエングラムとなる。この事態ははなはだ大きい。

今回、件名にはあえて、その一と記した。
無論、ラインハルト軍がその総力を挙げて「自由惑星同盟軍」からフェザーン自治領を奪還しなくてはならない事態も想定される。
次回は、エセ思考実験の参加者諸氏が熱望して止まない、ラインハルト軍によるフェザーン奪還作戦における戦闘序列を考えてみたい。
……フェザーン回廊は、同盟軍の死屍で舗装されたり……

親記事No.6291スレッドの返信投稿
board4 - No.6295

銀河帝国のフェザーン自治領奪還作戦における戦闘序列 その二

投稿者:一学徒(管理人転載)
2005年03月01日(火) 15時19分

前回、銀河帝国が取り得るフェザーン自治領奪還作戦時の人事を論述してみた。無論、それまでの三長官と国務尚書への懲罰的な出兵の勅命が出ず、ラインハルトに奪還の勅命が下る可能性も否定は出来ない。
この場合についての論述を行う。

フェザーン回廊失陥は、イゼルローン回廊失陥から敷衍して発生した事態ではない。しかし、一方の回廊が「外敵」によって陥落した場合、もう一方の回廊への「外敵」の攻撃が行われる可能性は考慮されるべきであったかも知れない。そう判断されれば、国家の要職にある者が、その責任を問われるのは当然であろう。
重大な事態の発生に、帝国軍三長官は辞任に追いやられる。またこの際、リヒテンラーデ国務尚書の辞任も考えられるが、もう一つの可能性として、史実に先んじて、宰相として国政の全権を握る可能性もある。リヒテンラーデは皇帝の寵臣で、かつ最も信頼された人物でもあるからだ。
空席となった三長官の内、宇宙艦隊司令長官はラインハルトが任命される。作戦については全権が委任される。
他の長官職を誰が占めるか、おそらくそれは政治的に中立と考えられる人間で、年功序列に基づいて任命され、ラインハルトの実権を侵害しない人物、あるいはラインハルトの独裁的作戦遂行を支援する人物が選ばれる。
ラインハルトは、宇宙艦隊副司令長官に、ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ上級大将を任用する。その配下には、諸侯軍を配置する。そして、勅命によって副司令長官は帝都オーディン守護を命じられる。
ラインハルト軍を中核とする宇宙艦隊は、全力を挙げてフェザーンに向けて出撃する。
――帝都守備にメルカッツを置いて大丈夫か。あるいはキルヒアイスを副司令長官にして配置すべきではないか。
後者の場合、人事的ないくつかの問題が生じる。三長官を実質的にラインハルト寄りの人間で占めた場合、ラインハルト軍のナンバーツーたるキルヒアイスが副司令長官になるのは帝国の既存秩序への配慮上、好ましい事ではない。また、司令長官が「外敵」との最前線に出た場合、副司令長官は帝都に残って、司令長官に万一の事があった場合の、軍の指揮権掌握を図らねばならない。
その為、キルヒアイスを副司令長官として、最前線に同行させる訳には行かない。かといって、同職に任命して帝都に残しても、諸侯の私兵を統帥下に置くには不安が残る。平民の副司令長官に従わない諸侯の存在は当然考えねばならない。何より人的資源の無駄使いだ。
その点、メルカッツならば、軍歴と実績から副司令長官としても十分。ラインハルトの与党ではないので政治的配慮にも適合される。また、帝国随一の宿将である彼ならば、諸侯軍を統帥して帝都守備を行う程度ならば難無くこなせる。また、諸侯も彼の指揮下でならば一定の従属をする。副司令長官職は勅命によって下されるから、当人も政治的配慮から拒否する事は考えられない。何より、彼は政治的野心が無いからラインハルトとしても皇帝の身を擁して権力を振るうとの心配が無い。私心の無いメルカッツならば安心できる。
ほう、では私心がありすぎる諸侯達の私兵が帝都を守備するのは良いのか。帝都が混乱して、後顧の憂いだらけだ。
軍の実権はラインハルトが統括している。帝都が混乱しても作戦指導には影響が無い。実際の兵站補給線はメルカッツなど、中央に残した人物が保護する。混乱の極、皇帝の身を武力で抑え、勅命を以って自己の権力を確立しようと図るかもしれない――その心配は無い。諸侯は他の諸侯の下風につくのを嫌う。それぞれが牽制しあい、闘争はともかく、実際の奪権は出来まい。メルカッツもいる。また、状況次第では慰留されたリヒテンラーデ宰相を敵に回す事にもなる。
あるいは乱脈の極、諸侯が相打つ状況になった場合、ラインハルトには願ったりかなったり。フェザーン奪還後、共食いで弱体化した諸侯軍を一撃で粉砕する。

さて、実戦において、フェザーン奪還を図る事が出来るかどうか。
既に論述したように、同盟はフェザーンを征服できない。そして、無理やりな侵略によって民衆を敵に回す。事と次第によっては、フェザーン市民だけでなく、同盟市民まで。同盟には反戦派が一定の数いるのだという事を忘れてはいけない。彼らが無法なフェザーン侵攻を肯定するはずも無い。
急戦してあえて損害を恐れず、早期の攻略を計るもよし。
持久して損害を避けながら、同盟軍の攻勢限界点で攻撃を図るもよし。
フェザーンに関する情報をフェザーン市民から獲得できる限り、選択権はラインハルトの手にある。
同盟軍が情報封鎖をすれば更にフェザーン市民の自由を奪わざるを得ない。不幸にも、同盟への反発が強まる。
どうあれ、帝国軍の全力を挙げた攻撃に、同盟軍の損害は尋常ならざるものとなろう。
……かくてフェザーン回廊は、叛乱軍の死屍で舗装されたり……

同盟軍がイゼルローン側から帝国領に侵攻する事は無いか。辺境領を占領下に置く事はありえる。が、それは一時的なものだ。主力軍をフェザーンで失い、フェザーン回廊からの帝国軍侵攻が考えられる事から、辺境領を撤退してこれに対応しなくてはならないだろう。しないというなら、フェザーン奪還を果たした宇宙艦隊が、返す刀で攻撃する。長駆、帝国領を侵攻した場合、帝国軍の補給線を遮断する事は、一時的には可能だろう。しかし、自身の補給線の維持もまた困難だ。同盟軍がこれに固執すれば、遠征軍は自滅する事だろう。

戦後、論功行賞で、ラインハルト侯は三長官職を独占する事になる。軍の人事は彼のほしいまま。
リヒテンラーデ公は宰相に残る。
一方、展開次第では、諸侯軍は帝都で相互不信に陥り、各個に反ラインハルト―リヒテンラーデ枢軸と対峙し――ラインハルト軍に各個撃破される。
そして最後に、ラインハルト対リヒテンラーデの対決が起きる。
歴史は、さほど変わらないのだ。

これで論述を終了したい。
現実を踏まえて議論する限り、仮想歴史を検討しても、実際の歴史とはさほど違いが無いのだ、という結論を残して。

board4 - No.6296

シリーズ投稿の注意とお願い

投稿者:本ページ管理人
2005年03月01日(火) 15時24分

今回の一学徒さんの投稿はシリーズ投稿のため、スレッド形式に修正し、転記しました。

この掲示板でのシリーズ投稿は、一番最初の投稿を親記事とし、それにレスを付ける形で行って頂きますよう、お願いします。

管理人の労力的に、転記せずに削除する場合もありますので、ぜひともご協力ください。

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6297

どのように都合の良い生徒を対象とした議論なのでしょうか?

投稿者:パンツァー
2005年03月01日(火) 15時37分

No.6268の黒崎さんの記載
<私は始の「自筆ノート持ち込み方式」が、従来の方式よりも、意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求めるという点で、優れていると考えます。>

こういう結論でしたよね、もともと。

まず、上の黒崎さんの記載で、
「意欲にかける生徒ですら労力と思考、論述を求める」
などと書いていますが、
「意欲に欠ける生徒」においては、せいぜい、「書き写す」という労力を必要とするぐらいのものであって、思考や論述に頭を使うことはないでしょう。
大学時代、やる気の無かったドイツ語を、試験だけはなんとかクリアするために、ひたすらドイツ語の教科書の日本語訳を熟読し暗記して試験場に望んだことがありましたね。試験には合格しましたけれども、こんなもの、何のドイツ語の訓練にもなりませんね。

だいたい、冒険風ライダーさんが「カンニングという逃げ道がある」と指摘している通り、大半の生徒が、このような易き流れに流される公算が高いのですよ。

No.6288の黒崎さんの記載
<>  全員が教師の願いどおりには動くわけがありません。共感し、ついてきてくれるのは半分に達すればたいしたもの、下手をすれば、皆さんの懸念されているように1割程度かもしれません。他人のまとめたものを丸写ししてしのぐだけの生徒が過半かもしれない、しかしそれでもなお、歴史(ひいては社会科)嫌いを増やすばかりだった、一律に数字や名前を暗記させるだけの授業や試験より、比較にならないくらいましである、というのが私の意見です。>

こんなことを書いていますが、
少なくとも半数以上の生徒を見捨てることが前提なのですか?

No.6279の黒崎さんの記載
< 先頃、現役の高校生・大学生が、朝鮮民主主義人民共和国やイラクの位置を4割もの高い率で間違えていたことがニュースになっていましたが、(3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑))、これが、従来の地歴教育・試験方法がもたらした結果ですよね。>

ここでは、日本の生徒の教育水準の低下を嘆いているように見えますが、上の記載と矛盾しませんか?
No.6288では、「半分に達すればたいしたもの」(半数以上を見捨てるのは止む無し)としていながら、No.6279では、「3パーセントとはいえ合衆国の位置を間違えた生徒がいたことも驚きましたが(苦笑)」などと言う風に、基礎知識の足りない生徒を嘆いていますよね。基礎知識の足りない生徒を引き上げようとする考えと、ついて来れない生徒を見捨てるべき、という考え方は、相反するものではありませんか?

相手を論破するためだけに、こういう矛盾を堂々と主張されるのは、よろしくありませんね。

だいたい、「ついてきてくれるのは半分に達すればたいしたもの、下手をすれば、皆さんの懸念されているように1割程度かもしれません」であって、「他人のまとめたものを丸写ししてしのぐだけの生徒が過半かもしれない」(カンニングを奨励するだけの結果を招いてしまう)ことを認めるのであれば、
「記述式、自筆ノート持ち込み可」という試験方式が、根本的に問題を孕んでいることを黒崎さん自身が、認めてしまっていることになりますよ。

No.6284のパンツァーの記載
<「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」と言うこと自体、
ごく一部の生徒(ノートを作成する生徒)を除いて、生徒の思考力や想像力を全然殺す作用を及ぼすために、望ましくないことです。
また、「自筆ノート持ち込み可」は、
高校以下のような基礎知識の習得段階においては、その習得を妨げる作用の方が大きく、一般的に望ましくないことでしょう。黙っていても、基礎知識を勝手に習得してくれるような優秀な生徒たちの集団において、なら別でしょうが。>


私は、結論として上のように述べました。
要は、大半の生徒は、カンニングに走るだけで、「詰め込み教育」ならば部分的にでも頭に残ったであろう知識すら習得することなく、テストをクリアしてしまう、ということです。

黒崎さんの考え方で、
非常に気になるのがですね、どうも、ごく一部の大変意欲的な生徒、を前提にした主張のようにしか、聞こえない点です。

<>  しかし、野球をやってみようと思うのは何故でしょうか?それは、公園で楽しそうに、あるいはグランドやテレビでかっこよくプレイしてる姿をみて、それに憧れて、ということではないですか?>
<>  ゲームにしても然り、そのゲームで遊んでる人が楽しそうだ、友達が熱心に勧める、紹介している文章が面白い、扱っている題材が好きだ、似たゲームを知っているが面白かった、これも面白いかもしれない・・・まず関心ありき、です。それがなければルールブックを読破する情熱は生まれません。>

野球が好きな人は多いでしょう。
ゲームが好きな子供は、さらに多いでしょう。
しかし、すべての生徒たちが、皆、最初から、何事にでも興味を持っているわけではありませんよ。また、やってみたからと言って、興味を抱く、と限るものではありませんよ。
ましてや、勉強の類であれば、特定の教科が好きでたまらない、勉強するのが好きだ、などというのは、ごく一部の人間ではないでしょうか。
我々が勉強の類をも面白みをもってやれるのは、必ずしも根源的な興味からではなく、一歩一歩積み上げていく、という自己成長を感じることができる点が大きいでしょう。自分に理解できた、という喜びなのです。しっかり勉強したから80点取れた、とか、そういった次元の話です。

将来学者にでもなるような資質の持ち主ならいざ知らず、勉強が根源的に好きだ、なんて生徒がごろごろいるわけ無いでしょう。

私が上でも述べたように、
ごく一部の生徒(ノートを作成する生徒)に関しては、
「自筆ノート持ち込み方式」によって、
思考力や想像力を伸ばす契機になるかもしれません。
しかし、他の大半の生徒らに関しては、そんなことには、なりようがないのですよ。なんらの学習効果がないばかりか、むしろ、冒険風ライダーさんが指摘しているように、カンニングを常習化させるという悪影響を心配する必要があるでしょう。

結局のところ、
一体、どのような生徒のために、
「自筆ノート持ち込み方式」が適当であると、黒崎さんは考えているのですか?
「半分に達すればたいしたもの」などと言っているところからして、少なくとも半数以上の生徒に関しては、眼中にないようですけどね。

>  高校において為さなければチャンスは潰える・・・とさえ感じます。大学における教養科目に対する学生のモチベーションは、それこそ絶望的である、と思います。

これは、誤解しているようですが、
日本の大学においては、単に、試験の難易度が低いから、
皆が低空飛行に走るだけの話ですよ。
欧米の大学では、試験の難易度が高いから、卒業を確実とするために、皆一生懸命勉強するだけの話ですよ。
日本の高校生が、大学受験のために一生懸命勉強するのと、同じことです。
経済事情を反映してか、今日の大学生は、サークル活動などもそこそこに、資格試験の勉強などは一生懸命やっています。将来のために必要でかつ難易度の高い目標(例えば資格試験)に向かっては、人は一生懸命努力し、将来のために必要でもなく難易度の低い目標(例えば上の教養科目)には、努力を割くことはありません。
あたりまえのことですね。

> > 「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
> > という前提条件です。

この前提条件についても、全然、意識されていないようですね。
英語を面白いと感じられる段階に到達するには、当然、一定量の英単語は記憶してしまわないと駄目ですね。
「ルールブックを読破する情熱は生まれ」ても、結局読破できなかったら、そこで躓いて終わり、ですよ。
プロ野球の選手でも、才能に如何に恵まれてても、基礎的な筋力を欠くために筋力トレーニングからやり直し、などということも多々あるではありませんか。

<>  高校において為さなければチャンスは潰える・・・とさえ感じます。>

基礎を押さえる、という前提条件を飛ばして、先を急ごうとしても、
結局、「急がば回れ」という格言の通りにならざるを得ないことになると思いますね。

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6298

Re6289:教師の資質とは無関係に発生する「構造的な問題」

投稿者:冒険風ライダー
2005年03月01日(火) 19時12分

<人のノートを写して持ち込む行為と、ドーピングを同列に論じられる価値観には到底同意いたしかねます。
 1位でなければ意味がない、勝たなければ許さない、認めない、そういう歪んだ価値観や強迫観念が薬物不正を生むのです。
 オリンピックやプロスポーツにおける薬物問題は、楽をして結果を出そうなんていう次元の問題ではありません。
 結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生むわけでしょう?
 私は学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定しておりませんので、このような混同はおかしい、わかってらっしゃらないのはあなたの方です。
 競技スポーツと教育を同じ基準で語ること自体が間違っています。
 教育の目的は他人よりいい点数を取ることではありません、その程度のことも分からないなら、教育についてうんぬんなどなさらないことです。>


 その言葉、そっくりそのままあなたにお返ししますよ。何しろ、ドーピングに関する自分の意見が「学内の定期試験」をも含めた受験全般に当てはまることに全く気づいていないときているのですから。
 共に禁止されているにもかかわらず、スポーツでドーピングという不正行為がしばしば用いられる理由も、試験の際にカンニング行為が絶えない理由も、どちらも同じものでしかありえないのですよ。それはまさに、あなた自身が明言する「結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生む」からでしょう。受験にしたところで、たった1点の格差が受験者の明暗を分けることが往々にしてあるわけなのですから、「他人よりいい点数を取ること」が「目的のひとつ」となることは当然ありえますし、不正行為が行われる土壌はどちらも全く同じです。にもかかわらず、何故ドーピングとカンニングで異なる結論が出なければならないのです?
 そして、あなたの投稿を見る限り、それはあなた自身も十二分に承知していることであるはずなのですよ。何しろ、こんな発言を行っているわけですからね↓

<数字だけで評価する方が楽なんですよ、結果だけ見てりゃ良いんですから。だから教師も親も、管理する人間も、そこに逃げてしまう。その方がよほど不正の横行を許し、真面目にやってる人間に馬鹿を見させているんです。その得点を挙げるためにどれほど努力したか、真面目に取り組んだか、そんなことはどうでもいいことになってしまうんです。結果さえよければいいんですから。
 逆に言えば、だからこそカンニングに代表される不正行為が横行するんです。過程をすっ飛ばそうが、結果さえあげれば、高い評価を得られる、あなたが支持・信頼してらっしゃるシステムや価値観こそが、そうした不正を助長するのです。
 ま、おわかりにならないでしょうけどね。>


 これはあなたがドーピングについて述べていたものと全く同じ主旨の文章です。「過程をすっ飛ばそうが、結果さえあげれば、高い評価を得られる」からこそ「結果を求められる異常なプレッシャーと、自分の精一杯でも求められる数字を出せないことへの焦り、葛藤が、陥穽を生む」、あなた自身の明言はドーピングにもカンニングにも言えることです。まさに「語るに落ちた」というやつですね。
 そして、こんなダブルスタンダードがいともあっさりと生まれてしまう理由はというと、それは「私は学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定しておりません」などという、たかだかあなた個人の主観的価値観のみに立脚しただけのシロモノでしかないのです。そんなものは、「学内の定期試験で数字を競ったり、その数字だけで全てを評価しようとしたりということを肯定」する価値観を持つ「たったひとりの人間の意見」によって、いともあっさりと覆される程度の説得力しか持ちえないのですよ。そして、あなたと議論しなければならない人間が、何故あなた個人の主観的価値観などにいちいち配慮して話をしなければならないのです?
 その自分の主観的価値観に普遍的かつ客観的な説得力を付属したいと考えるのであれば、ただそれだけを根拠にドーピングとカンニングとで全く異なる結論を導こうなどとは考えないことです。世の中には、あなたとは全く異なる価値観を持つ人間がいるということを、どうかくれぐれもお忘れなく。


<この試験方式、さらには授業方針が、教師に多くの負担と、判断力、公平さ、そういった多くの資質や努力を求める、ということは既に触れたとおり、その上で、実現は決して容易ではないが、目指すところは間違っていない、理念としては望ましいと申し上げているのですがね。
 竜堂始が実際にそのような問題を設定し、生徒が実際に「それは事実無根だ」と調べてまとめ上げたのであれば、それはしっかり評価すべきことです、そして竜堂始がその解答をどう評価し、どう行動するかという推察は、創竜伝における描写からすれば、ありえることだと私も思います(笑)しかし、公平に裁定する「かも」しれません。
 ですが今回は試験方法が論題。竜堂始がその主張にふさわしい公平さをもっているかは別の問題です。>


 実は「別の問題」でも何でもないのですけどね。私が展開しているのは本来「創竜伝という小説に対する作品批判論」なのですし、今回問題になっている試験方法を提示したのは他ならぬ竜堂始であり、それを実践するのも竜堂始自身なのですから、「竜堂始がその主張にふさわしい公平さをもっているか」に疑問符がつき、そこから竜堂始が提示する教育手法に問題があることを示すことができた段階で、すでに創竜伝および竜堂始の思想的正当性はズタズタにされてしまうでしてね。この時点で、私の目的は100%達成されたも同然になってしまうのですよ。
 それに、竜堂始の教育手法の問題点は竜堂始のみならず、その教育手法を実施する全ての教師に対して「構造的に」当てはまってしまうのです。前の投稿でも言いましたけど、論述式の問題を受験生や生徒に課している大学では、教師が解答の内容ではなく、自らの主観や趣味に基づいて生徒を評価するようなことがしばしば横行し、大きな問題になっています。これは「教師の主観のみが判定材料となる教育手法」自体が、そのような不正行為を「教師の資質など全く関係なく」しかも「構造的に」発生させる原因となっているわけで、それこそが「竜堂始の教育手法」が抱える最大かつ致命的な問題点なのです。
 従来の教育方法に欠陥があるにせよ、すくなくともこのような著しい不公正を招きかねない「教師の資質など全く関係なく発生する構造的な問題」は存在しません。だからこそ私は、竜堂始の愚劣な教育手法よりは、従来の教育方法の方をこそ「ベター」な選択として評価するのですがね。


<真面目で、なおかつ清廉なのでしょうね、おそらくあなたもそうなのでしょう。
 そしてそういう人は、えてして他人の横着や狡さ、甘さに対し、憎悪にも似た弾劾をしがちです。
 あなたが仰るように、ずるいことをしている生徒とひとくくりにされることが我慢ならない。
 しかし私に言わせれば、それこそが歪んだ優越意識であり、価値観です。
 誰のために勉強しているのですか?
 何のために努力しているのですか?
 高い評価を得るためなんてことを第一の目標に置くから、他人が横着をするのが許せなくなるんです。
 ずるいことをした生徒がいるから、そのクラスは腐ったミカンの集まりなんですか?そんなばかな話はない、確かに、レッテルを貼ってひとくくりにし、あれはダメだ、と言うのが好きな人は少なくありませんが、そういう判断をしてしまうことの方が改善を要する問題でしょう。
 学内の定期考査ごときで、満点を取ったからそれがなんです?
 ばかばかしいとしか言いようがありませんね。
 他の人間が、手を抜きながらも要領よく試験を切り抜けて、自分より高い評価を得たら、努力したことは無駄なんですか?
 より確かな知識や学力が身についてるのは自分だという自負はないんですか?自分は出来ることを精一杯やった、それが自信でしょうに。
 教師がそれを評価しなかったら、その生徒の努力は無駄?違うでしょう?
 そんなところで優越しようと思わなくても、誰がずるをしたか、誰が真面目にやったけど失敗してしまったのか、たとえ馬鹿な教師が気づかなくても、クラスメイトにはわかっているでしょうに(笑)
 他人の弱さを許せず、自分は真面目にやったんだからあいつより高い評価を受けなければ我慢ならない、そんな狭量なことをいうようになるから、点数至上の教育はだめなんですよ。
 たとえ試験の点数で一番でなくても、周りの人間には、あいつはすごく真面目で、物事に真剣に取り組む、ことに歴史(他の分野でも一向にかまいませんが)においては、あいつに聞けば確かだ・・・どうしてそれで納得できないんでしょうかね?
 点数とそれにたいする評価でしか、自分の価値を感じられないような観念、そんな風にしてしまった親や教師、社会は、改善すべき問題を抱えていると思います。>


 何故同じ問いかけを、好成績獲得を第一目標に日夜スポーツ練習に励む人達に対しても言ってやらないんですかね? 「競技スポーツと教育を同じ基準で語ること自体が間違っています」などと逃げずに以下のようなことが言えれば、あなたの主張にも少しは一貫性というものが出てくるのですが↓

<真面目で、なおかつ清廉なのでしょうね、おそらくあなたもそうなのでしょう。
 そしてそういう人は、えてして他人の横着や狡さ、甘さに対し、憎悪にも似た弾劾をしがちです。
 あなたが仰るように、ずるいことをしている生徒とひとくくりにされることが我慢ならない。
 しかし私に言わせれば、それこそが歪んだ優越意識であり、価値観です。
 誰のために運動しているのですか?
 何のために努力しているのですか?
 高い評価を得るためなんてことを第一の目標に置くから、他人が横着をするのが許せなくなるんです。
 ずるいことをした生徒がいるから、その運動部は腐ったミカンの集まりなんですか?そんなばかな話はない、確かに、レッテルを貼ってひとくくりにし、あれはダメだ、と言うのが好きな人は少なくありませんが、そういう判断をしてしまうことの方が改善を要する問題でしょう。
 学内の部活活動や国体ごときで、一番を取ったからそれがなんです?
 ばかばかしいとしか言いようがありませんね。
 他の人間が、手を抜いたりドーピング行為に走ったりしながらも要領よく競技種目を切り抜けて、自分より高い評価を得たら、努力したことは無駄なんですか?
 より確かな運動能力や技術が身についてるのは自分だという自負はないんですか?自分は出来ることを精一杯やった、それが自信でしょうに。
 教師や先輩がそれを評価しなかったら、その生徒の努力は無駄?違うでしょう?
 そんなところで優越しようと思わなくても、誰がずるをしたか、誰が真面目にやったけど失敗してしまったのか、たとえ馬鹿な教師や先輩が気づかなくても、部活仲間にはわかっているでしょうに(笑)
 他人の弱さを許せず、自分は真面目にやったんだからあいつより高い評価を受けなければ我慢ならない、そんな狭量なことをいうようになるから、成績至上のスポーツ界はだめなんですよ。
 たとえスポーツの成績で一番でなくても、周りの人間には、あいつはすごく真面目で、物事に真剣に取り組む、ことに野球(他の分野でも一向にかまいませんが)においては、あいつに聞けば確かだ・・・どうしてそれで納得できないんでしょうかね?
 成績とそれにたいする評価でしか、自分の価値を感じられないような観念、そんな風にしてしまった親や教師、社会は、改善すべき問題を抱えていると思います。>


 ちなみに私自身は、言うまでもなくどちらの意見にも反対ですね。スポーツにせよ教育にせよ、成績や点数には一定の社会的(であるが故に客観的にも高い)価値があるのですし、それを目標に努力を積み重ねて成長した人もいるでしょう。その結果をカンニングやドーピングのような不正行為によって理不尽に蹂躙され、怒りを抱く人達の価値観を「歪んだ優越意識」だの「ばかばかしいとしか言いようがありませんね」などと否定するような「傲慢な人間」こそ、教育を語る資格などないと私は思うのですけどね。
 それと、これは上記の問題の前には非常に蛇足かつ余計な質問なのかもしれませんが、「馬鹿な教師が気づかなくても、クラスメイトにはわかっているでしょうに」って、何故クラスメイトには分かっていることが100%保証されているわけなのですか? クラスメイト「も」気づかない可能性は当然ありえますし、たとえ気づいていたとしても、それが行動によって示されなければ、本人にとっては「気づいていない」のと同じことでしょうに。


<学内考査が模試やセンター試験のための事前演習?
 いかにも「優等生」が言いそうな台詞ですね?
 根本的に間違っているんですよ、そうやって名ばかりもとめることがね。
 点数や結果ばかりを追求し、一流大学、一流企業に入ること(今は独立起業でもいいのでしょうが)こそがステイタスだ、などという社会の歪みが、そこに色濃く根ざしているんです。
 それはあくまでも一つの見方でしかないというのに。>


 だから、あなた個人の主観的価値観をいくらアジったところで、それとは全く異なる価値観を持つ人間にとっては痴者のタワゴトでしかありませんし、私に対する反論にも何にもなりはしないのですよ。
 第一、そういうあなた自身、以下の発言で「現実」を肯定してしまっているではありませんか↓

<大学入試の本番になれば、否応なく数字至上の足切が待ってます。多数の応募から一定数を選抜しなければならない以上、やむを得ない側面もあるでしょう。>

 そういう「やむを得ない側面」があるからこそ、「学内考査が模試やセンター試験のための事前演習」という考え方が出てくるわけです。「否応なく数字至上の足切が待って」いるからこそ、来るべき「数字至上の足切」を乗り越える試練を課すことは、学校や教師の義務であり、ひいては生徒自身のためでもあるのです。
 他人の価値観を全否定し、「根本的に間違っているんですよ」だの「それはあくまでも一つの見方でしかないというのに」だのといった理想論を振りかざす前に、人間は「目の前の現実」に対処しなければならないということを、少しは自覚して頂きたいのですがね。


<カンニングして90点の生徒と、自力で90点の生徒、点数しか見ないから同列になるんじゃないですか?
 結果だけで判断するのは、一面において公平な判断です、しかしそれこそ、努力に対してそれにふさわしい評価をせず、正直者に馬鹿を見させる結果をうむ大本だということが、どうしておわかりにならないんでしょうね?>


 上でも述べましたが、「努力に対する評価」などというものは、主観によって判断される比率が「結果だけで判断する教育手法」などよりもはるかに高いため、教師の資質に関係なく「構造的に」公正さが著しく損なわれかねないからです。
 こんな簡単なことがどうしておわかりにならないんでしょうね?


<どんな試験方法だろうと、人のノートを写す生徒は出ますよ?
 でも、結局そのつけを払うのは自分でしょうが(笑)>


 別に私は「どんな試験方法だろうと、人のノートを写す」こと自体は否定していないのですがね。「自筆ノート持ち込み可」と「試験前に、どういう問題が出るか、生徒に教えるのである」をセットにした教育手法が、「従来の教育手法をはるかに上回る」カンニングの横行を「構造的に」招く、ということを問題視しているだけで。
 他人の主張に反論したいのであれば、もう少し他人様の主張をきちんと理解できるように努めて下さい。一知半解な理解力しか持たない人間と議論するのも、私にとっては苦痛でしかないのですが。

親記事No.6268スレッドの返信投稿
board4 - No.6299

Re:どのように都合の良い生徒を対象とした議論なのでしょうか?

投稿者:黒崎
2005年03月01日(火) 22時23分

> 「意欲に欠ける生徒」においては、せいぜい、「書き写す」という労力を必要とするぐらいのものであって、思考や論述に頭を使うことはないでしょう。
大学時代、やる気の無かったドイツ語を、試験だけはなんとかクリアするために、ひたすらドイツ語の教科書の日本語訳を熟読し暗記して試験場に望んだことがありましたね。試験には合格しましたけれども、こんなもの、何のドイツ語の訓練にもなりませんね。

 書き写す時、本当に頭を使わないでしょうか?
 そのドイツ語の試験がどのような方式だったのが存じませんが、ここに書かれている内容だけだと、「暗記」で試験をクリアしたがドイツ語の訓練にはならなかった。ということで、従来の試験のやり方のほうがよかったと言うことにはなっていないと思われますが。

> だいたい、冒険風ライダーさんが「カンニングという逃げ道がある」と指摘している通り、大半の生徒が、このような易き流れに流される公算が高いのですよ。

 易きに流れる生徒は確かに現れるでしょう、ですが、それはどのような試験方法、授業方法でも現れます。
 人のノートを写させてもらう・・・この行為をカンニングに含めてしまうのであれば、従来の試験方法であっても、カンニングをまったくしなかった、と言える生徒はごく少数になってしまいませんか?
 半数を見捨てることが前提、あるいは、ついてこれない生徒は見捨てる、そのようなことは申しておりません。
 もちろん、全員に「歴史は面白い」と感じてもらうために、教師は努力します。が、最善を尽くしたとしても、全員がしっかりついてくるはずだ、と考えるのは、現実的でないだろう、という見解にすぎません。
 従来の方法で、歴史に興味を持つ生徒が増える、と期待できますか?従来の方法は半数どころか、ほとんど全員を突き放してきたのではないですか?
 そして、従来の方法、詰め込みや暗記の結果が、北朝鮮やイラクの位置を4割ものの学生が知らない、ということではないでしょうか。
 基礎知識というものは、詰め込みや暗記によってのみ身につくのでしょうか?
 詰め込み教育であれば、部分的にでも残ったであろう知識すら身につかない、と仰いますが、基礎知識の習得に力点を置いているはずなのに、部分的にしか残らない。現役の学生ですら、受験が終われば、あれほど頻繁に新聞やテレビに登場するアメリカ合衆国の位置が頭に残っていない。
 この件は、現状の詰め込み教育は、期待しているはずの基礎知識の習得でさえも、十分に為しえていないのではないか、という事例としてあげました。
 詰め込むための授業ではなく、学生の興味を引くように工夫された授業の方が、また、数字や名前を暗記する試験より、論述のために読み、書かされる試験の方が、やったことが頭に残る可能性は高いと、私は思うのです。

 始のようなやり方が、何の欠点もない、とは最初から申し上げませんでした。
 従来の方法よりもいいと思う、と申し上げたのです。

> 野球が好きな人は多いでしょう。
> ゲームが好きな子供は、さらに多いでしょう。
> しかし、すべての生徒たちが、皆、最初から、何事にでも興味を持っているわけではありませんよ。また、やってみたからと言って、興味を抱く、と限るものではありませんよ。

 当然です、全員が全員興味を抱くはずだ、などとは述べてませんよね?
 野球をやるときに、まず最初にルールブックを暗記する者はいない、と申し上げたのです
 実際にやっている姿を見て、やってみたいと思う、楽しそうだなと感じる、そこから始まるのだと、私は思います。
 まぜてもらって、ピッチャーが当てやすいように緩く投げたボールを、我流のスイングで打ち、仲間に「ほら、一塁(指差す)に走って!」とうながされ・・・最低限必要な知識というものは、このように実際にやりながら、その都度知っていくものです。そして、野球に大きな楽しみを見出した子どもは、「より楽しむために」自分で本を読んだりして学んだり、少年野球のチームに加わって習ったりするのです。
 公園で、ゴムのボールでハンドベースなんかで遊んでる子ども達、彼らのほとんどは野球のルールブックなど読んではいないのです。
 これから野球をやるから、まずルールを覚えろ・・・そんな教え方は誰もやらないと思いますよ?

> ましてや、勉強の類であれば、特定の教科が好きでたまらない、勉強するのが好きだ、などというのは、ごく一部の人間ではないでしょうか。

 なぜそうなるのか、それまで知らなかったことを知ること(自己成長)は嬉しいはずなのに、どうして苦痛なのか。それは従来の詰め込み教育の方法がよくないからだと、私は思います。

> 我々が勉強の類をも面白みをもってやれるのは、必ずしも根源的な興味からではなく、一歩一歩積み上げていく、という自己成長を感じることができる点が大きいでしょう。自分に理解できた、という喜びなのです。しっかり勉強したから80点取れた、とか、そういった次元の話です。

 ほとんどの学生、子どもはパンツァーさんの仰るような「面白み」を感じていない、それこそ「ごく一部」ではないですか?
 私は、詰め込み教育が、自己成長の喜びを削いでいると思います。詰め込み教育の試験は理解できていなくても、その時憶えていればクリアできてしまいますから、始のやり方よりその点で優れているとは言えません。

> > > 「生徒たちが既に、ある程度、歴史を習得している」
> > > という前提条件です。
>
> この前提条件についても、全然、意識されていないようですね。
> 英語を面白いと感じられる段階に到達するには、当然、一定量の英単語は記憶してしまわないと駄目ですね。

 これも違うでしょう?人が英語に興味を持つきっかけの中で最も一般的なのは音楽や文学ではないでしょうか?読みたい、歌いたい、だから必要な発音や単語を身に付けるのです。
 やみくもに単語を覚えなさいと詰め込もうとするから英語嫌いが増えるんです。
 試験が終われば忘れてしまうのです。
 最近はやや改善されたようですが、日本の中学・高校の英語教育は実用に耐えないものの代名詞だったではないですか。単語や文法はネイティブをしのぐほどよく知っているが、喋れない、聞けない、、、もちろん、その訓練に耐えて知識を蓄積し、改めて会話やヒアリングを英会話学校などで習えば、使いこなせるようになるでしょう。
 しかし、そこまでの過程で、多くの学生を振り落とし、英語嫌いにさせてしまっているではありませんか。

> 「ルールブックを読破する情熱は生まれ」ても、結局読破できなかったら、そこで躓いて終わり、ですよ。

 ルールを知悉しなくても楽しむことなら出来るんですよ、実際に遊びながら、最低限の決まりごとを身につけていきます。日曜日に河川敷で行う草野球で「ボーク」を厳密に取ることはしません、塁間の距離だっていい加減でしょう。ピッチャープレートからホームベースまでの距離の決まりを知らなくたって、十分に楽しめるのです。

> プロ野球の選手でも、才能に如何に恵まれてても、基礎的な筋力を欠くために筋力トレーニングからやり直し、などということも多々あるではありませんか。

 これも違うと思います。そもそも、プロ野球のチームに入団する時点で、野球に対して並々ならぬ意欲・やりがいを見出し、その楽しさを十分に知っているのが、選手ではないですか?
 学生野球のレベルから、プロのレベルにステップアップし、そこでも活躍したいから、トレーニングに励むのです。

「半数に達すればたいしたもの」と述べたことが、半数を見捨てている、と取れてしまうわけですね。
 もちろんそのようなことは本意ではありません。
 少しでも多くの学生に、興味や意欲をもってもらえるように平素務める、これは大前提です。
 それでも、成果として期待できるのは・・・という主旨で述べたのです。
 そして、考えていただきたいのは、従来の詰め込み教育だったら、もっといい結果が期待できるのですか?ということです。
 従来のやり方は、歴史は嫌いだ、暗記ばかりで面白くない、という子どもを増やしたではありませんか。
 私は、始のやり方のほうが、従来のやり方よりも、歴史への関心を刺激し、「おもしろい」と思ってもらえる可能性が高い、と申し上げているのです。

 先にも述べましたが、「人のノートを写す」行為をカンニングに含めるのであれば、従来のやり方でもカンニングは既に横行していることになるでしょう?ノートのコピーのやりとりなど、日常の光景ではないですか。
 確かに、平素の努力を省略しているわけで、望ましいことではありません。しかし、これは従来のやり方でも、始のやり方でも、同じことなのです。
 それを暗記するか、もう一度読んで書くか、という違いでしかないのです。

 そして、従来のやり方は、半数どころでなく殆どの学生を、「歴史」から突き放してきたのです。
 それに比べれば、半分なら「よりまし」ではないですか。
 パンツァーさんは、私がごく一部の生徒だけを見て、他の学生を見捨てていると仰いますが、パンツァーさんの支持なさる従来のやり方は、より多くを見捨てているのですよ?
 私は、その「ごく一部」が少しでも多くなるようにしたい、という願いから、申し上げているのです。

<しかし、すべての生徒たちが、皆、最初から、何事にでも興味を持っているわけではありませんよ。また、やってみたからと言って、興味を抱く、と限るものではありませんよ。

 パンツァーさんはこのように仰いました、私が「半数もついてきてくれないかもしれない」と申し上げたのは、これと同じ認識からです。

 私は欧米の大学生が、日本の学生より、勉強に意欲的なのは、試験の難易度が高い、というだけの理由ではないと思います。
 もちろん容赦なく落とされる恐怖は動機に含まれると思いますが、そればっかりではないでしょう?
 パンツァーさんは欧米の大学に留学されたりしたのですか?^^私は大分昔に読んだり聞いたりしただけなので、向こうの実情はよく知らないのですが。

 試験の難度が低かろうと、好きなことなら自分から頑張るでしょう。試験がなくたって、面白い講義には顔を出し、真面目に聞きます。
 資格試験を一生懸命やるのは、就職が難しくなるからで、これはこれで問題があるような気がしますが、ここでは置きます。
 日本の大学で、教養科目が機能しないのが、どんな理由であるにしろ、(機能する必要はないのだとさえ聞こえるのですが)大学教育に期待できないのなら、なおさら高校で教養を拡げる必要があるのではないですか?
 高校までは基礎を詰め込めばいい、と仰いますが、大学以降で教養科目が機能せず、応用も為されないのでしたら、どこで歴史の面白さを学ぶのですか?大学以降で、面白さを教えることができないと、あなたの言うことも成立しませんね?


 将来のために必要、と言う言葉を、希望の企業に就職するため、希望の大学に入学するため、そういう狭い意味に限定してしまっていいんでしょうか?
 教養は人間にとって大切なものではないですか?
 学者になる人間以外は、歴史のおもしろさなど知る必要はないと?確かに厳密には必要ないでしょう、知らなくたって生きていけます。
 しかし本来は大学だって、職業訓練校ではないのです。
 就職のための活動や資格試験の勉強よりも、好きな学問分野をより深く学んだり、友人と何かを企画、実行したり、、、そういうことのためにあるのです。専門教育だけでは偏った人間になってしまうから、教養科目が課されているわけです。現状は理念とは離れてしまっているわけで、これは残念なことです。

 受験や就職に関係ないことは、学校で扱う必要はないのでしょうか?私はそうは思いません。人間として、もっと大事なことはあるでしょう。暗記の試験で高得点など出せなくてもいいし、歴史はどうしても面白いと思えなくて、手抜きに走っても、数学は大好きだというなら、それでもいいんです。なるべく多くの人に歴史を好きになってもらいたい、でも全員がそうならないからといって咎めるようなことではないです。


 技術や資格さえ身に付ければいいのであれば、大学である必要などないので、そのための専門学校にいけばいいということになるではありませんか。

 基礎を押さえるという前提を飛ばして、と繰り返し仰いますが、小学校・中学校では何も身についていないという前提なんですか?まぁ、従来の教育ではあまり残ってないかもしれませんが、何も知らないところから、というのとは違うでしょう。
 それに、一定量の知識がないと、面白いと思えるはずがない、という意見には同意できません。
 中国の歴史や文化に深い造詣がなくても、三国志を面白いと思う人は少なからずいるわけでしょう。吉川三国志を面白いと感じた人の中には、じゃあ演義を読んでみようか、とか、正史を読んでみようとか、隋唐演義を読んでみようとか、発展していくわけで、その過程で、中国の文化や人々の生活、歴史についての知識が蓄えられていくのではありませんか?

 まず最初に面白い、面白そうだ、と感じさせなければ、単語を憶えるのは、ただ試験をクリアするための作業にしかならず、試験が終われば忘れていくだけです。最初に苦痛を与えれば、そこから逃げたくなる、極力手を抜きたくなる、嫌いになっていく、そういうものだと思いますよ?
 もちろん、途中で何か興味を引くものに出会ったり、気づくことがあったりして、好きになる人もいるでしょう、しかしそれは、詰め込みが、「結果として」利するだけで、詰め込みによって好きになったわけではありません。意図せざる結果にすぎないのです。

 いわゆる「本当の」面白さ、や、「深い」面白さ、を味わうには、確かに一定量の知識が求められるでしょう。
 しかし、その前に面白い・楽しいと思わせないと、例えば単語の暗記などは苦痛なだけで、「本当の」面白さにたどり着けなくなるでしょう。
 歴史が嫌われる最大の要因は「暗記」なんですよ?
 数字や名前は教科書に書いてあるわけでしょう?それを憶えることよりも、使うことを教えるほうがいいと思うのです。
 使っているうちに、頭に入っていくものです。
 始のやり方は基礎を叩き込むことを重視したものではありませんが、使わせれば必要なことはある程度身についていくものです。
 英語の本を読む際、それに必要な量の単語知識がなくても、辞書を引きながら意味をたどっていけば、読むことが出来ます。そして何度も辞書を引くうちに、その単語の意味や使い方が頭に入っていくのです。辞書を繰り返し引けば、必要な単語だけでなく、その周りの単語や、その時必要な意味だけでなく、余分な意味、余分な用法にも目を通すことになります。そうやって知識を蓄え、「より深く」楽しめるようになるのです。
 そして、最初にその本を読むようにもっていくためには、その子が面白いと思ってる内容(例えば映画など)にからめたり、これすごく面白いんだよ、と紹介したり、と、導き手が工夫するわけです。

 面白い、と感じるのに、年号や名前は必要ないのです。
 「1600年に関が原の戦いがあった」ことが面白いのではありません、その過程、さまざまな人間の思惑の交錯、そういったものが面白いのです。それが何年にあったか、が大事なことではありません。それでも、この戦いについて興味を持って色んな本を読めば、朝鮮遠征→関が原合戦→江戸幕府開設、という流れはわかるようになるでしょう。
 関わる人間の名前や、土地の名前を丸暗記しなくても、読み、考え、書いているうちにある程度頭に入るものです。
 そしてそうやって身についた知識は、試験のための丸暗記より、よほどしっかり残ります。

 私は、竜堂始のやり方が完璧だ、などと言っているのではありません。従来の方法より望ましい、と言っているのです。

 前提を意識していないと仰いますが、彼は初めて歴史に触れる子どもを相手にしているのですか?
 日本語の読めない学生が相手なのですか?
 小・中学校でそれなりに歴史を勉強し、日本に生活してきて読み書きができる、そういう高校生を相手にしているわけですよね。
 その上で、歴史の面白さを伝えることを重視した教育をしたい、と志向しているのです。

 その分野や事柄の面白さを教えるのに、まず必要なことは、初期段階の面白さを伝えることです、体験させることです。興味を持たせることです、嫌いにさせないことです。
「この本を読むには3000語の単語知識が必要だ、覚えろ」というのと、「この本は英語で書かれてるけど、君の好きな○○について書かれてるんだ、辞書引きながらでも読んでみないか?どうしても分からないところがあったら聞きにおいで」、詰め込み教育と、始のようなやり方との差は、こういうところにあると思うのです。

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