- 親記事No.4787スレッドの返信投稿
- board4 - No.4888
わあぷ
- 投稿者:新Q太郎
- 2003年11月11日(火) 14時40分
> > では「ワープ航法」が確立されている世界で~
> ガイエスブルグを動かすのにわざわざ実験が必要な程度の確立ですが。
でも、そんなに信頼性がなかったらそもそも皇帝陛下をはじめとする
要人を乗せてワープするのはそれだけでリスクが大きいのでは?
「あのイゼルローンのペテン師はどうした!」
「ワープ失敗で、艦隊ごと消滅したようです!!!」・・・銀河の歴史が、また1ページ。
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>「ワープ」の存在する世界で地球上と同じような概念の国家間戦争が起こることがおかしい
たしか、宇宙にはとにかくブラックホールだか星間物質?だかがあって、回廊以外は通れない、という設定だったっけ?個人的には「へーなるほど」と納得しちゃいました(笑)。
タイタニアで使った、ブラックホール-ホワイトホールだか何かを使ってのワープだけは可能で、そのためワープの場所は限定される、というネタを銀英伝でも使えばよかったのかもしれませんね
- 親記事No.4787スレッドの返信投稿
- board4 - No.4889
これは山本弘さんに聞くしかないかもしれんが
- 投稿者:新Q太郎
- 2003年11月11日(火) 15時03分
> なるほど、なるほど。つまり「現実世界」と「作品世界」の科学が齟齬をきたしているのは構わないが、「作品世界」の内部で矛盾があるのは駄目だと。
話が前後しますが、創竜伝はこのHPで指摘されているようにとにかく作品世界での矛盾がひどいわけですね。時はまさに世紀末なのか、新世紀なのか、民主主義は牛種の力によるものなのか、中国は混乱しているのか経済発展しているのか・・・
ttp://tanautsu.duu.jp/honron03.html
「アルマゲドンと同じ基準で判断して」この作品のトンデモ認定は可能なんだろうか?
ttp://tanautsu.duu.jp/honron03.html
-
- board4 - No.4890
いささかならず下品すぎるネタで恐縮ですが(汗)
- 投稿者:Trindskallarna
- 2003年11月11日(火) 15時08分
どもです。
先日、レンタルビデオ屋をぶらついて見つけたビデオで、
とんでもねえ下品なネタを思いつきました。
ちょっとここに開陳させて頂くのは気が引けますが、
どこかで披露しないとフラストレーションが爆発しそうなので
開陳させて頂きます。
不適切だと思ったら、削除しちゃって下さい。
削除キーは0303です。
「同盟軍が捕まって あんなことも!こんなことも!」
大人気 “捕まってあんなことも!こんなことも!” シリーズを
奇才・(人名につき削除)監督が手がけた!
…(以下、あまりにも下品すぎるため削除)…
・・・等々ハードプレイ満載!!
ヤ●・ウ●ンリーの理想を守るため、
耐え抜け、カ●ン!フレ●リカ!!
…ごめんなさい、下品すぎますね(汗)
ちなみに、姉妹作として
「パルス軍が捕まって あんなことも!こんなことも!」
また、こちらは特殊な趣向ですが
「竜王四兄弟が捕まって あんなことも!こんなことも!」があります(笑)
ちなみに、参考にさせて頂いたサイトはこちらです。
ttp://isp2.dmm.co.jp/biglobe/avst/-/detail/=/cid=84milv029
- 親記事No.4792スレッドの返信投稿
- board4 - No.4891
Re:構造の5(アルスラーン)
- 投稿者:S.K
- 2003年11月11日(火) 15時51分
> > その上で違う結論
>
> 結論そのものには興味がありませんので、期待には添えません。
> 「過程と、その構造」重視ですね。穴の有る無しがはっきりします。
じゃあ「結論」(「愚劣」「銀英伝と同じ作者の作品とは思えない」という評価)について貴方が言っているのは「いちゃもん」だな?
何せあなたがそう思わない説明がない。
>
> 同じ結論で構いませんが、あてずっぽうや便利な単語の乱用
> (「政治的」とか)はお断り、という事です。
あてずっぽうについてはそれはそう。
それは例えばどこだ。
便利な単語の乱用については、例えば創竜伝のごとく安易な構造で好き勝手やった上で「つまらない」作品ならそうならざるを得ない場合があるな。
一概には言えないね。
> それならこっくりさんの方が正確でしょう。
どう正確なのか「過程と構造」を示せ。
あれだけ言っといて「まず結論ありき」じゃあるまいね?
> > 説明も訓示も垂れず勝手に政戦両略を押しすすめる。
>
> 軍師が主君に一々お伺いを立てたら滅亡するだけです。
>
しないよ馬鹿。
逆に「謀反でも企んでいる」と思わない君主が首をとられる。
第一ナルサスとしては「アルスラーンに自立してもらって好きに絵を書きたい」のだからきちんと自分の目的と思考過程を教えていかないのは言行不一致だろうが。
> また、それ以前に、アルスラーンの世界では政治や軍事に
> 詳しい事が優れた主君の条件ではありません。
「度量のある人間」にそのスキル、もしくそれが出来る忠臣が仕えることは必要だよ、「国を守る」という最大の課題のために。
ナルサスは「忠臣」になりたくない訳だから(必要とされている地位ではなく自分の望む立場に固執する点など)あえてナルサスという特殊な個人の節義のために通常(軍師的立場の人間が)やらない事(主君の才能育成、自身の技能伝達)までやるべきでありやる必要があるんだがこいつに対する異議の「過程と、その構造」を示せ。
こちらもその内容次第で聞きたければまだ詳しく説明もしよう。
> ヒルメスが悪役にされているのもその理由です。
主役ではない理由にはなるが敵役をあてがう理由としては「説明不十分」の謗りを免れないな。
やってもらおうか「こっくりさん」より「正確」な、その結論に至る「過程と、その構造」の提示を。
できなきゃ「まず結論ありき」で誹謗中傷投稿をしている荒らしだな貴方。
- 親記事No.4792スレッドの返信投稿
- board4 - No.4892
Re:構造の5(色々と)
- 投稿者:蜃気楼
- 2003年11月11日(火) 16時10分
>その評価に至る過程、論理に大きく錯誤がある、あるいは元々無い(じゃないと「銀英伝と同じ作者の作品とは思えない」と言う意見など出ないでしょう)と見たので書いたものですから。
誰のどのような発言が「その評価に至る過程、論理に大きく錯誤がある、あるいは元々無い」と思えたのかまたその理由は何であるのか2,3例を挙げて示してください。(ことの発端になった冒険風ライダー氏の発言がのぞましいですね。)
>明らかに引き伸ばしにかかって伏線を廃棄してしまい、まったくゴールがはっきりしなくなった作品
というのは創竜伝を指しているんでしょうけど、10巻までは「当初の構想通り進めて、当初の構想通り終わるはずの作品」だったと思いますよ?
6巻までは確実にそうです。だったら6巻まではここでも「さすが田中芳樹」「素晴らしい」と評価されているかといえば、違います。
- 親記事No.4792スレッドの返信投稿
- board4 - No.4893
Re:構造の5(アルスラーン)
- 投稿者:蜃気楼
- 2003年11月11日(火) 16時12分
> まさかそれで食うに困るわけでもありますまい
>今はともかく、当時はかなり無理でしょう。
それなりに詳しくは田中芳樹読本他で読めます。
どんなことが書かれているのでしょうか?
早川書店から出ている「田中芳樹読本」にはそれらしいことはないのですが?
むしろ逆に創竜伝の連載を始めた時は金に困ってなどいなかったと思わせる話がいっぱい有ります。
創竜伝についてのインタビューで以下のような内容のことを話しています。
「アルスラーンが決まって寛大な気分になっていなかったら中国者をかけないとなった時点で断っていた」
「主人公の名前がふざけているので、編集者が怒るかもしれないと思ったがダメもとで創竜伝のアイディアを話した」
「創竜伝の話が流れてもすでに仕事はたっぷりと有った。」
1986 「アルスラーン戦記」一巻発売
1987 「銀河英雄伝説」完結
「創竜伝」一巻発売
1988 「タイタニア」一巻発売
「マヴァール年代記」一巻発売
「灼熱の竜騎兵」一巻発売
「創竜伝」の続きを書かないと食うものにも困ったかもしれないというのはいつの話ですか?多額の損害をこうむりでもしない限りありえないと思うのですが・・・
> 説明も訓示も垂れず勝手に政戦両略を押しすすめる。
>軍師が主君に一々お伺いを立てたら滅亡するだけです。
「政戦両略」つまり「政略」と「戦略」ですがこのレベルの話を主君にお伺いも立てずに軍師が勝手に決めるほうがよっぽど滅亡への近道です
ナルサスが「政略」と「戦略」のレベルではキチンと事前にアルスラーンに報告しその裁可を得てから実行に移していることは「セイ旗流転」の冒頭からもわかります。
このレベルでナルサスが独断専行したことってありましたっけ?
- 親記事No.4792スレッドの返信投稿
- board4 - No.4894
Re:構造の5(アルスラーン)
- 投稿者:S.K
- 2003年11月11日(火) 18時00分
>
> > 説明も訓示も垂れず勝手に政戦両略を押しすすめる。
>
> >軍師が主君に一々お伺いを立てたら滅亡するだけです。
>
> 「政戦両略」つまり「政略」と「戦略」ですがこのレベルの話を主君にお伺いも立てずに軍師が勝手に決めるほうがよっぽど滅亡への近道です
全くです。
> ナルサスが「政略」と「戦略」のレベルではキチンと事前にアルスラーンに報告しその裁可を得てから実行に移していることは「セイ旗流転」の冒頭からもわかります。
> このレベルでナルサスが独断専行したことってありましたっけ?
「独断専行」とは言いませんがシンドゥラ対策(第2部)あたりで
「どうするのだ?」
というアルスラーンの問いに「まあまあ」的はぐらかしで答えて後から種明かしをしていたかと。
子供の悪戯じゃあるまいに出し惜しみをするな、王様を育てろとか思った覚えがあります。
-
- board4 - No.4895
私の創竜伝考察40-1
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2003年11月12日(水) 09時02分
全ての考察シリーズの原点となった「私の創竜伝考察シリーズ」も、今回でとうとう40回目を迎えることになりました。正直、このシリーズを始めた時は、ここまで長い期間、それもこれだけ大量の文章を書き続けることになるとは思ってもみなかったのですけどね(^^;;)。たったひとつのシリーズ作品の論評をよくもまあこれだけ続けられるものだと、我ながら感心するというか呆れるというか……。
ただ、これだけ「私の創竜伝考察シリーズ」が長期にわたって、それも大量の文章と引用文でもって連載され続けているということは、私個人の気力と根気がそれだけ続いていることもさることながら、同時に私がネタにできる「創竜伝や田中芳樹が抱える問題点」がそれだけ大量に存在していることをも意味するわけで、本来ならこれは由々しき問題であるはずなんですよね。創竜伝や田中芳樹に何ら問題が存在しなければ、私もわざわざこのような長い連載をひたすら続ける必要もなかったわけですし、その方が田中芳樹にとっても創竜伝という作品にとっても、そして何より大多数のファンにとっても本来幸福なことだったのは間違いないのですから。
まあ、今更「無い物ねだり」などしても仕方がありませんし、あくまで田中芳樹が創竜伝をはじめとする自分の作品群の問題点を何ら是正しないというのであれば、私としても田中芳樹が創竜伝を完結させるか自主廃刊するまで、使えるネタは徹底的に使い潰し、創竜伝の矛盾と破綻の全てを完膚無きまでに叩き潰すしかないのですけどね。それこそが、かつて尊敬していた作家に対する一読者としての「せめてもの慈悲」、もしくは「供養」というものでしょうし。
今回で創竜伝13巻の論評は終了となります。それでは始めましょうか。
P225上段~P226上段
<サロンの中央では、甲冑姿の征夷大将軍・小早川奈津子が、蜃海、虹川、水地の三人を相手に、幕府の基本政策を立てている。
「あんまり左がかった政策を並べてはならぬぞえ。神国ニッポンを再建するためのマツリゴトをおこなうのじゃから」
「あいや、将軍さま、右も左も関係ございません。とにかく、東京のエセ政府にとことんイヤガラセするのが肝要でございます」
「う、うむ、さようか」
というわけで、征夷大将軍が首をかしげている間に、幕府の政策はつぎつぎと決まっていった。コンセプトはいずれも、「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」ということである。
A、国連安保理決議のない超大国の武力行使に反対
B、夫婦別姓を容認
C、外国人にも参政権をあたえる
D、宗教法人に課税する
E、特殊法人はすべて廃止し、官僚の天下りは禁止
F、外国からの移民・難民に門戸を開放する
小早川奈津子の目から見ると、どうも「左翼的」で「進歩的」なことばかりに思える。>
……今まで竜堂兄弟一派の面々が、ことあるごとに支離滅裂な社会評論を使って断罪しまくっていた、日本の政治&社会システムに対する代案がこれなのですか……。「左翼的」とか「進歩的」とかいう以前に、何だか「絶望的」な気分にさせられてしまいましたね(>_<)。私には連中の提示する「政策【モドキ】」が「非現実的」かつ「妄想的」で、しかも「破滅的」であるようにしか思えないのですけど(T_T)。
第一、「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」などという、まさに「反対のための反対」を行うこと自体が自己目的化しているとしか評しようのないコンセプトを、この期に及んで未だに恥ずかしげもなく堂々と提示している時点で、著しく「退嬰的」かつ「守旧的」で救いようのない竜堂兄弟一派の政治的スタンスが、これ以上ないほど醜悪な形で浮き彫りになってしまっているのですけどね。かつて似たようなコンセプトで政策を提言していた旧社会党が、いかに国民を顧みない政治を行い、悲惨な末路を辿ったのか、まさか知らないわけではないでしょうに、連中は「第二の万年野党政権樹立」でも目指すつもりなのでしょうか(爆)。
まあとりあえず、連中が提言している「政策【モドキ】」の問題点について、いつものごとく絨毯爆撃的に検証してみることにしましょうかね。
A.国連安保理決議のない超大国の武力行使に反対
仮にも国際政治を論じるに際して、こんな「笑いのネタとしか思えないヨタ話」などを「大真面目な政策」として堂々と掲げること自体、国際法や国際政治について、竜堂兄弟一派の連中が救いがたいまでに無知であることを立証していて哀れみを誘いますね(T_T)。こんな「政策【モドキ】」がどれほどまでに非現実的な妄論で、かついかに大きなリスクを抱えなければならないシロモノであるのか、少し考えてみれば簡単に理解できそうなものなのですけど。
どうせあの3バカトリオが定義している「超大国」とやらはアメリカ「だけ」のことを指している以外の何物でもないのでしょうから、まずはそれを前提に語りますと、仮に今現在の日本が本当に「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」しようと意図する場合、それは必然的に現行の日米安保条約の全面改定ないしは完全破棄をも視野に入れなければならなくなります。なぜなら、日本に在日米軍が駐留し、また日本から何らかの支援をアメリカが享受し続ける限り、日本は問答無用で「アメリカの同盟国ないし味方」と国際社会から見做され続けることになるからです。
たとえば、創竜伝13巻で呆れ果てるほど積極的に取り上げられているイラク戦争でも、日本は中東諸国からアメリカ・イギリスに次ぐ第3の参戦国と見られていましたし、フランスの週刊誌「ル・ヌーベル・オプセルヴァトール」の記事などは、日本のことを「アメリカ同盟軍を支持した世界唯一の国、しかし大多数は戦争に反対した」と紹介しています。日本の内心がどうであろうが、アメリカ軍に対して日米安保条約の名の下に様々な便宜を図ったり、アメリカの要請に応じる形でイージス艦をインド洋に派遣したりする行為は、公式的にはアメリカを支持する表れであると国際社会からは見做されるのです。だからもし竜堂兄弟一派が主張するような「アメリカの武力行使」に反対の意思表明を「実行性を伴う形で」行うというのであれば、在日米軍の全面撤退、場合によってはアメリカとの軍事同盟そのものの破棄をも含めた現行の日米安保条約の全面改定ないしは完全破棄が必要不可欠とならざるをえないのです。
考えてもみて下さい。日本が「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」する傍らで、アメリカ軍が日本の在日米軍基地を利用したり、日本政府から諸々の政治的・経済的支援を受けたりして「国連安保理決議のない武力行使」を行っているという滑稽な状態を。もちろん、こんな形で「反対」など表明したところで、「反対」されている当のアメリカは痛くも痒くもないでしょうし、国際社会からも「日本はアメリカの武力行使に対して反対を表明しているのに、裏ではアメリカの武力行使を援助している。言行不一致かつ二枚舌だし、とても信用のおけない国だ」という非難の声が殺到することでしょう。これでは政治的に全く無意味であるばかりかマイナスですらあることは言うまでもありません。
しかし、では実際に在日米軍の全面撤退やアメリカとの軍事同盟そのものの破棄をも含めた現行の日米安保条約の全面改定ないしは完全破棄をアメリカが許すか、となると当然許しはしないでしょうし、日本の国民の大多数もまた、将来はともかく現時点ではアメリカと完全に決別することを望みなどしないでしょう。アメリカにとって、日本の在日米軍基地や日本政府の政治的・経済的支援には莫大な戦略的価値が存在するのですし、また日米共に、同盟によって得られる利益は政治的にも経済的にも莫大なものがあります。内心はどうであれ、双方共に手を組む価値があるからこそ、日米同盟は成立しているのであり、それを維持するためにはある程度の共同歩調を取る必要性が存在するのです。
にもかかわらず、たかが「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」するだけのためにアメリカとの軍事同盟を解消し、アメリカを敵に回すのは、日本・アメリカ双方にとって「百害あって一利なし」な愚行でしかありませんし、下手すればそれこそ「第二次日米戦争」の勃発すら招きかねません。教条主義的な「戦争反対イデオロギー」などのために、自国に国際摩擦や戦争を勃発させてどうするのですかね(>_<)。
現時点の日本が本当に「国連安保理決議のない【アメリカ】の武力行使に反対」しようとするのであれば、これほどまでに巨大なリスクを覚悟しなければならないのです。あのおバカな連中が、この非現実性と危険性を理解し、かつそれをクリアするだけの、それも今まで連中自身が得意気になって開陳していた社会評論との整合性が完全に保たれる形での妙案を用意しているとは到底思えないのですがね。
また、この「政策」のそもそもの疑問点として、「国連安保理決議のない超大国【以外】の武力行使」については反対しなくても良いのか、という問題があります。「国連安保理決議のない武力行使」とやらは別にアメリカだけの専売特許というわけではないのですから、アメリカに特化して反対しなければならない理由はありません。
たとえば、1990年におけるイラクのクウェート侵攻は当然のことながら「国連安保理決議のない武力行使」でしたし、湾岸戦争後も、イラクは何度も「国連安保理決議」に違反し続けてきました。アメリカはこれを根拠にイラク戦争遂行を決断したわけです。
さらに、現在に至るまで続いている中国のチベット侵略や満州領有なども、国際法的に見れば立派に「国連安保理決議のない武力行使」に該当しますし、ロシアもチェチェン共和国などで「国連安保理決議のない武力行使」を「現在進行形で」積極的に行っています。さらに中東・アフリカ諸国などの一部地域では、中小規模の「国連安保理決議のない武力行使」が、いちいち数えるのも面倒なほど毎日のように頻発している始末です。これらの「国連安保理決議のない武力行使」について言及することなく、色々と問題はあるにせよ、それらをある程度抑止する効果の存在は否定できない「超大国の武力行使」に対してだけ反対の声を上げるというのも、独裁政治を忌み嫌い、民主主義と国際平和とヒューマニズムを心より愛するであろう竜堂兄弟的理論からすれば非常に理解に苦しむところなのですけどね。
そもそも、アメリカの場合もそうなのですけど、ここで竜堂兄弟一派が主張する「反対」とは具体的にどのような手段で実現させるものなのでしょうか? もしそれがただ「反対」を叫ぶだけで良しとするものであるというのならば、それは「政策」ではなく「宗教的念仏信仰」とでも評するべき無意味なシロモノでしかないですし、もし軍事力や経済力といった何らかの力を背景に「反対」を遂行するのであれば、それは竜堂兄弟一派が全面的に否定しているであろう「戦前の軍国日本」や「何かと武力に訴えたがる超大国アメリカ」と何ら変わるところがありません。もちろん「無法には無法で返しても良い」とする竜堂家家訓の論理も、これまた竜堂兄弟一派がさぞかし忌み嫌っているであろう「国連安保理決議のない超大国の武力行使」を正当化させかねない論理ですのでNGですね。
結局のところ、あの3バカトリオが提唱するこの「国連安保理決議のない超大国の武力行使に反対」という「政策【モドキ】」は、生半可なやり方では「口先だけで実行力皆無かつ言行不一致なシロモノ」にしかならず、かといって本気で実行しようとすれば、日本にとって大きなマイナス要素をもたらすだけでなく、竜堂兄弟一派がかつて得意気になって開陳していた社会評論の論理がそっくりそのまま自分達自身に跳ね返るという無様な醜態を晒すことにも繋がるわけです。あの連中がこんな「政策【モドキ】」を掲げるなど、日本にとっても連中自身にとっても自殺行為であるとしか考えられないのですけどね。
C.外国人にも参政権をあたえる
F.外国からの移民・難民に門戸を開放する
よくもまあこんな史上最悪のタッグを考えついたものですね。一連の「政策【モドキ】」を提示するに際して、竜堂兄弟一派は日本を健全化させるどころか、逆に日本を劫火のもとに滅ぼそうとすら画策しているであろうことがよく分かります。
そもそも、選挙権・被選挙権などの「参政権」というのは、国籍や年齢による明確な制限が存在するものであり、全ての人に無条件で認められる権利ではありません。参政権に制限が設けられているのは、国民の選挙で選ばれる議員や知事・市長村長といった人達に対して、立法権・行政権などといった公権力の行使に携わるための一定の資格と能力が求められるからです。国の「参政権」は「特別な権利」「特権」とでも定義されるものであり、すくなくとも理念的には「資格や能力の制限がなく、また人種、性別、宗教、言語、財産、国籍などの相違を越えて、全ての人に平等に保障されねばならない権利」とされる基本的人権とは明確に区別されているのです。
国際法的に見ても、国際人権規約(B規約)25条の「政治に参与する権利」では、「すべての市民は、第二条に規定するいかなる差別もなく、かつ、不合理な制限なしに、次のことを行う権利及び機会を有する」とした上で、その条文中にあるC項目の「一般的な平等条件の下で【自国の】公務に携わること」という規定によって明確に外国人を除外していますし、それは国連規約人権委員会報告書でも「例外的に第25条の参政権のように、【その国民だけに】適用されるものもある」として認められています。また世界人権宣言第21条の「参政権」においても、1項「すべての人は、直接に又は自由に選出された代表者を通じて、【自国の】政治に参与する権利を有する」および2項「すべて人は、【自国において】ひとしく公務につく権利を有する」という条文でもって、「参政権」があくまでも「【自国の】国民【のみ】」の権利であることを謳っているのです。
また、日本国憲法第15条1項にも「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、【国民固有の権利】である」とあり、1995年2月28日の最高裁判決も、これがあくまで「日本国籍を保持している日本国民」に限定されるものであることを認めていますので、法理論上「日本国籍を保持している日本国民」ではない外国人に「国民固有の権利」である参政権を与えることはできないように規定されています。これらのことから考えれば、日本国籍を取得していない外国人に対して参政権を付与するのは、国際的な慣習法から考えても国内法的に見ても明らかに違法であると言わざるをえません。
さらに実際問題として、日本国籍を保持しない外国人の場合、その国家的忠誠義務は当然日本ではなく「国籍を保有する自分達本来の祖国」に対して向けられることになります。所詮は一時的な生活居住地にすぎない日本と自分の祖国との間に、もし何らかの国家的利害が絡んだ対立や有事・紛争などが生じた場合、その外国人が自分の祖国のための「日本に対する売国的行為」に走らないとは誰にも断言できないでしょう。それが日本の国益と国民主権、さらには日本国民の生命と財産を脅かす危険性が極めて高いことは言うまでもありません。
このような問題だらけの外国人参政権付与が日本で取り沙汰されている背景には、主に在日韓国人を中心に組織されている在日本大韓民国民団(民団)と、創価学会および公明党の思惑があります。民団は日本への帰化や結婚による日本国籍取得などで年々組織離れが進んでいる在日韓国人を繋ぎ止めるという組織防衛のために、創価学会および公明党は在日韓国・朝鮮人に参政権を与えることによって学会員の獲得と選挙での公明党票の拡大化を狙うという党利党略のために、それぞれ外国人参政権付与を訴えているわけです。もちろん、両者の思惑が大多数の日本国民の利益に少しも貢献する類のものなどでないことはあまりにも明白です。
もし外国人が本当に日本の国政に参画したいと言うのであれば、まずは日本に帰化して日本国籍を取得するのが筋であり、本来行うべきは、そのための手続きを簡素化・実効化させ、かつ本当に日本に帰化する意思のある人達のみを有効に選抜できるシステムを構築するための「国籍法の改正」でしょう。にもかかわらず、国際社会や国家間の問題が複雑多様化する中で、日本と運命を共有する責任のない外国人の無条件かつ無制限な権利拡大を行い、国の運営を一部でも担わせることは、主権国家の根幹を揺るがすことにもなりかねない危険で愚かな選択であると評価せざるをえないのです。
そして、単体でさえ問題がありすぎる「外国人にも参政権をあたえる」にさらに危険な拍車をかけるのが、「外国からの移民・難民に門戸を開放する」というもうひとつの「政策【モドキ】」です。この2つの「政策【モドキ】」のコンビネーションが意味するのは何なのか?
極めて皮肉な話なのですが、その答えは何と創竜伝13巻の作中で、しかも他ならぬ竜堂兄弟自身が、これ以上ないほど明確な形で出してしまっているんですよね↓
P138下段~P139上段
<「アメリカといったが……」
慎重に、さぐりをいれた。
「アメリカは日本を完全に五一番めの州にでもするつもりなのか」
「まさか」
「石使い」ジェイン・ステイブラーは、形のいい鼻の先で笑った。続が皮肉っぽく彼女を見つめ、始がおだやかに問う。
「なぜだ」
「自分で考えてみたらいかが」
その挑発に、始は乗ったふりをした。
「そうだな、いくつか理由があるだろうけど、まず第一に、一億三〇〇〇万人の日本人がアメリカ国籍を得たら、アメリカの人口の30パーセントが日系市民になってしまう。参政権もあたえなくてはならない。まかりまちがえば日本人がアメリカ合衆国大統領になってしまうかもしれない。実際にそういう人材がいるかどうかは別にして」
始は「石使い」を見やった。>
この竜堂始の発言中の「アメリカ」を「日本」に、「日本人」を「外国人」に変えてしまえば、それが「『外国からの移民・難民に門戸を開放する』『外国人にも参政権をあたえる』という2つの政策を全て忠実に実行したらどうなるのか?」という問いに対する答えになるのです。つまり「日本は外国人に乗っ取られ、まかり間違えば外国人の内閣総理大臣が誕生しかねない」ですね。
実のところ、上記引用のようなたとえ話は、19世紀のハワイにおいて、アメリカ系白人移民の大量流入という形で本当に実現しているのです。かつてハワイを統治していたハワイ王国は、1830年代以降、西欧型の政治制度を本格的に取り入れ、欧米からの白人に助言を求めるようになった結果、白人勢力が著しく増大し、ハワイの政治や経済界の実権を掌握していき、やがてハワイ併合まで画策するようになります。そして1880年代には、白人勢力はハワイで圧倒的な力を保持するようになり、1893年、アメリカ系白人達は、時のハワイ女王リリウオカラニが白人勢力を抑えるために起こしたクーデターを逆手にとって革命を起こします。やがてそれは紆余曲折を経て、1898年のアメリカによるハワイ併合にまで至ったのです。このハワイ王国の滅亡は、移民を無条件に受け入れ、かつ政治的権利まで与えたらどうなるのかを、実地でシミュレートした結果であると言えます。
また、戦前の満州地方も、移民の大量受け入れによって、ハワイ王国と似たり寄ったりな末路を辿っています。元々満州地方は漢民族の領土ではなく、金や清を建国した女真族が居住していた土地で、特に中国全土を支配した清王朝などは、満州を祖宗発祥の地として神聖視し、漢民族の流入を防ぐために「満州封禁令」や「漢民族の満州への移住禁止令」などをしばしば発布していたほどです。ところが漢民族はあの手この手で満州地方に大量移民して満州地方を「数の力」で乗っ取った挙句、清王朝滅亡の際には「すでに大量の漢民族が居住している」という既成事実を盾に、本来の領土保持者であったはずの女真族を差し置いて勝手に領有権を主張するまでに至りました。まさに「移民の大量流入」によって他民族の土地が奪われることになってしまったわけです。
この漢民族(中国人)の大量移民を使った「事実上の中国領化」もしくは「静かなる侵略」とでも言うべき手法は、満州地方だけでなく、これまた元来中国の領土ではないはずの新疆ウイグル自治区やチベット自治区に対しても「西部大開発」の名の下に公然と行われていますし、さらにはロシア極東地方(北満州)にもまた、中国系入植者による「チャイナタウン」が現地に数多く形成される形で推進されつつあります。しかも、漢民族(中国人)の大量移民が行われた土地では、移民側が現地に全くと言って良いほど政治的・経済的・文化的に同化しないがために、従来の現地住民との間でトラブルが絶えず、深刻な社会問題が数多く発生している始末なのです。このような「大量移民による『静かなる侵略』」の危険性を無視して、移民の大量受け入れを無条件に行うことは、国民の生活環境を著しく悪化させることになるばかりか、最終的には国家の自殺にも繋がりかねないと言わざるをえないでしょう。
かくのごとく、国にとって「移民」とは極めて恐ろしい楔として機能しうるものなのであり、ただ無条件に受け容れてさえいればそれで良いわけではないのです。そして「難民」も、数が多くなれば上記の事例と似たり寄ったりな事例を招くことはまず間違いありません。ましてや、その移民や難民に対して無条件かつ無制限に参政権などを与えていけば、まさに上記引用のたとえ話と酷似した事態か、あるいはそれこそ白人移民に侵食されたハワイ王国や、漢民族の大量移民に飲み込まれた満州・新疆ウイグル・チベット地方のような末路が、そう遠からぬ未来、日本に襲いかかってくるであろうことは火を見るよりも明らかではありませんか。
もし万が一こんな2つの「政策【モドキ】」を実施してしまったら、世界中の国が、日本を内部から乗っ取るための国策として、自国内で処理に困っている貧民や余剰労働者達を、それも年間数十万~数百万単位で「移民/難民」と称して送り込んでくる可能性が高いでしょう。特に前述のように「大量移民による『静かなる侵略』」を歴史的に推進してきた前科が多数存在する中国からは、現在でさえ「蛇頭」を使った不法入国者達が後を絶たないどころか、毎年増加傾向にすらあるというのが実情だと言うのに、下手をすれば数千万単位の移民/難民が殺到する事態すら想定されます。移民/難民の無条件受け入れと、日本国籍取得の必要がない外国人参政権付与という2つの政策は、その相乗効果によって、日本という国家と国民を完全に崩壊・解体させてしまう破滅への扉を開くことにもなりかねない、国としては絶対に行ってはいけないシロモノなのです。
それにしても、あのおバカな竜堂兄弟でさえ、上記引用の問題提起で「日本にアメリカが乗っ取られる」程度のことを考えることができたというのに、何故わざわざ「外国人にも参政権をあたえる」「外国からの移民・難民に門戸を開放する」という、日本を破滅に導きかねない2つの「愚策」をあの3バカトリオが提示したのか、是非とも知りたいところですね。もしその危険性に気づかなかったというのであれば、あの3バカトリオは竜堂兄弟にすら劣る頭のイカれた低能揃いとしか言いようがありませんし、全てを承知の上であえて提示したのならば、最初から日本を滅ぼすことを意図して「政策【モドキ】」を立案している、確信犯の「無政府主義者」ないしは「売国奴」ということになります。
最初から頭がイカれているにせよ、隠されたゲスな下心があるにせよ、こんな連中に日本の政治を云々する資格があるとは到底考えられないのですけどね、私は。
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- board4 - No.4896
私の創竜伝考察40-2
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2003年11月12日(水) 09時04分
D.宗教法人に課税する
オウム真理教だか創価学会だかの事件や騒動の頻発などで、宗教に対する国民世論が硬化したことに力を得たのかどうかまでは知りませんが、こんな大衆迎合主義のマスコミ辺りがステレオタイプ的なプロパガンダで大々的に煽っているような「政策【モドキ】」などを今更得意気になって提言されましてもねぇ~。巷に溢れている「宗教法人叩き」の流行に乗り遅れまいと、奈落に向かって爆走するバスに死に物狂いでしがみついているサマは、見ていて非常に滑稽でしかないのですけど(笑)。
そもそも、宗教法人に限らず、日本では基本的に「非営利法人」全般に対して、多かれ少なかれ「原則非課税」の基本方針が貫かれています。ここで言う「非営利法人」には宗教法人の他、民法に基づく公益法人・NPO法人・学校法人・更生保護法人・社会福祉法人・職業訓練法人などがあり、これらの「非営利法人」には、その全てに、法律で定められた33種類の収益事業(不動産業や出版業など)からの利益を除いた収入に対して、原則非課税が認められているのです。これは1900年に日本で初めて法人税が導入されて以来、変わることなく続いている原則でもあります。
何故このような原則非課税措置が、宗教法人も含めた「非営利法人」全般に対して認められているのかというと、法人税が所得税の前取りであり、法人の所得に対して法人税を課し、さらに個人の配当所得に対して所得税を課すことは「二重課税」に繋がると考えられているからです。一般的な営利法人(株式会社や有限会社など)では、事業で収益を上げて余剰金が発生すれば、それを株主や社員に配当したり、様々な用途に充てたりすることで運営を行っていくわけですが、「非営利法人」の場合、配当を受ける株主などはそもそも最初から存在せず、また余剰金の社員への分配は法律で禁じられています。そのため、法的には「非営利法人」の事業に法人税を課すべき根拠が見当たらない、ということになって、原則非課税が貫かれていることになっているわけです。
さらに、「非営利法人」における寄附金・会費・補助金・助成金・基金の利息などといった収入は、収益事業におけるそれとは性質が大きく異なります。「非営利法人」に対して出資された寄附金や会費などは、あくまでも「非営利法人」が運営する特定の事業の遂行に必要な費用として運用されることが求められます。このことは、たとえ特定目的のために出された寄附金や会費が結果的に余ってしまった(余剰金が生じた)としても、その余剰金を「非営利法人」が独自の判断で他の用途に使用してはならず、あくまで当初の特定目的のために「のみ」使わなければならない(どうしても使えない場合は「当初の特定目的」の将来必要となるかもしれない資金として積み立てておかなければならない)、といった「使用用途の制限」が存在することを意味するのです。
これが株式会社などの「営利法人」であれば、同じようなケースで余剰金が生じた場合、それは「営利法人」の自由な意向によっていくらでも他の用途(株主への利益配当や設備投資など)に使用することができます。しかし「非営利法人」における寄附金・会費・補助金・助成金・基金といったものには、そういう自由が法人側にはそもそも全く存在しないわけです。そして税法上では、そのような「自分の裁量で自由に処分することができないお金」に対しては「税金を負担する能力(担税力)」がないものと見做され、税をかけることはできないとされているのです。そのため、「非営利法人」では寄附金や会費などについても原則的に課税されるべきではないとされ、一方でそういった流れとは全く関係のない収益事業の収益については、前述のようにたとえ「非営利法人」であっても課税するべきであると規定されているわけです。
この時点で、宗教法人だけでなく、全ての「非営利法人」に対して原則非課税が認められているのに、何故宗教法人【のみ】に限定して課税を行わなければならないのか、という問題が生じてしまいます。それでもあくまで「宗教法人に課税する」というのであれば、「非営利法人」全般に対しても同様の措置を取らないと法的な整合性が取れませんし、結果として著しい不公平すら発生しかねないのではないかと思うのですがね。
また、よく「免税特権を悪用して金儲けをしている」などとマスコミから叩かれまくっている宗教法人ですが、実のところ、そのような宗教法人は全体からみればほんの一部に過ぎません。大部分の宗教法人はむしろ逆に、一般庶民と比べても非常に貧乏な収入でどうにかその日暮らしを質素に営んでいる、というのが実態なのです。
そもそも、日本国内に点在する約18万4000の宗教法人のうち、約8万を占める神社や、約7万7000の寺院では、神職や住職自らが会社員・公務員といった他の職業を掛け持ちしている小さな社寺が多く、法人全体の年間収益が一般的な勤労世帯の年収額(全国平均で約600~700万円)すら下回っているところも決して少なくありません。宗教法人の経済的基盤は、葬儀の際に「檀家」と呼ばれる社寺の信徒から寄附される布施収入がほとんどを占めていますが、過疎化が進む田舎の寺院などでは、人口減少の煽りを受けた「檀家」や葬式数の減少などによる経済的困窮を理由に、倒産に追い込まれる宗教法人すら多数存在するのです。
それに、「非営利法人」である宗教法人が原則非課税であるといっても、宗教法人に雇用されている僧侶・神官・教師などといった「個人」に対しては、あくまでも一般的なサラリーマンと同じ扱いが適用されているのです。すなわち、給与からは源泉徴収されますし、個人所有の建築物や物品に対しても諸々の税金がかかるわけです。しかも彼らは多くの場合、就業規則もなければ労働組合もなく、オマケに「年中無休」で仕事をしなければならないので、単純に「労働環境」だけ見れば、むしろ宗教法人に勤める僧侶や住職などの方が、一般的なサラリーマンよりもはるかに厳しいとすら言えます。宗教法人の原則非課税方針には、世間一般と比べて圧倒的に不利な労働条件下に置かれている彼らの経済的負担をある程度軽減している一面もあるのです。
その上宗教法人には、原則非課税とされる非営利活動と、唯一例外的な課税対象となっている収益事業との区別が不明瞭なケースが数多く存在し、これが税務当局と宗教法人との間で頻発する多くのトラブルの原因となっています。たとえば、「祈祷」などの純然たる「宗教行為」は「非営利活動」と判断されて非課税とされます。しかし一方、「教義を流布する」ための有料の出版物や月報誌などの発行は、一見すると「非営利活動」に見えるかもしれませんが、法的にはあくまでも「出版業という収益事業」として扱われるのです。この「線引き」は意外と難しく、ひとつの収入源に対して、税務当局側が「収益事業だから課税する」と主張するのに対して、宗教法人側は「宗教行為に対する見解の相違」という持論を展開するといった、双方の認識が完全に食い違っているケースがよく見受けられるわけです。
こういった大多数の宗教法人の懐事情を無視して、文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに「宗教法人に対する課税」を強行すれば、短期的には中小零細宗教法人の経済的破綻と倒産の乱発をもたらし、中・長期的には日本の宗教的伝統文化の破壊すらもたらす危険性があるでしょう。しかもそのような状況においてさえ、大規模な宗教法人は、合法的に税を納めなくても良いようにするための防衛策を講じ、結果として無傷のまま生き残る可能性が非常に高いのです。本来税を課せられるべき大金持ちが合法的に課税を免れ、その下のクラスの「小金持ち」以下に対して集中的に税の取り立てが行われたがために、結果として文化や産業の中核が失われてしまったという構図は、田中芳樹が推奨する「英国病」下のイギリスにおいて何度も繰り返し見られた光景ではありませんか(笑)。これから考えても、「宗教法人に対する課税」は、宗教法人にまつわる問題の解決にも税収の増加にも全く寄与しない、非常に短絡的かつ大衆迎合的な「嫉妬の産物」でしかないのです。
扇情的なマスコミ報道などを何も考えず安易に鵜呑みにしているから、政治システムの存在意義や本当の欠陥などが全く理解できないままに、見当外れかつ大衆迎合的な「政策【モドキ】」などをがなりたてる愚に陥ってしまうのですけどね。まだ自分達の無知と無定見を自覚しては頂けないのですか、竜堂兄弟一派の皆様(笑)。
E.特殊法人はすべて廃止し、官僚の天下りは禁止
というか「特殊法人改革」って、確か小泉政権における一大政策のひとつとして掲げられていませんでしたっけ? 2001年(平成13年)6月22日に施行された特殊法人等改革基本法(時限立法で2006年(平成18年)3月31日廃止予定)に基づいて特殊法人等改革推進本部が設置され、小泉総理は一貫してその本部長の地位に就いており、その下で実際にいくつかの特殊法人の統廃合や民営化などが決定しているのですから。創竜伝のストーリーに全く関係がなかったはずのイラク戦争関連の時事ネタは嬉々として作品世界に持ち込んできたくせに、こういう話だと「中央政府はやっていなかったことにする」というのでは、あまりにも御都合主義かつダブルスタンダードなやり方なのではないのですかね? 第一、創竜伝でクーデターを起こした新首相とやらには、「小泉総理的要素」もあからさまに挿入されているというのに(>_<)。
さて、竜堂兄弟にも小泉政権にもかくのごとく「改革」の対象として名前が挙がっている「特殊法人」という組織は、そもそも何が問題とされているのでしょうか? 巷でよく言われている問題点を簡単にまとめてみると、
「特殊法人には、民間企業の事業と競合して民業を圧迫している法人がある。また、多大な財政支出を当てにして非効率な経営を続けた結果、多額の不良債権を抱え込むケースや、官僚の主要な天下り先になっているなどの問題点が指摘されているため、抜本的な改革が必要とされる」
といったものになるのですが、実のところ、この論調には「そもそも特殊法人という組織形態が何故作られたのか?」という観点が致命的に抜け落ちてしまっています。
特殊法人というのは元来、「国策として遂行すべき事業」や「収益性は低いが公共性の高い事業&業務」を、国に代わって遂行させるために設置された組織形態です。こういった事業では、採算性を第一に考える民間の企業ではリスクやコストが大き過ぎて実施できなかったり、仕事が遅々として進まなかったりすることが多々あるからこそ、特殊法人という組織形態で事業&業務が遂行されるようになったわけですから、短期的に採算が取れないことはある意味当然であると言えます。ですから、まず「採算性が悪い」「非効率な経営が行われている」といったこと「のみ」をもって「特殊法人は良くない」という結論には繋がらないはずです。
たとえば、日本の特殊法人改革議論の中で真っ先に取り上げられている、日本道路公団・首都高速道路公団・阪神高速道路公団・本州四国連絡橋公団といった道路関係四公団が事業として行っている高速道路建設や連絡橋、それにSA(サービスエリア)・PA(パーキングエリア)その他施設の建設などといった事業は、最初から民間に全業務を委託して整備をすすめていくことは事実上不可能です。採算性を第一に優先する民間企業のやり方では、当然のことながら「採算に合わない道路は作らない」ということになり、「採算に合わない」と判断された地域、具体的には高速道路建設に莫大な費用がかかる地域や人口希薄地帯などの道路整備がおざなりにされてしまいます。それでは国内の高速道路網整備が進まないからこそ、道路関係四公団という特殊法人が設立され、その下で高速道路関係の事業&業務が遂行されることになったのです。そしてそこには、ある程度採算性を度外視してでも高速道路ネットワークを整備することによって、日本全国を一体化させるという「国策としての構想」が最初から存在していたわけです。
この道路関係四公団が廃止&民営化されると、当然上記で挙げたような「採算第一主義」によって切り捨てられるところが出てきます。それは、「採算が合わない」と判断された、未だ高速道路の完全整備が実現していない地方の市町村や、新規の高速道路整備を期待している地区の住民です。これらの地域に住んでいる人達にとっては、自分達が使用できる利便性の高い交通網を整備してもらうことこそが、結果的に自分達自身の(経済的な意味も含めた)利益となるのですから、たとえ採算を無視してでも高速道路網を整備してくれと要望するのは当たり前のことです。しかし彼らにとって、道路関係四公団という特殊法人の廃止&民営化は、結果的に自分達の要望が叶えられる道を閉ざしてしまうことになるわけですから、何ら利益が得られないばかりか、現状の不便な状態で満足することを他者から強制される結果にも繋がりかねないわけです。
また、元々道路関係四公団の最終目標は、全国の高速道路を全て一体化させた上で一斉に無料開放することにあり、それが実現すると同時に、道路関係四公団はその全ての業務を国に委託して解散することに本来なっていたはずなのですが、これが現時点で廃止&民営化され、「採算第一主義」が採用されることになれば、高速道路利用は永遠に有料のまま固定されることになってしまいます。民営化された新会社が採算を取り、さらに利益を上げていくためには、高速道路利用者から使用料金を取ったり、SAやPAでテナントを経営している民間企業などから賃貸料や使用料を徴収したりしなければならないのですから、当然それは「目に見える」負担となって消費者に跳ね返ってこざるをえません。そればかりか、場合によっては採算重視の観点から値上げが行われることだってありえるでしょう。それでは結局、現状と何ら変わることがないのです。
ちなみに現在、日本の高速道路料金は世界随一の高さを誇っていると言われていますが、それは道路関係四公団の運営にかかる経費や新規高速道路の建設費用などのほとんど全てを道路料金でまかなっているためで、その状況を改善するには、国民の税金を投入する以外に有効な方法は存在しないのです。しかしそれでは、高速道路を全く利用しない人間も高速道路の維持費を負担するということになりますし、将来的に高速道路維持のための増税が行われることになる可能性もありえます。まさに「タダより高いものはない」を地で行くことになってしまうのですが、そのリスクを背負ってでも国税投入を断行し、料金無料化を実現させるべきなのか、大いに議論の余地はあることでしょうね。
こういう問題を「経済性」や「効率性」だけで語るのは、まさに「木を見て森を見ず」とでも評するべき話なのではないでしょうか。
あと、もうひとつ例を挙げておきましょうか。小泉政権の特殊法人改革の中でも特に目玉商品とされていた、石油公団の廃止問題です。
すでに2005年(平成17年)3月末で廃止されることが正式に決定している石油公団は、1967年(昭和42年)、アメリカの国際石油資本(メジャー)から独立した日本独自の石油・天然ガス資源開発を推進することや、緊急時における石油・天然ガスの備蓄を行うことを目的に、エネルギー安全保障上の観点から設立された特殊法人です。元々石油や天然ガスなどの資源開発は「当たれば一攫千金、外れれば大損」的なギャンブル要素が非常に強く、莫大なリスクとコストがかかるものです。それでは着実な採算性を求める民間では資源開発事業を進めることが難しいからこそ、石油公団がその手の事業を一手に引き受けるようになったという経緯があるわけで、「採算性が悪い」「莫大な債務を抱えている」のは、最初から宿命づけられていた至極当然の帰結というものでしょう。
少資源国日本にとって、石油や天然ガスといったエネルギー資源の確保が非常に重要な問題であることは今更言うまでもないでしょう。田中芳樹や竜堂兄弟が口を極めて罵っている第二次世界大戦の日本参戦にしても、連合国によるABCD包囲網によってエネルギーの確保ができなくなり、経済的に追い詰められたことが原因のひとつとして挙げられるのですし、また日常生活を振り返ってみても、石油や天然ガスがいかに必要不可欠なものであるかは誰でも簡単に理解することができるはずです。「エネルギーの確保」というテーマは、単に経済や効率の面からだけ論じるのではなく、安全保障の観点からも同時に検証していく必要がある問題であることは間違いありません。
石油公団は、日本におけるエネルギー安全保障の一端を担っていたわけなのですから、単純に廃止が決定されたからといって無邪気に喜んでばかりもいられないでしょう。今後も、石油や天然ガスの輸入相手をどう分散し、資源の安定供給を確保するために国のエネルギー安全保障をどう再構築するかの国家戦略が問われることに変わりはないのですから。その問題を放置すれば、最終的にはアメリカや国際石油資本、創竜伝世界で言えば四人姉妹の意のままに、日本のエネルギー生命線が牛耳られることにもなりかねないのですけど、それで良いとはまさか断言しますまい?
道路関係四公団や石油公団の例に見られるように、特殊法人は確かに経済面や効率性のみを基準に見れば、民間では見られないような弊害や問題点ばかりがクローズアップされる形態ではあるものの、国家戦略や安全保障、それに採算性や効率性だけでは決して測れない公共性や利便性などの観点から考えればむしろ必要とされる部分も決して小さなものではないのです。特殊法人改革とは、個々の特殊法人における事業や業務の存在意義や問題点をひとつひとつ細かに検証していった上で、その後の代替案も含めた廃止なり変革なり現状維持なりを【特殊法人毎の事情に応じて】それぞれ別個に決めていくべきものなのであって、総論として「特殊法人だから一律全面廃止」などと頭から決めつけて絶叫するだけでは、国家運営にも国民生活にも無用の混乱と弊害を招くばかりで「百害あって一利なし」でしかありません。まあ「反対のための反対」を思想信条としている竜堂兄弟一派の皆様方には永遠に理解できないことなのかもしれませんがね(笑)。
また官僚の天下りの件に関しても、私が以前に「対談本『イギリス病のすすめ』についての一考察・後編」で論じたように、日本の国家公務員は労働三権すら保障されない環境の下、安月給かつ残業だらけの過酷な労働条件を課せられているのですから、その問題を無視してただ「天下りの禁止」だけを抜き出して糾弾してみても全く意味がありません。下手に禁止をかけたところで、天下りは形を変えるなり地下に潜行するなりすることで、より巧妙化・陰湿化してしまうのがオチですし、最悪の場合、国家公務員という職種そのものが「きつい・きたない・危険・嫌い・給料が安い・抗議できない」という「6Kの仕事」と見られて魅力がなくなってしまい、なり手がいなくなって人材の質がさらに低下することすら考えられます。原因の根本を改善しない限り、表面的な禁止措置で上から抑えつけても、ほとんど効果は上げられないのが現実なのです。
よって、この「政策【モドキ】」も全く賛同することはできません。そもそも、あれほどまでに支離滅裂な社会評論をのたまうしか能のない竜堂兄弟一派のお歴々に、衝動的な破壊行為以外の政治活動が遂行できるとは、全くと言って良いほどに考えられないのですしね(笑)。
B.夫婦別姓を容認
で、実は私が個人的に一番問題だと考えている「政策【モドキ】」はこれなんですよね。この「政策【モドキ】」は、純粋な政策としても問題があるというだけでなく、作品設定の面から見ても破綻をきたしているのです。
これに関してはまず、小早川奈津子と、3バカトリオのひとりである蜃海との間で、以下のような会話が展開されているのですが……↓
P226上段~P227上段
<「これ、者ども、幕府のあるべき姿をさだめるにあたって、ささいなことはそなたらにまかせておったが、ちと変ではないか。夫婦別姓などを認めたら、日本の古きよき伝統が失われてしまおうぞ」
いまやこの笑劇における自分の役割を、すっかりわきまえた蜃海が、すました表情で小早川奈津子に一礼する。
「ええ、つつしんで征夷大将軍に申しあげます」
「うむ、申してみよ、聞いてとらす」
「博学多識の征夷大将軍におかれましては、もちろんとっくにご存じであられましょう。もともと日本の伝統は、夫婦別姓であるという歴史的事実を」
「そ、そうか、いや、もちろん存じておるぞ」
知らなかったが、知らないとはいえず、小早川奈津子は巨眼を白黒させる。蜃海はすまして日本史上の実例を並べたてた。かつて竜堂始が弟たちに語ったように、「源頼朝の妻は北条政子、足利義政の妻は日野富子」という具合である。
「ところが、明治になって薩摩や長州のイナカザムライどもが無法にも権力をにぎりますと、日本古来の伝統と文化を破壊しようとして、夫婦別姓という夷狄の習慣を持ちこみ、強制したのでございます」
「そ、そうであったのか……いや、もちろん、それぐらいのことは知っておったぞえ」
「そうでございましょう。つまり、いまヒステリックに夫婦別姓禁止をとなえる輩は、日本古来の伝統を知らない無学者か、さもなくば夷狄の手先として日本の社会を破壊しようとたくらむ非国民でございます。断固として、やつらの陰謀を撃ちくだかねばなりません」「うむ、わかったわかった、あたくしは神国の守護者として、ダンコ夷狄の陰謀を撃ちくだこうぞ」
「それでこそ、あっぱれ、征夷大将軍のホマレと申すものでございます」
じつのところ蜃海は独身だし、夫婦が別姓だろうが同姓だろうがどうでもいいのだが、甘言によって権力者(?)をたぶらかす楽しみは捨てられない。さらに言葉をかさね、日本はいい国と信じてやって来る外国人に参政権を与えることこそ、あまねく世界に幕府の度量をしめすもの、という理屈で、小早川奈津子に承諾させてしまった。>
これを読んで私は思わず爆笑してしまいましたね。相も変わらず杜撰な論理展開で夫婦別姓制度導入を理論的に正当化しようとする涙ぐましい努力もさることながら、かつての愚かな社会評論を蒸し返しているにもかかわらず、それ関連の話題では本来一番直視しなければならない肝心要の作中記述に全く気づかないその大ボケぶりに。まああの連中にマトモな記憶能力と情報識別能力を期待すること自体に無理があると言われれば、「全くその通り」と返答するしかないのですけど(笑)
上記引用で地の文が性懲りもなく蒸し返していたかつての夫婦別姓関連の社会評論とは、創竜伝10巻における以下の記述のことを指しています↓
創竜伝10巻 P94上段~P95上段
<日本の新聞がスタンドで売られていた。国際衛星通信版というやつで、東京のTV番組まで載っている。新聞にしてはばかばかしいほど効果だが、日本のことが気になって、買ってしまった。富士山大噴火の関連記事がほとんどだが、実施された夫婦別姓制度についての記事もある。
「こうやってすこしずつ日本の社会も変わっていくんでしょうかね」
「さあ、それはどうかな」
始は首をかしげた。
「もともと日本でも中国でも、文化的な伝統は夫婦別姓だったんだ。源頼朝の妻は北条政子だし、足利義政の妻は日野富子だった。夫婦同姓になったのは明治時代からだ」
「近代国家になりたい、というわけで、ヨーロッパ式を持ちこんだんですね」
「だから夫婦別姓はむしろ旧くからのアジア的伝統への回帰なのかもしれない。夫の姓を名乗るのはイヤ、父親の姓を名乗りたい、というのは、進歩的と持ちあげたり、家庭制度を破壊するとさわいだりすることなのかなあ、はたして」
「夫婦であたらしい姓をつくるとか、姓そのものをなくす、というのなら画期的だと思いますけどね」
「むろん選択の余地は多いほうがいいに決まってる。夫婦が対等に話しあって、たがいに納得すればいいことさ」
「日本では流行が正義ですからね。そのうち同姓の夫婦が、遅れているとか保守的だとかいわれて、非難や嘲笑をあびるかもしれませんよ」
「まさか……と思いたいなあ」>
さて、この引用文章の中には、創竜伝13巻における竜堂兄弟一派が提唱する「政策【モドキ】」の前提そのものを覆しかねない致命的な矛盾が存在します。それは一体何か?
私が一番最初に引用したP225上段~P226上段の文章と、上記引用文とを比べてみて下さい。以下のような食い違いが存在するはずです↓
<というわけで、征夷大将軍が首をかしげている間に、幕府の政策はつぎつぎと決まっていった。コンセプトはいずれも、「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」ということである。>
<富士山大噴火の関連記事がほとんどだが、実施された夫婦別姓制度についての記事もある。
「こうやってすこしずつ日本の社会も変わっていくんでしょうかね」>
お分かり頂けましたでしょうか? そう、すくなくとも「【創竜伝世界における】夫婦別姓制度」というのは、何と作品設定では「東京の政府」とやらが【すでに実施している】政策であると規定されているのです。つまり、あの3バカトリオは「東京の政府のやることに、何でもかんでも反対」というコンセプトの元に様々な「政策【モドキ】」を立案していると公言しておきながら、その中に「東京の政府」がすでに実施している「コンセプトに反する政策」を愚かにも入れてしまっているわけです(爆)。
もちろん、「2003年現在における【現実世界】」においては、夫婦別姓制度は寸毫たりとも法的に確立などされておりません。しかし、他ならぬ創竜伝の作中記述が「夫婦別姓制度は実施されている」と明言してしまっている以上、「創竜伝世界の作品設定としては」そちらが現実世界の事象よりも優先されて適用されるのは当然のことでしょう。しかも引用部分を見れば分かるように、創竜伝10巻における「実施された夫婦別姓制度」という作品設定は、「源頼朝の妻は北条政子、足利義政の妻は日野富子」云々のエピソードが語られている文章の「至近距離(ノベルズ版の場合は同一ページの上段部分)」にその起源となる記述が存在しているのです。ならば創竜伝で夫婦別姓関連の話題を蒸し返す際には、当然それに関わる「作品設定」の存在をこそ真っ先に把握し、かつ第一に重要視しなければ、作品の整合性が全く取れなくなってしまうではありませんか。
さらに、創竜伝10巻における夫婦別姓制度が創竜伝世界で実施され、その話題が記事として掲載されるに至ったのは、創竜伝13巻から遡ることわずか2~5日程前の話でしかなく、一般人並の政治的関心さえあれば誰でもまだ記憶している程度のことでしかないのです。しかも3バカトリオのひとりである蜃海三郎は、ストーリー上の必然性や前後の脈絡もなしに突然創竜伝世界に出現したインターネットを使いこなすことができる、竜堂兄弟一派随一の情報屋という設定なのですから、竜堂兄弟でさえイギリスという異国の地で知った「夫婦別姓制度が日本で実施された」という事実を知らないということは、常識的に考えれば本来ありえない話であるはずでしょう。にもかかわらず、どうやら肝心要な場面で、またもや創竜伝13巻最大の特性である「アルツハイマー型老人性痴呆症」が発症してしまったようです(爆)。
まあそのような「何を今更なキャラクター論」は置いておくとしても、この事例は創竜伝の作中記述や世界設定が、実は作中でダラダラと展開される社会評論に奉仕する程度の存在でしかないことを、これ以上ないくらいグロテスクな形で表現していて皮肉もいいところですね。創竜伝の作者である田中芳樹は、本来「源頼朝の妻は北条政子、足利義政の妻は日野富子」云々の話を蒸し返す際に、同じページの中にある「【実施された】夫婦別姓制度についての記事もある」という文章にこそきちんと注意を払わなければならなかったはずなのですよ。前者は創竜伝のストーリーとは何ら関係のないシロモノでしかありませんが、後者は動機がどうであれ、とにもかくにも創竜伝ストーリーの中に組み込まれている歴然とした作品設定なのですから。社会評論を書き殴る自慰行為に熱中するあまり、自分で規定した作品設定の内容を完全に見落としてどうするのでしょうか。
ストレス解消目的の社会評論を語りたいがためにその場凌ぎの作品設定をでっち上げた挙句、他の作中記述や作品設定との整合性を顧みようともしない。これはエンターテイメント創作家としては本末転倒もはなはだしいのではないですかね。