- 親記事No.4360スレッドの返信投稿
- board4 - No.4400
Re:聞き飽きたであろう苦言
- 投稿者:IK
- 2003年07月21日(月) 20時40分
> これは当然そのような現象が起こると予想されて然るべきだと思いますが、本当に不思議なのですか。
田中芳樹氏の著作を読んでいないのならばそういう考えにもなるかと思われますが、読んでから言ってくださいね。
あなたがあのパロディを読んで感じたであろう不快は、ある意味当然でしょうが、「敢えて」そういう手法をとっているわけです。
あのパロディには創竜伝の手法を田中芳樹氏自身に応用したらどういうことになるかというロジックシミュレーションですので単体として「批評」したところで意味がないわけです。
> なにかを批評する表現もその表現自体が批評に去らされることも当然あり得ます。そして、批評に対して、論理・価値観などに疑問を抱いた場合、問題提起を批評に対して直接行うことは何ら不思議なこととは思われません。とくに本HPのような、ある程度の攻撃的な批評については、その批評自体の価値観・論理について様々な疑問が呈されるのは当然予想されて然るべきだと思います。
予想しておりますね。ですからこうしてお相手しているわけです。
私が不思議なのはそのダブルスタンダードぶりですね。これについては「創竜伝を読んでいない」ということですので、そもそもスタートラインにつかれていないようですので、多くを言いませんが、どうしても不快に思われるというならば、「田中芳樹氏と特定した箇所がありますか」と薄ら笑いを浮かべることも出来ます。
そもそもそうしたロジックで(フィクションだから)、田中芳樹批判に対して感情的な反発を示す人が多いわけです。それは多くはその人の単なる政治上の無知やらルサンチマンに由来していると私は見るわけですが、それがいかにご都合主義的かを明らかにするという目的があのパロディにはあります。
私はまるっきりパロディとは言い切れない、案外事実もあんなところではないだろうかと思っていますけど。
> この点については、私は田中芳樹氏の著作のことは分かりませんが、このパロディ小説自体にいくつかの問題を感じたので書きこみました。
> ①明確な個人を対象としていることが明らかであるゆえに、法的(刑事民事ともに)に、名誉毀損が成立しうること(フィクションであると断っていることは、正当化理由になりません。また、同様に田中氏が名誉毀損行為を行っていたとしても、そのことは管理人氏の行為の正当化事由にはなり得ません。)。
これはまったく田中芳樹氏にこそ言うべき言葉です。正当化もなにも田中芳樹氏の手法が存在してよいならば管理人氏の手法が存在してもいいわけです。
現にライトノヴェルの大家としての田中芳樹氏が存在し、講談社という日本を代表する出版社が問題の著作を出版しているのですから、こうした手法の明確な違法性は確立されていないと見ることも出来ましょう。
急いで付け加えますが、それを問題視しているのは管理人氏や常連諸氏の方であって、「フィクションである」という錦の御旗のもとにあくまで田中芳樹氏を擁護しようとする信者の人たちに分かりやすく説明するためにあのパロディは存在するのです。
本来、その危険性は自分で気づいてしかるべきなんでしょうね。中学生くらいならばしょうがないでしょうが、あくまでそれは「大目に見られている」ということを自覚して欲しいものです。
もしこの件で管理人氏が責められるとすれば「親切すぎた」ことでしょうか。
> ②田中氏の頭髪について「禿」と侮辱的表現を用いていること
> 法的問題もさることながら、この表現を用いることの社会的・道徳的な意味を考えたのでしょうか。また、田中氏はこのような肉体的・先天的要素について、人格攻撃を行ったのでしょうか。
> 実は私は創竜伝のあまりのつまらなさに1巻の途中で読まなくなってしまったので比較が出来ないのですが、田中氏の表現と比較する以前に、このパロディ小説の表現には疑問を感じます。
> 田中氏の著作と比較するとすれば、田中氏の著作は、管理人氏が思っておられるほど個人を特定し、先天的な外部的評価を下げるべき事実を摘示して他人の外部的評価を下げているのか、それと比較して、自分の表現に個人の特定・摘示すべき事実について問題はないのか検討されたのでしょうか。
こうしたことが行われているからこそ「問題視」しているわけです。何度も言いますがそれをノープロブレムと抗弁しているのは、田中芳樹擁護派ですよ。
> まあ、田中氏との比較については私自身が行っていないので、これ以上えらそうなことを言う気はありませんが、人がやっているから、その人に同じことをしてよいという理屈は(法的には勿論、常識的にも)成り立たないと思うのです。管理人氏が指摘される田中氏の著作の問題点は、具体的な事実を摘示されれば、このような醜悪なパロディ小説を用いずとも十分に理解できます
それが理解できない人が多いので困りものなのです。世の中の底辺はおそらくあなたが考えているよりもずっと深く広いのでしょうね。
> さて、私自身が今までのやりとりを重ねて同しても納得できないのは、小説の中に作者の政治的意見が表現されることが小説の作法や作家倫理的な観点から許されないという、このHPの基本的な態度です(なお、ここでいう政治的意見とは人格攻撃的な言説を含まないものと考えてください。一緒に議論すべきではないと思いますので)。どう考えても小説の良し悪しには影響しても、作家個人を攻撃する理由にはならないと思うのですが。
一緒に議論すべきではないというならば一緒に議論すべきではないでしょう。また稿を改めて、それに絞って問題提起をされることをお勧めします。
-
- board4 - No.4401
ろりーた系?
- 投稿者:IAN
- 2003年07月22日(火) 06時09分
「遅い!」「鈍い!」作品の内容は面白い者が多いけど、スピードが…。待ちきれずに他作品へ浮気されても文句は言えないであろう。
※最近「青年(男)と少女」モノが多くないか? まるでロリータ(笑)
- 親記事No.4401スレッドの返信投稿
- board4 - No.4402
Re:ろりーた系?・パートⅡ
- 投稿者:IAN
- 2003年07月22日(火) 06時18分
本当に、最近は漫画に(ロリータ系が)進出してきたと思う。
…っは、もしや田中さんの少女(コドモ)好きは、父性愛からなのか?
なにやら勘違いしていたのなら、真に申し訳ないと思う程度には恥ずかしくない心を持ち合わせていてもよいのではないかと粛々と自分に問い掛けてみてもよいのではと感じるところが無きにしも有らずといった今日この頃でしょうか(作品中の某の真似)…
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- board4 - No.4403
過去ログ更新のお知らせ
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2003年07月22日(火) 13時47分
HP「過去ログ資料館」に、
「田中芳樹を撃つ!」4代目掲示板の投稿4101~4400番
までをアップデート致しました。
過去ログをまとめて閲覧したい方は上記URLリンクからどうぞ。
- 親記事No.4318スレッドの返信投稿
- board4 - No.4404
フィクション・受け手側の問題について
- 投稿者:恵
- 2003年07月23日(水) 03時07分
こんにちわ、恵です。こちらこそ、ご丁寧なお返事ありがとうございます。
ふみ女さん、今回も懲りずにお相手よろしくお願いいたしますね。
<> 創竜伝の世界観は、実際わかりやすい図式だとは思いますし(特に中高生世代には)、汚職政治家を竜堂兄弟がなぎ倒していく展開自体には、わたしもそんなに違和感を感じていません(政治家の方々を擁護する気もまったくありませんし)。問題は、その経過に混入している田中氏の素の思想である「社会批判」にあるとわたしは考えています。
なるほど。うーん。
私は創竜伝の文庫本しか持っていませんが、確か後付かどこかに「これはフィクションです」って明記されていた気がするのですが…。今手元にない(実家にあります;)ので確かめられず恐縮ですが。
でも影響を受けられた方本人にも責任があると思います。中学生だから、高校生だからといって誤った情報にただ流されるのは、それは本人の責任だと思うのです。
誤った情報を流すことにも責任はありますが、それ以上にその情報を受け取った側で、判別することの方が非常に大事だと思います。情報化しているからこそ、いろいろな方法で少し調べれば、すばらしいお仕事をなさっている方もいらっしゃるのだ、ということがわかるはずですから。
なので、私は間違った情報の発信者だけに責任を追及するのはおかしい、と思います。(発信者を擁護しているわけではありません。念の為)>
☆「フィクション」・「受け手側の問題」
確かに、創竜伝には「この物語はフィクションです。実際の団体とは~」の文言は、しっかり明記されています。
ただ、「フィクション」と銘打ってあればどんなことを書いてもいいのかというと、わたしにはそうは思えないのです(例の職業差別表現や、容易に想像できる現実の特定個人を揶揄侮蔑する表現、偏向した社会批判など)。
社会批判そのものの問題にしても、ちょっと簡単にご説明しますと、
A.「フィクション世界の政治家が(フィクション世界の)主人公たちになぎ倒される・批判される」
は別段問題とは思えないけど
B.「フィクション世界の主人公たちが、明らかに現実の世界の社会・特定人物を批判する」
のは、「これはフィクションなのかノンフィクションなのか?」という疑問と、物語の構成的にも矛盾が生じる結果になって、おかしいと思うのです。現に、創竜伝の時間軸は冷戦崩壊前(90年代前半or21世紀を何年後かに控えた?)に始まった設定なのに、今ではストーリーとは直接関係のない社会批判の展開のためだけに2003年現在の社会情勢に無理矢理合わされています。何かストーリーを面白くするための必然というならこの無理な時間経過もまだ納得できるのですけど、ただただ、作中で(間違い・偏向の混じった)社会批判がしたいだけ、というのでは目もあてられません(ストーリー的には、90年代のままでもまったく問題ないはずです)。本当に社会に対して疑問があって世に何かを問いたいのなら、何もフィクション小説内のマス目を必死に埋めずとも、ノンフィクションの評論本として出版されればいいと思いませんか?実際、そういう作家さん(村上龍氏、落合信彦氏、柳美里氏etcetc.)はたくさんおられるんですけどねぇ…(ため息)。
また、社会批判は単なる作品のスパイス(副次的なもの)ではないのか?というご意見もあるでしょうけど、料理に限らず「スパイス」という存在は主となる「料理(創作物)」に対して量と質を適度に抑えて扱うからこそ副次的効果を発揮するのでしょうし、スパイスのためだけに料理そのもののバランスを壊すような行為は、それこそ本末転倒であるとわたしは思います。ソ連がいつの間にか消滅したり、登場人物たちが年をとらないのに、明確な説明もなく社会情勢が時間軸を超えて一気に変わったりすることが、少なくとも「創竜伝」という伝奇活劇小説に必要なのか、わたしにはとても疑問です。それらストーリーの時間経過の整合性をぶち壊している唯一の理由が「(間違い・偏向の混じった)社会批判がしたいだけ」というのは、どうもわたしには筋の通った(または質の高い)作品創りの姿勢には思えないのです。
また「受け手側の問題」ですけど、これはふみ女さんのご意見はわたしにはやや乱暴なものに思え、少し疑問を感じます。
<情報を受け取った側で、判別することの方が非常に大事だと思います。情報化しているからこそ、いろいろな方法で少し調べれば、すばらしいお仕事をなさっている方もいらっしゃるのだ、ということがわかるはずですから。>
このご意見は正論だとわたしも思います、わたしたち成人した社会人に対しては、ですけど。
でも、この論法で物事をまだ多面的・相対的に見ることに慣れていない「中高生」たちにも罪を着せるようなご意見はどうでしょうか。
確かに正論ですし、情報の多様化の事実もその通りです。でも、「ある情報に対して何が正しくて何が間違っているのか」を判断するという行為は、「そもそもこの情報は正しいのだろうか?」という疑いを持つ概念自体をインプットしていなければ行えない行動です。感受性豊かで、社会知識もまだ豊富でない中高生の年代は、残念ながらそういう概念自体を持っている人のほうが少ないのではないでしょうか?(わたしはそうでした。創竜伝の社会批判の受け売りで親に何の疑問もなく同じ社会批判を披露していましたし…(←恥ずかしい記憶です(-.-::))
普段目にすることの多いテレビのようなマスメディアでも「我々(の情報)を疑いなさい」などとは、まず言わないですしね。ましてや、「物事の相対化」などは学校では教えてくれないものでしょう。普通の人は、大人への人格成長の上で、徐々に経験則として理解していくはずです。その概念がない上に、(好きな作家、芸能人などから)特に影響の受けやすい年代ですから、そういう子らを対象にした小説は書き手のほうこそ、それなりに慎重な姿勢を求められるべきだとわたしは思います。そして、そもそも、正論も偏向論も入り混じっていることが「創竜伝」の社会批判の業の深さであり(これは皆さんの言われる「ミスリード」ですね)、全部が荒唐無稽・デタラメな内容なら、中高生とはいえ、さすがに信じ込む人のほうが少数なのではないでしょうか?
わたしは中学生のとき、創竜伝のディテールに対して「この情報は間違っている、この情報は正しい」という細かな判別は(「小説」の情報を頭から信じていたので)まったくできておりませんでしたけど、ふみ女さんご自身はどうでしたか?難しい問題ですけど、
「(巧妙な)嘘(フィクション)を教える大人(作家)」
と
「(巧妙な)嘘(フィクション)を見抜けない思春期の中高生」
という図式において、後者にも問題あり、というご意見には、残念ながらわたしは賛成できません(自分がそうだったから、というだけではないですよ、念のため)。
もちろん、ふみ女さんのおっしゃるように、ただ流されるだけというのも情けない話ではあるのでしょうけど、上記のような信じ込みやすい条件が揃っているという前提でのお話ですから。高校生にもなってウルトラマンが本当にいると無条件に信じている、というような次元の問題ではありませんからね。
教育を含めた今の社会システムが、思春期の年代からの(もっともらしい)情報に対しての判別化の概念をすでに常識化している、というなら話は別なんですけど…。
<すいません。私が言いたかったのは、恵さんがおっしゃることとは少し違うのです。
ここで議論されているのは、失礼して簡単にしてしまうと、「田中氏の社会批判や思想」を小説の中に無理に入れるな、ということですよね?
ならば、田中氏の明確な思想や社会批判を知った上でないと何も結論が出ないのでは、と思うのです。
ひとつの結論に達しなければ意味がない、という考えではありませんが、何だかすっきりしないのです。(我儘!?)
そんなん小説みりゃわかるじゃん、とおっしゃるかもしれませんが、小説で登場人物が言う意見が全て田中氏の意見とは限らないですよね。読者から見たら田中氏の意見にみえても、実は違うってことがあると思うのです。
ならば、生の田中氏の声を聞かなければ、何も変わらない気がして…。何だろう、堂々巡りといいますか、こんなにいろいろな方が(私はその中に入れませんが、、、考え浅いし)、いろいろなすごい意見を言い合っていても、むなしいような感じがしてしまうのです。残念だな、って。>
ふみ女さんは、「イギリス病のすすめ」という田中氏の対談本の存在はご存じでしょうか?こちらのHPでも、トップページから行ける「考察シリーズ(冒険風ライダーさんという方が執筆された田中作品の考察集です)でも紹介されているのですけど、創竜伝の社会評論がご自分の素の考えであることを裏付ける発言がいろいろ載っているようです(わたしもそちらの引用でしか読んだことがないのですけどね)。
それと、ここでお考えいただきたいのは、創竜伝の社会批判が田中氏の本当の思想であってもそうでなかったとしても、前者なら(こちらが一番問題ですけど)果たしてフィクション小説の中に書く妥当性はどうなのかという問題と、物語の時間軸構成をぶち壊して作品の完成度を低下させている問題、後者でもフィクションであったとしてもフィクションなら何を言っても(書いても)いいのか(偏向・間違い等)、という問題などが大きくある、ということです。対談本はこの疑問(フィクション・ノンフィクション)の決着をつける傍証の一つとなるでしょうし、例えそれが傍証でしかない(こちらでの議論が)決定的証拠のない推論・1考察であったとしても、論理的妥当性を追求する限りは、(前回も書いた通り)わたしには皆さんの姿勢は意味のある行為だと思えます。
ファンの形や意見は様々ですから、ふみ女さんが間違っていてわたしや他の方々が正しいというわけでは決してないのですけどね。わたしはわたしなりの根拠をもって、自分の1意見を提示させていただいているだけですから。むなしい、ということはないと思いますよ。あくまでここは、みんなで意見を出しあって考えたりするところですから。それ以上でもそれ以下でもないんだと思います。
<私もこのご意見には大賛成です。
筋道を立てて意見を言う、ということは自分を整理することに直結します。これは普段の日常生活でできるようで、なかなかできないことですよね。>
こちらの「場」としての価値や考え方を認めて
いただいて、ありがとうございます(…まるで管理人さんのような台詞ですね・笑)。
<でも、それなら何も田中氏・田中氏の作品を相手取ることはないのではありませんか?
管理人さんの思うところが、私にはちょっとわかりにくいです。
明確には示せませんが、どこか腑に落ちないのです。
それはそれでいいのですけど。管理人さんの考えが悪いとか嫌だとか全然わからん、というわけじゃないので。
ただ、私には理解しづらいだけです^^;
理解される方が大勢いらっしゃるみたいですので、私も理解できるように努力してみます。頭が固い自分を広げる一環にもなると思うので☆>
そうですね、普通に考えたら批判対象は何も田中氏だけでもいいはずなのですけどね。ただ、それこそ現在の政治や社会を批判するサイトはたくさんありますし、そういうことを議論したいだけなら、自分の趣味・思想に合ったサイトに行くべきなんでしょうね。わたしが今でも田中作品を好きで、期待しているからこそ、“こちらでだけ発言の機会をいただいている”のと同じように。
無理にこちらのすべてを理解したり、すべてに共感される必要はないと思いますよ。人はそれぞれ違っていて当然ですし、常連同士でも忌憚のない意見を言い合うことができるのがこちらの良いところなんですから。
<長々と、しかも脱線しまくってしまって、申し訳ありませんでした。お付き合いくださって、ありがとうございました。
それでは、またお伺いしますね。失礼いたします。>
いえ、こちらこそ、また長~~い文章になってしまいました(笑)わたしの悪い癖なのですけど、言葉足らずの文章にだけはしたくないので、ついつい、いつも説明の長い長文になってしまいます。
こちらこそ、いつも読みにくい長文におつき合いくださってありがとうございます。
それでは、失礼いたしました。
- 親記事No.4343スレッドの返信投稿
- board4 - No.4405
Re:↑への苦言
- 投稿者:Ken
- 2003年07月23日(水) 23時48分
シーカーさん、
まずは、回答をいただき、ありがとうございます。
ただ、あなたのおっしゃることは、(1)論理の飛躍があり、(2)自己矛盾しているように、私には思われます。
(断定するつもりは、現時点ではありません。私の考察が間違っていると思うなら、反論してください。)
(1)論理の飛躍
今回の論争対象は、欧米の「ジャーナリズム」ではなかったのですか?
あなたは、オランダやイギリスの政府が二枚舌を用いた例をもって、ジャーナリズム一般が同じことをやっているような言い方をされているようです。
しかし、デモクラシーが支配する社会にあっては、政府が言うことと、ジャーナリズムが言うことは、必ずしも一致しません。(日本政府と朝日が好例ですね。)
特に、私は「CNN」「NYタイムズ」「SJマーキュリ」といった具体名を挙げています。もしこれらのメディアが「二枚舌」を使うと言われるのでしたら、彼らの国の政府ではなく、彼ら自身の実績を例に出すべきでしょう。
なによりも、朝日と提携している上記メディアは、そもそも「自国が正義」といった主張を日頃からしているのですか?その事実がないと、朝日の論調を都合よく利用している、という前提が崩れると思いますが。
(2)自己矛盾
あなたが言うとおり、ジャーナリズムが二枚舌で、お金をもらえばコロリと態度を変える存在なら、あなたが朝日を批判する根拠として挙げた「欧米のジャーナリズムに宗教新聞と呼ばれた」こと自体が、意味のないものになるではありませんか。そのドイツの新聞記者が、朝日の商売がたきから謝礼をもらって、そういう発言をしたのかもしれませんよ。
-
- board4 - No.4406
Re: Re:↑への苦言
- 投稿者:観察者
- 2003年07月24日(木) 01時56分
われわれは、
・直接自分で見聞したもの
・身近な人間からの伝聞
・メディアからの情報
によって、「現実」を認識する。
しかし、完全な個人的体験はあまり一般化できない(肉体的に見聞できる範囲はごく限られている上、第三者が情報を共有したり、相互検証したりする事が難しい)。
われわれが語り得る、あるいは説得力を持つものとして孫引きし得る知見の事実上全ては、何らかのメディアに載っていたものです。
ttp://www.mlpj.org/what-j.html
>・『メディア・リテラシー:リソースガイド』
>(カナダ・オンタリオ州教育省編、FCT訳、リベルタ出版)
>(1)メディアはすべて構成されたものである。
>(2)メディアは現実を構成する。
>(3)オーディアンスがメディアから意味を読み取る。
>(4)メディアは商業的意味をもつ。
>(5)メディアはものの考え方(イデオロギー)と価値観を伝えている。
>(6)メディアは社会的・政治的意味をもつ。
>(7)メディアの様式と内容は密接に関連している。
>(8)メディアはそれぞれ独自の芸術様式をもっている。
メディアは現実を「構成」(再構成)します。
それを「偏向している」と表現するのは自由です。
が、その「構成」の「文脈」そのものを認識し、可能ならば相互比較の対象にする事が重要であると云う認識を、私は受け入れています。
われわれが広範な「現実」を認識する方法は他にない(他者によって構成されたものを取捨選択しながら、自分なりの「現実」を再構成して行くしかない)と考えているからです。
前提として「唯一の現実」が存在せず、全ては「構成」されたものであるならば
>レン・マスターマンによる
>「メディア・リテラシーの18の基本原則」
>12.メディア・リテラシーはその探究を討論によるのではなく、対話によって遂行する 。
認識を豊かにするために出来る事は、基本的には「対話」する事でしかない。
どのメディアに載っている情報も「正しい」のではなく、独自の文脈で「構成されている」に過ぎないのであれば、その正否を厳しく問うよりも、「誰が、いつ、どのような文脈で語った事を己の認識としたのか」を知り、互いの認識を豊かにしたほうがいい。
厳しく討論し、正否判定をしたところで、それは個々のコンテンツ(ある記事や文章)がどれだけ生の事実(直接証言や物証)に接近しているか、あるいは矛盾の少ない解釈をしているかという事を問えるに過ぎない。
個人の認識はそれらの総体であって、事実誤認や認識の相違を「訂正しあう」事には意味があっても、現実認識そのものは討論の対象でなく、「個々の事実のエラーに気づいたら修正」程度の文脈で対話するのがいいんじゃないでしょうかね。
討論は(それはそれで)楽しいにしても、「大づかみな国情とか世間の事情」とか言うものは、どんなに突き詰めようと、所詮決定論で語れるような事ではないのですから。
- 親記事No.4343スレッドの返信投稿
- board4 - No.4407
Re:↑への苦言
- 投稿者:蜃気楼
- 2003年07月24日(木) 10時14分
> なによりも、朝日と提携している上記メディアは、そもそも「自国が正義」といった主張を日頃からしているのですか?その事実がないと、朝日の論調を都合よく利用している、という前提が崩れると思いますが。
少なくとも、CNNは「自国が正義」と言う報道をよくしますね。
湾岸戦争の際「石油まみれの水鳥」の映像を巧みに利用して、
「フセイン=悪」の図式を世界中にばら撒いたのは有名な話です。オリジナルの映像では「石油が流出したのは多国籍軍の所為」であるとにおわせるコメントがあったのですが、これをカットし、都合のよい映像に仕立て上げました。
今回のイラク戦争でも、反戦デモの扱いがあまりにも小さすぎたり(コレは他のアメリカメディアもおおむね同じ)反戦CMを拒否したりしています。
「自国が正義」というのは程度の差はあってもありとあらゆるメディアの基本的性格ですよ?日本が例外なだけです。
で、あるから、NYタイムズもこの例に漏れず「自国が正義」なメディアだと思いますがどうでしょうか?
たとえば、イラク戦争はどのように報じたのでしょうか?興味があるのでお教えください。
あと、例の南ドイツ新聞の記者は「ドイツはしっかりと賠償したが日本はしてないだから日本はだめ」というのが持論の人です。
当然、朝日新聞とも仲がいいです。そんな人物にさえ「宗教新聞」と言われる意味を考えてみてはどうでしょうか?
- 親記事No.4343スレッドの返信投稿
- board4 - No.4408
Re:↑への苦言
- 投稿者:シーカー
- 2003年07月24日(木) 20時47分
> ただ、あなたのおっしゃることは、(1)論理の飛躍があり、(2)自己矛盾しているように、私には思われます。
> (断定するつもりは、現時点ではありません。私の考察が間違っていると思うなら、反論してください。)
矛盾をどうこう言うのが実体無き神学論に過ぎないと言うのが主題です。
> (1)論理の飛躍
上記に基づいております。
最初にここについてだけと矛盾と言う言葉の部分だけ抜き出したのですが、
分かり辛かったですか?
それでしたら申し訳ありません。
故意に無視されたのなら、それはあなたの問題だと思います。
> (2)自己矛盾
> あなたが言うとおり、ジャーナリズムが二枚舌で、お金をもらえばコロリと態度を変える存在なら、あなたが朝日を批判する根拠として挙げた「欧米のジャーナリズムに宗教新聞と呼ばれた」こと自体が、意味のないものになるではありませんか。そのドイツの新聞記者が、朝日の商売がたきから謝礼をもらって、そういう発言をしたのかもしれませんよ。
何故?朝日が二枚舌であるなど一言も言っておりませんが?
CNNやNYタイムスは欧米的やり方を平然と使う存在であると示唆しましたが、朝日が?
朝日はバカであるとは示唆しましたが。
何処がどう矛盾なのでしょう?
分かりかねます。
正直申し上げて都合良く内容を置き換えて飛躍なさっているのは、
あなたに思えるのですが如何でしょう。
- 親記事No.4343スレッドの返信投稿
- board4 - No.4409
Re:↑への苦言
- 投稿者:Ken
- 2003年07月26日(土) 06時17分
まずは、回答をいただきありがとうございます。
さて、CNNやNYタイムズに対する私の印象ですが。
簡潔に言えば、NYタイムズは米政府への批判が強く、CNNは徹底した等距離主義、というところでしょうか。
私は、国際問題は米メディアのウェブサイトで追いかけることが多いのです。イラク戦争をやる最大の理由は、イラクが「大量破壊兵器を開発していること」と「アル・カイダを支援していること」というのが、米政府の主張でした。ところが戦後いくら探しても、大量破壊兵器もアル・カイダ支援の証拠も見つからない、という事情を私が知ったのは、NYタイムズを含む米メディアの報道でした。なかでもNYタイムズは「きつい」言い方が目立つと思います。コラムニストによっても差がありますが、クラグマン論説委員などは、
「ありもしない脅威をでっちあげたのは、いつもながらの政治的腐敗による偏向で、それを批判する人々を非愛国者呼ばわりしている」
と政府を批判しております。同じくクリストフ論説委員は、
「ジェシカ・リンチが弾薬が尽きるまで戦ったとか、イラクが捕虜の彼女を撃ったとか、米軍の救出部隊が突入して彼女を救い出したとかいうのは英雄物語を作るためのフィクションである」
などと暴露記事を書いています。
(ちなみに、私自身は、これらの記事を全面的に信じているわけではありません。)
CNNですが、このメディアは何を報道するにも必ず「両方」の側から報道するのを、社是にしているのではと、私は思っています。
蜃気楼さんは、石油まみれの水鳥の例を挙げられました。仰るとおりの経緯があるのなら、確かに一つの偏向です。(この話の情報源は何ですか?)
ただ、湾岸戦争時のCNNの行動を問題にするなら、何といっても、バグダッドから市民が受けている「空爆の被害」を報じ続けたことを思い出すべきでしょう。その影響は水鳥の映像どころではなく、イラク政府を喜ばせ、米政府を怒らせたはずです。そもそも、当時サダム・フセインがCNNにのみ会見を許したことを、どう解釈されますか?
私は、CNNは、戦争のための活動も反戦活動も、報道していると思いますが。「反戦デモの扱いがあまりにも小さすぎる」というのは、なにか具体的な数字に基づいてのことですか?
中東戦争の話ではありませんが、98年にCNNは「冷戦」という全24回の大作ドキュメンタリーを放映しました。私は大きな衝撃を受け、全部録画してDVDに残しましたが、何に衝撃を受けたかというと、このシリーズが米ソ双方の「汚い部分」を暴いていったことです。
ソ連側の汚い部分、強制収容所や秘密警察、ハンガリーやチェコへの介入と弾圧を描いていたのは、いまさら新鮮でもありません。
しかし、米側の汚い部分--共産党が優勢だったイタリア総選挙への干渉、チリのアイエンデ政権に代表される西半球の反米政権を陰謀と暴力で次々と崩壊させたこと--などを次々と紹介したのは、さすがCNNでした。カストロとのインタビューは、シリーズを通して数十分に及び、アメリカへの非難を存分にしゃべらせていました。
特に、今、私の印象に残る部分が二つあります。一つはアフガンへ侵攻したソ連と戦わせるべく、後にタリバンとなるゲリラを、アメリカが支援していたことを詳しく報じた点です。当時の安全保障担当補佐官ブレジンスキがアフガン・ゲリラを「君たちは神の兵士」と激励しているシーンが出てきますが、CNNは98年に放映したこのシーンを、意地悪くも9・11の後、アメリカがタリバンとの戦争へ向かっているときに再放送しました。ブレジンスキ氏は激怒したのではと思います。
もう一つは、「赤狩り」時代に、共産主義のシンパと疑われた人々への査問会のシーンです。その一つ、映画脚本家ジョン・ハワード・ローソンへの査問は、だいたい、こういう感じで続きます。
査問者「あなたは共産党のメンバーだったことがあるか?」
ローソン「そういう質問はアメリカではできないはず」
査問者「逃げずに質問に答えよ。あなたは共産党に入ったことがあるか?」
ローソン「私は権利を保証された合衆国市民であり、いま言った以外の回答をしようがない」
査問者「では共産党にいたことを否定するのか?」
ローソン「私の信条を公開する義務はない。合衆国市民なら理解するはず」
査問者「もういい!退席したまえ。」
ローソン「あなた方は何の権利があって、私の権利を踏みにじるのか」
査問者「この男を退席させよ!」
私はこのシーンを見て、「査問会」のヤンとネグロポンティの応酬は、ぜったいこれをネタにしてる、と思いましたよ。
「冷戦」によると、結局、ローソンを含む十名が監獄行きとなりました。CNNはその中の一人の生存者に、その不当性を語らせています。
私の感想を言えば、米メディアが自国の暗黒部分を暴き出すやり方に比べたら、朝日のやってることなどたいそう穏やかだと思います。
>あと、例の南ドイツ新聞の記者は「ドイツはしっかりと賠償したが日本はしてないだから日本はだめ」というのが持論の人です。
当然、朝日新聞とも仲がいいです。そんな人物にさえ「宗教新聞」と言われる意味を考えてみてはどうでしょうか?
そうでしたか。
ちなみに、その人はどういう意味で、朝日を「宗教新聞」と呼んだのか、分かりますでしょうか?もう少し、前後の文脈の中で紹介していただけると、ありがたいのですが。
それによって、その人の言う「朝日の宗教的な部分」が他のメディア(CNNやNYタイムズ)にもあるのか、考察ができるかもしれません。
- 親記事No.4343スレッドの返信投稿
- board4 - No.4410
Re:↑への苦言
- 投稿者:蜃気楼
- 2003年07月26日(土) 13時33分
>CNNですが、このメディアは何を報道するにも必ず「両方」の側から報道するのを、社是にしているのではと、私は思っています。
金になるニュースに目がないと言う気がするんですが、理由は後述。
>蜃気楼さんは、石油まみれの水鳥の例を挙げられました。仰るとおりの経緯があるのなら、確かに一つの偏向です。(この話の情報源は何ですか?)
かなり有名な話で、日本のテレビでも何度か検証されていたはずです。
>そもそも、当時サダム・フセインがCNNにのみ会見を許したことを、どう解釈されますか?
中国における朝日新聞のように独裁者に取り入ったからです。当事の報道局長が告白しました。アクセスよりも報道の自由をとるのが通常であるにもかかわらず、このようなことをするのが、金になるニュースに目がないように見える理由です。あとは個人的にそう感じるからというのもあるんですが。(この辺の姿勢は「アメリカより」の姿勢と矛盾しているように見えますが、商売のほうが大事だったんでしょう。)
あるいは、湾岸戦争においてもっともパワーのあったマスメディアだったからかもしれません。
>私は、CNNは、戦争のための活動も反戦活動も、報道していると思いますが。「反戦デモの扱いがあまりにも小さすぎる」というのは、なにか具体的な数字に基づいてのことですか?
「具体的な数字」ってなんですか?ストップウォッチを使って、報道に使った時間を計れって言うんですか?
個人的な経験として、「アメリカってそんなに反戦デモがあったの?CNNは言ってなかったよ」というのが有ります。「事実」は伝えていたのかもしれませんけど、「実感」できませんでした。
他にも似たようなことを感じた人はいるみたいです。下記は日経BPの記事です。
「反戦運動が盛り上がっても報道されない米国 」
米最大のニュース専門チャンネルとして有名なCNNは反戦運動に冷淡で、批判が強まっている。
ttp://biztech.nikkeibp.co.jp/wcs/leaf/CID/onair/biztech/biz/230624
>中東戦争の話ではありませんが、98年にCNNは「冷戦」という全24回の大作ドキュメンタリーを放映しました。
米ソの悪事の割合はどのくらいだったでしょうか?
ソ連の悪事も描いているあたりがエクスキューズと感じるのは私の偏見ですね。何でこんな偏見を持つようになったかといいますと。
アフガニスタン空爆の報道さい必ずといってよいほど(時にはとってつけたように不自然なこともあった)テロの犠牲者に言及していたので、おかしいと思いつつも、それだけテロの衝撃が大きいんだと思っていたら、英ガーディアン紙に偏向報道を指示していたことをすっぱ抜かれました。
>ちなみに、その人はどういう意味で、朝日を「宗教新聞」と呼んだのか、分かりますでしょうか?もう少し、前後の文脈の中で紹介していただけると、ありがたいのですが。
2chからの転載になってしまいますが、同じようなことを書いた文章自体は、どっかの活字メディアで読んだ記憶があります。
<南ドイツ新聞の東京支局長で有名なジャーナリスト、ヒールシャー氏は、
「ヨーロッパの基準で言えば、絶えず政治の革新を訴えている産経新聞はリベラル・レフトだ。
願望で政治を語っている朝日新聞は宗教新聞だ」というようなことを言った。>
記憶で補足すると、読売が中道で、毎日が極左だったと思います。
「朝日新聞は超極左新聞」でもいい気がしますが、「宗教新聞」です。(笑)
なんで「宗教新聞」なのかは、感覚としてはわかるんですが、説明するとなると難しいですね、「事実よりも理想を書く傾向」なんかは理由の一つではあると思いますが、それが全てではありませんし・・