- 親記事No.5193スレッドの返信投稿
- board4 - No.5205
Re:改めて、ラインハルト死後の軍制
- 投稿者:佐々木公彦
- 2004年02月10日(火) 17時48分
えーとですね。
重要なのは、職名と言うよりは、権限です。
ラインハルトが、そうであったように軍権を握るのか、もしくは、名前だけで、少なくとも平時にはお飾りにすぎない地位とするのと、どっちが良いかと言うことです。
- 親記事No.5097スレッドの返信投稿
- board4 - No.5206
Re:IKさんへ
- 投稿者:よりこ
- 2004年02月11日(水) 00時20分
IKさんこんにちは、はじめまして。よろしくお願いします。
そして、レスが遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
< おそらく、よりこさんがお嫌いであろう、「本論からずれた議論」になるやも知れませんが、引用の是非について少々疑問に思うところがありましたので、お相手いただければ幸いです。 >
いいえ、「本論からずれた」とかいうことではなく、IKさんの今回のご意見は私の主張に対するご自分の疑問について問い質しをなさっているのだと思いますし、また自らの発言責任を果たすためにも、私もできうる限り回答するべきだと思いますから。
< 確実に引用をするというのはどこからどこまでをすればいいのでしょう。
ある文だけを抜き出しても、その文がどういう文脈、経緯で書かれているかによってかなり意味が違ってくるでしょうし、厳密に言うならば文章まるごと、本一冊引用しないといけないなんてことも理屈としては成り立つのではないでしょうか。 >
引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは『自分の主張の基盤となるニュースソースに該当するもの』と私は考えており、『最初に自分が意見・批判を主張する際に選択・判断・決定することである』と思います。
引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは、その意見・批判の種類や性質、あるいは意見・批判を述べる人物によっても千差万別だとも思いますし、一概には言えません。
それを読む他者で「最初に開示されたデータでは不十分だ」と思う人は改めて尋ねれば良いだけでは。
そして、「その文がどういう文脈、経緯で書かれているか」については、元々の意見・批判の文章に対する他者のレスに対してさらに説明なり反論なりを行う際に、必要に応じて新たに述べれば良いことではないのでしょうか?
(…と、いうより「議論でのやりとり、って結局そういうことではないのか?」と私は思うんですけど…)
< 今回、「中国武将列伝」という田中氏の著作でもマイナーな著作であったがために、引用の是非が問題として浮かび上がりましたが、「銀河英雄伝説」や「創竜伝」といったメジャー作品について厳密な引用がなされないこともしばしばであり、それについては、これまでのところ問題にされた、という記憶がありません(あるのかも知れませんが、引用のなさ、不正確さに対してその指摘がいちぢるしく少ないとは言えるのではないでしょうか)。 >
ちょっと待ってください。
< 今回、「中国武将列伝」という田中氏の著作でもマイナーな著作であったがために、引用の是非が問題として浮かび上がりました >と、IKさんはおっしゃいますけど、5097の國臣さんの田中芳樹氏批判から始まったスレッドのどこで何の箇所から、そしてどうしてIKさんはそう解釈なさったのでしょうか? 全く思いもよらない話題を持ち出されて私はひどく困惑しております。
少なくとも5177での私も5178でのななえさんも、そんな事柄を問題視はした覚えは一切ありませんし、話の論点が全く違うとも私は考えますけど。
今回私が國臣さんに対して申し上げたのは「ロクなデータも挙げない批判行為の妥当性」と「自分自身は“中国武将列伝”の文章を具体的に挙げた上で指摘しない・できないくせに、他人(ゲルミルさん)に対しては< 具体的な誤りのご指摘があれば、お願いします >と、いけしゃあしゃあと臆面も無く要求する発言」、そして5178のななえさんが國臣さんに対して言ったのは「國臣さんいわく“かなり前”の記憶にしか基づかない批判内容の確実性と他者から視た信頼性」を問うたものであり、これらのテーマとマイナーな著作・メジャーな著作での引用云々とは完全に無関係な話だと私は思います。
「そんなことはない。マイナーな著作・メジャーな著作での引用と関係ある話だ」とおっしゃるならば、どう「ロクなデータも挙げない批判行為の妥当性」あるいは「自分自身は文章を具体的に挙げた上で指摘しない・できないくせに、他人に対しては具体的な指摘を要求する発言」または「記憶にしか基づかない批判内容の確実性と他者から視た信頼性」と関わるのかについて、お手間を取らせて申し訳ありませんがご説明をお願いします。 オツムが足りない私には全く解りませんので。
と、いう訳で申し訳ありませんが、IKさんのどう関わるのかについてのご説明に私自身が納得できない限り、「マイナーな著作・メジャーな著作での引用」関連の話題は“私の大嫌いな横道に逸れた議論”に該当すると見なしますから今後はパスさせていただきますので、悪しからずご了承をお願いします。m(_ _)m
< 前提知識を期待すること自体が不当だと言うのであれば、その不当さは、「銀河英雄伝説」「創竜伝」にもあてはまるのではないでしょうか。
「銀河英雄伝説」「創竜伝」を未読、かつ所有していない参加者にとっては、「文脈も踏まえてきっちりと引用して貰わないと議論に参加できずそもそも正否の判断をつけようがない」という状況は、今回の件における「中国武将列伝」未読の人と大差ないと思われます。 >
では逆にIKさんにお尋ねしたいのですけど、田中芳樹を撃つ!の閲覧者は、「銀河英雄伝説」「創竜伝」を既読で所有しているであろうと思しき方々が多いと考えられるにも関わらず、「管理人の本論」における管理人さんや、「私の創竜伝考察」その他での冒険風ライダーさんは、なぜ一々小説の文章というデータを記載なさるのでしょうか?
< 前提知識を期待すること自体が不当だと言うのであれば、その不当さは、「銀河英雄伝説」「創竜伝」にもあてはまるのではないでしょうか >については、私は「全くそのとおり!」と回答します。
田中芳樹氏批判にしろ、田中芳樹を撃つ!批判にしろ、その他の意見にしろ、自分の意見・批判についての基盤となるデータに関する「前提知識」を、見も知らぬ他者に期待するなんて甘ったれるのも大概にしろ、とも私は思っています。
今回の5097での國臣さんの田中芳樹氏批判を例に挙げるなら、私ならばこのようにデータを開示します。
ちょっと長いのですけど、ご辛抱ください。
例文
(「中国武将列伝 おわりに」より抜粋)
< 今年は司馬遼太郎さんが亡くなられて、歴史小説界はそれだけで話題持ちきりという感じでした。司馬さんの──さっきから、非常になれなれしいいい方を、しているんですが、ちょっと他にいいようがないので、これで失礼させていただきます。でもって、司馬さんの傑作のひとつでぼくも好きな作品に『関ヶ原』というのがあります。
(中略)
『関ヶ原』がなぜ傑作であるかという、ぼくなりの意見を述べさせていただきますと、石田三成、直江兼次、島左近という三人について、非常に魅力的な虚像をつくりあげたという点にあると思います。
歴史小説の使命というのは、実像を暴くことでありませんね。ときどき実像を暴く小説なんて出版広告があって、どうもこれは矛盾があるんじゃないかと思うのです。実像を暴くのは学問やノンフィクションの仕事であって、歴史小説の使命──というのもおおげさですが、存在意義というのは、魅力的な虚像をつくるということにあるんじゃないかと、ぼくはずっと思ってました。ですから、その意味で『三国志演義』などは大傑作というしかありません。ただあくまでもフィクションですから、読者のほうが史実との区別をつけながら読んだ方がいいということです。
(中略)
話をもどしますと、石田三成というのは、そうとうに嫌なやつなんですね。どう嫌なやつかというと、校長先生お気に入りの風紀委員長といえは、現に委員をやってる人には失礼ですが、やっていない人たちにはかなりよくわかっていただけるかと思います。もっと嫌ないい方をすると、虎の威を借る狐ですね。バックに強大な権力を持った人がいて、その人のバックアップを得て初めて能力を発揮できるというようなタイプです。石田三成はたとえば千利休切腹事件とか豊臣秀次一族の皆殺し事件なんかにもかなり主体的に関わっておりまして、正義感だけで行動しているような人ではありません。
有名な話ですが、あるとき三成が杖を落とします。ちょうど通りかかった徳川家康が自ら杖をひろいあげて三成に差し出すと、三成はは無言でそれを引ったくって、そのまま行ってしまいました。三成びいきの人に言わせると、たった十九万石の三成が二百五十万石の家康にへつらわなかった、三成は偉い、ということになるのですが、これは単に三成が非常識で礼儀知らずだったというだけというだけのことでしょう。落とし物を人に拾ってもらっておいて礼もいわないんですから。そもそも三成は独立した十九万石の小諸候というわけでなくて、バックに秀吉の強大な権力があるのです。だから家康の家臣たちも、歯ぎしりしながら三成に手が出せなかった。そういう三成が司馬さんの筆にかかると、非常に不器用なほどに正義感の強い、清潔な人間像という形で浮かびあがってくるのです。
(中略) *注意 直江兼次と島左近に関する著述は、國臣さんの5097の批判にも概略程度にしか記載されていない故に省略しています。
というわけでこの三人、実際にははっきりいって全然たいしたことないんですけども、それが司馬さんの筆にかかると、家康に匹敵するような才能と魅力を持った人物として造形されるわけです。ぼくたちは関ヶ原の戦いの後に、家康が豊臣家を滅ぼすためにいかに悪辣な手段をとったかということを知っていますから、もう関ヶ原の時点から家康は悪いやつだという先入観を持ってしまうんですけど、あの当時の人にそんなことはわかりませんね。とにかく豊臣秀吉というのは、日本人として一番人気があるといっていいキャラクターですけども、天下統一後の豊臣政権というのは、日本史上最悪の政権だといっていいと思います。ひとつには無意味な外征をする。ひとつには重税ですね。これは江戸時代よりはるかに重い税を農民に負担させています。それを計画立案したのが長束正家で、実行したのは石田三成ですね。それから三番目には弾圧粛清。豊臣秀次の一家、お妾だけで何十人もいたというんですが、それから小さな子供にいたるまで皆殺しにしている。普通、戦をやっても、小さな子供、特に女の子なんかは命を助けるものです。大阪の陣の後、家康は秀頼の子供のうち男の子は殺していますが、女の子は尼さんにして命を助けていますね。戦でもそうなのに、平時にそういうことをやった権力者というのは、ほかにいません。そして最後に、無益な大土木工事。以上の四つを同時並行してやってのけたのは、日本史上、豊臣政権だけです。秀吉というのは、おそらく日本史上ただひとり、隋の煬帝のような中国的暴君になる資質を持った人だったのです。
それで秀吉の死後に──そのころはもう前提として秀頼の跡取りというのはあったわけですね。ですから幼少の秀頼のを補佐する重臣を誰にするかということで、家康と三成のどちらをとるかということになります。まあ三成をとったんでは、結局のところ今までの政策が推進されるだけですから、これじゃたまらんと思っている人は、家康につかざるを得ないわけですね。関ヶ原の戦いというのは、もちろん徳川対豊臣という意味の戦いではありません。実のところ、家康派と三成派の戦いですらないんです。アンチ三成派とアンチ家康派の戦いなんですよね。つまり、東軍についた諸将、福島正則なんかはべつに家康に天下をとってもらおうなんて思っていなかった。三成に天下をとられてたまるかと思ったから東軍になったし、西軍の宇喜多秀家だって、べつに三成に天下をとってほしいなんて思っていない。家康にとらせてたまるかというので戦ったわけです。
特に東軍に参加した諸将の場合、動機に「恐怖」があったと思います。石田三成が天下をとったらどうなるかという恐怖です。たとえば細川忠興などは、千利休の弟子で、関白秀次の友人でした。秀次が一家皆殺しにされたとき、忠興も三成によって粛清されそうになり、家康を頼ってようやく助かるわけです。ですから三成が天下をとるというのは忠興にとっては悪夢というしかない。生きるために家康について必死に三成と戦うしかないわけで、勝って大諸候になったというのは結果でしかありません。
これを、「三成をはじめとする西軍は豊臣家のため戦った正義派だ。東軍の諸将は豊臣家の恩を忘れ、利をむさぼるために家康についた」と決めつけるのは、ずいぶんと粗雑な意見だと思います。そもそも天下は豊臣家の私有物ではありません。むろんこの逆に、家康が正義の味方ということでもありませんけど。
それにしてもやはり関ヶ原の戦いというのは、やっぱり日本史上最大の──不謹慎ないい方をすれば──イベントで、そこに焦点をあてて関ヶ原ものというジャンルをつくっただけでも、あの作品はやっぱり記念碑的な傑作だと思うわけです。 >
…このようにデータを提示したら、次に行うのは理由の説明──「データからどのようにして主張または結論が導かれるのかについての理論の提示」と「データと主張または結論を結び付ける役割の立証」──になります。
ここからの話は、先程も書き込みました「引用をする“データ”というのはどこからどこまで出せばいいのかは『自分の主張の基盤となるニュースソースに該当するもの』と私は考えており、『最初に自分が意見・批判を主張する際に選択・判断・決定することである』に関することです。
つまり、自分の主張や結論の裏付けとなる情報の要るものは取り不要なものは捨てる、すなわちデータを『取捨選択』した上で開示します。
上記の文章に(中略)というのが三箇所ありますよね?
これは、不要と判断して捨てた箇所が(中略)という意味です。
それはおかしい、とIKさんはお感じになりますか?
では、新聞やテレビ・ラジオのニュースはどうでしょうか? 取材その他の手段で入手した情報を全く『取捨選択』もせず垂れ流すように報道しているのでしょうか?
あと、冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察」はどうですか? 冒険風ライダーさんはご自分が読まれた「創竜伝」の文章というデータを全く『取捨選択』もせずに開示なさってるのでしょうか?
結論を言えば「新聞やテレビ・ラジオのニュース報道におけるデータの開示とは、送り手が取捨選択した情報を受け手に伝わること狙ったもの」であるのに対し、「議論におけるデータの開示とは、書き手と読み手の双方が共通認識を持ってスムーズで確実な話ができるように書き手が取捨選択したもの」だと私は考えます。
[余談]
なお、釘を刺させていただきますが、今回私が「中国武将列伝 おわりに」の文章を書き込んだのは、あくまで『私が國臣さんならばこのようにデータを開示する、という例文』であって、この「中国武将列伝 おわりに」の内容に関する議論に参加する気は一切ありませんので、予めご了承ください。
< # 上記の『データ』と『理由』の概念の出展は、イギリスの分析哲学者ステファン・E・トゥールミンの著書
(中略)
からきています。 >
< 邦訳のない、一般的とも言えない英文の著作を「根拠」として挙げられて、とまどいます。 >
確かに、トゥールミンの「The Uses of Argument」とという書物そのものは現在邦訳されてはいませんが、「根拠=データ(Data)+理由(Warrant)」という、通称「トゥールミンモデル」と呼ばれる概念についての解説が記載された日本語の書物は存在します。
「トゥールミンモデル」についての解説がある日本語の書物とは下記の二冊です。(ただ私の知る限りの物ですので探せば他にもっとあるかも知れません)
『議論のレッスン』福澤一吉著 NHK出版・生活人新書刊
議論行為についてとルールの説明を主眼においた初心者向けの解説本です。
この掲示板で議論に参加されるのであれば一読を薦めます。
『議論の論理=民主主義と議論=』足立幸男著 木鐸社刊
副題が「民主主義と議論」とあるように、政治学・政治哲学の話題を主軸にして、議論の種類と構造について述べた理論書です。
こちらは政治問題に興味と関心をお持ちの上で、議論についてより深くお知りになりたい方向けです。
[余談]
「議論のレッスン」は税抜¥680で書店にて購入できますが、「議論の論理」は現在絶版で再版予定も無いとのこと。
「議論の論理」を読まれるなら図書館を利用されると良いと思います。
私も大阪府立図書館で借りて読みましたから。
< この、スティーヴン・E・トゥールミン氏の著作の部分を根拠として挙げられるならば、まず引用されたうえで、さらにどうしてそれが根拠となり得るのかを検証していただかないといけないのではないでしょうか? >
このご意見に対する回答には、お時間をいただけませんでしょうか。(具体的にどのぐらい時間が掛かるかまでは算出できないんですけど…)
難問なのと作業(翻訳・調査・推敲その他)に手間が掛かると見てますので、かなり手こずると思います。
申し訳ありません。
< 「田中芳樹作品」を論じる場で田中芳樹作品を前提知識として期待するのは必ずしも不当とは言えない私は考えますが、哲学プロパーの議論場とは言えないであろうこの場で、トゥールミン氏の著作を前提知識として期待するのは不当ではないでしょうか。 >
申し訳ありませんけど、これはかなり見当違いなおっしゃりようではないでしょうか。
私の5177の「根拠」に関する文章は、「根拠とは、データと理由で成り立つものであり、それぞれこういう意味である」という主張がメインであり、トゥールミンの名前や書名を出したのは「私が主張した“データと理由の概念”の出展はこれであり、私自身の思い付きではない」というだけの余談、言わばオマケ、トリビア(笑)にしか過ぎません。(他の文章と区別がつくようにと思い文頭に「#」とわざと付けたのですけど解り辛かったようですね…これからは「余談」と書くようにいたします)
そして、トゥールミンに関する諸々が、この田中芳樹を撃つ!というサイトの閲覧者の方々に「前提知識として期待する」のはお門違いもはなはだしいことぐらいは私も最初から承知していますし、今後も「前提知識として期待する」気などさらさらございません。
根拠に関することで私がまた、この掲示板に書き込む時には、田中芳樹を撃つ!の閲覧者の方々には元々「前提知識が無いもの」と見なして新たに記入します。
…これで、回答になっておりますでしょうか?
< よりこさんが提示された問題は今後「田中芳樹を撃つ!」で議論がなされていくうえで、極めて重要だと考えましたので、敢えて疑義を提出いたしました。 >
ありがとうございます。
國臣さんへの激怒から来た私のログに対して、そのように過大な評価をしていただけるなんて思ってもみませんでしたので、とても恐縮です。
取り敢えず今回はここで失礼します。
- 親記事No.5097スレッドの返信投稿
- board4 - No.5207
Re:観察者さんに感謝します
- 投稿者:よりこ
- 2004年02月11日(水) 01時15分
はじめまして、観察者さん。
このたびは適切にフォローをしてくださりありがとうございました。
< ステファン、もしくはスティーブン・E・トゥールミンディベートの教科書に登場するような著名な人のようです。 >
私は「ステファン」の方が「スティーブン」より響きが綺麗でいいな、というミーハーな理由で「ステファン」で呼ぶ&書いております。
確かに、ステファン・E・トゥールミンの名は日本ではあまり知られてはいませんけど、欧米の議論関連の書物などで彼の議論モデルと一緒によく紹介されています。
教えてくださった2つのサイトも早速見に行ってきました。
特に後者のサイトに、しばらくは何度も見に行くでしょう。
情報のご提供に感謝いたします。
< 実際50年近く昔の人で、その名は知られておらずとも、トーマス・クーンの「パラダイム」と同じように、その議論に対する論証モデルはほぼ公知のものとして広く使われているようです。
つまりそういうやり方が輸入された時(われわれの大半が生まれる前)からこの人の論証モデルは使われており、われわれはディベート形式や、ものごとを突き詰めて討論する時に、知らずにこの人のモデルを使っているという事のようです。
というよりも、データのみを示して意見の理由付けを述べなかったり、意見の裏づけとなるデータを示さないか、それを恣意的に編集するようなやり方を避けるべきというのは、原典となるデータが確実にある(田中氏の著作)この掲示板の過去の論考でも示されており、(例えば、冒険風ライダー氏などの論考では、引用した文献や出典が、田中氏の著作以外でもかなりはっきりと明示されていますが)
今回の突っ込みもそうした性格に類するものではないかと思われます。 >
お…大当たりです(笑) 今回のケースは、國臣さんがどれくらい前に読んでどの程度確実に言えるのかもはなはだ怪しい記憶に基づいた田中芳樹氏批判を、データの開示どころか原著を読み直して確認すらせず臆面も無く振りかざすログ&スレッドを読んでいるうちに、私の堪忍袋の緒がブチ切れた故のツッコミでした…
私ですら5177の書き込みをする前に「中国武将列伝」の下巻(ついでに上巻も)と「関ヶ原」をわざわざ図書館に行って借りて目を通して國臣さんとの丁々発止に対して備えてたのに、批判する当の本人が原著を読み直しもしないとは…
もう一度お礼を申し上げます。
観察者さんありがとうございましたm(_ _)m
- 親記事No.5097スレッドの返信投稿
- board4 - No.5208
Re:IKさんへ
- 投稿者:IK
- 2004年02月11日(水) 03時58分
> IKさんこんにちは、はじめまして。よろしくお願いします。
> そして、レスが遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
いいえ、多分にまとはずれであるかも知れない私の書き込みにかくも早いレスポンスに感謝いたします。
> 引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは『自分の主張の基盤となるニュースソースに該当するもの』と私は考えており、『最初に自分が意見・批判を主張する際に選択・判断・決定することである』と思います。
> 引用をする「データ」というのはどこからどこまで出せばいいのかは、その意見・批判の種類や性質、あるいは意見・批判を述べる人物によっても千差万別だとも思いますし、一概には言えません。
> それを読む他者で「最初に開示されたデータでは不十分だ」と思う人は改めて尋ねれば良いだけでは。
> そして、「その文がどういう文脈、経緯で書かれているか」については、元々の意見・批判の文章に対する他者のレスに対してさらに説明なり反論なりを行う際に、必要に応じて新たに述べれば良いことではないのでしょうか?
> (…と、いうより「議論でのやりとり、って結局そういうことではないのか?」と私は思うんですけど…)
常識としてよりこさんのおっしゃることはもっともだと思いますし、常識としては私も支持しますが、私はいささか極端な場合を考えているのです。
データの引用の範囲の正当性が主観的にならざるを得ないのだとしたら、あらゆる言葉、概念に厳密な定義を要求し、引用の拡大を求め、議論の霍乱、端的に言えば「嫌がらせ」をすることも、手続きとしてはまったく「正当」な手順を踏みながら可能になるのではないでしょうか。
これは確かに本題からずれているかも知れませんが、よりこさんのおっしゃる常識的には至極もっともな議論態度を「そうでなければならない」とした時に発生するであろう実際的な懸念です。
現実に意図してかどうかまでは判別できませんがそうした型の論者もいるようですし、そうした「ずれた議論」を正当化する根拠を結果として、「議論の前提としてきっちりと定義・引用をしなければならない」というまっとうな態度が与えてしまうこともあるのではないでしょうか。
私はディベート論には疎いのですが、トゥールミン・モデルではこのあたり、どう解決しているのでしょうか。
> ちょっと待ってください。
> < 今回、「中国武将列伝」という田中氏の著作でもマイナーな著作であったがために、引用の是非が問題として浮かび上がりました >と、IKさんはおっしゃいますけど、5097の國臣さんの田中芳樹氏批判から始まったスレッドのどこで何の箇所から、そしてどうしてIKさんはそう解釈なさったのでしょうか? 全く思いもよらない話題を持ち出されて私はひどく困惑しております。
ここは確かに私の解釈が入っていたようでした。そもそもの論点はよりこさんのおっしゃる通りであり、それに対して、上記のような疑義を私は提出したのですが、「銀河英雄伝説」などでは見過ごされがちな同様の現象が今回特に浮かび上がったのは、「中国武将列伝」という作品ゆえなのかな、と考えて先走ったようです。
ただし「マイナー・メジャー論」とは実際的には無関係な話ではないとは思いますが、それについては以下の段で取り上げていらっしゃいますのでそこで論じましょう。
なお、「オツムが足りない私には全く解りませんので。」ということですが、私にはよりこさんがオツムが足りない方だとはまったく思えません。聡明なよりこさんには充分にご理解いただけるかと思いますが、こうした表現は「皮肉」ととられる恐れがあり、議論を無駄に刺々しいものにする効果がありますので、出来れば避けられた方がいいでしょう。國臣さんに対する「いけしゃあしゃあと臆面も無く」という表現も同様ですね。
こうした刺々しい表現のみを抜き出して「このような方と議論をすることは出来ない」と相手側に道徳的正当性を与えかねませんので。
これは老婆心(男ですけど)ゆえのお節介なので、お聞き辛ければ
聞き流してください(同じことは2度は申しません)。私もそう偉そうなことを言えた身分でもないんですけどね。
> では逆にIKさんにお尋ねしたいのですけど、田中芳樹を撃つ!の閲覧者は、「銀河英雄伝説」「創竜伝」を既読で所有しているであろうと思しき方々が多いと考えられるにも関わらず、「管理人の本論」における管理人さんや、「私の創竜伝考察」その他での冒険風ライダーさんは、なぜ一々小説の文章というデータを記載なさるのでしょうか?
これについて返答できるのは、管理人さんや冒険風ライダーさんはさすがに議論の常道を弁えていらっしゃるということです。
データ(根拠)を示して論をたてるというトゥールミン・モデルそのものは、「常道」としては適切なものだと思いますし、それについては前の書き込みでもその意は表明したと思います。
私が強調しているのは、「そうした方がいい」ことと「そうでなければならない」の違いです。
「そうでなければならない」とした時に、前記のような弊害が考えられる以上、この「常道」の採否は個々人に委ねるしかないと私は考えています。
もちろんそこから発生する議論の程度を、他人に評価されるのもこれもまた当然のことです。
< 前提知識を期待すること自体が不当だと言うのであれば、その不当さは、「銀河英雄伝説」「創竜伝」にもあてはまるのではないでしょうか >については、私は「全くそのとおり!」と回答します。
> 田中芳樹氏批判にしろ、田中芳樹を撃つ!批判にしろ、その他の意見にしろ、自分の意見・批判についての基盤となるデータに関する「前提知識」を、見も知らぬ他者に期待するなんて甘ったれるのも大概にしろ、とも私は思っています。
ここについては異見があります。この場はあくまで、「田中芳樹作品」について論じるというくくりがあります。もともとそういう閉鎖的な、主題が特化した場なのです。
「田中芳樹作品」に通じているのは参加者の資格として要求されてしかるべきではないでしょうか。たまたま通じていない場合はその議論に参加しなければいいだけのことです。
極端な話、学会などでの公開議論で、まったくそのジャンルに通じていない第三者が参加して、用語や概念の説明をいちいち求めることが適当でしょうか?
専門家の間では公知の文章などの引用を求めることが、適切でしょうか。
それに応えないと、専門家は「甘ったれ」だと指弾されてしかるべきなのでしょうか?
「田中芳樹を撃つ!」について具体的な場面を考えれば、例えば「ラインハルトは美貌である」という書き込みについても、いちいち出典を明記して論じなければならないという非効率を生むことにもなりかねません。
これがかなり極端な想定であるというのは承知していますが、「そうでなければならない」とした時に想定しておくべき状況ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
> 今回の5097での國臣さんの田中芳樹氏批判を例に挙げるなら、私ならばこのようにデータを開示します。
> ちょっと長いのですけど、ご辛抱ください。
この長い引用をされるのにどれだけ手間がかかったことでしょう。感謝と敬意の念を表明しておきます。
ただしこの手間をあらゆる人に要求するのは実際的ではない、と私は考えます。
例えば銀河英雄伝説であれば「ノヴェルズ版第何巻の何ページ」と典拠を示すだけで充分ではないかと思いますが。求められれば要約するくらいのことはした方がいいと思いますが。
> 上記の文章に(中略)というのが三箇所ありますよね?
> これは、不要と判断して捨てた箇所が(中略)という意味です。
> それはおかしい、とIKさんはお感じになりますか?
> では、新聞やテレビ・ラジオのニュースはどうでしょうか? 取材その他の手段で入手した情報を全く『取捨選択』もせず垂れ流すように報道しているのでしょうか?
> あと、冒険風ライダーさんの「私の創竜伝考察」はどうですか? 冒険風ライダーさんはご自分が読まれた「創竜伝」の文章というデータを全く『取捨選択』もせずに開示なさってるのでしょうか?
いずれにせよ個人を透過したうえで、「取捨選択」をするという限界があるわけですよね。その捨てられた部分こそ論を積み上げていく上で重要であるという人も当然いるでしょう。
そうして示されたデータが絶対のものとは言えないと私が考えるゆえんですし、絶対というものが可能かどうかも分かりませんが、この絶対に拘ったならば、議論はそもそも成立し得るのでしょうか?
[余談]
なお、釘を刺させていただきますが、今回私が「中国武将列伝 おわりに」の文章を書き込んだのは、あくまで『私が國臣さんならばこのようにデータを開示する、という例文』であって、この「中国武将列伝 おわりに」の内容に関する議論に参加する気は一切ありませんので、予めご了承ください。
ということですが、このスレッドの本論はあくまで、「中国武将列伝 おわりに」の内容に関する議論なのですから、データの提示方法に関する議論は「脇道にそれたもの」なのではないでしょうか。私は脇道にそれること自体は否定しませんし、よりこさんが提示された問題もこうして論じるに足るものであるとは思いますが、これも議論がきっちりと本論と脇道に分離できない、ひとつの現われではないかと考えています。
> 議論行為についてとルールの説明を主眼においた初心者向けの解説本です。
> この掲示板で議論に参加されるのであれば一読を薦めます。
この掲示板における議論のルールはトゥールミン・モデルに依拠しなければならないという規定でもあるのでしょうか?
> < 「田中芳樹作品」を論じる場で田中芳樹作品を前提知識として期待するのは必ずしも不当とは言えない私は考えますが、哲学プロパーの議論場とは言えないであろうこの場で、トゥールミン氏の著作を前提知識として期待するのは不当ではないでしょうか。 >
>
> 申し訳ありませんけど、これはかなり見当違いなおっしゃりようではないでしょうか。
> 私の5177の「根拠」に関する文章は、「根拠とは、データと理由で成り立つものであり、それぞれこういう意味である」という主張がメインであり、トゥールミンの名前や書名を出したのは「私が主張した“データと理由の概念”の出展はこれであり、私自身の思い付きではない」というだけの余談、言わばオマケ、トリビア(笑)にしか過ぎません。(他の文章と区別がつくようにと思い文頭に「#」とわざと付けたのですけど解り辛かったようですね…これからは「余談」と書くようにいたします)
残念ながら、と申し上げますが、これが見当違いとは思えません。ここの参加者の大半にはおそらくなじみが薄いであろう、トゥールミン・モデルなるものを「根拠」として、國臣さんの書き込みを批判された訳ですから、トゥールミン・モデルの是非はよりこさんの主張の根幹をなされる、重要なポイントになると思われます。
トゥールミン・モデルの大枠の説明はなされましたが、あらゆる状況を想定された上での、検証はされてはいないですよね。
それを欠いた上での「トゥールミン・モデルから外れているから駄目だ」とおっさるのは、トゥールミン・モデルなるものが、ここの参加者にとって公知である、前提知識であると想定されているからだとしか私には考えられません。
現状では、トゥールミンがそう言っているからそれは正しいという単なる権威主義にしか見えません。
もっとも、この点、次回以降、検証されるということですから、この書き込みで提出した私の疑問も踏まえて、ご説明いただけると随分、歩み寄れるのではないだろうかと期待しております。
-
- board4 - No.5209
5190 5191について、私なりの答え
- 投稿者:道之介
- 2004年02月11日(水) 11時40分
冒険風ライダーさんの意見とモノの言い方ですが、論理と理性があきらかに感じられません。田中先生の事を言う前に、ご自分の方をどうにかしたほうが、いいですよ。
それから、管理人さんは一般常識と、のべられましたが、一般常識で考えると、このホームページ自体ないほうがいい、という答えになりました。何度もいいましたが、私は、このホームページは、必要だとおもいます。(一般常識は別として)
冒険風ライダーさん、もうすこし頭をひやしてください。そして、冷静になりましたら、もう一度話しあいましょう。
もし、できなければ、その時はあきらめます。そういう、話あいができない方とみて。
それでは。